銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第29話 「三つの音」

 

 

 

 

 

 我騙す、故に我あり――迷いの竹林を住処とする妖怪兎・因幡てゐにとって、詐欺や悪戯といった悪事とは即ち三度の飯と同じものである。

 存在の比率が精神に偏る妖怪にとって、乾いた心を潤す趣味を持つのは大切なことだ。心の乾きは命の乾き。どこからどう見ても犬にしか見えない白狼天狗が河童たちと将棋を嗜むように。自称清く正しい新聞記者が取材のために幻想郷中を飛び回るように。フラワーマスターが花を愛し太陽の畑を管理するように。てゐにとって心の拠り所になる趣味は、詐欺や悪戯を働き相手の反応を楽しむことだった。

 てゐは、妖怪兎の中では最も長い時を生きた。心が乾くほどに長い時を生きた。故に悪戯する中で得られる手に汗握る駆け引きの熱さ、そして悪戯が成功した時の快感は、てゐの心を潤す干天の慈雨だった。

 我騙す、故に我あり――だからてゐは悪戯を躊躇わない。人間だろうが妖怪だろうが、或いは神であったとしても、迷いの竹林を彷徨う人影があれば、それはてゐの格好の標的だ。ごく一部の例外――藤原妹紅が人里の病人を案内していた場合――を除いて、悪戯しないまま見逃すという選択肢など持ち合わせてはいない。

 今回のターゲットは二人組だった。霧が深いため詳しい出で立ちはわからないが、背の小さい人影とやや高い人影が一つずつ。小さい方は見るからに少女だとわかる一方、高い方は女とも男とも取れる中性的な背丈だ。

 まあ、性別などは些細な問題なので特に興味はない。重要なのは、あの二人組が人間なのか否かだ。もし人間だったら、怪我をさせないように仕掛ける悪戯を軽めのものに限定しなければならない。

 人間に怪我をさせたくないと思っているほどお優しいわけではない。下手に怪我をさせてしまうと永遠亭への風評被害につながって、八意永琳から実験と称したオシオキを食らわされるからだ。さすがにそれは避けたい。

 一方で相手が妖怪であれば、多少派手な悪戯を仕掛けたって怪我をさせる心配がない。もちろん反撃を受けるリスクも高くなるが、そこはこの竹林で何百年と悪事を働き続けているてゐのこと。相手を煙に巻いて逃げ果せる手段など、いくらでも用意している。

 自分で自分にゴーサインを出した。竹藪に上手く身を隠しながら、まずは人間かどうかを確かめるために人影へと近づいていく。

 やがて耳に入った二人の話し声は、どちらも女のものである。

 

「それでどうするんじゃ? お前さんの月見レーダーに従ってここまで来たが、考えなしに進むと迷うだけだぞ?」

「んん、そうですねー……」

 

 知らない声だと思いながら、耳をひくひくさせて意識を集中する。霧に遮られて姿がわからずとも、人か妖怪かを見極めるには気配さえ探れればいい。

 しかして、感じる気配は二つとも妖怪。

 てゐの心の中で、派手な悪戯の決行が確定された瞬間だった。

 

(にっししし……これは、久し振りに派手な悪戯ができそうだねえ)

 

 どこの誰かはわからないが、この二人組がてゐの仕掛けた罠に嵌って、顔を真っ青にして大慌てして最終的に半泣きになりながら逃げ帰っていく様を想像してみる。

 ぞぞぞ、と気持ちのいい寒気が来た。やはり泣かせて楽しいのは女の方だとてゐは思う。てゐと同じくらいの、年端も行かない外見をしているとなおよい。いけない、またぞくぞくしてきた。

 どんな悪戯を仕掛けてやろうかと考えながら、楽しみだなあ、とてゐはほくそ笑む。……そう、本当に楽しみだったのだ。少なくとも、この瞬間までは。

 

「むう……操ちゃんの能力でなんとかなりませんか?」

 

 頂点を目指してグングンと上昇を続けていたてゐのテンションゲージが、ぴたりと動きを止めた。今しがた聞こえてきた名前を脳裏で反芻させる。操ちゃん。

 ……操?

 あれ? とてゐは首を傾げた。なんだか聞き覚えのある名前だった。確か幻想郷の妖怪の中に、そんな感じの名前のやつがいた気がする。

 だが、頭の中に周囲の竹林と同じくらいに濃い霧がかかってしまっていて、あと一歩のところで思い出せない。

 更に声、

 

「いやあ、少し前にやってみたけど無理じゃったなあ。一度引き返して妹紅を探した方がいいんじゃないか、千代?」

「むう……」

 

 ……千代?

 その名前にも聞き覚えがあったが、やはり今ひとつ思い出せなかった。わかることといえば精々、他の妖怪よりも頭一つ以上飛び抜けた、幻想郷でも有名な大妖怪の名だったような気がするだけで――

 

「……」

 

 もう少しでてっぺんに届くはずだったてゐのテンションゲージが、血の気が引くように一気に下降を開始した。ぞぞぞ、と気持ちの悪い悪寒がやってくる。片側の頬がひくひくと上に引っ張られて、そのまま動かせなくなってしまう。背後に死神に立たれたように、両腕は鳥肌でびっしりだった。

 思い出した。

 操と、千代。

 

(て、てててっ天魔様と、きっ鬼子母神様っままま……)

 

 天ツ風操と、藤千代。妖怪の山で天狗を統べる大妖怪と、地底で鬼たちの頂点に君臨する大妖怪。

 幻想郷でもトップクラスと評して過言ではない、最強格の、大妖怪中の大妖怪が。

 霧のすぐ向こう側に、いた。

 

(あっ――――――――――)

 

 たっぷりと五秒は溜めてから、てゐは心の中で絶叫する。

 

(――っぶなああああああああああ!? て、天魔様と鬼子母神様!? なんでそんなのがこんなところにいるの!? そして私はなんでそんなのに悪戯しようとしてるの!? しっ、しししシ死しシしし)

 

 恐怖のあまり、心の中で呂律が回らなくなるという器用な現象が起こった。天魔と鬼子母神である。天狗のトップと鬼のトップである。なりふり構わず本気で暴れ回れば、迷いの竹林はおろか幻想郷すら滅ぼせるであろう連中である。そんな相手に悪戯をけしかけるなど、飛んで火に入る夏の虫に鼻で笑われるくらいの愚行である。

 

(に、逃ーげよ……。うん、命は投げ捨てるもんじゃないよ)

 

 冷や汗をだらだら流しながら、てゐは抜き足差し足で、その場をひっそりと去ること選んだ。当たり前だ。まだ死にたくない。

 けれどてゐの両脚は恐怖ですっかり麻痺してしまっていて、なかなか思うように動いてくれなかった。そんな脚で、抜き足差し足などできるはずがなかった。

 だからつい、足元の竹の葉を強めに踏んでしまって、

 

 ――カサ。

 

「――あの、ちょっと待ってくれませんか?」

 

 そんな、透明なグラスをスプーンで叩いたような、高く澄んだ声で。

 ガッシリ、肩を、掴まれた。

 藤千代――鬼子母神に。

 

「――」

 

 死んだー、とてゐは思った。ただ肩を掴まれただけのはずなのに、なんだかもう人生のゲームオーバーに叩き落とされた心地だった。

 振り返るのはもちろん、返事を返すことすらできない。肩にそっと添えられた鬼子母神の小さな手が、てゐのすべてを完膚なきまでに抑え込んでいた。

 鬼子母神の手は、ともすればてゐのそれと同じくらいに小さいというのに。

 なのに、なんなのだろうか。まるで雲を衝く大巨人の手で握り潰されそうになっているかのような、この圧迫感は。

 声が聞こえる。

 

「あなた、この竹林に住んでる兎さんですよね? あー、よかったです。永遠亭への道のり、わかりますよね?」

「――、」

「案内してもらえると、とっても助かるんですけどー……」

 

 鬼子母神の手が、てゐの肩を静かに撫でた。たったそれだけで、てゐの全身が駆け抜ける圧迫感と悪寒に悲鳴を上げた。

 

「そういうわけで、選んでください」

 

 変なこと訊く人だなあ、とてゐは笑った。頬の筋肉は動かなかった。魂の一欠片まで擦り切れ消滅しかねないこの状況に、フライングで死後硬直を始めたのかもしれない。だから心の中で笑った。大笑いした。

 だってそんなの、選ぶもなにも。

 

「私たちを永遠亭まで案内するか、ぶっ飛んで光るお星様の仲間入りをするか。――どっちがいいですか?」

 

 ――選ぶもなにも、てゐに選択権なんて、端からありはしないじゃないか。

 結局てゐは、最後まで背後を振り返らなかった。せめて鬼子母神たちの姿を視界に入れないことが、てゐの今にも擦り切れそうな精神をつなぎとめる生命線だった。

 

「ご愁傷様じゃのー、お前さん」

 

 あんたが言うな。

 ちっともご愁傷様そうじゃない天魔の声を背で聞くてゐは、どうしようもないくらいに、泣きたいのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして永遠亭では、戦争が勃発していた。

 

「――このスキマアアアアア!! あんたがあの時ギンを連れ去ってなければ、私が千年以上も悲しむことなんてなかったんじゃないのおおおおおっ!!」

「知らないわよそんなのー! あのね、あの時の月見は本当にひどい怪我だったのよ!? それを私が頑張って助けたんだから、むしろ感謝してほしいくらいだわっ!」

「それとこれとは話が別だああああああああっ!!」

 

 女二人の戦争である。部屋の片隅で繰り広げられる輝夜と紫のキャットファイトを、鈴仙は豆鉄砲を食った鳩になった気分でぼんやりと見つめていた。

 本来輝夜と紫は、仲がいいわけでも悪いわけでもなかった。会ったことはあるが、それだけ。永夜異変が収束して以来は顔を合わせることも口を利くこともなかった、まさしく『他人同士』な間柄のはずだった。

 そのニュートラルな関係が完全に崩壊し互いに唾を掛け合う犬猿の仲にまで進展――或いは悪化――したのは、つい先ほどのこと。

 始まりは、昼食後に輝夜が満面の笑顔で宣ったこの一言だった。

 

『――スキマ、潰そう』

 

 なんてことはない。1300年前に輝夜と月見が死に別れるようになってしまった原因が、あの場所から月見を強引に連れ去った真犯人が、紫なのだと――その真実を知った輝夜が、脊髄反射で紫を敵と認識した。

 

『あいつが私とギンの仲を引き裂いたのよ!』

 

 いくら月見を助けるためとはいえ、せめて紫がもう少し冷静だったなら、輝夜が千年以上もの間悲しみに沈むことはなかったかもしれない。今や過ぎ去ってしまった時間を、月見と一緒に幸せに生きていられたかもしれない。恋する少女が心の中の活火山を噴火させるには、あまりに充分な理由だった。

 すると輝夜は、八雲紫の屋敷に奇襲を仕掛けるのはどうかと鈴仙に提案してくる。当然鈴仙は、いや知りませんから、と返した。そうしたら今度は、じゃあどうやってあいつを殴ればいいの? と真顔で訊かれた。だから知りませんって。

 

『……じゃあ、呼ぶか? あいつ、呼べば来るし』

 

 正直なところ、そこで月見がこう発言さえしていなければ、話はなあなあになって戦争が勃発することもなかったろう。だが月見は発言してしまった。本人がなにを思ったのかは知らないが、鈴仙は彼のこの提案を、明らかな失敗だったと考えている。

 そこからはもう、出来の悪いショートコントでも見せられているかのようだった。

 

『――ああ、なんだか唐突に紫に会いたくなってきたなあ! 今すぐ会えないだろうか! 会って伝えたいことが』

『はーいっ、あなたの愛しの紫ちゃんですっ! どうしたの月見、私に伝えたいことってなあに? あ、わかったわよもしかしなくても愛の告』

『スキマアアアアアアアア!!』

『きゃあああああああああ!?』

 

 月見の愛の叫び(ぼうよみ)に応えて目を爛々輝かせながらやってきた紫を、修羅と化した輝夜がすかさずスキマから引きずり落とす。そして畳に鼻の頭をぶつけて涙目になっている怨敵へ、馬乗りになって、

 

「大体なんなのよ、あなたも月見のことが好きなんですって!? ダメですー認めませんー、月見は私のものなんだからっ!」

「なんでそれをあんたが決めんのよ! ってかギンが私のものはこっちの台詞だあああああっ!!」

 

 ……あとはもう、ずっとこの調子なのだった。

 

「ええと……あれは、止めなくてもいいのか?」

 

 畳を転げ回る二人の少女を、慧音が目を白黒させながら指差すけれど、別にほっといていいんじゃないかなあと鈴仙は思う。だって永琳と月見は素知らぬ顔でのんびりお茶を飲み合っていて、完全に我関せずの構えを貫いている。キーキーやかましい輝夜たちのいさかい声がいかに耳障りでも、決して自分のペースを崩さない、年長者の達観した物腰だった。

 それを見ていると、なんだか鈴仙も不思議と悟りを開けそうな心地になってきた。右手で慧音の湯呑みを示しながら、笑顔で言う。

 

「いいんじゃないですか? それよりも慧音さん、お茶が冷めちゃいますよお」

「そ、そうだけど……いいのかなあ」

「いいんですよお。猫が喧嘩してるだけですって」

 

 くんずほぐれつ仲良く畳を転げ回る程度なら可愛い方だ。輝夜の1300年分の恨みがそれで晴れるのなら、永遠亭の畳が傷むくらい、安い代償なのかもしれない。

 鈴仙がお茶をすすって心と体を温めていると、隣の永琳がふいに「それで」と口を切る。

 続く言葉は、

 

「あなたはこれからどうするの?」

「? どうするのとは?」

 

 問われた月見は、小さく首を傾げて問い返す。永琳は一度部屋の時計を確認してから、詫びるように眉尻を下げて言った。

 

「悪いんだけど、私たちはこれから診察の予約が入ってるのよ」

 

 そういえば、今日はこのあと、妹紅が人里から患者を連れてくる予定だった。遠い昔話を聞かされたあとだったから、鈴仙もすっかり忘れてしまっていた。

 ふむ、と月見は顎に手をやる。

 

「じゃあ、邪魔しない方がいいかな?」

「いえ、あなたさえよければゆっくりしていってくれてもいいんだけどね。輝夜も喜ぶだろうし。他に予定があるんだったら、っていう程度の話よ」

「そうだね……」

 

 特に予定はなかったのだろう、月見が腕を組んで思案に耽ると、輝夜と紫が喧嘩する騒音だけが部屋を満たすようになる。1300年分の恨みパワーなのか、どうやら輝夜が押しているらしい。ギャーギャーとやかましい喚き声に、時折、紫の悲鳴が交じり始めていた。

 もちろん、月見と永琳は気にも留めない。

 

「じゃあ、家でもつくろうかな。当面は幻想郷で生活するつもりだし、ないと困るからね」

「あら、いっそここに住んじゃえばいいのに」

 

 茶化す永琳を、月見は「よしてくれよ」と苦笑でいなす。

 

「誰かの脛をかじらなきゃならないほどなにもできない男じゃないよ私は。それに、一人でのんびりできる場所もほしいんだ」

「そう……男手があってくれると助かるんだけど。最近、ウドンゲだけじゃ頼りなくて」

「ふぐうっ」

 

 いきなり飛んできた言葉の矢に胸を貫かれ、鈴仙は呻いた。確かに自分はあまり優秀な弟子ではないかもしれないけれど、なにも客の前ではっきり言わなくてもいいじゃないか。

 そして月見と慧音が、「あー……」ととても心当たりがある目をしているのが、輪を掛けて辛かった。多分、指笛の一件を思い出しているのだと思う。しにたい。

 永琳は、顔を赤くしてしおしお縮こまる鈴仙をナチュラルに無視した。

 

「家をつくるんだったら、相談役は河童でしょうね。……ああ、鬼たち当たってみてもいいかもしれないわね。どうせ萃香とも知り合いなんでしょう?」

「そうだね。河童と鬼――」

 

 ふいに、月見が言葉を噤んだ。自分の発言に、自分で違和感を覚えた顔をしていた。

 

「? どうかしましたか?」

「ああ、いやね……」

 

 鈴仙が問えば、月見は少し考えてから、

 

「そういえば、妖怪の山で鬼たちを見なかったと思ってね」

「ああ……」

 

 月見は500年ほど前の一時期を、幻想郷で生活していたことがあるという。当時は幻想入りの仕組みができあがってから間もなくの頃で、妖怪の山の支配者として、まだ鬼たちが君臨していた時代だ。

 鈴仙は幻想郷にやってきて日が浅いが、射命丸文などの知人から、かつての妖怪の山はそうだったのだと聞かされている。だから頷いて、

 

「見なかったのも無理はないと思います。今の鬼たちは、もう山では生活してないんですよ」

「そうなのか? じゃあどこで」

「それは――」

 

 地底です、と鈴仙が唇を動かしかけたところで、

 ――パアン! と。

 輝夜と紫のいさかい声も押しやって、玄関の方から鋭い音が突き抜けてきた。空気の破裂音にも似たそれが一体なんの音なのか、ふいを衝かれたのもあって鈴仙には見当もつかなかったが、

 

『たーのもおーっ!』

 

 ほどなくして、道場破りにしては可愛らしすぎる少女の声が飛んできたので、来客であるらしいことがわかった。ということは、先ほどの破裂音はもしかして、少女が玄関の戸を開けた音だったのだろうか。へーウチの玄関ってあんなにうるさく開けられるものだったんだー、と鈴仙はなぜか感心してしまった。

 ……玄関、ぶっ壊れていないだろうか。

 騒がしすぎる来客に、永琳が浅く眉を寄せる。

 

「……妹紅ではないみたいね」

「ですね」

 

 妹紅にしては声が幼すぎる。知り合いの中から名を挙げれば、萃香、或いはレミリアを彷彿とさせる幼さだった。

 

「まあ、とにかく行ってくるわ。悪いけど、少し待っててちょうだい」

「はい」

 

 広間を出て行った永琳を見送りながら、一体誰なのかなあ、と鈴仙は考える。玄関をあれほどの勢いで開けられるくらいだから、妖怪なのだろうが、妖怪が永遠亭を訪ねてくるというのは珍しい話だ。ひょっとしたら月見の知り合いが、遠路遥々彼に会いにやってきたのかもしれない。

 だから鈴仙は、ひょっとして月見さんのお知り合いだったりするんですか? と尋ねようとした。

 けれど鈴仙が目をやった先で、月見が目頭を押さえながら俯いていたので、質問の言葉も引っ込んでしまった。

 

「ど、どうしたんですか?」

「あー……いや」

 

 曖昧に呻いて、月見は顔から手を離す。

 

「そうかあ、来ちゃったかあ……」

 

 噛み締めるようなため息と一緒に落とした言葉が、お世辞にも、嬉しそうには聞こえなかったので。

 鈴仙は慧音とお互いに見合ってから、おずおずと問うた。

 

「……お知り合いの方、ですよね?」

「そうだね。よく知ってる相手だよ」

 

 続けて慧音もおずおずと、

 

「ええと……あんまり仲が良くない、とか?」

「そういうわけじゃないんだが……」

 

 歯切れの悪い返答に、鈴仙は慧音ともう一度顔を見合わせた。知り合いだし仲も悪くないけれど、こうして数百年来の再会を喜べないような相手――さて、一体何者なのだろうか。

 玄関の方から、かすかに永琳の声が聞こえる。

 

『はいはい、どちらさま? ……あら、あなたは』

『や、久し振りじゃのー永琳』

 

 来客は一人ではなかった。先ほどの少女の声とは別にもう一人、やや気の抜けたような女性の声が聞こえる。こちらは鈴仙にも心当たりがある。妖怪の山で天狗たちを統べる大妖怪、天魔の声だ。

 

(……え?)

 

 天魔?

 

『珍しいわね、あなたがここにやってくるなんて。……その子は?』

『はじめましてー、永琳さん。私、藤千代っていいます』

『藤千代……ああ、なるほど。道理であなたたちの後ろで、てゐが死にかけの蝉みたいになってるわけだわ』

『一応言っておきますけど、なにもしてませんよ? ただ道案内をしてもらっただけですー』

『わかってるわよ。でも鬼子母神と天魔を同時に案内したんじゃ、生きた心地がしなかったでしょうねえ』

 

 あれ? と鈴仙は首を傾げた。なんだか自分でもよくわからないうちに、ものすごい事態に巻き込まれかけている気がした。

 聞き間違いだろうか。天魔はもちろん、鬼子母神なんて単語まで聞こえてきたような。

 会話は続いている。

 

『それで永琳さん、いきなりで悪いんですけど、ちょっとお邪魔させてもらっていいですか?』

『……まあ、理由は訊かずともなんとなくわかるけど。彼に会いに来たんでしょう?』

『さっすが永琳さん、音に聞く通りの天才さんですね。……じゃあ失礼して』

 

 鈴仙は真顔になって正面の月見を見た。彼は重々しく一つ頷いて、それからなにかを諦めるように、静かに長いため息を落とした。

 襖が開く。鈴仙は振り向くが、そこには誰も立っていない。

 独りでに、勝手に襖が開いて、声が聞こえた。

 

「――月見くん、見ーつけたあ♪」

 

 不思議な響き方をする声だった。蜂蜜を塗りたくった甘い声音は、まるで頭の中に直接流し込まれるように、どこから聞こえてくるのか把握できない。

 

「な、なんだ?」

 

 慧音が不安そうに周囲を見回すけれど、やはりこれといって不審な人影はない。精々、輝夜が紫の背中に馬乗りになって、金髪をめいっぱい引っ張っているくらいだ。

 

「大体、500年振りくらいですねー。あいかわらず元気そうでなによりですー」

 

 いやあああああやめてえええええ、という紫の悲鳴が遠くに聞こえるほど、その声は鮮明に鈴仙の脳裏に響く。

 

「積もる話はたくさんたくさんあるんですけど、それよりもやっぱり、まずは――」

「千代ー、手加減してくれよー……?」

 

 月見が実に情けない声でそう言ったので、鈴仙が思わず彼の方に目を向けた、

 

「ふふふ、わかってますよお」

 

 直後、

 

「――じゃあ、ぶっ飛ばしますね?」

 

 月見の体が吹っ飛んだ。天井スレスレを高く、遠く、襖を通過して縁側を越え、庭すらも縦断して、広がる竹林と霧の向こう側まで飛んでいく。突然投げ入れられた不審物に驚いて、竹林が大きくざわめく。葉擦れの音、竹の枝が折れる音、なにかが地面に落ちる音。

 なにが起こったんだろう、とすら思わなかった。目の前で起こった現実に頭が追いつかなくて、鈴仙はもうバカになったみたいに、なにも考えることができなかった。

 鈴仙も慧音も、そして輝夜と紫も、みんなが時間から置き去りにされ、唖然と身動きを止めた中で。

 

「……ふふっ」

 

 鈴を弾くように高い声で笑い、さっきまで月見が座っていたその場所に、いつの間にか少女が立っている。一体いつから、と疑問を挟む余地すらない。間違いなく彼女は、十六夜咲夜がそうやって現れるように、いきなりそこに出現した。

 しゃらりと小気味よく揺れる藤の髪飾りに、藤の花を鮮やかに染め込んだ着物。そして己が名にもまた藤を冠する、その少女は。

 

「あー、……スッとしました」

 

 月見が吹っ飛んでいった竹林の先を見つめて、ただ一人だけ晴れやかに、笑っていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 大混乱になった。意外にも最初に我を取り戻したのは慧音で、血相を変えて月見を捜しに広間を飛び出していく。一呼吸遅れて紫がそれに続いて、怒り狂った輝夜は藤千代へ飛びかかろうとする。

 そこでようやく現実に帰ってきた鈴仙は、大慌てで輝夜の腰にしがみついた。

 

「ひ、ひひひっ姫様、ストップストップッ!」

「なんでよ!? こいつ、ギンをぶっ飛ばしやがったのよ!? それってつまり永遠亭への宣戦布告でしょ!?」

「私まで巻き込まないでくれます!?」

「なによあんたまさかこいつに味方するつもり!?」

「そ、そうじゃなくてー!」

 

 無論、月見をぶっ飛ばしたのがただの曲者だったなら、こうして鈴仙が輝夜を引き留める理由はない。けれど藤の着物で着飾ったこの少女――藤千代は、鬼子母神と呼ばれ畏怖される大妖怪中の大妖怪なのだ。幼い外見と侮ることなかれ、鬼三百人を組手で負かしたとか、ちょっと暴れたら山が崩れたとか地形が変わったとか、小石を思いっきり空にぶん投げたら二度と落ちてこなかったとか、とかく彼女の腕力に関する噂話は事欠かない。鬼の四天王と名高い伊吹萃香や星熊勇儀さえ、彼女の前では涙目で白旗を上げるという。

 八雲紫とは違う意味で別次元の存在なのだ。もし藤千代がちょっとその気になって拳を振るったら、永遠亭があっという間に瓦礫の山と化してしまう可能性すらある。なんとしても止めねばならぬ。

 だが、怒りの輝夜は止まらない。

 

「ちょっとあんたあああ! いきなりギンになにしてくれてんのよおおおおおっ!」

 

 八雲紫をも圧倒した修羅の形相に、しかし藤千代はとりたてて動じない。きょとん、と不思議そうに首を傾げて、

 

「ギン?」

「月見よ月見! あんた、ギンとどんな関係だあああ!」

 

 少し天井を見上げて考え、こともなげに答える。

 

「将来を一方的に誓い合った仲です」

「よし潰――――す!! 放しなさい鈴仙巻き込まれたいのいやむしろあんたも手伝いなさいほら行くわよっ!」

「落ち着いてくださいよ姫様あああああ!!」

「……なんだかよくわかりませんけど喧嘩売られてますか? いいですよ、買います。揉んであげますので二人まとめてどうぞ」

「うわああああああああ!?」

 

 人間に喧嘩売られるのなんて久し振りですねー、なんて藤千代が嬉しそうに腕まくりを始めたので、しかも何気に自分が頭数に入っていたので、いよいよもって鈴仙は涙目になった。今朝、妹紅と決闘をしに行く輝夜を見送った時に、今日も平和な一日になるといいなあと天に祈ったのが遠い昔のようだ。平和どころかまるで世界の終わりである。

 

「……ちょっとあなたたち、一体なにしようとしてくれてるのかしら」

「おーい千代ー、こんなところで喧嘩なんてやめてくれよー?」

 

 けれど世界は救済された。ようやく広間に戻ってきた永琳と天魔が、鬼も裸足で逃げ出しそうなこの状況に、驚くくらいあっさりと仲裁の手を入れてくれた。

 永琳が輝夜の頭に手刀を落とし、

 

「こら、落ち着きなさいな輝夜。あなたが勝てるような相手じゃないわよ?」

「そんなのやってみないとわからないじゃない! 人の可能性は無限大よ!」

「はいはい、せめて私に勝てるようになってから言いなさいね」

「う、うぐっ……」

 

 天魔は藤千代の手を取って、輝夜の近くから離れていく。

 

「ほーら、なにやっとるんじゃよお」

「いえ、なんか喧嘩を売られたみたいだったので買おうかと」

「それより月見はいいのか?」

「そうでしたっ! 月見くーん、せっかく再会できたんですからお話しましょうよーっ!」

 

 どうやら藤千代にとっては、人間との勝負よりも月見の方が圧倒的に優先順位が高いらしい。瞳を爛々輝かせ広間を飛び出していくその背に、輝夜が「待てえええええ!」と喚き散らすけれど、藤千代は振り返りもせずあっという間に霧の向こうに消えていく。

 うがー! と暴れる輝夜を心底面倒そうに羽交い締めにしながら、永琳は深いため息を落として言った。

 

「もう、なんなのよ一体」

「あっはっは。すまんのー、騒がしいやつで」

 

 天魔が悪びれる様子もなく笑い、永琳がもう一度ため息をつき、

 

「まあ、余所のことを言える立場ではないわね。申し訳ないわ、見苦しいお姫様で」

「見苦しいってなによ! ギンがぶっ飛ばされたのよ!? 騒いで当たり前でしょうがっ!」

「あれは千代のスキンシップみたいなもんじゃよ。許してやってくれー」

 

 スキンシップで相手をぶん投げるって、傍迷惑すぎないだろうか。やはり幻想郷のトップに名を連ねる大妖怪だけあって、鈴仙の常識は通用しないらしい。

 竹藪の葉をがさがさ鳴らして、奥から月見たちが戻ってくる。藤千代がうきうきしながら月見の手を引いていて、月見はものすごく疲れた顔をしていて、慧音と紫が、月見の体中にくっついた竹の葉やらなにやらを甲斐甲斐しく取ってやっている。

 天魔が笑みを深めて、嬉しそうに言う。

 

「みんなみんな、月見が好きなんじゃなあ」

 

 輝夜も紫も藤千代も、それを否定しなかった。鈴仙だって、そうなんだろうなあと思ったし、永琳も、そんなのわざわざ言われなくても、みたいな顔をしていた。

 ただ一人、慧音だけが「ち、違っ!?」と顔を真っ赤にしてわたわたしだして、輝夜と紫に睨まれている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ……ところで、どうして私がこんなところにいるんだろうか。

 八雲紫に、鬼子母神に、天魔。幻想郷を代表する三人の大妖怪と一緒にお茶を飲んでいる自分が、なんだかひどく場違いであるような気がして、上白沢慧音は頭の中で頭を抱えた。

 

「け、けけけっ慧音さ~ん……これって一体どういうことなんですか……?」

「いや……私にもさっぱり」

 

 隣の鈴仙がすっかり萎縮しながら耳打ちしてくるが、こればかりは歴史を司る慧音にも答えようがない。わかることと言えば精々、この場の中心にいるのが月見だということくらいだ。

 月見は今、テーブルを挟んで慧音の向かい側に座っている。人間だと思えば妖狐で、ただの妖狐かと思えば十一尾の大妖怪で、それでようやく終わりかと思えばなんと八雲紫と親しい間柄で、さすがにもうこれ以上はないだろうと思えば更に鬼子母神と天魔とまで知り合いな男だ。ほんの数時間前まで彼が人間であることを疑わなかった慧音としては、もう驚き呆れてなにがなにやら、頭突きを喰らわせようという気も起こらない。

 そんな月見の両脇には、輝夜と藤千代が陣取っている。両手に花とでも言うべきなのかもしれないが、この場合は花よりも爆弾に例えるべきだろうと慧音は思う。月見との再会を一生懸命に喜んでいる藤千代を輝夜が全力全開で威嚇しており、ひとたび間違いが起こればあっと言う間に大惨事につながる構図だ。

 一応は、月見が面倒くさそうな顔をしながらも上手く間を取り持っているので、大丈夫そうだが。

 先ほどまで輝夜に散々痛めつけられていた紫は、月見たちから離れたところで操と一緒にお茶を飲んでいた。もう本当にひどいのよ信じらんないっと紫が涙目になりながら愚痴をこぼしては、操があーよしよしと慰めてやっている。そして永琳一人だけが、どの騒ぎにも決して干渉することなく、完璧な静観を決め込んでいる。

 傍目から見れば少しだけ賑やかなだけのありふれた茶会の席なのかもしれないが、面子が面子だけに慧音は気が気でない。鈴仙も、顔に貼りつけた愛想笑いが完全に干からびていた。

 と、

 

「だからあんた、さっきからギンに引っつきすぎなのよ――――ッ!!」

 

 バアン! とテーブルを両手でぶっ叩き、輝夜が長い黒髪を振り乱しながら絶叫した。怒りの炎が宿った視線の先では、藤千代がこれ見よがしに月見の腕に抱きついている。

 輝夜の剣幕は外野の慧音と鈴仙すらびくりとするほどだったが、当の藤千代は特に動じた様子もなく、いいじゃないですかーとマイペースに笑う。

 

「だって500年振りなんですもの。輝夜さんだって、月見くんと再会した時にはこれくらいやったんでしょう?」

「やっ……それは、その」

 

 図星を突かれた輝夜はほんの一瞬怯むも、すぐに首を振って、

 

「と、とにかく! あんたみたいな子どもにまとわりつかれたらギンだって迷惑でしょ! さっさと離れなさいっ」

「でも私、輝夜さんよりおっぱい大きいですよ?」

「ブフゥッ」

 

 鈴仙がお茶を吹き出し、永琳と月見が天井を振り仰いでため息をついて、輝夜は言葉の矢に心臓を貫かれて石化し(ヒビ入り)、慧音は頭の中が真っ白になった。

 視界の片隅で鈴仙がこぼしたお茶を布巾で拭く中、ゆっくりと五秒、

 

「き、鬼子母神様っ! おっ、男の人の前でそんなことっ……」

 

 我に返った慧音が咄嗟に口を挟むも、藤千代から返ってきたのは、可愛らしく頬の膨らんだ不満顔だけ。

 

「むー。慧音さん、鬼子母神じゃなくて藤千代って呼んでくださいよぅ。そっちの呼ばれ方は好きじゃないんですー」

「あ、申し訳ありません――じゃなくてっ!」

「いいじゃないですかー。客観的事実ですよ?」

 

 いやまあ、確かに藤千代と輝夜はそのあたり着物の上からでもわかるほど明らかな差があるけれどもしかしそんなことを大っぴらに言ってしまったら輝夜が

 

「きっさまあああああああああ!! 人が気にしてるところをよくもおおおおおおおおおお!!」

 

 あ、これ終わったかも、と慧音は思った。主に、爆弾の導火線に火がついたという意味で。

 本来なら雪さながらに白いはずの輝夜の肌が、怒りで炎みたいになっている。

 

「し、仕方ないじゃないのっ! 蓬莱の薬飲んで、体の成長が止まっちゃったんだから!」

「そうなんですか、御愁傷様ですね」

「あああああああああ!!」

「月見くんだって、どうせ抱きつかれるなら硬いより柔らかい方がいいですよねー?」

「なあああああにが硬いですってええええええええええ!?」

「え、もちろん胸ですけど? それ以外になにかあります?」

「うぐあああアあアアアあアアあアあああ!!」

 

 まずい、輝夜が怒りと屈辱のあまり人語を失いかけてきている。黒髪全体がとても不吉な赤黒いオーラをまとって、大蛇みたいに意思を持って蠢き始めていた。

 紡ぐ言葉は呪詛の如く、

 

「潰す潰スつぶすツブすツブスつぶス……」

 

 ああ、輝夜が暗黒面に堕ちていく。明日の文々。新聞の一面を飾る見出しは、『蓬莱山輝夜、妖怪化!?』になってしまうのかもしれない。

 などと、慧音が冷や汗をだらだら流しながら現実逃避していると。

 

「操ー、千代退場ー」

「あいよー」

「あー待ってください月見くんまだたくさん話したいことが、あーん……」

 

 今まで何度も同じ場面に遭遇してきた、とても煩わしそうな声だった。月見が操の名を呼ぶと、彼女もまた今まで何度も同じことを繰り返してきた慣れた手つきで、藤千代を部屋の隅まで引きずって退場させる。

 続け様に、

 

「永琳ー、輝夜も退場ー」

「はいはい」

「え、ちょっと待ってなによ永琳そのおどろおどろしい色の注射器は待ってダメダメやめウッ――」

 

 永琳が輝夜の首にとても不吉な色の液体を打ち込むと、輝夜は一瞬で無抵抗になってその場に崩れ落ちる。一体なにを注射されたのだろうか。永琳に引きずられ藤千代とは反対側の部屋の隅へ退場させられる輝夜が、死んだように身じろぎ一つしない。

 でもまあ、静かになったしいいか。

 爆弾は無事処理された。慧音がほっと胸を撫で下ろすと、月見がやれやれと顔に手をやりながら、脱力するようにため息をついた。

 

「まったく……千代、輝夜をそんな風にからかうのはよしてやってくれ」

「えー? 別にからかってませんよう、ただ事実を言っただけで」

 

 輝夜が気を失っていて本当によかったと、慧音は心の底から思う。

 操に後ろからホールドされた藤千代は、混じり気なく微笑んで、

 

「私は別に、誰が月見くんを好きになっても構いませんよー? おんなじ人を好きになれるって素敵なことじゃないですか。まあ、渡すつもりもさらさらないんですけどね」

「和を以て貴しと為す、じゃな。……あれ、出会い頭に人を投げ飛ばそうとするお前さんが言えたセリフじゃないんじゃないか?」

「それは言っちゃダメですよー操ちゃんー。ぶっ飛ばしますよー?」

「あははーこやつめー」

「あははー操ちゃんめー。――そおい」

「にゃああああああああ!?」

 

 すぽーん、と操の体が宙を舞って、いつぞやの月見のように天井スレスレで襖を通過し、縁側を越え、竹林の手前あたりにべしゃりと落下した。滞空時間が短かったからか、大きな翼を羽ばたかせて体勢を整える余裕はなかったらしい。

 月見の時とは違い、今回の慧音は冷静だった。極めて冷静に、空中をすっ飛んでいく操を目で追いかけることができた。これが妖怪たちの暮らしてる世界なんだなーうんなら仕方ない、と妙に達観した解釈が頭の中に生まれていた。

 わずか二度目にしてこの光景に順応してしまっている自分が、我ながら少し怖い。

 月見が、地面の上でぴくぴくしている操を遠い瞳で見つめながら、遠い声音になって言う。

 

「さて、これ以上騒いでもなんだしお開きにしようか……」

「そうね、そうしてちょうだい。もうすぐ診察の時間だし、怪我人が増えるのは御免だわ」

 

 輝夜の肢体を部屋の隅に転がした永琳が、物憂げなため息と一緒に戻ってくる。それから地面の上で伸びた操を見つけ、匙を投げるように肩を竦めて、

 

「……まったく、あなたたちは本当に元気ねえ」

「や、すまないね。騒がしくて」

「まあ、お互い様ね。こっちこそ品のないお姫様で恥ずかしいわ。不老不死にも効く薬を作っておいて正解だったわね、本当」

 

 部屋の隅で輝夜が操と同じようにぴくぴく痙攣しているのを、慧音は気づかないふりをすることにした。

 

「どれ、紫」

「……あっ、はいっ! なに、どうしたの月見っ!」

 

 月見が紫の名を呼ぶと、彼女は途端に目を輝かせてその場で膝立ちになる。全身から迸るのは、主人に構ってもらえそうで期待が爆発しちゃいそうな子犬のオーラだ。もし今の紫に感情に連動して動く尻尾があれば、残像を残す勢いで左右に振られまくるだろう。

 紫は、あまりの興奮に上手く舌が回らない様子で、

 

「も、もしかして、出番? で、出番なのねっ?」

「そうだけど……」

 

 月見は紫の勢いに若干気圧されながら、

 

「随分と嬉しそうだな?」

「当たり前でしょっ?」

 

 頷く紫の瞳は希望で満ちあふれている。

 

「だって月見、今回の私ってなにしてたと思う? あの暴力女に髪の毛引っ張られてただけなのよっ? そんなのってあんまりじゃない! 私みたいに可愛い女の子には、もっと素敵な出番があるべきだと思うのっ!」

「面倒だから無視して言うけど、そろそろ帰るからスキマを貸してくれるかい」

「任せてっ。そういえば、月見はこれからどうするの? 他に行ってみたいところとかある? よければ連れてってあげるわよというか一緒に行きましょうデートデート!」

「いや、とりあえずはどこかに家をつくろうと思ってね」

「家? ……ということは、また幻想郷で生活してくれるのね!? いいわよ、素敵なお家をつくりましょうっ!」

 

 元気な人だなあ、と慧音は紫を眺めながら思う。悲しそうな顔、怒った顔、疑問顔に、嬉しそうな顔と、本当にころころと表情が変わる。初めて会った時は、胡散くさい笑顔を貼りつけた底の知れない女性という印象だったのに、今ではまるで人里の子どもを見ているみたいだ。

 まっかせなさーい! と元気に立ち上がった紫の横で、藤千代が月見へと問いかける。

 

「月見くん、家をつくるんですかー?」

「ああ。……とそうだ、思い出した。もし都合がつけば鬼たちに手伝ってもらいたかったんだけど、今はもう妖怪の山に住んでないんだって?」

「あ、そうですね。そうなんですよ、今の鬼たちは地底に住んでるんです」

「地底?」

 

 月見のオウム返しに、はいー、と藤千代は頷き、

 

「妖怪の山から洞穴を通って行けるところにあるんです。元々は地獄の一部だったところなんですよ」

「ふうん……なんだってそんな場所に?」

「まあ……ちょっと色々と、折り合いが悪かったんですよ」

 

 泳いだ目で苦笑して、藤千代は話をはぐらかした。鬼たちは、人間に愛想を尽かせて地上を去った。そんな話を人間を愛する月見に聞かせるのは、心苦しいと思ったのかもしれない。

 すぐに、ぱっと明るく笑って、

 

「でも月見くんのためなら、みんな喜んで集まってくれると思いますよ。いいでしょう、紫さん?」

「もちろんよっ。河童たちにも手伝ってもらいましょう。幻想郷の技術の粋を集めて、素敵なお家をつくるのよ!」

「……手伝ってくれるのは嬉しいけど、普通の家でいいからね?」

 

 それから、どこか家を建てるのにいい場所はないか、それだったらあそこはどうか、と盛り上がり始める月見たちを見つめて。

 はー、と感心しきった声を上げたのは、鈴仙だった。

 

「私、大妖怪ってもっと怖い存在だと思ってたんですけど……なんか、意外とみんな等身大なんですね」

「……そうだな」

 

 薄く笑い、頷く。大妖怪だから特別プライドが高いとか、仲間以外の他者を見下しているとか、そんなことは全然なくて、みんなが等身大でよく笑い、よく騒ぐ、どこにでもいそうな普通の女の子で。

 

「月見さんがいるからなんですかねえ」

 

 そうなのかもしれないな、と慧音は思う。或いは蓬莱山輝夜がそうだったように、紫たちもまた、月見と出会って色々なものを変えられた少女なのかもしれない。

 

「……賑やかになりそうだな」

 

 もしも月見が家を建てて幻想郷で本格的に暮らし始めれば、きっとここは、今よりもずっと賑やかに色づくのだろう。彼が幻想郷に戻ってきてたった三日目の時点でこれなのだから、もっともっと。

 

「みんな~、無視はひどいのじゃあ……。月見の時みたいに心配してくれてもいいじゃないかあ~……」

「そんなことより操ちゃん、月見くんのお家をつくりますよっ」

「なんじゃとっ。月見、妖怪の山から麓を見下ろす景色って素敵じゃよねっ。というわけで妖怪の山につくるといいぞ儂が許す!」

 

 土まみれになりながら戻ってきた操も合わせて、話し声は更に賑やかに、暇なく。それがなんだか見ているこちらまで楽しくなってくるような光景だったから、慧音は鈴仙と永琳と、三人で顔を見合わせて、もう一度だけ苦笑した。

 

「よし……そんなところで、あとは移動しながら考えようか。――慧音」

「うえ? あ、ああ。なんだ?」

 

 ふいに月見に名を呼ばれて、少し、どきりとする。

 

「慧音も人里に帰らないとだろう? スキマで送ってもらったらどうだい」

「ああ……」

 

 言われてみれば、自分が帰る時のことをまったく考えていなかった。紫のスキマを使わせてもらえば一瞬だろうし、歩いて帰るよりかはずっといい。

 けれど慧音は、すぐに答えを返せなかった。スキマの便利さはよくわかっているつもりだが、裂け目の向こうでギョロギョロ蠢く無数の瞳がなんとも不気味で、正直ちょっと怖かったりする。入ったら二度と出てこられない、魔界への入口かなにかのように思えてしまうのだ。

 うむむと悩む慧音を見て、月見がふっと笑った。

 

「なんだ、怖いか?」

「えっ!? いや、そ、そんなことはっ」

「でも、わからなくもないねえ。紫、あれってどうにかならないのか? はっきり言って紅魔館よりも悪趣味だと思うぞ」

「ひ、ひどいっ」

 

 月見が軽く半目になって言うと、紫は胸を押さえてたじろぎ、

 

「い、いいじゃないの。あのミステリアスな雰囲気が、私の大妖怪としてのかりすまを演出するのよっ!」

 

 あ、なんだかいきなり怖くなくなった。というか、怖がるのが馬鹿馬鹿しくなった。

 行くよ、と短く返して立ち上がり、月見たちの近くまで歩み寄る。すると紫にジト目で睨まれた。

 

「別に、嫌だったら無理しなくていいんですけどー。どーせ悪趣味な見た目してるしー」

「い、いや、そんなことは……ああもう、月見っ」

 

 余計なことを言ってくれた仕返しに月見の脇腹を殴りつけるけれど、彼は特に痛がった様子もなく、はっはっは、と呑気に喉を震わせていた。

 

「それじゃあ、私たちは行くよ。お邪魔したね」

「ええ」

「はいー」

 

 月見が立ち上がると、永琳はため息をつくように小さく微笑み、鈴仙は三大大妖怪が出揃う地獄の終了に胸を撫で下ろしつつ、小さく片手を振る。

 

「さっさと家をつくって、また輝夜に会いに来てちょうだいね。じゃないとあの子、寂しがるだろうから」

「また千年以上も空けたりしたらダメですからねー?」

「……肝に銘じておくよ」

 

 別れの挨拶もそこそこに、元気よく声を上げたのは紫だ。飛び上がるように立ち上がって、

 

「ようし! それじゃあ月見の家づくりに向けて、しゅっぱーつ!」

 

 慧音たちの頭上に、大きくスキマの入口が出現する。闇色の空を雲の代わりに漂うのは、無数の赤黒い瞳たち。ギョロリと音が聞こえてきそうなほど、一斉に慧音たちへと眼球を向ける。

 怖がるのも馬鹿馬鹿しいと一度は思ったが、こうして間近で見てみると、やっぱりちょっと怖かった。思わず心細くなって、月見の裾を握り締めたりしてしまう。

 そして、スキマが慧音たちを呑み込もうとする、その間際に。

 月見を呼び止める、声があった。

 

「ギン~……」

 

 輝夜だ。まだ薬が抜け切らないのか、う~んと苦しげな呻き声を上げて寝そべりながら、それでもまっすぐに月見を見つめている。

 それを聞いて、意外にも紫がスキマの動きを止めた。不愉快そうに輝夜を睨みつけて、それからぷいとそっぽを向いて、けれど、月見と輝夜の邪魔をするようなことはしない。

 

「大丈夫か?」

 

 月見が問えば、輝夜は呻き声半分で返事をする。

 

「まだ頭がくらくらする~……うー、永琳のバカー……」

「そう思うんだったら、今度からはもう少し品のある女になりなさいね」

「うるさいーばかー……」

 

 まったくもう、と永琳がため息をつけば、月見は小さく苦笑して。

 

「輝夜、私はそろそろ帰るよ。こっちで生活するための家をつくろうと思ってね」

「うー……」

「だから、一旦さよならだ」

「ギンー……」

 

 夢から目覚めるような動きで、輝夜がゆっくりと体を起こす。指一本を動かすのですら、とても億劫そうだったけれど。

 それでも、輝夜がその時に見せた笑顔は。

 

 

「――またね」

 

 

 ずっとずっと、気が遠くなるほど長い間、伝えたいと願い続けてきた言葉を、ようやく伝えることができる。そんな幸福に包まれて、月が輝いたようだった。

 またね――たったそれだけの言葉を交わせることがどんなに尊いものなのかを、輝夜は身を以て知っている。だからこそ彼女の「またね」には、たった三つの音にはとても集約しきれない、万感の想いが込められていた。

 それに、月見が気づいていないということはないだろう。まぶたを下ろして、緩く息を吐いて。それから彼が返す微笑みは、同じく月のように優しい。

 

 

「――ああ。また」

 

 

 彼はその言葉に、一体どんな想いを込めたのだろうか。慧音にはとても想像できなかったが、目に煌めくものを見せて頷いた輝夜には、確かに伝わっていたのだろう。

 八雲紫に鬼子母神――ひょっとすると、天魔もそうなのかもしれない。輝夜と目指す先を同じくする好敵手たちは、強者揃いだけれど。

 けれどそれでも、遠い未来で、もしも輝夜が幸せであるのなら。

 それはきっと、素敵なことなのかもしれないなと――。

 スキマが閉じていく中で、そう、慧音は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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