八雲紫は、人間が大好きだった。
その考えが当時の妖怪たちの中で異端であることは充分理解していたし、そんなことを考えてしまう自分がおかしな存在だという自覚もあった。だがそれでも、好きだったのだから仕方がない。
紫は一人一種族の妖怪で、例えば鬼や天狗のように、生まれた時から属するコミュニティがない。だから、そういった『仲間』『家族』という存在には昔から憧憬を抱いていたのだ。
故に、そんな紫が『人間』というコミュニティに関心を持つのは当然だったと言えよう。時に争い時に団結し、大した能力も持たないのに力を合わせて苦境を乗り越えひたむきに生きていくその健気な姿は、紫の目にいたく鮮烈に映った。言わば、至高の芸術品に心を奪われる様に似ていたのかもしれない。
間違いなく紫は、人間という存在が愛おしかったのだ。
八雲紫という妖怪がこの世に生を受けて、百年ほどが経った頃の話だ。生まれ持った才能と境界を操るという強大な能力のお陰で、血肉を得ようと襲い来る妖怪たちを何度も打ち破り、幼いながらもその名を広くに知らしめつつあった頃。
当時の紫には、一つの漠然とした夢のようなものがあった。明確に成し遂げたい、実現させたいと強く願うようなものではなく、ただなんとなく、こうだったらいいなと夢想する程度の夢。
妖怪と人間が共生できるような世界があればいいのに、という想いだ。酔狂でもなんでもなく、確かな紫の理想だった。自分の仲間である妖怪たちと、自分の大好きな人間たち。この二つが仲よく生活をともにできる世界があれば、一体どれほど素晴らしいことだろうか。
一方でこの考えが、他の妖怪や人間に話せば噴飯されるような妄言であることも理解していた。妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を恐れる。その絶対的な上下関係に“共生”という二文字を挟み込む余地など存在しないこと、百年も生きれば嫌でも理解させられる。
唯一の親友である伊吹萃香にこのことを話した時は、腹を抱えて転げ回るほどに大笑いされ、ついでに「紫がそんなにバカなやつだとは思わなかったなあ!」とあんまりな言葉まで返されてしまった。それだけ、この考えは一の妖怪として異端なものだったのだ。
転機が来たのは、それから更に数十年ほどが経った頃だったろうか。己のその夢があまりにも遠いことを理解しつつも、それでも捨て切ることができなくて、スキマの中から人間たちの生活を覗き見する毎日を送っていた……そんなある日のことだった。
スキマの中を移動し、自身の姿を誰にも見られることなくして訪れた小さな人里で、紫は人間たちの中に交じる一匹の妖怪を見つけた。
(あら……)
思わず眉を上げる。人里の田んぼ道を、当てもなさそうにのんびりと歩いている一人の男。妖術でも使っているのだろうか、出で立ちこそは完全に人間のものだが、境界を操る紫の眼は誤魔化せない。間違いなく、彼は妖怪であった。
なんで妖怪がこんなところに? 一瞬疑問に思うが、すぐに考えるまでもなく明らかなことだったと気づく。
まさか紫のように人間の生活を覗き見しているわけでもなかろうし、彼がここにいる理由はただ一つ――人間を喰らうためだ。それ以外にありえない。
(……)
どうしようか、と紫は悩む。妖怪という分類上では彼は仲間になるが、それでも目の前で人間たちがむざむざ喰われるのを見過ごすわけにも行かない。この男が人間に襲いかかろうとしたその時は、スキマ送りにしてどこか遠くに転送してしまおうか。
そこまで考えたところで、ふと気づく。
(……我ながら、妙なことを考えてるなあ)
俯き、自嘲した。妖怪が人間を助けるために同じ妖怪と敵対するなど、まったくもって正気を疑う話だ。自分が妖怪としてどれだけおかしな存在なのかを改めて自覚させられる。
けれど、それこそが自分だ。八雲紫という妖怪なのだ。おかしいと笑いつつも、改めようなんては思わない。
視線を戻せば、男が歩く先、向かい側から三人組の子どもたちが歩いて来るのが見えた。男が人間を喰らうためにここにいるなら、間違いなく襲いかかるだろう。いつでもスキマを開いて転送できるよう、紫は静かに準備を整える。
「あっ!」
子どもたちが男に気づいて声を上げ、それを聞いて、男もまた子どもたちの姿に気づいた。
紫の脳裏に、男が子どもたちに牙を剥いて襲いかかる姿が浮かぶ。させてはいけないと、紫は能力を発動して男の周囲にスキマを――
「あー、旅人様! また一緒に遊んでー!」
「「遊んでー!」」
――開こうとした意志が、響いた子どもたちの声に掻き消された。
え? と紫は動きを止めた。思い浮かべていた、子どもたちが男に襲われる光景ではない。むしろそれとはまったく逆――子どもたちが嬉しそうにはしゃいで男に駆け寄っていく光景が、目の前に広がっている。
「なんだなんだお前たち、昨日いっぱい遊んでやったろう?」
「あんなのじゃ全然足りないよ! もっとたくさん遊んでよ!」
男も一向に牙を剥く様子なく、それどころかあやすように優しい笑顔を浮かべて子どもたちを迎えていた。一体どういうことだと、紫は瞬きも忘れてその光景に釘付けになってしまう。もしかして、彼は妖怪じゃなくて人間なの? そんな疑問が起こるも、彼から感じる気配はどれほど入念に調べても妖怪のもの。彼が妖怪であることは、間違いなどないはずなのだ。
なのに、なぜこの男は、
「私、旅人様の旅のお話が聞きたい!」
「あー僕も僕も! 聞かせて聞かせて!」
「ッハハハ、わかったよ。わかったからそんなにはしゃがないでくれ」
なぜこの男は、人間の子どもたちとこんなに仲よくしているのだろう?
人間を喰らうために人里に入り込んだのでは、なかったのだろうか?
紫が呆然とする先、彼は一度膝を折り、男の子一人を豪快に肩車して立ち上がる。男の子は楽しそうにはしゃぎ、周囲の子どもたちは羨ましそうに男の裾を引っ張っていた。
(え、えっと……どういうこと?)
予想外の事態に、紫は目を白黒させることしかできないでいた。けれどそれは、ほどなくしてむくむくと湧き上がる好奇心に取って代わる。
弾かれるように思った。これは理想形だ、と。紫が夢想する、妖怪と人間が共生する世界。それを再現した可能性が、目の前にある。
体は、無意識の内に動き出していた。スキマの中を漂い、男の背中を追った。
人間と共生する彼の生活を覗けば、或いは、夢を実現するための手掛かりが得られるかもしれなかったから。
○
しかし紫の予想に反し、男はその日の内に里を去ってしまった。里の大人たちからは惜しまれ、子どもたちからは泣きつかれ、それでも意固地に「行きたいところがあるから」と押し通して、驚くほどにあっさりと。
故に、紫が彼の背を追い続けたのは必然だった。話を聞いてみたいと思った。一体どんな妖怪なのか。どうして人間と一緒に生活してるのか。彼にとって人間とはどのような存在なのか。
そして――妖怪と人間が共生する世界を夢想する私を、どう思うのか。
なんとなく、本当になんとなくではあるが――彼なら私の夢を一笑に付したりせず、真剣に向かい合ってくれるような。そんな予感がしたから。
湧き上がる探究心はもはや抑えが効かない。いっそのことスキマ送りにして、二人だけの空間でゆっくり話をしたいと思うほど。だけど必死に我慢した。彼が人目のないような場所まで進んだら、すぐにでも声を掛けるつもりだった。
だから、
「――それで、さっきから後ろで覗き見してるお前は一体誰なんだろうか」
彼が独り言を言うようにそうこぼした時、紫の心臓は胸を突き上げるように飛び上がった。気づかれてた!? と全身が萎縮し、安全なスキマの中にいるにも関わらず、反射的に彼から距離を取ろうとする。
男がゆらりと振り返る。そうしてこちらを正面に捉えた彼は、ほのかに片笑みを浮かべ、
「姿は見えないけど、多分いるんだよな? ここに、こう、妙な気配がある」
男が大きく左から右になぞったのは、目に見えないはずのスキマの境界。なんてことだ、と紫は戦慄した。
スキマは外界から独立した異次元空間で、故に、その内部に隠れる紫の気配は完全に外から遮断される。ただし完璧な隠密というわけではなく、時には今のように、スキマそのものの気配を察知されて気づかれることがある。
しかしそんな芸当ができるのは、例えば萃香のように紫と長く付き合いがあるためにスキマの気配を感じ慣れている者か、或いは並の妖怪たちを遥かに超越した感知能力を持つ、大妖怪と呼ばれる者たちだけ。
そして紫と彼はまだ出会ったばかりなのだから、答えは一つ。妖術で人間に化けているためわからなかったが、彼はその実――
(ッ……)
迂闊だった、と紫は眉を歪めた。気持ちが先走って、彼が強大な妖怪である可能性を完全に考えていなかった。
紫の能力――『境界を操る程度の能力』――は、空前絶後、真理すらも容易く捻じ曲げる神の如き能力であるが、あくまで紫自身はまだ齢百年あまりの普通の妖怪でしかない。もしなんらかの間違いを犯して彼の怒りを買い、襲われるような事態になってしまったら。
俄に恐怖心が起こる。けど、それでも、彼と話をしてみたいという思いは微塵もかき消されなかった。人間と共生している妖怪。この邂逅をふいにするなんてあまりに惜しいと思ったのだ。もはやままよと、一度深呼吸して気持ちを整理し、紫はスキマを開いて彼の前に顔を出す。
「おや」
彼は意外そうに目を丸くしたが、それだけ。こちらの登場は予想通りだとでもいうのか、とりたてて驚く素振りは見て取れなかった。
「盗み見するような真似をして、申し訳ありません」
「いや、それは別に構わないけど……さてどちら様かな。見たところ、初対面だと思うけど」
「私は、八雲紫と申します」
男がまた、今度は確かな驚きを覚えた様子で目を見開いた。
「ほう、八雲紫……噂には聞いているよ。境界とかいうものを操る、若くもしたたかな妖怪だと」
「いえ……私なんて、まだ若輩者です」
謙遜ではなく、本気でそう思う。齢だってまだ百年ちょっとだし、なにより『妖怪と人間が共生できる世界を創りたい』という願望を、夢想することしかできないでいるのだから。夢を夢と思い描くままで終わらせているようでは、いつまで経っても未熟者だ。
……できるのだろうか。親友を以てして“噴飯物”と称されるようなこの夢を、叶えることが。
「……大丈夫か? なんだか具合が悪そうだが」
「え? あ、いえ、なんでも。大丈夫です」
慌ててかぶりを振り、気持ちを立て直した。紫が彼を追い掛けたのは、彼と話をするためだ。……だから今しばらくの間だけは、それ以外のことは全て忘れよう。
「突然こうしてお声を掛けること、大変失礼とは思いますが――」
心の中に頷き一つ、紫は真摯な声音で問いを一つ。
「――少し、一緒にお話してくれませんか?」
○
男は、名を月見といった。狐の妖怪で、人間に化けながらあちこちをそぞろ歩いて回り、人間たちに溶け込んで生きているようだった。
そうして簡単な自己紹介を終えた紫と月見は、蒼天の下に伸びるのんびり屋な小道を隣同士、言葉を交わしながら歩いてゆく。
「月見さんは、どうして人間として旅をしてるんですか?」
「興味本位、かな。人間たちがどういう生き方をしているのか、知るにはやはり人間として紛れ込むのが一番だろう?」
並ぶ彼の体は、とてもとても大きかった。紫がまだ背が低いというのもあるのかもしれないが、それでもこの時代の男性としては長身だ。きっと傍から見れば、男の隣を、小さな子どもが置いていかれまいと頑張ってひっついているようにしか見えないだろう。
それを悟ってか、月見は大分歩幅を緩めてくれているようだったけれど、それでも紫には少し速いと感じられた。これからはスキマを使って楽なんかせずに、しっかり自分の足で歩くようにした方がいいのかもしれない。
「どうして、人間に興味を?」
「ん……まあ、それも興味本位だね。これといって特別な理由があるわけではないよ」
彼は人間と一緒に生活していたことから予想できるように、拍子抜けするほどに温厚な妖怪だった。道中の暇潰しにと、こちらの話に嫌な顔一つせず付き合ってくれている。
もしかしたら強大な妖怪かもしれない。当初心にあったその不安は綺麗さっぱりなくなり、紫は興味津々と彼に次々質問を投げ掛けていた。
「月見さんの目には、人間たちはどんな風に映ってますか?」
「面白い質問だね。……そうだね、ひとえに言えば隣人、過ぎた言葉を使えば友人かな? 妖怪としては、おかしいことかもしれないけど……」
「いいえ、全然! 素敵なことだと思います!」
生まれて初めて、自分と感性の近い妖怪と出会えた。故に、紫の気分が高じてしまうのは仕方のないことだった。上げた高い否定の声に、彼は面食らったように苦笑。
「そうか? そう言ってくれたのはお前が初めてだね」
「私も、自分と同じようなことを考えている妖怪には初めて会いました!」
「スキマから人間たちの生活を覗いていた、ね。あの八雲紫が人間に興味を持っていたとは、いやはや意外なことだ」
「友人には、事あるたびに笑われます……」
人柄もあるのだろうが、もはや紫は、月見に襲われる可能性をすっかり忘れてしまっている。肩が触れ合うような距離も構わず、隣合って歩いている。自分と意見の合う妖怪がいてくれたこと――それが、ただひたすらに嬉しくて。
「月見さんは、人間が好きなんですか?」
「そうだね……そうなのかもしれないね。好きだから、一緒に在りたいと思うのだろうさ」
ああ、なんて素晴らしいんだろう。紫は感嘆した。そして思う。この人なら、私の夢を聞いても笑ってくれないんじゃないか、と。共感してくれるんじゃないか、と。
「……あの、月見さん」
「うん?」
「私……私には、こうだったらいいなあっていう夢があるんです。傍から聞いたら、笑っちゃうような夢ですけど」
月見がこちらを見下ろし、歩幅を緩めた。突然の真剣な切り出しに、虚を突かれたような顔をしていた。
でも紫は、つなぐ。
「妖怪と人間が共生できるような世界を創りたいんです。……ただそうしたいと思うだけで、具体的にどうすればいいのかもわかってないんですけど」
普段ならこのあたりで笑い声が返ってきて、話を続けられなくなる。けれども彼は、表情を動かすことなく静かにこちらの言葉を聞いていた。
彼がなにを考えているのかはわからない。だが『笑わずに聞いてくれている』という事実が、紫に更なる言葉を紡がせた。
「妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を恐れる。それはわかってます。共生なんて無理なのかもしれない。……でも、それでも焦がれるんです。人間たちと仲よく生活するあなたの姿を見て、ますます焦がれるようになりました」
「……」
月見は口元に手を当てて思案顔。なにを考えているんだろうか。否定はされたくない、と思う。恐らくこの世界に二人といないであろう、自分の思想に最も近い存在。そんな彼にまで否定されてしまったら、紫はきっと、この夢が叶わぬものなのだと諦めてしまうから。
束の間の沈黙のあと、彼はやがてこう言った。微笑み、
「面白いことを考える子だね、お前は」
「……」
笑われた。
けれどそれは今までの妖怪たちのように、おかしなことだ、下らない、無理だと嗤笑するものではない。純粋に、紫の夢に関心を持った――そんな、優しい笑顔。
「そうだね……喰って喰われるばかりの関係というのも嫌だなと、私も感じてはいるからね。そういう世界があっても、面白いかもしれない」
「ほ、本当ですかっ!?」
「うおっと」
肯定。生まれてから初めて耳に響く、夢に共感してくれる言葉。湧き上がった喜びはすぐに心を支配し、紫は咄嗟に、月見の前に立ち塞がってその襟元を取っていた。
ちょうど、彼の腹あたりから見上げる視界。こちらの突然の行動にすっかり目を丸くした彼の顔が見える。
「ほん、本当ですか!? おかしくないですか!? 下らなくないですか!? 笑いませんか!?」
「あ、ああ。私は、そういう考えもありだと思うよ?」
「そ、そうですか……」
どうしよう。嬉しい。並々ならぬほどに嬉しい。肯定してもらえた。理解してもらえた。共感してもらえた。今日は、今までの人生の中で一番幸せな日かもしれない。なんか口元がニヤニヤしてきた。
「……そんなに喜ぶようなことか?」
「当たり前ですっ! 生まれて初めてなんですよ、この夢に共感してもらえたのは! みんなみんな下らないって笑うばかりで、話すらまともに聞いてくれなくて……」
「ッハハハ、そうか」
ほらほら、歩くのに邪魔だよ。彼はそう言ってこちらの肩を掴み、横へ。そしてまたのんびりと歩き出してしまったので、紫は慌ててその背中を追い掛けた。
「あ、あのっ!」
「うん?」
「そ、そのっ!」
「……どうした?」
「え、ええと、……こ、このっ」
「……大丈夫か?」
不審なモノを見る目で見られた。いけない。夢に共感してもらえた喜びからか気分が高じて、舌が上手く回ってくれないようだ。紫は一旦足を止め、落ち着け落ち着け、と二回深呼吸。
そして思う。やっぱりこの夢を叶えたい、と。こういう言い方をすると彼を利用したみたいで嫌だけれど、共感してもらえて、背中を押してもらえたような気がしたから。少なくとも一人の理解者を得たことで、紫の心は安らいでいたのだ。
この気持ちを上手く言葉にできるかはわからないけれど。足を止めてこちらを見つめる彼に、紫は或いは自分自身に語り掛けるようにして声を搾った。
「月見さん。もしよかったら、私と友達になってくれませんか?」
「友達?」
「初めてなんです、私の夢に共感してくれた人は。だから、もっと色々、お話を聞かせてほしいんです」
「ふむ……」
……思えば紫は、この時から既に、彼に心を許し始めていたのかもしれない。
「……そうだね。どうやらお前とは、気が合いそうだ」
「っ、じゃあ」
「ああ。よろしく頼むよ、紫」
「は、はいっ!」
この日この時彼に出会えたことを、紫は初めて、神とやらに深く深く感謝した。
○
それから紫は、月見と一緒に少しだけ旅をした。
「うわ、うわあっ、綺麗な尻尾……触っていいですか?」
「ん、好きにしていいよ」
「ありがとうございます。うわあああもっふもふ……」
月見の銀の尻尾をもふもふしながら、旅をした。
「さて、もうすぐ人里だ。人間には化けられるか?」
「問題ないです。私の中にある『妖怪としての境界』を弄れば、限りなく人間に近い存在になれます。月見さんの変化の術とは訳が違いますよ」
「……つくづく、規格外の能力だなあ」
彼と一緒に人間たちの生活に紛れ込みながら、旅をした。
「待て、この妖怪め! 人に化けて私の里に入り込むとは、成敗してくれる!」
「……うーむ、やっぱり神相手だと見破られるかあ。ただ見た目を変えるだけじゃダメだな」
「なんでそんなに冷静なんですか!? ほら早く逃げますよ、スキマ開きますからっ!」
人里の守り神に妖怪であることがバレて、しつこく追い回されたこともあった。
「あの、あのね! 私、これからあなたに敬語使うのはやめようと思うわ! 友達なんだし!」
「うん? 別に構わないけど」
「じゃあ改めて、よろしくね、月見!」
敬語を使わないくらいに打ち解けるまで、そう長い時間は掛からなかった。
「ねえ、月見。私、妖怪と人間が共生できる世界を創りたいっていう夢、本気で追い掛けてみようと思うの。ここしばらくあなたと一緒に旅して、やっぱり人間たちが好きだって改めて思ったから」
「……そうか」
夢を叶えると決心するまでも、そう長くはなかった。
「……じゃあ、ここでお別れね」
「ああ。まあ、気負いすぎずにのんびりやれよ。上手く行かなかった時は、愚痴を聞くくらいのことはしてやるさ」
「うん。ありがと」
月見と旅するのをやめ、妖怪と人間が共生する理想郷を創るために、本格的に動き出すことになって。
「お久し振りですわね、月見さん。八雲紫ですわ」
「なんだその話し方。――頭でも打ったか?」
「ひどぉい! 私だってもうすぐ大妖怪の仲間入りなんだから、それっぽい話し方をしようって思ったのよ!」
「胡散臭いだけだからやめておけ」
「ぶー……」
それからも時折思い出しては、彼に会いに行って。
「月見……今夜、暇? よかったら話を聞いてほしいんだけど……」
「ん……どうした、そんなにしょぼくれて。なにか上手く行かないことでもあったか?」
「うん。実はね……」
『幻想郷』を創るための計画が上手く進まなかった時は、
「うっあああああなんなのよあいつ! 人が下手に出てれば調子に乗ってくれちゃってえええええ! そんなこと私だってわかってますよ――――っだ!」
「おいおい、あんまり呑み過ぎるなよ?」
「だって、だってひどいのよ!? 聞いてよ月見、あいつね――」
自棄酒を呑みながら愚痴ったこともあったし、
「どうして、上手く行かないのかなあ……。ねえ月見、私じゃダメなのかな……? 無理、なのかな……?」
「さて……。少なくとも、お前が叶えようとしている夢は今まで誰一人としてやってこなかった前人未到のことだ。トントン拍子で進む方がおかしな話だろうさ」
「ぅ……」
「けど、お前はよく頑張ってるよ。本当に健気で、一途で、大したものだ。……そこは、私が代わりに胸を張ろう」
「ちょっ……ば、ばかっ、いきなり、そんなこと言われたら……ふえっ、」
「ああ、はいはい。よしよし……」
たまには耐え切れなくなって、彼の胸で泣いて慰めてもらったこともあった気がする。
「月見、月見聞いて! ようやく『幻想郷』が形になってきたの!」
「そっか。……おめでとう」
「うん、……うん! ありがとう!」
『幻想郷』の完成は、彼の存在なくしてはできなかったと思う。
「おや、私はなにもしていないぞ?」
「バカ。辛い時に隣で支えてくれる人の存在がどれほどありがたいか、月見は知らないんでしょ」
あなたがいたから、頑張れた。
「――ねえ、月見」
「うん?」
「今、ふっと思ったんだけど――」
だから、きっと。
「――もしかして私、あなたのこと好きなんじゃない?」
「……いや、そんなこと訊かれても困るよ?」
気がついたらそんな風になってたのは、きっと、それほど不思議なことでもないんだ。
○
駆け抜けた思い出に、紫はそっと頬を緩めた。
――そう。ちょうどこんな感じの夢を、昨夜にも見たばかりだった。
月明かりだけで青白く染まった寝室での、いくばくかの追想。
「ふふ……」
律儀に正座なんかして見下ろす先には、夢の中心にいた月見の寝顔がある。
月見はなにやら妖怪の山に行きたい様子だったが、せっかく久し振りに帰ってきたんだからと、今日は無理やり自分の屋敷に一泊させた。そして夜も更け、明日のために早々に寝入ってしまった月見に対し……言ってしまえば夜這いをしているのが、今の状況だ。
とはいえ、別に不埒な目的があるわけではない。
「この寝顔を見るのも、久し振り……」
もう少しだけ彼の姿を見ていたいと、そう思っただけだ。差し込む月明かりが彼の輪郭を青白くなぞっている。覗き込むと、不意に胸が浅く締めつけられるような感じがした。
自分の夢に共感し、支えてくれた人。自分勝手で気ままなところもあるけど、妖怪らしくない――昔から人間たちとともに生きてきたからか、ある種人間らしい――優しさと暖かさを持った人。
大切な人だ、と紫は強く想う。
――また、幻想郷が賑やかになるな。
例えば博麗霊夢がそうであるように、彼もまた、己の周囲に自然と人を集める体質を持っている。明日から彼が幻想郷を歩いて回れば、自ずと色んな妖怪や人間たちが彼のもとに集うだろう。
幻想郷が賑やかになる。それは素直に喜ぶべきことだが、一方で、
「きっと、ライバルも増えるんだろうなあ……」
もちろん、紫の、である。なんのライバルであるかは言わずもがな。
まあ、“そっち”の方面には関心の薄い彼のことだから、心配する必要もないのだろうけど――。
「よし。ここは勢いのいいスタートダッシュを決めて、アドバンテージを取っておかないとね」
そう小さく頷いて、紫は彼を起こさないように静かに布団をまくる。久し振りに再会したんだし、今夜くらいはいいでしょ。そう恣意的に納得し、紫は一息で彼の布団の中に潜り込み――
「――紫様、なにしてるんですか?」
般若がいた。
部屋の入口、月明かりを受けて白くざわざわと揺らめいているのは、金毛九尾。
「……ら、ららら藍? ええと、その、……こんばんは」
月明かりを照らし返すほどの綺麗な笑顔で、藍は応じた。
「ええ、こんばんは。――なにしてるんですか?」
「い、一体どうしたのかしら? 眠れないの?」
「いいえ、別にそんなことは。――なにしてるんですか?」
「こ、今夜は月明かりが綺麗よねー。つ、月見酒でもしようかしら?」
「ああ、それもいいかもしれませんね。――なにしてるんですか?」
「じ、実は私、眠れなくってー」
「なるほど、そうだったんですか。――なにしてるんですか?」
「いや、その、ただちょっと月見の寝顔を見てみようかなって」
「なるほどなるほど。――なにしてるんですか?」
「……そ、そしたら、今夜くらいは一緒に寝ちゃってもいいんじゃないかなって思ったから」
「連れていけ、藍」
「月見起きてたの!? あっ、藍もそんないい笑顔で頷かないで、あーちょっとくらいいいじゃないの久し振りなんだから――――っ!!」
スタートダッシュ失敗、フライング。紫は従者にむんずと襟首を掴まれ、そのままずるずる退場処分と相成ったのだった。
「す、少しくらいいいと思うのよ! ほら、藍も一緒にどう!? 今からでも遅くないわ!」
「月見様にご迷惑をお掛けしちゃダメです。ただでさえ私たちが長話に付き合わせてしまったせいでお疲れになってるんですから、ちゃんと休ませてあげましょう」
「お堅いこと言っちゃってー! ダメよ、時にはあばんちゅーるな行動もしていかないと恋という戦争には勝」
「というのは建前で本音を言うとまだ仕事がたくさん残ってるからきびきび働け」
「藍のいじわる――――!!」
そうして夜は、騒ぎ合う彼女たちの天上で更けていく。