銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

27 / 160
竹取物語 ⑨ 「月下、銀映ゆる」

 

 

 

 

 

 大丈夫だと信じてはいたが、それは所詮、己の心配を誤魔化すための拙い嘘だった。だから八意永琳は、蓬莱山輝夜を地上流しから解放するその日、自ら迎えの舟を指揮することに決めた。

 永琳にとっての輝夜は、手の掛かる娘のような存在だった。『月の頭脳』として長い年月を月で過ごし、子どもどころか孫がいても不思議ではないくらいだっただけに、輝夜をそういう目で見てしまったのは仕方のないことだったかもしれない。

 輝夜が地上に流された高々数年の時間は、月の民にとってはため息のように些細なものだけれど、娘と引き裂かれたまま生きるには、それなりに長く辛いものでもあった。一時期は、自らも蓬莱の薬を飲んで地に降りることを本気で考えたくらいだ。だが、いつか輝夜がこの世界に帰ってくる日を思い、耐え続けた。

 ……とはいえ、刑期を終えた輝夜が素直に月に戻ってくると、心から期待していたわけではなかった。もしも輝夜が、地上の世界で幸福を手に入れたのならば。きっと彼女は、迷う素振りも見せずに、月に戻るなんて真っ平御免! と言い切ってみせるだろう。

 だから、もし輝夜が月に帰ることを望んだ時には、まっすぐ手を差し伸べて。

 もし地上で生きていくと望んだ時には、私の方からそっと、歩みを寄せようと。

 そう心に決めて迎えた、満月の夜に。月の方舟で地上に降り立った永琳は、輝夜としばし再会を喜び合い、そして彼女の心を聞いた。

 

「永琳。私、月には戻らない。戻りたくない」

 

 ここにいたい、と望んだ輝夜は、その理由をこう語ったのだ。

 

「――私ね、恋をしたのよ」

 

 胸を打たれるような思いがした。その時の輝夜の笑顔が、月光に溶けていくように柔らかで、美しかったから。永琳の記憶に刻まれた笑顔も大概綺麗だったが、それらが一瞬で色褪せ思い出せなくなってしまうほどに、目の前の微笑みは鮮烈だった。

 ――ああ、そうか。

 この子は、この世界で、恋をしたのか。

 

「だから、ここに残って」

 

 輝夜の声は、決して大きくはなかったけれど。

 

「この世界で、生きて」

 

 周囲の雑音を突き抜け、なによりもはっきりと永琳の耳朶を打つ。

 

「――この世界で、恋をしていくの」

 

 それが、まるで神への誓いのようだと、永琳は思う。

 

「……素敵な人なのかしら?」

 

 込み上がってくる笑みを口元だけに留めながら問えば、輝夜は自分のことのように強く頷いてみせる。

 

「きっと、永琳も気に入ってくれるわ」

「……そう」

 

 目を伏せ、呟く。もう充分だった。否、「恋をした」という輝夜の一言を聞いた時点で、もう振り返る必要すらないほどに、永琳の進む道は定まっていた。

 

「あ、でもだからって取っちゃダメだからね。ギンは私の――」

「――輝夜。大事な話があるわ」

 

 輝夜の言葉にそう被せながら、永琳は己の胸に手を当てて。

 そこにしまわれた蓬莱の薬の存在を、静かに、確かめた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――それより以前、月がまだ明るくなりきらない、薄い宵の口の頃に。

 家の戸を足で粉砕して転がり込んできた秀友を、銀山は拳で粉砕していた。

 

「……で、一体なんの用だい。雪」

 

 床に転がって動かなくなった狼藉者には目もくれない。秀友のあとを慌てて追ってきた雪は、転がる男の肢体と真っ二つになった扉の残骸を見て、とても嘆かわしそうに頭を振った。

 それから、ため息を一つ。

 

「ごめんなさい銀山さん、うちのバカがバカをして……」

「それは昔からだからいいよ。それで、なにかあったのか?」

 

 物取りかと思って反射的に拳を叩き込んでしまったが、秀友が戸を粉砕して転がり込んでくるなど初めてのことだ。どうやらなにかあったらしい、ということは、言われるまでもなくわかる。

 銀山の問いに、雪がハッとした様子で、

 

「そ、そうでしたっ。大変なんですよ銀山さん! あくまで噂なんですけど、姫様が、なんか違う世界の人で、月のお姫様で、なんだかよくわかりませんけどお月様に帰っちゃうって!」

「ああ」

 

 なるほどその話か、と銀山は思う。月からの迎えがやってくる前日となって、いよいよ情報が下町にも伝わり始めたらしい。今日は一日中家にこもって札の製作やら準備をしていたので、まったく気づかなかった。

 

「私も聞いたよ。明日の夜だってね」

「ど、どうしてそんなに落ち着いてるんですかっ。姫様がいなくなっちゃうんですよ!? いいんですか!?」

「……」

 

 銀山は答えず、緩く息を吐きながら、壊された家の戸を見下ろした。

 

「……積もる話より先に、戸の修理をしようか。このままだと不用心だからね」

「ぎ、銀山さんっ……」

「大丈夫だよ、雪」

 

 張り詰めた顔をしている雪に、微笑んで、

 

「私だって、なにも考えてないわけじゃないから」

「……」

「だから、まずはこっち」

 

 壊れた戸を拾い上げる。真ん中から真っ二つになってしまっているが、このくらいならば応急処置程度で充分だろう。本格的な修理は、すべてが片付いてからゆっくりやればいい。

 

「……わかりました」

 

 雪が、眉根を少し厳しくしたままで、頷く。

 

「手伝います。終わったら、全部聞かせてもらいますから」

「助かるよ」

 

 下町育ちの雪は、秀友を容赦なく蹴り倒すあたりからもわかる通り、非常に逞しい。扉の修理を手伝う程度なら、或いは秀友よりも有能に、なんなくこなしてしまうことだろう。

 壊れた戸をひとまず雪に任せ、銀山は家の奥へと道具を揃えに向かう。途中、床に横たわる男の屍が邪魔だったので、隅の方に転がしておいた。

 もちろん雪は、なにも言わなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その男が目を覚ましたのは、戸の修理はもちろん、雪に話すべき話もすっかり一段落して、他愛のない与太話へと言葉が移ろいゆく頃になってからだった。部屋の隅でおもむろにのそりと体を起こした秀友を、銀山は半目になって見返した。

 

「おはよう」

「おー、おはようさん。……あれ? なんでオレ、こんなとこで寝てんだ?」

 

 どうやら一連の出来事が記憶から飛んでいるらしい。本当のことを言えば騒ぎ出しそうなので、適当に嘘を吹き込んでおく。

 

「家に飛び込んでくるなり、足を滑らせて頭を打ったんだよ。大丈夫か?」

「本当かよ? ……ううん、なんだかそうだったような、そうじゃなかったような」

 

 もちろん雪は、ここでもなにも言わない。我関せずとばかりの澄まし顔で、銀山が淹れたお茶をのんびりとすすっていた。

 

「まあいっか」

 

 小難しいことを考えるのが苦手な秀友は、すぐに諦めたようだった。気の抜けた息を吐いて、けれどまたすぐに首を傾げて、

 

「……あれ? なんでオレ、ギンの家にやってきたんだっけか?」

「お前もう寝てろよ」

「やっ、待て待て待てよギン、これは違うんだ。ちょっと寝起きで頭働いてなくて、とにかく待ってろすぐ思い出すから」

 

 うんうんと耳障りに唸り始めた秀友から、銀山は速やかに視線を外す。向かい側に座る雪は、ゆっくりと長いため息を一つ落として、哀れな亭主の姿を嘆いていた。

 夜は深まっていた。昨夜に比べてまた一回り大きさを増した月が、星空をかき消すほどに眩く輝いている。ここまで来ると、もはや月ではなく太陽だ。夜ではなく真っ昼間だ。ただ適当に窓を開け放っておくだけで、一日中灯りには困らない。

 今や昼間との違いは、世界が白いということだけ。

 もしかするとあの月は、輝夜を迎えるために地上に近づいてきているのかもしれない。ほんの少し手を伸ばすだけで、もう月の表面に指が触れてしまうかのような。そんな、不思議な心地がする。

 

「……」

 

 ……月の世界。あの白い珠の中には、一体どんな文明が芽吹いているのだろうか。こことは比べものにならないくらいに発達している、と輝夜は言ったが、それは一体どれほどのものなのだろうか。

 そう思いを馳せるだけで、心が粟立つようだった。興奮だった。地上に残るという輝夜の代わりに、自分が月に行きたいくらいだと、思わずにはおれなかった。

 未だかつて、月に生命が芽吹いているなどと考えたことはなかった。それどころか、月というものがなんなのかすら、ろくに考えたことはなかった。

 先入観が完璧に打ち砕かれた。今や銀山の心は、地上を離れ、空を駆け昇り、その果てにある未知の世界にまで広がっている。月とはなんだ。月の民とはなんだ。この地上の妖怪とも、人間とも一線を画す存在。輝夜と同じように、地上の人間となに一つ変わらない見た目をしているのか。それともひと目で月の民だとわかるような、なにか特徴を持っていたりするのか。空の彼方から、どうやって輝夜を迎えにやってくるのか。妖怪のように空を自由に飛び回る術を、彼らはものにしているのか。

 ――ああ、世界が膨らむ。

 

「そうだ、思い出した!」

 

 秀友が、いきなり両の膝を打って立ち上がる。

 

「かぐや姫だよ! あくまで噂なんだけど、かぐや姫が、なんか違う世界の人で、月のお姫様とかで、なんだかよくわからねえけど月に帰っちまうって!」

 

 少し前の雪と同じようなことを叫んで、窓から外の月を指差すと、

 

「いいのかギン、愛しのお姫様がいなくなっちまうぞ!?」

「ところでもう夜も更けてきたけど、雪は帰らなくて大丈夫なのか?」

「あ、そうですね。確かにそろそろ帰らないと……」

「聞いてねえし!」

 

 聞くまでもない。

 

「お前が寝てるうちに、そのあたりの話は雪と済ませたよ」

「なん……だと……」

「それじゃあそろそろお開きだ。私は、明日は大事な用があるからね。今夜はゆっくり休んで疲れを取っておかないと」

「納得行かねー!」

 

 癇癪を起こす秀友と対照的に、雪の反応は素直だった。それは彼女が、明日になにが起こり、銀山がどうするのかを、既に理解しているからだろう。

 お茶、ごちそうさまでした――そう言って立ち上がり、秀友に歩み寄って袖をぐいぐいと引く。

 

「ほらほら秀友さん、もう帰りますよ」

「ちょっと待ってくれ雪さん! オレ思うんだけどよ、なんか最近オレの扱いが雑」

「か え り ま す よ  ?」

「……はい」

 

 なんとわかりやすい上下関係だろうか。雪は旦那を尻に敷くタチだし、秀友は敷かれて然るべき男だし、なんとも互いに相性のいい夫婦だった。

 さっさと正式に結婚すればいいのに、という言葉は心の中に飲み込みつつ、銀山は二人の先導して修理した戸を開け、一歩、夜の町に足を踏み出す。

 

「ほんと、夜だなんて思えないくらいに明るいですよねえ」

 

 背中についてきた雪の声に、まったくだと短く返事をして、夜空を見上げる。針で空けたような無数の小さな穴は星の光。そして拳よりも大きな、ぽっかりと空いた白い孔は月の光。直視するには、もはや少し眩しいと感じるほどに輝きを増している。一度まぶたを下ろせば、月の姿が網膜に焼きついて、チカチカと輝き続けている。

 この世のものとは思えない神秘的な夜空だと、素直にため息をついていただろう。――まぶたを上げた時、視界の片隅で不自然な光を放つ、見慣れないなにかを、見つけなければ。

 

「――?」

 

 白ではない別の光が、夜の中に交じっている。淡い紫の色を帯びた、黄金色の光だった。

 巨大な月の片隅で、しかし月でも星でもないなにかが、光っている。

 月の光が強すぎて、少し、わかりづらいけれど。

 

「どうしました?」

「お、見てみろよ雪さん。あそこになんか――」

 

 秀友たちも、違和感に気がついたらしい。

 視線が向けられる先に、あるものは。

 

(……舟、か?)

 

 銀山が断言できなかったのは、それが水の上ではなく、空に浮いていたからだ。薄い筋雲を衣のようにまとった、帆を持たない、空を泳ぐ舟だった。

 遠近感が上手く掴めなくて、それがどれくらいの大きさなのかは、わからなかったけれど。

 空を泳いでいるという一つの事実だけで、もはや疑問を挟む余地はなかった。あの舟の正体を、銀山は弾かれるように一瞬で、理解していた。

 

(――月からの、迎えの舟!)

 

 迎えの日は、明日の夜だったはずだ。それがなぜ今になっているのか、可能性はいくつか考えられたが、事実として目の前にこの光景が広がっている以上、棒立ちのまま原因を考えるのは無益だった。

 行動は反射だった。その時に一体なにを考えていたのかは、銀山自身もよくわかっていない。ただ自然と、生まれた海亀の子が海を目指すように、両足を翁の屋敷へ向けて踏み出し――

 そして、崩れ落ちる。

 

「……!」

 

 足を踏み出したまさにその瞬間、強烈な眩暈で視界が潰れ、膝から地に崩れ落ちた。一時は自分の体がどうなっているのかすらわからなくなったが、やがて闇の底から浮き上がるように視界が戻ってくれば、どうやら地に両手と両膝をついているらしいことがわかった。しかし一瞬だ。すぐにまた眩暈で天地が真っ逆さまになり、重度の風邪よりよっぽどタチの悪い吐き気が喉を圧迫する。なのに不思議と、頭の中だけが不自然なくらいに軽い。ふわりと、そのままどこかに飛んでいって、消えてしまいそうだ。

 ふいに背後で、二つの物音。

 秀友と雪が、倒れた音だ。

 

「ぎ……ざん、さ……」

 

 声が聞こえたのは、雪からだけだった。銀山は一度まぶたを下ろし、喘ぐように深呼吸をしてから、首だけを動かして背後を振り返る。雪が地面に倒れ伏して、頭だけを懸命に持ち上げて、苦悶の瞳で銀山を見つめている。その横で、秀友は完全に気を失ったのか、指一本動かす気配がない。

 

「な……です、か、これ……」

 

 音を一つ紡ぐたび、激しい痛みに呻くように、雪の体が震える。ほとんど言葉にはなっていなかったが、こうして口を動かせる雪を、銀山は大したものだと思った。そして同時に、その横ですっかり伸びている秀友を、情けないとも。

 再びまぶたを下ろし、今度はゆっくりと、心を落ち着けて深呼吸をする。この強烈な眩暈と吐き気がどうやって引き起こされたのか、ひとたび認識してしまえば、症状は嘘のように引いていった。

 

「……人を夢に落とす幻術」

「……え?」

「都全体を覆うほどの。……出処はさしずめ、あの舟だね」

 

 指から腕へ。腕から全身へ。そうやって体に力を呼び戻し、銀山は立ち上がって空を見た。月の方舟は、淡い紫の色をした、幻術の光を都中に振りまいている。妖術の類かなにかは知らないが、光を見た人間を片っ端から落としていくとは、なかなか大層な幻術だ。かぐや姫が月へと帰る区切りの日に、余所者の介入は必要ないということなのだろう。

 

「あれ、は……姫、さま……?」

「だろうね。……さては輝夜め、私に嘘をついたな?」

 

 噛み殺すように、苦笑する。迎えの日を間違えて伝えられたわけではあるまい。輝夜は間違いなく、嘘だと理解した上で、あの時銀山に明日という日付を伝えたのだ。まさかあの流れでこんな大嘘をつかれるだなんて、さすがの銀山も、油断していた。

 見つめる先で、光の舟が静かに動き出す。風がないこの夜で、帆がないあの船体で、一体なにを推進力にしているというのか。舟はまとった筋雲の衣を波のようになびかせ、水面を裂くように月光を切り、空の果てへと昇っていく。

 あの舟に輝夜が乗せられているのか否か、彼女の願いが聞き届けられたのか否か、事の結末は確かめようがない。手を伸ばせば届きそうなほど近い月とは裏腹に、天へと昇りゆく舟は、あまりにも遠い。

 

「……」

 

 なぜ輝夜があんな嘘をついたのか、銀山にはわからなかった。ただ、あの嘘は決していたずらなどではなく、つかれるべくしてつかれた嘘だったのだろうと、そう感じていた。

 輝夜は、銀山を迎えの席に立ち会わせたくなかった。関わらせたくなかった。なにか特別な理由があって、あの嘘をつかざるを得なかった。

 秀友ほどではないにせよ、それなりに深い付き合いをした友人だ。それ程度のことは、簡単にわかる。

 

「…………」

 

 けれど、心の中で渦巻くこの感情が、決して心地よいものではないこともまた、銀山は理解していた。すべてを話すと誓ったあの月の下で、輝夜は最後の最後に嘘をついた。理由はどうあれ、輝夜の言葉を信じた銀山を、裏切ったのだ。

 たとえその嘘が、銀山のためを思ってのものだったとしても。

 そういう気遣いのされ方は、決して、嬉しくはない。

 白い夜に、轟音が響く。月の船が突如として黒煙を吐き出し、続け様に火を吹いた。その身を赤い火の手で染め上げ、月に叢雲をかけるように黒い尾を引いて、向かう先を天から地へと変えていく。

 予期しない出来事だったが、銀山は薄い笑みすら浮かべながら、舟の落ちゆく様を見つめていた。地上に残るための手段としては強引すぎるんじゃないかと、脳裏にあのお転婆娘の姿を描きながら。

 

「……では、私も行こうか」

 

 意識は元に戻りつつある。まだ若干の不快感が残ってはいるが、それも舟を追い掛ける中で消えるだろう。

 この光景を目の当たりにしてなお大人しく輝夜の帰りを待ち続けるのは、性に合わなかったし。

 それにどうしようもないくらいに、横槍を入れてやりたい気分だった。月からやって来た舟を一目間近で見てみたいという好奇心だったのか、輝夜の嘘に仕返しをしようとする反抗心だったのかはわからないが、行動せずにはおれなかった。

 己の脚に問題なく力が入ることを確認し、銀山は振り返る。

 

「というわけで……少し行ってくるよ、雪」

「っ……」

 

 雪は、まだ体を上手く動かせないでいるようだった。もやを振り払うように何度も頭を振るが、地面に縫いつけられた体をほんの少し持ち上げることすら、できなかった。

 

「だ、め……」

 

 だが、苦しさで歪んだ表情の奥で、彼女の瞳がまっすぐに銀山を捉える。

 

「嫌な、予感……が、」

 

 今にも沈みそうな意識を叱咤し、上手く動かない唇で懸命に紡いだ言葉は、ひどく痛々しくて、泣き出す直前の子どものよう。彼女なりに、なにか予感するところがあったのかもしれない。秀友のように特別な能力を持っているわけではないが、昔から不思議と勘が利く子だった。

 銀山は答えず、ふっと微笑み、言った。

 

「秀友のこと、任せたよ」

「――!」

 

 そこからはもう、振り返りはしない。黒煙の上がる位置から舟が墜ちた先をおおまかに見当づけて、銀山は走り出した。

 雪の掠れた悲鳴をも、置き去りにして。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 反逆だと、誰かが叫んだ。それを、輝夜は否定しなかった。

 永琳が示してくれた地上に残るための手段は、彼女の『月の頭脳』という二つ名とは裏腹に、ひどく強引で滅茶苦茶なものだった。舟を墜とし、追っ手を殲滅する――知性の欠片もない、まるで獣の力技だった。

 これほどまで手荒な手段を取った理由を、彼女はかく語った。

 

「実を言うとね、既に警戒されてたのよ。私があなたの味方をするんじゃないかってね」

 

 だから月の兵士たちの間では、多少なりとも強引に事を進める計画が練られていた。迎えの舟にうざったいくらいに大人数の兵士たちが乗っていたのは、それが理由だったのだと。

 

「だから裏をかく必要があったの。……さすがのあいつらも、まさか私がこんなに滅茶苦茶な手段を取るなんて、夢にも思ってなかったでしょうね」

 

 確かに、永琳の策は上手くはまった。輝夜が素直に舟に乗ったことで完全に油断していた月の兵士たちは、永琳の突然の行動にほとんど対応できないまま、あっという間に舟の制御を手放した。そして舟が墜落した混乱に乗じて、輝夜と永琳は白い大地へと逃げ出した。

 だがそのまま易々と見逃してくれるほど、月の兵士たちは甘くなかった。

 人数の差でもあったし、単純に実力の差でもあったろう。永琳は月の兵士を単騎で迎え撃てるほどに強いが、それでも輝夜という非力な少女を抱えた状態では不利だった。無駄に統制の取れた追撃を見せる彼らの前に、輝夜たちは徐々に逃げ場を失い――そして追い詰められた。

 

「……もう諦められたらいかがです、八意様?」

 

 投げ掛けられる男の声は倦んでいた。投降を促す以上に、輝夜たちを嘲笑うような声だった。

 眼前では、白い大きな月の下で、三十以上になろうかという月の兵士たちが、緩い弧を描いて整列している。これでも半分以上にまで数を削ったのだから、永琳は本当によく奮闘した方だ。

 永琳が焦りの見えない小さな吐息をついて、体で輝夜を守るように、一歩前へと歩み出る。弓手に弓、馬手に霊力の矢を握り、いつでも引き放てるように、静かに構える。

 

「……永琳」

「あなたはじっとしてて」

 

 輝夜たちの背後には森が鬱蒼と広がっていて、地の利を得るのに絶好の場所となっている。だが、そこへ逃げ込めるほどの余裕はなかった。向こうもそれがわかっているのだろう。だから月の兵士たちは一列を保って佇むだけで、一向に輝夜たちを取り囲もうとしない。

 取り囲むまでもないという、余裕の宣言。

 

「っ……」

 

 輝夜の目線は低い。もともと背が高い方ではないが、今は普段以上に、地面が近い。

 

「その怪我が治るくらいの時間は、稼いでみせるわ」

 

 永琳の視線が、素早く輝夜の足下へ向けられる。地へ座り込んだ輝夜の足下には、あるべき部位が欠けていた。

 

 右脚。

 兵士たちに撃たれ、消し飛ばされた。

 

 欠けた右脚を意識すると、傷がひどく痛んだ。輝夜は不老不死であり、身に受けた傷を一瞬で回復させ、肉体を再構成することができる。だが兵士たちに消し飛ばされた右脚は未だ再生しておらず、輝夜から歩く能を奪い、またその身に巨大な刃物を突き立て続けるような激痛を与えている。

 

「ぐっ……」

 

 痛い。傷は右脚にあるはずなのに、頭が一番痛かった。脳天に突き立てた刃で脳を抉られているみたいで、おかしくなってしまそうだった。不老不死になっていなければ、もうとっくの昔に失血死している傷だった。

 

「輝夜……」

「っ……大、丈夫。痛いだけ、だもの」

 

 けれど、涙は流さない。そう、これは所詮、痛いだけなのだから。放っておいたって、死にはしないのだから。輝夜が歯を食いしばれば済む話なのだから。

 だから今は、この状況をなんとかする方が先だった。

 背後の森へは逃げ込めない。輝夜は立ち上がることすらできないし、永琳も、追い詰められたこの状況で己の獲物を手放すわけにはいかないだろう。一度輝夜に手を貸せばもう弓は引けないし、そうなればあっという間に兵士たちに捉えられて終わりだ。

 故に、時間を稼がなければならない――というのに。

 

(くっ……こいつら、一体なにをしてくれたっての……!?)

 

 右脚の回復が遅すぎる。吹き飛ばされてから一分か二分は経つはずなのに、まるで再生を始めている気配がない。

 それに、

 

(それに、なんの躊躇いもなくいきなり撃ってくるなんて……)

 

 前警告すらなかった。兵士たちは、輝夜に向けて引鉄を引くのをまったく躊躇っていなかった。……罪人とはいえ、月の姫君である輝夜に向けて、だ。

 それは一体、どういうことなのだろうか。

 

(……)

 

 極端に治りが遅い傷。……恐らく、武器になんらかの仕込みをしたのだろう。月の優れた技術を以てすれば、それくらいできたって特に不思議はない。

 けれど、どうして、仕込みなんてしていたのだろう。どうして、その仕込みをした武器で、彼らはいきなり輝夜を撃ったのだろう。

 それじゃあ、まるで、

 

 ――まるで、初めから輝夜を撃つつもりだったみたいじゃないか。

 

 く、と輝夜の喉が震えた。痙攣するような笑いだった。傷の痛みのせいなのか、上手く音にはならなかったけれど、喉は何度も震えた。

 

(……結局私なんて、あんたたちにとって、その程度の存在ってことね)

 

 この傷を見れば簡単にわかる。今の輝夜はもう、月の兵士たちにとって、殺してもいい(・・・・・・)存在なのだ。不老不死なんて関係ない。躊躇いなく引鉄を引かれた、その事実に、輝夜は細く長く、息を吐いた。

 自分の心が、月から離れていくのを感じる。

 月に対する思い入れが、まったくないわけではなかった。決していい場所ではなかったけれど、あそこは輝夜の生まれた世界だった。輝夜を育ててくれた、たった一つの世界だった。

 そのたった一つの故郷が、輝夜に銃口を向けている。脅すために――或いは輝夜を、殺すために。

 月とつながっていた、最後の心の糸が、切れた。鋭く呼吸をして、輝夜は月の兵士たちを睨みつける。もともと帰るつもりなんてなかったが、これで完全に腹は決まった。

 私は、絶対に月へは戻らない。

 否――戻るわけには、いかない。

 本当に、銀山に嘘の日付を教えた自分を褒めてやりたい。輝夜にすら、なんの遠慮もなく引鉄を引くような連中なのだ。この場に彼がいたら、間違いなく殺されていただろう。

 永琳が、何気ない朝の挨拶をするような気軽さで、兵士たちへと問うた。

 

「見逃してはくれないのかしら?」

「少なくとも、あなたは無理です」

 

 答えが来るのは中央、他の兵士たちとは違う月の軍服で身を包んだ、恐らく指揮官であろう男。

 彼はあいかわらず、倦んだ声で、

 

そちらの方はさておき(・・・・・・・・・・)、『月の頭脳』であるあなたにまでいなくなられてしまっては困ります。豊姫様や依姫様も寂しがりましょう」

「……もう保護者が必要な歳でもないでしょう、あの子たちは」

「月の民たちを捨てるのですか?」

「隠居したいのよ。ほら、私ももう若くないし」

 

 歳の話をされると笑顔でキレるくせに、一体なにを言っているのだろうかと輝夜は思う。もちろん、口にすれば笑顔でキレられるので、思うだけだが。

 男が、嘆くように首を振った。

 

「八意様……このままでは私たちは、あなた方を反逆者として捕えねばならなくなります。あなたほどの人が、理解していないはずがないでしょう? 私たちは、無用な争いはしたくない」

「あら。なんの躊躇いもなく輝夜を撃っておいて、どの口でそんなことをほざくのかしら」

 

 男の顔から表情が消える。そして細く鋭さを増した兵士たちの視線すら呑み込んで、永琳は笑った。

 状況は圧倒的に不利なのに、それでもなお、美しく。

 

「まだるっこしいのよ。いい加減はっきりさせましょう? 私は輝夜とこの地上に残るわ。……これは、ごめんなさいね、もう心に決めたことなの」

 

 時間を稼がなければならない現状でのこの啖呵は、決して賢い行動ではなかったろう。けれど輝夜には、それを非難することはできなかった。

 わかってしまったのだ。永琳が、怒ってくれていると。天才と謳われた頭脳を持つ彼女でも、感情が理性を上回ってしまったのだと。

 自分のために怒ってくれている永琳を見るのは、もしかすると初めてだったかもしれない。ぐっと、胸が詰まるように痛くなる。けれどこの痛みは、決して苦しくはない。

 

「……ありがとう、永琳」

「礼はまだ早いわよ」

 

 脚の痛みをこたえ、自分にできる限りの笑顔で言った言葉に、永琳からの返事は素っ気なかった。

 

「まずはどうにかして、ここを切り抜けないとね」

 

 その反応を、あいかわらずだなあと思いながら、輝夜は己の右脚に目を移した。傷の再生は始まっている。だが、立ち上がるにはまだまだ足りない。

 

「――八意様のお気持ちは、よくわかりました」

 

 無感情に響いた声に、永琳が目を細めながら男を見遣った。男は笑うでも嘆くのでもなく、まぶたを下ろした無表情のままで、

 

「では私たちも、もはや躊躇いません。――あなた方を、月への反逆者と見なし、捕えます」

 

 片手を挙げる、その動きに合わせて、三十を超える月の兵士たちが一斉に銃を構える。距離は二十メートルもない。引鉄を引けば一秒を待たずに輝夜に弾が届く、必殺の距離だ。

 輝夜の前には永琳がいるのだから、本当に撃つということはないだろう。だが、こうして三十以上の銃口を一度に向けられるだけで、見えない銃弾に胸を穿たれた心地になる。

 

「八意様は、不老不死ではないから殺すな」

 

 無機質な起動音に合わせて、兵士たちの銃器が、淡い黄金色の光を宿す。

 きつく弦を引く音に合わせて、永琳の弓が、月光を映し出し蒼白に輝く。

 男は表情を変えない。

 

「姫様は……一度殺した方が、楽かもしれないな」

 

 そして永琳も、輝夜もまた、表情を変えなかった。もうわかっている。――自分たちが帰る場所は、月ではないのだと。

 

「永琳……」

「ええ、大丈夫」

 

 永琳の番えた霊力の矢が、一際強く蒼い光を放つ。月光すら弾き返すその蒼に、緊張の糸が、音もなく静かに張り詰められていく。

 

「――」

 

 一瞬の静寂があった。糸が張り詰め、切れるまでの、ほんのわずかな沈黙を。

 しかし切り裂くのは黄金でも蒼でもなく――鮮烈なまでの、紅。

 炎だった。背後の森から蛇のように這い出した二つの紅が、熱風とともに輝夜の両脇を駆け抜け、月の兵士たちの眼前で衝突し、弾け飛ぶ。

 

「ッ……! 総員、下がれ!」

 

 直撃していないとはいえ、巻き上がった激しい熱気に怯み、兵たちが堪らず隊列を下げた。

 

「! ……あら、もしかして援軍かしら?」

 

 冗談めかした薄笑いをこぼし、永琳が弓に込めていた力を緩めたが。

 輝夜は、笑えなかった。

 だって――だって、この炎は。

 間違えようがなかった。この、見る者の目を奪う美しい唐紅も。この、見る者の心を焼く気高い熱気も。

 全部、全部。

 それはかつて、輝夜を救ってくれた、炎だったから。

 

「どちら様?」

「おっと……そこの輝夜の、まあ、友人みたいなものだよ。そちらは?」

「そうね……ここの輝夜の、まあ、保護者みたいなものかしら」

 

 背後から聞こえる彼の声を、嘘だと思いたかった。振り返るのが怖くて、彼が来てしまったことを認めたくなくて、目の前で燃える緋色の炎から、目を離せなかった。

 巻き込みたくないと、あんなに願っていたのに。

 

「やあ、輝夜。――無事か?」

 

 どうして、ここに、来てしまったの――?

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無論、永琳がその男に出会うのは初めてだった。だが一目見た瞬間に、この人が輝夜の恋した男なのだと、直感で理解していた。

 輝夜が惚れるような相手だから、きっといい意味でも悪い意味でも優しいのだろうとは思っていたが、どうやら間違いなさそうだ。

 月の舟が発していた幻術を振り切り、都から離れたこの場所まで、輝夜を助けるためにやってくるのだから。

 

「やあ、輝夜。――無事か?」

 

 耳に優しいバリトンの声音で、彼が輝夜を隣から見下ろした。着物で隠されているからか上手く夜の影に紛れているからか、輝夜の右脚の怪我にはまだ気づいていないようだった。

 永琳はもう一度弓を引き絞り、己の霊力で作り上げた矢を、今度は放った。矢は放たれると同時に幾筋もの光芒へと枝分かれし、最終的に数十の矢の束となって、未だ燃え盛る炎の奥へと消えていく。

 ちょっとした牽制のつもりだった。兵士たちの反応を注意深く窺いながら、永琳は声だけを彼へと向ける。

「一応、自己紹介しておくわね。私は八意永琳。説明は要らないだろうからいきなり言うけど、月の人間よ」

「ん……私は門倉銀山。ただのしがない陰陽師だよ」

 

 炎の奥で人影が揺らめき、次の瞬間、青白い光弾が紅をかいくぐって飛び出してきた。輝夜の右脚を撃ち抜いた光弾とは種類が違う、殺傷能力のない衝撃弾――だが、わざわざ喰らってやる道理はない。

 二本目の霊力の矢を番い、即座に放つ。蒼の矢と蒼の光弾が激突し、弾け飛び、光の粒子となって煌めきながら消えていく光景に、彼は興味深げに眉を持ち上げた。

 

「へえ……これが月の世界の技術ってやつか」

「そんなところ。……それで提案なんだけど、とりあえず奥の森に隠れない? ここは、立ち話には視界が良すぎるわ」

 

 男手が増えたのは、この状況ではありがたい。

 

「輝夜、脚を怪我してしまったの。悪いんだけど、運んでもらえる?」

「脚? ……ッ」

 

 輝夜の右脚に目を遣った彼が、途端に表情を険しくした。

 長く、一つ呼吸をする間があって、

 

「なぜ撃たれた?」

 

 端的な彼の問いに、永琳も同じく端的に答える。

 

「この行為は、月への反逆だから」

「……」

「さあ、早く。……やつら、そろそろあなたの炎を越えてくるわ」

 

 彼が放った豪火は兵士たちの進路を大きく妨げたが、それも安全な場所を迂回してしまえばいいだけの話。炎を避け、兵が次々と永琳たちの右手に回り込んでくる。

 それを、番う霊力の矢で牽制しながら。……或いはそのまま、射殺しながら。

 

「輝夜、あなたもなにボケッとしてるの? 早く――」

「――なんで、来たの?」

 

 輝夜への呼び掛けは、彼女の小さな声に遮られた。感情が張り裂ける寸前の、震える声だった。

 永琳は緩く吐息して、背後の森に逃げ込む選択肢を諦める。代わりに、敵の射線上から輝夜たちを守るように、一歩大きく前に出る。

 あいかわらず手のかかる娘だとは思ったけれど、心は自然と穏やかだった。それは、輝夜の頬で、一筋の透明な雫が垣間光ったのを見たからなのかもしれない。

 ああ、この子は誰かのために泣けるようになったんだと――それが、嬉しかった。

 だから永琳は、己の右手の中に再び、霊力の矢を作り出す。

 

「……ごめんなさいね。輝夜はちょっと、大事な話があるみたいだから」

 

 弦を絞り、矢を番え、すべての敵を、ここで押し留めるために。

 己の意志すらも、鋭利な武器へと変えて。

 

「――もう少し、私と遊んでちょうだい?」

 

 月下、矢を放つ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――どうして来たの!?」

 

 涙のように、叫びがあふれた。治りきっていない右脚を引きずり、輝夜は彼の袖に縋りついた。

 佇む銀山の、静かな表情を、見上げて。

 

「ねえ……私、言ったわよね? 迎えの舟は、明日だって」

 

 顔の筋肉が痙攣して、自分でもよくわからないうちに笑ってしまう。夢だと思いたかった。巻き込みたくなくて、来てほしくなくて、だからあんな嘘をついて。

 でも、掴んだ袖から伝わるこの温かさは、紛れもなく銀山の温かさで。

 銀山が、小さく、息をもらすように笑う。

 

「そうだね。まんまと騙された」

「どうして、騙されていてくれなかったのっ……?」

 

 都の人間は、月の民が放った幻術で、みんな眠りに落ちたはずなのに。

 なのに、どうして銀山だけが。

 

「舟が目の前で墜ちたんだ、じっとしてなんていられなくてね。……助け、いるだろ?」

「いらない……!」

 

 輝夜は、赤子のように頭を振った。

 

「そんなの、いらない……! 私は大丈夫だから! だから、ギンは逃げてよっ……!」

 

 頬を、涙が何度も伝う感触がした。今は永琳が守ってくれているが、兵士たちが放つ光弾がいつ銀山の命を奪うかと思うと、輝夜はもう、息の仕方すら忘れてしまいそうだった。

 喘ぐように、息を吸って。

 

「あいつらは、地上の人間を穢らわしいものだって思ってるの! 私にすらなんの躊躇いもなく引鉄を引いた連中なのよ!? ギンが、こんなところにいたら、殺されちゃう……!」

 

 一瞬――ほんの一瞬だけ、銀山の視線が、消し飛んだ輝夜の右脚に向けられる。だから輝夜は彼の袖を引いた。強く。そんなの見なくていいから。そんなの気にしなくていいから。こんなの全然平気だから。

 だからお願い、

 

「私は、不老不死だから、大丈夫だから、ね? 逃げて、お願い、私、ギンにもしなにかあったら、本当に、ダメになっちゃうから――」

 

 必死だった。銀山を引き留めたくて、何度も彼の袖を引いて、上手く呼吸ができなくても必死に息を吸って、本当に必死だった。

 

 だって銀山は、既に輝夜を見ていなかったから。

 縋りつく輝夜を、優しく支えてはくれたけれど。その目は、鋭く、月の兵士たちだけを見ていたから。

 

 最悪が輝夜の頭を過ぎる。

 このままでは、銀山が戦ってしまう。

 輝夜のために、戦ってしまう。

 

「ッ――!」

 

 息を呑むような、短い悲鳴が聞こえた。輝夜たちを守っていた永琳の体が突然(かし)いで、そのまま地に崩れ落ちた。

 

「ッ、永琳!?」

 

 まさかやられてしまったのかと、輝夜の体が腑の底まで凍りつく。永琳は、輝夜と違って蓬莱の薬を飲んだ身ではない。銀山と同じで、たった一撃をもらうだけで簡単に命を失ってしまう。

 だが、永琳はすぐに体を起こした。表情に焦りはあるものの、苦悶の色はない。

 ただ、左手に握られた弓が、真っ二つに砕けてしまっている。

 

「……話は終わったかしら? もうそろそろ、時間稼ぎも限界なのだけど」

 

 さすがに余裕を失った、永琳の口早な問い掛けに。

 けれど輝夜よりも先に応じたのは、銀山だった。

 

「――ああ、ありがとう」

「――ッ!!」

 

 声にならない悲鳴が喉を衝く。ダメだと思った。絶対にダメだと思った。月の兵たちを見据え、永琳の代わりに前に立とうとする銀山を、絶対に行かせてはいけないと。

 なのに、輝夜の体は動いてくれない。それが右脚の怪我のせいだったのか、それとも近づいてくる最悪の現実に打ちひしがれてしまったからだったのか、今となってはもう、わからないけれど。

 離れていく銀山の背中を、輝夜はほんの一瞬すら、引き留められなかった。

 

「あ、あ……ッ!」

「……! 待ちなさい、あなたまさか……!」

 

 永琳が咄嗟に声を上げるが、それも届かない。

 離れていく。

 離れていく。

 

「だめ……! だめえッ!!」

 

 叫ぶ。銀山を止めようと、脚を引きずって、必死に手を伸ばした。

 けれど銀山は、最後まで振り向いてなんてくれなくて。

 突如、輝夜と銀山を引き裂くように立ち上がった炎の壁が、輝夜の腕をかすかに焼く。

 

「熱ッ……!?」

「輝夜!」

 

 もう少しで体にも届くかという距離に、永琳に襟首を掴まれ、引き倒される。

 そして――

 

「あ、」

 

 そして、もう、ダメだった。

 燃え盛る炎の壁が隔てる、向こう側で。

 銀山の背中は、もうあまりにも、遠すぎた。

 

「――」

 

 声は出なかった。ただ、すべての感情がまぶたの裏へと突き上がってきて、涙になるのがわかった。

 

「――悪いな、輝夜」

 

 掛けられる声は、優しかった。

 

「私は、あいつらと少し話をしないといけないから」

 

 穏やかで、温かくて、だからこそ、聞くだけで心が悲鳴を上げるようだった。

 

「だから、今のうちに逃げるといい」

 

 首を振る。泣いた。言葉は出てこなかったけれど、輝夜は赤子のように泣いた。

 泣いて、もう前なんて見えなくて、それでも必死に手を伸ばして。

 けれど、届かない。

 あのぬくもりにはもう、届かない。

 

「さあ、これであいこ(・・・)だ、輝夜!」

 

 その言葉が、なによりも辛く、輝夜の心を抉った。

 こんな優しさ、見せないでほしかった。こんな風に守られたくなんてなかった。こんな風に想われたくなんて、なかった。

 あなたに想われなくたって、構わなかった。

 ただ、傍にいてほしかった、だけなのに。

 

「――行け!」

 

 瞬間、銀山の姿が光の中に消える。

 それは、結界だった。空の上で輝く月を、そのまま地上に落としたかのような、銀色の大きな結界だった。

 結界は、銀山と月の兵士たちを内側に呑み込み、輝夜と永琳を外へと弾き出す。

 その時になってようやく――ようやく輝夜は、叫ぶことができた。

 

 

「――ばかあああああああああああああああッ!!」

 

 

 ねえ……ねえ、ギン。

 こんなに悲しくて、こんなに苦しくて、こんなに痛い涙を、流すくらいだったら。

 

 ――私は、あなたに、恋なんてしたくなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 世界が銀に包まれる間際、輝夜の悲鳴を聞いた気がした。

 その世界には天がなく、また大地もない。淡く揺らめく白銀で四方の彼方を囲まれた、光だけの世界だった。

 こうして巨大な結界を作り上げ、己と月の民を閉じ込めることが、決して最善の手でないことは銀山にもわかっていた。わかった上での選択だった。そうするに足るだけの理由が、今の銀山にはある。

 歓迎代わりに飛んできた光弾を、即座に防御の結界を張って弾き飛ばす。だが予想以上に威力があって、激しい衝撃とともに結界が大きく歪んだ。

 

(……)

 

 これが、月の世界の技術なのだろう。見たこともない細い筒から放たれるこの光弾は、並の妖怪なら一撃で葬るほどの威力がある。人間である銀山が喰らえば、さほど苦しむ間もなく死に至るだろう。

 続け様に飛んできた別の光弾が、今度は銀山を大きく外れて、周囲を包み込む銀の結界に撃ち込まれる。だが先ほどとは違い、こちらの結界は揺らめきすらしない。

 銀山は小さく笑い、言う。

 

「無駄だよ。この結界は少しばかり特殊なんだ。私が解こうとしない限りは解けないさ」

 

 銀山の正面に並ぶ、三十に及ぶ月の兵たちの中心で、指揮官と思われる男が苛立たしげに眉を歪めた。

 

「……たかが地上の人間風情が、小癪な真似を」

「そうやって甘く見てるから、一杯喰わされるんだよ」

 

 月の民は地上の人間を穢らわしく思っていると、輝夜は言った。それは紛れもない事実なのだろう。今銀山に向けられる兵たちの視線は、到底人間に向けるものとは思えないほどに冷めていたし、

 

「殺しますか」

 

 そんな問いが、指揮官に向けて当たり前のように飛ばされるのだから。

 男が、頷くのも煩わしいと言いたげに、緩くまぶたを下ろした。

 

「そうだな。この手の術は、術者を殺せば解けるのが通説だ」

「まあ待てよ。少し話を――」

「答える義理はない」

 

 銀山の言葉を一蹴し、静かに振るわれた男の右腕が、部下たちに一斉掃射を命じる。

 そうして放たれた無数の光弾は――しかしすべてが、銀山の横へと外れ、なにもない銀の大地を穿った。

 

「――?」

 

 月の兵たちに動揺が走る。光弾は、まるで見当違いに――撃った本人たちが驚くほどに、的である銀山を外していた。

 言い知れない違和感を探るように、男が苦く口を開いた。

 

「……幻術か」

「ご明察。……だからこれ以上撃つのは勘弁してくれないかな。弾が無駄だよ」

 

 一人、舌打ちをした兵が武器を構え直したが、それを男が制した。部下に目を配り、なにかを確認し合う短い間を見せてから、

 

「……気が変わった。答えよう。あの方のためにここまでして、その上で貴様は、私たちになにを問う」

「……」

 

 銀山は兵たちの動きに深く注意を配りながら、静かに問うた。

 

「……お前たちは、輝夜を月に連れ帰ろうとしている……で、いいんだよな?」

「そうだが、それが?」

「あいつの右脚を吹っ飛ばしてまでするようなことか?」

 

 ふ、と男が息だけで笑う。

 

「不老不死だから、という答えでは不満か」

「ということは、お前たちにとって輝夜は撃ってもいい相手なわけだ」

 

 輝夜の右脚は、決して事故で奪われたわけではないのだろう。

 

「あの方は蓬莱の薬を飲んだ大罪人であり、月へ反逆の意志を示した逆徒でもあるからな。……八意様とは違って、無傷で連れ帰ってこいとは、命令されていない」

「……なら、お前たちはなぜ輝夜を連れ帰るんだ? 罪人だからか? それとも、姫様だからか?」

「否。あの方の存在が、八意様を御するのに必要不可欠だからだ」

 

 男が、嘆くように頭を振った。

 

「八意様は、天才といえば響きはいいが、要は奇人でな。我々には理解できないような実験や発明をたびたび繰り返し、月夜見様も相当手を焼いておられた。……ああ、『理解できない』というのは、なにをやっているのかが理解できないという意味ではない。なぜそんなことをするのかが理解できない、という意味だ。常人とは思考回路が別物なのだよ、八意様は」

「……」

「性格も、蓬莱山輝夜が可愛く見えるほどのわがままだった。自分の興味がないことには目もくれず、生まれ持った才能を己のためだけに使う。自分以外の人間なんてどうでもいいと、一昔前までは本気で思っていたそうだよ。言動こそ物静かだが、昔の八意様は暴れ馬そのものだった。……蓬莱山輝夜に出会うまでは」

 

 一つ、長く、息を吸う。

 

「なにが原因だったのかはよくわからんが、蓬莱山輝夜と出会って八意様は変わられた。誰にも理解されないような独りよがりな研究はやめて、その才能を他人のために使い、月の発展に大きく貢献してくださった。暴れ馬に、轡と手綱がつけられたわけだな。

 ……そして、その手綱を握っていたのが蓬莱山輝夜だった。ここまで言えば、いくら下賎な地上の人間といえどわかるだろう?」

 

 銀山はまぶたを下ろし、ゆっくりと頷く。

 

「……輝夜が月に帰れば、八意永琳も月に帰らざるを得なくなるから」

「そう。……蓬莱山輝夜が地上に堕ちて、八意様は昔の八意様に戻られてしまった。またわけのわからない研究ばかりをして、月の発展に力を貸してくださらなくなってしまった。それでは困るのだよ。

 月の発展には、八意様の頭脳が必要不可欠だ。そしてそのためには、どうやら蓬莱山輝夜の存在が欠けてはならないようなのでな。だから我らは、蓬莱山輝夜を連れ帰らねばならぬのだ。……それこそ、殺してでも、な」

「……」

「もっともあの方は今や大罪人だ。月に帰ったところで、断罪され、真っ当な生活は送れなくなるだろうが……それもまた、八意様に手綱をつける意味では好都合だろうさ」

 

 一度言葉を区切り、男は宣言するように強い声音で言う。

 

「大罪を犯し、地上へ堕ちてその身が穢れてなお、蓬莱山輝夜には利用価値がある。故に彼女を月へ連れ帰るのは、月全体の意思である。

 ……これで、満足か?」

 

 銀山は答えなかった。答えないまま、ただ、小さく頷いた。

 なんとなく……なんとなくではあるが、輝夜がこの地上にやってきた理由を、本当の意味で理解できた気がした。

 証拠や根拠があるわけでは、ないけれど。恐らく輝夜は、地上の世界に行くことを望んで不老不死になったわけではないのだろう。地上の世界に行きたいと、心から望んでいたのではないのだろう。

 彼女が蓬莱の薬を飲んだのは――きっと、月の世界から逃げ出したいという想いの、裏返しだったのだ。

 輝夜はただ、月の世界から逃げ出しさえすれば。それさえできるのならば、堕ちる先なんてどこだって構わなかった。行けそうな場所が地上くらいしかなかったから、ここに堕ちることを選んだのだと、それだけの話。鳥籠の中の小鳥は、そうして大空に恋い焦がれた。

 存在意義を他人から与えられ、他人のために生かされる命なんて、真っ平御免で。

 自分が生きる人生を、紛れもない自分の足で、歩いていきたくて。

 

(そうか……)

 

 噛み締めるように思った。きっと、偶然ではなかったのだ。輝夜との間にあったすべての出来事が、運命めいた一つの必然だった。一度も自分の足で歩いたことがない輝夜と、常に自分の足だけで歩いてきた銀山と。まったく対極の存在である二人は、対極だからこそ、磁石のように互いに引き寄せられた。

 輝夜との出会いも。

 彼女を守り、大伴御行と対峙したことも。

 不器用な手つきで、お世辞にも丁寧とはいえない看病をされたことも。

 なんの前触れもなく、いきなり家に突撃されたことも。

 大きな月の下で、帰りたくないよと、涙を見せられたことも。

 そのすべてが、きっと、必然だった。すべてが、この『今』という時に向かって集約していた。

 だから、銀山は思う。

 

 

(だから私は――ここにいるのか)

 

 

 それは、天啓のように静かな、深い深い理解だった。自分が今ここにいる理由が、今更になって、すとんと胸に落ちてきた。

 初めは、それほど大したことをするつもりじゃなかった。月の民らと少し話をして、輝夜たちが逃げる時間を稼ぐ程度のつもりだった。

 だが、違う。

 銀山がここにいる、本当の理由は。

 

「……さて、与太話は終わりだ」

 

 起伏のない声とともに、男の右腕が浅く掲げられる。構えられた兵士たちの銃身がみな正しく自分を捉えているのに気づいた時、銀山は咄嗟に結界の札を取り出していた。

 目の前に結界を展開する、それとほぼ同時に、激しい衝撃を放って光弾が炸裂する。結界はあわや崩壊寸前というところまで歪んだが、辛うじて防ぎきることができた。

 

(幻術から、自力で脱したか……!)

 

 これが、月の民が銀山の話に応じた真の意図。幻術から抜け出すまでの、時間稼ぎとするため。

 男は薄く笑い、再びその右腕を掲げて言った。

 

「どうやら上手く抜け出せたようだな。……ならば、いい加減に終わりにしようか」

「……」

 

 幻術から自力で抜け出されたのは、随分と久し振りの話だった。ましてやそれを妖怪ではなく人間にしてやられたのは、間違いなく初めてだった。

 

「矮小な地上の人間とはいえ、加減はせんぞ」

 

 終わりを確信した男の声。だから銀山は、静かに拳を握り締めた。静かに、瞳の奥に力を宿した。

 迷いはなかった。つまらないことはすべて忘れようと思った。月の世界のことも、この世界のことも、あの兵士たちのことも、そして自分自身のことすらも。

 

 すべてを忘れて、今というこの時を、輝夜のためだけに刻もう。

 

「そうだな――」

 

 前へ歩を進め、眩い光弾が迫る中を、紡ぐ言葉、鮮烈に。

 この体を縛る(くびき)を解き放つことを、彼はもう、厭いなどしない。

 なぜなら、彼がこの場所にいる、本当の理由は。

 

 

「――私ももう、加減はなしだ」

 

 

 蓬莱山輝夜を、守るためなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、銀の旋風が巻き起こる。炸裂するはずだった光弾をすべて弾き飛ばし、現れ出るものがある。

 月の兵士たちは目を見開いた。その銀が、あまりに大きすぎたから。

 月の兵士たちは言葉を失った。その銀が、あまりに美しすぎたから。

 一つ一つが天を貫くほどに巨大な、銀の光の束は。

 揺らめく十一の、銀の尾は。

 

「――名乗ろう。月の民よ」

 

 それはまるで、銀の龍を従えるかのように圧倒的で。

 響く声はまるで、神に捧げる歌のように清廉で。

 

「私の名は月見。……ただのしがない、なんて言わないよ」

 

 月の兵士たちは、動けない。

 

「銀毛十一尾。恐らくはこの世界で最も太古の、狐たちの祖」

 

 動いてはいけないんだとすら、感じて。

 

「この名を以て、私は――」

 

 ただその銀に、心を奪われた。

 

 

「――私は、お前たちを討とう」

 

 

 いつしか世界には、銀の色だけで満ちていた。

 世界を遮断する銀の壁よりも、より眩く、より美しく、より気高い銀だった。

 

 それが銀に輝く炎なのだと、月の兵士たちが気づくことはない。

 気づくよりも先に、焼き尽くされている。

 

 陽炎すら残さず、指先の爪から、意識の奥底まで。

 すべてが一瞬で、銀に染まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で、世界が燃えている。その炎は、あまりに凄絶に世界を焼いた。

 銀色の炎――己が生み出すことのできる最大火力。それを文字通りの全力で放った月見は、立ち眩みのような目眩を覚えて顔を押さえた。無理もない、と思う。数年振りに妖怪の姿に戻っていきなり最大火力を放てば、目眩の一つくらいも起こすだろう。

 ふふ、と小さく笑う。随分と久し振りの話だった。本気になるのも、この炎を放つのも。

 そして、人を殺すのも。

 

「……ともあれ、これでひとまずは大丈夫かな」

 

 月の民は殺した。これで一時の間、輝夜が月に連れ去られる心配はなくなった。

 だが、このあとのことはわからない。もし月の民から新たな追手がかかった時に、輝夜たちはどうするのだろうか。

 少なくとも、逆徒として月から追われる立場になった以上、輝夜が今までのように『かぐや姫』として生きることはできない。月の民が諦めるまで戦い、或いは各地を転々とし、身を隠し、逃げ続けなければならない。

 そしてその時、『銀山』は、どう輝夜と向き合うべきなのだろうか。

 

「……もしかすると私も、このあたりが引き際なのかもしれないな」

 

 呟き、緩く息を吐いた、直後。

 燃える銀の炎の中から飛び出してきた光弾に、月見の体は、まったく反応できなかった。

 

「――……ッ」

 

 半紙を突き破るように、腹を抉られる。決して見えなかったわけではなかった。妖怪の体に戻った今ならば、さほど苦労せずに回避できるはずだった。それにも関わらず月見が反応すらできなかったのは、銀の炎を放った反動もあったが、それ以上に、よもや反撃されるなどとは夢にも思っていなかったからだ。

 世界を焼く銀の奥から這うように現れるのは、一人の男。月見は口から血をこぼし、片膝を地につきながら、まさかという思いでその男を見つめた。

 

「まさか――あれを喰らって生きてるなんてね」

 

 男の全身は焼けただれ、三十以上いた兵士たちの中の誰なのかすらわからない。だがそれでも、男は命までは焼き尽くされていなかった。赤黒くただれた体に、なんらかの術式が発動した、幾何学模様の跡があった。

 防護の術に頼ったとはいえ、既に致命傷であるとはいえ、人間が、あの炎に耐えた。

 月見は咳き込み、喀血する。妖怪に戻った月見からしてみれば、高々腹を撃たれただけのはずだった。妖怪の回復力を以てして、全快までは無理でも、出血くらいはすぐに治まるはずだった。

 だがこれは、ただ腹に孔が空いただけとは違う。血が止まらない。傷が塞がらない。それどころか、まるで虫に喰われているかのように、じくじくと傷口が広がっていく気さえする。

 ふふ、と身を震わせて小さく笑えば、それだけでまた喉の奥から血があふれる。

 

(……これは、ちょっと、まずいか?)

 

 男の右腕が持ち上がる。石像を無理やり動かすように痛々しい動きだ。恐らく引鉄を引けば、それっきりすべての力を失って絶命する。

 だが――もう一発撃たれてしまうと、非常にまずい。

 

「ぐっ……」

 

 体が動かないのはもちろん、なぜか妖力がまとまらない。防御の結界を作り上げようとしても、そうした傍から妖力が散ってしまって、とても形になってくれない。

 それはつまり、防御も回避もできないということ。笑おうとすれば、声の代わりに血が口からあふれる。血を失うように、己の意識までをも失ってしまいそうになる。

 これもまた、月の技術ということなのだろう。都すべてを覆い尽くす幻術然り、銀の炎を耐え抜く防護術然り、傷の回復を妨げ妖力の巡りを阻害する、あの光弾もまた然り。

 大妖怪をたった一発の攻撃で追い詰める、まるで途方もない月の技術を以て。

 そして男が、引鉄を引いた、

 

「――……」

 

 はず、だった。男の右腕が、構えた武器ごと、放った光弾ごと、根本から消滅していた。

 声が、聞こえる。

 

『――ねえ、なにしてるの?』

 

 琴を鳴らすように、張りのある強い声だった。呆然と動きを止めた男の頭上で、音もなく静かに空間が裂ける。裂けた先に見えるモノ――赤黒い瞳が無数に散らばる異空への入口を見て、月見は静かに、内心で苦笑いをした。

 若くして『境界の妖怪』と名を知らしめる少女が使うそれは、内部に無限の体積を持ち、また物理的距離を無視して空間を最短接続できるという、誰しもが羨む便利な技であり。

 

 ――同時に、呑み込んだ異物を亜空の彼方へと葬り去る、魔物の顎門である。

 

 少女の声が、鳴る。

 

『――私の大切な友達に、なにしてくれてんのよ』

 

 ――ばくん。

 

 それで終わりだった。体の大半を喰われ、支えるものを失った二本の足首だけを残し、男は異空へと消えた。

 体に刻まれた防護の術式など、なんの意味も為さなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「月見――――ッ!!」

 

 大慌てで駆け寄ってきたその少女を、月見は口元だけで微笑みながら迎え入れた。輝夜よりも一回り幼い、鮮やかに冴えた金髪を揺らす少女だった。

 境界の妖怪、八雲紫。可憐な見た目でありながら強大な妖怪でもある彼女は、月見が都での生活を始めるまで、ともに世界を旅していた友人だ。以来は別行動となり疎遠になっていたのだが、この月見の窮地に、どこからかわざわざ駆けつけてきてくれたらしい。

 彼女のスキマの前では、結界など、あってないようなものだ。月見は血がいっぱいに広がる口を動かし、

 

「久し振りだね、紫。少し背が伸びたか?」

「あ、そうそう、そうなのよ。これで私もまた一歩、大人の女性に近づいてってそんなの今はどうでもいいでしょ!? お腹、大丈夫なの!?」

「や、大丈夫じゃない」

「大丈夫じゃないの!? ちょちょっ、傷口見せなさい今すぐっ!」

 

 月見は全身から力を抜いて、どさりと真後ろに倒れ込んだ。紫の布地のようにきめ細かな指が、おっかなびっくりと月見の傷口に触れて、

 

「ッ――月見、今すぐ治療するわよ! この傷口、変な術式が混じってる!」

 

 顔を真っ青にして叫ぶ紫を見て、ああやっぱりそうなんだな、と月見は思った。

 じくじくと、傷口が痛む。

 

「こんなの初めて見る……! なによこれっ、わけわかんないっ……!」

 

 涙の一つでも流しそうになりながら、紫が叫んだ。

 

「とにかく治療っ! 大丈夫よ月見っ、私の能力の限りを尽くして、絶対に助けてみせるから!」

「ああ、悪いけど頼むよ――って待て待て、なんでいきなりスキマを開く!?」

 

 突如真下に開いたスキマに吸い込まれそうになって、月見は慌ててその縁を掴んだ。見下ろせば、そこには赤黒い瞳で埋め尽くされた無限の亜空間が広がっている。ひとたび落ちてしまえば、もう月見の力ではここには戻ってこられない。

 紫が、月見の体にしがみついて声を上げた。

 

「私の屋敷に行くからに決まってるでしょ!? じゃないと、ちゃんとした治療ができないじゃないの!」

「ちょっと待った、結界の外に待たせてるやつが」

 

 行け、とは言ったが、きっと輝夜は結界の外で待っている。きっとその場を一歩も動かずに、月見の無事を祈り続けている。

 だから、まずはなによりも、輝夜に無事を伝えなければならないのに。

 

(ッ……)

 

 視界が恐ろしいほどに揺らいだ。天地が引っ繰り返ったを錯覚するほどだった。

 自分以外のものが、いきなりなにもわからなくなる。自分の手が未だスキマの縁を掴んでいるのかどうかすら、知覚できなくなる。

 

「月見……? ちょっと、ねえ大丈夫!?」

(……や、これはちょっと、ダメみたいだ)

 

 口を動かしたが、言葉にはならなかった。目の前は、もうとっくに真っ暗になっていた。

 

「ッ……ほら、手離して! 行くわよっ!」

 

 叫ぶ紫の声は、もう泣き出す寸前にまで張り詰めていて。だからなのかはわからなかったけれど、月見はそれ以上、彼女に抵抗することができなかった。

 指はあっさりとスキマの縁を離れ、体は異空の底へと落ちていく。

 頑張って、頑張ってと、紫の叱咤に耳を叩かれ、意識を失うことこそなかったが。

 もはや心の中で輝夜に詫びることすら、できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――銀の結界が消えれば、そこに残る人影はなにもない。

 月の兵士たちも、輝夜を助けてくれた彼の姿も、ありはしない。

 

 ただ、あの時彼が立っていた場所に、身も凍るほどの血の跡が、残されていたから。

 だから、輝夜は泣いた。今までの人生で一番、声を上げて泣いた。

 気を失うまで泣き続けることが、死んでしまいそうなほどに苦しくて。

 

 それでも死ねない自分を、生まれてはじめて、憎いと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。