銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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竹取物語 ⑦ 「夜を歩く」

 

 

 

 

 

 朝目を覚ましたら、少しだけ汗をかいていた。それを夏の朝だと思いながら、銀山はゆっくりと体を起こした。このところどこか肩肘の張っていた目覚めのあくびは、今日は中空に溶けていきそうなほどに柔らかかった。

 体の痛みが取れている。

 

「……うん」

 

 両腕を上に挙げ、背伸びをすれば、上半身の筋肉が張っていく感覚。それを噛み締めるようにしながらゆっくりと腕を下ろし、深呼吸をする。まだ多少、違和感こそあるが、目立った痛みはなかった。

 試しにすっくと立ち上がってみる。途端に立ちくらみを起こして、銀山は膝に両手をつきながら、吹き出すように笑った。長らくろくに動いていなかったせいで、体はすっかり鈍ってしまったらしい。

 人間の体は大変だね、と自分だけに聞こえる声で呟いたあとで。

 今度はそれを振り払うように、息を吸って、

 

「……治ったかな」

 

 傷に当てていた布当てを外していく。まだ傷の痕跡は残っていたし、人間の体である間は消えてなくなることもないだろうが、些細なことだった。軽めの体操をしても問題はないから、これ以上ここで世話になる必要はないのだとわかればそれでいい。

 指先のほんのかすかな動きまで、すべてが自分のところに戻ってきたのを確かめながら。

 

「よし、全快だ」

 

 最後にもう一度だけ背伸びをして、長らく世話になった第二の我が家をあとにする。

 青以外の色を知らない夏空の下、自分の思うがままに歩き回れることを、銀山は改めて、幸せなことだと思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 怪我が治った以上、これ以上ここで世話になり続けるわけにもいかないので、すぐに下町へと戻るつもりだった。

 ところが、これに輝夜が猛反対した。怪我も治ったし家に戻るよ、と伝えたところ、目に見えて慌てた様子で、

 

「帰っちゃうの!? ……そ、そんなのダメよ!」

 

 そして、家族会議になった。もちろん銀山は輝夜の家族ではないが、とかく銀山と輝夜、そして翁が一堂に会して、今後の生活について話し合うこととなった。

 初日に翁と初めて顔を合わせた場所である応接間にて、まず輝夜がはっきりと手を挙げて言う。

 

「私は反対です!」

「私は、門倉様のお好きなようになさればいいと思いますよ」

「じゃあそういうことで。お世話になりました」

「ちょっとー!?」

 

 家族会議は一瞬で終了した。賛成二、反対一、多数決により銀山の勝ち。

 輝夜が床をビシビシ叩いて喚いた。

 

「ま、待ちなさい! ギンはまだ病み上がりなんでしょ!? あんまり無茶しちゃダメよ!」

「別に、ただ下町に戻るだけじゃないか。無茶もなにもないよ」

 

 それに、下町の家のことが少し気になる。この都は外に比べれば治安はいいが、それでも物取りとまったく無縁というわけではない。今は秀友たちが見てくれているそうだが――否、見てくれているからこそ、怪我が治った以上は早く戻らねばと思った。

 

「私は気にしないのに……」

「お前が気にしなくても私が気にするんだよ。だからさすがにそろそろ戻らせてくれ。あれこれ盗まれて生活が成り立たなくなってたら困るからね」

「だ、だったら」

 

 やや躊躇う色があったが、それでも輝夜の言葉は早かった。頬をほのかな朱色にして、縮こまり、

 

「だったら、ずっとここにいればいいじゃない……」

「……」

 

 いや、なにが『だったら』なのかいまいちよくわからないのだが、そんなことよりも。

 

「……」

「……」

 

 静寂。銀山と輝夜が、ぽかんと呆けながらお互いを見つめ合っている。銀山はもとより、輝夜もまた、自分の口から出てきた言葉に驚いているようだった。

 ただ一人、翁だけが、いつも通りの人のいい笑顔で笑っている。

 大伴御行の襲撃事件を境にして、輝夜からの態度が少しずつ変わりつつあるのには気づいていた。そしてその理由がなんであるのかも、以前翁にからかわれた一件もあって、今となっては認めざるを得ないものがある。

 だがそうだったとして、彼女の想いに応えることはできないだろうと銀山は思う。無論、それにはいくらか理由があるが、一番大きなものは、やはり自分が人ではないことだった。

 輝夜の想いは、『人である』という銀山の嘘の上に成り立ったもの。真実を明かせば、嘘とともに崩れて消えてしまうもの。それは、まやかしなのだと、銀山は思う。

 だが、かといって正直にすべてを話す気にもなれなかった。嘘をつくことへの背徳と、この都で生活し続けること。両者を天秤にかければどちらに軍配が上がるかなど、わざわざ考えるまでもないほどに明白なのだ。もし天秤が背徳の側に傾くのなら、月見(・・)は初めからここにはいない。

 ふとしたように、ガタン、と小さな物音が鳴った。銀山はゆっくりと、輝夜は弾かれたように素早く、その方を見る。

 応接間の外から鳴った物音は、すぐに何者かが走り去っていく足音に変わって、

 

『み、みんなー! 姫様が、姫様が遂に門倉様にーっ!』

『『『な、なんですってー!?』』』

「盗み聞きしてたなあああああ!? ちょっ、待て! 待ちなさあああああいっ!!」

 

 輝夜が怒り狂って応接間を飛び出していった。

 女中たちがきゃーきゃーと騒ぐ黄色い声に、一人、輝夜の喚き散らす声が混じって、結果的に馬鹿騒ぎとなって屋敷中に響き渡る。時折突き抜けて聞こえてくる、輝夜が茶化されたり祝福されたりする言葉から、銀山は努めて耳を逸らすことにした。この騒ぎが、屋敷の外まで聞こえていないことを切に祈る他ない。

 翁はあいもかわらず好々爺の顔でこちらを見つめているが、そんな目をされても困ると、銀山は内心で苦笑する。

 

「輝夜は、本当に元気になりました」

「見ればわかります」

「ええ。……どうですか? 輝夜の言う通り、ずっとここで暮らしてみては?」

「ご冗談を」

 

 翁が意外に茶目っ気のある性格であることは既に知っているが、それにしても彼の言葉は、本気なのか冗談なのか区別をつけにくい。幸い今回は(・・・)冗談だったようで、翁は笑みの吐息をこぼしながら、一つ大仰に頷いた。

 

「もちろん、それは門倉様のお好きなように」

 

 好きなように――つまり翁は、こちらがここで暮らすことを選んだとしても、もはや拒みはしないのだろう。銀山はぼんやりとそう思ったが、口には出さなかった。

 

「……ああ。ですが、できることなら、一つだけお願いしたく思います」

 

 そして、これから言われる言葉は恐らく冗談ではない。はてさてなにを言われるやらと、銀山は静かに身構えた。

 

「なんでしょうか」

「これからも、ふと思い出しては、輝夜に会いに来ては頂けないでしょうか」

 

 それは、嘆願するように。

 ――或いは、手紙だけでも構いません。これで門倉様との関係が終わりとなってしまっては、輝夜はきっと、また塞ぎ込んでしまうでしょう。

 

「ですから、どうか」

「……」

 

 翁の言葉の意味は、よくわかる。打ち解けた相手とぱったり会えなくなってしまったら、誰だって寂しいと思うだろう。

 だが銀山は、頷くでも首を振るでもなく、ただ、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。恐らく、気のせいではないのだろう。

 間違いなく、翁は――外堀を埋めようとしている。

 

 

 

 

 ○

 

 

 一週間、と輝夜は言った。毎日とは言わないから、せめて一週間に一度くらいは、会いに来てほしいと。

 銀山は、善処はする、とだけ返した。銀山が再びこの屋敷を訪れられるかどうかは、正直なところ都の男たちの動向次第だ。何事もないようなら大丈夫だろうし、不穏な空気があるならば、素直に大人しくしておく必要がある。そしてそれは、実際に下町に戻ってみないことにははっきり言えない。

 結果を言えば、銀山が恐れていたほどのことは起こらなかった。もちろん、嫉妬の視線がまったくなかったわけではないが、銀山を爪弾きするような露骨な歓迎もまた、なかった。

 ひとえに、町の人々と上手い関係を築けていたからだろう。陰陽師の仕事に囚われず色んな人たちの相談を聞き、世話を焼いているうちに、町の小さな御意見番として頼られるようになった恩恵だ。かぐや姫を妖怪の魔の手から見事救ってみせた、などと脚色された英雄譚が、ところどころで噂になっているらしい。嫉妬故に男からの相談が減るのは避けられなかったが、代わりに、女から頼られることが増えたので。

 詰まるところ銀山の生活は、あくまで表面上では、今までとさほど変わりないのだった。

 

「まーよかったじゃねえか。オレはもう、お前さんはこっちに戻ってくるなり嫉妬に狂った野郎どもから袋叩きにされるもんだと、諦めてたんだけどよ」

「……ご期待に添えなくて悪かったね」

 

 幸い家の物が盗まれることもなく、この日は銀山宅で回復祝い。我が物顔で胡座をかき酒を呷る秀友に、銀山は軽いため息を返した。そのあとで息を吸うと、強い酒の匂いが鼻の奥を突く。脳まで広がっていきそうな香りはとても芳醇で、しつこすぎるくらいだ。

 秀友は大して酒に強くもないのに飲兵衛だし、辛党でもある。お前の全快祝いだと言って持ってきた酒はまた随分なもので、恐らくは鬼たちの前に出しても好まれるであろうほどの辛口だった。

 

「秀友さあん、ちょっと呑み過ぎじゃないですかー? もうこっちまでお酒の匂いがすごいですよう……」

 

 銀山の隣で、雪が鼻を詰まらせたような声で言った。彼女もそれなりに酒を嗜む方だが、さすがにこれは強すぎるらしい。夫ではなく銀山の隣に座っているのも、酒の匂いから少しでも離れるためだろう。

 そんな雪の控えめな非難を、秀友は呵々と笑いながら受け流した。まるで鬼と一緒に呑んでいるみたいだと銀山は思う。もし秀友の頭にいつの間にか角が生えていたとしても、銀山も、そして雪も、驚きはしないだろう。

 三人だけの小さな宴会を始めてから大層夜も深まったが、秀友の口数だけが一向に衰えない。新しく猪口に酒を注いで、それを一瞬で空にすると、

 

「しっかし、これからほんとにどうすんだよ? かぐや姫サマとは、もうこれですっぱりお別れか?」

 

 秀友が口を開くたび濃くなる酒の香りに、銀山は顔をしかめながら、どうなのだろうなと考えた。ただ、今まで通りの関係を維持するのは無理なのだろうとは思う。銀山に向けられる嫉妬の感情は、表沙汰にこそなっていないが、水面下ではそれなりに多い。謂わば、器いっぱいまで注がれた嫉妬の感情が、表面張力によって辛うじてこぼれないでいるようなもの。ちょっとでも余計なことをしてしまえば、すぐにでも爆発するだろう。

 なので、

 

「まあ……ほとぼりが冷めるまで、しばらくは様子見かな」

「うーん、やっぱりそうなっちゃいますよねえ……」

 

 雪が、少しだけ残念そうな顔をした。

 

「なんとかなりませんかねえ。せめて手紙だけでも、とか」

「どうかなあ……。人によってはそこまで嗅ぎ回ってるやつもいそうだから、侮れないね」

 

 もはや、一種の信仰なのだろう。それほどにまで『かぐや姫』の名は世に知れ渡り、男たちから支持されている。たった一枚の手紙ですら、今の銀山にとっては危険な代物だった。

 

「甘い、甘いぜギン! 男たるもの、世界のすべてを敵に回してでもお前を手に入れる! くらいの気概は見せないと」

「話の趣旨を欠片も理解してない秀友さんはさておき、ほんとになんとかなりませんかねえ」

 

 床に拳を落として熱弁する秀友を当然のように無視し、雪は首を斜めにした。なんとかならないかなあ、という気持ちは銀山も同じだ。……もっとも銀山の『なんとかしたい』は、雪のそれとは少しばかり異なるのだが。

 雪が輝夜を応援する立場を取っていることには、銀山も既に気づいている。

 

「憎いっ。銀山さんと秀友さんと、造様のお屋敷の方々以外の、すべての男たちが憎いですっ。乙女の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじまえですっ」

 

 雪が都を滅ぼそうとしている。

 

「私と秀友さん、そして銀山さんと姫様たちとで、どこか遠くの人里で静かに暮らすってのも、素敵かもしれませんよねえ」

 

 雪は、酔っているのかもしれない。

 

「馬に蹴られて死んじまえーっ!」

 

 絶対に酔っている。

 少しこめかみが痛む感覚を覚えながら、銀山は天井を振り仰いだ。とりあえずはしばらく様子見をするよと、輝夜に伝えた方がいいとは思う。だが直接会うのは言語道断、代理を立てるのも、手紙を出すのにも危険がつきまとう。言伝用の式神を放つという手もあるが、それすらも不安になってしまうのが、今の銀山を取り巻く状況だった。

 こめかみが痛むのは、きっと酒が強すぎるせいだろう。

 

 結局このあとは、秀友も雪も酔ってしまって、話が進まなくなったので。

 銀山も潔く酔って、すべての現実から、束の間だけ目を逸らすこととした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 二週間が過ぎた。

 

「……来ない」

 

 蓬来山輝夜は苛立っていた。銀山がこの屋敷を去り、今まで通りの平穏で退屈な日々が戻ってきて、しばらくが経ったが。

 

「なんで会いに来ないのよっ……ギンの、バカ――――ッ!!」

 

 想い人からの音沙汰が、一向にない。

 初めの一週間をそわそわと、次の四日をしょんぼりと、そのまた次の三日をいらいらしながら待ち続けたが、いよいよ輝夜の我慢は限界だった。会いに来るのはもちろん、まさか手紙の一つすら送ってもらえないだなんて、夢にも思っていなかった。

 部屋の床を、八つ当たり気味にバシバシ叩く。すぐに掌が赤くなったので、くううと唸りながら叩くのをやめる。

 

「せっかくこの私が、来てもいいって、言ったのにっ……」

 

 苛立ちとか、悔しさとか、寂しさとか、様々な感情が渦を巻いて、なんだか一暴れでもしたい心地だった。

 どうして会いに来てくれないのだろうか。輝夜は考え、やがて掌の赤みが治まってきた頃に、ぽつりと呟く。

 

「なにかあったのかな……」

 

 銀山は、善処はすると言っていた。つまりは、善処していても会いに行けなくなってしまうほどの、なにか大きな出来事があったのだ。

 

「仕事が忙しいのかしら」

 

 会いに行くような時間も作れないほど。でも、それならそうと手紙くらい出してくれてもいいじゃないか。手紙を書く暇すらないほど忙しい、というのは、いくらなんでもありえない気がする。

 ならば、

 

「忘れてるってことはないわよね」

 

 ないだろう。銀山は、人との約束を簡単に忘れてしまうほど不誠実な男ではない。

 

「じゃあ、家の方でなにかあったとか」

 

 例えば、物取りに入られていたとか。……けれど、二週間も音沙汰を寄越さない理由としては、弱すぎる気がする。

 銀山の性格を考えれば、約束を破って二週間もだんまりなのは明らかに異常だ。他にもっと、本当にどうしようもないくらいに、やむを得ない事情があるに違いない。

 ふと、気づく。

 ――異常?

 

「ま、まさか……! 傷が開いたとか、なにか病気したとか!?」

 

 はっとして輝夜は立ち上がった。そうだ、どうしてこの可能性を考えなかったのだろう。屋敷を去る時、銀山はもう怪我は大丈夫だからと何度も繰り返していたが、あれが事実である証拠なんてどこにもない。むしろ、これ以上輝夜たちの世話になるのは申し訳ないと思ってついた嘘である可能性の方が高い。屋敷を出て、家へと戻り、そしてまた床に伏した――なんて話は、銀山ならば、とてもありえそうではないか。

 こうしてはいられなかった。すぐに確認しなければいけないと思った。だが、どうやって確認すればいいのだろうか。遣いを出すというのが常套手段だろうが、出したところで銀山は嘘を貫き通しそうな気がする。やはり、半ば強引にでも、自分の目でしっかりと確かめた方がいい。

 だがまさか、かぐや姫である自分が、自ら銀山の家を訪ねるなんて真似はできないし――

 

(……ちょっと待ってよ?)

 

 はたと、輝夜は思う。今しがた心で考えた言葉を思い出し、慎重に吟味する。

 ――自ら銀山の家を訪ねるなんて真似はできない。

 なぜだろうか。なぜ輝夜は、初めからできないなんて言い切ったのだろうか。

 別に、

 

(……別に、私の方からギンのとこに行っちゃいけない理由なんて、ないんじゃない?)

 

 いいじゃないか、会いに行ったって。向こうから来てくれないのだから、こっちから行く。なにもおかしくはない、誰だって普通に考えることだ。

 銀山がどこに住んでいるのかは、かつてここで話し相手を務めた時に上手く聞き出せている。だから輝夜は、行こうと思えば、行けるのだ。

 もちろん、かぐや姫の立場はまるっきり無視できるわけではない。表立って会いに行ってしまうと大騒ぎになるだろうから、誰にも知られずにこっそりとでなければなけない。

 だがそれさえできれば、なにも問題などありはしない。

 輝夜の方から、銀山に、会いに行ける。

 

(……)

 

 何気なく考えてみたら、もう止まらなかった。――ギンはどんなとこに住んでるのかしら。普通の家だって言ってたけど、下町の普通の家ってどんななのかしら。どんな生活をしてるんだろう。部屋は綺麗に片付いてるのかな。散らかってるかな。意外に私みたいにぐーたらだったりして。家では本をよく読むって言ってたっけ。どんな本を持ってるんだろう。そういえば一人暮らしだから、料理もするんだろうなあ。ギンは、普段はどんなご飯を食べてるのかなあ。

 そうやって色々なことを考えると、なんだか落ち着かなくなってしまった。銀山の家に行く。たったそれだけのことなのに、なんだか世紀の大冒険に臨もうとしている冒険家の心地だった。

 わくわくする。

 会いたい。

 ギンに、会いたい。

 

「…………よし」

 

 輝夜はしばらくの間、真剣な表情でなにかを考えて、やがて頷きとともに動き出す。

 己の立場は重々承知している。だから銀山の家へ行くためには、入念な前準備が必要だ。人通りの少なくなる時間。人の目につきにくい裏道。下町の人たちに紛れ込むための背格好。すべてを完璧に調べ上げなければならない。

 けれど最悪、輝夜には『能力』がある。疲労が激しいから普段はまず使わないのだが、今は存分に利用してやろうとすら思っていた。

 大丈夫だ。

 いける。

 両手の拳をぐっと握り締めて、ふん、と気合を入れて。

 

「……蓬莱山輝夜、突撃します」

 

 かくして輝夜は、夜を歩く。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月の見える夜は好きだ。それは、元々の性格なのか、己の正体が人でないからなのか。たとえ人間になっている今であっても、こうして青白い光を浴びると、銀山の体には確かな力が満ちるようだった。

 家の屋根に寝転がってのんびりと見上げる月は、今宵はいつもより白い。叢雲に隠れながら、怯えるように淡く輝く月を見ると、決まって己のことを考える。

 心の中で自問する。――私は一体、どうやってこの都を去るべきなのだろうか。

 門倉銀山は人間ではない。遠い昔からこの世界で生き続けている、狐の大妖怪だ。本来であれば人に恐れられ、また疎まれるはずの存在だった。

『人化の法』を大成させ、限りなく完璧に近い形で人間たちの中に紛れることができている。けれど本質が妖怪である限り、決して人間と同じように生き、同じように死ぬことはできない。妖怪と人間の間にある絶対的な寿命差は、やがて銀山の正体を明るみに出すだろう。この都で生活を始めて数年、銀山の体は未だ、あの時から微塵も老いていないのだから。

 さすがに、人間の『老い』まで再現することはできなかった。

 今はまだ、大丈夫だけれど。けれどいつかは必ず、限界が来る。

 そしてその『いつか』が訪れた時、銀山は、どうするべきなのだろうか。

 

「……ふふ」

 

 自業自得だよなあ、と自嘲する。人の世界に深く入り込めばこうなってしまうと、初めから予想はしていたはずだった。だがその程度で、人間と一緒に生きてみたいという想いを抑えることはできなかった。

 銀山は、人と深く関わりすぎた。秀友、雪、下町の人々――そして、輝夜と。こうなってしまえばもう、『いつか』別れる時には、それなりの手段を取らなければならない。

 ちょっと旅に出ることにしたとか、そんな取ってつけたような理由では、彼らは納得してくれないだろう。秀友なんて、「じゃあオレもついてくぜ!」なんて言い出すかもしれない。

 己の正体を隠したまま綺麗にみんなと別れることなど、できるのだろうか。

 

「ああ、悩ましい悩ましい」

 

 そう言いつつも、銀山はくつくつと声を押し殺しながら笑った。贅沢な悩みだった。妖怪だけの世界では決して生まれようのないこの悩みを、とても幸せなものだと感じていた。

 この都で人として生きてみると決めた時、かつてともに旅をしていた少女からは、耳が痛くなるほどの猛反対を食らったけれど。

 

「やっぱり、ここに来たのは正解だったなあ……」

 

 粉雪のように、心に染み込ませるように、呟く。

 きっと世界の妖怪たちは、人間とともに人間として生きる銀山を、頭のおかしなやつだと笑うだろう。

 そして銀山は、そうやって笑う彼らを、笑うだろう。

 

「いいもんだよ、人間も」

 

 妖怪と人間がともに暮らせる理想郷を創りたいと、夢描く少女がいるように。銀山は、人間と一緒に生きていきたいと、思う。

 いつかこの都を去ったあとも、きっと自分はなにも懲りることなく、なにも変わらずに、人間とともに生きていくのだろう。

 月に向かって呟く、

 

「それにしても、本当に一体どうしたものか……ん?」

 

 その時、銀山は屋根の下からかすかな物音を聞いた。家の戸を、何者かが控えめに叩く音だった。

 夜は既に更けている。特に親しい間柄でない限り、人の家を訪ねようと思う時間ではない。

 丁寧に戸を叩いた時点で不審者ではなかろうが、念のため、銀山は屋根の縁から下を見下ろしてみる。戸の前に、黒一色の外套で体を、そして深く被った笠で頭を隠した人物が佇んでいる。誰なのかはもちろん、ここからでは性別すらも判断できない。

 

「……?」

 

 秀友や雪ではないだろう。彼らならば、わざわざあんな回りくどい格好をしてやってくる理由がない。雨が降っているわけでもない夏の夜だ。あのような出で立ちで出歩くとなれば、必然、

 

(……夜に紛れている)

 

 人に姿を見られたくないような、後ろめたい理由がある。詰まるところ、不審者だった。

 

(はて)

 

 当てが外れて、銀山は静かに小首を傾げた。ひょっとすると依頼だろうか。あまり表沙汰にしたくない悩みを抱えた誰かが、人目を避けるためにこの時間を選んでやってきた――という線は、ゼロではなさそうだ。

 だが、

 

「ちょっと、ギンー……いるんでしょ、開けてよー……」

「――……」

 

 か細く響いた、そんないかにも寂しそうな少女の声を聞いて、銀山はふっと海に行きたくなった。いや、別に海でなくてもいいのだが、とにかくここでないどこかに行ってしまいたいなあという、とてもわかりやすい現実逃避だった。

 ああ、もう。

 銀山のことを『ギン』と呼ぶ女なんて、この世で一人しかいないじゃないか。

 

「ギンー……ギーンー……」

 

 そのうち、声が捨てられた子猫みたいな有り様になってきたので、銀山は腹を括ることにした。どうして彼女がここに、しかもたった一人でやってきたのか、銀山には到底理解しがたかったが、ともかく戸を叩かれた以上は無視するわけにもいかなかった。もしこの場に偶然誰かが通りかかって、輝夜の正体に気づいてみろ。――ちょっとかぐや姫様こんなところでなにやってるんですか。……へえ、ここに住んでるやつに用があるんですか。ところでここはあの陰陽師野郎の家ですねえ。へえ、ということはわざわざあいつに会いに来たわけですか、お一人で。お一人で。へえ。へえー。

 せっかく収まりかけてきている男たちからの嫉妬が、また元通りになってしまう。

 とりあえず人目につかないところで、事情を搾り出さなければならない。銀山は痛むこめかみを押さえながら、屋根の上から飛び降りた。

 

「ひっ!?」

 

 驚いた輝夜が、転がるように後ずさりをする。途端に、体勢を崩して尻餅をつきそうになるが、両手をわたわたと振ってなんとかこらえ、

 

「な、なんだギンか……。おどかさないでよ」

 

 夜の帳が落ちた中であっても、一目見るだけではっきりとわかる。平民たちの間で好んで着られている質素な胡服を身にまとい、外套を羽織ったところで、かぐや姫の存在感は掠れすらしない。笠の下から覗く相貌は、どこからどう見ても、間違いなく蓬莱山輝夜なのだった。

 銀山のこめかみの痛みがますます鋭くなった。

 

「……ちょっとこっち来い」

「え? きゃっ」

 

 輝夜の細い腕を引っ掴んで、半ば強引に家の中へと引きずり込む。この時間帯であれば他に来客が来る可能性もなかろうから、こここそが最も人目につかない安全地帯だった。

 玄関先で目を白黒させている輝夜に、銀山は振り向いて。

 

「……なにか用か?」

「あ、そうそう」

 

 パン、と両手を合わせた輝夜の仕草は実にあっけらかんとしている。彼女は特別緊張した風でもなく、まるでなんてことはない当たり前のことを告げるように、

 

「いつまで待ってもギンが来てくれないので、私の方から来てみまし――ちょっとなんでそこでため息つくのよっ! 失礼でしょ!?」

 

 ため息の一つくらいはつきたくなると銀山は思う。つまり輝夜がここにやってきたのは、銀山個人に対する完全な私用というわけだ。極端に言ってしまえば、下町の男たちが輝夜を一目見ようとしては、彼女の屋敷の周囲をうろつくのと同じ次元である。

 輝夜が、不満そうに唇を尖らせて銀山の袖を引っ張った。

 

「どうして会いに来てくれなかったのよっ。私、ずっと待ってたんですけどっ」

「……それは、悪かったね」

 

 結局銀山は、下町に戻ってきてから一度も輝夜と連絡を取り合っていなかった。もちろん故意ではなく、それだけ周囲の男たちの目が油断ならなかったということなのだけど。

 すると輝夜は、なぜか得意げに胸を張って、

 

「だから、私の方から会いに来てあげたってわけ! 屋敷ではひきこもりなんて言われてるけどね、私だって一人でお出掛けくらいできるんだからっ」

 

 どやあ。

 とても偉大なことを成し遂げた冒険家のように威張る輝夜を、失礼ながら銀山は、張っ倒してやりたかった。女相手に手を上げる趣味はないので、自重するけれど。

 心の中に込み上がるえも言われぬ気持ちを、ため息とともに外へと吐き出す。

 

「あのな……この状況を他人に見られたら、一体どんな騒ぎになると思う?」

 

 かぐや姫の方から会いに来てくれたというのは、ひょっとしなくてもとても名誉なことなのだろう。だがそれはあまりに名誉すぎて、他の男たちに知られたら都中を巻き込む大戦争が勃発する次元である。とても銀山一人の身に負えるようなものではない。

 輝夜だってそんなのは望んでいないだろうに、なのに彼女はころころと笑うだけだった。

 

「大丈夫大丈夫、人っ子一人とも会わなかったから」

「私がこの都にいられなくなったら、一体どうしてくれるんだい……」

「そうね、その時は……」

 

 輝夜は恥ずかしそうに身を縮めながら、照れ隠しの笑顔で、

 

「その時は、私が拾ってあげるから。心配しないで」

「……」

 

 いや、それはまったく根本的な解決になっていないというか、解釈の仕様によってはとても恥ずかしい言葉に聞こえるというか。

 輝夜もそれを自覚していたのか、段々とりんご色になってくる頬を誤魔化すように、ぱたぱたと両手を振った。

 

「そ、それよりも! 連絡がなかった理由って、傷が開いたとかそんなんじゃないのよね!? 怪我、本当に大丈夫なの!?」

 

 彼女の問いに答えぬまま、銀山は緩くため息をついた。ここで断固として首を縦に振らず、輝夜を追い返すのは容易い。むしろ面倒事を避けるためには、なるべく早くそうすべきだというのもわかっている。

 けれど一方で、まあそこまでしなくてもなんとかなるんじゃないかなあ、と事態を楽観している自分がいるのだから甘いものだ。

 

「ね? 二週間も会えなくて寂しかったのよ。だからほら、少しでいいから、お話しようよ」

 

 そんな風に言われたら、とてもじゃないけど追い返せないなあ、なんて。

 ため息をつく相手は、一人でここまで会いに来た輝夜の暴挙ではなく、それすらも受け入れようとしている己の甘さ。喉の奥でくつくつと飲み込むように苦笑して、銀山は履物を脱いで家の中へと上がった。

 

「立ち話もなんだ」

 

 振り返り、

 

「上がっておいで」

「あ……う、うん!」

 

 促せば、輝夜が満面の笑顔を咲かせて、履物を放り投げるように脱ぎ捨てる。それを行儀が悪いと言ってたしなめ、しっかりと靴先を戸に向けて揃えさせて。

 それからふと、こめかみの痛みがいつの間にか治まっていることに、気づいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 二週間振りに過ごす銀山との時間は、憎たらしいくらいにあっという間に終わってしまった。時間が時間だから長話をするわけにもいかず、話をしていたのはほんの一刻ほどだった。

 今までの人生で、一番短くて、一番幸せな、一刻だった。屋敷に戻れば、きっと輝夜は翁に雷を落とされるだろう。でも全然大したことはない。翁の雷程度でこの一刻をまた過ごせるのならば、きっと輝夜は何度でもこの家を訪れる。

 本当は、このまま銀山と一緒に、夜を明かしたいくらいだったけれど。

 

「……それじゃ、そろそろ帰るわね」

 

 でも銀山はそれを望んでいないから、素直に帰るのが『いい女』だ。輝夜のささやかな目標である雪なら、多少別れが寂しくとも、綺麗に笑って綺麗に別れる。だから輝夜だって、そうするのだ。

 

「送っていくか?」

「いいわよ、そんなの」

 

 当たり前みたいにそう言ってくれる銀山を、やっぱり優しいなあ、と輝夜は思う。輝夜と一緒に外を歩いて、誰かに見つかりでもしたら困るのは銀山なのに。

 

「しかし、一人歩きは危険だぞ?」

「心配してくれてるの?」

 

 そう問い返すのは、きっと卑怯なのだろう。けれど銀山は、迷う素振りも見せずに頷いてくれる。

 

「当たり前だろう」

 

 ああ、もう。なんか、もう、めちゃくちゃ嬉しい。笑ってしまうくらいに嬉しい。そんな言葉を、そんなにまっすぐな目で言われてしまったら、色々なものがダメになってしまいそうだった。彼の傍から、離れられなくなってしまいそうだった。

 でも、ここでその感情に甘えてしまうのは、弱い女のすることだから。

 

「……大丈夫よ。ここに来るまで人っ子一人会わなかったって、言ったでしょ?」

 

 あれは偶然でもなんでもない。たとえ夜でなくても、人が賑やかに往来する昼日中であっても。誰にも気づかれずに、なにものにも囚われずに行動することができる、輝夜だけの魔法。

 向こうの世界の人たちは、『永遠と須臾を操る程度の能力』と、呼んでいたけれど。

 

「普段は疲れるから滅多に使わないんだけど、こういう時に役に立つ、素敵な乙女の魔法があるの」

「……なんか、ものすごく胡散臭いんだが」

 

 銀山の半目が体に突き刺さるようだった。やっぱり、乙女の魔法はちょっと言い過ぎだったかもしれない。

 とはいえ、本当の名前を話しても結果は変わらないのだろう。そんな能力がありえるはずがない、と信じてもらえないのではなく。きっと銀山は、たとえ輝夜がどんなに強大な力を持っていたとしても、こうして心配してくれるのだ。

 嬉しい。

 もう、本当に嬉しいよ、バカ。

 

「……じゃあさ。明日、確かめに来てよ」

 

 はにかむように笑いながら、輝夜は言った。

 

「私が無事に屋敷に戻れたのかどうか、確かめに来て」

 

 週に一度なんて無理だ。一度会ったら六日間も会えない日が続くなんて耐えられない。毎日でも、銀山と会って、話をしたい。

 もはや、『かぐや姫』なんて身分は完全に邪魔者だった。こんな肩書さえなければ、雪と秀友のように身分の差がなければ、毎日でもここにやってきて、銀山と一緒の時間を過ごすというのに。でもこの肩書きは簡単に捨てられるものではない。そう何度も、屋敷を抜け出してここに来られるものではない。

 だから、もう一度、私のところまで来てほしいと願ってしまう。

 

「……ダメ?」

 

 銀山は、すぐには答えなかった。色んな感情と葛藤するように、難しい顔をして考え込んでいた。

 そして、夜の静けさが染み渡る頃に、大きくため息をついて。

 

「……わかったよ」

 

 その言葉は、くたびれていたけれど。

 でも決して、嫌な声ではなかった。自分の負けを潔く認める、後腐れのない、微笑みだった。

 

「じゃあ、明日、会いに行くから」

「……うん!」

 

 輝夜の胸が一瞬で高鳴る。心も体もふわりと軽くなって、そのまま空を飛んでしまいそうな心地だった。

 

「絶対! 絶対よ!」

「わかったって」

「待ってるからね!」

「ああ」

 

 これから寝て、起きて、ほんの少し待てば、銀山が会いに来てくれる。そう思うと、もう居ても立ってもいられなかった。早く屋敷に戻って、早く寝なければと思った。

 胸を両手で押さえて、スキップすら踏んでしまいそうな足運びで、玄関の手前まで歩いていって、振り返る。

 銀山の困った苦笑いを蒸発させてやるくらいに、強く、笑って。

 

「――じゃあ、また明日!」

「ああ。また明日」

 

 また明日。ああ、なんて素晴らしい言葉だろうか。この言葉さえあれば、独りきりの夜なんて、寂しくもなんともない。

 

 銀山の家を飛び出して、夜に紛れて――そして、永遠の時の狭間に入り込む、ほんのわずかな時間。夜空で光るお月様は白く眩しすぎるくらいで、きっと明日も、こんな風に眩しい一日になるんだろうなと輝夜は思う。

 一時期は、冷たくて辛いものだと思ったこの恋心も。

 今はもう、火傷してしまいそうなくらいにあっつくて、幸せで。

 

 

 ――このぬくもりが、永遠に私を温めてくれれば、よかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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