銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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竹取物語 ① 「彼の記憶」

 

 

 

 

 

 かつて、人間として世を生きたことがある。

 自分が妖怪であることを忘れて、紛れもない一人の人間として、時を刻んだことがある。

 

 他の狐のように、姿形を偽って人々の中に紛れ込み、いたずらをして生きるのではなく。

『人化の法』を作り出し、本当に人間となって、そして人間として生きた数年間。

 

 千余年前――今では奈良時代と呼称され、そして日の本最古の物語として後世に伝えられるようになる、当時の記憶。

 

 少しだけ大切な、遠い思い出。

 

 

 

 ――竹取物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あの頃は偽名まで使ってね。本当に人間になりきってたんだ」

 

 永遠亭の診察室で、月見は誰に語るでもなくそう言った。言葉を切って呼吸をすると、記憶そのものが息づいているように、当時の記憶が甦る。

 鼻に透き通るような薬の匂い。そして少しだけの、竹の香りがする。

 

「門倉銀山。いや、懐かしいね。でもまるで昨日のことみたいに、当時の記憶は鮮明だ」

 

 ひんやりとした指先が、そっと月見のこめかみをなぞる。慧音からもらった本日二度目の頭突きで切ったその場所に、永琳が傷薬を塗ってくれていた。

 

「陰陽師として生活してたんだけど、ちょうど輝夜が京を騒がせてる頃でね」

 

 患者用の診察椅子に腰掛けて語る月見に、隣で慧音と鈴仙が耳を傾ける。

 

「仕事の一環で出会ったんだよ。それからすっかり打ち解けて、というか輝夜の方から一方的に突っかかってくるようになって」

 

 本当に懐かしいねと月見が笑うと、こめかみから永琳の指が離れていった。

 

「――はい、おしまい。簡単に薬を塗っただけだけど、妖怪の体だったらすぐに治るでしょう」

「すまないね」

「いいのよ、薬師だもの」

 

 よそ行きの笑顔でそう言い、永琳が鈴仙に塗り薬を手渡す。鈴仙はそれを片付けるため、近くの薬棚へ小走りで駆けていく。

 月見は鈴仙の背中を目で追いながら、語りを続けた。

 

「というわけで思い出してもらえたかな、永琳」

「思い出すもなにも、初めから忘れてなんていないわよ。……ただ、信じられなかっただけ」

 

 表情こそ穏やかだったが、永琳の吐息にはなおも深い驚きの色があった。

 

「まんまと化かされたわ」

「ッハハハ、悪い悪い。……慧音も悪かったね。騙したつもりは――いや、結果的には騙したことになるんだろうな」

「そ、そうだぞっ。どうして黙ってたんだ、本当にびっくりしたじゃないかっ」

 

 具体的には、絶叫しながらロケット頭突きを繰り出すくらい、だ。もともと騙すつもりはなかったとはいえ、やはり狐だからか、慧音にあそこまで驚いてもらえたのは爽快だった。お返しに飛んでくる頭突きは痛いが、それを鑑みても、慧音はなかなかに騙し甲斐のある少女のようだ。

 慧音が顔を赤くして喚いた。

 

「狐かっ、狐だからなのかっ。さてはお前は悪い狐なのかっ」

「いやいや、一応はちゃんと訳ありだよ」

 

 手当たり次第に人を化かして楽しむような子ども時代は、とうの昔に通り過ぎた。

 

「見知らぬ妖怪が宿を恵んでほしいなんて言ってきたら、お前は私を家に泊めてくれたかい?」

「……それは」

 

 答えにつかえて苦い顔をした慧音に、月見はただ、そうだろうねと一つ頷く。

 元来、妖怪と人間は相容れない存在だ。妖怪が人を喰らい、人は妖怪に喰われる。かつて存在したその絶対的なヒエラルキーは、この幻想郷でだって完全に消えてなくなったわけではないはずだ。見知らぬ妖怪にいきなり宿を恵んでくれと言われたら、警戒し遠ざかるのが人として自然な反応であり、特に慧音は人里を守護する立場だから、人間たちを守るためにも不審な妖怪へは相応の対処をしなければならない。

 それを理解していたからこそ、月見は人を偽った。

 

「悪かったね、今まで騙してて」

「う……い、いや、悪気があったわけじゃないなら、別に……」

 

 慧音は気まずそうに視線を泳がせてから、椅子の上で縮こまって、頷くように小さく頭を下げた。

 

「……そ、それよりも、私の方こそごめん……。二回も、頭突きして」

「ああ、それはもういいよ。妖怪に戻ったしね、すぐ治るさ」

 

 慧音もド派手に驚いて月見を楽しませてくれたので、おあいこ、といったところだろう。終わったことでいつまでもグチグチ小言を言うほど、月見は心の狭い妖怪ではない。それこそ、悪気があったわけじゃないなら別に、というやつだった。

 だが生真面目な慧音は引き下がらなかった。今度は帽子が落ちそうになるくらいに深く頭を下げて、

 

「ほ、本当にごめんっ。お詫びに、治療費は私が全部立て替えるからっ。大丈夫、これでも意外と貯えがあって」

「あ、別にお金はいいわよ?」

「え……」

 

 そして颯爽と財布を取り出そうとした出鼻を、永琳の一言であっさりと挫かれた。

 なぜか裏切られたような目をしている慧音に、永琳はやんわりと微笑んで言う。

 

「ただちょこっと傷薬を塗っただけだもの。大したことじゃないわ」

「け、けどっ」

「それに、彼は輝夜の大切な人だもの。このくらいのことでお金を取ってたら、輝夜にケチって馬鹿にされるわ」

 

 それから、輝夜に馬鹿にされるのは屈辱だものね、とさりげなく失礼なことを言い足して。

 

「それじゃあ、手当ても済んだし戻りましょうか。……まさか、もう帰っちゃうなんて言わないでしょう?」

「……」

 

 永琳は微笑みを崩さなかったが、月見へと向けられた瞳には、強く願い乞う色があった。会ってあげて。そう祈るようでもあった。

 気づかないふりをするには、その瞳は些か、まっすぐすぎたから。

 

「……言わないよ」

 

 だから月見も、微笑んで。

 

「邪魔にならないなら、輝夜が目を覚ますまでいさせてくれ」

「ええ、もちろん。……聞かせてちょうだい。あなたと輝夜が出会った時のこと」

「……輝夜から聞かされなかったのか?」

 

 永琳は答えず、誤魔化すように不器用な笑顔を見せた。それだけで、月見は彼女が言わんとしているところを察した。

 きっとあの時の記憶は、輝夜にとって幸せなものばかりではないから。だから輝夜は自ら語ることをしなかったし、永琳も訊けなかったのだろう。

 永琳の声音は静かだった。

 

「座敷に行きましょう。……ウドンゲ、お茶の用意をしてくれる?」

「……わかりました」

 

 どこか改まった様子で頷いた鈴仙を確認してから、永琳は席を立って。

 

「それじゃ、案内するわ。ついてきて」

「ああ」

 

 薬の匂いがする診察室を出て、竹の香りがする廊下へと。永琳の背を追いながら進む、その静かな足音が、過去への門を叩くようだった。

 一歩、一歩と歩むたび、千余年越しの記憶は鮮明に息づく。

 

「……」

 

 果たして輝夜も、覚えているのだろうか。

 あの日のことを。

 

 月が夜空に白い孔を空けた、あの夜のことを。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人とともに生きてみたいと思い始めたのは、一体いつからだったのだろうか。今となっては思い出せないほど昔のことだが、とかくそれが、月見が世界中を渡り歩くようになった原点だった。

 例えば最近知り合った八雲紫という妖怪は、一人一種族の妖怪故に、人間たちの強い絆の繋がりに惹かれたのだと言っていたが、果たして月見はどうだったのだろうか。そうだった気がするし、そうでなかった気もする。人に惹かれるのが当たり前になってしまってからは、すっかり意識しなかったことだったから、忘れてしまった。

 けれどどうあれ、人とともに生きたいという願いは変わらない。

 だから理由なんてどうだっていいことだろうと、月見は思っていた。

 

『人化の法』が大成したのは、その欲望にそろそろ抑えが利かなくなってきた頃だった。数十年間、気が遠くなるほどの試行錯誤を重ねた。八雲紫のように、自分の中の妖怪と人間の境界をいじくれば、人として生きることもできるはずだと思って。

 妖狐を始めとするいくらかの妖怪は、『変化の術』を使うことで人間に化けることができる。しかしそれはあくまで姿形を変えるだけであり、妖怪であることに変わりはないから、陰陽師などの勘のいい人間にはすぐ見破られてしまう。故に絶対に妖怪だとは気取られない、完全な人を偽ることのできる術が必要だった。

 完成した『人化の法』を用いて、“門倉銀山”というそれらしい偽名まで作って、しがない流れの陰陽師として。

 そうして人間たちの都で生活を始めて数年、見事人々の中へと溶け込むことに成功し、日々、新鮮な毎日を過ごしていたある日の折に。

 月見――否、銀山のもとに舞い込んできたある一枚の手紙が、この物語の発端であった。

 

讃岐造(さぬきのみやつこ)……?」

 

 記された送り主の名に、銀山は浅く眉をひそめた。明朝、まだ下町が目覚めきらないほど早くの頃に、貴族の遣いと思われる者が銀山の家の戸を叩いた。渡された手紙は一通。送り主を表す三つの文字には、心当たりがある。

 讃岐造――『竹取の翁』として広く都中に知られる老人の名だ。天下に名高い“かぐや姫”の育ての親であり、嘘か真か、最近はかの帝との交流もあるとかないとかと噂される、究極の成り上がり人。無論、下町でひっそりと暮らす銀山では顔を拝むことすらできない、まさに雲の上の人間だ。

 

「はて」

 

 銀山は小首を傾げる。可能性としては依頼の手紙と考えるのが妥当だが、そんなことがありえるだろうか。この都に紛れ込んで早数年、こつこつと仕事を全うし、ある程度名の知れる陰陽師となった自覚はある。だが、それが貴族たちの目に留まるほどではなかったはずだ。都には今なお、銀山よりも優れた陰陽師というのは何人もいる。

 

「……はて?」

 

 宛名、差出人、ともに間違いはない。あの竹取の翁ともあろう方が、一体何用でこんな手紙をしたためたのか。

 

「うぐおぁー……」

 

 ござに腰を戻した銀山が手紙の封を切ろうとすると、背後で品のない呻き声が上がった。振り返って見れば、山なりを描いたござの下から、冬眠明けの虫よろしくずるずると這い出してくる男がいる。髪はボサボサで寝癖だらけで、衣服はほとんど裸同然に着崩れていて、なんだかその辺の道端に打ち捨てられていても違和感がなさそうな、視界に入れれば悪い意味でため息をついてしまいそうな、そんな男だった。

 そして銀山は深くため息を落とし、半目になって彼の名を呼んだ。

 

「……秀友」

「おー、おはようさん……。あー、すっかり朝になっちまったなあ」

 

 神古秀友(かみこひでとも)。銀山と同時期に都に流れ着いた陰陽師で、それがきっかけで意気統合し、友人となった男の名だ。

 友のために一応の弁解をしておけば、普段の秀友はもちろんちゃんとした格好をしている。それがここまで目も当てられない有様になっているのは、今が夜通しの酒呑みを終えたあとだからだ。

 

「酔いは覚めたか?」

「おー、まあまあってとこかあ。まだちっと頭が重いけどな」

「大して酒に強いわけでもないのに、浴びるように呑んだりするからだぞ」

「いや、そりゃあお前よ。玉砕覚悟で雪さんに告白して、頬をほんのり赤くしてさ、はい、なんて言われた日にゃあさ! 浴びないわけにはいかんだろうってもんだ!」

 

 にへら、とだらしなく秀友は笑う。それから興奮したように顔を色づかせて、くううううう、と地から込み上がる喜びの呻き声をひとしきり上げると、

 爆発。

 

「うおお、思い出したらなんだかムラムラしてきたあ! 夢じゃねえよな!? なあ夢じゃなかったんだよなアレ!? うひゃー!」

「……」

 

 彼の恋路が実りをつけたのは、友人として素直に嬉しいし祝福してもいる。しかしながら晴れて秀友と恋仲になった雪という少女は、ござにくるまって床の上を転げ回るこの(ミノムシ)の、一体どこに異性として心を惹かれたのだろうか。彼女の嗜好を疑うわけではないが、物好きだ、とは思う。

 ともあれ。秀友(ミノムシ)の姿を意識から消去しつつ、銀山は気を取り直して手紙の封を切る。

 

「お、手紙か。誰からだー?」

「竹取の翁殿」

「……は?」

 

 目を点にして固まったミノムシを無視し、銀山は手紙の内容を読み進めた。翁の字は、平民の出であるのが信じれないほど見事な達筆で、また仰々しいくらいに堂に入った季節の挨拶からは深い教養が感じられた。徹底的なまでに礼儀正しく書かれているため、育ちが決してよくない銀山にとってはくどいくらいだったが、

 

「かぐや姫が妖怪に狙われているようなので力を貸してほしい、ね……」

 

 簡潔にまとめれば、やはりこれは依頼の手紙だった。――昨夜遅く、屋敷の警護の者が庭に怪しい人影を発見した。捕らえようとしたが、驚異的な素早さで瞬く間に逃げられてしまった。その速さが人間とは思えないほど常軌を逸していたため、外から妖怪が入り込んだ可能性があると危惧し、都で有能と名高い二人の陰陽師に調査を依頼したい。

 二人の陰陽師。紙上には、翁が同様に手紙を送ったというもう一人の陰陽師の名が添えられている。

 その名に目を通し、うわ、と銀山は渋く眉根を歪めた。大部齋爾、と書かれていた。

 大部齋爾(おおべのさいじ)は、人でありながら『風神』の二つ名を戴く、都切っての大陰陽師だ。その実力は都でも頭一つ飛び抜けているが、老いてなお盛んな女好きで、若い男への当たりが悪いのが玉に瑕――つまり、銀山の仕事仲間としては最悪の相手、ということになる。

 同じくして翁の手紙に目を通しているであろう齋爾は、果たして今頃どんな顔をしているだろうか。あのかぐや姫との縁を築くきっかけになるかもしれない天恵のような依頼で、されど『都で有能と名高い陰陽師』として自分とともに呼び出されるのは、最も嫌いな若い男――つまりは、自分が若者と同じ括りで扱われている、ということで。

 ……青筋を浮かべながら、手紙を破り捨てているかもしれない。

 だが齋爾は受けるだろう。依頼の結果次第ではかぐや姫と急接近することもできるだろうから、受けないはずがない。それどころか、銀山へと一方的な対抗心すら燃やすだろう。

 のっけから気が重くなる話だと銀山が思っていると、ミノムシから人間へと戻った秀友が顎に手をやって、思案顔を浮かべた。

 

「それってもしかして、あれか? 翁さんの屋敷に妖怪みたいなのが入り込んだっつー……」

「……そうだけど、知ってるのか?」

 

 手紙を手渡すと、彼は紙面を流し読みしながら一つ頷いて、

 

「ああ。夢で見た」

「ああ……」

 

 なるほどね、と銀山は思う。秀友は、今時の人間には珍しく先天的な能力持ちだ。『人の世界を夢見る程度の能力』――自分が寝ている間に他人の意識に同調し、その人が見聞きしている世界を夢の中で共有する。

 秀友は酒に酔って寝ている間に、翁の屋敷を警固する使用人の一人に同調していたようだった。

 

「それはまた、都合がいいね。……で? どうだった?」

 

 銀山の促しに、秀友は眉間の皺をうっすらと濃くした。手紙から顔を上げて、声音は(とみ)に暗く、

 

「……入り込んだのは、どうにも人型の妖怪っぽい」

「……そうか」

 

 銀山は静かに、それだけ答えた。

 人型の妖怪は、獣型のそれよりも得てして高い知能と実力を併せ持つ。人型の妖怪には必ず二人以上の複数人で挑めというのが、どんな陰陽師の間でも根強く語り継がれる鉄則だった。

 無論、人型の妖怪すべてが強大な存在というわけではない。だが一般に危険な存在として恐れられている妖怪が、みな人型を取る者たちであるのは、厳然たる事実だった。

 

「や、でも、さすがに八雲紫とか、風見幽香とか伊吹萃香とか、そういうのじゃねえぞ?」

 

 そう、例を挙げればまさに彼女らの名前が出てくるのだが――銀山は浅く首を振った。極端な例だ。彼女らはいずれも人型妖怪の頂点に君臨するような大妖怪で、その実力は常識を逸脱している。たった一人で百人以上の陰陽師と渡り合うことも、この都を恐怖の坩堝に叩き落とすことも可能だろう。

 だが大妖怪として恐れられるような者たちは、程度の差はあれ、人間へは比較的友好的だ。少なくとも率先して人間を襲い、喰らい尽くすような真似はしない。そんなことをしなくても、彼女たちはもう充分に強いから。

 

「見つかっただけであっさり逃げたってことは、人型でもあんま強くないやつってことなんじゃねえか? ……まあ、人型って時点で弱いってことはねえだろうけど」

 

 呟いてから失言だと思ったのか、秀友は大きく笑って取り繕った。

 

「でも、こいつはお前さんが更に有名になる絶好の機会だぜ。上手く行けば、お偉いさんのお付きに抜擢なんてのもありえるんじゃねえか?」

「迷惑な話だ」

「そうか? 儲かるぜ」

「お金には困っていないよ。それに……」

 

 銀山は一息置いて、

 

「私は今の生活が気に入ってるからね。わざわざお付きになりたいなんて思わないよ」

「ッハハハ、それは俺も同感だ。こういう質素でのんびりとした生活ってのもいいもんだよな。雪さんいるし」

 

 秀友の最後の言葉を無視しつつ、

 

「だが、どうやら翁殿は相当不安になってるらしい。報酬は弾むからすぐに来てほしい……って、書いてあったよな?」

「ん? ああ」

 

 頷いた秀友は再度手紙に目を落とし、それからなにかに気づいて「うわ」としかめっ面をした。

 

「お前と一緒に齋爾サンまで呼ばれてんのかー」

 

 そしてすぐに笑う。

 

「はっはっはよかったなギン、退屈しそうにねえじゃねえか。やっぱあれだなー、世の中美味いばっかりの話はねえってこったな」

「……そうだねえ」

 

 なあなあと頷く。無論銀山とてかぐや姫に興味がないわけではないが、所詮は好奇心の対象としてであり、もし見られるなら見てみたいよね、程度の話でしかない。そのためだけに齋爾から嫌な目で見られるのは、少しばかりつり合わない気がする。

 

「なんだ、ひょっとして会いたくねえのか? かぐや姫」

「いや、会えるなら会ってみたいとは思うけどねえ。……そういうお前は? なんだったら代わってやってもいいぞ」

「冗談はよしてくれよ。オレは翁サンの依頼に応えられるほどの陰陽師じゃあ、まだねえって」

 

 苦笑した秀友は、「それに」と照れくさそうに鼻の頭を掻いて、

 

「天下のかぐや姫がどんなべっぴんさんかは知らねえけど、雪さんには勝てないだろ」

「おや……惚気だねえ」

 

 昨日の夜にだって散々聞かされた惚気話だけれど、やはり秀友は雪のことが本当に好きで、彼女以外の女性の姿が見えていない。かぐや姫でさえも眼中の外だ。

 その一途すぎる心は、見ていて呆れてしまうくらいだったが、一方で友として誇らしくもあった。

 息を吐くように笑い、立ち上がる。

 

「……どれ、急ぎの用とのことだし、なんにせよこちらから出向かないことには始まらないね。というわけでお前はさっさと帰れ。さすがに歩けるだろう?」

「おう」

 

 秀友は自信たっぷりに立ち上がったが、その足元は少しふらついてた。

 

「……本当に歩けるのか?」

「大丈夫、大丈夫。頭の方は結構スッキリしてるしな」

 

 返された手紙を受け取る。銀山はそこに綴られる文字をもう一度流し読みしながら、何気なしに、

 

「……なあ。私は、どうして呼ばれたと思う?」

「うん?」

 

 首を傾げた秀友に、続ける。

 

「都で有能と名高い二人の陰陽師。御老体はまだわかる」

 

 風神――“神”の二つ名を戴く、都随一の大陰陽師だ。特に風の陰陽術に限れば、都はもちろん、この世界中ですら、恐らく齋爾の右に出られる陰陽師はいない。そんな彼が翁から指名を受けるのは当然だろう。

 だが銀山は違う。陰陽術自体は『月見』の頃からちょくちょく手を出してはいたが、所詮暇潰し程度のもの。本格的に学び始めたのはここでの生活を始めてからのことで、故に銀山の陰陽師としての実力は、低いわけではないが、かといって特別扱いするほど高いわけでもなかった。

 なのに、

 

「どうして呼ばれるんだろうね。御老体と同じ扱いで」

「そいつぁ……」

 

 問われてようやく秀友も違和感を覚えたようで、静かに顎を撫でて考えた。探るように、

 

「……お前の実力が認められたってことじゃねえのか?」

「そうだろうか」

「いや、実際、お前はいい陰陽師だと思うぜ? 実力もあるし、なにより周りからの評判がいいじゃねえか」

 

 否定はしない。流れの陰陽師として、そこそこ要領の良い活動ができている自覚はある。だが単に評判のいい陰陽師となれば、それこそこの都にはごまんといるから、わざわざ銀山を名指しする理由にはならない。

 小難しいことを考えるのが苦手な秀友は、すぐに大笑して思考を放棄した。

 

「まあとりあえず顔は見せとけって。理由なんざ直接訊けばいいだろうし、なによりあの竹取の翁の依頼を門前払いしたってなったら、悪い意味で評判になるぜ?」

「……それもそうだな」

 

 たとえ翁に指名された理由がなんであれ、それが貴族直々の依頼となれば、しがない陰陽師の銀山に断る権利などありはしない。

 わかっている。けど、それでも。

 

「……」

 

 考えすぎなのかもしれないが、どうしてもこの依頼には、手紙には書かれないままとなっている裏があるような気がして。

 はてさてどうなることやらと、銀山の締まらないため息が、静かに宙を薙いだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 聞くところによれば竹取の翁は、かぐや姫を養い始めてからというもの、取った竹の中に黄金を見つけるようになったという。かぐや姫との関連性は、無論のこと不明だけれども、一度竹やぶに出向くだけで今までの何百倍という儲けを得られるようになったのは事実だった。

 その影響で一時期は竹取の職が一世を風靡したりもしたのだが、結局、翁以外に黄金を探し当てた者はおらず、季節が移り変わるにつれ、ただ翁だけが見違えるほどの財力をこしらえていった。

 そんな翁の館はやはり、他の貴族と比べても引けを取らない絢爛豪奢を体現しているようだった。屋敷を囲む純白の築地塀(ついじべい)は見上げるほどに高く、中の様子はまったくといっていいほどわからない。だが門辺に仁王立ちする二人の屈強な門番と一町分(※約百十メートル)の敷地から、中にとんでもない豪邸が隠されているであろうことは確実だ。

 銀山が門の前で足を止めると、すぐに門番たちから不審の眼差しを向けられた。近頃はかぐや姫の顔を一目でも見ようと、夜な夜な屋敷の周囲をうろつく不審者が絶えないという。

 銀山は翁からの手紙を素早く差し出し、名乗った。

 

「讃岐造殿から依頼を受けた陰陽師の者です」

 

 門番たちの表情が安堵の色で緩む。

 

「門倉銀山様ですね。お早い御入来、感謝致します」

 

 屈強ながたいの割に粗暴さはなく、さっと一礼する所作は垢抜けていた。そのことを意外に思いながら、銀山は会釈を返して問うた。

 

「昨夜、この屋敷に物の怪が入り込んだようで」

「はい。……造様は、もしや姫様を狙ったのではないかと大層案じておいでです」

「幸い、姫様の身に大事はありませんでしたが……逃げられてしまった手前、二度目がないとも限りません」

 

 答える門番たちの憂いは色濃く、建前でも義理でもなく、本心から翁たちの身を案じている様子が見て取れた。ただ金の間に成り立つだけの関係ならばこうはならないだろう。部下から厚く信頼されるだけの器量を、翁が確かに持ち合わせていることの証明だ。

 

「ですから門倉様、どうか……」

「ええ、わかっていますよ」

 

 門番の言葉に被せるようにして、銀山は静かに破顔した。今の今まで乗り気ではなかったが、気が変わった。門番たちのひたむきな言葉に胸を打たれ――というわけではないが、このまま断るには少し、惜しい依頼だと思った。

『お客様は神様』なんて言葉があるのを笠に着て、陰陽師を見下そうとする依頼主たちというのは、決して少なくないけれど。だがこの屋敷には、銀山が誠意を以て仕事をするに値するだけの人たちがいる。そんな気がした。

 だから銀山も、建前でも義理でもなく、心からの言葉を紡ぐ。

 

「最善を尽くします。ですから、どうか肩の力を抜いてください」

 

 門番たちの張り詰めていた面持ちが和らぐ。憂いの色は完全には消えなかったが、それでも口元にかすかな笑みを見せて、

 

「……ありがとうございます。今、案内の者を呼んで参ります。少々お待ちを」

 

 深く一礼し、門番の片割が門の奥へと下がる。一瞬開いた門から垣間見えた屋敷の庭は、果たして広大かつ豪華なものであったが、一方でなにかに怯えて色を失っているようでもあった。屋敷に住まう者たちの感情は、屋敷の雰囲気そのものにまで伝播する。突如現れた物の怪を憂い、恐れているのは、決して門番たちだけではない。

 残った方の門番が、躊躇いがちに口を開いた。

 

「門倉様……。物の怪の狙いは、やはり姫様だったのでしょうか」

「……どうでしょうね」

 

 現場に着いたばかりの今の状況では、まだなんとも言えない。そもそも、今回の犯人が本当に妖怪だったのかさえ、まだ確認できていないのだ。

 

「人間離れした動きだったとは聞いていますが、だからといって妖怪とは断言できませんしね」

 

 身体能力を底上げする陰陽術なり魔術なりを学べば、人間だってそれらしい動きはできる。門番の言う通り、妖怪がかぐや姫を狙った可能性だってあるし、多少陰陽術をかじった程度の人間が、かぐや姫見たさについ――という可能性だって、また否定はできない。

 だがこの都が陰陽術の総本山であることを考えれば、犯人が妖怪の線は低いだろうと銀山は思う。ひとたび妖怪が忍び込んだとわかれば、都は手柄を上げようと躍起になる陰陽師たちでごった返し、妖怪は地の果てまでしつこく追い回されることになる。そんな危険地帯にわざわざ飛び込もうとする物好きなどそうそういないはずだ。

 ……と、正体が人間ではない銀山が言ったところで、説得力は低いかもしれないが。

 なんにせよ、今はまだ判断のしようがない。

 

「ともかく、まずは調査ですね」

「……そうですね。よろしくお願い致します」

 

 門番もそれを理解したのだろう。素直に頭を下げて、それっきり沈痛な面持ちで口を閉ざした。

 神経を撫でるような、木々同士がこすれて軋る音とともに門が開いたのは、それからすぐだった。門番の片割が、背後に女中を一人、引き連れて戻ってきた。

 

「どうぞ中へ。この者が、造様のもとまでご案内致しますので」

 

 門番から紹介され、遠慮がちに一礼した女中の面持ちには、やはり強い不安の色がある。もともと臆病な性格なのか、妖怪が入り込んできたという事実に目に見えて怯えて、挨拶すら上手く返せないようだった。

 門番が眉をひそめる。

 

「おい……客人の前なのだから、もう少し」

「大丈夫です。行きましょう」

 

 門番の言葉にそう被せて、銀山は一歩を踏み出した。地を踏む音に、女中はふいを衝かれて肩を震わせ、それから慌てて門の垣根を向こう側へと跨いだ。

 焦点の合わない足取りで先導を始める彼女の背に続こうとすると、門番にふと小声で耳打ちされる。

 

「申し訳ございません。屋敷の中には、物の怪の存在に怯えている者も多くいます。なにか粗相があるやもしれませんが……」

「本当に大丈夫ですよ。……そこまで狭量な人間に見えますか?」

 

 この屋敷には、かぐや姫への拝顔を求めて訪れる貴族も多いと聞く。故に、来客には相応の礼儀を以て応じろと、よほど徹底して教えられているのだろう。

 だが、礼儀も秩序もない弱肉強食の世界で育った銀山にしてみれば、行きすぎた礼儀は堅苦しいだけだ。笑みを返せばつられるように門番たちも微苦笑を浮かべたから、それくらいに肩の力を抜く程度が、ちょうどいいのだと思った。

 門番たちの会釈に見送られ、ゆっくりと門の垣根を跨ぐ。

 

「で、では……こちらに」

 

 腫れ物を触るような女中の声に引かれ、静まり返った庭の小径を進んでいく。この頃の貴族は広大な敷地の中に小さな家屋をいくつも持っていて、用途別で使い分けたり、使用人に貸し与えたりしている。隅々まで手が行き届いた庭園と、整然と並ぶ家屋の群れは、学の浅い者が見ればここそのものを一つの町だと誤解するだろう。

 屋敷の隅々で警固の者が巡回している以外は、特に不審なところは見られない。感覚を研ぎ澄ませて周囲を探ってみても、不自然に妖気の足跡が残されていることもない。もちろん、陰陽術の総本山であるこの都に、自分の足跡も払えないほど未熟な妖怪が入り込む線は限りなく低いが、

 

「……」

 

 そこで、ふと。

 まだ正式に依頼を受けたわけでもないのに、既にやる気になって調査を始めている自分の姿に、気づいて。

 

(……ふふ)

 

 心の中で、小さく笑う。齋爾と一緒の仕事を面倒くさがる気持ちとか、どうして自分が呼ばれたのかと疑う気持ちとか、そういったものが全部、いつの間にか明後日の空へと消し飛んでいる。今銀山の心にあるのは、なんとかしたいな、という気持ち。かぐや姫目的ではない。報酬ほしさでも、売名目当てでもない。反りの合わない仕事仲間がいたって構わない。翁に名指しされた理由も、今はとりあえず気にしない。

 見返りもなにも関係なしに、妖怪の存在に怯えるこの人々を、なんとかしてやれないかなと思うから。

 

 月見さんは、人間が好きなんですか? ――かつて一緒に旅をしていた境界を操る少女に、そう尋ねられたことがある。その時は、そうかもしれないね、と曖昧に答えていたけれど。

 今同じことを訊かれれば、きっと笑顔で、そうだねと頷くのだろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――なぜ貴様が呼ばれるのだろうな、(わっぱ)

「それは翁殿に聞いてくれますか、御老体?」

 

 苦虫を噛み潰したような問い掛けを、銀山はその場で微苦笑を浮かべて受け流した。

 銀山が女中に導かれるまま応接間を通った時、そこには既に先客がいた。大部齋爾。竹取の翁からの依頼とわかって、すっ飛んできたのだろう。落ち着きを払って大木の如く座す様は、どうやら到着してからそれなりの時間が経っているようだった。

 目元には切り傷のような皺が深く、頭の上に落ちる霜も濃い。そろそろ体が思うように動かなくなってくる頃だろうに、瞳の鋭さだけは狼の牙を彷彿とさせる。

 銀山の返答に、齋爾は狼の牙をしまい、顎を下げた。

 

「お早い到着ですね」

「貴様が遅すぎるのだ。あまり造殿をお待たせさせるな」

 

 齋爾の声は低く、これもまた、狼の唸り声を聞いているようだ。若い男と相対する時、齋爾は大抵こう構える。

 女中が齋爾の隣に座って待つように言ったので、銀山は素直に従った。

 広い部屋だった。ここだけで既に、下町にある銀山の家よりも広い。所々に衝立や屏風が飾り立てられているが、逆にそれ以外の物は置かれておらずがらんどうとしている。正面では部屋を仕切る几帳がすべて降ろされていて、奥には更に部屋が広がっているようだった。

 ここまで来ると、銀山にとっては贅沢を通り越して理解不能だ。客を応接するために、どうしてここまで広大な部屋が必要なのだろうか。貴族の体面というのはよくわからない。

 銀山は部屋を見回すのをやめ、隣の齋爾に目を向けた。あいかわらず黙して座すばかりの彼に、問う。

 

「御老体は、この状況をどう見ますか?」

 

 一応は同業者だけあって、それだけで意図は通じた。

 通じたが、

 

「さあな」

 

 齋爾の答えは簡素だった。ため息をつくように言って、

 

「ただ、妖怪の仕業だろう、とは思っている」

「根拠は?」

「ない。そう思っていた方が対処はしやすいというだけの話だ」

 

 確かに、妖怪の仕業ではないと高を括るのは油断だ。しかし、翁の姿がまだ見えないとはいえ、はっきりと言い過ぎでは。

 齋爾は続ける。

 

「それに、妖怪の仕業だとわかったところで、我らができることなどたかが知れている」

「……」

 

 あいかわらず身も蓋もない言い方だが、決して間違った意見ではないので、銀山に言い返せる言葉はない。仮に今回の犯人が妖怪だったとして、銀山たちにできるのは屋敷の者たちを警護し、然るべき時が来たら妖怪を討伐すること。そしてそれは、調査の結果犯人がわからなかったとしても変わらない。だったら初めから妖怪の仕業と決めつけて行動したところで、大した差はない。犯人が人間だったとしても、ただのいたずらでよかったねと話が落ち着くだけだ。

 穿った意見だ。穿った意見だが、しかし。

 

「ということは、御老体は……」

 

 初めから妖怪の仕業と決めつければ、屋敷の調査をする必要はなくなる。

 銀山が案じたところを、齋爾は不敵に笑って肯定した。

 

「ああ。姫様の警護は任せてもらう。……貴様は独りで屋敷の調査でもしていればよかろう」

「……」

 

 ですよねえ。

 

「儂の邪魔はするなよ」

 

 ……ですよねえ。

 

「ところで御老体、それは」

 

 齋爾の小脇には、なにか風呂敷で包まれた荷物が置かれていたが、

 

「なに、……ちょっとした心付けだ」

 

 そう言う齋爾の笑顔は、この時だけはほんの少しだけ、若々しい光を放つ。今となっては老いた狼とはいえ、それでも彼の女好きは健在らしい。彼にとって一番の関心事はやはりかぐや姫であり、依頼はあくまで二の次なのだ。これさえなければ陰陽師の鑑なのにと銀山は呆れて、以降はなにも言う気になれず、口を噤んだ。

 間もなくして、部屋に複数の女中たちが入ってきた。すり足が床を撫でる音に合わせて、俄に引き締まった空気が流れ込んでくる。

 銀山たちの前で一度膝をついた女中たちが、厳かに告げた。

 

「――讃岐造様がお見えになられます」

 

 正面、部屋を隔てる几帳の奥だった。向こうの部屋からこちらの部屋に向けてかすかに風が流れてきて、几帳が音も立てずにたゆたう。決して背の高くない、服装からして男であり、そして女中の言葉からすれば讃岐造であろう男の影が、几帳の奥をゆっくりと動いて、御座の上に腰を下ろしたのがわかった。

 銀山は衣紋を繕い、几帳が取り払われるのを待つ。

 

「――ようこそ、お出でくださいました」

 

 几帳が女中たちによって払われると、あらわになった御座の上では、白の胡服を身にまとった老人が深く頭を下げていた。予想通り、好々爺なのだろうな、と銀山は思う。自分よりも遥かに身分が下の者に対して自ら率先して頭を下げられるのだから、使用人たちから慕われているのも納得が行くところだった。

 などと考えながら、銀山はすぐに頭を下げて返す。齋爾も、老人らしいゆったりとした動きでそれに続いた。

 顔を上げた翁の微笑は柔らかかった。己の地位を笠に着ず、銀山たちと対等な目線で話をしようとする意思が感じられる。元々が平民の出だから、悪い意味での貴族らしさとは無縁な男なのかもしれない。

 

「……まずは、私めの急なご依頼に、こうもお早くお応え頂けたこと、深く感謝致します」

 

 緩やかに、歩くような声だった。

 

「事の次第は、文の中に記した通りでございます。昨夜、屋敷の警固の者が、庭に物の怪と思われる影を目撃致しました。その狙いが輝夜にあることを危惧し、今回、ご依頼を申し上げた次第です」

 

 一つ、歩き疲れた老人が茶を飲むような間があって、

 

「お二方には、物の怪が何故この屋敷に入り込んだのか調べて頂くとともに、輝夜の警護と、物の怪の討伐をお願いしたく」

「お任せください、翁殿」

 

 “輝夜の警護”という言葉に、齋爾の瞳の奥が露骨に光った。言う。己が胸に拳をやり、

 

「姫様の護衛は、どうかこの大部齋爾に。都が誇る我が陰陽術、ひとたび、姫様のために捧げましょう」

 

 詩を詠むように淀みなく、物語を読むように機微に富んだ声で。これがかぐや姫に会いたいという欲望から出た言葉でなければ、それはそれは素晴らしいことなのだろうに。

 それを知ってか知らでか、翁はこれといって特別な反応を見せることなく、静かに一つ頷いただけだった。次いで銀山に目を向けて、

 

「そちらの……門倉殿は、いかがでしょう?」

「……そうですね」

 

 齋爾のように気が利いた口上は、とても言えないけれど。その代わり、かつて門番たちにそうしたように、紡ぐ言葉は心から。

 

「もちろん、お引き受け致します」

 

 決して己を飾らず、素直に、

 

「この屋敷には、妖怪の存在に怯えている方々も多くお見受けできましたから。なるべく早くに討伐して、安心させてあげられればと思います」

「……」

 

 翁の表情がかすかに動いた。もしかすると気のせいだったのかもしれない。けれど彼の浮かべる微笑みに、確かな個の感情が宿った気がした。

 微笑は語る。

 我が意を得たり、と。

 

「……」

 

 ただ単に、銀山が依頼を受けたことを喜ぶのではない。その先にある、もっと別のなにかに、翁は微笑んでいた。

 それが一体なんであるのか、銀山にはわからない。だがやはりこの依頼、齋爾と並んで銀山が呼ばれたのには、なんらかの訳があると見て間違いないだろう。

 それを問いただすような間はなかった。翁は傍で控えていた女中たちを含めた全員を見渡して、通る声で言った。

 

「それでは、よろしくお願い致します。案内の者をお付けしますので、屋敷は自由に調べて頂いて構いません。輝夜につきましても、警護が必要ならば、ご案内致します」

「翁殿、物の怪はいつまた現れるかわかりませぬ。姫の警護は早急に行いましょうぞ」

 

 身を乗り出した齋爾の提案に、翁は一考の間を見せてから頷く。

 

「……わかりました、ご案内しましょう。門倉殿は、どうされますか?」

「……そうですね」

 

 初めから妖怪の仕業と想定して行動する、という齋爾の方針には全面的に肯定する。その上で銀山は、

 

「一度、この屋敷を調べて回ろうと思います。姫の警護は、御老――齋爾殿にお任せするとして」

 

 たとえ女好きでも、否、女好きだからこそ、齋爾に任せておけばかぐや姫の身は安全だろう。

 だから、銀山は。

 

「他にも守らねばならぬ者たちは、多くいますから」

 

 屋敷に忍び込んだのが人間だろうが妖怪だろうが、その狙いがかぐや姫だと決まったわけではない。十中八九は間違いなくとも、絶対にそうだとは言い切れない。使用人たちに危険が及ぶ可能性だって、否定はできない。

 地道に調べて回れば、なにかわかることもあるだろう。そして、こちらが依頼に尽くす姿を見せれば、使用人たちの不安も、多少は和らぐかもしれないから。

 齋爾は、かぐや姫のために。銀山は、かぐや姫以外の者たちのために。

 それぞれ、動く。

 

「……そうですか」

 

 翁からの返事は簡素だった。喜ぶのでもなく、非難するのでもなく、ただ己の胸の中で反芻させるように、

 

「では、案内の者をお付けしましょう」

 

 傍らの女中に耳打ちする。女中はすぐに一礼し、床を傷めない足運びで、素早く部屋をあとにする。

 すぐに、居ても立ってもいられなくなった齋爾が声を上げた。

 

「翁殿。今こうしている間にも、姫様の身に何事か起こるやもしれませぬ。すぐに参りましょう」

「……」

 

 それを、翁は困ったように笑って、

 

「……わかりました。門倉様、申し訳ありませんが、また後ほど」

「わかりました」

 

 間もなく案内の者が参りますので、このままお待ちください。それだけを言い残し、齋爾を引き連れて部屋を出ていく。二つの背を見送った銀山は、肩の力を抜くようにため息をついて、周囲の女中たちに聞こえないように小さく呟く。

 

「さて……何事か起こりそうな気がするね」

 

 広い庭のどこかで、蝉が鳴いている。一度途切れて、また鳴き始める。

 空の向こう側まで透き通るような青空は、なにかが起こりそうな、夏の空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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