銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第16話 「導きの白 ①」

 

 

 

 

 

 幻想郷の地下には、地底と呼ばれる広大な空間が広がっている。過去、地獄のスリム化政策によって切り離された土地であるそこは、地上から移り住んだ妖怪たちのために開放されたのち、鬼を中心として大きな都が築かれるに至った。太陽も雲もない暗い空を行く操の眼下には、淡い提灯の光がそこかしこに広がっており、これこそが地底世界の星空なのだろうと、そう思わされる幻想的な光景を作り出している。

 だが、

 

「……あいっかわらず、陰気な場所じゃのー。息がしづらくて敵わん」

 

 顔をしかめて、操は咳をするように独りごちた。

 かつて地獄の一部だったこともあり、この地底では、今なお成仏できずに彷徨う怨霊たちが野放しとなっている。それらが持つ負のエネルギーに影響されているのだろう、地底の空気は、地上と比べて随分と息苦しい。無論それは、風とともに生きる天狗だからこそ感じ取れる些細なものなのだけれど、それでも地上の星空を台無しにするには充分だった。

 けほけほと何度か咳き込んで、操は地底の空をまっすぐに切り裂いていく。もう何度も引き返そうかと思い悩んだが、せっかくここまでやってきたのだから、もう少しだけ頑張ろうと思った。

 

「千代のやつも、面倒なところに住みおってからに。まあ、立場上仕方ないんじゃろーが」

 

 操が自ら親友と認める数少ない妖怪、藤千代という名の少女に会うのが、操が此度地底をゆく理由だ。そうでなければ、こんな息苦しい場所にどうして近づきなどしようか。

 翼を強く鳴らし、操は体の向きを下方向に変化させる。併せて翼を畳み、風の流れと重力に体を任せれば、

 

「……!」

 

 滑空した。空気の層を切り裂き、操は一気に地面へと迫る。そして、再び翼を鳴らして勢いを殺し、旋風とともに着地した。

 操が降り立った先は、小さく寂れた日本家屋の前だった。風が吹けばそのまま飛んでいってしまいそうな、張り子のようになおざりな小屋だ。

 こここそが操の目的地であり、藤千代という少女が腰を据える家。その廃墟同然の佇まいを見て、普段から天狗たちの大屋敷で生活している操は、とても微妙な気持ちになった。

 

「あいかわらずボロっちいのう……」

 

 どうして藤千代は、わざわざ好き好んでこんな家を寝床にしているのだろう。地底を代表して治める立場なのだから、もう少し贅沢をしても文句は言われないだろうに。元々粗野な育ちである鬼たちにとっては、やはりこういう雰囲気の方が落ち着くのだろうか。

 操は微妙な気持ちを頭を振ることで追い払い、目の前の古びた戸を叩いた。大した力も込めていないのに、戸全体がギシギシと悲鳴を上げた。

 返事はない。留守にしているのか、それともまだ寝ているのか。操は一息で戸を開け放ち、なんの遠慮もなくずかずかと中へ上がり込んだ。鍵はかかっていなかった――否、そもそも取りつけられてすらいなかった。

 家の中も、外に負けず劣らずひどい有様であった。地底には太陽の光が届かないというのもあるが、それにしても薄暗くて、空気が沈んでいる。玄関から一歩足を上げれば、たちまち床が悲鳴を上げてたわみ、抜け落ちてしまいそうになった。もう少し体重のある男――例えば月見がやってきたら、それこそ一瞬で踏み抜いてしまうだろう。

 操は慎重に足を進めながら、

 

「おーい、千代ー」

 

 藤千代の愛称を呼ぶが、やはり返事はない。操が床を軋ませる音だけが反響している。

 間もなく、操は居間へと至った。ただの空き部屋かと誤解してしまうほどにがらんどうとした、生活感のない部屋だ。茶色く汚れバサバサになった六畳間の隅っこで、緩やかな山を描いた布団が一組、鎮座している。

 その山が、僅かではあるが規則的なリズムで上下していたので。

 

「……」

 

 操はなにも言わず、ゆっくりとそこへ近づいて、一息で布団をひっぺがした。

 布団の下では案の定、少女――藤千代が、猫のように体を丸めて寝息を立てているのだが、

 

「また妙な格好で寝おってからに……」

 

 彼女は、衣服を着ていなかった。身にまとっているのは、薄い桃色の下着だけ、である。

 少女の枕元には、黒地に藤の花を織り込んだ着物と、同じように藤の花を模した髪飾りが置かれており、これが彼女の普段着となる。

 

「……せめて、寝間着くらい用意したらどうなのかのお」

 

 所謂、寝る時に服を着ないタイプである彼女は、背丈こそ小さいものの、一方で女性らしい発育にも恵まれている。そんな彼女が下着姿で、なおかつ戸締りすらせずに一人で眠っているという状況は、見る者が見れば卑しい感情の一つや二つは簡単に抱くだろう。

 

「……」

 

 まあ……そうして悪い感情を起こしたとしても、実際に行動に移せる命知らずはいまい。この少女に悪意を以て襲いかかること――それはすなわち、自らの命を投げ捨てる愚行と同じだ。

 なぜなら彼女は、妖怪の中でもとりわけ強い力を持つ鬼であり、更にその鬼たちの中でも、輪をかけて特別な存在なのだから。

 

「起きろ、千代ー。いいや――」

 

 故に操は、少女の名を呼ぶ。

 名前ではなく、彼女に与えられた、二つ名を。

 

「――鬼子母神」

 

 

 

 ○

 

 

 鬼子母神、名を藤千代(ふじちよ)。その字面が示す通り、鬼たちの祖――すなわち最古の鬼――であり、操が天狗を統べるように、幻想郷中の鬼を統括している女傑だ。

 もっともその出で立ちは、とても『女傑』という言葉には似つかわしくないのだが。

 

「もー、操ちゃんったら。鬼子母神って呼ぶのはやめてくださいって何度も言ってるじゃないですかぁ」

 

 背は、操の胸元あたりまでしかない。鬼の四天王には伊吹萃香という少女がいるが、彼女と比べてもそう大した差異はない。まだ起きたばかりにもかかわらず、嫉妬するほど瑞々しい黒髪がわずかにもよれることなくまっすぐ背を覆い隠している。薄暗い屋内ではわからないが、この柳髪が光の下では淡く紫がかっても見えることを操は知っている。更に肌は汚いものに一度も触れたことがないかのように潔白で、果実を思わせる薄紅の唇も、水の雫めいた澄んだ光を宿す瞳も、すべてがまるで、生まれ落ちたその時から一瞬たりとも老いていない。

 

「操ちゃんみたいなお友達からは、やっぱり『千代』って呼んでほしいですー」

 

 癖なのか、やや間延びした尾を引くその声音も、繊細なガラス細工を叩いて鳴らしたかのように澄んでいる。……何千年も生きておいてこれなのだから、同じ女性としてはまったくもって羨ましい。

 藤千代はもそもそと藤の着物を着込みながら、頬をぷっくりとりんごみたいにした。

 

「鬼子母神なんてのは他のみんなが勝手にそう呼んでるだけで、私自身はただのしがない鬼なんですよー?」

「……しがない、ね」

 

 月見が好んで使う言い回しを、彼女もまた好む。だが月見はさておき、藤千代がその言葉を使ってはダメだろうと操は思うのだ。

 

「お主がなんの変哲もないただの鬼だったら、他の鬼たちは一体どうなってしまうのか……」

「むう、それって私が普通じゃないって言ってます?」

「それ以外に何があると」

「ひどいですよー」

 

 確かに藤千代は、もともとはごく普通の一匹の鬼だったろう。史実で言い伝えられるあの鬼子母神とは、まったくの別人だ。藤千代は鬼たちをまとめる母のような存在だし、字面が似合うじゃないかと――鬼子母神の二つ名は、単純にその程度の意味合いだけで彼女に与えられた、謂わばただのニックネーム。操の“天魔”とはまったく重みが違う。

 だがそれを言ってしまえば、操だってもとは普通の天狗だった。

 

「操ちゃん、ちゃんと私の姿を見てくださいよー。どこからどう見ても、普通の鬼じゃないですかぁ」

「まあ、見た目はの……」

 

 たとい、“天魔”とはまったく重みの違うものであっても。二つ名を与えられるということは、それだけ藤千代が特別な存在である証明だ。

 なにせ彼女は、単純に腕力という一点だけを見れば。

 幻想郷の――否、古今東西のあらゆる存在を凌ぐ、最強の大妖怪なのだから。

 

「普通の鬼は、鬼の群れ三百を一人で、しかも素手でのしたりはせんよなあ」

 

 数十年ほど前だったろうか。藤千代が同族三百相手に勝ち抜き組手をやって、完全勝利を収めたのは。

 そんなの操はもちろん、八雲紫ですら、途中で間違いなく悲鳴を上げるだろうに。

 

「あー、あれはいい息抜きになりましたよねえ」

「……息抜き、か」

 

 それを、息抜きと言って笑って思い出せるのだから、彼女はどだいまともではない。

 

「でも、あの時もそうでしたけど、最近は鬼のみんなも弛んできちゃってますよねえ……」

 

 異様に長く伸ばされた一房の前髪を、左耳の上まで回して藤の髪飾りで結い留めながら、藤千代が面差しを曇らせた。

 

「昔は、もっと骨のある方がたくさんいたのに」

「……月見とか、か?」

 

 操が彼の名を口にしたのは、完全な無意識だった。

 実際にその瞬間を目撃したわけではない。しかし藤千代曰く、月見は、彼女を一対一の真剣勝負で負かした世界でただ一人の妖怪であるらしい。

 

(……)

 

 実のところ、操は月見の実力をよく知らない。彼は争い事を好まない性格だし、また妖狐故に思慮深く、いたずらに手の内を明かすような真似はしないからだ。

 月見は藤千代と同じく、幾千年もの時を渡り歩いた古の妖怪だ。藤千代が鬼の祖というならば、月見は妖狐の祖。銀毛十一尾は、月見が妖狐の頂点にいることを如実に証明している。

 だが、だからといって、鬼子母神をも上回るなどとは。

 いくらなんでも、眉唾が過ぎるのではないだろうか。

 ――と、

 

「えへへへへへ……」

 

 ふと聞こえただらしのない笑い声に、操の意識が思案の海から引き上げられる。真っ赤に熟れた頬を両手で押さえ、体をくねらせて身悶えしている藤千代の姿を見て、操は遅蒔きながら自分が地雷を踏んでしまったことを悟った。

 

「あ、いや、なんでもない。忘れて――」

 

 慌てて己の言葉をなかったことにしようとするも、時既に遅し。藤千代の表情筋が一気に弛緩して、脂下がって、ふにゃふにゃにとろけきっただらしない笑顔がさらけ出されて。

 ――ああ、これはもう完全に、地雷を踏んだ。

 いや、この場合は、踏み抜いた地雷が周囲に誘爆して、あたり一面が焦土と化すくらいの規模だろうか。

 ポフン、と隣に畳んだ布団の上に倒れ込んだ藤千代は、そして、

 

 

 

「そうなんですよ私が負けたのは今も昔も月見くんただ一人でもう随分昔の話で今では諏訪大戦って呼ばれてる頃の話なんですよあの時私は諏訪子さんと一緒に戦ってたんですけど神奈子さんのところに月見くんがいて私がもう少しで神奈子さんを倒すというところで月見くんが颯爽と現れてああもうあの時の月見くんは本当にカッコよかったんですよね神奈子さんが羨ましいです私もあんな風に月見くんに助けられてみたいですそれで月見くんと戦うことになって最初は私が圧倒してたんですけど途中から見事に逆転されてよくわからないうちに負けちゃったんですよね本当にすごかったんですよ未だにどうして負けたのかよくわからないんですけどきっとあれが月見くんの本気だったんですねふふふふふあの時月見くんから受けた一撃の痛みも重さも熱さも激しさも全部はっきりと覚えてますよ本当にすごいですカッコいいです素晴らしいですそして思い出したらなんだか体が熱くなってきましたけど我慢しますそういえば月見くんが外の世界に行ってから大分経ちますけど今はなにをやってるんでしょうねやっぱり昔みたいに気ままに旅して回ってるんでしょうかあいかわらず自由ですよね全然顔を見せてくれないのが寂しいですけどでもそういう他人に囚われないところがまた素敵でああもう月見くん月見くん月見くんえへへへへへへへへ……」

 

 

 

 ……………………あー。

 と、操は意識を放棄したくなった。

 そうだ。藤千代に対して無闇に月見との昔話を振るとこうなってしまうと、わかっていたはずなのに。迂闊だったと、操は己の失態を心の底から後悔した。

 見た通り、藤千代は月見に惚れている。自分を打ち破った世界でただ一人の男である彼に、陶酔している。ふと名前を出されただけで、夢の世界へと勝手にトリップしてしまうほどに。

 操が天井を仰いでいた視線をゆるゆると戻すと、藤千代はきゃーきゃー黄色い声を上げながら、布団の上を右へ左へ転げ回っていた。

 

「……ち、千代ー」

「えへへへへへ、月見くーん月見くーん。ああ、思い出したらなんだか急に会いたくなってきちゃいましたねー。今から捜しに行きましょうか、そして駆け落ちしましょうかー」

「千代ー。聞いてー」

「ああ、でもそうしようとするとさとりさんや紫さんがうるさそうですねえ。さとりさんは話せばわかってくれそうですけど、紫さんは無理でしょうね。一戦交える覚悟で行かないと」

「あのー、千代さーん?」

「うふふふふふ、月見くんのためなら幻想郷なんて見向きもしないで捨ててやりますよ。外の世界へ駆け落ち、とっても素敵じゃないですかなんて甘美な響きなんでしょう皆さんに会えなくなるのはちょっと寂しいですけどでも案外どうでもいいんですよねー私には月見くんがいれば他に誰もいらないのでああでも操ちゃんがいないのはとっても寂しいですね、ねえねえ操ちゃんも一緒に駆け落ちしましょうよーきっと楽しいですよーああっでも外の世界だと一夫多妻はダメなんでしたっけじゃあ仕方ないですね駆け落ちは無理そうなので外の世界へは新婚旅行で行くということで」

「おい聞けやコラ」

「えへへへへへ、やーんやーん」

「……」

 

 帰っていいかな、と操は思った。月見に好意を寄せている少女は、藤千代の他にも何人かいるが、その中でも彼女は次元が違う。ここまで行ってしまうと、もはや恋ではなくただの病気だ。鬼子母神は、心に致命的な病を抱えている。これを月見病と名付けよう。

 ……。

 などと現実逃避をしても始まらないので、操は深くため息をつきながら、

 

「あのな、千代。月見が帰」

「――本当ですか、操ちゃん?」

 

 神速であった。気がついた時には既に、笑顔の藤千代に胸ぐらを掴まれている。まばたきをした間の一瞬の出来事だった。――速すぎる。これではまるで、どこぞの時間を操るメイドみたいではないか。

 呼吸を忘れる操の先で、藤千代は藤色の瞳を爛々と輝かせていた。

 

「本当ですか? 本当ですね? 嘘だったらぶっ飛ばしますよー? こんにゃろぉ、って」

「待て千代、言ってる傍から投げようとするな! 本当じゃ、本当じゃから放してお願い!?」

 

 襟を掴まれ背負投げの体勢に入られたので、操は猛抵抗した。たかが背負投げとはいえ、それが鬼子母神の背負投げとなれば、畳を粉砕して床下まで突っ込み地面に操型の穴が空くだろう。つまり死ぬ。

 藤千代は操の胸倉を掴んだまま、笑顔で、

 

「本当ですかー?」

「本当じゃよおっ! じゃなきゃ、わざわざこんな空気の悪いところまで来たりせんって!」

「あ、それもそうですねえ」

 

 必死の説得が功を奏した。藤千代がこちらの襟から手を離すと、全身から圧迫感が抜けて呼吸ができるようになる。ああ、生きているってなんて素晴らしいのだろうか。

 けれど、操がそうやって一息つけたのも束の間で。

 

「こうしてはいられませんっ。行きましょう、操ちゃんっ」

「うおおっ?」

 

 すぐに、興奮で浮き足だった藤千代に腕を取られた。鬼お家芸の怪力で引っ張られ、危うく前につんのめりそうになる。

 藤千代は部屋を飛び出し、廊下を散々傷めつけて玄関へと向かった。どこへ行くつもりなのか、などとは問うまでもない。彼女の頭の中は、既に月見のことで飽和状態だろう。

 操は慌てて藤千代に足並みを揃え、尋ねた。

 

「行くって、月見がどこにいるかわかるのか?」

「手伝ってくださいね?」

 

 首だけで操へ振り返り、藤千代が返す言葉は至って簡潔。浮かべた柔らかい微笑みとは裏腹に、地を踏む両足の動きは速く、一刻も早く月見に会いたいという興奮がありありとにじみ出ていた。

 操は内心で苦笑いをする。月見が帰ってきたと知るなり仕事をすべて放って飛び出していった、あの時の自分の姿が重なるようだ。

 

「待っててくださいねー月見くーん! 今、会いに行きますよー!」

 

 月見が今、幻想郷のどこをほっつき歩いているのかはわからない。けれど藤千代は、『月見くんセンサー』なるものを持っているらしいから、適当に歩いているうちに見つかるだろう。

 

「月見くんのことですから、人里の近くにいそうですよね。まずはそのあたりから当たってみましょうか」

「そうじゃな」

 

 頷き、藤千代とともに外へ出る。『藤千代に月見が帰ってきたことを教える』という用事を終えた操は、しかし本山には戻らずに、そのまま月見捜しを始めることにした。

 よってそれから間もなくした頃、天狗たちの本山にて。

 

「て、天、魔、様ぁっ……! また、また逃げましたねえええええ!?」

 

 窓を砕くほどの恨みに満ちた絶叫を、一人の白狼天狗が、上げることになるのだが。

 それを操が知ることなど、もちろん、ありはしなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 明朝、月見は少しだけ寝坊した。

 日は完全に昇りきっている。雲一つない快晴で、差し込む朝日が目に痛いくらいだ。町は既に目を覚ましているようで、里人たちの活気づいた声が、小鳥のさえずりの代わりに聞こえてくる。窓を開けると、気持ちのいい朝の爽気が流れ込んできた。覚めきらず残っていた微睡みがゆっくりと引いていく。

 いい朝だ。長く寝ただけあって疲れはよく取れているし、筋肉痛もない。これならば今日も、のんびりと幻想郷を見て回れることだろう。

 

「慧音には、気を遣わせちゃったかな」

 

 昨夜、月見の目の前で「ふしだらな生活はさせない」と啖呵を切ったくらいだ。職業病なのか規則正しい生活にうるさい彼女は、きっととっくに目を覚ましているだろう。それなのに月見がこの時間まで寝ていられたのは、疲れているだろうからと、気遣ってもらえたからなのかもしれない。

 ……と、その時は思ったのだけれど。

 月見が居間まで行ってみると、ところがそこに慧音の姿はなかった。

 

「おや」

 

 朝食を作ってくれているのだろうか、と思って台所を覗いてみるが、いない。ならば用事で外に出ているのか、とも思ったが、玄関では慧音の靴が戸に先を向けて置かれていて、彼女が家にいることを立派に証明している。昨夜、月見のあとに風呂に入ったのだから、朝湯を浴びているということもないだろう。

 となると、もしかしてまだ起きていないのか。

 月見は慧音の寝室へ向かった。勝手に入るなと釘を刺されはしたが、一応、昨夜のうちに場所だけは教えられていた。

 

「慧音、いるか?」

 

 襖越しに声を掛けてみるが、返事はない。いないのか、それとも本当に寝ているのか。

 

「慧音ー」

 

 襖を叩いてみても結果は同じだった。なので月見は、失礼だとは承知の上で、そっと襖を開けて中を確認してみた。

 すると。

 

「……おや」

 

 部屋の中央で、ゆっくりと上下に動いている布団が一つ。どうやら今日の慧音は、月見と同じでお寝坊さんだったらしい。

 ここが自分の家ならば、このまま寝かせておいて朝食を作ってやるところだ。けれどここは慧音の家だから、料理はもちろんなにをするにも、ひとまず彼女には起きてもらわないといけない。

 わざわざ足音を殺すような真似はしなかったが、よほどぐっすり眠っているようで、慧音は一向に目を覚まさなかった。枕元まで進んで見下ろしてみれば、彼女のあどけない寝顔が露わになる。

 

「へえ……」

 

 教師、或いは人里の守護者としての線を強さを秘めた普段の顔とは違って、ふんにゃりとだらしなく緩みきった、少女の寝顔だ。いつ涎を垂らしても不思議でないそれは、昨日紅魔館で見たレミリアの寝顔を彷彿とさせる。

 

「こんな顔して寝るのかあ」

 

 きっと素敵な夢を見ているのだろう。笑っているようにも見えるその口元を見て、月見も自然ともらい笑いをしてしまった。ここが慧音の家であるばっかりに彼女を起こさなければならないのが、少し口惜しいと思えるくらいだった。

 月見はその場で膝を折り、慧音の肩を優しく揺する。

 

「おーい、慧音ー」

「ん、ぅー……」

 

 わずかに反応が返ってきたが、まだ起きない。なので月見はもう一度、

 

「慧音ー」

「ん、んぅー……?」

 

 慧音がゆっくりとまぶたを持ち上げた。寝惚け眼をこすりながら月見を見上げた彼女は、なにやら不思議そうに首を傾げて、それから数秒ぼけーっと固まって、

 

「……ぐぅ」

「はいはい起きろ慧音ー。朝だぞー」

「うぅー……」

 

 月見は慧音の額をペシペシして叩き起こした。慧音は抵抗の声を上げながらも、促されるままにのそりと起き上がり、けれどまだ半分寝ているのか、隙あらば布団に戻ろうとする体をうつらうつらと支えていた。

 これはまた、なかなかに立派なお寝坊さんだ。……なんとなく、授業に遅刻して生徒に叱られる慧音の図が思い浮かんだが、それはさておき。

 

「おはよう、慧音」

「ぅん……」

 

 慧音は、あいかわらず船を漕ぎながら答えた。

 

「随分眠そうだな。もしかして眠れなかったのか?」

「ぅん…………」

「……ちゃんと起きてるか?」

「ぅん、………………うん?」

 

 その時、慧音の顔が急に真面目になった。船を漕ぎすぎて川に落ちたのだろうか。ぱっちりと両目を見開いたまま、まんじりともしない。

 それがあんまりにもただならぬ様子だったので、月見もついどうしたと尋ねることができず、しばし無言でお互いを見つめ合ってしまって。

 数秒後、先に我へと返ったのは、慧音の方だった。

 ポカンと開いていた口がじわじわと大きくなっていき、水が湧くように顔全体に驚愕が染み渡り、瞳が収縮し、体がわなわな震え出して、首から段々と赤い色がせり上がっていって――

 そして、その赤が頭のてっぺんまで届いた、直後。

 

「――きゃああああああああああああ!?」

 

 ゼロ距離で放たれた無数の弾幕が、月見の体を――そして意識すらをも、一瞬で呑み込んでいった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『人化の術』で人間になった弊害だろう、慧音の弾幕はとてもとても痛かった。一時間ほど気絶し、意識を取り戻して更に一時間以上が経ってなお、体には打撲の痛みが残っていて、節々に包帯を巻く羽目になってしまった。

 

「ほ、本当にすまない……。わざわざ起こしに来てくれたのに、こんな」

「いや、まあ、仕方ないだろうさ」

 

 隣で申し訳なさそうに身を縮めた慧音に対し、月見は力のない苦笑を返した。怒りはない。起こしてあげたお礼がゼロ距離弾幕というのもあんまりな話だけれど、慧音としては勝手に私室に入られた挙げ句、寝顔を見られたのだ。反射的に弾幕をぶっ放してしまうのも、うべなるところである。

 

「こっちこそ悪かったね、驚かせて」

「い、いや、私の方こそ。それにこれは、お互い様というか……」

「お互い様?」

「な、なんでもないっ!」

 

 勢いよくかぶりを振った慧音は、ぷいとそっぽを向いて赤くなった頬を隠そうとする。お互い様――というのがなんのことかはわからないが、どうせろくな意味ではないだろうから、追及せずとも問題はなかろう。

 

 慧音の家を出発し、迷いの竹林へと向かう道中である。まずは竹林の地理に詳しいという慧音の友人を訪ねるため、慧音の案内のもと、人里を南に向けて歩いていた。

 進む人里の道は、実に活気豊かであった。何気ない世間話の声、威勢のいい客引きの声、そしてなにより朗らかな笑い声が絶えない。昨日初めて里を訪れた時に感じた侘びしさは既になく、そこにはただ、温かい人間の気配があふれていた。

 昨晩の一件は、どうやら既に人里中に広まっているらしい。すれ違う里人からは口々にお礼の言葉を贈られ、露店の前を通っては、安くするからどうだいと何度も呼び止められた。中には、昨夜はお楽しみだったかいなんて茶化してくる里人もいて、

 

「お前たち、もういい大人なんだから少しは節度ってものを弁えたらどうなんだっ!?」

「おおっと慧音先生、そうやって取り乱すってことはまさか」

「天誅ッ!!」

「ぎゃー!?」

 

 慧音が直々に、頭突きをまき散らして弾圧したりしていた。

 その光景を眺めながら、月見は笑みとともに思う。この人里は、500年前とは見違えるくらいにいい場所になった。妖怪が跋扈(ばっこ)する世界にも関わらず、人間たちがこんなにも伸び伸びと生活している。

 それに、半人半妖の慧音が受け入れられているのもある。かつて紫が夢見た人と妖怪がともに生きる世界は、月見がいない500年の間で、ますます理想に近づいたようだった。

 

「ちなみに先生、あのあんちゃんとどこに行くんで? デートですか?」

「成敗――――ッ!!」

「いったー!?」

 

 ところで上白沢慧音、得意技は頭突きらしい。ごっちん、と寒気がするくらいに派手な音を鳴らすそれを見て、もしかするとゼロ距離弾幕よりひどいかもしれないなと、月見は苦笑いをした。

 

 

 

 

 

 里を出てから迷いの竹林までは、まだ昼間ということもあって、妖怪に襲われることもなくすんなりと行った。今は竹林の手前にて、慧音の友人が住んでいるらしい茅葺屋根の家を前にしている。

 

「お前と同じ陰陽師の子だよ。見た目よりずっと腕が立つから、妖怪に襲われても平気だろう」

「ほう」

 

 陰陽術は、現代文明の発達においては既に滅びゆく技術となりつつある。幻想郷が創られ、人間たちの世界から妖怪が姿を消してからは、必要のない技として受け継がれることもなくなり、今や風水や占星などの一部の形骸を残すのみ。妖怪と戦えるほどの陰陽師というのは、幻想郷はもちろん世界中を探したとしても、両手の指に勝るかどうかだろう。

 そんな幻想郷の陰陽師は、なんとまだ若い娘だという。さて、一体どんな子なのだろうか。

 慧音は少女の家の戸を叩き、声を上げた。

 

「妹紅ー。妹紅、いるかー?」

(――妹紅?)

 

 月見は眉をひそめた。聞き覚えのある――というか、完全に知り合いの名前だ。

 それから、ああなるほど、と納得する。確かに彼女は、若い娘でありながら腕が立つ陰陽師でもある。月見の旧知であり、以前幻想郷で生活していた時にも交流があった少女は、今なお陰陽術を人のために役立てているようだった。

 古馴染に会えることを心待ちにしたが、反して慧音の呼び掛けに対する返事は返ってこない。どうやら、折悪しく留守にしているらしい。

 

「妹紅ー? ……なんだ、いないのか」

 

 彼女の不在は予想していなかったのか、慧音は肩を透かされた様子だった。

 

「すまない、月見。大抵ここでのんびりしてるはずなんだけど」

「や、謝らなくても。そんなこともあるだろうさ」

 

 古馴染の顔を見られなかったのは少し残念だが、とりわけそれ以上の不都合があるわけではない。もともと月見は、一人で永遠亭を目指すつもりだったのだから。

 

「仕方ないだろうね。でも大丈夫だよ、私一人でも」

「ああ、そうだな――って、だからなんでお前は一人で行こうとするんだよっ! 危険だって何度も言ってるのに、わからないのか!?」

 

 けれど慧音は、よっぽど月見を一人で行かせたくないらしかった。声を荒らげ、胸倉に掴みかからんとする勢いだった。

 

「自分なら大丈夫だと思ってるのか!? 慢心だぞそれは、迷いの竹林を甘く見ちゃダメだ!」

「別に甘く見てるわけじゃないけど……じゃあどうするんだ?」

「また出直せばいいじゃないか。急ぎの用でもないんだろ?」

「それは……そうだけどね」

 

 月見は腕を組んで悩んだ。慧音の言い分はとてもよくわかるのだが、本当に一人でも大丈夫なのだから、わざわざ出直す必要がない。……さて、どうやって説得したものだろうか。

 うーむと唸って考えていると、慧音が不意に声を曇らせた。

 

「私はお前を心配してるんだぞ……? 一人で行って、それでもしなにかあったら、嫌じゃないかっ……」

 

 少しだけ湿った声だった。優しいんだな、と月見は思う。昨夜知り合ったばかりの男のために、ここまで心配してくれるのだ。人里の守護者を任されているのは、決して半人半妖としての実力を買われただけではない。その人間性もまた、彼女が里人たちから厚く信頼される一つの理由なのだろう。

 

「優しいんだな、慧音は」

「なっ……べ、別にこれくらい普通だろう。そうやって言いくるめようとしても、無駄だからなっ」

「本心だよ」

 

 素直な褒め言葉に弱い慧音を見て、月見は苦笑し、

 

「じゃあ、慧音も私と一緒に行くか?」

「……どうして、“じゃあ”でそんな話につながるんだ?」

 

 彼女の半目を受け流しつつ、続ける。

 

「私は一人ででもいいから、今、永遠亭に行きたい。そして慧音は、私を一人では行かせたくない。……だったら一緒に行くっていうのが、一つの折衷案だと思うけど」

「む、確かに……いやでも、私は竹林の地理には自信ないんだが……」

「慧音の好きにしてくれて構わないよ。……じゃあ私は先に行ってるから」

「ちょっ、おい待て! 本気で行くつもりなのかっ!?」

 

 無論、本気である。今は隠しているが、月見の正体は妖狐――それも長い年月を生きた大妖怪なのだ。竹林で道に迷うことはあれ、それで死ぬことなどありえない。

 故に月見は止まらない。結局、あーもう! と頭を掻きむしるような叫びが聞こえたあと、乱暴な足音が一つ、背中にくっついてきた。

 

「月見。お前は、子どもだ」

 

 突き刺すように鋭い慧音の声に、けれど月見は言葉を返さず、ただからからと笑っただけだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 迷いの竹林の恐ろしさは、文字通り、その地形構造故の迷いやすさにある。どこまで分け入っても竹以外の目印がない単調な視界に加え、気づかないほどに緩やかに傾斜した地面が、潜在的に人の方向感覚を狂わせるのだという。

 またこの日は、運が悪いことに霧が深かった。まるで雲の中にいるかのように、隣を歩く慧音の姿すら霞むほどだった。これではいくら旅に慣れた月見といえど、白旗を振る以外にない。

 詰まるところ。

 月見と慧音はものの十数分で迷い、その場で立ち往生することとなった。

 

「もう……だから言ったじゃないか、迷うって」

「うむ。さすがは迷いの竹林だね」

 

 がっくりとため息をつく慧音に対し、月見の口振りは軽い。何千年も前から世界中を歩いて回ってきた月見にとっては、道に迷うというのもまた、一つの旅の楽しみだった。

 

「まあ、いざとなったら空を飛べばいいだろうさ。永遠亭を見つけるのは……霧が深いから難しいだろうけど、人里までは帰れるだろう」

「そうだね……――って、え? お前、空飛べるのか?」

「一応ね」

 

 へー、と小さく呟いた慧音は、それからふと疑問顔で、

 

「あれ、じゃあなんで私たちは、わざわざ歩いて永遠亭に……? 私はてっきり、お前は空を飛べなくて、だから歩いていくしかないものだと……」

「旅というのは、自らの足で歩いてこそだよ」

「でも、飛んでいけばここまで迷うこともなかったよな?」

「道に迷うのもまた、旅の醍醐味なのさ」

「……」

 

 しらーっと半目になった慧音を、月見は無視した。……500年間外ばかりを歩いていた影響か、空を飛ぶという選択肢を今まで完全に忘れていたのは、秘密である。

 ああもう、と慧音がため息をつき、

 

「……で、どうするんだ? 諦めて里に帰るか?」

「まだ歩き始めたばかりだろうに。まだまだ諦めないよ、私は」

「なにか打開策はあるのか?」

「いや、なにも」

 

 慧音の半目が氷点下になった。

 月見は浅く肩を竦めて、

 

「慧音、もっと余裕を持った生き方をしようじゃないか」

「お前は余裕を持ちすぎだろう……」

「そうかな? ……ともあれ、そろそろ再出発しようか。慧音はどうする? 付き合いきれないと思ったら、無理はしなくていいんだよ」

「……ついていくよ」

 

 慧音は依然として疲れ果てた様子で、けれどはっきりと首を横に振った。

 

「お前はダメだ。最後まで付き合って、そして里に戻ったら説教してやるからな。覚悟しておけ」

「ッハハハ、そうか」

「まったくもう……あのな月見、お前はもう少し」

 

 さっそく前言を翻し、今この場で説教を始めようとした慧音の言葉を遮って。

 迷いの竹林をかすかに揺るがす、爆発音が響いた。

 まず空気が震え、一瞬遅れて地面が揺れる。

 

「……今のは?」

 

 二度目。今度は先ほどよりも強い。

 心当たりがあるのか、ああ、と慧音が小さく声をもらした。

 

「なるほど……だから家にいなかったんだな、妹紅は」

「……というと?」

「いや、その……」

 

 慧音は、少し答えに困る素振りを見せてから、

 

「なんというか……たまにこの竹林で暴れてるんだ、あいつは」

「……なんだってそんな」

 

 ということは、先ほどから聞こえるこの爆発音は、妹紅の仕業なのだろうか。相当派手に暴れ回っているらしく、一向に治まる気配がない。

 慧音が答えを躊躇ったあたりからして、決して妖怪退治をしているわけではないようだが。

 

「ふむ……じゃあとりあえず、行ってみようか」

「行くって……妹紅のところに?」

「この状況だ。もし会えたら、道案内を頼みたいしね」

 

 それに、妹紅が暴れている理由も気にかかる。彼女は意味もなく力を振り回す乱暴者ではなかったはずだが、500年の歳月で変わってしまったのだろうか。

 慧音とともに竹林を進む。断続的に響く爆発音のお陰で、向かう方向には迷わなかった。

 けれど、震源に大分近づいてあと少しというところで、竹林にもとの静けさが戻ってきた。霊力の気配がしたので空を見てみれば、薄くなった霧の彼方で、紅い炎の鳥が一羽、遠い空に飛び去っていくのが見える。

 あの炎は、妹紅の。

 

「……ちょうど、終わっちゃったか」

 

 月見は緩く吐息し、眼前に広がる竹林の惨状へと目をやった。

 焼け野原である。広がっているはずの竹林は消滅し、地面は焼け焦げ、所々から黒い煙を上げている。まるでちょっとした火事のあとだ。霧が薄くなったのが幸か不幸か、その生々しさが隅々まで見て取れる。

 

「……妹紅は一体、ここでなにをしていたんだ?」

 

 妖怪退治だとしても、よほどの相手でなければこうはなるまい。

 慧音はあからさまに胸を衝かれた様子で、なにもない宙へと目を泳がせた。

 

「ええと、それは……弾幕ごっこだよ、弾幕ごっこ」

「……」

 

 月見はもう一度、周囲の惨状をぐるりと見回す。……たかが弾幕ごっこでここまで竹林が焼き払われるなど、ありえるのだろうか。

 と、

 

「……ん?」

 

 焼け野原の片隅に、誰かが倒れている。ちょうど慧音も気がついたらしい。

 

「あれは……」

 

 薄く霧がかかる中を、目を凝らしてよく見てみれば。

 そこに倒れていたのは、衣服どころか下着すら身に着けていない、まさに一糸まとわぬ、素っ裸の、

 

「うわああああああああああ!? 見るなバカアアアアアアアア!!」

「ぐっ」

 

 それを情報として認識するよりも先に、慧音のジャンピング頭突きが月見の額を打ち抜いていた。目の前で火花が飛び散り、あっという間に視界が真っ暗になって、一時は己の意識すらも闇に沈んだ。脳の奥から焼きつくような熱さと痛みが込み上がってきて、それとともに意識が戻ると、どうやら自分は額を押さえて地面にうずくまっているらしい。

 

「……慧音、」

 

 頭蓋が割れたのではないかと思うほどに痛い。文句の一つも言ってやろうかと思い顔を上げようとしたが、間髪を容れずに、上から全力で押し戻された。

 グギ、と首が嫌な音を立てた。

 

「だ、だだだだだっだめだッ! 絶対に顔を上げるな絶対に動くな絶対に見るな! いいか、顔を上げたら、もう一発叩き込むからなッ!?」

「ッ~~……!?」

 

 慧音が泡を食ったように大騒ぎして言うが、月見に返事をするような余裕はない。頭蓋とうなじに襲いかかる二つの激痛を耐え忍ぶので、精一杯だった。

 しかし慧音は、その月見の沈黙を否定と受け取ったようで、

 

「ダ、ダメだあッ! お、お前も男なんだし、こっ、こここっこういうのに興味を持つのはわかるがっ、とにかく絶対見ちゃだめええええええええっ!!」

「いだだだだだっ!?」

 

 全体重をかけて全力でこちらの頭を押し潰す慧音に、月見はもう、比喩でもなんでもなく、本当に地面とキスをしそうだった。

 

「け、慧音、わかっ……わかったから放しっ、」

「ぜ、絶対に動くなよ!? 絶対だからなッ!?」

 

 やっとの思いでそれだけ言うと、頭にかかっていた力がふっと軽くなる。途端、月見は声にならない、噛み締めるような悲鳴をひとしきり上げて、そのまま地面にうつ伏せで倒れ込んだ。

 頭が割れたように痛くて、首が千切れたように痛い。悶え苦しみたくなるくらいの激痛なのに、体はほとんど動いてくれなかった。脳がやられてしまったのか、それとも神経系がダメになったのか。或いは、両方か。

 ふと、額から汗が滴るような感覚を覚え、月見はかろうじて動いた指先でそれを拭った。掠れた視界の中で確認してみれば、どうやら汗ではなく、血らしい。

 慧音の頭突きで額を切ったのだと、それを理解すると同時に、唐突になにもかもがどうでもよくなってしまった。私はなにをしにここに来たんだっけ、と思う。……ああそうそう、永遠亭だ。でも、なんだか永遠亭へは辿り着けなくてもいいような気がする。それどころか、このままここで眠ってしまってもいいような気さえした。

 それ以上はもう、考えるのも億劫だったので。

 なので月見は、最後に心の中で一言。

 

 ――ああ、やっぱり人間の体って、不便だなあ。

 

 そしてそれっきり、一切の思考を止めて、意識を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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