銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第148話 「幻想郷狐狸草子ぽんぽこ ①」

 

 

 

 

 

 冬の凍える寒さはすっかり過去のものとなり、厚着の要らない朗らかな春の陽気と、少し肌寒い花冷えの涼気が立ち替わるように続いている。

 この日は前者で、また胸がすくほどの快晴だった。縁側で日向ぼっこをして過ごすだけではあまりにもったいなかったので、月見は朝そこそこから風の向くまま気の向くままの散歩に出かけ、正午をやや過ぎる頃にはぶらりと人里まで流れ着いていた。

 暖かくなれば、里の活気も自然と上向きになる。子どもは外で遊びやすくなり、大人は道端で井戸端会議がしやすくなり、茶屋は店先に大きく真っ赤な野点傘(のだてがさ)を立て、青空の下に雅な客席をこしらえる。季節を問わずいつでも賑やかな里だと思っていたけれど、こうして春の活気を目の当たりにしてみれば、冬の間はわずかとも鳴りをひそめるものがあったのだとよくわかった。

 

「あらお狐様。こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 

 すれ違う里人と挨拶を交わしつつ、目的らしい目的もなくぶらぶらと歩く。里一番背高のっぽな桜の木が、枝の先に薄い紅色のつぼみをつけている。もうしばらくして桃色の花弁が開けば、幻想郷が最も華やぐ花見の季節の始まりだ。三日ほど前から酒虫の酒を客に振る舞うのもやめ、来るべき時のためにこつこつ貯蔵をしているけれど、幻想郷の呑兵衛たち相手に果たして何日持つのやら。

 ふと、ほのかな甘い香りが月見の鼻孔をくすぐった。

 茶屋だった。店先で一本の木のように広げた野点傘と、目が覚める真紅の毛氈(もうせん)を引いた縁台が目を引く。古き佳き茶屋には欠かせない伝統の小道具であり、どちらも冬の間は、雪が積もる、わざわざ外で食べる客もいない、などの理由でしまわれていたものだ。けれど太陽が大変心地よいこの日は、店内の席よりむしろ外の方が賑わっているようだった。

 里でも有数の歴史ある老舗だ。老若男女問わず団子に舌鼓を打つ姿を見ていると、月見もにわかに食欲を刺激された。ここいらで、休憩がてら小腹を満たすのもよいだろうか。

 

「どれ」

 

 茶屋に足を向けながら、ざっと見回して空いている席を探す。店先には緋色の縁台がいくつか並べられており、その中で少女が一人だけ座っている席を見つけた。他に空きはなさそうなので、恐縮ではあるが隣に座らせてもらうとしようか。

 と、

 

「……ん?」

 

 あの少女の横顔。

 腰まで隠れる長い茶色の髪をゆったりと結わい、人里では珍しくこぶりで洒落た眼鏡を掛けている。満足そうに団子を頬張る笑顔は一見年若い娘ながら、草色の羽織を悠然とまとい、人目を気にせず無造作に脚を組む姿はどうもそれらしくない。人里ではまだ昔ながらの風習や価値観が強く残っているので、年頃の女性はおおむね服を丁寧に着込むし、人前で足を組む行為も失礼とされる場合が多い。

 顔かたちと佇まいが噛み合っていない。

 なにより月見の妖怪の勘が、彼女は人間ではないとはっきり告げている。

 

「……」

 

 そう思って改めて見てみれば、すぐに気づいた。月見は口元に笑みがにじむのを感じながら、少女の横に立って声を掛けた。

 

「隣、いいかい」

「ん? ああ、構わんぞ。どこも満席じゃからなあ」

 

 若い娘に似つかわしくない古風な返事を聞きながら、隣に座る。少女は美味しそうに頬張った団子を飲み込み、茶をすすって、それから「茶を噴く」のお手本として後世に語り継ぎたくなるくらい美しく噴き出した。

 前に誰もいなくて助かった。

 

「ぶ、げほごほうぇっほ!? ぬ、ぬし!? げっほ!」

「やあ。久し振りだね」

 

 佐渡より来たれり化け狸の総大将――二ッ岩マミゾウ。

 長い茶髪を緩く結わった眼鏡の少女は、彼女が人間に化けたときの姿だ。マミゾウは思わず立ち上がり、見ていて痛快なほど慌てふためいて、

 

「ごふ、は!? ぬし、いや待て、なぜ妖怪の」

 

 月見は口の前で人差し指を立て、しー、と息をひそめた。そこでマミゾウは正気に返り、自分が周囲の視線をひとつ残らず独り占めしていると気づいた。

 

「……んんっ」

 

 気恥ずかしそうに、咳払い。

 

「し、失礼しましたー……」

 

 肩を縮めてそそくさと座る。里人たちはしばし疑問符を浮かべていたが、横の月見に気づくなり「なんだ、お狐様の知り合いか」と合点がいった様子で解散した――なぜそれで納得するのかは敢えて問わないでおく――。ついででちらほらと挨拶が飛んできたので、返しておく。

 店主夫妻の娘が、お盆に茶を載せてやってくる。

 

「お狐様、いらっしゃいませー」

「お邪魔するよ。団子を一皿」

「はーい。お待ちくださいねー」

 

 娘に注文する間、マミゾウは信じられないモノを見る形相で一切の身動きを止めていた。愛想のよい返事で娘が引っ込み、月見が受け取った茶で喉を潤したところで、

 

「――ぬし」

 

 周囲の里人には決して聞こえず、されど妖怪同士の会話には差し支えない絶妙な声量だった。頭の切り替えは完了したようで、鹿爪らしい表情で湯呑みの茶を睨む横顔が見えた。

 

「一応、久し振りと言っておこうか」

「ああ」

「その姿のまま人間の里をうろつくとは、あいかわらず非常識なやつじゃな」

「おや、お前だってこっち側のはずだが」

「ぬしと一緒にするでないわ。ちゃんと人間に化けておるだろうに」

 

 マミゾウは、外の世界で長年人間に寄り添って生きてきた妖怪だ。やってきたばかりの幻想郷ならなおのこと、人間たちの目がある場所でいきなり騒ぎを起こすほど考えなしではない。人里で偶然出会えたのは僥倖だった。もしも人目のない場所で出くわしていたら、代わりに飛んできたのはひっかき攻撃と蹴り攻撃だったかもしれない。

 

「こんなところで会うとは思わなかった。いつこっちに来たんだ?」

「今日の朝じゃ」

「引っ越しは終わったのかい」

「休憩中じゃ」

 

 愛想のあの字もないつっけんどんな返事だったし、こちらに目を合わせてくれる気配もないけれど、一応、会話はしてもらえるようだ。

 

「賢者殿から聞いたわ。よもや本当にここで暮らしておるとはの」

「ああ。今はそういう気分でね」

「そういう気分、のお……」

 

 煙草の煙を(くう)に溶かすような、緩いため息が返ってきた。

 

「新天地に来て最初に会う顔馴染がぬしとは、先行きが不安じゃて……」

「これからは幻想郷の住人同士ということで、よろしく頼むよ」

 

 苦虫百匹噛み潰した顔、

 

「ぬし、因縁の宿敵相手によくそんなことを言えたもんじゃな」

「私は、お前を敵だと思っちゃいないよ」

「はー、聖人君子気取りか。そういうとこじゃぞぬしは」

 

 舌を出すように冷たく言われ、ぷいとそっぽを向かれてしまう。まったくもって取りつく島もない反応に、しかし月見はほのかな楽しさすら感じていた。ケンカをけしかけられることも立ち去られることもなく、マミゾウとありふれた会話ができているだけで随分と久し振りな気がした。

 マミゾウの団子の皿は、すでに竹串が載るだけになっている。追加を頼む素振りもない。だから月見の存在が不愉快なら、さっさと支払いを済ませて立ち去ることもできるはずなのに。

 

「……まあよいわ。よろしくされるつもりなど毛頭ないが、儂も進んで事を荒立てたりはせん。余計な争いは起こすなと、賢者殿から釘を刺されてしもうたからのう」

 

 のされたんだってね、と言おうものならその瞬間マミゾウは進んで事を荒立てる存在と化すだろうからやめておく。マミゾウは小さく頭を掻き、

 

「あー、それでじゃがな。どうせ会ってしまったのなら、ぬしに訊きたいことがある」

「なんだい?」

「封獣ぬえという妖怪がどこにいるか、知ってはおらんか?」

 

 辛うじて、表情には出なかったと思う。

 マミゾウと会話が成り立つ事実に気を取られてすっかり失念していた。マミゾウが幻想郷に移住を決めたのはぬえに会うためで、そうである以上、彼女の居場所を尋ねられるのは想定して然るべきだった。月見は平常心を装いながら大急ぎで思考する。

 ぬえが今でも居候を続けている以上、時が来たら包み隠さず話すしかないとは思っていたが、果たして本当にそれでよいのか。いや、妖怪が暴れるわけにはいかない白昼の往来だからこそ、今のうちに話してしまった方がよいのだろうか。遅かれ早かれどうせバレるのを考えれば、後回しにすればするほど厄介な誤解を生むだけかもしれない。

 と、ここまで月見は一秒で結論し、

 

「ああ。今日は、私の家に居座ってるよ」

 

 ――居候している、とはっきり言えなかったあたりに己の不甲斐なさを感じないでもない。

 しかし、結果的にはこの言い方で正解だったのかもしれない。ほんの一瞬、ではあったけれど。変化を解いて妖怪に戻ったかと見紛うほど、マミゾウの気配がそれはそれは剣呑に膨れあがったのだから。

 

「――な、」

 

 そうマミゾウが声を絞り出す頃には、なんの変哲もない人間の少女に戻っている。あまりに一瞬だったため周りの客はなにが起こったのかわからず、目を丸くして不思議そうにあたりを見回している。

 マミゾウが、ようやく正面から月見と顔を合わせてくれた。

 建てつけの悪い引き戸を無理やり開けるように。火山のごとき感情の噴火を、崩壊寸前の笑顔でギリギリ覆い隠しながら。

 

「な。な、ぜ。ぬえが。ぬしの家に、おるんかのう」

「待った待った。ちゃんと理由があるから」

 

 地底へ足を運んでいるうちに面識ができたこと、ぬえの封印を解いたのが自分であること、長年地底暮らしだった彼女にとって地上の知り合いは自分くらいしかいなかったこと、この三点を月見はきちんと説明する。すなわち、ぬえが月見の家に居座るのには相応の事情があるのだと。その甲斐あってかひと通りの説明が終わる頃には、マミゾウもある程度の落ち着きを取り戻していた。

 吐息。

 

「……まあ、あやつは昔から独りを嫌っておったからのう。じゃがなぜよりにもよって……」

「私の家ではだらだらしてばかりのぐうたら娘でね。お前から活を入れてやってくれないかい」

 

 小鼻を鳴らし、

 

「言われるまでもないわ。友人が狐の家に入り浸るなんぞ、儂は断じて認めんからな」

 

 好き勝手にゴロゴロするぬえの存在が迷惑だったかといえば、実のところそうでもない。惰眠を貪ってばかりといえば響きは悪いが、裏を返せばおおむね静かで月見の生活を邪魔しないということだし、最近は少しずつ家事の手伝いもしてくれるようになっているし、なにより彼女は居候するに相応の家賃をしっかりと払っている。なのに無理やり追い出す真似をするのは酷な話であり、そうするつもりも毛頭ない。

 しかしマミゾウが幻想郷にやってきた以上、今の居候生活を続けようとするならば、彼女を説得するのがぬえにとって避けて通れない道だ。マミゾウは筋金入りの狐嫌いであり、なにより妖怪は妖怪らしくあらんとする思想の持ち主でもある。伝説にその名を残した大妖怪『鵺』が、このまま狐の屋敷で堕落していくのをよしとはすまい。

 

「じゃがそれはそれで都合がよいわ。ぬし、このあと家まで案内してもらうぞ。探す手間が省けたというもんじゃ」

「……ああ。わかったよ」

 

 月見にとっても、避けては通れない道である。

 必要な話は一切済んだとばかりにマミゾウが黙り込む。とはいえ立ち上がる様子はなく、どうやら月見の腹ごしらえが終わるまで待っていてくれるらしい。昔と比べるとだいぶとっつきやすい印象だが、年を重ねて本当に角が取れたのか、人間たちの手前無難に取り繕っているだけなのか。

 

「お狐様、お待たせしましたー」

「ありがとう」

 

 娘が持ってきた団子を受け取り、あまりマミゾウを待たすまいと手早く口に運びながら。

 月見は少しばかり、この狸な少女と出会ったときのことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無論、あの出会いが百パーセントすべての原因というわけではない。あれ以外にも様々な要因が長い年月をかけて蓄積され続けた結果として、二ッ岩マミゾウは狸でも類稀な超絶狐嫌いへと成長したのだ。故に、月見一人ばかりを責めるのもちょっとばかり酷といえよう。

 ただ少なくとも、あれがひとつの大きなきっかけだったのは間違いない。あれがマミゾウのプライドに確かな傷をつけた。もしもあれがなかったならば、マミゾウの狐嫌いだってひょっとすると多少は違う形を見せていたかもしれない。

 遡ること千年以上、彼女がまだ小さな子狸だった頃。

 二ッ岩マミゾウは、化かし合いで月見に泣かされたのだ。

 

 

 

 

 

 今が化け狸の頭領である通り、二ッ岩マミゾウは生来才能豊かな妖怪だった。神童というやつである。『天賦の才』という言葉を天より賜るべく生まれた娘であると評され、とりわけ変化の術をはじめとする妖術においては、数百歳の人生差がある大人すらまるで物ともしなかった。師事した相手から次々と白旗を上げられ、やがて己が知る限りで並び立つ同胞もいなくなって、マミゾウが一流の化け狸として独り立ちするまでさほど歳月はかからなかった。

 この時代、独り立ちした化け狸が日々果たすべき役目といえば、おおむね人間を化かすことである。それはもちろん娯楽という意味合いもあるけれど、ときには生きるための食料を確保し、ときには人の世に紛れるための金銭を掠め取り、なにより人間どもから『畏れ』を獲得する最重要の手段でもあった。狐だの(むじな)だの(かわうそ)だの、同じく変化を得意とする妖怪に遅れを取るなどあってはならない。変化を使う妖怪は数いれど、最も恐ろしいのは化け狸である――そう世を戦慄せしめねばならないのだ。

 持論である。狸といえば総じて狐や狢に競争意識は持つものだが、ここまで極端な思想を持ち合わせているのも稀だろう。

 己の実力に確固たる自信を持っているからこそ、化け狸としての矜持も一倍強いマミゾウであった。

 

「――お、今日の獲物が来たようじゃの」

 

 ある地方を穿って伸びるある街道、その山間の道である。マミゾウは木深い斜面に紛れながら虎視眈々と口端をつり上げ、眼前を歩く一人の男に狙いを定めた。護身用の武器も()かない無警戒で無用心な一人歩き。化かしてくれと、馬鹿でかい看板を自らぶら下げて歩いているにも等しいうつけ者。

 マミゾウが独り立ちして間もなく、まだ充分に子狸と呼べる齢の頃である。

 当時のマミゾウはこの近辺を縄張りと定め、人間と極めて近い距離で暮らしを立てていた。道行く旅人を化かすのはもちろん、時には人間に化けて近くの町へ紛れ込んだりしていた。正体が明るみに出ればその場で退治される危険もあるが、才能豊かなマミゾウにとってはまるで造作もないことだった。

 こと人間を化かすにおいて、マミゾウは未だかつて失敗というものを経験したためしがなかった。故に自分はどんな人間でも騙しおおせると思っていたし、そうである以上獲物の実力をあらかじめ見極める必要も感じていなかった。

 敢えて忌憚ない言葉で表現すれば、当時のマミゾウは自信過剰だったのだ。

 

「どぉれ、ひとつ騙くらかしてやるとするか」

 

 もっとも、前もって獲物の実力を見極める用心深さがあったとしても、恐らく結果は変わっていなかっただろう。男はどこまでもただの男で、武器はなにひとつ持っておらず、化かしてくれと馬鹿でかい看板をぶら下げながら歩いている。その認識に誤りはなかった。それが紛れもない事実である以上、見極めもなにもあったものではなかった。

 マミゾウが男の姿を目撃し『獲物』という思考を巡らせた時点で、もはや術中に嵌っていたのだ。

 

 

 

 

 

 男とは月見である。

 近頃町の外で、道行く人を化かす物怪(もののけ)が出て困っている。少し調べてもらえないだろうか――流れ着いた町でそんな相談を受け、とりあえず問題の道を歩いている最中だった。このあたりは山間になっているため緑が濃く、せっかくの夕暮れが木々に遮られてしまっているせいで、なるほど妖怪の一匹や二匹はいつでも飛び出てきそうな薄暗さがあった。

 まあ、そもそも月見が妖怪なのだが。『人化の法』を使っているので、見た目は紛うことなきただの男だ。おまけに武器は佩いていないしお供も連れていないしなので、件のいたずら妖怪ならしめしめと化かしにやってくるだろう。

 

「さて、どれほどの手練れなのかな」

 

 月見の口元には薄い笑みの色がある。話を聞くに物怪はなかなか狡猾で、成敗しようとした侍などもみんな苦杯を舐めさせられるだけで終わったという。退治するつもりはない。物怪がどんな策を仕掛けてくるのか今から楽しみなのは、月見もまた幻術を扱う妖物の末席だからなのかもしれない。

 すぐに変化はあった。月見が向かう先の道端で、女らしき人影が座り込んで途方に暮れていた。月見が気づくと同時に向こうも気づき、

 

「ああ、もし。もし、そこの御方……」

 

 うら若い女の声だったし、見えてきた顔かたちもまさにその通りの娘だった。紋様のないやや使い古した土色の小袖姿で、傍らにやはり使い古した笠と背負子を置いている。一見すると近くの村里から山菜などを採りにやってきた娘が、道端でちょっと休憩しているかのようだったが。

 

「どうかしたかい?」

「わたくし、この先にある村の者です。山菜や薬草を摂りにここまでやってきたのですが、不注意から足を挫いてしまい、どうにも身動きが取れなくなってしまって……」

 

 女が地べたへ投げ出した右の足首は、確かに赤く腫れあがって見える。

 

「あの、無礼を承知でお願い申し上げます。わたくしを、この先の村まで負ぶってはくださいませんでしょうか」

 

 女が顔を上げ、袖縋るような強い眼差しで月見を捉える。

 

「病に侵された祖母がいるのです。一刻も早く戻って、薬を煎じて飲ませなければ……」

「それは大変だ」

 

 月見は欠片も疑っていない素振りで娘の傍に寄り、膝を折って背を向けた。

 

「さあ、どうぞ」

「ああ、ありがとうございます……」

 

 娘の指先が、己の肩にそっと掛かったのを感じながら。

 ――では、お手並み拝見といこうか。

 

 

 

 

 

 楽勝である。

 あまりに楽勝すぎて、つり上がりそうな頬の筋肉を抑えるのにだいぶ苦労している。心の中では腹を抱えて大笑いしている。男の背の上で優しく揺られながら、マミゾウはすでに己の勝利を確信しきっていた。

 

(はあ……我ながら自分が恐ろしい)

 

 人間に化けるというのは、言葉にすれば簡単だが実はあながち容易な術というわけでもない。むしろ立派な高等技術といってもいい。中途半端な腕の者が変化しようとしても、たとえば尻尾を隠しきれなかったり、ふとした拍子に獣耳が出てしまったり、体の一部に狸の毛が残ってしまったりする。或いは外見が完璧でも、些細な立ち振る舞いでボロが出てしまう場合もある。人間に化けて人間を化かすとは、それだけで一流の化け狸の証明なのだ。

 そして、化けることさえできてしまえばこれほど簡単なものも他にない。

 

(まこと、男というのは単純な生き物じゃわい。生娘に化けてしまえば面白いように騙されてくれる)

 

 女の前では一肌脱いで、頼れる自分を見せつけたがる顕示欲というべきか。男が女にだらしないのは狸も人間も同じで、妙な親近感が湧いてこないこともなかった。

 さて、内心ほくそ笑むのもこれくらいにしておこう。村娘に扮したマミゾウは男の耳元に顔を寄せ、いかにも相応の羞恥心を持った生娘らしく、

 

「重くはございませんか?」

「なあに、このくらいは平気だよ」

「そうですか……」

 

 ――その余裕がいつまで持つか、楽しみじゃのう。

 マミゾウは音もなく舌なめずりをして、妖力を殺し、気取られぬようにゆっくりと変化を開始した。

 マミゾウの能力は、『化けさせる程度の能力』である。木の葉をお金に変えたり枯れ尾花を幽霊に見せたりと、基本はモノを幻術で変化させる能力であるが、応用すれば『自分自身を化けさせる』という使い方ができる。しかも、その変化は決して見た目だけに留まらない。質感や重さといった目には見えぬ部分すらも、変幻自在に錯覚させてしまうことが可能なのだ。

 問題。

 ここでマミゾウが少しずつ石に化けていくとすると、この男はどうなるであろうか。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

「……い、いや、なんでもないよ」

 

 男の息が次第に乱れ、足の進みがどんどん重くなっていく。

 男もいい加減、気のせいではないと気づいたであろう。マミゾウの体がみるみる重くなっていくことに。そしてマミゾウを背負う己の手が、どういうわけかまったく離れなくなってしまっていることに。このままいけば男はあまりの重さに地べたで這い蹲り、背をへし折られる恐怖に情けない叫び声を上げるだろう。

 もちろん、本当にへし折ってやるほどマミゾウは残虐ではない。

 マミゾウの筋書きはこうだ。娘はどんどん石のように重くなっていき、これ以上は一歩も動けずもう駄目だと思った瞬間、ふっと背中が軽くなる。驚いて振り向くと娘の姿が忽然と消えており、嘘だったように背負子ひとつだけが残されている。一体なんだったんだと思いながら中身を覗くと、なんと蜂の巣を叩くごとく無数の虫が飛び出してきた! ……そして尻餅をつき呆然とする男の耳に、どこからともなく不気味な笑い声が響くのだった――。

 これは仕留めたじゃろう。内心ふんかふんかと鼻息が荒いマミゾウである。

 そうマミゾウが己の勝利を思い描いているうちに、いよいよ男も苦しげだった。もはや一歩足を動かすのも一苦労の有様で、口から絶えず喘ぐように呼吸している。意外と頑張るじゃあないか、とマミゾウは感心する。普通ならマミゾウがただの村娘ではないと気づいて、恐怖で足が凍りついてしまう頃合いだ。

 

「ふふ、ほら、村までもう少しでございますよ……」

「っ……」

 

 とはいえ、受け答えする余裕も完全に失われている。マミゾウは勝利に指先が掛かったのを感じながら、あと少し、いま少しばかり自身の重さを増して――

 

「――?」

 

 と。

 ふいに男が道を外れ、(あし)の群がる茂みの方向に進み始めた。

 

(なんと、もはやどちらが前かもわかっておらなんだか)

 

 マミゾウを背負うのに必死になりすぎて、自分が道を外れたと気づいていないのだ。正気を失ってなお諦めない男の意地を剛毅と褒め称えるべきか、向こう見ずと呆れ返るべきか。血を吐いても進み続けるような鬼気を背中から感じ、こりゃあさっさとやめさせた方がよさそうかとマミゾウは吐息して

 

「――っておい待て、こっちは!」

 

 はっとした。葦は、池や沼の周囲(・・・・・・)に茂る植物である。

 すなわち、

 

「この先は底なし沼じゃ、馬鹿者!」

 

 マミゾウが化けるのも忘れて叫んだときには、男の足はすでに水底へ沈み始めていた。マミゾウは舌打ちし、

 

「なにを考えておるんじゃ! こら、戻れ! 戻らんかっ!」

 

 男の後頭部をべしべし叩くも反応がない。マミゾウの叫びもまるで届いていないらしく、男は悪霊に取り憑かれたごとく沼の中心へ進み続ける。

 なにがどうなっているのか咄嗟に理解できない。焦ったせいで変化が中途半端に解けてしまい、被っていた笠が木の葉に戻って舞い落ちる。おまけに獣耳が見え隠れしているし、男へ呼びかける口調も完全に素へ戻っているが、マミゾウはとてもそこまで気が回っていない。

 男は早くも膝の位置まで沈んでしまっており、間もなくマミゾウの足先が泥水に浸かろうとしている。

 

「まったく、世話の焼ける……!」

 

 ともかく、まずは自分だけでもここから脱出することだった。このままでは二人仲良く心中する羽目になってしまう。一方で自分さえ脱出できれば、男一人を助け出すくらいはどうとでもできる。

 わけがわからないのはあいかわらずだが、どうあれ自分の悪戯で死人を出すのは目覚めが悪い。マミゾウは男の腕から両脚を引き抜こうとし、

 

「――は? お、おい、こら、」

 

 抜けない。

 掴まれている。

 

「……いや、いやいやいや、なにをやっておるんじゃおぬしは!?」

 

 本格的に血の気が失せた。一体いつから、いつの間に掴まれていたのかまったくわからなかった。逃げられぬようマミゾウの足首を掴んだ上で沼に入るなんて、まるではじめから心中が目的と言わんばかりではないか。

 マミゾウがすべての変化を解いて妖怪として力を振り絞っても、絡みついた男の指はビクともしない。

 足の指先に、せりあがるような水の冷たさを感じた。

 いよいよもってマミゾウは取り乱した。

 

「ま、待った待った待った! 儂は狸じゃ! ええとその、ちょっと化かしてやろうと思うてじゃな……! よ、妖怪なんぞと心中しても致し方ないぞ!? ほら、助けてやるから手を離さんか!」

 

 無言、

 

「あ、あのなあ、あまり儂を焦らせん方がよいぞ? このままだと少々強引な手を使わざるを得んが、そのとき人間のおぬしが無事でいられる保証はできん。いま一度考え直してみてはどうじゃ、悩みがあるなら相談に乗らんでもないぞ?」

 

 無言、

 

「あのー」

 

 無言、

 

「もしもーし。聞いとるー? おーい、」

 

 ひたすら無言、

 

「いやじゃあああああこんなところで溺れてたまるかああああああああっ」

「――おや、これは異なことを」

 

 背に腹は代えられなくなったマミゾウが妖力を全開放しようとしたそのとき、男がようやく口を利いた。

 

「先に仕掛けてきたのはそっちだろう。もう少し楽しんでいったらどうだい」

「は、え?」

 

 男の背が、ざわつく。男の肩を掴んだマミゾウの掌から、侵食するように一斉に鳥肌がせりあがってくる。

 慌てて手を離した。

 

「お、おぬし、」

 

 嫌な予感がした。

 まさかこいつ、人間じゃ――

 

 

 ――ゴキリ

 

 

 目が合った。

 前を向いているはずの男と、真正面から(・・・・・)目が合った。

 

「……あ?」

 

 その意味がわかるまで、数秒呆ける時間が必要だった。

 理解した途端、全身が悲鳴をあげた。

 

 耳元、

 

 

「逃がすかよ」

 

 

 絶叫。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……やりすぎたかな」

 

 という幻を見せたのだが、子狸にはいかんせん刺激が強すぎたかもしれない。

 当初歩いていた街道を脇に外れ、広がる沼の外縁、鬱然としたぶ厚い葦の壁に身を隠しながら月見は座っていた。乾いた草原の上で胡坐をかいて、すでに人化を解き妖怪の姿に戻っている。そして隣では幼子のなりをした子狸が、

 

「……うぎゅぅ」

 

 と、ぐるぐる目を回して大の字で失神しているのだった。

 まだ若い狸らしいと途中で気づいてはいた。いたのだが、化かし合いなんて久し振りだったのでつい興が乗ってやりすぎてしまった。お陰でひしひしとした罪悪感から立ち去ることもできず、彼女が目を覚ますまでこうして無聊を持て余している次第だった。

 変化の腕前を見ても、この子が件のいたずら妖怪で間違いないだろうと月見は思う。月見は声を掛けられた時点ですでに正体を見抜いていたけれど、それは単なる年の功みたいなものであって、普通の人間ならばなんの疑問もなく化かされてしまっていただろう。まだ子どもでありながら大人顔負けの実力――このまま成長すれば、将来は数多の子分を率いる立派な大妖怪へ大成してもおかしくはない。それほどまでの子狸だった。

 なんにせよ、これに懲りて悪戯から足を洗うか、他の土地へ流れるかしてくれればよいのだが。町の人々が大層気味悪がっていて、このままでは本格的な妖怪退治の矛先を向けられてしまいそうなのだ。月見が依頼されたのはあくまで調査だが、可能ならば退治を望むような言い回しもある程度は感じられた。

 

「う、うぅーん……」

 

 ほどなくして、少女が寝返りを打ちながら目を覚ました。月見が隣を見下ろすと、横倒しになった焦げ茶色の瞳とぱったり目が合って、

 

「――ぎゃあ!?」

 

 少女が全身の毛を逆立てて飛び起きた。バタバタ転げ回って月見から距離を取る。お陰で草色の羽織が実際草まみれになったが少女に気にする余裕はなく、頭を腰より低くして威嚇の構えを取り、

 

「ででっ、でででっでおったな化け物め! よっよかろうこの儂が成敗して、くれ……る……」

 

 牙を剥き出しにした精一杯の喧嘩腰は、しかし尻すぼみになって呆気なく消えていった。少女がぽかんと見つめているのは、月見の腰の後ろあたり――そこから地べたに伸びた銀色の尻尾で。

 三拍ほどの間、

 

「……狐?」

「ああ。さっきはすまなかったね、怖かったろう」

「さっき」

 

 威嚇の構えが解け、少女は気の抜けた四つんばいになって呆然としている。自分が化かそうとした男と目の前の月見の姿が、まだ脳裏で完全に符合していないらしい。

 

「狸との化かし合いなんて久し振りだったから、ついやりすぎてしまってね」

「……」

「沼に入ったのも、私の首が回ったのもぜんぶ幻だよ。安心してくれ」

 

 しばらくの間、まるで反応はなかった。

 その後月見が最初に認識したのは、少女の体がかすかに震え始めたことだった。それはやがてわなわなと大きな痙攣のようになり、彼女の唇から茫然自失としたつぶやきがこぼれ落ちる。

 

「ま、まさか……儂、化かそうとして、逆に化かされ……」

「……」

 

 いかんせん月見からはなんとも言い難く、とりあえず無言のまま見守ってみる。

 

「儂、はじめて、ま、ま、負けっ……しかも、き、きつねえっ」

 

 震えが止まった。

 少女は四つんばいのまま深くこうべを垂れ、糸を切られたごとくぴくりとも動かなくなった。それからゆっくりと五を数え、十を数え、月見が声を掛けるべきかとだんだん心配になってきたそのとき、

 

「……ひっく」

「は、」

 

 泣き出した。

 

「ひっく、うええ……」

 

 泣くほど月見の幻術が怖かった、というわけでは恐らくない。化かそうと思った相手から逆に化かされたこと。頸木(くびき)を争う好敵手ともいえる狐にまんまとしてやられたこと。この二つの事実が、幼くも立派な化け狸の矜持を木っ端微塵に粉砕してしまったのだと思われた。さすがに泣かれるとまでは思っていなかった月見は狼狽し、

 

「悪かった、悪かったよ。この通りだか」

「ふしゃ――――――――ッ!!」

「いだだだだだ!? ぐっ」

 

 猫よろしく顔面をバリバリ引っかかれ、おまけに足裏で盛大な蹴りまでご馳走された。引っくり返った月見の耳に、茂みを掻き分け一目散に走り去っていった音だけが届く。

 起き上がるとすでに少女の姿は影もなく、背高のっぽな葦が呆れながら月見を見下ろしているだけだった。

 顔が、痛かった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 調査のみで退治までは至らなかったということになるので、報酬はほんの少しだけ受け取った。しかしながら正体が退治も躊躇われるほんの子狸だったと聞いて、人々の恐怖もだいぶ和らいだようだった。仮にあの少女が今後悪戯に失敗してとっ捕まえられたとしても、まあ念入りな折檻くらいで勘弁してもらえるだろう。

 翌朝である。月見は町を離れ、例によって山間の細道をひとりのんびりそぞろ歩いていた。最後に人とすれ違ってからしばらく経ち、見渡す限りは前も後ろも、剥き身の自然が心地よく揺れ動くだけとなっていた。

 と――。

 

「……ん」

 

 月見の行く手、緩やかに弧を描く曲がり道の先から、立ち並ぶ木々に紛れて一人の男が歩いてきた。網代笠(あじろがさ)に袈裟姿のお坊さん。これといって怪しい人物でもないので、簡単に挨拶をしてそのまますれ違うことになるかと思われた。

 しかし、すぐに違和感に気づく。まだ遠目なので断言はできないものの、男の背丈が月見より随分と高く見える。

 否。こうして一歩一歩互いの距離が近づくにつれ、向こうがむくむくと大きくなっているのであり――

 

「……おやおや」

 

 やがて月見の目の前には、見上げる山の木々より更に頭ひとつ高い、まさしく天を衝くかのごときひとつ目の大入道が立ち塞がっていた。身にまとっていた袈裟は不気味なボロ切れに変わり、肌は赤黒く、瞳は炯々(けいけい)、ぼうぼうに伸びたひげがへその近くまで届いている。この道を歩いているのが月見だけでよかった。もしも他に人間がいれば、こうして見下ろされるだけで泡を吹いてひっくり返っていただろう。

 

『おう、人間じゃ。人間が我の道を塞いでおるわ』

 

 雷鳴を聞くような、ひどく耳に障る声だった。

 

『どかぬなら、蟻のように踏み潰してくれようぞ』

 

 大入道が月見に向けて片足を持ち上げてくる。天と地もあろうかという身長差で踏み潰されれば、さしもの月見も無事では済まない。

 月見は札を一枚取り出し、大入道の足元に向けて飛ばした。

 

「みぎゃっ!?」

 

 すると素っ頓狂な子どもの悲鳴が響くや、眼前の大入道が煙となって呆気なく掻き消え、あとには地べたでひっくり返る一匹の子狸だけが残った。

 あの子狸だった。昨日の結果が悔しくて悔しくて仕方なかったのか、もう一度月見を化かしにやってきてくれたようだ。

 

「やあ。また会ったねえ」

「な、な、なああっ」

 

 おでこに札を貼っつけた子狸は、ひっくり返ったまま開いた口も塞げぬ様子で、

 

「き、貴様、一体何者なのじゃ。狐のくせに、こんな人間の真似事を」

「これでも、結構長生きしてるもんでね」

「なぜ儂の変化をこうもあっさり! 儂の変化は、齢八百の長老ですら見破れなんだぞ!?」

「へえ、すごいじゃないか」

 

 月見が素直に感心すると、子狸は寝そべりつつもえへんと胸を張る。

 

「ふふん、そうじゃそうじゃ。儂はこの通りまだ子狸じゃが、変化の腕にかけては大妖怪相手にも負けはせん。才気煥発とはまさにこのことじゃと思わんか」

「そうだね」

「そうじゃろう、そうじゃろう。――だというになにゆえ貴様は昨日のみならず今日までも!! こんな、こんな屈辱はじめてじゃコンチクショ――――――ッ!!」

 

 あんぎゃー!! と両腕両脚を振り回して大暴れする。(おうな)めいた話し言葉もあって一見大人びて見えるものの、こうして癇癪を起こす姿はやはり少女そのものだった。

 

「こらこら、そんなに暴れたら服が傷んじゃうよ」

「くううっ……! 貴様、早くこの札を剥がさんか! 今ならまだ大目に見てやらんでもないぞ!?」

 

 昨日にせよ今日にせよ、仕掛けてきたのはそっちだろうに。

 どうあれ、札を剥がすことに異論はなかったので。

 

「わかったから。はい、暴れない」

「……」

 

 大人しくなった少女のおでこから札を剥がした――瞬間、

 

「しゃあっ!!」

 

 少女が突如野太い大蛇に変化し、その凶悪な牙で月見の喉笛を、

 

「むぎゅ」

 

 噛み千切る前に、月見は剥がしたばかりの札を元の位置に戻した。大蛇は少女に戻って地面を転がった。

 うぐううううう!! と少女は地面をべしべし叩いて暴れる。

 

「なぜ、なぜまったく驚かんのじゃ!? 人形か貴様はっ!」

「言ったろう、長生きしてるって。馬齢を重ねると、ちょっとやそっとじゃ驚かなくなるのさ」

「長老は泡を吹いて失神したのに!」

 

 ご老体になんてことを。

 

「剥がせぇ! 剥-がーさーんーかーっ!!」

「剥がすのはいいけど」

 

 じたばたする少女を、釘を刺すようにすぐ傍から見下ろす。額の札を剥がしたらまた、彼女はあの手この手で執念深く月見に襲いかかろうとするのだろう。このままでは、いつまで経っても延々同じことの繰り返しになりそうなので。

 

「今度また私を化かそうとしたら、もっと強い札を貼りつけるよ」

「んなっ」

「ひと月くらいは取れないようなやつを。もちろん、その間妖術は封印だ」

 

 少女は束の間硬直し、それから屈辱の歯軋りとともにぷるぷる震え出した。

 

「貴様っ、どこまで儂をコケにすれば気が済むんじゃ……!」

「……あのね、昨日も今日も元はといえばお前が」

「化かし返されたまま泣き寝入りなぞできるわけないじゃろがあっ!?」

 

 少女はそろそろ涙目だった。化け狸は概ね温厚で臆病な者たちが多い種族なので、まだ幼い分が大きいとしてもここまで扱いづらいのは珍しい。彼女を懲らしめる依頼を受けていた身とはいえ、大人げなく化かし返してしまったのは失敗だったかもしれない。

 ええいままよと思いながら札をひっぺがす。また間髪容れずに襲いかかってくるものと、月見は内心身構えたが。

 

「う、うぐぐ……うぐぐぐぐぐぅ……っ!」

 

 今すぐ目に物見せてやりたい思いは多分にある。しかしそれでもし本当に強めの札をもらってしまったら、力を封じられたままひと月を過ごす羽目になる。それほどの期間を仲間の狸はもちろん、他の妖怪たちに知られずやり過ごすのは至難の業。知られてしまえば一生の恥。荒れ狂う本能と崖っぷちの理性が、少女の中で目まぐるしい鍔迫り合いを繰り広げている。

 結局、辛うじて理性が勝利を収めたようだった。しかし煮え立つ怒りが消えてなくなるわけでもなく、

 

「ばーかばーか、おたんこなす!! 人間に捕まって生き皮剥がされてしまえへちゃむくれーっ!!」

「……」

「狐なんか大っ嫌いじゃああああああああああっ」

 

 精一杯の捨て台詞を残し、半泣きのままいずこかへ走り去ってゆくのだった。

 

 

 

 繰り返すが、こればかりが百パーセントすべての原因というわけではない。しかし、まあ、あのとき月見がもう少しでも上手くやれていたのなら、マミゾウがここまで狐嫌いになることもなかったかもしれないのは否定できないので。

 同族の狐たちには、今でもだいぶ申し訳なく思っている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ねえ、マミゾウ」

「……ぬえや、そんな目で儂を見るな。言っておくが、儂は絶対、ぜえええったいに謝らんぞ」

 

 事のあらましを聞き終えたぬえが、呆れているような逆に感心しているような、曰く言い難い表情で旧友の横顔を見遣る。旧友はその視線をバツが悪そうに躱しつつ、何年経っても変わらない眼力でこちらを睨みつけてくる。

 睨まれるのは当然、月見である。

 里の茶屋で腹ごしらえを終え、水月苑に場所を移している。ここへ至るまではまたひと悶着もふた悶着もあった――というわけでは意外となく、里を出てからもマミゾウは聞き分けよく月見の後ろにくっついてきてくれた。人気がなくなった瞬間背中から闇討ちされるのではないかと思っていたが、どうやら月見の杞憂だったらしい。強いて言えば大きすぎる屋敷に些細な嫌味を言われ、わかさぎ姫との関係を大いに疑われ、縁側でぐうたら昼寝をしていたぬえが一喝のもと叩き起こされたくらいだろうか。

 まあ、かといって月見に気を許してくれたというわけでもなく、茶を出されても「狐の茶なんぞ飲まん」の一点張りなのだけれど。

 理解できん、という顔をぬえはしている。

 

「それで千年以上根に持って未だに狐を毛嫌いしてるって、一周回って感心するわ。どっから湧いてくるのそのエネルギー」

「なにを言うておる。我々狸とこやつら狐は、幻術使いの双璧であり永久不変のライバル。エネルギーを失ったとき、それすなわち狸の誇りを失ったときと同義じゃ」

「よーやるわ……」

 

 ぬえは、あまり旧友に味方するつもりはないようだった。同じことを感じたマミゾウが口を尖らせ、

 

「ぬえ、おぬしはこやつの肩を持つのか?」

 

 ぬえは頬杖をついて投げやりに、

 

「一応、封印解いてもらった恩があるもの。それに居候もさせてもらってるし。どっちの味方とか選べるわけないでしょー?」

「……むう。まあおぬしの封印を解いてくれた点については、儂も百歩譲って感謝せんでもないが――いやちょっと待て」

 

 マミゾウが表情を変えた。途轍もなく真剣な形相、そして物騒な目つきでぬえの肩に手を置いて、

 

「おぬし、今なんと言った」

「んー? だから、どっちの味方とか選べるわけないじゃないって」

「違う、その前じゃ。儂の気のせいでなければ――」

 

 一息、

 

「――ここで居候していると言わなんだか?」

「? うん。だってここ気に入ってんだもの」

「気っ、」

 

 あまりに屈託のない即答に、マミゾウは貧血を起こしてふらりとよろめいた。口の端を釣り針で引っ張りあげられているような、不気味な作り笑顔でテーブルに爪を立てる。両肩がひくついている。

 

「ぬ、ぬし、こんなこと、一言も言っておらんかったよなあ?」

「……直接ぬえの口から聞いた方がいいと思ったんだよ」

「よもや妙な真似はしておらんじゃろうな。さ、さすがにそこまで外道じゃなかろう? なあ?」

「あー、マミゾウ、そういうのは一切ないから安心して。信用できなかったら私も居候してないから。そんくらいの常識はあるから」

 

 さほど長いわけでもないスカートで畳をゴロゴロしたり、寝起きのだらしない恰好のまま一階まで下りてきたり、無警戒すぎて逆に月見の方が心配しているくらいだ。冬の間は、それで藍に見咎められるのも一度や二度ではなかった。

 マミゾウは大きく吐息し、何事か呻き声をあげながら眉間の皺を揉み解した。

 

「……まあ考えようによっては、どこの馬の骨かわからん男よりむしろマシか……」

 

 そう前向きに考えてもらえると助かる。

 旧友の断言もあり、一応は無罪ということで結論が出たらしい。顔を上げたマミゾウは今度は爽やかな笑顔で、

 

「じゃが、儂が来たからにはもうそんなのは許さんぞ。ぬえ、おぬしのぐうたら生活も今日でしまいじゃ」

「ぅえーっ!?」

 

 ぬえが割と冗談抜きの悲鳴をあげた。

 

「な、なんでなんでー!? ここ、部屋は広いし温泉はあったかいしごはんは美味しいしお布団はふかふかだしほんといい場所なのよ!?」

「では訊くが、おぬしは普段なにをして生活しておるのかな?」

 

 ぬえがさっと目を逸らしたので、代わりに月見が答える。

 

「冬の間は、こたつに入り浸って怠けてばかりだったねえ。春になってからは縁側で昼寝の毎日か」

「ほうほうそうか、こたつと昼寝か。そうかそうか」

 

 マミゾウは満足げにうむうむと頷き、一拍の間を空けて、いきなり烈火のごとくぬえの耳をつねりあげた。

 

「いったたたただだだ!?」

「おぬし、それでもかつて人間の都を震撼させた大妖怪か!? 長年の封印ですっかり腑抜けてしまいおったんか!」

 

 始まった、と月見は思う。マミゾウは持ち前の柔軟さで長らく人間社会に溶け込みつつも、一方では根本的に、我々は畏れの存在であれという昔ながらの思想を重んじる妖怪でもある。良きにつけ悪きにつけ、妖怪として極めて実直なプライドを持っているということだ。こういう一面もまた、月見となかなか肌が合わない原因のひとつというべきだろう。

 マミゾウは嘆かわしくかぶりを振り、

 

「ああ、やはりこんなところで居候させるわけにはいかん。こやつから変な影響を受けてどんどんなまくらになってしまうわ。これは修行のし直しじゃな」

「や、やーだーっ!! 今更修行なんて面倒く」

「おぬし太ったじゃろう」

 

 ぬえが石化した。

 

「腕回り脚回り、どちらもふくよかになったものじゃ。さて、手足でこれなら腹の方はどうなっておるのか……」

「……、」

「このままでは伝説の大妖怪鵺が、寝肥(ねぶとり)に名を変えてしまうかもしれんのう」

 

 寝肥とはぐうたら生活を送る女に取り憑き、ぶくぶくとふやけた餅みたいに太らせて乙女の尊厳を木っ端微塵にしてしまう凶悪な妖怪である。端的に、取り憑かれた女本人を指して寝肥と呼ぶ場合もある。余談だが、かつて食っちゃ寝ばかりでなかなか働こうとしなかった紫に、藍が寝肥の浮世絵を見せてマジ泣きさせたことがある。

 そして今、ぬえも涙目になっていた。実は内心気にしていたのか、咄嗟に誤魔化そうとする余裕すら失って、

 

「そ、そんなに……? そんなにはっきりわかっちゃう……?」

「そりゃあもう」

 

 マミゾウはぬえのお腹をさすり、老獪な笑みとともにトドメを刺した。

 

「おお、こりゃあ立派な腹太鼓ができそうじゃて」

「うええええええええええ!!」

 

 もちろん、ぬえを改心させるためある程度盛った言い方をしたのだと思う。月見の目には、ぬえが太ったかどうかなんてまったく判別がつかないのだから。しかし女にとってはたった一キロの増加が死活問題であり、女だからこそ見えてしまう闇の世界がある。なまじっか本人に自覚があっただけ、マミゾウの言葉は一切慈悲なしの致命傷であった。

 ぬえはずびずび鼻をすすり、

 

「うう、ぐずっ……修行、じまぁず……!」

「うむうむ。なぁに、おぬしは元々優秀な妖怪じゃ。心さえ入れ替えれば、すぐに昔の牙が戻るじゃろうて」

 

 それで人間たちに危害が及ぶのも心配だが――もっとも、そこは長年人間社会を生き抜いてきたマミゾウだ。幻想郷で許容されるラインを柔軟に見極め、清く正しく人々から恐怖を摂取してゆくだろう。

 それもまた、幻想郷に必要な妖怪の在り方だ。

 

「住む場所の当てはあるのかい?」

「ないが、ぬしの手は借りんぞ。儂を誰じゃと思うておる」

「ふふ、それもそうだね」

「うう、私の夢の生活がぁ……」

 

 かくしてぬえのぐうたら居候生活は終わりを迎え、名だたる化け狸の総大将が幻想郷で居を構えることとなる。これは後ほど知る話になるが、結局のところ二人の行先は命蓮寺で落ち着くようだ。ぬえの修行もできて一石二鳥じゃわい、とマミゾウは大層喜んでいた。ぬえは泣いていた。

 

 

 そうこう、マミゾウが幻想郷の同胞となって一週間。

 意外にも未だ、狐とマミゾウの間でこれという悶着は起こっていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――おや、マミゾウ。どうしたんだいこんなところで」

「む……なんじゃぬしか。見聞を広げる散歩じゃよ。この竹林には永遠亭とかいう、月からやってきた人間の屋敷があると聞くではないか」

「気になるなら一緒に行くかい? 私もちょうど用があるんだ」

「あー? ぬし、月人とも知り合いなのか。あいかわらず見境のないやつじゃな」

「たまにはこっちからも顔を出さないと、そこのお姫様がへそを曲げるんでね」

「あーあー、一人で行っちまえ。ぬしに借りを作るなんぞ寒気がするわい」

「はいはい」

「……ところで訊くが、戻りは遅いのか? 住職殿が、午後になったらぬしの屋敷に行こうとしておったぞ」

「おや……うーん、あいつはなかなか帰らせてくれないからなあ。戻りは夕暮れになるかもねえ」

「そうか。では、儂から伝えておこう」

「ありがとう、助かるよ。それじゃあ」

 

 

 

 

 

「……なぁるほど、あやつは夜まで永遠亭か。これはいいことを聞いたわい」

 

 月見が霧の向こうに消えたあとの竹林前で、マミゾウはひとり怪しげにほくそ笑む。

 

「この一週間ばかしで、あやつの交友関係もほとんど把握できたことじゃし」

 

 さしずめあの狐は、マミゾウの狐嫌いがひょっとすると改善されたのだろうかと淡い期待を抱いているだろう。残念ながらこの一週間大人しくしていたのは、月見の油断を誘うための罠であり、また充分な情報を収集するための演技である。日が暮れるまで帰ってこないというならそれはそれは都合がいい。

 あのとき泣かされた積年の恨み、晴らすは今。

 

「――ちょっとばかし、イタズラしてやるとするかのう。ふおっほっほ」

 

 冗談でも誇張でもなく、本気で絶好のチャンスだと思っていた。実際、その認識に間違いはなかったはずなのだ。あいつは日が暮れるまで帰ってこない。行先が竹林の奥深くにある永遠亭なら、騒ぎを聞きつけられる心配もない。本当に、千載一遇の大チャンスだったのだ。

 

 誤算だったのは、ただひとつ。

 幻想郷の少女たちを、いささか甘く見過ぎていたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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