銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第146話 「去りゆく冬の季節の終わりに」

 

 

 

 

 

 春乞いと呼ばれる儀式がある。

 儀式と表現すれば物々しく聞こえるが、要は一種の験担ぎと思ってもらってよい。たとえば先月にひと騒動起こしてくれた節分が、擬似的な鬼退治で無病息災を願う行事であるように、擬似的な春で新しい季節の訪れを祝福するのが春乞いなのだ。

 ではその『擬似的な春』がどのようなものかといえば、これが儀式のやり手次第で往々に変わる。

 最も一般的なのが、早咲きの梅などで『花見』をすること。或いは雪や氷など『冬の象徴』を、溶かしたり壊したりして生活から形式的に排除する方法もあるようだが。

 

「……霊夢、私ははじめて見たよ。春乞いの儀式で雪女を退治する人間なんて」

「そう?」

 

 欠片も悪びれず平然と小首を傾げたのは、ご存知楽園の素敵な巫女さんであり。

 月見の尻尾にくるまれぐるぐると気絶しているのは、冬になってからこのあたりで姿を見かけるようになった雪女の少女だった。

 霊夢は毅然として言う。

 

「もう三月になったってのに、まだ肌寒い日が多いでしょ? それはね、こいつら冬の妖怪とか精霊が未だにそのへんを飛び回ってるから。だからこうやってとっちめて、あんたらの季節はもう終わったんだって教えてあげてるのよ」

 

 言葉ではなく物理で一方的に語りかけるあたりが、とても霊夢だなあと月見は思う。

 確かに冬の寒さがなかなか抜けきらず、厚着をやめがたい毎日がこのところ続いている。真冬と比べれば随分と過ごしやすくなっており、春がもうすぐそばまでやってきているのに変わりはないのだが、堪忍袋の緒が紙でできている霊夢にとっては我慢ならなかったようだ。この日月見が屋敷から買い出しに出かけると、どこからともなくすっ飛んできた霊夢が突如上空で弾幕ごっこを始め、やがてコテンパンにされて落ちてきたのが雪女だった。

 率直に言って通り魔である。

 

「ちょっと、そんな目で見ないでよ」

 

 楽園のステキな通り魔は大変不服げに、

 

「悪いのは、いつまでも好き勝手飛び回ってるそいつらだわ。ちゃんと春が来てくれないと、寒い寒いって震えるだけじゃ済まなくなるんだから」

「うん、言っていることはわかるよ」

 

 かつて春雪異変なんてものが幻想郷を騒がせた手前、霊夢が冬から春への移り変わりに注意を払っているのは想像できる。できるが、だから雪女を問答無用でボコボコにすればいいよね、と考えるあたりが霊夢なのである。

 

「そいつが目を覚ましたら月見さんからも言っといてよ。甘やかしちゃダメだからね」

「……善処しよう」

「じゃ、私は次行ってくるわ」

 

 まだやるのか。

 

「これも幻想郷の平和のためだもの」

 

 我が道突き進む爆裂巫女が、次の憂さ晴らし相手を求めていずこかへ飛び去っていく。月見は心の中でそっと、冬の最後を楽しむ罪なき妖怪たちに黙祷を捧げた。

 雪女を捨てていくわけにもいかないので、ひとまず散歩は中止して屋敷に戻った。戸を開けると、藍が玄関の靴箱を雑巾で掃除していた。

 

「あ、月見様。なにかお忘れ物で――」

 

 月見の尻尾でくるまれた雪女に気づいて、苦笑。

 

「またですか、月見様」

「またとはなんだい」

「少し目を離すと、月見様はすぐ女を拾って帰ってくるので困ります」

 

 人を誘拐犯のように言うのはやめていただきたい。かくかくしかじかと事情を説明する。

 

「ああなるほど、霊夢の春乞いですか。確かに、もうそんな時期ですね」

「霊夢は毎年ああなのかい?」

「ええ。風物詩みたいなものです」

 

 いやな風物詩だなあと月見は思う。

 

「とりあえず、目を覚ますまで寝かせておくよ」

「わかりました。布団を出しましょう」

 

 掃除を中断した藍とともに客間へ向かい、寝床の支度をする。敷布団を引き、藍が整えている間に掛布団と枕も引っ張り出す。

 

「ところで、」

 

 尋ねる。

 

「そろそろ、紫が目を覚ます頃かい?」

 

 春がやってくる、ということは。幻想郷に戻ってきた今の月見にとっては、単なる季節の節目以上に大きな意味を持つものでもあった。

 すなわちあのお転婆賢者が目を覚まし、みなぎるエネルギーで幻想郷に春の嵐を巻き起こすということだ。言うなれば、春告精ならぬ春告賢者である。藍は作業の手を止めず、

 

「ええ、そうですね。特に今年は月見様がいますから、例年より頑張って早起きされるでしょう……たぶん」

 

 手早くシーツを引き終えたところで顔を上げ、どこか淋しさの染み出た笑みを覗かせた。

 

「私も、そろそろ向こうに戻らなければなりません。ちょっぴり残念です」

「ああ。冬の間、本当に世話になったね」

 

 主人の世話が不要なのをいいことに、藍は結局冬のほとんどを水月苑で寝泊まりしていた。月見としてもまあ、なにをやらせても非の打ち所がない仕事ぶりについ甘えてしまったというか。しかし彼女は他でもない紫の式神なのだから、月見がいいように頼り切っていい道理などありはしないのだ。

 

「いえ、こちらこそ。なんだか夫、」

 

 藍はんんっと咳払い、

 

「ええとその、ここはいつも賑やかですから、毎日が楽しかったです」

「……ふふ、そうだね」

 

 紫が冬眠したときは、これではちゃめちゃな日々も少し落ち着くことになるのだろうかと思ったけれど。蓋を開けてみればなにかが大きく変わるでもなく、水月苑はあいもかわらず賑やかで、少女たちがわちゃわちゃと笑う声やら、ぶーぶー怒る声やら、ぴーぴー泣く声やらが絶えない場所だった。

 

「冬の間にあったこと、紫様に説明するのが大変ですね」

 

 地底で起こった異変のこと、命蓮寺のこと、年越しの宴会のこと、水月苑の庭にできた四つの社のこと、節分のこと、鈴奈庵のこと、それ以外にもキリがないほどたくさんのこと。紫はきっと眠っていた時間をすべて取り戻そうとするように、冬の出来事を一から十まで月見や藍から聞き出そうとするだろう。

 

「まったくだ」

 

 尻尾の雪女を、降って間もない雪のような布団にそっと寝かせながら。

 今のうちによく思い出しておかないといけないなと、月見は少しだけ、今日までの記憶を沈んだ水底から掬いあげてみた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、幻想郷が正月を迎えて間もなく。進撃のお年玉戦線が過ぎ去り、ぬえと橙がこたつで仲良く丸くなるその日、『文々。新聞』の新年第一号を配達に来た文へ月見は言った。

 

「お前の新聞で、ひとつ広告を出してもらえないかな」

「?」

 

 まこと律儀な話ながら、文は『文々。新聞』を毎度手渡しで配達してくれる。月見が留守なら時間を改めて出直してくれるし、取り込み中なら庭でわかさぎ姫に取材して暇を潰している。郵便受けに突っ込んで構わないと勧めてはいるのだが、近所なんだから別に手間でもなんでもない、このへんはいつも取材で通りがかるし、というのが彼女の弁である。幻想郷の清く正しいブン屋にとっては、きちんと相手の顔を見て配達するのがこだわりポイントらしいのだ。

 そうやって受け渡しのたびに顔を合わせていれば、茶話のひとつやふたつは自然と花を咲かすようになる。

 記事の感想を聞かせろとせっつかされるのは毎度のことで、他にも紙面に載せきれなかったこぼれ話や、出所のよくわからない怪しい噂を教えてくれたりする。このとき逆に月見の方から頼み事をする場合もあって、今回のように広告の掲載を依頼するのがそのひとつだった。

 

「なんの広告? また桃が食べきれなくなったので譲ります、とか?」

「……それはもう大丈夫だよ」

 

 桃について補足する。水月苑の桃といえば言うまでもなく、天子が毎度手土産として配達してくれる天界産の桃を指している。今や水月苑の名物スイーツとして定着し、茶と合わせて来客に振る舞う機会も増えているのだが、それで天子がすっかり張りきりすぎてしまって、一度だけ消費が追いつかず山積みにしてしまったことがあったのだ。そのとき文の新聞で広告を出してもらい、知人友人みんなにお裾分けすることでなんとか危機を脱した、という笑い話である。

 以来は天子も反省し、桃の在庫をチェックしながら適度な量を配達してくれるようになっている。

 本題。

 

「この屋敷の三階の部屋、普段はほとんど使われてないだろう。埃を被せておくくらいなら、使いたい人に使ってもらうのもいいかと思ってね」

 

 大掃除をしているときに降って湧いたアイデアを、試しに実行してみようというわけだ。文は胡乱げに片眉をひそめ、

 

「そういえば、なんか居候始めたやつがいたわよね。……なに、まさか下宿でも始める気?」

「まさか。部屋を時間制で貸すだけだよ。宿泊は不可」

 

 ぬえは封印から解かれたばかりで地上に帰る家がなく、路頭に迷いかねないから仕方なくここで面倒を見ているだけだ。月見としては命蓮寺で世話になればよいと思うのだが、本人が嫌だと言っているのだからどうしようもない。

 文が眉間の皴を解いた。

 

「ふうん」

 

 なんとも気のない空返事だったが、決して無関心な反応でもないと月見にはわかった。文はまた数拍の思考を置いてから、

 

「……ちなみにそれって、私が借りてもいいのかしら」

「それはもちろん、構わないけど」

 

 一体なにに? という月見の疑問を視線から読み取り、

 

「記事の執筆をするときはね、いつもと違った環境に身を置いてみるのも結構集中できるもんなの」

「……ああ、なるほどね」

 

 外の世界でいうところの、学生が図書館で勉強したり、社会人が喫茶店で仕事を進めたりするのと同じ類の話らしい。なるほど情報の鮮度を命とするブン屋にとって、執筆に集中できる環境づくりは極めて重要な問題であろう。

 しかし、

 

「借りるのはいいけど、そういう作業に向いてるかどうかはわからないぞ? 何分客が多い屋敷だ」

 

 日頃から元気いっぱいな少女たちが、気ままに集まってはあれやこれやと跳ね回っている屋敷である。せっかくひと部屋借りたところで、周りがうるさくて作業にならなかったのでは元も子もないが、

 

「わかってるわよ。物は試し」

「そうか」

 

 まあ、そのあたりが予測できていない文でもあるまい。彼女ならば部屋を汚される心配もないので、月見もそれ以上はなにも言わずに了承した。

 

「じゃ、戻ってすぐ準備してくるから」

「今から借りるのか?」

「そ。さっきの広告の話もあるんだし、どうせだったらここでやった方が早いでしょ」

 

 うべなるかな。

 

「わかった。部屋を開けて待ってるよ」

「ん」

 

 どこかの地獄鴉を彷彿とさせる素っ気ない返事を置いて、文が風とともに空高く飛翔する。月見は『文々。新聞』の一面記事に目を落とし、それにしても、とふと片腕を組んで考える。

 確かに文の言う通り、時には作業する環境を変えてみるのも集中力を保つ上ではよい手段である。しかしそれは、新しい環境が自分にとって集中できそうだ、という期待がなければ成り立たない話でもある。物は試しとはいえ、はじめからダメだと感じているなら作業場所に選ぼうとはしないわけで。

 つまり文は、水月苑が自分にとって集中できそうな場所であると――。

 

「……まあ、いいか」

 

 突っついたところで実りはあるまい。彼女も日頃から同僚にからかわれて参っているそうだから、月見まで余計なことを言う真似はしないのだ。

 

 そうして始まった水月苑のレンタルルームであるが、文からの評価は上々、『文々。新聞』を通して天狗や河童の各種同好会からの申し込みもそこそこ集まるのだった。

 利用者曰く、「いつ月見さんに見られるかわからないからものすごく集中する気になれる」らしい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、正月の賑わいが少しばかり落ち着きを見せ始めてきた頃。月見は朝一番の客がやってくる前にこっそりと水月苑を離れ、地下深い旧地獄は地霊殿まで新年の挨拶にやってきていた。

 

「つくみーっ!」

「おっと」

 

 月見がエントランスにお邪魔するなり、疾走してきたこいしが軽やかな跳躍で胸に飛び込んできた。そのまま首にぶら下がるお転婆娘を月見は両手で支え、

 

「やあ、こいし。あけましておめでとう」

「あけましておめでとー!」

 

 胸元から月見を見上げる笑顔は、フランに負けずとも劣らぬ文句なしの百点満点だ。去年は最後の最後で慌ただしい別れになってしまったからか、こうして再び歓迎してもらえるとひどく心が和らぐのを感じた。ほどなく廊下を小走りする二人分の足音が聞こえて、さとりとお燐が追いついてきた。

 

「もうっ……こいし、いきなりなにしてるの!」

「あはは。こいし様、あいかわらずおにーさんが大好きですねえ」

 

 こいしは聞いちゃいない。月見の首にぶら下がったままご機嫌にバタ足をしている。さとりは眉間に皴寄せてため息をつき、お燐はチャームポイントの八重歯が覗く苦笑をにじませた。

 

「さとり、お燐、あけましておめでとう」

「はい。あけましておめでとうございます、月見さん」

「おめでとー。今年もよろしくねおにーさん」

 

 どうあれ二人も昨年から変わりなく、こいし共々壮健な正月を迎えたようだ――と思ったところでさとりがすかさず、

 

「壮健なものですか。寂しかったですし、心配したんですからね。おくうから報告をもらうまでは本当に……」

「ああ、その節はすまなかった」

「お話、たくさん聞かせてもらいますからね」

 

 少しだけ、寂しがらせた分だけ埋め合わせをしろと――わがままを言うような、声音だった。どうやら、今日は帰りが遅くなるのを覚悟する必要がありそうだ。月見のそんな心の声を読んで、さとりはわずかに赤を散らした頬でぷいとそっぽを向いた。

 ところでおくうといえば、姿が見当たらない。

 てっきりまた壁に隠れてうーうー言っているのかと見回すも、どこからも視線は感じないし気配もない。今は灼熱地獄にいるのだろうか。月見としては出迎えをしてもらえる程度には打ち解けたと思っているので、もし無視されているなら、改めて彼女との付き合い方を見つめ直す必要がありそうだ。

 

「ああ……おくうったら、昨晩はちょっと夜更かしをしていたみたいで。まだ寝てるんです」

「おや」

 

 月見は眉をあげた。月見が水月苑を出たのは朝早くで、途中でパルスィや勇儀など知人のところに寄り道してきたから、今はもう太陽が充分顔を出した頃だろうか。この時間になってもまだ寝ているのならだいぶお寝坊さんである。

 こいしの頭の上で、ぴこんと閃きの電球が光った。

 

「そうだ! ねえ月見、一緒におくうを起こしに行こうよ!」

 

 月見の首から降りると、袖をつまんでおくうの部屋がある方向を指差し、

 

「おくう、びっくりしてきっと飛び起きるよ! 行こ行こ!」

 

 前にも似たようなことがあったな、と月見は記憶を掘り返す。紅魔館での出来事だった。フランに腕を引かれてお寝坊なお嬢様を起こしに行ったのだが、そのとき月見を歓迎してくれたのは豪速球で飛んでくる枕やら本やら弾幕やらだった。

 少女にとって自分の部屋とは一種の聖域であり、許可なく立ち入ったり覗いたりする不徳の輩には天罰が下るのだ。そしておくうは、地霊殿の家族以外が部屋に入ってくるのをいかにも嫌がりそうである。このままこいしについていってよいかどうか判断に悩む。異変を通してようやく打ち解けてきたのに、つまらないドジを踏んで振り出しに戻されるのはなんとしても避けたい。

 一方で、さとりには考えた素振りもなかった。

 

「あら、面白そう。それじゃあみんなで起こしに行きましょうか」

 

 いいのかい、私が行っても。

 

「んー……確かに、勝手に中まで入るのはちょっと可哀想ですね。おくうも女の子(・・・・・・・)ですから」

 

 なにやら妙な含みを感じる言い方だった。他人の心を読めるさとりが、月見のこの疑問を聞き逃したとは考えづらいが、

 

「部屋には入らないで、外から起こせば大丈夫ですよ。せっかくいらっしゃったんですから、顔を見せてあげてください」

「ごーごーっ!」

 

 その上でこう勧めてくるということは、月見が生真面目に考えすぎているだけなのだろう。こいしにぐいぐい腕を引っ張られておくうの部屋へ向かう。目的地に到着すると、まずさとりが品よく控えめなノックをした。

 

「おくう、月見さんが来てくれたわよ。そろそろ起きなさい」

 

 続けてこいしが殴るように元気よく、

 

「おくうー! おーくうー! 早く起きないと月見が帰っちゃうよーっ!」

「おくうー! もうとっくに朝だよー!」

 

 お燐も声を掛けるが返事は返ってこない。いや、辛うじて「ふみゅう……」と気の抜けた寝言が聞こえた。家族三人総出で呼ばれても起きる気配がないあたり、どうやら相当幸せな夢を見ているようだ。

 

「さ、月見さんもどうぞ」

 

 少々ふてぶてしい笑みを浮かべたさとりが、待ちに待ったと言わんばかりに月見へそう促してくる。なんだかいいように使われている感じはするものの、断る理由もなかったので月見はドアをノックし、

 

「おくう、」

「……!?」

 

 名前を呼んだ瞬間、扉の向こうでおくうが慌ただしく跳ね起きたのを感じた。予想外の反応にこちらまで驚いてしまって、喉元で準備していた言葉が思わず引っ込む。

 

「!? !? つ、つくみ!?」

「あ、ああ。そうだよ」

 

 おくうはびっくりするあまり声がおかしな音程になっており、尻にいきなり火でもつけられたかのような狼狽えぶりだった。なにをやっているのかベッドが軋むくらい大暴れして、

 

「うみ゛ゅっ!?」

 

 ベッドから落ちた音。おくうが声もあげられずバタバタ悶えている。さとりが口を両手で覆って、ぷるぷる震えながら必死に愉悦顔をこらえている。

 しばらく、無音があった。

 やがて怖々とノブが動いて、指先も差し込めないくらいほんの少しだけドアが開いた。

 おくうの濡羽色の瞳と、目が合った。

 

「やあ」

 

 ものすごい勢いでドアが閉まった。

 

「……ちょ、ちょっと待ってて! すぐ着替えるから! すぐ着替えて行くからあっ!?」

「……慌てなくていいから、ゆっくりね」

 

 もはや月見の声など届いてはいまい。おくうが部屋中走り回っておめかししている喧騒を聞きながら、月見は隣のさとりを見下ろした。

 古来よりの伝承と寸分違わぬ、人の心を読んで愉しむ覚妖怪がそこにいた。

 

「……満足かい、さとり」

「ええ、とっても」

「うに゛ゃー!?」

 

 部屋の向こう側から、小物類を盛大にぶちまけた絶望的な音。

 

「もうおくうったら、あんなに慌てちゃって……ふふふっ」

 

 言葉とは裏腹に、さとりはもはやほくほくとご満悦な表情を隠そうともしない。出会った頃は深窓の令嬢らしく儚げだった少女が、いつの間にかすっかり逞しくなったものである。皮肉は込めたつもりだがさとりは涼しげに、

 

「あら、そうですか? きっと月見さんのせいですね」

「こらこら、人のせいにしない」

「そんなことないですよ。月見さんと出会ってからはみんな本当に、」

「おくう大丈夫ー? なんか手伝うー?」

「あっ待って待って待ってください今は開けないで、に゛ゃああああああああ!?」

 

 ――なんにせよ、またこのドタバタを肌で感じられて安心した。

 最初は必ずしも歓迎されていたとはいえなかったし、すれ違いもあったけれど、今では紅魔館にも負けないくらい元気で賑やかな場所。

 中に入りたいこいしと絶対に入らせたくないおくうの、ドア一枚挟んだ熾烈な格闘を見守りながら。

 今年も佳き縁があればよいと、月見は小さく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、命蓮寺ではちゃめちゃな節分が執り行われるより数日前。月見が買い物ついでで人里をほっつき歩いていると、ある顔見知りのご婦人が少々神経質な様子で声を掛けてきた。

 

「お狐様お狐様、ちょいと聞いとくれよ……」

「? どうかしたかい」

 

 ナズーリンが幻想郷の至るところで鼠ネットワークを張り巡らせているように、この里にも人間たちによる情報ネットワークが構築されている。おしゃべり大好きなご婦人たちが日頃から「ちょっと奥さん聞きまして?」「あらあらまあまあ」と情報共有し合うことで、実質里のありとあらゆる現象を網羅するという、人呼んで驚異のご婦人ネットワークである。

 そんな情報網の中枢を担うのが、いま月見に声を掛けてきた女性――皺の深くなる齢ながら、未だ瞳にぎらつくような生気を宿す江戸っ子気質のご婦人だった。このあたりでは面倒見のいいみんなの奥さんとして名が通っており、月見ともこうして気軽に相談事を持ち込む仲である。昨年妖夢が生まれてはじめて休暇をもらったときは、一日くらい仕事を忘れて遊ぶべきだといろいろ説得してくれた他、月見の「お狐様」呼びを里に広めた張本人でもあったりする。

 で、今回はどんな困り事を持ってきたのかと思えば。

 

「実はこのところ、里の外れの方で妖怪が出ててねえ」

「ふむ」

 

 里の相談役として様々な悩みを聞いていると、こういった妖怪絡みの話も時折は持ち込まれる。どんな妖怪が出たのか少しばかり調べて、大抵の場合は霊夢のもとに取り次ぎする案件だ。参拝客がほとんどやってこない博麗神社にとって、妖怪退治をはじめとする里からの依頼は貴重な収入源であり、その仕事を勝手に奪えば調伏されるのは月見の方なのだから。

 

「何度か通りがかった人が襲われ――ってほどでもないんだけど、まあ、おどかされたらしくって」

「襲われた人に怪我は?」

「特には。強いて言えば、びっくりして転んで膝を擦りむいたとかかねえ」

 

 となれば人間に危害を加えるほどの悪意を持たないいたずら好きな妖怪か、茶目っ気の強い妖精の仕業だろう。楽しく遊んでいるところ大変申し訳ないが、霊夢にちゃっちゃと懲らしめてもらうのがよろしい。

 

「わかった。博麗の巫女に頼んでおこう」

「よろしくねえ。……あ、これお供え物」

「……うん」

 

 食べ物を押しつけられた。気持ちはありがたいのだけれど、『お供え物』と言いながら渡されるお陰で素直に喜べない。半分は霊夢にあげて、もう半分は水月苑の稲荷神社に供えておこうと決める。

 

(……それにしても、人間をおどかす妖怪か)

 

 危険な妖怪というわけでもなさそうだし、このまま霊夢のところまで持っていってもよさそうではあるが。

 

「ところで、その妖怪が出るのはどっちかな」

「確か……あっちの方だったかねえ」

「ありがとう」

 

 婦人に礼を言って別れ、月見は教えてもらった方角へ足を向けた。大したことではない。最近里人をおどかしているという妖怪が、よもやあの子(・・・)ではあるまいと一応確かめておくだけだ。

 件の里の外れは、人々の気配から少なからず離れ、建物らしい建物も途絶えた無造作な風景だった。ただ緑が近いのと、かすかながら川のせせらぎが聞こえてくることから、自然の幸を採りにやってきた里人が狙われたのだろうと思われた。木々でほどよく視界が遮られていて、妖怪が隠れて人間をおどろかすのにはちょうどよさそうだ。

 そのままもう少しまっすぐ進んでみると、山の正面で声が聞こえた。

 

「ふんふふんふふーん♪」

 

 この閑静な場所とは不釣り合いな、陽気で朗々とした少女の歌声だった。よっぽど嬉しい出来事があったらしく、月見が近づいているのにまったく気づいていない様子で、

 

「きょーおーも人間ーをおどかーすぞー♪ おなーかいっぱーい、しーあわーせぶーとりー♪」

「……」

 

 月見は天を仰ぎ、ふうとため息をひとつ空に溶かした。それからただ一言思う。

 やっぱりこいつか。

 

「えへへ、こうやって人間をおどかしてればそのうち噂がお師匠にも届いて……『さすがだ小傘、お前こそ私の弟子にふさわしい』ってなるかも! かもーっ!」

「…………」

 

 向こうから勝手に正体を明かしてくれたが、やたらめったらハイテンションな歌声の少女は案の定多々良小傘だった。声を頼りに向かってみれば、山道を入って少ししたところの木の上で、枝に跨りながらなにやら怪しい作業をしている小傘がいる。ここまで近づかれてもまだ月見に気づいていない。

 

「小傘」

「ぴひゃああああああああぎゃぶ!?」

 

 声を掛けると、小傘はびっくり仰天してあっさりと地面に落ちた。だいぶ痛そうな音がしたものの、彼女はそのまま頭を抱えて亀になって、

 

「ごごごっごめんなさいごめんなさいなんでもないですなにもしてないです怪しくないですごめんなさいいぢめないてくださいさでずむはやめてえええええっ」

「小傘。私だよ、私」

 

 ぴたりと静かになって顔を上げる。絶望一色だった小傘の表情が、ほろほろと崩れるような安堵で弛緩した。

 

「あ、お、お師匠……! び、びっくりしましたよぉ~……!」

「うん……悪かったね、いきなり声を掛けて」

 

 人間をおどかして生きる妖怪なのに、小心者というか、自分がおどかされるのにはとことん弱いというか。しかしどんなに凹んでも挫けても、一瞬で立ち直ってみせるのがこの少女だ――と月見が考える頃にはとっくに涙を引っ込め、立ち上がった彼女は今日も腹式呼吸で元気いっぱい、

 

「お師匠、弟子にしてください!!」

「いや、その話はいい」

「よ、よくないですよおっ!? 私、あれからばんきさんにいろいろ教わって、最近はそれなりに人間をおどかせてるんです!」

「……ああ、やっぱり」

 

 そういうことだろうと思っていたのだ。年越しの宴会の席で、人をおどかすちょっとしたコツを伝授しましょう、と赤蛮奇が自信満々に言っていたのを思い出す。あれからひと月ほどが経っている。今ここにいるのは赤蛮奇から免許皆伝を言い渡され、独り立ちを認められた多々良小傘なのだろう。

 あのときは、問題児同士がどんな化学反応を起こすか不安しかなかったが――里の噂を踏まえると、存外上手い具合に噛み合っているのだろうか。

 

「今日も通りがかった人間をおどかしてやろうと、仕掛けをしていたところです!」

 

 小傘が樹上を指差し、つられて月見も上を見た。小傘が先ほどまでまたがっていた木の枝に、闇夜に紛れる濃い色のロープで括りつけられているのは、

 

「あれぞばんきさんが授けてくださった奥義――こんにゃくです!」

 

 こんにゃく。

 

「ここを人間が通りかかりましたら、あのこんにゃくを釣瓶落としのように放っておどろかすのです!」

「……」

 

 月見が想像していたよりもだいぶ古典的なトラップだった。確かに木の上から突然物が降ってくれば、大抵の人間は大なり小なりびっくりするかもしれない。しかしそれだけではすぐにイタズラと見破られるのがオチだし、里で「妖怪が出た」なんて噂も立たないのではないか、と疑問が浮かぶ。そしてこれが本当に赤蛮奇の授けた奥義なら、たぶんからかわれているだけだとも。

 幸いにも、小傘の熱弁は続いた。

 

「もちろん、これだけで終わりではありません! 人間がこんにゃくだと気づき、なんだただのイタズラかと気を緩めたところで、私が木の枝を思いっきり揺らしてから飛び降りるのです! 女だとバレないようにボロをまとって、声は出さないで、飛び降りるときの風を使って体を大きく見せるのがコツらしいです!」

「へえ……」

 

 ここまで聞き終えてみれば、月見は真っ当に感心した。一度目の仕掛けをデコイにして、二度目の仕掛けでトドメを刺すというその作戦は、ホラー演出の常套手段とも呼ぶべきものだ。加えて、女であることをバレないようにボロをまとうのも悪くない。なぜ小傘が今まで失敗してばかりだったかといえば、見てくれが満場一致で可愛らしい少女であり、そんな彼女が「うらめしや~!」と凄んでもさっぱり怖くなかったからであり、すなわち正体を隠すだけでも話はまったく違ってくる。

 人間は本能的に、正体がわからない存在や得体の知れない現象を恐怖する。ただのイタズラだとほっと一息つくや否や、木々を派手に揺らして正体不明の生物が無言で飛び降りてくる――人間はもちろん、闇の存在である妖怪にだって通用しそうだ。

 

「なるほどねえ。それなら確かに、妖怪が出たって里でも噂になるか」

「どうですかお師匠! 私、一人前に人間をおどかせるようになりました! 改めて弟子にしてくださいっ!」

「まあまあ、落ち着きなさい」

 

 もちろん、小傘を弟子にするかどうかとはまったく関係のない話だ。月見はそれらしい手振りで小傘を制しつつ、

 

「言ったろう、里で噂になってるって。ひょっとすると明日にでも、博麗の巫女がお前を懲らしめに来るかもしれないよ」

「えっ……」

 

 夢想封印で粉砕された苦々しい記憶を思い出し、小傘の表情がさっと青ざめたかに見えた。

 ほんの一瞬だった。小傘はなにかに気づいて目を見開くと、浅く俯いて、やたら大真面目な形相でしばらくの間思考を巡らせていた。この子ならどうせロクなことではないのだろうなと月見は思ったが、大正解だった。

 

「ま、まさかお師匠……! 私にいま一度テストを受けろというのですね!? 一人前の妖怪になったというのなら、あの巫女に力を示してみろと!」

「……あのな小傘、」

「いえ、なにも仰らないでください。わかっていますとも」

 

 月見は菩薩の心地になりながら小傘の言う通りにした。そう、なにも言うなと言われてしまったのだから仕方ないのであって、決して口を挟むのが面倒になって思考放棄しているわけではないのだ。これは仕方のないことなのだ。

 

「そうですね、お師匠に与えられた最初にして最大の試練……これを乗り越えないまま弟子など名乗れるはずもありませんでした! 私、やりますっ!」

「アア、ガンバッテ」

「はいっ!」

 

 小傘が望んで博麗の巫女を迎え討つというのなら、もういちいち止めはしまい。小傘は霊夢との再戦に意欲的であり、霊夢は小傘をボコって里から報酬ももらえる。謂わばこの二人はWin-Winの関係であり、これ以上月見が関わる余地などありはしないのだ。

 そういうことなのだ。

 一方的に納得したところで、月見はふと、

 

「なあ、小傘」

「はい、なんでしょう?」

「赤蛮奇のアドバイスで、普通に人間をおどかせるようになったんだよな? なら、私に弟子入りしなくてももう大丈夫なんじゃないか?」

「え? ……? ……………………」

 

 問われた小傘は十秒近くもぽかんと沈黙して、それからようやく「あっ」という顔をした。

 おもむろに月見を見た。月見も、小傘のまんまるな瞳をなにも言わずに見返した。

 

「……」

「……」

 

 やや離れた森の向こうで、小川が耳によい澄んだせせらぎを奏でている。小鳥が一羽、枝から枝へ飛び移りながらご機嫌に山の方向へ姿を消す。風はなく、頭上の枝に括りつけられたこんにゃくが侘しげに灰色の体をたるませている。

 そんな長閑な森の中でたっぷりと考え、しかして小傘が弾き出した答えは、

 

「見ていてくださいお師匠! わたし、頑張りますっ!」

「なあ小が」

「やるぞーっ! おぉーっ!」

 

 全身全霊で、気づかなかったふりをすることだった。

 月見はもはや仏の微笑みを浮かべ、仏の微笑みのまま匙をポイした。

 

「待っていてください、必ずやよい報告をお持ちいたしますから!」

「……うん」

 

 嗚呼、月見にとって『よい報告』とは一体なんなのだろうか。

 弾丸のように純粋無垢なまっすぐさで、日夜あっちへこっちへすっ飛び続ける問題児――多々良小傘の進撃的迷走は、今年もまったく勢力を弱めることなく続くようだ。

 

 もちろん後日、コテンパンにやられた小傘がぴーぴー泣きながら水月苑に突撃してきたのは完全な余談である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、鈴奈庵が春の新装開店を決めてから何日かした頃。もう間もなく目覚めを迎える月見の夢枕に、突如として宇迦之御魂神が立った。

 

「あんなーつきちゃん、うちの神使やろー?」

「……」

 

 宇迦之御魂神がどんな神かといえば、あのわかさぎ姫すらしっかり者に見えるくらいの超絶的なおっとりさんであり、ある意味ではズバ抜けた自己中心主義者である。彼女の人生ならぬ神生の辞書には、「周りに合わせて生きる」という概念が一切記載されていない。わがままなわけではなく、面倒くさがりというわけでもなく、自分と他人は違う命に生きるものなのだから、それぞれ違うペースで自由に生きるのが自然なことだと考えている。他人に合わせず、他人が自分に合わせるのも求めず、自分だけの世界をのんびり漂っている綿雲みたいな少女こそがこの神だった。

 水月苑だった。もう何度も生活をともにしてきただだっ広い茶の間に、しかしお茶を淹れてくれる藍の姿はなく、こたつで丸くなるぬえもおらず、庭にはわかさぎ姫の気配もない。現実とは対照的な染み入る静謐が満ちた水月苑で、白い少女がたった一人だけ、はんなりとした微笑みを浮かべて月見の正面に座っている。

 

「つきちゃん、聞いてはる?」

「聞いてるよ」

「そやったら、うちの神使。やらへん?」

 

 宇迦之御魂神、その本人。

 上から下まで純白壮麗な衣と()をまとい、そこには稲荷の神紋である金の稲紋が織り込まれている。頭には小さな金の短冊をいくつも連ねた髪飾りを載せ、肩では羽衣をたなびかせ、首からは翡翠や瑪瑙の勾玉でこしらえた、それぞれ長さの異なる三重の首飾りを下げている。ここまで書くと一見堂に入った神様ぶりだが、衣が手の先まで隠れるほどぶかぶかなせいなのか、背丈は平均的な少女よりやや低めに見える。嘘みたいに真っ白い髪を肩口で切り揃え、垂れ目気味で、さながら半分とろけたお餅のような、良く言えば柔和で達観し、悪く言えば締まりなくスキだらけな雰囲気に包まれている。

 月見は答える。

 

「お断りするよ」

「えー、なんでぇー? ……あー、うんとねー、三食お昼寝おやつ付きやぇ?」

 

 そして主に関西あたりの方言をふわふわと崩したような、なんとも独特の言葉遣いをするのが特徴の女神なのだった。宇迦がこてんと首を横に傾けると、稲穂をかたどった耳飾りがしゃらりと小気味のよい音を奏でた。

 

「そういう話ではなく。宇迦、私は妖怪だよ」

「うちの神使になったら神の仲間入りやからー、関係あらへんよ?」

「大有りだ。私は妖怪なんだってば」

「うんとー、じゃあ妖怪のままでええよ?」

 

 宇迦があまりに底抜けのマイペースなせいで、こうして会話が噛み合わなくなるのも珍しくなかった。月見は一度話題を切り替えて仕切り直しする。

 

「そもそも、どうして私を神使にしようなんて思うんだい」

「んー? あんねー、だってつきちゃん、幻想郷でうちの信仰広めてくれとるやろ? ここにうちのお社も作ってくれたもんなぁ。そやけー、つきちゃんがうちの神使になったら、きっと幻想郷の信仰がっぽがっぽやーって」

 

 両腕で大きな円を描きながら、がっぽがっぽーと宇迦はとても能天気に言う。月見は目頭を押さえて声なき声で唸っている。

 

「……お前にはほら、おくうの件で借りがあるからね」

「えへへ。つきちゃんだって妖力ぎょーさんうちにくれてはるのに、やっぱ優しいなあ」

 

 なお『つきちゃん』とは、名前が『月』見だからである。宇迦は月見に限らず、相手の名前から二文字を取ってちゃん付けする呼び方をする。たとえば藤千代なら『ふじちゃん』、操なら『みさちゃん』となる。

 

「けど神使はさすがにお断りだ。私は今の生き方を変えるつもりはないよ」

「えー。ぶーぶーやぁ。絶対向いてる思うんにぃ」

「勘弁してくれ」

 

 現状でも、月見は里人からそれなりに稲荷扱いをされてはいる。けれどそれは、月見が妖怪という前提あっての所謂親愛の表現と呼ぶべきものであり、本当に稲荷だと勘違いしているのはごく一部なのだ――たぶん。

 もしも名実ともに稲荷の使いとして、里人みんなから相応の『信仰』を受けるようになったとしたら。それは、月見が思い描いている友誼の形とは少なからず違ってしまうだろう。

 

「いけずぅ」

 

 宇迦は束の間頬をぷっくり膨らませるも、すぐに破顔した。

 

「なんて、冗談。言うてみただけ。でも、気ぃ変わったらうちはいつだって大歓迎やぇー?」

「……うん。まあ、もしそんな日が来たらよろしくね」

「はいな」

 

 ぶかぶかの袖で口元を隠し、くすくす肩を揺らして、

 

「つきちゃんやったらこれからも、自然とうちの信仰広めてくれはるやろしなぁ」

「……普通に生活してるだけなんだが、どうしてこうなるんだろうねえ」

「うんとー、妖怪らしくないからやない?」

 

 さいですか。

 

「あー、そやったそやった。つきちゃんにいっこ教えたげようと思とったんよ」

「なんだい?」

「あんねー、まみちゃんがもうすぐそっちに行こうとしてはるよ」

「……」

 

 思わぬ名前が出てきて月見は沈黙した。

 まみちゃんとは、なにを隠そう妖怪狸の総大将・二ツ岩マミゾウのことである。

 

「最近ねぇ、えらい身の回りのもんなおしよってなぁ。きっと春頃になるやろねぇ」

「……そうか」

 

 やっぱりこうなったか、と月見は思う。マミゾウは顔見知り相手であれば、それがたとえ人間であっても大変面倒見がよくて義理堅い。古くからの友人が封印から解き放たれ幻想郷で暮らしていると知れば、いい機会だと言いながら引っ越してくるとしてもおかしいことはないのだ。

 

「うち上手く言えへんけど、頑張ってなぁ」

 

 宇迦は清々しいまでの他人事だった。これは月見と幻想郷の問題であり、高天原に住まう神たる自分にはこれっぽっちも関係ない。助けを求められるならば考えるが、月見がそうする性格でないのはよく知っているので、自分がこれ以上口を挟むことはないと完全に見切った上での「頑張ってなぁ」だった。本当に、ただ空を流れるだけの雲みたいな少女だった。

 ある意味では、彼女が一番神様らしい神様だといえるのかもしれない。

 

「ほんじゃー、またなんかあったら会いにくるから」

「ああ。またね」

「えへへ。さいならなぁ」

 

 夢の記憶が終わる。そろそろ目覚める時間だと体が告げている。水月苑の景色が消え、意識が束の間白くなって、今日もまた新しい一日が始まる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば二月の下旬、肌寒くも日差し柔らかく長閑な冬の朝。月見がなんとなしに庭先まで出てみると、命蓮寺の祠の前に白蓮の姿を見つけた。

 膝を折り、両手を合わせて、そこに眠る弟へ真っ白な祈りを捧げていた。月見の気配はもちろん、月見が玄関を開けた音も彼女の意識には届いていないようだった。口元に優しい笑みがにじんでいた。彼女が弟の墓前で微笑む理由を知っているからだろうか、月見は今より近づこうとも声を掛けようとも思うことなく、ただあいかわらずの寒さに手がかじかみそうだったから、両腕を交互の袖に入れてそっと温めた。

 白い呼吸がひとつ空に溶けて、それから白蓮はまぶたを上げた。

 

「おはよう、白蓮」

「……あ、おはようございます」

 

 声を掛けると白蓮は立ち上がり、周りに月見以外誰もいないのを念入りに確かめてから、

 

「……お、お父様っ」

 

 他人に聞かれれば一巻の終わりというように、ぽそりと早口でそう付け加えるのだった。

 

「そこまでして言わなくても」

「い、いいんですっ。これは私が、その……自己満足でやってるだけというか……」

 

 赤くなってきた頬を両手で押さえ、白蓮が白い吐息を空に散らす。月見は小さな石の反橋で、白蓮がいる四つの社の島に渡る。途端に博麗神社の社からお賽銭ちょうだいオーラを感じたが、気のせいに決まっているので颯爽と無視した。

 

「なにを話してたんだい」

「いろいろです。……ここに来てからは、毎日いろんなことがあるので」

 

 雑に答えたわけではなく、本当にそうとしか表現できない色濃い日々の連続だったのだろう。

 白蓮が幻想郷にやってきて、もう間もなくふた月になる。早いものである。紫が冬眠したときはまだまだ遠いと思っていた春が、気がつけば足音も聞こえそうなくらいに近づいてきている。

 月見が幻想郷に戻ってきてから、ぐるっと季節が一周しようとしているわけだ。

 久方振りに幻想郷の土を踏んで、妖夢や雛と出会い、紫に拉致されて――あの日がなんだか随分と昔らしく思えてしまうのは、ここで過ごす日々がそれだけ濃密だからなのか、単に月見が歳だからなのか。

 白蓮が小さく笑った。

 

「なんだか今、似たようなことを考えてる気がします」

「……そうかもしれないね」

「命蓮も、見ていると思います。私たちを。この幻想郷を、きっと」

「ああ」

 

 そう願う。それがたとえ、月見たちの独りよがりな考えだとしても。

 だから月見もいっとき、祠の前で命蓮に手を合わせた。

 

「……さて、今日はどんな用かな。寺のみんなは?」

「あ、えっと……今日は、お寺の方を星たちに任せてきまして……」

 

 そこまで答えた白蓮は伏し目がちになって、身を縮め、指先で髪をくしくしといじくりながら、

 

「今日は、その……お父様と、一緒に、いようかなー……とか……」

「……」

「な、なーんて……」

 

 封印されていた年月を除いたとしても、もうそれなりに齢を重ねた立派な大人のはずなのだが。

 月見は白蓮の背後に、恥じらいつつもほのかな期待が隠しきれていない、幼らしい獣の尻尾めいたものを幻視した。

 ふっと、一笑。

 

「じゃあ、いろいろ手伝ってもらおうかな。今日は藍が留守にする予定でね」

「!」

 

 白蓮の尻尾がピンと立った。気がした。

 

「お掃除でもお料理でも、なんでも大丈夫です!」

「それは頼もしい。よろしく頼むよ」

「はいっ」

 

 輝夜やフランを筆頭とする少女がそうであるように、白蓮もまたこのふた月ほどですっかり水月苑の常連客になった。近頃はとりわけ、屋敷の手伝いにやたらと高い意欲を見せている。今の時代のことを学ぶためであり、宝塔の一件のお礼でもあるというのが本人の弁であるが、どうもそれだけが理由ではなさそうである。

 とはいえ、本人が言わぬ以上わざわざ月見の方から触れはしない。持ち前の性格で水月苑古参組とも問題なく打ち解け、実際、勉強という面では大いに役立っているようだし。妖怪と人間が気兼ねなく集うこの水月苑は、白蓮にとってはなんの理由がなくとも訪れたい場所なのだろうから。

 

 まあその結果、冬眠明けの紫と盛大にひと騒動起こすわけなのだが。

 それはそれとして、時が来たら話すとしよう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ギーン!」

「つくみーっ!」

「居候するー♪」「イソーローするー♪」

 

 たとえば三月のはじめ、今年に入って一番気温が高くなった穏やかな昼下がり。輝夜とフランが、夢と希望のロケット噴射で水月苑の茶の間に突撃してきた。

 輝夜は竹で編んだ大きな手提げバッグを持ち、フランは背中がすっぽり隠れるベージュ色のリュックサックを背負っていた。そんな大荷物で一体なにをしにやってきたのかといえば、まあ二人が鼻歌らしく口ずさんでいる言葉が答えであって。

 月見は本を畳んで笑みとともに答える。

 

「やあ。ちゃんと夜には帰るんだよ」

「差別はんたーい!」

「われわれは断固抗議しまーすっ!」

 

 畳に仲良く女の子座りして、二人はBooBoo!と徹底抗戦の構えである。輝夜が袖を振ってこたつを指差し、

 

「この妖怪はいいのに、なんで私たちはダメなの!?」

 

 こたつではあいかわらず、ぐーすかと惰眠をむさぼっている(ぬえ)がいる。つまりこの二人はぬえに便乗して居候しようとしており、バッグの中身は着替えや小物類のお泊まりセットというわけだ。

 ぬえの居候を許可した時点でこうなるだろうとは思っていたが、まさか三月になっても二人が諦めないとは予想外で月見もすっかり手を焼いていた。

 

「ぬえはずっと長い間地底に封印されてて、幻想郷じゃ住む場所がないから仕方ないんだってば」

 

 と、今日になるまでもう何度説明してきたやら。

 

「お前たちは帰れる家があるんだから、ちゃんと帰ってあげなさい」

「永琳は好きにしたらいいって言ってたわ!」

「咲夜があとでお手伝いに行くって張り切ってたよ! お姉様も支度が終わったらすぐ来るって!」

 

 ……永琳、レミリア、咲夜。

 今は折悪しく藍も出掛けているので味方がいない。さて今日はどうやって諦めさせようかと月見が頭を悩ませていると、

 

「つ――――くみ――――――――!!」

 

 立ち塞がるものすべてをブチ抜く勢いで、今度は萃香が突撃してきた。こちらの笑顔もはちきれんばかりの夢と希望で満ちあふれており、輝夜の頭上を飛び越えて月見の目の前に着地すると、

 

「月見、お酒呑ませてっ!」

「……この間呑んだばかりだろう」

「だってだってぇ! やっぱり酒虫のお酒ってめちゃくちゃ美味しいんだもん!」

 

 年越しの宴会でルーミアから譲り受けた酒虫は、台所に置いた樽の中で日夜気ままにお酒を作り出してくれている。しかし萃香や幽々子など一部の呑兵衛が頻繁に酒をたかりに来るせいで、できあがった端からあっという間に呑み干されるサイクルの繰り返しだった。特に萃香が呑む量といったら――言うまい。

 後ろから輝夜とフランが噛みつく。

 

「ちょっと、いきなりなによ! 今は私たちがギンと話してるの!」

「そうだよ! 横入りだめーっ!」

「んあー? ……なんだあんたらか。なに、今日も居候させろーって騒いでるの? 懲りないねえ」

 

 酒虫の酒を求めて足繁くここに通っているからか、萃香は輝夜たちのデモ現場を何回か目撃している。

 

「あんたらは帰る家があるじゃない。こういうのはね、ちゃんとした理由がないと月見は納得しないよ」

 

 むぅ、と輝夜とフランが口をへの字にする。まさか萃香に味方してもらえるとは思っていなかった。仕方ない、今回は酒虫の酒を好きなだけ呑ませてやろうと月見が感心したまさにその直後、

 

「――というわけで、根無し草の私なら問題ないよねっ! 今日はここに泊まるー!」

「「ずる――――――――いっ!!」」

「いったあ!? なにすんだコンニャロ――――――ッ!!」

 

 月見は上方修正した萃香の評価を元の位置に下方修正した。やっぱり萃香は萃香だった。

 始まった三人娘のケンカに安眠を妨害され、ぬえがまぶたをこすりながらこたつから起き上がる。

 

「もー、うるさいなー……静かにしてよー」

「元はといえばあんたのせいよぉ!!」

「うえあ!? なななっなになになんの話!? ぎゃー!?」

 

 ぬえを巻き込み、喧騒はますます加速していく。

 ところで月見は水月苑において、顔馴染に対しては鍵が開いていれば好きにあがっていいと許可している場合がある。何分来客が多い屋敷なので、毎回毎回玄関まで出迎えに行くのは少々骨が折れるし、それでなにか悪いことをするような子たちでもないという信頼の証でもあった。このためたまたま少女たちのタイミングが重なったときは、ふと気がつけばこたつに入りきらないくらいの賑わいになっているということが起こる。

 それが今日だった。

 まずやってきたのはレミリアだった。輝夜と一緒にぎゃーぎゃー暴れるフランを見て最初こそ呆れていたものの、事情を聞くや「なら私も泊まるわ」とクールに着席した。

 次にやってきたのは早苗と志弦だった。早苗は目を輝かせ、「お泊まり会ですか! いいですねえ!」とすぐ乗り気になった。このあたりから、少女たちの話がみんなでお泊まり会をする方向にズレ始めていく。志弦はニヤニヤ笑っているだけでさっぱり助けてくれない。

 次は幽々子と妖夢だった。幽々子は「私も泊まりまーす!」と一秒で参加表明し、妖夢は少し迷っていたが、幽々子様が泊まるならと付和雷同した。

 幽香も来た。もちろん、参加者が一名追加になった。

 霊夢と魔理沙まで来た。食い扶持が増えた。

 天子もやってきた。しかし今日は夜から天界で用事があるらしく、「なんでこういう日に限ってぇ……」と可哀想なくらいに落ち込んでいた。

 その後も藤千代と操、赤蛮奇と影狼、紅魔館の家事を片付けた咲夜が集まり、更にはフランがチルノと大妖精を誘いに行き、早苗が庭の分社から諏訪子と神奈子を呼んで、ダメ押しとばかりに妹紅やはたてまで野次馬にやってきて。

 

「月見様、ええと……これは一体?」

「……なんだろうね」

 

 用事を済ませた藍が戻ってくる頃には、茶の間が二十人以上の少女たちで大所帯と化しているのだった。

 

「――では、以上の分担でお願いしますねー。日が暮れる頃にまた集合してください!」

 

 いつの間にか藤千代の指揮で、食材の持ち寄り分担までちゃっかりと会議されている始末である。月見はまだ一言も許可を出していないのだが、そんなのは一致団結した少女たちにとってはまるで些末なことだった。

 

「というわけで月見くん、いいですよねっ」

 

 この状況でこう問われた月見がなんと答えるのかなんて。彼女たちならば、とっくの昔にぜんぶお見通しなのだろうから。

 月見はひとつ、吐息とともに肩を下げて。

 

「……まったく。今日だけだからね」

 

 はーい!! と元気に返事をして、少女たちがやる気いっぱい行動を開始する。食材の調達に行く者、お泊まりセットを準備しに一旦帰る者、こたつに入ってぬくぬくし始めるレミリアとフランと駄娘ぬえ。隣の藍が、無邪気な子どもたちを微笑ましく見守る保母さんみたいな顔になっている。

 

「すまないね、藍。また面倒を掛けるよ」

「いえいえ。いいじゃないですか、こういうの」

 

 ひょっとすると自分も、似たような表情をしていたのだろうか。

 

「きっと紫様も、話を聞いたら泊まりたがるでしょうね」

「まあ、そのときは付き合うさ。数ヶ月振りなんだし」

 

 藍が、少し意外そうに目を丸くした。

 

「どうした?」

「いえ、」

 

 一瞬だった。月見が問うたときにはいつも通りの怜悧な微笑に戻っており、

 

「……そのときは私と橙もご一緒させていただいて、四人がいいですね」

「……そうだね。そうしようか」

 

 冬の有終たる締め括りに、水入らずで鍋を囲むなどしてもよいかもしれない。目に浮かぶようだ。お肉を探して鍋をかき回す橙、ちゃんと野菜も食べなさいとやんわり叱る藍、豆腐で舌を火傷し涙目で痙攣する紫、そんな三人を眺めながら、自分は。

 自分は、きっと――。

 

「――さて、じゃあ私たちも準備しないとね」

「ですね。行きましょう」

 

 今宵の喧騒が、境界を超えて紫のもとまで届くように。去りゆく季節を万雷の呵呵(かか)で見送り、新しい季節の来訪を嵐の喝采で祝うとしよう。

 

 春よ、来いと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 冬が終わる。

 よもや、霊夢の春乞いに効果があったわけではあるまいが。目を覚ました雪女は霊夢の蛮行に文句を言うでもなく、「もう冬も終わりということですね。仕方ないです」と神妙な理解を示すと、月見に礼を言っていずこかへ姿を消した。すると翌日から階段を上がるように気候が和らぎ、長らく水月苑を飾ってくれた雪化粧も完全に空へ帰って、そこにはまだ月見の指先よりも小さな、新しい緑の芽生えがあった。

 もうすぐ自分たちの出番だとばかりに、春告精が準備運動を始めそうな三月の半ば。

 

「ぢゅ、ぢゅぐみ゛いいいぃぃ……」

「……やあ、紫」

 

 ――なんというか、ああやっぱりこいつはいつでもいつも通りのこいつなんだなと。

 月見が数ヶ月ぶりに見た妖怪の賢者は、ずびずびえぐえぐのみっともないガチ泣きの顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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