銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑰ 「雫」

 

 

 

 

 

 どうやって外に出たのかはよく覚えていない。ふと気がつけばしづくは境内のど真ん中で突っ立っていて、目の前には山伏のくそ真面目な無表情があった。

 

「終わったようだな」

「……、」

 

 くそ真面目に問われ、なにがだっけ、とそんな頓狂なことをしづくは考えた。なにが終わったのかなんて、自分がなにを終わらせたのかなんて、答えはひとつしかありえなかったのに。

 なんの変哲もない昼日中の境内だった。山門をくぐると継ぎはぎだらけの石畳が伸び、小ぢんまりとした庫裏(くり)があって、思いのほか立派な鐘楼があって、不自然なくらい堂に入った穀倉があって、やや枝葉が伸び形の崩れた庭木があって。風は涼しく、空は眩しく、鳥と葉擦れが一緒になって歌を歌い、背後にはもぬけの殻になったこの寺の本堂。

 白蓮が、いた場所。

 

「……そだね」

 

 すべて見渡し、ようやく答えを返せた。

 

「終わったよ」

 

 心のどこかでこれを現実と受け入れようとしない己へ、突きつけるように言った。

 

「――聖白蓮は、私が封印した」

 

 そう――白蓮は、もういない。

 しづくが、封印したから。彼女もまた被害者だったのに、本当は裏切られただけだったのに、心から平穏を願う優しい人だったのに、それでも、

 私が、

 

「そうか。ならあとは、寺の妖怪どもが戻ってくるまで待機だな」

「……」

 

 妖怪に裏切られたなんの罪もない女が一人消えたというのに、山伏はあいかわらず淡々としていた。だがそれは決して冷酷なわけではなく、自分なりの見解で目の前の事実を受け入れ、心を上手く律しているように見えた。大人だからなのかな、としづくは思う。昔からの腐れ縁だとつい忘れがちだが、山伏はしづくよりもひと回り程度年上なのだ。

 だからだろうか。気がつけば、乞うように問うていた。

 

「……ねえ、山伏サン。山伏サンは、もっといいやり方があったと思う?」

 

 しづくは、己の選択が最善だったとは思っていない。たとえ封印という形であったとしても、一人の少女をこの世界から消し去った選択が最善だったとは思いたくない。いくら彼女が救われる夢を見たからといって、それで本当に封印してすべてを未来に託してしまうなんて、他人から見ればきっと狂気の沙汰みたいなものなのではないか。

 あの夢が現実になる絶対の保証なんてどこにもない。

 そしてそれは、白蓮が非業の最期を遂げる未来にしたって同じこと。とどのつまり、

 

「私、……私は、たぶん、逃げたんだと思う」

 

 白蓮を助けたいと思いながらも、助けられる自信がなかったから。ここで封印する未来を選ばなければ、たとえしづくが全力を尽くして守ったとしても、いつかはあの夢の通りの最期がやってきてしまうと怖かったから。

 白蓮の前でカッコつけて抜かしたのはぜんぶ綺麗事だ。

 ただ、怖かっただけ。それで白蓮を封印するという一番楽な方法に逃げて、助けた気になろうとしている自分に反吐が出た。

 

「結局、今までと同じだよ。私はまた、なにもできなかった」

「……」

 

 こんなもの、なにもできていないのと同じだ。いや、あの窮奇を見逃してしまったのが自分であった分、むしろ余計な真似をしただけだった。自分が窮奇を確実に退治していれば、白蓮の運命はまた違う形を描いていたかもしれない。世の摂理を捻じ曲げるほどの力がなければ成し遂げられない夢も、もしかしたらそんな力を持った同志に恵まれて日の目を見ていたかもしれない。白蓮は悪魔ではなく、人と妖怪の共存を為した聖人と呼ばれていたかもしれない。

 その未来を破壊したのは、自分なのかもしれないと。

 考えれば考えるほど思考が神経に焼きついて、いっそひと思いに泣いてしまいたいと、

 

「未来が見えない儂に、貴様の苦悩や恐怖はわからん」

 

 顔を上げた。

 そこにはあいかわらず、堅苦しい山伏の無表情があった。

 

「だが僧の端くれとして、ひとつだけ断言はできる」

「……なに?」

 

 慰めを期待したわけではない。山伏はともすれば冷淡にも見えるくらいの朴念仁で、こんなときに気遣いができる人間でないのはしづくが一番承知している。しかし一方で、僧なんてものをやっているのだから決して冷血なわけでもないのだ。この反吐が出るような現実を前にして、山伏がなにを考えているのか知りたかった。

 

「貴様の夢は今まで散々現実になって、嫌というほど貴様を苦しめてきたのだろう? ――なら、」

 

 山伏は例によって、顔中の筋肉が凝り固まったような面構えだったが。

 だからこそ不要な感情を一切挟まない、心ある言葉だった。

 

「――ならば、今更になって夢で終わるなどありえんよ。それでは事の道理が合わん」

「……、」

 

 その意味を、しづくはしばらくの間呆けながら考えて。

 やがて、小さく吹き出した。

 

「そっか。山伏サンは、私の力を信じてくれるんだ」

 

 山伏は途端にしかめ面で、

 

「その言い方は語弊がある。ただ道理を考えればだな、」

「カッコつけてら」

「たたっ斬るぞ」

「カッコつけてらー」

 

 山伏の仕込み刀が鯉口を切ったので、これ以上は大人しくやめておく。

 けれど、頬に戻った小さな笑みは残り続けた。

 

「ありがと、山伏サン。ちょっと楽になった」

「……まったく」

 

 山伏は鼻から深いため息をつき、

 

「ならば下を向くのはやめて、精々最後までやりきることだな」

「……そだね」

 

 なにが最善だったのかなんて、今となってはもうわからない。

 だから、これが少しでも最善に近づくよう尽くすしかないのだ。いつか白蓮が、夢見た世界でまた一からやり直していけるように。心から笑えるように。それが白蓮を封印してしまった己の、せめて果たすべき責任と贖罪に違いないから。

 

「……悪いけど山伏サンには、もうしばらく付き合ってもらうよ。やんなきゃなんないことがいっぱいあるんだ」

「ああ」

 

 やはり素っ気ない返事だが、それでも決して嫌だとは言わないこの男の無愛想な優しさを、いつもより何倍も嬉しく思いながら。

 

(――信じてるよ。白蓮)

 

 拳を握る。

 聖白蓮は、救われなければならない人間だ。誰よりも優しくて、まっすぐで、ひたむきで、不器用で、だからこそたくさんの重圧で己を押し潰し、たくさんの後悔で己を締め殺し、それでも前へ前へと歩き続けようとする姿が痛々しくて。

 どうか、救われてほしい。

 解放されてほしい。

 そんなに、頑張らなくていいんだって。泣いてもいいんだって。

 そのために必要なことなら、私はなんだってやってみせるから。

 

(どうか――)

 

 遠い遠い未来でも構わない。しづくの夢に描かれたあの光景が、いつか必ずやってきますように。

 どうか、どうか――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――そう、彼女はずっと祈り続けてきたのだ。

 無論、しづくの選択が最善だったのかは志弦にも知りようがない。ただ少なくとも、それがどうか最善となるようにしづくはできる限りの手を尽くしてきた。すべての封印を終わらせ、町に虚偽の報告をして、白蓮にまつわる記録と痕跡を改竄し、故人として過去の闇へしまいこんだ。万にひとつも白蓮の悪名が、後の世まで残されてしまうことのないように。目覚めた世界で二度と『悪魔』と呼ばれることなく、最初からやり直していけるように。そしてすべてが終わったあとも仏に祈り、神に祈り、命の灯火が役目を終えてなお、想いだけの存在となって夢の中を漂い続けてきた。

 

『――おかえり』

「……ただいま」

 

 志弦が夢から目覚める、ほんの直前の話だ。長くも短い夢の旅を終えた志弦は、終着駅として再び『彼女』の前に戻ってきた。

 ここから始まり、ここで終わろうとしていた。はじめて夢に見たときと同じ、見果てぬ闇だけで満たされた空間。けれど目の前に佇む彼女は、もはや黒いだけの人影ではなかった。

 

「……なんて呼べばいいのかな。とりあえず、『ばっちゃん』でいい?」

『うむ。苦しゅうないぞー』

 

 志弦は苦笑する。こうして向かい合って話してみると彼女は本当に瓜二つで、間違って拉致監禁されたのもこりゃあ無理ないな、と思った。

 神古、しづく。

 今となっては、大昔に死んだはずの彼女と向かい合うこの状況に疑問もない。己の死に際にしづくがなにをしたかはわかっている。目の前の彼女がどういう存在なのかも理解している。ここは、志弦が見る(かこ)としづくが見る(みらい)の交差点なのだ。

 

「ぜんぶ、見てきました。ばっちゃんと、白蓮の間にあったこと」

『……うん』

 

 しづくは眉尻を下げ、口元にほんの小さな笑みを含ませた。

 

『ごめんね、巻き込んじゃって。てめーがこの時代まで生き延びて、最後まで責任持てやコンニャローって話だよね』

「いや……まあ、巻き込まれて迷惑かっていえばそうでもないんで、いいよ」

 

 むしろ、運命めいて納得している部分すらあった。自分がどうして幻想入りしたのか。どうして月見という妖怪に惹かれたのか。どうして幻想郷で生きていくことを選んだのか。すべてを知った今になって思えば、ああこれは運命だったのかもしれないな、と。

 視界が果てしなく開けて澄み渡っていくような、言い知れぬ爽涼だけが志弦の胸にはある。

 

「私がなにをすればいいのかはわかってる」

 

 志弦はしづくの過去を知った。それはつまり、しづくが当時見ていた夢の景色を通して、未来のあるべき形を知ったということでもあった。しづくが祈ったこと。白蓮が願ったこと。己の血の中に継がれたもの。だからあとは、志弦が(みらい)を現実に変えてしまえばいい。

 そのための、『過去を夢見る程度の能力』なのだ。

 

「ばっちゃんが遂げられなかったこと、私が継ぐよ」

 

 白蓮がこの世界で、救われるように。笑えるように。

 不思議なものだ。本来であれば志弦にとって白蓮は赤の他人なのに、どうやら自分は、夢の旅を通して本当にいろいろなものを継いでしまったらしかった。

 でも、悪くない。

 

『……参ったな』

 

 しづくが口端を曲げ、頭を掻いた。

 

『ほんとは、私が頭下げて頼まなきゃなんないことなのに。頼もしい子孫が持ててわたしゃ誇らしいぜ』

「私こそ、立派なご先祖様で……すごいなって、思うよ」

 

 為したことが最善だったかはわからないけれど、ひょっとしたら正しくはなかったのかもしれないけれど、それでも彼女が心から白蓮の笑顔を望んでいたのは間違いない。だからしづくは今でもこうして目の前に存在している。その想いだけは肯定してあげたいと志弦は思う。

 だから、もう行かなきゃ。

 

「……そんじゃま、そろそろ行くね。あんま寝てるわけにもいかないし」

『……うん。ありがとね』

 

 なにもわからなかった一度目とは違い、今は自分の意思でこの夢に落ち、自分の意思でここへやってきた。目覚めるときも、自分がそう願うだけでいい。

 

『そだ。ひとつ、訊いていい?』

「ん?」

『「あのひと」のこと』

 

 それが誰を示す言葉なのか、迷うことはなかった。

 しづくは中空を見上げ、

 

『私のご先祖様って、妖怪と友達だったんだよね。……それって、「あのひと」のこと?』

「うん」

 

 志弦は、迷わず頷いた。

 だって、秀友(ごせんぞさま)の思い出だって、ここにあるから。

 

「月見さんっていうんだ。人間が狐の耳と尻尾つけてるような妖怪。でも本人はそんなの一言も話してくれてなかったので、起きたらそっこーでぜんぶ吐かせに行きますっ」

『……そっか。そうだね』

 

 目を伏せ、呟く。

 

『……つくみさん、か』

 

 肩の荷がひとつ、下りたような。

 そんな顔をしていた。

 

『月見さんに、よろしくね』

「うん」

 

 志弦は力強く答え、拳を握って、

 

「任せてよ。一発ぶん殴ってくるから」

『は?』

「へへ、うでがなるぜ」

『待ってなんで!? なんで殴んの!? そういう話じゃなかったよねどう考えても!?』

「そんじゃねーっ!」

『ちょっとー!?』

 

 しづくが伸ばしてきた手を、軽く後ろに跳んで躱す。こちとら一度目は、さんざ意味深なことを言われて混乱させられたのだ。これくらいの意趣返しは、当然の権利として許されるであろう。

 いいように狼狽するしづくの顔がなんだか痛快で、志弦は思いっきり歯を見せて笑った。

 

『こんにゃろー!』

「あっはははは!」

 

 一生懸命飛び跳ねて憤慨するしづくの姿が、ふっとぼやけ、薄れてそのまま消えていく。

 目覚めの時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――――――――ぁ、」

 

 声がこぼれた。ナズーリンたちの存在が一瞬で意識の外に弾き出され、白蓮はしばしの間呼吸も忘れて、その妖怪の姿で為す術もなく頭の中を埋め尽くされた。

 しづくの最後の言葉が、脳裏で鮮明に反響した。

 

『――私は、信じてる。君を救ってくれるあの妖怪が、きっと、君の弟さんを助けてくれた「あのひと」なんだって』

 

 ナズーリンでも星でも、ムラサでも一輪でも雲山でもない。みんなと出会うよりもずっと昔から、ずっとずっと白蓮の心の中にいた妖怪。

 命蓮だけの、お父さん。

 顔も名前も、種族すらも知らない相手だった。彼が本当にそう(・・)なのかどうか、目に映る景色だけで咄嗟に判断なんてできるわけがなかった。

 でも、ああ、でもどうしてなんだろう。

 彼の姿を見た途端、どうしようもなく――本当にどうしようもなく、心が切々と詰まったのだ。

 

「っ……」

 

 起き上がる。どれほど長く眠っていたせいなのか、手足がまったく思うように動かせず他人の体みたいだった。それでも、寝そべってなんていられるはずもなかった。星と一輪に両脇から支えられてやっとの思いで立ち上がり、震える脚で一歩、また一歩と懸命に前へ進んだ。

 

 おつきさまの、いろ。

 

 志弦が、ナズーリンが、ムラサが、静かにその行く先を開けた。

 命蓮を助けてくれたのは一体どんな妖怪だったんだろうと、心の中で何度も何度も思いを馳せてきた。鬼かもしれないと思い、天狗かもしれないと思い、細身の優しげな男かもしれないと思い、しっかりした体格の逞しい男かもしれないと思い、たくさんの妖怪を思い浮かべ、たくさんの姿を思い描いてきた。

 だというのに、己の想像力のなんと貧弱であったことか。

 銀の狐、なんて。そんな妖怪の存在を、白蓮は生まれてこの方一度たりとも考えたことはなかった。

 

「…………、」

 

 なにかを言おうとして唇が動き、けれど出てくるのは拙い呼吸の音だけだった。自分自身なにを言うのかまるで考えていなくて、でもなにかを言いたくて仕方がなくて。込み上がってくる感情はもはや胸の中だけでは収まりが利かず、息が苦しくて、目元が痛くて、破裂しそうで、自分はこのままおかしくなってしまうのではないかと思った。

 あなたが。あなたがそう(・・)なのかと、今すぐ自分の言葉で確かめたいのに。

 これじゃあまるで、私ったら、声を失ってしまったみたい。

 

「月見さん」

 

 志弦が、名を呼んだ。

 銀の狐の、名であるはずだった。

 呼ばれた彼は、静かにひとつ、息をついて。

 

「――髪の色」

「え?」

 

 咄嗟に意味が掴めぬ白蓮へ、彼は淡く微笑んでみせる。

 だから白蓮は、ああ、と思った。いま志弦が呼んだ「つくみ」という名は、きっと漢字で書くと「月見」なのではないかと。

 まるでお月様を見るような、ぎんの、きつね。

 

 ――白蓮には、命蓮という名の弟がいた。

 生まれつき体が弱く、けれど生まれ持った高い法力を活かして高僧となり、短い人生の中で多くの人々を救った弟がいた。

 白蓮の人生に最も大きな影響を与えたのは、間違いなく弟だった。

 弟がいなければ、白蓮が仏門に入ることはなかった。

 弟がいなければ、妖怪に恐怖以外の感情を抱くことはなかった。

 弟がいなければ、妖怪を救おうと考えることはなかった。

 弟なくして、己の人生は存在し得なかった――それくらいに自慢の弟だった。

 

 そんな弟には幼い頃、山で怪我をしたところを助けてくれた妖怪がいた。

 怪我が治るまでの間を共に暮らし、陰陽術の手解きを授けてくれた妖怪がいた。

 

 人間のように、やさしかったひと。

 

 その妖怪を、弟は「父上」と呼んでいた。

 白蓮の知らない、命蓮だけの――

 

 否。

 白蓮が今の今まで知らなかった、このひとこそが命蓮の――

 

 

 

「――髪の色が、あの子と本当にそっくりだね」

 

 

 

 もう、我慢しなくていいのだと思った。

 己の中であふれにあふれ続けていた感情が、とうとう完膚なきまでに決壊した。抑えを失った感情が根元から白蓮を呑み込み、為す術もなく涙が込み上げて、ぐしゃぐしゃに歪んだ世界を両手で必死に覆い隠した。でもそれだけではぜんぜん足りなくて、みっともなく嗚咽がこぼれて、もう立ってもいられなくて膝からその場に座り込んだ。

 人の前では決して泣かぬと、幼い頃から固く心に誓っていた。両親が早世して、自分が弟を支えていかねばならない道にあったから。人と妖怪の共存を目指して、自分がみんなを導いていかねばならない道を選んだから。

 泣くときは、いつも独りだった。

 だから、大したことじゃなかったと。そう言って、笑ってやろうと思っていたのに。

 

「ぅ、く……!! う、ううぅぅぅ~……っ!!」

 

 ダメだった。

 大したことのないわけがなかった。嫌だった。寂しかった。辛かった。悲しかった。苦しかった。怖かった。悔やんでいた。打ちひしがれていた。諦めかけていた。馬鹿な自分を、ずっとずっと責め続けていた。

 

「ほら」

 

 優しい声が聞こえる。涙も止められぬまま顔を上げる。いつの間にか目の前で、あのひとが膝を折って、白蓮にひとつの桐箱を差し出している。

 

「お前と一緒に、封印されていたものだよ」

 

 彼がそれを持っていたことすら、白蓮はまったく見えていなかった。

 力が上手く入らない両手で、やっとの思いで桐箱を受け取る。そう大したことのない大きさ、そう大したことのない重さ。なにがあっても決して手離すわけにはいかなかった、白蓮の一番大切なもの。

 命蓮の、骨壷。

 

「ところで、この船、わかるかい?」

「ふ、ね」

 

 彼に問われ、ぐしゃぐしゃな頭で一生懸命考えて、ようやく――情けないほどようやく、白蓮は気づくのだ。

 船を形作る美しい飴色の木肌、その奥に宿った神とも見紛う高潔な法力――。

 

「ぁ………………っ!!」

 

 覚えている。

 覚えているに、決まってるじゃないか。

 忘れてしまうわけが、ないじゃないか。

 

「恥ずかしながら、私はまったくわからなかった。こんなものを造ってしまうなんて、この子(・・・)は本当に立派なお坊さんになったんだね」

 

 そうです。

 そうなんです。

 この子(・・・)は本当に、本当に、立派になって。倒れて体が動かなくなるまで、たくさんの人を助け続けて。最後はちょっとだけ後悔してましたけど、それでも短い命を立派に生き抜いたんです。

 あなたに胸を、張れるように。

 この子は私の、立派な、自慢の、弟なんです。

 今すぐそう答えたいのに、想いのまま叫びたいのに、白蓮の喉からは拙い嗚咽しか出てきてくれない。強く在ろうとする今までの自分はもうぼろぼろに砕け散っていて、泣くことしかできない小さな子どもへ戻ってしまったみたいで。

 

「白蓮」

 

 名前を呼ばれるのははじめてなのに、なんだかずっと昔から一緒だったような気がして。

 

「話は聞いたよ。お前がどうしてその道を選んだのか。この子が、最期になにを願ったのか」

 

 弟はなんのために、この人に命を救われたのだろう。弟がこのひとと過ごした数日の出会いに、一体なんの意味があったのだろう。

 あのとき白蓮は、この問いになんの光も見出せなかった。そして、今でもはっきりとした答えはわからない。そも物事の意味とは人間が勝手に後付けするものでしかないのだから、絶対の答えが見つかる日なんて未来永劫やってこないのだ。

 でも、でも、きっとすぐに胸を張って言えるようになるだろう。

 あなた(この子)がいたから、今の私が在る。

 辛いことだって、悲しいことだってあったけれど。

 あなた(この子)を信じて、よかったと。

 

「……よく、ここまで……」

 

 ――ああ、このひとはこんな目をする人なんだ。

 何年も何百年もこの世界を見つめ続けてきた、人ならざる存在だからできるのだろうか。憐憫を向けるのではなく、慰めるのでもなく、ただそっと、なにも言わず白蓮のすべてを包み込んでくれるような。

 おつきさまの、瞳だった。

 

 

「よく、ここまで。歩いてきたね――」

 

 

 もうなにも、考えられなかった。

 恥ずかしながら、そこから先の記憶はどうも曖昧だ。あとでナズーリンから聞いたところによれば、彼の手を取るどころか胸に飛び込んでわんわん大泣きだったらしい。泣きたくても泣けなかった今までの分も、幼い頃へ返ったように。

 ただ、ひとつだけやたら鮮明に覚えていることがある。それは、やがてそっと自分の背へ回された両手が、とても大きくて優しかったこと。

 だから、ああ、きっとこの暖かさを、命蓮も感じていたのかなと。

 溺れるようにそう考えたことだけは、覚えているのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 はじめて、白蓮が泣くところを見た。

 ナズーリンが知る限り、彼女は涙を見せない女だった。助けたはずの妖怪に裏切られ、人々から悪魔と呼ばれたあのときも、打ちひしがれこそすれ涙だけは決して見せようとしなかった。大丈夫よ、とひたむきに笑って。

 それが白蓮の強さであり、しかし一方ではひとつの呪いでもあった。

 白蓮は決して、どんな困難にも一人で立ち向かえる気高い女ではなかった。不老長寿と若返りの秘術で見た目より長生きしている以外は、本当にごくごく普通の人間の女でしかなかったのだ。それでも自分がみんなを導かなければならない立場だから、みっともない姿なんて晒せないから、命蓮と約束したんだから、私がやらなきゃ、私が頑張らなきゃ――そう言い聞かせ、せめて涙を見せないことで、弱い自分を必死に見せまいとしていただけだったのだ。

 人と妖怪の共存を目指す先駆者としての重圧と、弟との約束に込めたあまりに強すぎる想い。白蓮が知らず識らずのうちに自分自身へ課してしまっていた、泣けない呪い。

 泣くつもりなんて欠片もなかったのだろう。この場に銀の狐さえいなければ、感極まる星やムラサたちを逆に慰めすらして、大したことじゃあなかったわ、と笑ってみせるつもりだったのだろう。

 

「……終わった、ね」

「……そうだね」

 

 小さく呟くと、隣の志弦からふわりと首肯が返ってきた。

 ナズーリンが見つめる先で、白蓮が幼い頃へ返ったように大声で泣いている。月見がなにも言わずそっと胸を貸し、一輪が瞳を潤ませながら白蓮の背をさすって、星とムラサに至ってはもうボロボロとマンガみたいなもらい泣きをしている。ナズーリンが思い描いていた通り――いや、それ以上のなんの文句のつけようもない結末が目の前にはあった。

 或いは、これは始まりともいうべきなのかもしれない。ただ単に封印から解放されただけとは違う。白蓮はきっと、ナズーリンたちが知らない頃からずっとずっと背負い続けてきた不安、責任、苦悩、迷い、重圧、そういったすべての枷から完全に解き放たれたのだろう。ナズーリンたちの目の前ではじめて流す大粒の涙には、きっとそれほど大きな意味があるのだと思った。白蓮はこの瞬間に生まれ変わって、ここから新たな命を歩んでゆくのだ。

 

「……彼には、これからくれぐれもよろしくしてもらわないとね」

「そだねー。最後まで責任取ってもらわなきゃ」

 

 白蓮を宥める月見の瞳は、ただただ優しい。そこに彼女への同情や憐憫の色はなく、こうして巡り合った己の数奇な運命を笑みとともに受け入れていた。まったくもって、妖怪らしくない目をする妖怪だと思った。

 

「むー……」

 

 となれば当然、霊烏路空にとっては面白くない。素っ気ないふりを装ってはいるが、彼女が良い意味でも悪い意味でも大変なご主人様想いなのはとっくにわかりきっている。月見を思って頑張ってトラウマを乗り越えたのに、それがぜんぶ聖白蓮というよその女のためだったとなれば、気が気でなくて嫉妬のひとつにも駆られよう。

 

「申し訳ないが、今は好きにさせてやってほしい。心配しなくても、横取りはしないさ」

「……むぅ」

 

 それでもナズーリンの言うことを聞いてじっとしているのは、もしかすると今の白蓮に、どこかかつての自分が重なっていたからなのだろうか。

 白蓮は当分泣きやみそうにない。だがそれでいいのだ。思いっきり泣けるときがようやくやってきたのだから、いっそくたびれるまで泣き腫らしてしまえばいい。みんなの前でだけ強くあろうとするこじれたプライドは、ここでひとつ残らず吐き出して捨ててしまえばいい。

 これからは、銀の風変わりな妖怪が傍にいる。

 なればきっと、心配なんてなにひとつもいらないのだから。

 

 

 

 

 

 白蓮の嗚咽が次第に治まっていく。自然と泣き止んだというより、疲れ果ててそれ以上はもう泣けなかったというべきなのかもしれない。本当に泣ける限り泣き尽くし、月見の胸からようやく顔を上げて、ぐしゃぐしゃな目元を何度も拭いながら精一杯の笑顔を作った。

 

「ご、ごめんなさい、こんなみっともないっ……」

「楽になったかい」

 

 しかし一笑とともにあっさりと返されてしまい、うう、と小声で呻く。

 

「……はい。お恥ずかしながら、とても……」

「それはよかった」

 

 裏表のない月見の言葉に、白蓮は一層胸をすかれたようだった。両手の平を合わせ、少しだけ互いの指を絡めながら吐息して。

 

「……なにから話せばいいのかな。話したいことが、たくさん……本当にたくさん、たくさんあるんです」

「慌てなくていいですよ、聖」

 

 星がそっと自分の両手を重ねる。いつもは頼りなくて情けない代理人が、今はちょっぴりだけ仏様らしく見えた。

 

「時間はいくらでもあります。これからは、いくらだってあるんです。だから、行きましょう」

 

 私たちが元いた場所は、もうなくなってしまったけれど。

 

「幻想郷っていう、妖怪と人間が一緒に暮らす世界なんです。月見さんのお屋敷は、妖怪も人間も集まる温泉宿なんですよ。聖も絶対に気に入るはずです」

「おんせん……」

 

 白蓮は、なんだか知らない世界の話を聞かされているみたいだった。何年も何十年も一途に願い続けてきた夢のはずなのに、こうしていざ言われてみると想像もできなかったに違いない。

 

「みんなで、一緒に入りましょうね」

 

 さあ、白蓮が泣き止んだなら長居は無用だ。今すぐ帰って、新しい世界を心ゆくまで見せてあげよう。

 

「月見。帰りもまたお願いできるかい?」

 

 ナズーリンは月見にそう尋ねる。白蓮の法力を使って帰ることもできるが、思う存分泣き腫らしたばかりの彼女にはいささか負担になるだろう。それに先ほどから霊烏路空が、自分の存在をアピールしたくてしたくて仕方がない様子なのである。

 

「おくう、できそうかい?」

「や、やるっ」

 

 問われた彼女は即答だった。ようやく自分を見てもらえた嬉しさで翼をぴこぴこさせ、しかし確かな眼力で白蓮を威嚇もしながら、

 

「私は、つくみの式神だからっ!」

 

 ナズーリンはくつくつと喉で笑う。「つくみの」の部分に大変力強いアクセントがあった。つまりこれは彼女なりのアピールと牽制であり、白蓮が自分にとって厄介な存在になりうると目聡くも直感しているわけだ。

 もっとも白蓮はその真意をまったく読み取れず、あらまあみたいな顔をして神妙に頷いている。

 もちろんこの少女、男と女の四方山話(よもやまばなし)に関しては、筋金入りの鈍感である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 神の銀の光が消えれば上空には再び青が広がり、地上から一斉のどよめきが聖輦船を出迎える。

 ナズーリンは甲板から身を乗り出して地上を見た。入浴道具を持参した客と思しき妖怪たちが、水月苑の庭から揃って船を見上げてざわついている。男の入浴日なので大半の目はそれだが、手伝いに来ているのか或いは遊びに来ているのか、見覚えのある少女たちの姿もちらほらと窺える。その喧騒を通り抜けて、わかさぎ姫の竪琴の声音が響いてくる。

 

「あーっ、みなさーん! おかえりなさーい!」

「あ……」

 

 ナズーリンの隣から地上を見下ろした白蓮が、言葉にもならない感銘の吐息をこぼした。澄んだ池が広大に広がる日本庭園、風流に鎮座する三階建ての温泉宿、そしてざっと見渡すだけでも、天狗と河童と人魚と少女とエトセトラ。生まれてはじめて目にする鮮烈な光景に、白蓮はそれ以上呻き声ひとつ出せず心を奪われる。昔はどちらかといえば種族ごとの縄張り意識が強く、こうしてたくさんの妖怪が集う場所からして存在しなかった。湿っぽく鼻をすすり、指先でそっと目元を撫でる。その横顔はなにより嬉しそうであり、そして少しだけ悔しそうにも見える。

 ナズーリンは茶化すように言う。

 

「驚くのはまだ早いよ。人間はもちろん、鬼、神、吸血鬼、亡霊、蓬莱人、妖精、本当にいろんな種族が集まるんだから」

「ええ。ええ、本当に……」

 

 白蓮は後ろを振り向く。見つめるその先では月見が、またへなへなになってしまった空をよいしょと引っ張り起こそうとしている。白蓮の瞳の奥で、単なる憧憬でしかなかった漠然とした感情が、みるみる深みを増し煮詰められていくのを感じた。

 ナズーリンが聞き取れたのは奇跡に近い。それほどまでに小さい、吐息のような言葉だった。

 

「…………お、『お父様』……な、なんちゃって…………」

「……」

 

 聞こえたのはナズーリンだけだったし、まあ今はなにも言わぬが華だろう、と思った。一方で心の片隅の悪魔的な自分が、こいつは面白くなってきやがった、ともほくそ笑んだ。

 なにも知らないムラサが、元気よく月見の背の裾を引いた。

 

「月見さん、行きましょ! みんな待ってますよっ!」

「ああ、そうだね」

 

 庭の騒ぎを聞きつけて、屋敷の中から更に少女たちが顔を出し始めている。輝夜と早苗、いつの間にやら萃香、それから仲間外れにされてしまった哀れなぬえまで。甲板から身を乗り出した志弦がぶんぶん両腕を振り、「いま行くよー!」と返事をしている。

 聖輦船を水月苑の屋根へ添えるように停めて、全員で船から下りる。そして雪が解けきらない庭に降り立つなり、

 

「月見いいいいいいいいいいっ!!」

「げふ」

 

 ぬえが月見の鳩尾に突撃した。傍目からは相当な威力に見えたが、日頃から吸血鬼(フラン)のタックルで鍛えられている月見は難なく踏ん張り、

 

「こら、なにをする」

「うるさいうるさいうるさい!! みんなして私を仲間外れにして、寂しかったんだからね!?」

「いつまでもこたつでだらけたりしてるからだろう。自業自得だよ」

「なんだとぉー!?」

 

 ナズーリンはぬえという少女を詳しく知らないものの、『鵺』といえば、それがかつて人間の都を恐怖に陥れた大妖怪の名である程度はわかる。人間はもちろん妖怪や神にも名が通ったその肩書きとは裏腹に、見ての通り大層寂しがりで甘えん坊な一面があるようだった。早速おくうに引き剥がされ「なんだこいつ」という顔をしつつも、ほったらかしにされた怒りは一向に治まりがつかず、特徴的な翼をぜんぶ使って月見の背中をチクチクしている。

 無論、騒ぎがそれだけで終わるわけはない。

 

「ギ――――――ン!! おかえりなさぶぎゅ!?」

「つ――――くみ――――――――ッ!!」

「ぶ」

 

 猛然と突撃する輝夜を颯爽と踏み台にして、萃香が全身で月見の顔面に飛びつく。そのままもそもそと肩車の体勢に移行し、

 

「おっかえりぃー! いまみんなで宴会の準備してるからねー、もうちっと待っててね!」

「は? おい待て、なんでそんな」

「え、だってこいつが例のビャクレンでしょ? 新入りが来たらとりあえず宴会! 幻想郷の常識だよっ!」

 

 踏み台にされた輝夜は転倒し、雪解けの地面と冷たい抱擁を交わしている。ああ、ものすごく高そうな着物が。

 

「おいおい、大晦日だって宴会するだろう?」

「それはそれ、これはこれ! 宴会は毎日やったっていいくらいなんだから!」

「志弦おかえりー」

「萃香ああああああああああッ!!」

 

 早苗が志弦に駆け寄り、輝夜が般若と化して跳ね起きて、「今、藍さんと藤千代さんがご飯作ってくれてるから。もう少し我慢しててね」「いえーいさっすがさなぽん!」「さなぽん!?」「私を踏み台にするなんていい度胸ねこの鬼!!」「へへーん、自分ばっかいい思いできると思ったら大間違いですぅー」「豆撒くわよ!?」「くぉら月見っ、私の話はまだ終わってないわよ! ってかこの鴉はさっきからなんなのよ邪魔なんだけど!」「つ、つくみをいじめるなあっ」「あーみなさーん、私も交ぜてくださーいっ!」

 賑やかになって参りました。

 

「まったく、この連中は本当に……」

 

 ナズーリンはやれやれと首を振って呆れた。月見が地に足をつけてからほんのわずかな時間で、よくもまあここまでわちゃわちゃと盛り上がるものである。お陰でナズーリンたちはすっかり蚊帳の外であり、星も一輪も上手いコメントが見つからず苦笑している。

 

「あはは、皆さんやっぱり元気ですねえ……」

「改めて見ると、何気にすごい光景よねこれ……」

 

 人間(かぐや)(すいか)をポカポカ叩き、ただの鴉(おくう)大妖怪(ぬえ)のケンカを人間(さなえ)が宥め、人間(しづる)が池のほとりで人魚(わかさぎひめ)と談笑を始める。千年前の常識では考えられない、かつて存在したはずの種族の垣根などそこにはチリひとつもない。みんな好き勝手に跳ね回って、本当に騒がしくて、見ていて呆れ果てるばかりで、でも、

 

「いいんじゃない? だって、見てるだけでこっちまで楽しくなっちゃうもん」

 

 ムラサの言う通り。どんなに騒がしくても、それは決して耳障りな騒音ではない。見ていて呆れ果てるばかりでも、それは決して不愉快な光景ではない。

 唯一無二の、噛み締めるような、幸いの姿。

 

「あーもう、わかったわかった。ともかく、白蓮たちを歓迎するのは賛成だ」

 

 そしてその中心にいる銀の狐は、尻尾をぶんぶん振って周りを黙らせると。

 

「白蓮」

「――あ、」

 

 魂を抜かれたように突っ立っていた白蓮へ、手を伸ばし、

 

「行こうか。こいつらが、お前の歓迎の席を準備してくれてるそうだ」

「……、」

「威勢がよくてうるさい連中ばかりだけど、そう悪い場所じゃあないから、よろしく頼むよ」

 

 うるさいとはなんだうるさいとはーと萃香が月見の耳を引っ張り、素敵な場所って言いなさいよ素直じゃないんだからーと輝夜が脇腹を小突く。差し出された彼の手を、白蓮ははじめて物を見る赤子のように見返している。

 

「ほら。行こーよ、白蓮」

「っ、」

 

 志弦からも言われて、白蓮はようやく正気を取り戻した。無意識で手を伸ばしかけ、しかし寸前で躊躇うと、

 

「で、でも私、皆さんとはなんの面識も……それに、その、今までずっと封印されてたような人間なんです。それなのに……」

 

 何度も何度も夢見てきた世界がすぐ目の前にあるのに、それでもこうして躊躇ってしまうのは、なにも成し遂げられなかった己への後悔と呵責なのだろうか。しかしそんな葛藤など、このゴーイングマイウェイな少女たちの前ではまったく問題ではなかった。

 萃香が小首を傾げ、なに悩んでんだこいつ、といった真顔で、

 

「? それがどうかしたの?」

「え、」

「あ、もしかして尼さんだからお酒はーってこと? 大丈夫大丈夫、あれだよほら……般若湯だから! めちゃくちゃ美味しいよ、呑まなきゃ損だよ! ねーねーみんなで呑もーよぉーっ!」

「こら、暴れるなって」

 

 萃香が両腕を振り回してぐずると、月見の体に鎖と錘がじゃらじゃらとぶつかる。三角の錘の角まで直撃してかなり痛そうだったが、どうやら『密と疎を操る程度の能力』で重さが調節されているらしく、月見はしきりに鬱陶しく眉をひそめている。

 あまりにも即答だったせいで、白蓮はまた数秒呆けていた。

 

「……い、いいん、ですか?」

「……まったく、随分と疑り深いのねえ」

 

 輝夜が静かに吐息し、やおら大真面目な面構えで白蓮の肩に両手を置き、

 

「あなた、今から大切な話をするからよく聞きなさい」

「は、はい?」

「ばか!!」

「!?」

「ダメなら最初っから誰も誘わないの! 誘われたってことは、みんな参加してほしいって思ってるのよ! そういうことでしょ!?」

「で、でも」

「あとあなたなんかギンとワケありなんですってねそこのぬえから聞いたわさー拒否権はないわよぜんぶ洗いざらい吐いてもらうから覚悟なさい!」

「い、いや、ですから」

「おだまり!」

「うひゃ!?」

 

 素早く回り込んだ輝夜に背を押され、バランスを崩した白蓮は思わず月見の手に掴まる。たったそれだけのことで彼女は面白いほど慌てふためき、

 

「も、もももっ申し訳ありませんっ!?」

 

 この少女、老人を除く「年上の男性」との肉体的接触に情けないほど耐性がないのだ。この一点のみに限れば間違いなく星よりひどい。初心で奥手すぎるあまり恋愛など考えられず、見ての通り手と手が触れ合うだけで右往左往の大騒ぎである。地底に住んでいるという覚妖怪がもしこの場にいれば、それはそれは愉快痛快な心が読めたであろう。

 ところで彼女はちょっと前まで、手のひとつどころか彼の胸に飛びついて泣いたりしていたわけなのだが――それを指摘すると恐らくぶっ倒れてしまうので、今は黙っておくこととする。

 白蓮はすぐさま飛び退こうとするものの、手が離れない。月見にがっしりと握られてしまっている。その事実に気づくとますます真っ赤になって、

 

「つつつっつくみひゃん!?」

「観念した方がいいよ、白蓮」

 

 しかししどろもどろな白蓮とは対照的に、月見はふっと微笑んで言うのだ。

 

「こいつらは、一度走り出したらもう止まらないからね。諦めて歓迎されてやってくれ」

「……、」

 

 萃香が勢いのよい万歳とともに裂帛する。

 

「そんじゃー皆の衆ーっ、宴会じゃあーっ!!」

「「「いえーっ!!」」」

 

 少女たちが快哉を叫び、ついでに野次馬の男衆まで巻き込んで大いに盛り上がり始める。

 

「萃香さあああんっ、俺らも参加していいですかあああああ!!」

「えー? まあいいけど、邪魔しないでよねー」

「わあい露骨に歓迎されてないし信用もされてない」

「つらい」

「かなしい」

「これが日頃の行いか」

「「「だが参加するッ!!」」」

「その大変お美しい尼さんを紹介してくださあああああい!!」

「僕はそちらの金髪の御方がいいでえええええす!!」

「皆さん、変な真似したらぶっ飛ばしますからねー?」

「…………あの藤千代サン、気がついたら背後にいるのマジで心臓止まるんでやめてくださいッス」

 

 ――見届けよう、とナズーリンは思う。幻想郷というこの底抜けに愉快な世界が、白蓮に一体なにを与えてくれるのか。かつて夢破れ人々から忘れ去られた少女が、この世界でどんな道を歩き直していくのか。

 白蓮と、月見と、志弦。

 数奇な運命でいま巡り合った三人の行く先に、一体どんな世界が広がるものなのか、この目でしかと見届けてやろう。

 

 だから、ほら。

 聖、泣くのはもう終わりだよ。

 

「――さあ、白蓮」

「っ……」

 

 月見に手を引かれ、みっともなく顔を歪めるのはほんの一瞬。

 大きくあたたかな彼の手を、強く、強く握り返して。

 

「はいっ……」

 

 ここから始めるのだ。辛かったことも、悔しかったことも、悲しかったことも、怖かったことも、きっといつかは思い出となるように。

 どうか、どうか、今の彼女にできる最高の笑顔で。

 

 

「――よろしくお願いします、皆さん……!」

 

 

 きっと、忘れはしまい。

 白蓮がいま再び歩み出したその一歩を、その瞬間を。ナズーリンは深く、深く、己の記憶と魂に刻み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

(ああ――)

 

 ようやく、終わったと思った。

 その光景を見届けた『彼女』はとうとう、自分の中からすべての重圧がほどけて消えていくのを感じた。

 

(終わった、なあ……)

 

 万感、というやつなのだろう。夢を漂う存在である己に時間の感覚はもはやないけれど、気が遠くなるほどの幾星霜を待ち続けていた気がするし、実際それだけの年月を白蓮には待たせてしまったはずだった。ほんと、これじゃあ胸を張って「助けた」なんて言えないよなと、『彼女』は自分で自分に苦笑する。

 でも、夢で見た通りの結末だった。

 自分が選んだ未来は、決して無駄ではなかった。

 それだけが、本当に――本当に、よかったと。どこまでも、どこまでも、そう思った。

 

(……どうか、幸せになってね。白蓮)

 

 ここから先の未来がどうなるのかは、自分では遂にわからなかった。妖怪に裏切られ、人々から悪魔と呼ばれ、魔界に封じられて人生をめちゃくちゃにされた――その悲劇に見合うだけの幸福が白蓮を待ってくれているのかどうかは、無責任だが自分では保証できないのが本当のところだった。

 もう少しだけ先を見ていたい思いが、ないと言えば嘘になるが。

 

(ん……やっぱり、だめかあ)

 

 自分の存在がほどけていくのを感じる。元よりこの瞬間を見届けるためだけに、肉体が役目を終えてからも意識だけの存在となって夢の中を漂っていた。そして今、夢見ていた通りの申し分ない結末を無事見届けることができた。

 謂わば幽霊にとって、生前の心残りが綺麗さっぱり果たされたも同じだった。だからいつまでも未練がましく駄々をこねず、本来あるべき眠りに就くのが運命(さだめ)なのだろう。

 

 人と妖怪が傷つけ合うばかりの時代は終わった。もちろん昔ながらの関係がまったく消えたわけではないけれど、あの世界には人と妖怪の新しいつながりの形がある。人と妖怪は、同じ場所でともに笑い合える時代になったのだ。

 それにこれからは、白蓮を支えてくれる心強い味方だっている。

 銀の狐が、傍にいる。

 心配は要らない。

 心置きなく、眠りに就こう。

 

(さよなら――白蓮、志弦)

 

 自分の能力は一体なんのためにあるのか、自分がこの能力を生まれ持った意味はなんなのか――己の中には常にその疑問があった。昔はいつも不鮮明で、断片的で、人が不幸に落ちる未来ばかりを見せられるひどく意地悪な能力だった。

 助けようとして、助けられなかった。助けようともできず、なにもできなかった。そんなのは、嫌になるほどたくさんあって。白蓮のときだって、結局は本当の意味で助けることはできなくて。

 でも、ようやく。

 

(ありがとう――月見さん)

 

 私の能力にも、まあ、ちょっとくらいは意味があったのかなと。

 消えゆく最後の意識の中で、そう、満更でもなく思うことができた。

 

 

 

 

 

 

 

「――ん」

 

 風が吹いた。

 天へ向けて船の帆を押しゆくような、爽涼と澄み切った旅立ちの風だった。

 志弦は背後を振り返る。なにも変わらない庭の景色がそこにはある。けれど、志弦は確かに感じていた。

 

「志弦? どうかしたか?」

「志弦さん?」

 

 前を見る。一足早く玄関にあがった月見と白蓮が、不思議そうな顔をして志弦を待ってくれている。

 

「……」

 

 きっと、『彼女』も見届けたのだろう。月見と白蓮がともに一歩を踏み出した、夢の通りのこの光景を。

 見届けて、ようやく、眠ることができたのだろう。

 だから志弦は、もう後ろを振り向くことはなく。

 

 

「――なんでもないよ」

 

 

 この血に託された想いの分まで、強く、強く、笑い返してみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東方星蓮船――了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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