銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑪ 「拝啓、大馬鹿野郎へ」

 

 

 

 

 

「し、失礼しまぁーす……」

 

 さながら虎穴に足を踏み入れる思いで、おくうは恐る恐ると琥珀色のドアノブを回した。

 昨日まで遡る話である。無論本当に虎穴であるはずはなく、それどころか何度も足を運び慣れた地霊殿の応接間である。しかし今このときのおくうに限っては間違いなく、びくびくしながら足を踏み入れるに足る緊張の空間なのである。

 部屋の中央、絨毯の上、向かい合わせに置かれたソファの片方からご主人様がちょいちょいと手招きをしている。これはまったくもって問題ではない。問題なのは、主人の向かい側でたったいま紅茶を一口啜った、

 

「……来ましたか、霊烏路空」

「は、はひっ……」

 

 地獄の鬼も裸足で逃げ出す閻魔様――四季映姫・ヤマザナドゥ。

 今ではすっかり地霊殿の常連客だった。過日の異変が終わった当初から、月見の怪我の具合を心配してしばしば様子を見にやってくるのだ。本人はかたくなに否定しているが、なにがなんでも絶対に首を縦に振ろうとはしないが、さとりがバッチリ心を読んでいるのでまず間違いない。それで、今日も月見に会いにきたというわけだ。

 しかし月見はもういない。何時間か前に地上の見知らぬ妖怪が突然押しかけてきて、ぎゃーぎゃー騒ぎながら慌ただしく月見を連れて行ってしまった。だから事情を知らない映姫に、事情を知っているさとりが説明をしてくれていたのだ。それでなにも問題なんかないじゃないか。なのになんで自分が呼ばれるのか。お説教なのか。泣きたい。

 閻魔様が、おくうに話があるってよ。

 そう仲間のペットに伝言を持ってこられたとき、おくうは静かに己の最期を悟った――というのはもちろん大袈裟だが、まあ目の前がふっと暗くなる程度はした。こいしとお燐にも、戦友を死地へ見送るような目をされた。ご主人様であるこいしに手を上げることはできないけれど、お燐はあとで引っ掻いてやろうと思っている。

 

「座ってください」

「はひっ」

 

 なんでお前が仕切ってるの、とまさか口答えできるはずもなく、おくうは潔く言われた通りにした。脇目も振らずさとりの隣へ座り、反り返るくらいに背筋をピッシリ伸ばす。もちろん両手は膝の上だ。

 別に、映姫が嫌いというわけではないのだ。でも、苦手ではある。十分休憩を三回も挟む延べ数時間のお説教三昧を味わわされれば、天邪鬼だって心の底から素直になるだろう。

 おくうは心の中で涙目になりつつ、横の主人に目線で訴える。――さとり様、私なにか悪いことしましたか? ダメなペットですか?

 心を読んださとりは苦笑し、

 

「大丈夫よ、そういう話じゃないわ。ちょっと、あなたに訊きたいことがあって」

「……?」

「地上に行ってみたくない?」

 

 脊髄反射で月見の顔が浮かんだ。慌てて掻き消すも時すでに遅し、さとりが大変微笑ましいものを見る眼差しで、

 

「ふふ、そうよね。やっぱり行きたいわよね」

「うっ……ち、違います違います! 今のはその、」

「霊烏路空」

「はひぃっ!」

 

 えんまさまにはさからえない。

 映姫は、いつにも増してよそいきのすまし顔だった。

 

「あなたは、事情がどうあれ今はあの狐の式神です。それを理解していますか?」

「は、はい」

 

 当然、理解している。言われるまでもなく、おくう自身が他の誰よりも身を以て理解しているという絶対的な自負がある。だが、それが一体なんだというのか。

 映姫はひとつ頷き続ける。

 

「あの狐が、落ち着きもなくまたなんらかの騒動に巻き込まれたことは?」

「し、知ってます」

 

 そんなのとっくの昔にさとりから教えてもらった。月見の友人が悪い妖怪に攫われてしまったらしく、だから一刻も早く地上に戻らねばならなかったのだ。だがだが、それが一体なんだというのか。

 映姫はまたひとつ頷き、

 

「ではあなたは、式神としてあの狐の力になりたいと願いますか?」

「え、」

「願うのならば、今回は特例として……特例としてですよ。地上へ行って彼の力となることを、許可しないこともありません」

 

 不意打ちだったのもあって、言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。えーっと、「しないこともない」はつまり「する」だから「許可する」ってことで、あれなにを許可するんだっけうーんとええと

 

「要するに、月見さんに会いに行っていいってことよ」

「……!」

「その表現は適切ではありません。あくまで、式神の務めを果たすことが前提です。会うだけを目的にされては困りますよ」

 

 その頃にはもうおくうは映姫の話を半分も聞いちゃおらず、月見に会いに行ける、という言葉を何度も頭の中で反芻させている。というか、頭の中ではもう月見に会いに行っている。

 押っ取り刀で飛び立つ月見になんの言葉も掛けられなかった自分を、おくうは心の底から後悔している。自分は彼の式神なのに、どうしてなにも言えなかったのか。どうして手を伸ばせなかったのか。言ったところで、手を伸ばしたところで、それ以上なにかができたわけではないけれど。

 でも、なにもしなければなにも伝わらない。ただ気持ちを示すだけでもそれは意味のある行動なのだと学んだはずだったのに、藍と約束したはずだったのに、結局自分は、今でもほとんどの気持ちを言葉にも行動にも表せないままでいる。

 

「私は明日、あの狐が置いていった荷物を地上まで届けに行きます。そのときに、あなたの同行を許可します。あの狐のところまで案内しましょう」

 

 もちろん、諸手を挙げて二つ返事できるような話でもない。おくうは月見には会いたいけれど、決して地上に行きたいわけではないからだ。かつてご主人様たちをいじめたやつらが、集まっている場所だから。中にはさとりを受け入れてくれるやつらもいるのだとこの前のパーティーでわかったとはいえ、「明日行くぞ」はいくらなんでも急すぎる。

 ……でも行くならさとり様もこいし様もお燐もみんな一緒だろうし、だったらお留守番するのも寂しいから私も

 

「なお、同行を認めるのはあなた一人です」

 

 現実に引き戻された。

 

「え……」

「これはあなたが、あの狐の式神であるが故の特例なのです。あの狐にも、あなたを式神にした責任というものが伴いますからね。それ以外の者の地上行きはさすがに賛成しかねます。よって行けるのはあなた一人です」

「そ、そんなあっ」

 

 おくうは絶望した。さとりともこいしともお燐ともみんなと別れて、たった独りだけで地上に行くなんて、想像しただけでも心細くて死んでしまいそうだった。

 だが映姫は最後まで淡々と、

 

「それでもあなたがあの狐の助けになりたいと願うなら、私は今回だけ、なにも言いません」

「ううっ……」

 

 心の中で、月見のお手伝いをしたい自分と地上怖いな自分が大喧嘩を始めた。くんずほぐれつの熾烈な殴り合いである。さとりが頬に手を遣って、あらあらうふふとにこにこし始める。

 

「さ、さとりさまぁ……っ!」

「さあ、どうするおくう。これは究極の選択ね」

 

 おくうは孤立無援を悟った。

 さとりは微笑んだまま、

 

「おくうって、地霊殿の外に出たこともほとんどなかったでしょ。だから私、あなたが外の世界を知るいい機会になるんじゃないかと思ってるの。月見さんになら、安心してあなたを預けられるし」

「……む、むう」

「それにここからだと、月見さんの様子がわからないから。あなたが月見さんの手助けをして、ちゃんとできたら私たちにそう報告してほしいの。そうすれば、私もこいしもお燐もみんな安心できるでしょ?」

 

 むうう、とおくうは唸った。つまりさとりはおくうに、月見の式神として、ひいては地霊殿のペットとしての立派なお仕事を頼もうとしているわけだ。おくうは言わずもがな、さとりもこいしもお燐もみんなが月見のことを心配している。だから映姫に特例として許可された自分が代表で地上に行って、月見の助けとなり、すべてが終わったらここに戻ってきて「もう大丈夫です」と報告する。そうすれば、みんなで安心して年越しを迎えることができる。そして一連の経験は、地霊殿からほとんど出たことのないおくうにとって大きな社会勉強になるだろう、と。

 月見に会えるし、式神の務めを果たすこともできるし、さとりたちの役にだって立てるし、知らない世界を通して貴重な経験も積める。なるほど、そう考えるとまさにいいこと尽くしである。

 

「可愛い子には旅をさせよ、って言うしね。いい機会だから、お勉強してきなさい」

「……うー」

 

 しかし、だからといってそう易々と首は縦に振れない。やっぱり、どうしようもなく不安で不安で仕方がなかった。自分みたいな寂しがりのぶきっちょ妖怪が、たった一人で地上に行って上手くやれるのだろうか。なんの力も取り柄もない自分が、本当に月見の役に立てるのだろうか。日頃のちょっとしたお手伝いなんかとは訳が違う。中途半端に首を突っ込めば反って月見の迷惑になる。でも心のどこかで、なにもできないままは嫌だと正直な自分が声をあげる。

 そのとき、映姫が、

 

「無論、無理にとは言いません。あなたが行かずとも、あの狐なら心配など無用でしょうから」

「……」

 

 少し、むっとした。なんだか遠回しに、『月見のことをよくわかっている自分』みたいなものを見せつけられた気がした。

 ――やっぱり閻魔様、口では素直じゃないけどなんだかんだでつくみを信頼してる。

 おくうの心の中に、ドヤ顔の四季映姫が出現する。反り立った崖の上からおくうを見下ろし、「あなたが入ってくる余地なんてありませんよ。残念でしたねほほほほほ」と高笑いをしている。いや、よく見ると映姫だけではない。この前パーティーにやってきた地上の連中が、「あんたなんか来なくてもいいのよー、だって私たちがいるんだものほほほほほほほほ」とやっぱりドヤ顔で高笑いしている。

 大変むかむかした。

 横でさとりがすっかり愉悦の表情になっているが、おくうはさっぱり気づかなかった。

 

「――わかった。行く」

 

 おくうは、言った。

 誰かの意見に左右されたわけではなく、他でもない己の意思で言った。それは閻魔様に敬語を使うのも忘れてしまうくらい、激しい烈火の如き感情だった。

 おくうの燃える瞳を見て、映姫は薄く微笑んだ。

 

「……いいでしょう。どうやら心が決まったようですね」

 

 頷く。

 

「では明日の朝に迎えに来ますので、しっかり準備を済ませておくように」

 

 力強く頷く。

 

「よい眼です。その想いがあれば、自ずと結果もついてくるでしょう」

 

 超頷く。

 負けるもんか、と思う。絶対役に立ってやる。絶対月見の役に立って、崖の上で高笑いしているあいつらを見返してやる。引きずり下ろしてやる。今度はおくうが崖の上に立つ番だ。どやーっと見下ろしてやるのだ。ぜーったい負けない。

 ふんかふんかと息巻くおくうに背を向け、さとりが必死に笑いを噛み殺していたが。

 もちろんのことおくうは、ぜんぜんまったく気がつかないのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――へー、月見さんの式神なんですか。なるほど、神を降ろしているんですね」

「しかし、一体どんな神だい? 言っておくけど、そんじょそこらじゃ毘沙門天様の代わりは」

「八咫烏」

「「や」」

「と、宇迦之御魂(うかのみたま)

「「う、」」

 

 寒い中での長話もなんだったので、場所は水月苑の茶の間に変わる。

 ぽかぽか暖まった悩殺的なこたつに両脚を突っ込み、月見は並べた小さな湯呑みにお茶を注いだ。真っ白な湯気が立ち上がり、それと一緒にほのかな渋みのある香りが鼻腔を満たす。月見の隣にはおくう、向かって正面にはナズーリンと星、右にはわかさぎ姫がいて、左ではこたつむりと化したぬえが幸せそうに惰眠を貪っている。映姫は、すぐ仕事が始まるからと彼岸に戻っていってしまった。そのお陰かおくうも星もわかさぎ姫も、少しばかり重圧から解放された顔をしている気がした。

 大きめの急須を二つめいっぱいに使って、五つ分の湯呑みに茶を注ぎ終える。ぬえの分はない。残念ながら、ぐーたらなこたつむりに出すようなお茶は水月苑には用意されていないのだ。

 急須を置く。正面のナズーリンから、ようやくといった具合で辛辣なお言葉が飛んでくる。

 

「月見……君はバカか?」

「失敬な」

 

 しかしおくうの場合確かに普通の式神とは事情が違うので、ナズーリンが頬を引きつらせるのも、星が口をあんぐりとしたまま固まっているのも、わかさぎ姫が「はえー」と能天気な声をあげるのも、まあそういう反応にはなるのだろう、と思う。霊夢と天子にも、はじめ言ったときは大層呆れられたのだし。

 おくう一人だけが周りの反応を理解できず、きょとんと首を傾げて月見を見たりナズーリンを見たりしている。

 

「はい、お茶」

「ああ、ありがとう。……いやいや、おかしいだろう。八咫烏に宇迦之御魂神、どちらも神話に名だたる崇高な天津神(あまつかみ)じゃないか。その御魂がまとめて彼女の中に宿っているだって? おかしいだろう。式神どころの話じゃないだろうもはや」

「いろいろあったんだよ」

「いやだから、」

 

 ナズーリンは天井を振り仰いで言葉なき言葉で呻き、

 

「……わかった。今後一切、君のやることにツッコむのはやめよう」

 

 なにやら心外な評価を下された気がする。

 一方でわかさぎ姫はほんわかとしたものだった。二柱とも高名な神様なのはなんとなく知っているが、具体的にどれほど格が高いのかはさっぱりわかっていない顔だった。

 

「八咫烏と宇迦之御魂神って、確かすごい神様ですよねえ。ということはうにゅほさんは、すごい式神さんなんですねー」

「『すごい』なんて一言で総括してしまうのも躊躇われるくらいだがね」

「……??」

 

 そうなの? という感じでおくうが疑問符を量産する。星が震え上がりながらナズーリンに耳打ちする。

 

「ナズ……あれ絶対、自分のことがよくわかってないやつですよ。わからないまま八咫烏様と宇迦之御魂神様の御力を宿しているなんて……あわ、あわわわわ」

「ご主人、あれだ。気にしたら負けなんだきっと」

 

 そのあたりの経緯まできちんと話すべきかどうか月見は迷ったが、やめた。長くなりそうだし、おくうとしてもあまりおいそれと言い触らされたくはないだろう。

 

「ともかく、二柱……というより、八咫烏の方だね。そっちの力なら、聖輦船の動力にも充分なるんじゃないか?」

「……太陽の化身の力、か。確かに、充分すぎるくらいだと思うけど」

 

 ナズーリンがおくうを見遣る。ぴくりと震えたおくうはすぐさま警戒モードに入り、半分隠れるように月見の袖をつまんで、

 

「……ねえ、なんの話? 私がどうかしたの?」

 

 月見は一息で説明の手順をまとめる。

 

「外に、空を飛んでる船が止まってただろう。聖輦船っていうんだけど」

「ん、こいし様から聞いたことある」

「いま私たちは、あの船の力で魔界に行こうとしていてね。魔界は……まあ、こことは少し違う別の世界だと思ってくれればいい」

 

 おくうは目で続きを促す。

 

「けど、そのために必要なエネルギーにちょっと問題があってね」

 

 手伝いにきた、とおくうは言った。それは彼女本人の意思であり、ご主人様から命じられた立派な使命でもある。不器用で若干おばかなおくうに実際できるかどうかは別として、月見が頼めば頼まれたまま頑張って手伝おうとしてくれるのだろう。

 だが当然、それにも限度というものがある。おくうは間違いなく夢にも思っていないだろう。自分はきっと、今からおくうにとってとても辛いことを言うのだろう。

 でも、だからこそ。

 

「お前の八咫烏の力を、代わりに使えないかと思ってるんだ」

「え……」

 

 おくうが、凍った。

 おくうにとって、八咫烏の力はトラウマだ。あれだけ辛い目に遭ったのだから当然だし、そもそも彼女は虫の一匹も殺せないくらい優しくて、力というものに強烈な忌避感を抱いている。あれほどの異変の引鉄となった力を再び使ってくれと頼むのは、きっと裏切りにも近い残酷な行為なのだと思う。

 案の定、おくうの表情を真っ白な恐怖が歪めた。

 

「で、でも……ぁ、あのちから、は」

 

 わかっている。

 そしてわかっているからこそ、月見は言うのだ。

 

「おくう、聞いてくれないか。お前はあの力を、ただ恐ろしいものだと思っているだろう?」

 

 おくうが、震えながら頷く。

 

「それは違う」

 

 月見は、否定する。

 おくうがなぜトラウマであるはずの力を今なお手放そうとしないのか、理由はこの際置いておく。だが理由がなんであれ、己の中にある力をこれからもずっと恐怖しながら生きていくつもりなのか、月見は以前から頭の片隅で疑問に思い続けていた。

 

「確かに、神様の力にそういう一面があるのは事実だ。けど、あくまでひとつの側面に過ぎない。あの異変は、誰も望んでいなかったたくさんのすれ違いが、誰も望んでいなかったタイミングで重なってしまったから起こったもので。決して、八咫烏の力が、はじめから恐ろしいものだったわけではないんだ」

「……」

 

 月見ははじめ、おくうは当然八咫烏の力を手放すだろうと思っていた。手放さない理由などないはずだった。故にどうせ一時的なものだからと、力任せにいささか強引な封印を施した。それが今では、反っておくうの枷になってしまっていると月見は思うのだ。

 おくうが八咫烏の力と、どう向き合っていくのか。

 今はまだ、その問題から目を逸らし続けているだけなのだ。

 

「大丈夫、お前が嫌いなことをさせるわけじゃない。ただ、聖輦船を動かすためのエネルギーを作り出すだけ。誰とも戦わないし、誰も傷つけない」

 

 月見の袖をつまむおくうの指先が、少しだけ強くなる。

 

「だから私は、これがひとつのきっかけになるんじゃないかと思ってる」

 

 月見は、言う。

 

「神様の力は、決して恐ろしいものなんかじゃない。八咫烏だって同じさ。本当は、私たちを優しく守ってくれる力なんだ」

「……、」

 

 おくうののたうつような葛藤が、瞳を覗くだけで容易に知れた。おくうの気持ちはわかっているつもりだけれど、でも、結局のところ月見は他人なのだ。どんなに理解しようとしてもそれは所詮想像の域を出ないものだし、口下手な彼女がどれほど怖がっているのか、どれほど躊躇っているのかは、実際のところ彼女自身にしかわかりようがない。

 だから彼女がひとたび「いやだ」と拒絶したとき、それ以上説得を続けるつもりは微塵もない。

 それでも、もしもおくうが勇気を振り絞って、八咫烏の力と向き合おうとしたときは。

 

「……つくみ」

「ん?」

 

 おくうは、月見の袖から指先を放そうとしない。俯き、まるでそれだけが、己のよりどころであるように。

 

「私も……つくみの、役に立てる?」

「ああ、もちろん。でもね、無理に」

「じゃあ」

 

 月見の言葉を遮り、顔を上げる。

 その、瞳は。

 

「もし――それでもし、また、変なことに、なりそうになったら」

 

 月見が触れた先から呑み込み、絡みとろうとするような、色をしていた。

 

 

「――守って、くれる?」

 

 

 ――少しだけ。

 少しだけ、わかった気がする。どうしておくうが、トラウマであるはずの八咫烏の力を手放そうとしなかったのか。

 もしかすると自分たちは、思っていた以上にいびつな関係なのかもしれないと――そんな思いが頭を掠めたが、月見の答えまでが変わることはない。

 おくうの頭を、叱咤するように優しく叩いた。

 

「下らないことを訊くな」

 

 だって月見は、約束したのだから。

 

「伊達に何年も大妖怪をやってるわけじゃない」

 

 笑みを以て、

 

「――自分の式神に勝手な真似をさせるような腑抜けじゃないぞ、私は」

「  、」

 

 おくうが、なにかを言った。なんらかの意味を持った言葉ではなく、ほんの一音、吐息するような、身悶えするような、彼女自身無意識にこぼしてしまった声だったのだと思う。

 月見が手を離すと、おくうはすっかりアドレナリン状態になっていた。頬が紅潮し、体がそわそわ揺れ、翼はぴこぴこ震えて、ふんかふんかと鼻息荒く、

 

「わ、わかった。やる。やるっ」

「……一応確認するけど、決して無理にとは」

「やるって言ってるのっ!!」

「そ、そうか」

 

 まあ、元が自分の撒いた種だから仕方がないとはいえ――やはりこの少女は、随分と厄介な一物を腹に抱えてしまっているようだ。

 などと考えていたところでふと周りの空気が柔らかくなり、正面を見れば星とナズーリンがなにもかも腑に落ちた顔をしていて、

 

「ナズ……わたし今ので、月見さんのことがとてもよくわかったような気がします」

「恐らくその認識は間違ってないね。ああいうやつだよ月見は」

「そうですよー、旦那様ですよー」

「ふふ、本当に聖みたいでした。ナズの言った通りですね」

「……そうかい」

 

 三方より注がれる微笑ましい眼差しから顔を逸らすように、月見は熱いお茶を一口喉に通した。

 うまい。

 

「じゃあ、これで心置きなく白蓮を助けに行ける……ということでいいかな」

「ああ。……結局、また君に助けられてしまうわけだね」

 

 ナズーリンは吐息とともに脱力し、

 

「宝塔も飛倉も、ぜんぶ君がやってくれたようなものだし」

「お前たちには、志弦を助けてもらったからね。少しくらいは恩返しになればいいけど」

「じゅ、充分すぎるくらいですよ。むしろ、こっちが恩返ししないといけないくらいで……」

「やはりご主人を貸し出すしかないか。住み込みで一ヶ月くらい働けばいいんじゃないかい、財宝も集まるし」

「うええっ!? い、いやあの、さすがに男の方のお屋敷に住み込みはちょっと飛躍しすぎというかいえいえ月見さんを信用していないわけではないのですがこういうのってちゃんとした段階があるよなあって」

 

 そのとき、襖が開いた。

 全員の視線がその方向に集中する。半開きとなった襖の向こうに、仮面のように無機質な微笑みを貼りつけた藍がいて、

 

「――月見様。人手は今でも充分すぎるくらいですので、そういうのはいいです」

「……あ、ああ。わかった」

 

 藍がニコリと氷の笑みを深める。襖が閉まる。足音が静かに遠ざかっていく。

 月見が思わずどもるほどの迫力だった。星とおくうとわかさぎ姫が、すっかり恐れをなしてぷるぷると縮こまっている。「あのときと同じ顔だぁ……」とおくうが独り言を言っているのは、一体なんのことなのか。

 ナズーリンが肩を竦め、

 

「どうやらご主人じゃあ、招き猫が関の山みたいだね」

「み、道は険しいです……」

「だから、そんな無理にやろうとしなくても」

「月見、君は私に何度同じことを言わせるつもりかな」

 

 月見も肩を竦めた。

 

「あとは、聖輦船の修理が終わるのを待つだけだね」

「ああ。もうしばらく掛かるだろうから、適当に暇でも潰して待っていてくれるかな」

 

 ふむ、と月見は考える。そう言われて月見が取れる選択肢といえば、志弦の様子を見に行くか、藍の手伝いをするか、なにもせずここでのんびり時間を潰すか――いや。

 

「……」

 

 横から飛んでくるおくうの凝視を、無視するわけにもいくまい。

 腰を上げた。

 

「じゃあ、そのへんを散歩してくるよ」

「ぁ……」

 

 捨てられる子犬みたいな声を出したおくうに、手を伸ばし、

 

「行くよ、おくう」

「……!」

 

 捨てられる子犬が、散歩に連れて行ってもらえる子犬になった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「たのもぷっ」

「おっと」

 

 鳩尾めがけて襲いかかってきた二本の凶器を、月見は間一髪のところで受け止めた。

 角である。ということはつまり鬼の角であり、月見が玄関の戸に指を掛けようとしたタイミングで勢いよく飛び込んできたのは藤千代だった。彼女の角は額からやや上に反り上がる形で伸びており、身長差もあってちょうど心臓を狙いかねないので肝が冷える。映姫の結界に正面衝突しても傷ひとつつかなかった鬼子母神の角となれば、きっと月見の胸板など豆腐のように貫くだろう。

 

「おはよう、千代」

「おはようございます!」

 

 元気よく挨拶をした彼女はそのまま月見の背中に両腕を回し、

 

「いやでもちょっとこれ困っちゃいますよ普通こういうのって男の人の方が女の胸に飛び込んじゃうものだと思いますし私は月見くんならいつでも大ウェルカムなんですけどしかし逆もなかなか悪くないですねというかむしろ非常に推奨されるべきかもしれませんこうやって不可抗力的な事故を装うことで合法的に月見くん成分を補給できるわけでむむっまさかフランさんが毎回月見くんに突撃するのはこの狙いもあったのですかなんてこったい策士ですねではこれからは私も見習って」

「むー! むぅーっ!!」

 

 おくうが渾身の全力で藤千代を引っ剥がした。幸い藤千代はすぐに桃色の世界から帰ってきて、

 

「あ、おくうさん。おくうさんが月見くんのお手伝いをしに行ったと聞いたので、様子を見に来ましたよ!」

「へ? あ、はい?」

 

 あれさっきのなに? とおくうは目を白黒させている。そういえば、おくうが藤千代のアレを直接見るのははじめてだったのかもしれない。まあすぐに慣れて、月見同様「あっ始まった」と思った瞬間菩薩の領域へすっ飛び半分以上の言葉を聞き流せるようになるだろう。

 

「それと月見くん、志弦さんを攫った悪い妖怪さんはどこですか! ついででぶっ飛ばしに来ました!」

 

 そのとき茶の間では、「ご主人……君のことは忘れないよ……」「へ?」「星さん……これからいっぱい仲良くなっていけると思ったのにっ……」「え、私しぬんです?」というやり取りがあったらしいが、もちろん月見が知る由もなく。

 

「それならもう大丈夫だよ。志弦も無事だ」

「ふふ、月見くんならきっとそうだと信じてましたよ」

「私はなにもやっちゃいないさ」

 

 藤千代は眉ひとつ動かさずにこにこしている。志弦を助けてくれたのはナズーリンなので月見は本当になにもやっていないのだが、ありがちな謙遜だと思われたらしい。

 

「ところで聖輦船が止まってますけど、どうしちゃったんですか? ひょっとしてあれも関係してるとか?」

「ああ、話はナズーリンから聞いてくれ。茶の間にいるよ」

「ナズーリンさんですか。わかりました」

 

 藤千代は早速茶の間にすっ飛んでいくかと思われたが、その前に目を細めてもう一度おくうを見遣った。藤千代の方がずっと小柄だし性格も特別大人びているわけではないのに、こうして比べてみると不思議と藤千代が母らしく見える。

 

「おくうさん、はじめての地上はどうですか? 気に入りました?」

「……え、ええっと」

 

 答えに窮したおくうがちらちらと月見に助けを求める。ちょっと前にやってきたばかりで右も左もわからない彼女では、まだ気に入ったも気に入らないもあるまい。

 

「まだ来たばかりだからね。これから庭を散歩してくるよ」

「ここのお庭は素敵ですよ! 楽しんできてくださいねっ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 今度こそ茶の間へ突撃していった藤千代を見送り、おくうを連れて外に出る。

 

「足元、滑らないように気をつけてね」

「う、うん……」

 

 灼熱地獄跡の真上にある地霊殿は床暖房完備であり、おくうはそんな屋敷の外にもほとんど出たことがないというから、もしかすると雪の上を歩くのもはじめてだったのかもしれない。雪掻きの手がそれなりに行き届いているとはいえ、庭のあちこちでは踏み固められた雪が白い光を放ちながら待ち構えていて、油断しているとあっという間にすってんころりんとやられてしまうのだ。おくうなどまさしくいいカモだろう。

 

「手、つなぐか?」

「へ、へーきだもんっ」

 

 まったく予想通りな反応に、月見は喉で笑って前を向いた。

 まだ朝方のため客足はなく、自然のままの静かな山と庭の姿である。真っ白い冬の花を咲かせた木々に囲まれ、池は光る水をなみなみとたたえて広がっている。肌を刺すような風はなく、昨日と変わらず降り注ぐ陽光がほのかに暖かい。耳を撫でるのは雪解けの雫の音と、月見たちが規則的に雪を踏み締める音。中途半端に地へ落ちた雪化粧が、反って庭の景観に艶な風情を添えている気がした。

 この庭を見慣れているはずの月見すらそう感じるのだ。おくうなんて、月見の後ろにくっつきながらあちこちをキョロキョロしたり、ため息をついたりしてばかりだった。

 おくうに合わせて歩幅を緩めると、意外にも彼女の方から話しかけてきた。

 

「これぜんぶ、ここのお庭なの?」

「そうだよ。地霊殿の庭とは随分違うだろう」

 

 おくうはうんうんと興味津々で頷き、

 

「お庭も綺麗だけど……なんだか、お庭だけじゃなくて、みんなすごく綺麗。まぶしくて、明るくて、空が青くて……」

 

 おくうは本当に、生まれてはじめて地上の景色を見たのだ。

 いま彼女の心にある感情は、一体どのようなものなのだろう。生まれてはじめての景色を見たら月見だって胸は躍るが、おくうの場合は自分を包み込む世界のすべてがそうなのだ。一言で「感動」や「驚嘆」といっても、それははじめから空の下で生きてきた月見では到底想像も及ばない、光り輝く宝石箱みたいな感情なのだろうと思う。

 

「夜になったらもっと綺麗だぞ。空に星が輝くんだ」

「星! 本の中でしか見たことないっ」

「それに、池の中にも星が浮かぶんだよ」

「え? な、なんで? どういうこと?」

「それは実際に見てからのお楽しみだ。今日の夜にでも、ゆっくりとね」

「見るっ」

 

 おくうの瞳も星空みたいに輝いている。彼女は鴉だが、今だけはお尻あたりでぶんぶんぶんぶんぶんぶんと猛烈な勢いで動く尻尾を幻視できる気がした。

 そのとき、池で魚がぴちょんと跳ねた。

 

「魚だよ」

「魚!」

 

 おくうが小走りで池の畔に向かう。ちょうど雪が解けている場所だったため転ぶこともなく、畔の石の上に立ったおくうは水面を覗き込み、

 

「ほんとだ! 魚! 魚がいる! 動いてる魚なんてはじめて見たっ」

「今日ははじめてがいっぱいだな」

「ん!」

 

 悠然と泳ぐ魚たちの動きに合わせて、おくうは体を左に傾けたり、右に傾けたり、背伸びをしたり、翼を羽ばたかせたり。まるで水族館にやってきた子どもみたいな反応に、月見もひと時憂いを忘れて頬を緩めてしまう。

 その後もおくうは、巨大な氷柱(つらら)を発見しては大喜びで観察し、凍った水溜まりを踏んでは氷の割れる音にびっくりして、雪だるまを見つけて自分も作ろうとしてはあまりの冷たさに断念し、小鳥を見つけて友達になろうとしては逃げられ、その途中で見事にすっ転んで尻餅をついたりしていた。

 さすがに転んだときは、だいぶ恥ずかしそうだったが。でも、それでもおくうは本当に楽しそうで、ただ傍で見守っているだけでも、気がつけばあっという間に庭を一周してしまっていた。

 

「そろそろ一周だよ」

「うん」

 

 正面の空にはちょうど聖輦船が止まっている。まだ修理は続いているらしく、河童たちがどさくさに紛れて妙な真似をしないよう、巨大化した雲山が隅々まで油断なく目を光らせている。筋骨隆々の大男に睨まれてはさすがの河童たちもふざける余裕などなく、どうやら真面目に作業は進んでいるようである。

 

「まだ掛かりそうだね。もう少し歩こうか? それとも、寒いから戻ろうか」

「ん……つくみが決めて」

 

 予想外の答えに虚を衝かれた月見が振り向くと、おくうは慌てて俯いて、上目遣いになりながらぽそぽそと、

 

「つ、つくみと、一緒なら……どこでも、いい……」

「……おや」

 

 けれど彼女の性格を考えれば、むしろこれが当然の回答だったのかもしれない。今のおくうは大切な家族から離れて独りぼっちで、頼れる相手なんて月見くらいしかいないから。「月見と一緒なら」とはすなわち、裏を返せば月見と一緒でなければ、今すぐにでも不安と寂しさに押し潰されてしまうということなのだろう。

 ではどうしようか、と月見が歩みを再開しながら考えていると、いきなり、

 

「ぅぉししょおおおぉぉ――――――――っ!!」

「うにゅ!?」

 

 おくうがびっくり仰天して月見の背中に飛びつくほどの大声だった。月見は鼻から呻くように長いため息をつき、眉間に渋い渋い皺を寄せながら虚無の感情でその場に立ち尽くした。

 なんで、よりにもよってこのタイミングで。

 木々の向こうから弾丸みたいな勢いで吹っ飛んできたのはもちろん多々良小傘であり、月見の手前に両脚で着弾するなり元気な敬礼をして、

 

「お師匠、おはようございます!」

「誰が師匠だって言ってるだろ」

「あうっ」

 

 月見は今回も容赦なくチョップをお見舞いするが、当然この程度でへこたれる小傘ではない。それどころかおでこを押さえて嬉しそうに、

 

「えへへ。なんだかこういうやり取りも、師弟の関係って感じがしますね!」

 

 意味がわかりません。

 背中からおくうが、

 

「……誰?」

「おや?」

 

 小傘も気づいた。さていよいよ面倒なことになった、と月見は困り果てて内心ため息をついた。

 簡単な話だ。月見の弟子になりたい小傘が、月見の式神であるおくうを知ったらどうなるか。また月見の式神であるおくうが、月見の弟子になりたがっている小傘を知ったらどうなるか。

 断じてロクなことにはなるまい――と考えているうちに小傘が早速、

 

「はじめまして、私は多々良小傘です! お師匠――月見さんの弟子ですっ!」

「!?」

「はぐうっ!?」

 

 おくうの全身を稲妻が駆け抜け、月見は嘘つき少女に拳骨を叩き込んだ。さすがの小傘もこればかりは涙目で、

 

「い、いたいですおししょう……」

「嘘つきにはおしおきだ」

「ううっ……でもやはり、私の熱意をお伝えするにはこれしかないと」

 

 おくうがいきなり吠えた。

 

「れいうじうつほ!! つくみの、式神!!」

 

 始まった。

 錆びた歯車みたいに後ろを振り向けば、やはりおくうは完全な興奮状態に陥っていた。頬は赤く鼻息は荒く、鋭い睨みを利かせて一心不乱に小傘を威嚇している。ガルルルルルと今にも唸りだしそうだ。鴉だが。

 

「なっ――」

 

 目を見開いた小傘は一歩後ろによろめき、しかし次の瞬間、獣の速度で月見の襟元に掴みかかった。

 

「お、おししょうっ……! 私という弟子がありながら、一体どういうことなのですか!?」

 

 「一体どういうことなのか」はこっちの台詞である。やはりこの少女、一度永遠亭で頭を診てもらった方がよいのではないか。でもなんだか、生暖かい微笑みで匙を投げられるだけな気がする。

 

「つ、つくみから離れてっ!」

 

 おくうが決死の形相で月見と小傘の間に割って入る。噛みつくような剣幕に小傘は堪らず後退し、

 

「くっ……あなた、一体何者なのですか!? お師匠に式神がいたなんて……ま、まさか、式神を自称してお師匠につきまとっているのですか!?」

「ところで小傘、ここに私の弟子を自称してつきまとってくる妖怪がいるんだけど」

「えっ……どこですか!? 私以外にもお師匠の弟子を狙っている者が!?」

 

 もういいです。

 おくうは声を張り上げて反論する。

 

「違うもん、ちゃんとした式神だもん! 嘘ついてるのはそっちでしょ! さっきつくみが、お前なんか弟子じゃないって言ってた!」

「これからなるのでなにも問題はありませんっ! 時代の先取りというか、ちょっとした誤差というやつですね!」

「なに言ってるの……!?」

 

 おくう。その気持ち、私もものすごーくよくわかるよ。

 多々良小傘は止まらない。

 

「お師匠! 私もお師匠の式神にしてください!」

「っ……!?」

「お役に立ちます! そして私に、人間をおどかす極意を授けてはくださいませんかっ!」

 

 月見は降り注ぐ太陽のまぶしさに目を細めている。やはりこれ、いっそ彼女を本当に弟子にしてしまって、人をおどかす極意でもコツでもなんでもいいから適当に教えて、免許皆伝を言い渡して野に放つのが一番楽なのではないか。いや、だがしかし、一度でも弟子にしてしまったらもう後には引けぬ。この少女に一日中つきまとわれる生活に、果たして自分は耐えられるのだろうか。

 そのときおくうが、

 

「だ、――だめだめだめ、ぜえええええったいだめ――――――――っ!!」

 

 もはや絶叫であった。体をくの字に折り、肺の中が空になるまで裂帛したおくうは、なおも弾ける火花が如く、

 

「つくみの式神は私っ!! 勝手なこと言わないで!!」

「私とあなた、二人でお師匠の式神になれば解決します!」

「しない!! つくみの式神は、私だけなのっ!! 他の式神なんて絶対ダメなのっ!!」

「おくう、ちょっと落ち着いてくれ。声が大きいよ」

「あっ……」

 

 空を見れば聖輦船の陰に隠れ、鴉天狗たちが興味津々でメモ帳にペンを走らせている。正気に返ったおくうはすっかり勢いを失い、それでも一歩も引くことはなく小傘と至近距離で睨み合いを始める。

 さてどう上手く話をつけたものかと月見が途方に暮れていると、玄関の戸がカラカラと乾いた音を立て、

 

「月見さん、騒がしいですけどどうかしましたか?」

「あー、昨日の……ええと確か、小傘さーん」

 

 わかさぎ姫を横抱きで抱え上げて、星が外に出てきた。長い尾ひれを含めればかなり長身の部類に入るわかさぎ姫だが、星は至って涼しい顔をしている。元妖怪だけあって、見た目に反して筋力はまずまず達者らしい。

 

「なんでもないよ。気にしないで」

「そうですか?」

 

 しかし、たとえ筋力が達者であっても寅丸星である。池の畔へ向かう一直線上では、踏み固められた雪たちが虎視眈々と活躍の時を待ち構えている。なので月見は念のため、

 

「星、転ばないようにね」

「あはは、さすがにそこまでのおっちょこちょいじゃへうっ!?」

 

 星は早速コケた。まるで台本がそうなっていたかのように雪で足を滑らせ、よりにもよって前方方向にコケた。

 笑顔のまま空中に放り出されたわかさぎ姫の姿が、とても印象的だった。

 

「ひでぶ」

 

 放物線を描いて飛んだわかさぎ姫は池の縁で胸を打ち、勢い止まらず顔面から水の中に突っ込んだ。

 静寂。

 

「い、いたた……ひ、ひめさん大丈――ひめさあああああん!?」

 

 起き上がった星が顔面蒼白で絶叫する。わかさぎ姫は尾ひれを縁に引っ掛けたまま、上半身だけ水に沈んだとてもシュールな恰好でぶくぶくとあぶくを上げている。胸を打った衝撃で目を回したか、波紋で髪が揺れる以外はぴくりとも動かない。

 月見はしみじみと、木の枝に引っ掛かって逆さ吊りになっていた赤蛮奇と、落とし穴に落ちて全身泥だらけになっていた影狼の勇姿を思い出す。さすがは『妖怪草の根ネットワーク』、やはり類は友を呼ぶのだ。

 そしておっちょこちょいが限界突破している星へは、この言葉を送ろう。

 

「星……幻想郷に馴染んできたね」

「こんなので馴染んできたと思われるなんていやですうううううっ!? ひめさんしっかりしてください、ひめさあああああぁぁぁん!!」

 

 星が半泣きになりながらわかさぎ姫を引っ張りあげる。更にはおくうと小傘が、睨み合いの沈黙を破って再びぎゃーぎゃー騒ぎ始め、

 

「とにかくぜったいぜったいぜったいダメっ!! 人間をおどかす方法が知りたいだけなら、式神なんてなる必要ないでしょ!? ううん、つくみを師匠にする必要だってないじゃない!」

「どうしてダメなのですか!? あっわかりました、さてはお師匠を独り占めするつもりなんですね!」

「……………………そ、そんなこと、ないもんっ!!」

「今の間と歯切れの悪さっ! おししょう、しーしょうーっ! この人、お師匠の式神という立場を悪用して」

「うにゅああああああああああっ!?」

 

 そのまま頭をぺしぺし、ほっぺたをむいむい引っ張って喧嘩を始めた。月見は抜けるように澄んだ青空を見上げ、ふうと現実逃避のため息をついた。

 玄関からナズーリンが顔を出して、奥ゆかしい眼差しでこちらを見つめてた。

 

「まったく君の周りは、本当に落ち着きというものを知らないね」

「……面目ないね」

「さて、悪いことではないんじゃないかい。少なくとも君は満更でもないんだろう?」

 

 確かに退屈するくらいなら賑やかすぎる方がいいとは思うけれど、それも時と場合によると言うべきか、こんな有様では船の修理が終わっても魔界に行けるかどうかわかったもんじゃ

 

 

「――ギン」

 

 

 声。

 次に月見が感じたのは風だった。南の方角からさわさわと森のなびく足音が近づいてきて、やがてそよ風が月見の頬をくすぐった。どこにでもあるような、池の水面が揺らぎもしないほんのささやかな風で、事実月見以外に気づいた者は誰一人としていなかった。

 けれど月見だけは、たとえ嵐の中であったとしてもきっとこの風を感じただろう。

 だって、ひどく――ひどく懐かしい、匂いがしたから。

 

「――志弦、」

 

 神古志弦が、そこにいた。月見がやや見上げるほどの中空で、風をまとい、凪いだ瞳でまっすぐに月見を見下ろしていた。月見以外の誰の視線も奪うことなく――まるで彼女自身が、風と一体であるかのように。

 おくうと小傘はまだ小競り合いをしているし、星は目を回したわかさぎ姫を必死に揺さぶっているし、ナズーリンはそんな主人に呆れ果てているし、水蜜たちは聖輦船の修理を続けている。変わらない喧騒がそこにはある。

 なのに月見の耳を満たすのは、風の音だ。

 

「お前、」

 

 心の中に、問いが生まれる。

 お前は今、私をなんと呼んだ?

 その風の術を、一体誰から教わった?

 だって、その名は、

 だって、その術は、

 

「……ああ。やっぱり、月見さんだったんだ(・・・・・・・・・)

 

 志弦が吐息を落とすと、風が流れを変えた。目には見えない足場が消え、志弦が月見の眼前に舞い降りる。ほんの小さな段差から飛び降りるように軽やかな身のこなしだった。

 今となっては、彼女があいつの子孫だとわかったからだろうか。目の前の志弦は、今までよりも一層あいつに似ている気がした。性別が女である以上、顔つきと背恰好こそまるで異なるけれど、細かなところから感じる漠然とした印象とでも言おうか。大股でズンズンこちらに近づき、ふんと小鼻を鳴らすような目つきで月見を睨みつけるその一挙手一投足は、機嫌が悪かったときのあいつとやっぱりよく似ていると思う。

 

「おはよう、月見さん」

 

 挨拶こそ朗らかだったが、さてこのバカを一体どうしてやろうか――そんな物騒な顔をしていた。

 ようやく、ナズーリンが気づいた。

 

「……し、志弦? 君、いつの間に」

 

 志弦はナズーリンを一瞥もせず、ただ掌を見せて黙らせる。いつしか誰もが志弦の存在に気づき、喧嘩の手を、作業の手を止めて呆然と沈黙している。

 志弦が、強く破顔する。

 

「ねえ、月見さん。私さ、ぜんぜん知らなかった。ぜんぜん知らなかったよ」

 

 なにを、と問う隙すらない。

 月見と志弦の名を呼ぶ声が聞こえる。南の空から、輝夜と早苗がこちらに向かって飛んできている。志弦はやはり振り向きもしない。

 

「ったくひどいよね。姫様もそうだけど、あんな大切なこと、ぜんぜん、ちっとも教えてくれないなんてさ」

「――志弦、」

 

 ようやく、こぼすようにそれだけ言えた。風の音に、己の心臓の早鐘が混じり始めていた。

 月見と輝夜が知っている、大切なこと。

 志弦がまとう、ひどく懐かしい匂いのする風。

 ギン、という呼び名。

 ――志弦が眠り続けていた、特別な理由。

 まさか、

 

「月見さんは、私の名前を聞いたときからぜんぶ気づいてたんでしょ?」

 

 まさか、

 

「私のご先祖様と友達だったなら、はじめから、そう言ってほしかったなぁ……」

 

 今の志弦は、

 目の前の彼女は、

 

 

「――なあ、ギン(・・)。そうは思わねえかよ」

 

 

 そこまでだった。気がついたときには鈍重な衝撃とともに視界が撥ね飛び、体が真後ろに投げ出されていた。

 

「つくみ!?」「お師匠!?」

 

 両脚が無意識にたたらを踏み、おくうと小傘が二人がかりで支えてくれたのもあって、なんとか月見はひっくり返らずに済んだ。

 左の頬に、殴られた痛み。

 

「……ねえ月見さん、覚えてる?」

 

 華奢な女の拳を、しかし男顔負けの荒々しい霊力で振り抜いた志弦は言う。

 

「ご先祖様は。神古秀友はあのとき、確かにこう言ったよ」

 

 前のめりになっていた体を起こし、しかし、拳にはなおも震えるほどの力を込めて。

 

「『いつか絶対、お前をぶん殴りに行ってやるからな。覚悟しとけよ』――って」

 

 覚えている。

 覚えているとも。それはかつて『門倉銀山』の物語に終止符を打つとき、あいつから受け取った最後の言葉。いつか自分がこの世界を去ったとき、もしかしたら冥界でぶん殴られることもあるのかもしれないなと、冗談めかして心に刻んでいた思い出のひとつ。

 志弦は知らないはずだ。だって月見は、なにも話していないのだから。

 知らないはずなのだ。

 なのに志弦は、痛快痛快、と喉を震わせて笑う。

 前髪をかき上げ、育ちの悪い、獣のように。

 

「いくらてめえでも、子孫にぶん殴られるとは思ってなかっただろ」

 

 なにが起こっているのか理解が追いつかず、文字通り馬鹿のように呆けるしかない月見の先で。

 

 

「なあ、ギンよぉ。――この、大馬鹿野郎が」

 

 

 神古秀友の記憶を持ち、『御老体』の風をまとう少女が、威風堂々と仁王立ちしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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