銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑥ 「公平有私のキュリオストア」

 

 

 

 

 

 慧音の家は、少し、墨と古い紙の香りがする。

 ちょっと、待っていてくれ――慧音は茶の間の座布団を勧めるなり奥の書斎に消え、月見が何気なしに部屋を眺め始めるより早く戻ってきた。几帳面に折り畳まれた書簡紙を、二枚だけ手に持っていた。

 

「本当に、簡単な内容でしかないのだけれど」

 

 そう謙遜して慧音が月見の向かいに座る。紙の裏にうっすらと、しかしそれでも(しか)と見て取れるほど美しい達筆が透けている。ひと目で慧音が書いたとわかる字だった。

 

「あいかわらず、綺麗でいい字を書くね」

「へ? そ、そうか?」

「ああ。字は書く人をよく表す」

 

 紙から筆を離すその最後まで教養が行き渡った、実に慧音らしい字だと思う。例えばこれがフランなら勢いよく元気いっぱいな字になるし、咲夜なら丸みを帯びた小さくてかわいらしい字になるし、萃香は豪快で大雑把、紫は一見綺麗だが妙な癖のある字になるのだ。

 私の字はみんなからはどう見えてるんだろうな、とふと疑問に思う。下手、ではないはずだが。一番最近手紙を宛てたのは咲夜だから、今度会ったときに聞いてみてもいいかもしれない。

 そのとき慧音がぽそぽそと、

 

「そ、それって、つまり私が綺麗って……」

「ん?」

「い、いやいやなんでもないぞ!? なにも言ってないからっ!」

 

 残念ながら聞こえてしまった月見である。

 もちろん慧音は、里のみんなに聞いて回れば満場一致で決まるであろう遜色のなしの美少女だ。その程度足るや、里人男児にとっては慧音で初恋を体験するのが一種の通過儀礼とされるほどで、しかし慧音自身の色恋沙汰をまったく聞かないあたりは相当攻略し難い相手であるらしい。まさか人里の中心人物である彼女が、縁談のひとつも持ちかけられていないはずはなかろうが――。

 口にはしない。こういうところをつつくと即座に頭突きが飛んできかねないのだと、月見は身を以てよく知っている。

 

「そ、それより! ええと、志弦の家系を遡ってみた内容なんだがっ」

 

 慧音があせあせと紙を広げ、そこで一息とともに落ち着いて、

 

「千年以上の血のつながりを遡っていくのは、なかなか骨が折れたよ。いい経験にもなったけど。……何度も言うが、表面の歴史を掬い取っただけでどれも深くは調べていない。故人の歴史を闇雲に掘り返すのは、あまりいいことではないからね」

「わかってるよ」

 

 テーブルの上に差し出された紙を覗き込む。なんてことはない、右から左までただ人の名を書き連ね、それを二段に渡って続けただけの紙だった。一番右上の名が『神古秀友』、一番左下が『神古志弦』。

 つまり、秀友の左隣にある名が、

 

「これが、秀友さんと雪さんの子どもの名だ」

「へえ……」

 

 月見は思わずその名を口ずさみ、頬を緩め、

 

「あいつにしては、いい名をつけたもんだ」

「……そうだね」

 

 連ねられた名を、順にひとつずつ下っていく。

 

「家系という意味では他にもたくさんの名があるんだが、志弦と秀友さんがつながるところを優先したから……希望があれば、改めて調べ直すけど」

「とんでもない。充分すぎるよ」

 

 それ以外に、一体なにを言えというのか。

 秀友と志弦以外ははじめて目にする名前ばかりだし、ましてやどのような生を歩んだ人間なのかなど知る由もない。けれど順々に名を口ずさんでいくだけで、秀友から志弦へ、月見の中で確かな(えにし)の糸がつながっていくのを感じる。

 

「お前との約束を守ったのかどうかはわからないけど、子が秀友さんの跡を継ぎ、その子がまた跡を継ぎ、代々妖怪退治で人々の助けとなっていたようだよ。時代が江戸まで下って妖怪がまやかしの存在となってからは、霊能師として活躍することもあった。もっともそれも、現代になって科学が台頭すると同時に……途切れたようだが」

 

 千年を超える縁の道は、名を口にしながら歩くだけでもちょっとした一苦労だった。上の段を終え、下の段へ入り、ゆっくりと噛み締める時間を掛けてひとつ、またひとつ、やがて月見の指先は志弦の祖父の名へ至り、父の名、そして、

 

「……志弦、か」

「ああ。志弦だ」

 

 長かった。

 本当に、長かった。

 自分は、平気で何千年という時を生きてきた妖怪だから。己の血を次代へつなぐという感覚がわからないから。高々百年も生きられない人間が、何代も、何十代にも渡って紡いできた営みを見せつけられると、いつだって言葉にもならない想いでいっぱいになってしまう。

 あいつの血が、次代へ、次代へとつながれていって。

 そうして千年を超えた先のひとかけらが、今、幻想郷にいて。

 

「……ありがとう、慧音。こういう具体的なものがあると、やっぱり実感が違うね」

「ふふ、そうか。そう言ってもらえると、頑張って調べた甲斐があったよ」

 

 慧音の瞳が優しい。それがなにやら、知人というよりも寺子屋の生徒へ向けるような眼差しだったから、ひょっとすると自分はそういう(・・・・)顔をしてしまっていたのかもしれない。

 むず痒くなってきたので、月見は話を先に進めた。

 

「それで……ここにひとつ、印のついた名があるけど」

 

 連なった何十という神古の名でひとつだけ、頭に印をつけられているものがある。それが意味するところは想像がついたし、事実その通りの答えが慧音からは返ってきた。

 

「ああ。……それが、聖白蓮を魔界に封印した者の名だ」

 

 その、名は、

 

「――神古、しづく……か」

 

 女の名だ。そして、口に出した音の形が志弦とよく似ている。だからだろうか、水蜜と一輪が志弦の姿を見て早合点したのも、もしかするとまったくの勘違いではないのかもしれないと思った。

 慧音が二枚目の紙を広げる。

 

「……聖白蓮についても、少しだけ調べてみたよ。ただ、」

 

 言葉を区切り、やや目線を迷わせて注意深く、

 

「これはあくまで、当時公的に記録された歴史を掘り起こしただけのものだ。お前ならわかると思うけど、過去の日本では政治的な側面から、歴史を意図的に改竄して記録することが日常茶飯事に行われていた」

「……ああ」

 

 妖怪がその最たる例だ。無論正真正銘の妖怪が大半でありながらも、国に従わなかったまつろわぬ民や、世間から排斥された被差別の人々までもが、妖怪と呼ばれ恐れられていた時代だった。伝承される妖怪退治譚の中にも、真実は人間が人間を討伐した話であるものが少なからず存在している。政治的な意味合いもあっただろうし、それが当時の人々の妖怪への対抗手段でもあったのだ。

 

「だから真に受けないで聞いてくれ。聖白蓮はお前が地底の妖怪たちから聞いた通り、魔界に封じられたと考えるべきだろう。その妖怪たちが、正しい歴史を伝える正真正銘の当事者なのだから」

「……」

 

 つまり今から語られるのは、書き換えられた偽りの歴史。慧音の能力で調べた限り、白蓮は魔界に封印されたのではなく、

 

「聖白蓮は、故人だった」

「――、」

そういう名目(・・・・・・)で、彼女の記録を恣意(しい)的に抹消した痕跡があったよ。どうやら当時の人々にとって、聖白蓮は歴史に残すのも憚られるほど都合が悪い存在だったらしい」

 

 確かに。

 人間と妖怪の共存を願った白蓮の思想は、当時の人間が抱くにはあまりに危険であり、異端なものではあっただろう。共存を願っていた点では紫も同じだが、彼女の場合は常識を外れた部類の妖怪で、その思想に説得力を持たせるだけの力があった。一方で白蓮は一介の人間で、尼僧で、総本山の面子を考えても都合の悪い存在だったのは疑いようがないと思う。

 だが、それで存在ごと闇に葬り去るのは大袈裟ではないか。当時は、その思想はさておいて、人外の力に魅入られた人間というのはさして珍しくもなかったはずだ。仏僧だって、常人よりも妖怪との距離が近かった仏僧だからこそ、人の道を踏み外してしまう者は余計多かったはずなのだ。

 なにか、他に理由があったのではないかと思う。その異端な思想のみならず、歴史に残しては甚だ不都合な、総本山にとって耐え難い汚点となるようななにかが。

 

「そういう顔をするということは、地底の妖怪からはなにも聞いていないんだね」

「……ああ」

 

 彼女たちは知らないのかもしれないし、或いは話そうともしていなかったのかもしれない。自分たちの敬愛する主人が、存在ごと闇に消し去られたなんて。口に出すだけでも、思い出すだけでも、彼女たちならきっと反吐が出る心地だろうから。

 

「もう一度満月が来れば、もっと詳しく調べられるけど……一応、私なりの推測はある」

 

 月見は目で先を促す。

 

「聖白蓮には、同じ僧の弟がいたんだ。生まれつき体が弱く夭折(ようせつ)してしまったが、かなり名高い高僧だったらしい」

 

 なるほど、と月見は噛むように頷く。

 総本山にとって大きな栄誉となる若き高僧――その姉が妖怪に味方した不徳の輩だったとなれば、確かに記録など残さぬ方が都合もよいか。

 慧音が紙を繰り、

 

「弟の名は、聖命蓮。稀代の高僧となれば、お前も名前くらいは耳にしていたんじゃないか?」

「……」

 

 月見は腕を組んで記憶を掘り返す。聖命蓮、言われてみればはじめて聞いた気はしないが、果たしてそれはいつどこの話であったか――。

 

「……ああ、なるほど。確かに聞いた覚えはあるよ」

「そうか。……まあそういうわけで、稀代の高僧の、ひいては宗派そのものの面目を保つために、不要な歴史は抹消した……というのは、いかにもありえそうな話ではないかな」

 

 そう締めて、慧音は二枚の紙をそっと畳んだ。

 

「今わかっていることはこれくらいだ。引き続き調べようか?」

「……いいや。充分さ」

 

 次の満月を待つつもりはさらさらない。それに、本当に充分すぎるほどの話を聞けたのだ。神古についても、白蓮についても。

 あとはナズーリンたちに――或いは白蓮本人に、直接訊いて確かめればいい。

 

「ありがとう。本当に助かったよ」

「ああ。役に立ててよかった」

 

 慧音は頬を緩め、

 

「他に力になれそうなことがあったら言ってくれ。お前には里のみんなが世話になってるし……志弦も、この里の大切な仲間だからね」

「ああ。ありがとう」

「この紙はどうする? 持って行くか?」

「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 書簡紙を受け取り、懐にしまう。ふと時間が気になった。寺子屋に阿求の屋敷、そして慧音の家。少しばかり、時間を食いすぎてしまっているかもしれない。

 

「それじゃあ、私は行くよ。早苗を待たせていてね」

「なんだ、そうだったのか? じゃあさっさと行け、女を待たせるのは罪だぞ」

「はいはい」

「はいは一回!」

 

 追い出されるように慧音の家を後にし、改めて礼を言ってから、月見は早苗を捜しに通りへ向かった。その道すがらで、今の今まで忘れてしまっていたあのときの記憶に思いを馳せる。

 確証はない。けれど、もしも、もしも月見の予感が当たっているのなら。

 月見と『神古』、『神古』と白蓮、――そして、月見と、白蓮。

 そうだったのかもしれない。そういうことだったのかもしれない。

 もしかすると。

 もしかすると月見は、あのとき――

 

「……あ、月見さん!」

 

 正面から飛んできた少女の声に、月見の思考が水の底から浮かび上がる。月見の方から捜すつもりが、どうやら逆になってしまったらしい。

 東風谷早苗が、道行く人々を軽やかに躱して駆け寄ってきた。

 

「早苗」

「はい。慧音さんには会えましたか? 買い出し、終わってますよ!」

 

 やはり、長話をしすぎたようだ。

 

「すまないね、すっかり長引いてしまって」

「いえいえ。とりあえず、満遍なくいろいろ買っておきましたので!」

「ありがとう。……どれ、荷物は持つよ。任せてくれ」

「えへへ……ありがとうございます」

 

 早苗から両手の袋を受け取り、そこで月見は、片方が妙に重い――というより、片方がやけに軽すぎると気づき、

 

「……早苗」

「はい、なんでしょう」

「なんだこの、常軌を逸した量の油揚げは」

「え?」

 

 早苗は、いかにも「それがどうかしたんですか?」という顔で首を傾げた。

 月見はもう一度袋の中身を確認する。やはり何度見ても、二つの買い物袋のうち、片方の中身が油揚げオンリーである。

 早苗は己の行動を欠片も疑っていない様子で、

 

「だって……藍さん、いつもこれくらい買ってますよ?」

「……」

 

 もちろん月見だって、油揚げは、好きだけれど。

 しかし、どうやら早苗は見落としてしまっているようだ。藍は妖狐の中でもとりわけ油揚げに執着し心酔する、油揚げ狂信者とも呼ぶべき女傑であることを。藍の行動が、妖狐全体の常識だと思われてしまうのはちょっと困る。

 まあ、買ってしまったものは仕方がない。日頃の感謝も込めて、藍に八割くらいは差し入れをしよう。

 きっと、九尾をもっふもっふと躍動させて喜んでくれるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 水月苑に戻ってくると、温泉が大層な賑わいになっていた。

 というよりも、大半は聖輦船目当てに集まった野次馬であった。そりゃあ今日になって突然、水月苑上空に謎の空飛ぶ船が停まっているのだ。天狗や河童を筆頭とする山の妖怪たちに騒ぐなと頼むのも酷な話で、距離を置いた場所から興味深げに眺めている者は多いが、なかんずく聖輦船の周囲はちょっとした暴動の様相を呈し始めていた。

 水蜜たちが四方八方を包囲され、取材させろーだの見学させろーだの、怒号めいた質問攻めの集中砲火を浴びせられている。ナズーリンならすぐにでも一喝してくれるのだろうが、あいにく彼女は月見が水月苑を発つのと同じくして宝塔捜しに出掛けている。まだ戻った様子がないということは、どうやらなかなか苦戦しているらしい。

 早苗が予想通りといったように笑った。

 

「あはは、やっぱりすごい賑わいになってますねえ」

「飛倉の破片捜しを手伝ってもらう話は、どうなったんだか」

 

 そんな喧騒を尻目に、月見はまず水月苑の水際に向かった。帰ってきたら、わかさぎ姫に挨拶をする。もはや体に染みついた立派なひとつの習慣である。

 

「ただいま、ひめ」

「はぁい」

 

 わかさぎ姫はぽよんと返事をして、

 

「おかえりなさいませー。お客さんいっぱいですよー」

 

 果たして客と呼ぶべきかどうか。ぎゃーぎゃー騒いでいる天狗や河童たちを見て、「まったくあいつらは……」と月見は一瞬呆れかけたけれど、自分もまた好奇心に駆られて聖輦船を追いかけた一人だったと思い出し、なにも考えなかったことにする。

 わかさぎ姫に目を戻すと、彼女はもう笑ってはいなかった。水面に波紋を立てることすら躊躇うように、固く、怖々と、

 

「それで……あ、あの。志弦さん、は」

「……」

 

 月見は、静かに首を振った。

 

「永遠亭でも、はっきりとした原因はわからなかった」

「……そう、ですか」

 

 懸命に明るく振る舞っていたわかさぎ姫の心が、そっと冷たくなっていくのを感じた。

 志弦が一輪たちに襲われたとき、わかさぎ姫は戦おうとしてくれたのだと聞いている。自分が一番志弦の傍にいたから、守ろうとして、けれど、なにもできなかったのだと。だから志弦が目を覚まさない原因の一端は、ひょっとしたら自分にもあるのではないかと、自分がもっとしっかりしていればなにかが変わっていたのではないかと、早苗よりも、諏訪子よりも、藍よりも、月見よりも、誰よりも強い後悔で胸を張り裂かれる思いであるはずだった。

 肝心なときばかりにいない月見と比べれば。彼女が己を責めることなんて、なにもありはしないのに。

 本当に、心優しい妖怪なのだ。

 

「……ありがとう、ひめ。志弦のこと、大事に想ってくれて」

「……想ってるだけです。想ってるだけで、私は、なにも」

「ひめさん、なにもできなかったのは私も同じですよ」

 

 わかさぎ姫の懺悔を、早苗が撫でるような言葉で遮る。苦笑し、頬を掻き、

 

「それどころか、宝塔っていう大切な宝物を吹っ飛ばしちゃって、余計に話をめんどくさいことにしちゃってますし……」

「それは、早苗さんが勇敢に戦った証拠です! 藍さんだって、諏訪子さんだって、みんな志弦さんを助けようと動いていました」

 

 水面が揺れる。わかさぎ姫が顔を覆う。髪の先から幾粒の雫が散って、なにもできないままただただ重力に絡み取られて落ちてゆく。

 涙のように。

 

「なのに私だけっ……私だけ、動けも、しなかったんです。なにもできなかったんです。本当に、なにも、」

「ひめ」

 

 今度は、月見が遮った。

 思えば、わかさぎ姫にはいつも世話になってばかりだ。日頃から月見が外出するときは留守を頼まれてくれるし、こまめに池の掃除をしてくれているし、月夜の下で歌っては月見の耳と心を癒やし、なによりふわふわと暖かな人柄でいつでも誰かを笑顔にしてくれている。「いつもよくしていただいているから」と彼女は当然のように言うけれど、逆に、月見がなにかをしたことがあったのかと恥ずかしくなってくるくらいなのだ。

 だから、こんなときくらいは。

 

「私は、お前がここにいてくれてよかったと思うし。これからも、ここにいてほしいと思うよ」

 

 自分の言葉が、少しでも彼女の心に寄り添えられればよいと願いながら。

 月見は、微笑んだ。

 

「いつも、ありがとう」

「――……、」

 

 わかさぎ姫が呆けた顔で、呼吸も瞬きも一切を止めて硬直した。五秒経って動かず、十秒経っても動かず、励ますつもりがなにかとんでもない失言をしてしまったのかと月見が自分を疑い始めたその直後、

 

「…………ふえ、」

 

 わかさぎ姫が、しゃっくりをして、

 

「ふ、ふえええええ……」

 

 泣きおった。

 

「お、おい、ひめ?」

 

 まさか泣かれると思っていなかった月見は困惑する。わかさぎ姫は天色の瞳から真珠みたいな涙をぽろぽろこぼして、何度も拙くしゃっくりをしながら、

 

「ううっ……どうして旦那様は、そんなに、お優しいんですかぁ……! わ、わたし、ふえっ、感動してぇぇぇ……」

「……びっくりさせないでくれ」

 

 月見は脱力した。年端も行かぬ小さな子どもならいざ知らず、わかさぎ姫のような見目好い少女にいきなり泣かれるのは心臓に悪すぎる。ゴシップ好きな鴉天狗たちが近くで大騒ぎしているなら尚更だ。幸いにも、みんな聖輦船に夢中で気づいていないようだけれど。

 吐息。

 

「志弦は、必ず目を覚ますさ。だからほら、そんな顔してたら志弦にあとで笑われるよ」

「ひっく、……そう、ですね」

 

 袖で涙を拭ったわかさぎ姫が、顔を上げた。

 天色の瞳は、まだ少しだけ潤んでいたけれど。悲嘆の色だけは、もう綺麗さっぱり消えていた。

 

「私にお手伝いできることがありましたら、なんなりと仰ってください……! お留守番でもなんでも!」

「ああ。もうちょっとだけ忙しくなりそうだから、屋敷は任せたよ」

「はいっ!」

 

 ひとまず今日一日ほどは、宝塔と飛倉の捜索であちこちを飛び回ることになるだろう。今年最後の温泉開放日は今日と明日であるから、わかさぎ姫や藍を頼る時間はもう少しばかり続きそうだ。

 さて、飛倉の捜索といえば。

 

「お師匠!」

 

 散らばってしまった破片を捜し出す重要な戦力となり得る天狗衆は、さっきから聖輦船見たさにぎゃーぎゃー騒いでばかりである。水蜜も一輪も星も、必死に声を上げて野次馬どもを落ち着かせようとしているのだが、怒涛の勢いに押し返されて未だめぼしい成果は上がっていない。

 

「……あの、お師匠? しーしょーうーっ!」

 

 思えば、天狗を呼べばこうなってしまうのはちょっと考えれば予想できたはずだった。そんな天狗どもに協力を持ちかけるよう提案したのは月見であり、要するに責任の一端は自分にあるのであり、なら私がなんとかするしかないか、と仕方なくため息をつき、

 

「……あの、月見さん?」

「うん?」

 

 早苗に袖を引っ張られた。見ると彼女は己の向かい側、つまり月見の背後を指差して、

 

「呼ばれてるみたいですよ?」

 

 月見はその通り振り向く。そして振り向いた途端、「うわ」と危うく口に出しそうになった。

 

「お師匠、無視しないでください!」

「誰が師匠だ」

「はうぁ!?」

 

 青空の色をした髪に、幻想郷でも珍しいオッドアイと、長いベロ(・・)を出した紫のオバケ傘。月見の中では、キスメ、赤蛮奇に並んでズバ抜けて個性的な少女――多々良小傘に、月見は容赦ないチョップをお見舞いした。

 誰かが呼ばれているとは思っていたが、まさか「師匠」が自分のことだったとは。どうやら温泉に入りに来ていたらしく、つやつやお肌な小傘はおでこを押さえ涙目で、

 

「い、いたた。なにをするのですかお師匠」

「だから、誰が師匠だ誰が。お前を弟子にした覚えはないぞ」

「あ、はい。その節は大変お世話になりました」

 

 いや別に世話してないけど。

 しかし涙を一瞬で引っ込めた小傘は、なんとも憎たらしいほど元気いっぱいに、

 

「自分でいろいろ考えた結果、とりあえず形から入ってみようと思いまして! まずは貴方様をお師匠と呼ぶところからぃたい!?」

 

 あいかわらずこの少女、思考の方角が明後日の空である。

 

「お前を弟子にする気はないってば」

「……はい。『その程度の実力じゃあ俺の弟子なんざ百年早えぜ』ですよね?」

 

 ああ、その誤解まだ生きてたんだ。

 落ち込んだ顔を素早く吹き飛ばし、小傘はアツく拳を震わせ、

 

「ですがっ、あれから私も修行を重ねました……! まだお師匠のお眼鏡には適わないかもしれませんが、満足していただける日はそう遠くないと思っています!」

「修行って、なにをやったんだ?」

「山篭りをして滝に打たれたりしました!」

 

 冬だぞ今。

 

「まさに怒涛ともいえる滝の勢いを、傘一本で凌ぎ切るのはとても過酷でした……傘の骨が折れること数知れず、時には足を滑らせ滝壺に落ち、溺れかけることもありました。えへへ、わたし傘なので泳げなくて」

 

 月見はもうツッコむのをやめた。早苗とわかさぎ姫に順に投げやりな目で、

 

「まあ、こういうやつだから。ほどほどに仲良くしてやってくれ」

「あはは。あいかわらず月見さんは、面白い妖怪を惹きつけますよねー」

「そうですねー、すごいと思いますー」

「いや、お前も充分面白いよ?」「ひめさんも充分面白いと思います」

「え、ええっ!?」

 

 少なくとも、これで「そ、そうなんですかぁ……はわわぁ」などと照れてしまう彼女は、充分個性的で面白い部類なのだと思う。

 さておき。いい加減に天狗と河童の馬鹿どもを鎮めにいかないと、そろそろ星たちが涙目になり始めていて、

 

「あれはお師匠のお船ですか? なるほど、お師匠ほどの大妖怪となればあのように船を飛ばすことも可能なのですね! 感服いたしました!」

 

 ところでこのアッパー少女を黙らせるには、一体どうすればいいのだろう。

 

「いやあのな、だから師匠はやめ」

「お師匠、私の修行の成果を是非一度ご覧になってはくれませんか!」

「人の話を聞」

「まだ……まだ、お師匠の弟子には相応しくないかもしれません。ですが、私の決意が揺るぎないものであることだけでも感じていただきたいのです!」

「おい、」

「あっ! あなたその恰好、さては巫女ですね!? あのコワイ巫女とは違うようですが……まあいいです! 私と勝負してくださいっ!」

 

 ふう、と月見はお茶を飲むように吐息した。雲と雲の切れ目から垣間見える太陽が、今日は一段とまぶしい。この世の喧騒から切り離された山奥で、川のせせらぎでも聞きながらゆったりと露天風呂に浸かりたい気分だ。

 現実逃避終了。

 多々良小傘のペースに呑まれてしまってはいつまで経っても埒が明かないと、月見は今までの経験から学んでいる。押しつけるようで申し訳ないが、せめて聖輦船の騒ぎを片付けるまで子守を頼んでもいいだろうか――そんなアイコンタクトを早苗へ送ってみると、彼女は快く頷いてくれて、

 

「ふっ……いいでしょう。月見さんのお弟子さんになりたければ、私の屍を越えてゆくのです!」

「おい早苗?」

 

 凛と伸ばした指先を眉間に添え、傲岸不遜な笑みをたたえて大物なオーラを醸し出し始めた。いや、それよりも、月見の意見をなかなか無視した聞き捨てならない台詞が聞こえた気が。

 まあまあ、と早苗はこちらに掌を向けて、

 

「ここは私に任せてください。なんていうか……気分転換っていうのも、あれですけど。気持ち、上手く切り替えられるかなあって思うんです」

 

 言っている意味はわかる。幻想郷で一番の友達――否、今や家族と言っても過言ではない志弦が、原因不明で眠ったまま目を覚まさないのだ。一見いつも通りの笑顔が戻っているけれど、それは単なる強がりであり、早苗の心にのしかかっている不安と重圧は決して生半可ではないはずだった。幻想郷にとって大きな意味のある決闘方式が、今の早苗にとっても意味のあるものとなる可能性を否定しようとは思わない。

 でも早苗、私が言いたいのはそういうことじゃなくってね。

 そんな台詞を多々良小傘が聞いたら、どうなってしまうかなど言わずもがな。

 

「な、なるほど……! そういうことだったのですね! 私の修行の成果を試す抜き打ちテスト……まったくお師匠も人が悪いです!」

 

 小傘の言葉が、そろそろ右から左へ素通りしていく月見である。

 

「ふふふ……言っておきますが、私は手強いですよ! 果たしてあなたで相手になるでしょうか……?」

「負けません……! ここで修行の成果を発揮して、名実ともにお師匠の弟子となるのです! とりゃーっ!」

 

 ノリノリな少女二人はノリノリで地面を蹴って飛翔し、やがて水月苑上空でノリノリな弾幕ごっこを開始する。月見は空を見上げることもできずため息をつき、わかさぎ姫は愉快げにクスクスと笑う。

 

「元気いっぱいで、かわいらしい妖怪さんですねー」

「まあ……せめて、あとちょっとだけ人の話を聞いてくれればいいんだけどね」

 

 ともかく、過程はどうあれ結果だけ考えれば、早苗は上手いこと小傘を引きつけてくれた。これでようやく聖輦船の方に集中できるし、早苗が負けさえしなければ小傘もひとまず諦めてくれるはず。

 ――負けないよな?

 さて今度こそ涙目な星たちを助けに、

 

「――おや。戻ってきていたのか、月見」

「……っと。ああ、おかえり」

 

 続け様に、今度はナズーリンであった。小洒落たダウンジングロッドを両手に月見の隣へ降り立った彼女は、すぐさま聖輦船の喧騒を聞きつけて眉をひそめた。

 

「……なにかなあれは」

「……まあ、聞こえる通りだよ」

 

 取材させろー改造させろー、見学させろー分解させろー、うあーもーダメだって言ってるじゃないですか話聞いてくださいよぉー。

 ナズーリンは眉間を押さえてため息、

 

「……まったく。ご主人だけじゃ不安だったから一輪とムラサもつけたが、無駄だったか」

「なんだかすまないね。あいつらを呼んだらこうなってしまう可能性を、もう少し考えるべきだった」

「いや、私もご主人たちには前以て注意するよう言っておいたんだ。だというのに一輪もムラサも、こういうときに限って甘いんだから……」

 

 悪態を尽きつつ空を見るが、早苗と小傘のノリノリな弾幕ごっこについてはなにも触れず、

 

「……志弦はどうだった?」

 

 月見は首を振った。

 

「……そうか。永遠亭の医術でも打つ手なし、か」

「手を打つ必要もないってことだと、私は思うよ」

 

 慧音の能力で、志弦の中にあいつらの血が宿っているとわかった。そして、いつまで悩んでいるんだと輝夜に叱られた。だから、みっともなく思い悩むのはもうやめにしたのだ。

 今の月見の心にあるのは、志弦に継がれた血への信頼。千年以上の時を超えてみせたあいつらの血なら、志弦の眠りだってきっと意味のあることなのだと。

 

「諏訪子の力でも永琳の力でも、悪い異常はなにも見つからなかった。だから心配する要素がない。そのうちひょっこり目を覚まして、何事もなかったように戻ってくるって……私は、そう信じているよ」

「……」

 

 ナズーリンは少しばかり真顔で呆け、それから一杯食わされたようにそっと吹き出した。

 

「……永遠亭に行く前とは目が別人だね。一体なにがあったんだい?」

「輝夜に叱られたんだ。いつまで悩んでるんだってね」

「ああ、君に懇意だというお姫様か。なるほど、君も誰かに諭されることがあるんだね」

「むしろ諭されてばかりだよ」

 

 そして、同時に支えられてもいる。大半の妖怪が争いをやめた幻想郷とて、決して平和な日々ばかりで満たされているわけではない。おくうの異変も、天子の異変も、あのときの紅魔館も、長い目で見れば月見が外を歩いていた間だって、辛い出来事や悲しいすれ違いは数え切れないほどあっただろう。

 だがそれでも今の温かな幻想郷があるのは、住人たちの――少女たちの力があるからなのだ。どんな過去も笑顔で乗り越えてしまう無限のエネルギーに、月見とてどれほど支えてもらっていることか。

 そんな感情を抱いてしまう自分自身に、月見は口端で苦笑し、

 

「それで、お前の方はどうだった?」

「あー……」

 

 珍しく、ナズーリンの視線が気まずく泳いだ。

 

「うん。それなんだが、その。ちょっとばかり、面倒なことになったというか……」

「面倒?」

「見つかったには、見つかったんだけどね」

 

 見る限り、ナズーリンは宝塔を持っていない。つまり見つかりはしたものの、『面倒』な事情のせいで持ち帰ることができなかったらしい。

 まさかすでに拾われてしまっていて、「これは俺のだ。お前のだというなら証拠を出しやがれ、どっかに名前でも書いてあるのか?」などといちゃもんをつけられたとか。いや、しかし、その程度はナズーリンであれば真正面から一刀両断しそうなものだけれど。

 

「まあ……とりあえず、まずは向こうをなんとかしよう。すまないが手伝ってもらっていいかい?」

「わかった。……ああ、ちょっと待ってくれ、いま荷物を……」

「旦那様っ」

 

 両手の買い物袋を思い出し、とりあえずそのへんにでも置いておこうと考える月見に、わかさぎ姫が尾ひれで水を叩いて自己主張した。並々ならぬ気合が宿った力強い瞳で、

 

「お荷物は私にお任せをっ。私がお屋敷まで運びます!」

「ああ、ありがとう。じゃあ、藍に渡しておいてくれるかい」

「はいっ」

 

 わかさぎ姫も、一応はちゃんと空を飛べる妖怪である。ただし人魚の宿命なのか、水場から離れると段々弱体化してしまい、最終的には身動きひとつできなくなってカピカピに干からびてしまうらしい。要するに何度か調子に乗って干からびたことがあるという話なのだが、まあそれは今は置いておく。買い物袋をわかさぎ姫に任せ、月見はナズーリンとともに聖輦船へ向かう。

 

「え、どうして油揚げがこんなにたくさん……」

 

 あまり気にしないでくれると助かる。

 一言で例えるなら、超有名芸能人を前にした烏合の衆とでも言おうか。鴉天狗が「取材させろー!」「見学させろー!」、河童が「分解させろー!」「改造させろー!」と絶えず声を上げ、星と水蜜と一輪を揉みくちゃにしている。雲山は巨大化して大きく両腕を広げ、聖輦船へ押し寄せる馬鹿共を間一髪のところで食い止めている。「やーめーてーくーだーさーいー!?」と星が涙声で訴えても誰も聞く耳を持たない。水蜜がすっかり目を回していても誰も気にしない。一輪が「ちょっと待って誰よいま変なトコ触ったのぉ!?」と叫んでも誰も止まらない。耳を貸さずに勢いのまま押し切って、最後にはなし崩しで諦めさせる魂胆なのだ。

 ナズーリンと月見の姿に気づき、毘沙門天代理はまさに仏に出会った顔をした。仏はお前のはずだが。

 

「な、ナズ……! 月見さん……! た、助けてくださーい!?」

 

 月見の名を聞いて、烏合の衆が一斉に声を失って静まり返った。ぎこちなく振り向くお馬鹿たちに月見はため息、

 

「お前ら、人の屋敷で随分大騒ぎじゃないか」

「「「……あ、あー」」」

 

 あはは、と必死な愛想笑いをする妖怪たちの中には、月見がよく見知った顔もある。姫海棠はたてと河城にとりである。ブン屋の代表ともいえる文はいないようだが、幻想郷最速の彼女のことだ。もうすでにひとしきりの写真を撮り終えて、今頃は家で記事を作っている真っ最中なのかもしれない。

 ようやく解放された星ががっくり脱力した。

 

「ふああ……た、助かりましたぁ……」

「大丈夫かい、みんな」

 

 服も髪も全体的にやつれてしまって、飛んでいるのもやっとな有様だ。その奥でぐるぐるおめめな水蜜が雲山に支えられ、一輪は過剰に乱れた衣服を神速で整えている。まったく嘆かわしいとナズーリンはかぶりを振って、

 

「ご主人、破片捜しを手伝ってもらう話はどうなったんだい」

「え? ……あ、あはは。そのあたりの説明をするつもりだったんですけど、ええと、その」

 

 要するにスタートラインからまだ一歩も進んでいないらしいが、予想通りといえば予想通りなので月見もナズーリンもなにも言わず、

 

「それじゃあ、さっさと進めようか」

「そうだね。日が出ているうちが勝負だから」

「そ、そんな予想通りだったみたいに……ふええん……」

 

 星が本当に「仕事をさせたときだけは優秀」なのか、ちょっと疑わしくなってきた月見である。

 さて集まっている妖怪たちの中で、まず月見は水色のおさげをした顔見知りに目を遣る。

 

「やあ、にとり。この前の異変では世話になったね。お陰で助かったよ」

「あ……そ、そうだよ! フラワーマスターに説教されるし、ほんと大変だったんだからね!?」

 

 河城にとりと山彦の幽谷響子は、地底からやってきたイタズラ妖精たちの遊び相手を務めてくれた、異変のささやかな功労者である。庭をめちゃくちゃにするほど遊び倒し、その後変わり果てた景観を見て一発でブチ切れたフラワーマスターに、共々こってり油を搾られたと聞いている。若干気の毒ではあるものの、庭を元通りにしてもらえたのはありがたかったので、尊い犠牲だったと思っている。

 

「あとで改めて御礼をさせてくれ。今はちょっと忙しいけど」

「ん。きゅうりと言いたいところだけど今は時期じゃないからね、美味しいお菓子で手を打って進ぜよう!」

 

 また白雫の店主に頼むかな、と月見は思う。夏の一件以来店主は物作りの情熱を取り戻し、向こう十年分あった白雫の予約も最近は目覚ましい勢いで()けていっているとか。

 

「あのー、月見様ー」

 

 鴉天狗を代表して、はたてがぴょこぴょこ手を挙げた。

 

「この船、一体なんなんですかー? それと、この間の異変で月見様が大活躍だったと聞いたので、詳しく取材させてほしいでーす」

「はいはーいウチら河童も河童も!」

 

 にとりも負けじと万歳をして、

 

「こんな空飛ぶ船なんて、もぉー職人魂に火が点いて胸がきゅんきゅんトキめいちゃうっていうか! だからちょっと解体していろいろ調べたいんだけど!」

「だ、だからダメですって何度も言ってるじゃないですかぁ!? これは大切な人の大切なものなんですっ!」

 

 星が一生懸命叫ぶものの、その程度で河童が引き下がるならはじめから暴動は起きていないのだ。にとりはグッとサムズアップで、

 

「大丈夫だよ、ちゃんと元に戻すから! まあ、つい我慢できなくなって改造しちゃうかもしれないけどネ!」

「絶対ダメですーっ!!」

 

 ぶーぶーとやかましくブーイングする妖怪たちを、鮮やかに断ち切ったのはやはりナズーリンだった。

 

「そんなにこの船が気になるなら、交換条件だ。ちょっと私たちの手伝いをしてくれないかな」

 

 ピタリと静まり返った。

 

「この船は法力を込めたありがたい木材でできているんだが、いろいろあって一部が幻想郷のどこかに飛び散ってしまってね」

 

 ふむふむと頷く。

 

「私たちも捜してはいるものの人手が足りなくて、可能なら手伝ってもらいたいんだ。……もちろんタダとは言わないよ。力になってもらえたら、まあ解体や改造は論外だが、修理への立ち会いを許可しようじゃないか。中を見学しても構わないし、そこで目を回してる船長に取材してくれてもいい。なんだったら、君たちを乗せてそのあたりを遊覧飛行しようか」

「あ、あのナズ?」

 

 星が思わず口を挟むが、ナズーリンは「ご主人は黙っていたまえ」と取り合わない。

 一呼吸の思考の間を置いて、はたてが静かに食指を動かす。

 

「その木材って、なにか見た目の特徴は?」

「この船のように法力で宙に浮いているから、ひと目見ればわかるはずだよ。そういう意味では、地面ではなく宙を捜してほしい」

 

 そこでナズーリンは、わざとらしくもふとしたように手を打って、

 

「……ああ、そうだ。全員だとさすがに人数が多いから、天狗か河童、より多く破片を集めてくれた方を優先して案内させてもらおう」

 

 そう付け加えた瞬間、天狗と河童の間に確かな緊張が走った。

 やや、間合いを読み合うような沈黙があった。烏合の衆でしかなかった彼女たちの中にはっきりとした一線が引かれ、天狗と河童はお互いゆらりと向かい合うと、

 

「――あらら。これはちょっと、ウチら天狗に有利な話になっちゃったね。私たちなら、得意のスピードであっという間に集めちゃうし。ごめんね河童の皆さん」

 

 はたての薄い挑発の笑みに、にとりが妖力を感じる微笑で返す。

 

「んー、天狗の皆さんはウチらが職人集団だって忘れてるんじゃないかなー。それ、ウチらの技術が誇るレーダーの前でも同じこと言える?」

「へー、そんなのが一体なんの役に立つのやら。ガラクタ見つけておしまいじゃない?」

「とにかく足動かせば勝てるって、いやだよねえ前時代的な考え方しかできない連中は。『効率』って言葉知ってる? 辞書要る?」

「……ふふふっ」

「……あははっ」

 

 不穏に揺らめく妖気がぶつかり、チリ、と火花のように弾けて散った。顔に不気味な能面を貼りつけて睨み合う二勢力に、星が「ひええ……」とナズーリンの後ろで縮こまる。ナズーリンが鬱陶しそうにロッドで星の足を小突く。今度はナズーリンの意図を察した月見が手を叩き、

 

「では、時間は日没までとしよう。日が沈んだら、お互い集めた飛倉の破片をここに持ってきてくれ。充分な数が見つかった時点で、より多くの破片を集めていた方の『勝ち』だ」

「「……ふふっ」」

 

 天狗と河童たちが、黒く笑った。

 間。

 はたてとにとりがぐるんと振り向き、

 

「――安心してください。河童なんかより、私たちの方がより早く、より多く破片を集めてみせますから」

「いーや、ウチらの方が天狗より断然役に立つね。だからウチらが先だよ。絶対だよ」

 

 ナズーリンは涼しい顔で頷いて、

 

「もちろん。では、よろしくお願いするよ」

「見てなさいよ私たちの方がすごいんだからぁ――――――――ッ!!」

「ぜえ――――――――ったい負けないからね――――――――ッ!!」

 

 そこからはまさしく嵐であった。天狗ははたて、河童はにとりを司令塔として十秒で稲雷の作戦会議を終えると、うおおーっと勇ましい吶喊(とっかん)の声を上げながら、軍隊も唸る統率で仲良く幻想郷中に散らばっていった。

 そして水月苑に、早苗と小傘が弾幕ごっこをしている以外は元の平穏が返ってくる。

 

「――まったく、」

 

 つまらない仕事だったとばかりにナズーリンは肩を竦め、

 

「山の妖怪は扱いが簡単で助かるね。餌をぶら下げて適当に競争心を煽れば、あとは勝手に動いてくれる」

「いや、お見事」

 

 この場を収めるという意味でも一刻も早く破片を集めるという意味でも、ナズーリンの提示した条件は最適解であろう。いっそナズーリンが毘沙門天の代理をやった方がいいのではなかろうか。ナズーリンの後ろで縮こまっている代理本人も、部下の仕事ぶりに口を半開きで感心しきっていた。

 

「さ、さすがナズですねえ。あっという間に解決しちゃいました……」

「でも、あれでよかったの?」

 

 しかし一方で、一輪と水蜜はやや不満げに、

 

「私たち、姐さんを復活させないといけないのよ?」

「そ、そうだよ。遊覧飛行とか言ってたけど、余計なことしてる暇は」

「ああ、そうだね。だから私は、『捜し終わったらすぐ案内する』とは一言も言わなかったよ」

 

 へ、と水蜜たちが呆けた顔で停止する。もちろん、そうであった。ナズーリンは「より多く破片を集めた方を優先して案内する」とは言ったが、いつ(・・)案内するかはただの一言も明言しなかった。

 つまり、

 

「手伝わせるだけ作業を手伝わせて、あとは聖を復活させてから、余裕ができた頃にゆっくり案内してやればいいだろう。まあ、来年かな」

「「「……」」」

 

 二の句が継げない星たちに、尻尾をくるりと丸めた怜悧な笑みを以て。

 

「――大丈夫。嘘は言っていないさ」

 

 無縁塚のダウザー、ナズーリン。

 外見相応、或いは外見よりも幼い妖怪が多い幻想郷では、極めて珍しく。

 姿以上に大人びて、生き馬の目を抜くかの如き少女である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 問題は宝塔だ。

 飛倉の破片は人海戦術に物を言わせれば押し切れる。飛び散った破片をひとつ残らず見つけ出すとなれば途方もない大仕事だが、要は聖輦船に、魔界への転移に必要なだけの機能が戻ればよいのだ。水蜜曰く、欠けたパーツの八割も見つけられれば充分と言っていたから、対抗意識を燃やす天狗と河童によって明日中、早ければ今日のうちにでも一定の成果が得られるだろう。

 しかしどうも宝塔の方で、ナズーリンでも手を焼く面倒な問題が発生したらしく。

 

「まあ現場を見てもらった方が早いと思うから、案内するよ」

 

 そう簡潔に説明された月見は、物憂げなダウザーの背を追って星とともに冬の空を飛んでいた。水蜜と一輪及び雲山は、寒いのが嫌いなぬえを引きずって飛倉の捜索に当たっている。こっちについてきても仕方ないから、というナズーリンの判断だった。人数を用意したところで意味はなく、なにより持ち主の星と、なぜか月見の力が必要不可欠であるようだった。

 

「……随分と、遠くなんですね?」

 

 飛び続けていくうち、星の表情が次第に怪訝の色を帯びていく。妖怪の山を離れ、霧の湖を越えて、このまま行けば間もなく魔法の森が見えてくる頃合いだ。水月苑の周囲で落としてしまったという宝塔が、まさかこんなところまで転がってくるとは思えない。

 であればやはり、この方角に居を構える何者かがすでに持ち去ってしまっていた、と考えるのが妥当だろう。ナズーリンですら手を焼くほどの、実に厄介な「何者か」が。

 恐らくは、月見の知り合いであるはずだ。顔馴染みの立場を活かした交渉役を期待されているのなら、月見に助力が乞われるのにも筋が通る。

 

「まさか、魔理沙か?」

「ああ、あの蒐集癖のある白黒か。彼女が取って行ったのだったら、まだ話は単純だっただろうね」

 

 魔理沙ではないらしい。しかしこの方角に住む人物で、人の落とし物を独占する自分勝手なやつなんて――

 

「ここだよ」

「……ああ、なるほどね」

 

 ――と思っていたけれど、現場について納得した。冬でも不気味なほど鬱蒼と緑が生い茂る、魔法の森の入口に当たる場所。行き場を失った数々の道具が外まであふれ出し、ともすればゴミ屋敷のように見えなくもない、あいもかわらず雑多で締まりのない店構え。

 星が不思議そうに上を見て、その看板に書かれた文字をひとつずつ読み上げた。

 

「ええと、――こう、りん、どう?」

 

 確かにこれは、現場を見た方がなによりも早い。

 

「月見。申し訳ないが、君の力を貸してくれないか」

 

 つまりは、そういうことだ。

 ナズーリンは苛立ちを隠せない様子で、恐らくは店の中まで聞こえるようわざと大声で吐き捨てた。

 

「あの店主、人の落とし物を勝手に商品として並べてるんだ!」

「――失敬な。人を盗人みたいに言わないでくれるかな」

 

 どうやら待ち構えていたらしく、いつも腰の重い扉がこの日はすんなりと来客を迎えた。小気味よく鳴るドアベルとともに顔を出したのは、もちろんのこと香霖堂の主人である、

 

「ふむ、やはり月見を連れてきたか。実に予想通りだね。しかし生憎ながら、お得意様相手でも僕の考えは変わらないよ」

「くたばれぬすっとめがね」

「な、ナズ?」

 

 動かない古道具屋こと森近霖之助に、ナズーリンが人の変わったような舌打ちを飛ばした。しかし彼はまるで堪えた素振りもなく、営業スマイルには程遠い片笑みを月見に向けて、

 

「やあ、月見。しばらくだね」

「ああ」

「魔理沙から話は聞いているよ。先日の異変ではなかなか大変だったそうじゃないか」

「まったくね。本当に骨が折れたよ」

 

 平々凡々な挨拶を交わしながら、霖之助が月見らを中へ促す。売れる気配のない商品たちであふれかえる店内を、初の来店である星は興味深げにあちこち見回し、お得意である月見は別の意味で随所へ隈なく目を光らせる。

 見つけたのは、帳場の奥にある棚だった。月見の視線に気づき、霖之助が愛想の悪い片笑みを深めた。

 

「ナズーリンに頼まれて、これを取り戻しに来たんだろう?」

 

 椅子に腰を下ろし帳場に両肘を乗せて、薄暗い店内で主人は眼鏡の縁を光らせる。この香霖堂では客である限り人も妖怪も公平に扱われ、そして森近霖之助は商売に関しては甚だ大人気なく私情を挟む。気に入った道具は非売品として門外不出にし、商品の値段は実際の価値によらず店主の主観で決定される。

 云うなればここは、公平有私の古道具屋(キュリオストア)

 

「さあ――商談を始めようか」

 

 はてさてどういう風の吹き回しかは知らないが、今日の霖之助はいつにも増してやる気らしい。背後の棚には香霖堂では珍しく、ひと目で並ではないとわかる霊験を放つ道具の姿。

 間違いなく毘沙門天の宝塔が、哀れな囚われの身となって鎮座させられていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ひええ。

 それが、今現在のさとりの心境を簡潔かつ的確に表した一言である。蛇と遭遇した蛙。肉食動物と一緒の檻に入れられた小動物。理屈を超えた圧倒的強者を目の前にしたときのみ味わうことのできる、冷や汗すら枯渇する極限の緊張状態。あくまで悪意のない本人には申し訳ないが、生きとし生ける平々凡々な妖怪として、やはり「ひええ」が極めて正直なさとりの感想なのだった。

 具体的には。

 

「……なるほど。それで、荷物も持たずに地上へ戻ったということですか」

「え、ええ。本当に、突然で」

 

 地霊殿の応接間にて、鬼も裸足で逃げ出す――比喩ではなく本当に逃げ出す――閻魔様こと四季映姫と、一対一でお話する羽目になっていた。

 さとりは以前、映姫を怖がるお燐に「そんなにビクビクしないの」と偉そうに言って聞かせたことがあった。説教好きという傍迷惑な性格は困りものだが、悪人ではないのだから怖がる必要などないと思っていたのだ。それが今はこのザマである。とても怖い。大変怖い。情けないったらありゃしない。

 なぜ今更になって怖がっているのか、理由ははっきりとわかっている。

 月見が地上に帰ってしまったからだ。

 今までは地霊殿で映姫が説教を始めそうになると、すかさず月見が助け船を出してくれていた。一方の映姫も、異変を通して月見の評価を大きく改めた影響なのか、彼から言われれば案外あっさり引き下がることが多かった。要するに、説教される心配がないから映姫のことが怖くなかったのだ。

 しかし、月見がいなくなってしまった今の状況では助けなど期待できない。荒ぶる閻魔様を止められる者はもういない。ひとたび彼女のご機嫌を損ねてしまえば、その瞬間にあの日見たお説教地獄の再来である。

 当然、こいしもお燐もおくうも、とっくの昔にさとりを見捨てて逃げ出した。残念だがあとで真心いっぱいおしおきしなければならない。

 ともかく。

 

「そ、そういうわけですので……申し訳ありません。せっかく月見さんに会いに来てくださったのに」

「馬鹿なことを言わないでください。別に、あの狐に会いに来ているわけではありません」

 

 本来であれば閻魔とて例外ではない心の本音にニヨニヨするところなのだが、もちろんそんな度胸はカケラもないので黙っておく。「素直じゃない」という一点に限って言えば、ひょっとすると映姫はおくうをも超える筋金入りの意地っ張りかもしれなかった。

 んん、とそんな意地っ張りは咳払いをし、

 

「しかし、そのような事情であればやむを得ませんね。あの狐の荷物は、私が明日にでも地上へ届けに行きましょう」

「え?」

 

 思わぬ申し出にさとりは目を丸くした。映姫はあくまで涼しい表情のまま、

 

「いつまでも置いておくわけにもいかないでしょう」

「……」

 

 ――本当に素直じゃないなあ。

 そのとき彼女の心が、一体どのようなものであったかといえば。この地球上では日々数多の生命が誕生し、一方ではまるで釣り合いを取るように、多くの命が終わりを迎え彼岸へと旅立っていく。神が定めた輪廻の営みに年の始めや終わりという概念があるはずもなく、であれば当然、輪廻を司る是非曲直庁にも年末年始休暇など存在しないのだ。

 むしろ年の境界だからこそ余計忙しくなる部分もあるのか、もう少しもすると、映姫は当面の間地上に行く時間も作れなくなるらしい。

 なので荷物を届けに行くという名目の下、今年最後の挨拶くらいは――と、考えているのだった。

 別にそんなの、荷物関係なく素直に行けばいいのに。

 

「……」

「……んんっ」

 

 映姫の釘を刺すような眼力に、さとりは咳払いをした。

 

「そ、そうですね。そうしていただけると、とても助かります」

 

 実を言えば、こいしが「私が届けに行く!」と張り切っていたのだが――まあ、仕方あるまい。姉を見捨てて安全地帯に逃げたバチが当たったのだろう。さとりは悪くない。

 映姫は、あくまで表情だけは素っ気なく頷き、

 

「あの狐に、なにか伝えることはありますか? もう今年は会えない可能性もあるでしょう」

「……」

 

 元々、年末になったら帰るという話だった。そこに突如として地上で起きた事件が舞い込み、挨拶らしい挨拶もできぬまま急転直下の別れとなってしまった。あれが今年最後の月見とのやり取りで、あとは来年になるまで顔も会わせられないのだと思うと寂しくてたまらない。今すぐみんなで地上へ行って、今年一年の感謝の気持ちを伝えることができればどれほどよいか。

 けれど友人を誘拐されてしまった今の状況で、そんなことをされても月見も迷惑だろう。映姫と違ってさとりには、彼の助けとなれるような力もないから。

 苦笑した。

 

「……そうですね。お願いできますか?」

「ええ。明日の朝に荷物を取りに来ます。伝言でも手紙でも構いませんので、準備しておくように」

「わかりました。……ありがとうございます」

 

 やはり映姫は、機嫌を損ねない限りは面倒見がよくて優しい人だ。極限の緊張状態がようやく解れていくのを感じながら、さてどうしようかな、とさとりは思案する。感謝の気持ちを伝言にまとめるのは少し難しいし、こいしたちにも伝えたいことはたくさんあるはずだから、それぞれ手紙を書いて託すのが一番だろうか。

 特におくうなんて、なかなか素直になれない小難しい性格が災いして、慌ただしく立ち去る月見となんの言葉も交わせなかった。それをとても後悔しているし、なにより月見の式神として、一緒に行って助けとなることもできない己の無力を本当に歯がゆく思っていた。今すぐにでも地上へ行きたい想いなら、さとりだってこいしだってきっと足下にも及ばないだろう。

 そう――おくうが一番、地上に行って月見の助けとなりたがっている。

 

「……」

 

 なのでさとりは、物は試しにと、

 

「あの、映姫さん」

「なんですか」

 

 お堅い映姫が首を縦に振ってくれる可能性は低いが、かといって口にしなければはじめから可能も不可能もない。

 緊張から解放された反動のようなものも、あったのかもしれない。半分冗談を言うつもりで、さとりは思い切って問うてみた。

 

「ちょっとしたご相談なんですけど――」

 

 そういえばこういう気持ちを、確か人間たちはどんな言葉で表現していたっけ。確か以前、調べ物をしていたときに辞書でふと見かけた覚えがあるのだけれど――。

 ひと通りの相談が終わり映姫の返答を待つ中で、それをようやく思い出した。

 ――可愛い子には、旅をさせよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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