銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第12話 「レコンサリエーション ④」

 

 

 

 

 

 ふと、最後にお風呂に入ったのはいつだっけ、と思った。

 月見と名乗る妖狐に図書館の使用許可を出し、自室に戻って、ちょうど魔法の研究を終えた時だった。汗が頬を伝って下に落ちたのを感じて、パチュリーはそう疑問に思った。

 

 魔法の研究というのは、これで案外ハードワークな一面がある。机に向かって理論とにらめっこしているうちはまだ楽だが、いざ実践の段階となると、体の強くないパチュリーには意外と酷になるところがあるのだ。

 故に今のように、汗を流して肩で息を整える有様になってしまうのも珍しくない。

 

「……大分、汗、かいちゃったわね」

 

 パチュリーの私室からドアを一枚挟んだ、咲夜に特別に拡張してもらった魔法研究室。ここで一時間と半分ほどの間、ずっと新しい魔法の実践を行なっていた。

 頬を伝う汗を手の甲で拭う。研究していた魔法が炎系統だったからだろうか。すべての窓を開け放ってなお、部屋は軽いサウナのような状態になっていた。

 

 最後にお風呂に入ったのはいつか――そんなことを疑問に思ったのは、きっと、月見という妖狐に出会ったせいもあるのだろう。

 

 風の魔法を使って部屋の空気を入れ換えながら、パチュリーは記憶を掘り起こす。とりあえず、一昨日の夜にちゃんとお風呂に入って睡眠を摂ったのは間違いない。ではそのあと、つまり昨日からはどうだったろうか。

 朝起きると同時にぼんやりとイメージが湧いて、そして取り掛かったのがこの研究だった。食事もロクに摂らず魔導書とにらめっこをして、実践と修正を繰り返した。予想外のところで理論が躓いて、それが悔しくて、ムキになったように夜通しで研究を続けた。明朝、眠気が辛かったので少しだけ仮眠を取って、また研究を再開してしばらくしたら、咲夜がやって来た。

 そこまで思い出したところで気づく。……あ、私、昨日お風呂入ってない。

 

「……うわ」

 

 そんな、掠れた声が漏れた。自分はそんな状態で、月見――異性の目の前に立っていたのか。

 恥ずかしくはなかった。ただ、頭の血の気が落ちるようだった。

 まず警鐘の如く頭を掠めたのは、もう一度月見に会わねばならなくなった場合の未来だった。魔導書を読みたくなった彼がこの部屋を訪ねてくる、なんてことは充分にありえる。なのに昨日からお風呂に入っていなくて、今こうして汗も大分かいた――そんな状態で応対するのは、ちょっとどころかかなりまずい。

 

「と、とりあえず、お風呂に入りましょう」

 

 大丈夫大丈夫、まだ間に合う、とパチュリーは口早に自分に言い聞かせた。

 新しい流行やお洒落には関心がないけれど、パチュリーだって女の子だ。異性の目だってもちろん、気にする。

 早足で研究室を抜け出し、私室のクローゼットをひっくり返すようにして、替えの服と下着を準備する。あんまり走るとすぐ息が苦しくなるのも忘れて、浴室に向けて駆け出した。

 

 そうして、私室を飛び出してすぐ。

 パチュリーは、図書館の空を翔ける七色の流星たちを見た。

 

 思わず数歩たたらを踏んで、立ち止まる。呆然と天井を見上げ、それからこの空模様が意味するところを察して、頭を抱えた。

 弾幕ごっこ。

 図書館の空でそんなことをするやつなんて、一人しかいない。

 

「ま、魔理沙ッ……!」

 

 霧雨魔理沙。

 よりにもよってこのタイミングで、あの盗人はまたやって来たのだ。

 タイミングとしては最悪だった。今、魔理沙と弾幕ごっこをしているのは小悪魔だろうが、彼女では到底魔理沙を止めることはできない。すぐに自分が向かわなければ、またおめおめと魔導書を盗まれる羽目になってしまう。

 恐らく、月見は様子見しているのだろう。彼の働きに期待する手もあったけれど、泥棒退治を来客に任せて自分はのんびりお風呂で寛ぐというのも、パチュリーの良心がよしとしなかった。

 ああ、でもそうしたら、この肌に染み込むような汗を流さないまま彼の前に立ってしまう可能性が高いわけで。もしそうなったらパチュリーのささやかな乙女心が、ざっくりと深い傷を負ってしまうのであって。

 パチュリーは焦るあまり、その場で右へ左へ行ったり来たりした。

 

「ど、どうしよう、どうしようっ……」

 

 ……後々、思い返してみれば。

 この時点で『咲夜を呼ぶ』という選択肢が思い浮かばなかった自分は、心底馬鹿だとしか言いようがない気がした。

 

「~~っ、ああもう!」

 

 結局、迷いを振り払うようにそう叫び、パチュリーは着替えをすべて私室の中に放り込む。

 そして、憎っくき魔導書泥棒のところに向けて飛んでいく。

 潰すと、恨みたっぷりの低い声で吐き捨てながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 図書館の空を翔ける流れ星というのは、とても不思議な光景だった。しかも普通の流れ星とは違って、青かったり、赤かったり、緑だったりする。みんなが揃って一つの方向に流れるのではなく、互いに交差するように行き交い、時に衝突して、弾けて消える。

 魔理沙と小悪魔の弾幕ごっこ。流れ星の応酬。薄暗い大図書館の空を鮮やかに、そして少しばかり騒がしく彩っている。

 月見はその下で、フランに読み聞かせした絵本たちを一冊一冊棚に戻していた。時折思い出したように頭上を見上げては、絶え間なく変化する星空に、ふっと息をつく。

 

「弾幕ごっこ、ね」

 

 ちょうど、雛と椛が見せてくれた弾幕ごっこを、場所を変えてもう一度見ているような。弾幕は速すぎず多すぎず、適度な速度と密度でやり取りされる。弾幕“ごっこ”という言葉の通り、まさしく遊びと呼ぶにふさわしい気さくさ(・・・・)があった。

 恐らく私たちが異常だったのだろう、と月見は思う。弾幕ごっこは妖怪と人間を対等に闘わせるためのフェアな決闘手段だというけれど、月見がフランとやった弾幕ごっこは、間違いなく一つの『戦い』だった。遊びと呼べるほど気さくではなく、決闘と呼べるほど高貴でなかった。

 魔理沙や小悪魔がもしあの場にいたら、腰を抜かしていたのだろうか。

 

「……で、この本は一体どこにしまえばいいのかな」

 

 などと考えながら、月見はそそり立つ本棚たちへと視線を戻した。本棚自体があまりに大きすぎるため、ただ本をしまうだけでもなかなか一苦労になる。しきりに視線を彷徨わせ、やっと該当する場所を発見した。

 

「あと一冊、と」

 

 最後の一冊をしまう場所を探していると、ふと、「これ全部読んでほしいな!」と絵本の山を持ってきたフランの姿を思い出す。

 お陰様で大分片付けに手間取ってしまったけれど、次でようやくおしまいだ。またしばらくかけてしまう場所を見つけ出し、そこに本を差し込む。

 直後、それが引鉄を引いたかのように、図書館中を爆発音が駆け抜けた。

 すべてのスペルカードを攻略され、弾幕ごっこの勝敗が決した合図。完全な不意打ちに、月見の肩が思わず跳ねる。

 

「……」

 

 見上げれば、魔理沙と相対していたはずの小悪魔の姿が消えていた。人差し指でくいと帽子の鍔を持ち上げ、勝利宣言をするのは魔理沙の方。

 

「その程度で私を倒そうなんざ、百万光年早いぜ……なんてな」

 

 意味するところはすなわち、小悪魔の敗北だ。

 惜しかったなあ、と月見は思う。ここでもし小悪魔が勝てていれば、手っ取り早く魔理沙を追い返す口実となっただろうに。

 魔理沙は眼下をキョロキョロ見回し、月見の姿を見つけ出すと流れ星が落ちるように飛んできた。撃墜した小悪魔は放置らしい。

 

「よう、ええと……そうだ、月見だったな。見てたか、私の華麗な雄姿を?」

 

 同じ目線で振舞われる笑顔には確かな豪胆さがあったが、それにまた笑顔で応えられるほど、月見の心中は上向きではなかった。肩を竦め、努めて無関心に、

 

「残念ながら、弾幕に埋もれてよく見えなかったよ」

「おっと、そいつは残念だ。小悪魔のやつ、今日はいつも以上に気合入ってたからな。私もつい熱くなっちまったぜ」

「お疲れ様。今日はもう家に帰って休むといいよ」

「いやいや。邪魔者は追い払ったんだから、いよいよもって本を盗――借りていくぜ」

「パチュリーを呼んでこようか?」

「そんな余計なことはしなくていい」

 

 どうしたものかな、と月見は考える。とりあえず与太話をして間を持たせながら、

 

「魔理沙、パチュリーも困ってるようだからな?」

「あいつは四六時中魔術の研究で悩み抜いてるから、ちょっと悩みが増えたところで変わらんだろ。それに、豊富な魔導書を独り占めしてるってのもいけない話だと思わないか?」

「別に独り占めはしてないだろう。一言通せば私にも見せてくれると言っていたぞ?」

「それは言わないお約束だぜ」

 

 魔理沙が言葉で煙に巻けるような相手でないことを、月見は始めの会話から既に察していたし、からころと鈴を転がすような彼女の笑顔は、人の言葉に大人しく従う従順さとは無縁だった。

 愉快犯なのだろう、と月見は思う。ただ単に本を盗むのが目的なのではなく、その中でのみ味わえる独特のスリルこそを、魔理沙は楽しんでいる。つまりは、成功と失敗を懸けて誰かと勝負をするということを。

 ならば必然、

 

「なんだったら、お前も一丁やるか?」

 

 話が行く着く場所は、そこ以外にない。

 誘うように口端を吊り上げた魔理沙が、指で挟んでチラつかせるのはスペルカード。そのわかりやすい意思表示に、しかし月見は答えを渋った。弾幕ごっこは、フランとの一件で既にお腹いっぱいなっていたから。

 肝を冷やしながら弾幕の中を掻いくぐるのは、もうしばらくはこりごりである。

 

「私は、少し前に一度弾幕ごっこに付き合わされてね」

「お、だったらルール説明はいらんな。早速やろうぜ」

「……」

 

 墓穴を掘った。

 もはや閉口するしかない月見に、魔理沙はあいもかわらず、豪胆な笑顔を崩さずに言った。

 

「なに、私は体力も魔力も有り余ってるからな。遠慮はいらんぜ」

「……そう。なら、私の相手をしてもらおうかしら」

 

 しかしそれに答えたのは月見ではなく、抑揚を欠いた少女の声。パチュリー・ノーレッジが、いつの間にか魔理沙の後方でぷかぷか滞空していた。

 物静かな少女だからか、それとも魔理沙に気を取られていたからか。声を聞くまでまったく気づかなかった。

 

「うおっと、パチュリー。いきなり後ろを取るのはなしだぜ、失礼な」

「……」

 

 飛び跳ねた魔理沙を、鋭く冷め切った紫紺色の瞳が見下ろす。機嫌が悪いのか、少し色の悪い唇が紡いだ声は、もともとの起伏のなさに輪を掛けて、無感動だった。

 

「じゃあ図書館から無断で魔導書を持って行くのもなしね。失礼だから」

「前言撤回、私の背後を取るなんてさすがだぜ。だから図書館から魔導書を持ってく私もさすがだぜ」

「……まったく」

 

 パチュリーは目頭を押さえ、肺の中の空気をすべて吐き出す長いため息を落とした。緩く首を振り、諦めたように、

 

「減らず口はあいかわらずなのね」

「失敬な。私は人より少しばかり素直なだけな普通の魔法使いだ」

「そう」

 

 そして胸を張る魔理沙を至極どうでもよさそうに切り捨て、ふわり、降り立った。

 

「パチュリー」

「っ……」

 

 わざわざ駆けつけてくれたのだろうかと、月見はパチュリーの名を呼んだ。すると彼女は冷め切っていた表情を一瞬で崩して、言葉に弾かれたように素早く、一歩後ろへあとずさった。

 

「……どうした?」

「い、いえ、なんでも。それより悪かったわね、来るのが遅くなって」

「それは、大丈夫だけど……」

 

 パチュリーはすぐに足を戻したが、依然として視線が泳いでいて、態度がどことなくよそよそしい。まるで避けられているようだ。

 はて、と月見は胸中に疑問。なにか、彼女に距離を置かれるようなことをしてしまっただろうか。

 コホン、とパチュリーは空咳を一つ。

 

「こんなやつの相手なんかして、疲れたでしょう」

「……いや、まあ」

 

 そのまま強引に話を逸らされ、月見はやむなく苦笑を返した。彼女の言葉自体にも、否定できないものがあったから。

 言葉を濁す月見に、魔理沙が不服そうに唇を尖らせた。

 

「おいおい、そこは恥ずかしがらずに否定してくれていいんだぜ?」

「「……」」

 

 今のが本当に恥ずかしがっているように見えたのなら、魔理沙は相当な幸せ者だ。

 月見もパチュリーも徹して沈黙し、アイコンタクトで互いの苦労を慰め合う。本当に大変なんだな。――そうね、本当に大変なの。――口も使わずにそんな会話を成立させられる程度には、今の二人の心境は一致していた。

 一方の魔理沙は、その沈黙をとりわけ不快と思う素振りも見せなかった。「そういえば」とパチュリーに向けて口を切り、

 

「私の相手を、とか言ってたな。なんだ、珍しくやる気なのか?」

「ああ、そういえばそうだったわね……」

 

 瞬間、パチュリーの双眸がまた氷さながらに冷え切った。

 

「ええ、ちょうど魔法の実験が進んで新しいスペルカードができてね」

 

 一度言葉を切り、つなぐ所作で抜き放つはスペルカード。魔力の風を体にまとい、紫紺の瞳は更に、確かな戦意を以て鋭く研ぎ澄まされる。

 

「それと今ね、個人的に虫の居所が悪いのよ」

 

 声にあいかわらず抑揚は見られなかったが、それ故に、月見の背筋が冷えるほどに怒りの感情が際立っていた。

 そうしてパチュリーは一息、

 

「――だから今、巻き藁がほしいのよねえ」

「……おっと、そいつはまたご大層な宣戦布告だな」

 

 魔理沙は、グイッと強く唇端を引き上げた。指で帽子の鍔を持ち上げ、大胆不敵にパチュリーの魔力を迎え撃つ。

 

「どっちが巻き藁になるか、試してみるか?」

「口答えする巻き藁はいらないわ。――黙って墜ちてくれればそれでいい」

「――上等!」

 

 旋風。打ちつける風に月見が一瞬のまばたきをした時には、二人は既に空高く、本の海原を眼下に広げて対峙している。彼女らの間では、無数の弾幕が鎌首をもたげていた。

 そして残された月見もまた天井へ首をもたげながら、ふう、と短い吐息を一つ落とす。

 

「……若い子は元気だねえ」

 

 最近は歳も取ったからか、どうにも不必要な争いは極力避けようと、無意識のうちに考えるようになった。レミリアにグングニルを突きつけられた時もやり返そうとは思わなかったし、昔の血気盛んだった頃の自分が懐かしい。

 上から、控えめなパチュリーの声が降ってくる。

 

「月見、悪いけどまたうるさくなるわ。もう少しの間だけ我慢してもらえるかしら」

「ああ、くれぐれも気をつけてな」

「おーい、私に掛ける言葉はなしか?」

 

 くっついてきた魔理沙の言葉を、月見は有意義に無視して、

 

「じゃあ、私は小悪魔を捜しに行ってるよ。魔理沙に墜とされてしまったようだから」

「おーい」

「ああ……ごめんなさい、迷惑を掛けるわね」

「おぉーい」

「構いやしないよ。その代わり、負けないように頑張ってくれ」

「月見ー」

「ええ、それはもちろん」

「……うーむ、こいつは贔屓(ひいき)のスメルが匂うぜ……」

 

 魔理沙がなにか言っていたような気がしたが、気のせいだろう。月見はそれっきり頭上から視線を外し、小悪魔を捜すために本棚の森へと分け入っていく。

 すぐに数多の流星が、薄暗い図書館の空を彩り始めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 小悪魔を見つけるのに、さほど時間は掛からなかった。ただ、本棚を曲がったらすぐのところに倒れていたものだから、危うく踏んづけるところだった。

 小悪魔は、衣服をすっかりボロボロにして、仰向けで無造作に寝転がっていた。気を失ってはいたが目立った外傷もなく、衣服についても、ボロボロとはいえ目のやり場に困るほどではない。

 月見は意識確認のため、浅く彼女の体を揺すった。

 

「おーい、小悪魔ー」

「う、う~ん……やめてください魔理沙さん、私なんか食べても美味しくないですよおおぉ……」

 

 変な夢を見ているのか、小悪魔が苦しそうに呻き声を上げた。

 なんだか、このまま放っておいても問題なさそうだ。

 

「あっあっ、待って服はっ、やあああ下着まで取らないでえええええ」

「……」

 

 やっぱりダメだな、と気を取り直し、月見は小悪魔の頬をペチペチ叩く。

 

「おーい、起きろー」

「ふあああっダメですっ、食べる時はせめてお尻から優しく」

 

 月見は小悪魔の額に躊躇いのない手刀を落とした。

 ビクン、と小悪魔の体が大きく震えて、その勢いのまま跳ね起きる。

 

「痛い!? ダメですよ魔理沙さんもっと優しく――あれ? 月見さん?」

 

 額を押さえ涙目で首を傾げた小悪魔に、月見は空咳を一つ置いてから、

 

「おはよう、小悪魔」

「あ、はい、おはようございます……? あれ、私、確か魔理沙さんに食べられそうになって……」

「まだ寝てるのか?」

 

 月見が手刀を構えてスタンバイすると、小悪魔は顔を真っ青にして、全身を使って強くかぶりを振った。

 

「だ、だだだっ大丈夫ですっ、もう起きましたっ! ええ、ええ!」

「本当か?」

「はいっ」

 

 髪が振り乱れるくらいに何度もガクガクと頷く。よろしい、と月見が手刀を下ろすと、彼女は胸を撫で下ろしながら目を伏せて、独りごちた。 

 

「そ、そうですよね、夢ですよね。魔理沙さんは人間ですもん、それがあんな風になるわけないじゃないですか……」

「一応訊くけど、どんなけったいな夢を?」

「えっと……私、もう少しで魔理沙さんに勝てそうになったんですけど、そしたら魔理沙さんが『私はあと三回変身を残してる』って言っていきなりスーパー魔理沙さんに……」

「小悪魔……頭打ったか?」

「そ、そんな可哀想な目で見ないでくださいよー! 怖かったんですよ!? 二回目の変身をしてハイパー魔理沙さんになった時には、既に人の姿をしていなかったんですっ!」

「ああ……うん」

 

 やはりろくな夢を見ていなかったようだ。

 小悪魔は顔を青くし、唇をわななかせながら続けた。

 

「三回目まで変身したギガンティック魔理沙さんは、もう語るに恐ろしい姿でした……。彼女は欲望のままに幻想郷を炎の渦に巻き込んで、ブラックホールみたいに途方もない口で私を食べようと」

「さて、早いところ戻ろうか」

「でも私も負けません。食べられてしまったパチュリー様のためにも、受け継いだ七曜の魔法で勇ましくってちょっ、待ってください! 気にならないんですか、この壮絶を極める戦いの結末が!?」

 

 月見は笑顔で手刀を構えた。

 小悪魔は引きつった笑顔で立ち上がった。

 

「そ、そうですよね、こんなところでいつまでお話するのもなんですし!」

「わかればよろしい」

「……うー。私、頑張ったのに」

「それは夢の中での話だろう?」

「ひ、ひどいっ! 現実でも頑張りましたもん、確かに今回は負けちゃいましたけど――」

 

 と、そこでなにかを思い出したのか、小悪魔は顔色を変えて周囲を見回した。

 

「そ、そういえば魔理沙さんは!? 私がやられて、月見さんがここにいるってことは、誰があのコソドロを!」

「ああ、パチュリーだよ。なんでも、新しいスペルカードの試し打ちだとか」

 

 そろそろ終わるんじゃないか? そう言って、月見が図書館の天井を指差した――直後。

 

「!」

 

 視線の先、宙の一角で小規模な爆発が起こる。黒煙が上がって半瞬、その中から黒い尾を引いて落ちてきたのは――霧雨魔理沙。

 パチュリーの弾幕が直撃したらしい。気を失ったのか、頭から真っ逆さまだ。

 隣で、小悪魔が快哉を叫んだ。

 

「わあっ! パチュリー様、さすがです!」

「確かにお見事……だけど」

 

 月見は眉をひそめた。ただの人間があの高度から、しかも頭から落下するのは、少しばかり危険すぎる。世の中には落下の衝撃を和らげる緩衝魔法というものも存在するが、気を失っていてはそれを唱えることもできない。

 だが、その危惧はほどなくして杞憂に終わった。意識を取り戻した魔理沙が空中で体勢を整え直し、滞空したのだ。

 

「っ、まだまだあ!」

 

 爆発の衝撃で手からこぼれ落ちたほうきだけが、重力に引かれ落ちてゆく。魔理沙はそれを顧みなかった。もはやほうきに跨がることもせず、単身で再び宙へと翻す。

 

「いつつ、ちょっと油断したぜ。やるじゃないか、パチュリー」

「あのまま墜ちてくれてたら、もっと嬉しかったのだけど、ね……」

「大丈夫か、息が上がってるぜ?」

「あなたこそ、全身、(すす)けてるわよっ……」

 

 煤けた魔理沙と、息を切らしたパチュリー。闘いは拮抗しているようで、両者ともにかなりの消耗が見て取れた。

 魔理沙が復帰したことで、小悪魔が表情を硬くする。祈るように両手を合わせて、頑にパチュリーの姿を見つめていた。

 ……恐らくは、次で決着が着くだろう。魔理沙とパチュリーもそれを感じていた。新たなスペルカードを抜き、魔力を練度を高めていく。

 そして――落ちた魔理沙のほうきが地を打った、その音が号砲。

 

「――日符!」

「――恋符!」

 

 宣言は同時。パチュリーは赤の魔力を、魔理沙は白の魔力を、互いの眼前に収束させていく。

 先に術を完成させたのは、パチュリーの方であった。

 

「『ロイヤルフレア』……!」

 

 宣言とともに、パチュリーの頭上に赤い球体が作り上げられる。ちょうどパチュリーの頭と同じくらいの小さなものだが、『日符』という名の通り、まるで太陽を凝縮したかのように強い炎をまとった球体だった。迸る熱波が月見の肌まで届く。

 魔理沙の術はまだ完成していない。故に、あとはただあの赤い球体の力を開放するだけで、パチュリーの勝利が決まる。

 

「パチュリー様!」

 

 小悪魔の叫び。応じるように、パチュリーが己が右腕を鋭く振るった。

 決まるか、と――月見が予感した、その刹那。

 

「――ゲホッ!? ゲホ、ッ!」

 

 なんの前触れもなく、いきなり、パチュリーの体が“く”の字に折れ曲がる。咳き込み呻く彼女の頭上で、今まさに爆ぜようとしていた球体が、瞬く間に熱を失った。

 悲鳴を上げたのは小悪魔。

 

「パチュリー様!?」

 

 気負いすぎて咽せた、などという可愛い話ではない。パチュリーの咳は一向に収まらず、それどころか、もはや飛行術の維持すら危うい状態にまで悪化していた。

 一体なにが起きたのか、月見にはわからない。もしかしたらパチュリーはなんらかの持病を患っていて、このタイミングで運悪く発作を起こしてしまったのかもしれない。

 けれども、それを傍らの小悪魔に問うような隙はなかった。

 

「――スキありぃ!!」

 

 響いた声に、さすがの月見も顔色を変えた。魔理沙。この隙を好機と見て、己の魔法を完成させている。

 

「パチュリーさまあっ!」

 

 小悪魔が飛び出すが、遅い。

 

「――『マスタースパーク』!!」

 

 放たれた白の彗星が、大図書館の天を切り裂く。

 パチュリーの体を呑み込み、一直線に。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 曰く、パチュリーは百年以上を生きる魔女でありながら、体があまり強くないらしい。生まれつき喘息を患っていて、ふとした拍子に発作を起こしてしまうこともままあるのだと。

 それでも彼女は、魔理沙の『マスタースパーク』を耐え切った。直撃を受けてさすがに高度を落としたものの、撃墜まではされない。

 しかし、落ちた高度を立て直す余裕まではなかった。

 

「ぅ、くっ……! ゲホッ、ケホッ!」

 

 依然として治まらない発作が、パチュリーの体から自由を奪っている。今彼女が飛行術を維持できているのは、恐らく、魔女としての長年のキャリアが無意識にそうさせているだけ。本人はただ発作の苦しさに呻くばかりで、自分が飛んでいるのか落ちているのかなど、なに一つとして把握できていないだろう。

 故に、先の一撃で素直に墜とされていた方が、パチュリーにとっては幸いだったかもしれない。

 なまじっか無意識に耐えたばかりに、魔理沙がそれを戦闘続行の意思表示だと勘違いし――

 

「こいつで終わりにしてやるぜ!」

 

 追撃を仕掛ける。

 新たに迫る弾幕を、今のパチュリーが躱せるはずもない。

 ――直撃。

 

「パチュリーさまあああああ!」

 

 小悪魔は既に飛び出していたし、それを追う月見にも迷いはなかった。魔理沙がどこまでやるつもりなのかは知れないが、ともかくこれは仲裁しなければならない。

 パチュリーはもう、頭から地へ向けて落下を開始していた。ただ一つ、中途半端に持続された飛行術だけが、彼女の体を落下から守ろうと抵抗を続けている。

 だがそれも気休め程度のものでしかない。故に月見は、

 

「小悪魔、――先に行ってるぞ」

「え? わあっ!?」

 

 加速する。つむじ風を起こして小悪魔の体を一瞬で追い越し、本棚が連ねる長城を空へ抜け、まっすぐにパチュリーのもとへ。羽のように落ちてくる彼女の体を、抱き留めた。

 その瞬間、血の気の失せたパチュリーの細腕が、藁に縋るように月見の襟を掴んだ。驚きはない。きっと、相手が男だとか、そんなことを気にする余裕もないくらいに苦しいのだ。

 それよりも問題は、魔理沙の方。

 

「おっ、なんだ、お前もやるのか? 私は二対一でも構わないぜ!」

 

 パチュリーが発作を起こしているのにも気づかず、月見が割って入った理由を深く顧みもせず、よほど血気盛んなのか、一方的に闘いを続けようとする彼女は、既に自身の周囲に新たな弾幕を展開させていた。

 

「おいちょっと待て、魔理――」

「行くぜ!」

 

 月見の制止の声も聞かず、撃ってくる。

 ああもう、と月見は心中で舌打ちする。迫り来る弾幕に対し反射的に体が動こうとしたが、腕の中でパチュリーが咳き込んでいるのを思い出して足を止めた。

 あまり激しく動けば、それだけ彼女の負担になる。故に月見は銀尾の先に狐火を灯し、その場で弾幕を迎撃する。

 

「――狐火!」

 

 尻尾を振るって狐火を放つと、炎は魔理沙の弾幕をすべて呑み込んで消滅した。残り火の向こう側で、「む、厄介な炎だぜ……」と魔理沙が声を潜めた。

 

「ゲホッ……つく、み?」

 

 腕の中から、苦しげな声で名を呼ばれる。発作が落ち着いてきたのか、パチュリーが湿った瞳でこちらを見上げていた。

 

「あな、た……ゲホッ、ゲホッ!」

「喋るなって。……見てられなかったから、手を出すぞ」

 

 咳は次第に治まってきたようだが、月見の手には、依然として彼女の震えが伝わってくる。なるべく早く、楽な体勢で休ませてやった方がいい。

 しかし、そこに立ち塞がるのはやはり彼女。

 

「――なら、火力で勝負だ!」

 

 狐火が完全に(くう)に消えると、魔理沙が大胆不敵にスペルカードを抜き放ったところだった。眼前に集うのは白の魔力――マスタースパーク。

 月見は顔をしかめた。あれを狐火で相殺するのは、少しばかり厳しい。

 

「魔理沙、人の話を聞け!」

「勝負が終わったらゆっくり聞いてやるぜ!」

「だからな、」

「行くぜ! ――恋符!」

「おい!」

 

 魔理沙がスペルカードの矛先を月見に向けた。収束された魔力がその輝きを煌々と増し、今まさに放たれんと肥大化する。

 このやろ、と口を衝いて出そうになった悪態を呑み込み、月見はパチュリーの体を抱き寄せた。もはや是非もなかった。ともかく、パチュリーには少しの間だけ我慢してもらうしかない。

 

「ああもう、せめて咲夜がいれば……」

 

 彼女ならば、あのやんちゃ娘もきっと鮮やかにあしらってみせるのだろうか。彼女がこの場にいないことを心底歯痒く思いながら、月見はパチュリーの体を一度抱き上げて、

 

「――はい。お任せください、月見様」

「……は?」

 

 退避――しようとした、その刹那。

 すぐ隣から、ちょっとだけ嬉しそうな咲夜の声。

 驚き見ても、その姿はない。

 

「そこまでよ、魔理沙」

 

 既に魔理沙の懐に入り込み、喉元にナイフを突きつけている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――つくづくよく出来た従者だと、舌を巻く。名前を呼ぶどころか、名前を口にしただけで来てくれるとは、思ってもみなかった。もしかしてずっと物陰に隠れて機を見計らっていたのではと疑ってしまうほどの手際のよさ。時間を操る咲夜だけが為せる、その常人離れした芸当。

 表情を凍らせた魔理沙に対し、咲夜は毅然と口を切る。

 

「あいかわらずあなたは、無粋な行動がお好きなのね」

「……いきなり人の首にナイフを押しつけるお前には言われたくないぜ」

 

 口端を歪めながらの魔理沙の毒を、飄々と、

 

「だって、こうでもしないとあなたは止まってくれないでしょう」

 

 受け流し、肩を竦めた。

 

「そもそも、闘えなくなった相手に問答無用で攻撃を加えるあなたが言えたセリフでもないわね」

「……なに?」

 

 眉を寄せた魔理沙が、月見の腕の中に抱かれたパチュリーを見遣る。そこでようやく気がついたのだろう。ハッと息を呑んで、決まり悪そうに帽子の鍔で顔を隠した。

 

「わ、悪い……熱くなりすぎて、完全に気づいてなかった」

「……まったく」

 

 吐息一つ、咲夜は魔理沙の首筋からナイフを引くと、次の瞬間には月見の目の前に立っていた。いきなり目の前に出てこられるのは初めてだったので、月見は思わず声を上げそうになる。なかなか心臓に悪い使い方だった。

 それを知ってか知らでか、咲夜は咳き込むパチュリーを覗き込み、瞳の中に憂色を宿して言った。

 

「……早く薬を飲ませてあげた方がいいですね。小悪魔が予備を携帯しているはずですけど」

「パチュリー様、パチュリー様! 大丈夫ですか!?」

 

 折よく、小悪魔が追いついてきた。顔を青くしてパチュリーに駆け寄った彼女に、咲夜が素早く指示を飛ばす。

 

「小悪魔、薬の用意を」

「は、はいっ。お水は――」

「持ってきてるわ」

 

 言った頃には、咲夜は既になにもない空間から水の入ったコップを取り出していた。

 彼女の手際のよさを心底ありがたく思いながら、月見はパチュリーの背を叩く。

 

「パチュリー、薬だ。飲めそうか?」

「ケホッ……え、ええ」

 

 小さく応じたパチュリーが、月見の胸元に押しつけていた顔を持ち上げた。もともと色素の薄かった肌がわずかな熱すらも失って、驚くくらいに真っ白になってしまっている。

 

「パチュリー様」

「ありがとう……」

 

 小悪魔から薬を受け取り、次いで咲夜からもらった水で嚥下する。そうしてようやく、パチュリーは少しだけ肩の力を抜けたようだった。息をするのも苦しげだった呼吸が、薄紙を剥ぐように治まっていく。

 月見は、顎をしゃくって近くの読書用の椅子を示した。

 

「あとは、楽な体勢を。……魔理沙もいいな?」

「あ、ああ……」

 

 いかに反骨な魔理沙とはいえ、ここまで来てかぶりを振ることはなかった。気後れした声で頷き、そそくさとスペルカードをしまう。

 椅子へ向けて高度を下ろしながら、月見は後ろをついてくる咲夜に向けて言った。

 

「ありがとう、咲夜。助かったよ」

「いえ……そんな。当然のことをしただけですわ」

 

 言ってすぐに前を向き直ったから表情までは見なかったが、彼女の声はとても嬉しそうで。

 本当によくできた従者だと、月見はもう一度胸の中で繰り返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ごめんなさい、迷惑を掛けたわね」

 

 発作を起こして苦しむたびに、この薬の驚異的な効能を実感する。たった一粒の錠剤を嚥下して数分、あれだけひどかった発作が、初めからなかったかのようにすっきり治まっていた。

 月の頭脳――八意永琳による特製品。この幻想郷に腰を据えた今となっては、パチュリーにとってなくてはならない大切な薬だ。

 パチュリーは、八意永琳のことはどちらかといえば苦手なのだけれど、この薬を提供してくれている点は素直に感謝している。これのお陰で、発作を起こした際に小悪魔たちに掛けてしまう迷惑が随分と少なくなったのだから。

 とはいえ、ひとたび発作が起きてしまえば、少なからずも心配を掛けてしまうのはやはり変わらない。

 発作が完全に治まって体が落ち着いた時、パチュリーは、図書館に置かれた読書用の小椅子に腰掛けていた。顔を上げれば、月見、小悪魔、咲夜、魔理沙……四人の気遣いの視線が目に入る。発作に苦しむ自分がどんな風だったのかはわからないが、小悪魔が今にも泣きそうな顔をしているから、相当ひどい有様だったのだろう。

 パチュリーは一度深呼吸をし、スムーズに息ができることを確かめてから、みんなに向けてそっと頬を緩めた。

 

「もう大丈夫よ」

 

 言葉に、まっさきに表情を動かしたのは小悪魔だった。口を一文字に引き結んで、瞳をすっかり涙で潤めて。

 それでも最後に、ようやく笑う。

 

「よかったです、パチュリー様っ……」

「……え? え、ええと」

 

 パチュリーは思わずたじろいだ。発作を起こすたびに小悪魔が心配してくれるのはいつものことだけれど、まさか泣き出すなんて思ってもいなかったから。

 咄嗟にどうしていいのかわからなくなって、小悪魔から一歩離れて立っていた咲夜たちに目で助けを求めると、返ってくる反応は二分した。咲夜と月見が微笑ましげに目を細め、魔理沙が申し訳なさそうに顔を伏せる。

 魔理沙の反応を見て、そういえば、とパチュリーは思い出した。そもそもパチュリーは魔理沙と弾幕ごっこをしていて、発作の隙を突かれて撃墜されてしまったのだ。

 それが嚆矢(こうし)となって、次々とパチュリーの記憶が呼び起こされていく。ああ、そうだ。撃墜された時、落ちていく体を抱き留めてくれたのは月見で。その時パチュリーは、発作に苦しむあまり、彼の体に思いっきり――

 

「ッ……!」

 

 熱湯をぶっかけられたように、全身が白熱したのを感じた。ひょっとしたら、本当に湯気の一つでも出ているかもしれない。それほどにまで恥ずかしかった。

 だって、いくら発作で苦しかったとはいえ、男の人の体に、あんな風に抱きつくなんて。発作に苦しんでいても、本能はちゃっかり記憶していたらしい。女性のものとは明らかに違う、硬くしたたかで、でも温かい、そんな彼の胸元の感触を、掌がじんわりと思い出している。

 でも。

 でも。

 パチュリーの体が沸騰している理由はそこじゃない。だってパチュリーは昨日からお風呂に入っていなくて、少し前に魔法の実験で大分汗をかいたばかりで、だから月見の前にはあまり出たくないなと思っていたのであって、つまり、その、なんというか。

 

 ――なんというか、恥ずかしすぎてこのまま焼け死んでしまいそうなのだけれど。

 

「パ、パチュリー様? 顔が真っ赤ですけど、まだ具合がよくないんですか?」

「ッ……そ、そうね、まだちょっとだけ。でも大丈夫よ、もう苦しくはないから」

 

 それを咄嗟に発作のせいにしてはぐらかしながら、落ち着け落ち着け、とパチュリーは心頭滅却しようとした。けれど頭の中の雑念はちっとも消えなくて、体のほとぼりだって一向に冷めてはくれなかった。

 流行やお洒落には興味がない。恋愛にだって目もくれない。持ちうる興味関心は、すべて魔術と本にのみ注ぐ。そんなパチュリーだが、しかし、それでも女の子なのだ。あんまり綺麗じゃないかもしれない体で男の人に抱きついたり抱きかかえられたりしたとなっては、もう穴があったら入りたいくらい。絞首台があったら、そのまま台を蹴っ飛ばしたいくらいだ。

 すん、と体の匂いを嗅いでみる。魔理沙のマスタースパークを喰らったせいか、若干焦げ臭い。けれど月見は狐だ。きっと嗅覚だって並の妖怪よりずっといい。焦げ臭い以外にも、別の匂いを敏感に感じ取っていたかもしれない。

 不潔だとか、思われなかっただろうか。

 

「そ、その、月見」

「ん? どうした?」

「え、ええっと、ね? その……わ、悪かったわね。色々と、迷惑だったでしょう?」

 

 変な匂いとかしなかった? なんて、面と向かって訊けるはずもない。やっとの思いでそれだけ問えば、彼はすぐに目を細くしながらかぶりを振った。

 

「いいや、気にしないでいいよ。私は気にしていないし……それよりも大事に至らなくてよかった」

「う……あ、ありがとう」

 

 とりあえず礼を言いながら、パチュリーは月見の言葉の真偽をはかる。果たしてパチュリーに義理立てする社交辞令なのか、それとも紛れもない本心なのか。

 ハッハッハ、と気さくに笑う彼の姿は、とても嘘を言っている風には見えないけれど……さすがは狐、本心を隠すのが巧い。

 もし今の言葉が嘘だったらと――不潔な女だ、とか、思われてるかもしれないと――考えたら、パチュリーは心が折れそうになった。

 これもすべては、憎っくき魔導書泥棒・霧雨魔理沙のせいだ。いや、お風呂に入っていなかったのはあくまでパチュリーの責任なのだが、ともかくあんなタイミングでやって来てくれた魔理沙にはいくら恨み言を言っても足りない気がした。

 ロイヤルフレア、ぶっ放していいだろうか。

 そんな気持ちを込めながら魔理沙を睨みつけると、彼女は「うっ……」と小さく呻き声を上げて一歩後ろにたじろいだ。帽子の鍔で顔を隠し、伏し目がちに、

 

「そ、そんなに睨むなよ……悪かったって、反省してる」

「……」

 

 虚を突かれる思いで、パチュリーは魔理沙の顔を見返した。だって、あの天邪鬼な魔理沙がこうも素直に頭を下げるなんて、思ってもみなかったから。

 帽子で隠れた表情までは見えなかったが、唇はすっかり怯えるようにすぼまって、ぽそぽそと小さい言い訳を紡いでいる。

 

「あ、あれだ……今回は珍しく手応えのある弾幕ごっこだったから、つい熱くなって、だな」

「…………」

 

 つい先ほどまで魔理沙に噛みつかんほど怒り心頭だったパチュリーだが、こうして実際に頭を下げられると、あれだけ心の中に溜まっていた恨み言が一瞬で奥に引っ込んでしまった。謝ってもらえて気が晴れたのではなく、ただ純粋に、謝ってもらえたことが予想外すぎて。

 

「え、ええと……」

 

 魔理沙が、顔色を窺う上目遣いで何度もパチュリーを見た。パチュリーは緩く息を吐きながら、どうしようか、と思案を募らせた。

 だって、そんな風に怯えながら頭を下げられたら。

 とてもじゃないけれど、恨み言なんて、言えないじゃないか。

 

「……別に、気にしちゃいないわよ」

 

 数呼吸分の沈黙ののち、自然とパチュリーの口から出たのは、そんな言葉。

 まったく気にしていないというわけではなかったけれど、怒る気持ちは既に失せていた。

 

「発作が起こるのはさして珍しいことでもないもの。私の運がなかっただけ」

「けど……」

 

 ここで引き下がらないということは、魔理沙の誠意は本物なのだろう。珍しいこともあるものだと心底意外に思いながら、パチュリーは言葉を続けた。

 

「そっちはもういいのよ。……それよりも、あなたがここから持ち去っていった魔導書たちは、一体いつになったら返ってくるの?」

「う……」

 

 せっかく魔理沙が弱気になっているので、盗まれた魔導書たちについて言及してみる。いつもだったら「そのうち返すぜ」とにべもなく躱されるのだが、今だったらいけるかもしれない。

 呻いた魔理沙に口答えする間を与えず、畳み掛けるように、

 

「ちょっとでも罪悪感を感じてくれてるなら、言葉じゃなくて行動で示してくれないかしら」

「ぐぬぅっ……」

 

 咲夜と小悪魔も、冷たい半目を魔理沙に向けることで援護してくれた。……月見だけは、口元にかすかな笑みの影を忍ばせながら、事態を静観していたが。

 そうして場の雰囲気に呑まれた魔理沙はすっかり怯み、やがて観念したと言うように、浅く両腕を持ち上げて言った。

 

「わ、わかったよ。今度来た時に、全部返すぜ」

「……」

 

 まさか本当に上手く行くとは思っていなかったので、パチュリーはついつい呆けてしまった。咲夜と小悪魔も、信じられないものを見たよう目をくるりと丸くしている。

 もしかしたら夢かもしれないので、パチュリーは自分のほっぺたを引っ張りながら、

 

「……ほんほに?」

「ほんとだよ。……なんだ、返さなくてもいいのか?」

 

 パチュリーは慌てて頬から指を離した。

 

「いいえ、極力そうして頂戴。ちゃんと返してくれるんだったら、私だって最初から素直に貸してあげるんだから」

「ふん……」

 

 仏頂面でそっぽを向いたのは、果たして単純に不機嫌になったからなのか、それとも。しかし確かに言えるのは、“あの”霧雨魔理沙が本当に本を返してくれるらしいということで。

 思わず、案外素直なところもあるじゃない、なんて思ったけれど、本来ならばちゃんと返してもらえるのが当たり前なんだと気づいて首を横に振った。素行の悪いひねくれ者がたまに見せる素直さいうのは、得てして過剰に美化されがちなのだ。

 感情に流されないよう己を律しながら、パチュリーは努めて冷ややかに、

 

「……ともかく、よろしく頼むわ。あなたが盗んだばっかりに参考文献がなくなって詰まっちゃった研究ってのも、結構あるんだから」

「わ、わかったって。わかったからこの話はもう終わりにしようぜ、落ち着かないし……」

「そう?」

 

 パチュリーとしては仕返しの意味も込めてもう少しなじってやりたかったが、しかしそれでもし魔理沙が機嫌を損ねて、せっかくの約束を反故にされてしまっては水の泡だろう。

 そうね、と頷き、

 

「じゃあ、近いうちに返して頂戴。そしてこれからは、ちゃんと私に許可を取ってから借りること」

「わかった、わかったから」

 

 パチュリーに咲夜、小悪魔、ついでに月見に囲まれて、四面楚歌みたいな状況だからだろうか。魔理沙はこれ以上は居たたまれない様子で帽子を被り直し、口早に言った。

 

「と、とりあえず今日はもう帰ることにするぜ。明日は荷物が多くなりそうだからな、さっさと帰る」

「……そう」

 

 呟きながら、なんだかものすごい事態になったものだ、とパチュリーは感慨深く思った。『魔理沙から本を返してもらう』。夢にまで見た願いが現実になりつつある。

 これはひとえに、あの時に割り込んできてくれた月見のお陰だろうか。もし彼がいなかったらパチュリーはあのまま墜とされていて、また魔導書を盗まれる羽目になっていたはずだ。先のフランの一件といい、どうにもこの紅魔館は、彼に助けられすぎているような気がする。

 しかして当の月見は、いそいそ帰り支度をする魔理沙に相伴するように、「それじゃあ」と口を切った。

 

「私もそろそろ、お暇するとしようか。もう雨はやんだみたいだしね」

「あ……」

 

 その時咲夜が、なんだか捨てられる子犬みたいな顔をしたように見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。パチュリーが目を凝らした時には既にもとの冷静な表情に戻っていたが、それでもどこか口惜しさが去り切らない瞳で、咲夜は月見を見上げていた。

 

「もう少しゆっくりしていっても、よろしいんですよ?」

「今日中に人里に立ち寄りたいんだよ。じきに日暮れだろう?」

「ですけど……」

 

 咲夜はしばしなにか物言いたげに逡巡し、けれど結局なにも言葉にすることなく、悄然と、肩とため息を落とした。

 

「? どうかしたか?」

「いえ、別に……」

 

 口ではそう言うが、明らかに残念そうだ。このまま月見に帰られると、なにか不都合でもあるのだろうか。

 

「いや、なにもないようには見えないんだけど」

「……なんでもないですよーだ」

 

 そっぽを向く咲夜は、傍から見ればまるで拗ねた子どものようで。

 珍しい、とパチュリーは思う。咲夜がああやって地の(・・)感情的な一面を見せるのは、紅魔館の面々の他、ほんの一握りの親しい相手だけに限られる。それを今日初めてここにやって来たばかりの客に見せるなんて、空前絶後、と評してもいいくらいではないだろうか。

 フランがそうであるように、咲夜もまた、月見に対して心を開いているのか。

 その残念がる様子が傍から見てもとてもわかりやすかったので、月見は持て余すように曖昧な微笑みを浮かべていたけれど、

 

「……ん?」

 

 不意に、図書館の天井を見上げて小さな声を漏らした。周囲の視線が自然に彼へと注がれる。銀色の狐耳が、なにかに反応してピクピクと震えているのが見えた。

 

「どうしたの?」

 

 周囲を代表してパチュリーが問うと、彼は「いや……」と口元に指を当て、

 

「なんだか、上の方が騒がしいような……」

「上?」

 

 この図書館の真上は、当然ながら紅魔館だ。そこが騒がしいということは、

 

「なにかあったの?」

「さあ」

 

 月見は、さすがにそこまでは、との表情で肩を竦めた。パチュリーは頭上を見上げる。耳を澄ましてみるが、不審な物音はなに一つとして聞こえなかった。意識を集中させればさせるだけ、改めてこの図書館の広大さを思い知るだけだ。

 

「なにを根拠に?」

「いや……なんとなく騒がしくないか? 大人数が暴れ回ってるような……」

「はあ」

 

 そんな物音などまったく聞こえない。試しに周囲に目配せをしてみても、みんなから疑問符を返された。そのうち魔理沙が、「ただの空耳じゃないか?」と月見に向けて腕を組んだりする。

 けれどパチュリーは、月見の言葉を聞き流したりはせずに思案した。狐は聴力がとても鋭いというし、そうでなくとも紅魔館で――もとい、紅魔館の周辺で――大人数が暴れ回るという状況に、心当たりがあったから。

 まぶたを下ろし、意識を集中。簡単な探索魔法を展開して、地上の様子を大まかに探る。

 そしてすぐに、なるほどと吐息した。

 

「咲夜」

「はい?」

「彼の言ってることは本当だわ。どうやら、また妖精たちが暴れ回ってるみたいね」

 

 ああ、と納得の声を漏らす周囲に交じって、月見だけが「妖精?」と小首を傾げた。

 答えるのは傍らの咲夜。

 

「館の近く……『霧の湖』に棲んでる妖精たちが、たまに襲撃を掛けてくるんですわ」

「ほう」

 

 それを聞いた月見の眉が、わかりやすく興味の色で持ち上がった。

 

「それはまた、どうして」

「好奇心旺盛なのよ」

 

 こちらには、パチュリーが答える。

 

「この紅魔館が、まあ、随分と奇抜なデザインだからね。精神的に幼稚な妖精たちから見れば、ダンジョンかなにかにでも見えるんでしょう。だから時たまに侵入しては、証拠品を持ち帰ろうとするのよ」

 

 一種のゲーム感覚なのだろう。人があまり近づかない場所に忍び込み、証拠の品を持ち帰って、仲間内で自慢する。そんな人間の子どもたちがするようなやんちゃな遊びを、いたずら好きな妖精たちもまた好むのだ。

 無論、忍び込まれる側としては迷惑以外の何者でもないので、大抵は門番の美鈴がきちっと追い払っているのだが。

 今回は少しばかり、相手が多いらしい。探索魔法越しに、物量で圧倒される美鈴の悲鳴が聞こえてくるようだった。

 

「咲夜、助けに行ってあげてくれないかしら。どうやら苦戦してるみたいだし」

「はあ、そうなんですか。……まったく。妖精相手に苦戦するなんて、あとでおしおきね」

 

 小声でしっかりと毒づきつつ、咲夜は月見に向けて楚々と頭を下げた。

 

「申し訳ありません、月見様。先ほどからどうにも騒がしくて……」

「そうかい? 活気があるのはいいことだと思うよ」

「そうだぜ。例えば私みたいにな」

 

 魔理沙の言葉は、全員が総意で無視し、

 

「では、早く行ってあげようか」

「そうですね……」

 

 咲夜は頷きかけ、しかしすぐにハッとした様子で、月見に釘を刺す視線を向けた。

 

「月見様。今回は私だけで大丈夫ですので、どうか後ろでごゆるりとしていてくださいね?」

 

 大丈夫、と、後ろで、のところにしっかりアクセントをつけて。

 要するに、もうお節介は焼くな、ということらしかった。咲夜としても、これ以上月見に助けてもらっては申し訳ないのだろう。その露草色の瞳は、いつにない真剣味で染まっていた。

 月見は一瞬目を丸くしたのち、ふっと苦笑。

 

「わかったよ。頑張って」

「はい、お任せください」

「なあなあ咲夜、私も首突っ込んじゃダメか? なんだか面白そうだ」

 

 微笑んだ咲夜の背中を、魔理沙がちょんちょんと叩く。

 咲夜は冷ややかに一蹴した。

 

「あなたはさっさと帰りなさいよ」

「まあいいじゃないか、見るだけ見るだけ」

 

 どうだか、とパチュリーは思う。本当に見るだけならいいのだが、魔理沙なら、そのうち悪乗りして妖精たちに加勢しかねないような気がする。想像するだけで頭が痛くなるようだ。

 なのでパチュリーは、ため息とともに月見に視線を向けて、

 

「……万が一の時は、悪いけどお願いね」

 

 多くを語らずとも、それだけで彼には通じたようだった。彼は魔理沙を一瞥したあと、同じようにため息を落として、

 

「……そうだね。わかったよ」

「魔理沙、余計なことしたらナイフ刺すわよ」

「大丈夫大丈夫、私は空気が読める女だからな」

 

 結局、素直な一面を見せてくれたのもほんの一瞬だけだったらしい。いつもの調子を取り戻してカラカラ笑うひねくれ者を見て、果たして本当に魔導書を返してもらえるのかと、パチュリーはとても不安になった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――まったく、魔理沙のやつ。普通の魔法使いなんて自称してる割に常識がないんだから困り者だわ」

「あはは……」

 

 そして咲夜が月見と魔理沙を連れて上へ戻れば、入れ替わるようにして、大図書館にはいつもの静寂が帰ってくる。やれやれという思いで背もたれに体を預けると、視界の端で小悪魔が苦笑したのが見えた。

 

「でもよかったじゃないですか。本を返してもらう約束ができましたし」

「まあ、それはそうだけど」

 

 確かに喜ばしくはあるが、そもそも貸した本が返ってくるという当たり前のことを喜んでいる時点でおかしいのだから、なんとも複雑だ。

 パチュリーが素直に喜べずしかめ面をする一方で、小悪魔は頬に微笑をたたえて言った。

 

「私は、素直に安心してます。月見さんのお陰で、パチュリー様が怪我することもなかったですし」

「……」

 

 パチュリーは月見の姿を脳裏に思い出す。妖怪のくせに異様に心優しい――皮肉っぽくいえば、お節介焼きな男。レミリアを始めとして気難しい者が多い紅魔館の住人たちから、快く受け入れられるような。

 

「……ねえ、こぁ」

「はい?」

「こぁは、彼のこと、どう思う?」

 

 それは、何気ない問い掛けのつもりだった。小悪魔も、フランや咲夜と同じく彼のことを信頼するようになっているのかと、気になって。それ以上の深い意図は断じてない。

 小悪魔は「月見さんですか?」と口元に指を当て、答えた。

 

「いい方だと思いますよ? フラン様に読み聞かせしてあげてましたし、パチュリー様を助けてくれましたし、それに……」

 

 それから、恥ずかしそうに身を竦めて、

 

「魔理沙さんに墜とされた私を、わざわざ捜してくれましたし……」

 

 ――ああ、そういえばそんなこともあったっけ。

 確かに月見は、パチュリーが魔理沙と弾幕ごっこをしている傍らで、わざわざ小悪魔を捜しに行ってくれていた。これが普通の幻想郷の住人だったら、身内でもない限りは「そのうち戻ってくるから大丈夫でしょ」なんて言って放っておくところだ。

 やっぱり世話焼きだわ、とパチュリーは内心強く思う。

 

「信頼できる人かしら」

「え? どうでしょう……。でも、フラン様があんなに懐いてましたしね。それに咲夜さんも案外。ですから――」

 

 小悪魔は一息溜めて、微笑んだ。

 

「信頼できると思いますよ」

「……そうね、私も同感だわ」

 

 応じるパチュリーの口元には、知らず知らずのうちに笑みの影が差した。この幻想郷の者たちは、みんなどこかしらひねくれているというか、油断ならない性格の者たちが多いから、月見のように素直でおおらかな心を見ると、なんとなく安心できるのだと思った。

 

「というか、パチュリー様こそどうなんですか?」

「……? なにが?」

「いやいや、月見さんのことですよー」

「?」

 

 さっき、同感だって言ったじゃない――そう返そうとしたけれど、その機先を制して、小悪魔は口端をぐいっと持ち上げて笑った。

 それこそ、小悪魔みたいに。

 

「ほら、こう――背中に手を回されちゃったり、したわけじゃないですか? だから色々思うところもあるんじゃないかなーと」

「ッ……!」

 

 パチュリーは咄嗟に顔を伏せた。――せっかく、せっかく忘れられていたというのに。

 一度思い出したらもうダメだった。また指先から頭にかけて、じわじわ、じわじわと体が熱くなっていく。

 そりゃあ、まあ、一応あんなことをされたのは初めてだったし、ほんのちょっとくらいは、女として意識してしまう部分もあるけど。

 だって仕方ないではないか。異性に抱きかかえられて動揺したりするのは、一種の生理現象みたいなものだ。仕方がない、仕方がないのである。

 小悪魔をたしなめるように、パチュリーは強く咳払いをした。

 

「別になにも。迷惑掛けて申し訳ないってだけよ」

「本当ですかあー?」

「本当よ」

 

 にやにやと笑う小悪魔が言わんとしていることはわかる。けれどそんな、不慮の事故で一回抱きかかえられた程度で惚れるだとか、あってたまるものか。……外の世界のマンガじゃあるまいし。

 

「だから、その嫌な笑い方はやめなさい。……こら、やめなさいったら」

「はーい」

 

 小悪魔はそれ以上食い下がらなかったものの、口元はあいかわらずにやついたままだった。そう言えばこの子は悪魔なんだっけ、とパチュリーは今更ながら思い知る。

 

「まあでも、また来てほしいですね。魔理沙さんはともかく、月見さんみたいにみんなを笑顔にしてくれるお客さんは、大歓迎です」

「……そうね」

 

 月見がまた紅魔館に来てくれたら、きっとフランは大喜びするだろうし、咲夜も目に見えて歓迎するだろう。レミリアはどうだか知らないが、フランの恩人を邪険に扱うような真似はしないはずだ。

 それにパチュリーだって、きっと少なからず歓迎する。彼のお陰で魔理沙から魔導書を取り返すことができた、その感謝を表す意味でもあるだろうし。

 それになにより――彼が周囲の者たちを笑顔にする様は、なんだか見ていてとても気持ちがいいのだ。

 だからできることなら、またこの紅魔館にやって来てフランたちを笑顔にしてやってほしいと、そう思う。

 

「もしまた彼が来た時は、すぐに知らせて頂戴な」

 

 そう言い切ってから、パチュリーは失言だったと口を噤んだ。しかし小悪魔には聞こえてしまったようで、彼女は目を丸くしてこちらを見返している。

 正直に答えるかどうかは悩んだけれど、ここで誤魔化しても変な誤解をされそうなので、パチュリーは包み隠さずに白状した。

 

「……今度はちゃんと、お風呂に入ってから出るようにしたいから」

「あー……」

 

 小悪魔の、なんともいえないものを見るような生温かい視線が心に刺さる。

 ――仕方なかったったら、仕方なかったんだもん。

 やっぱりこれからは、どんなに研究に打ち込んでもお風呂だけは欠かさずに入るようにしようと。

 パチュリーはもう一度、固く己の心にそう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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