蒼き魔女の迷宮Ⅰ
電気も点けず月明かりが微かに照らす自室で暁古城は自分のベッドに腰掛け、少しばかり日に焼けた装丁のアルバムをぼんやりと眺めていた。
いつもの紳士さに満ちた微笑みはない。どこか無感動で空虚とも取れる表情で古城はアルバムのページ捲る。その度に無機質さが増しているのは気のせいではないだろう。
数分と経たずして古城は目を通し終えたアルバムを傍に置く。そして懊悩するように項垂れた。
「やっぱり駄目か……」
弱々しく古城が呟く。その手にはアルバムから抜き取った一枚の写真が握られている。古城がまだ“暁古城”であった頃の写真だ。
バスケ部のユニフォームを着てチームメイトたちと肩を並べて撮った集合写真。まだ小学六年生というだけあってみんな無邪気に笑っている。古城もまた心底楽しそうに、隣で笑う日焼けした小学生と肩を組んで笑っていた。
その写真を何度も何度も見直しては溜め息を洩らす。がしがしと頭を掻き、諦観に満ちた顔色で天井を振り仰いだ。
「やっぱり思い出せない。いや、そもそも思い出す記憶が俺にはないのか……」
自嘲するように笑いベッドに倒れ込む。手から解放された写真がヒラヒラと宙空を舞って床に落ちた。
天井を見上げたまま古城は頭を悩ます。直近には波朧院フェスタが控えている。絃神島において最も盛り上がる一大行事。ハロウィンをモデルとするお祭りだ。
十月最後の週末に開催され、その間は島外からの観光客や訪問客でごった返すイベント。大半の人間が楽しみにして止まない絃神島が一際沸き立つ祭典が、今は古城に苦悩を強いていた。
もはや言うまでもなくこの波朧院フェスタでも、第四真祖である暁古城は事件に巻き込まれる。それも国際犯罪者がわんさか溢れ出る規模の大事件だ。これまでを比較するわけではないが、凶悪な犯罪者たちが解き放たれる此度の事件は下手を打てば絃神島に甚大な被害を齎しかねない。
無論、島の危機とあっては古城も黙ってはいない。今回も出来る限り上手く立ち回って可能な限り被害を小規模に抑える腹積りだ。だがそれに当たって古城には避けられない障害があった。
──仙都木優麻。
今回引き起こされる一連の事件に大きく関わる重要人物であり、そして古城が“まがいもの”になる前の暁古城を知っている数少ない人物だ。
今回の事件をどう収束させるにせよ優麻との接触は避けられない。既に彼女から波朧院フェスタの際にこちらへ赴く旨の連絡が来ている。ご丁寧に凪沙にも話が通っている始末だ。
顔を合わせないのは不可能だろう。何せ優麻自身が古城との再会を望んでいる。そこに様々な思惑があるとしても、彼女は暁古城に会うことを心から願っているのだ。
だが……、
「リスクが高すぎる……」
実の妹である凪沙にバレていないのですら奇跡に等しいというのに、全く記憶にない少女を相手に演技が通用するかどうか。所詮は小学生時代の記憶だからとは安心できない。仙都木優麻にとって暁古城という人物はそれこそ誰よりも重要な存在であるのだ。拭い切れない違和感があれば秘密の露呈は免れない。
古城の中身が暁古城ではない“まがいもの”であることを知る人間はいない。それは今後も隠し通さねばならない事実である。全てが終わるその日までは──
ベッドに寝転がる古城の視界の端に仄かな点滅を繰り返すスマホが入る。どうやらメールが来ているらしい。
気怠げな仕草でスマホに手を伸ばし、送信者の名前を見て目を瞠った。ついでメールの文面に目を通して壊れ物めいた笑みを浮かべる。
「ああ、そう来たか。これは責任重大だな」
読み終えたかつてないほどに長いメールを削除してスマホをベッドに放り、古城は立ち上がる。既に事態は古城の覚悟が決まらずとも動いていた。いつまでも悩み込んでいる時間はない。
窓から差し込む月光が古城の横顔を照らす。歪で儚げな笑みを浮かべる孤狼の表情を──
──狂宴の夜は近い。
▼
十月も終わりが近くなり暦で言えば秋の今日この頃。しかし絃神島は太平洋のど真ん中に浮かぶ常夏の島。今日も今日とて太陽は燦々と輝き人工島の大地をジリジリと焦がす。
そんな照りつく朝日に辟易としながら古城はパーカーのフードで顔を守る。別段朝日を浴びたからと言って灰になるわけではないが、不快であることに変わりない。紫外線を嫌う女性のようなものだ。
そんな古城の様子を隣から見上げて、第四真祖の監視役である雪菜は気遣わしげに言う。
「やっぱりモノレールに乗ったほうが良かったですか?」
「いや、それはない。この時期のモノレールは殺人的に混むからな。鮨詰になるくらいならまだ早起きして歩いた方がマシだよ」
頭上を通り過ぎていくモノレールを仰ぎ、古城は心底嫌そうに顔を歪める。波朧院フェスタが間近に迫るとモノレールは恐ろしいほどに混む。それを経験と知識で予め知っていた古城は辛いのも我慢して早起きし、学園までの長い道のりを歩いているのだ。
「波朧院フェスタですか。確かモチーフはハロウィンですよね」
「そうだな。魔族特区にはお誂え向きのイベントだよ」
昨今はコスプレやお菓子のやり取りが前面的に出てしまい忘れられがちであるが、ハロウィンの起源は魔除けである。多種多様な魔族が住む魔族特区絃神島には打ってつけの催しだ。
そして同時に、ハロウィンの時期は異界やら魔物やらとの邂逅率が著しく高くもある。絃神島において不安定な魔力源筆頭の古城にとってはあまり嬉しくない事実であるが。
しかしそれは第四真祖である古城の事情。妹である暁凪沙は旧来の友人との再会も重なって波朧院フェスタを心底楽しみにしている。彩海学園の生徒たちも数少ない大行事とあって色めき立っており、古城も先日にはクラスメイトたちからイベントへの参加を求められたものだ。
勧誘に関しては丁重に断った。古城には祭り当日にやらなければならないことが沢山あるからだ。友人の案内しかり、相も変わらず事件に巻き込まれることしかり。
毎度のこととはいえ事件に巻き込まれすぎだろうと思わなくもない。古城の肩書き的に仕方ないとはいえ、頭が痛い思いである。
己の境遇に割と本気で苦悩する古城の傍ら、雪菜は初めての大行事に少しばかり落ち着きがない様子であった。
「わたしは初めてなので知らないのですが、具体的にはどんなイベントがあるんですか?」
「まあ世間一般のハロウィンと同じでコスプレだろ。オープンカフェとか色んな露店に、ミスコンとかビーチバレーとか夜は花火大会や仮装パレードがあったり……」
「す、凄いですね。わたしの知るハロウィンとはまるで違います……」
指折りしながら去年の波朧院フェスタの内容を挙げる古城に、雪菜はやや気後れする。古城も気持ちは分からなくなかった。
先にも挙げた通り一般的なハロウィンはコスプレしてお菓子をやり取りする程度のイベントとなっている。しかし波朧院フェスタに関して言えばその限りではない。
元より人工島である絃神島には伝統的な民族行事はない。だからこそ人々は娯楽や経済活動の刺激に非日常的なイベントを求める。そこで人工島管理公社が制定した祭典が波朧院フェスタだ。
日頃の鬱憤を晴らさんが如く詰め込められたイベントの数は知れず。中にはハロウィン全く関係ないだろというものもあり、祭りの期間中に全てのイベントを網羅するのは至難を極める。
「まあ姫柊には凪沙がいるから、いざとなればあいつと回れば心配ないと思うぞ」
その凪沙が張り切って雪菜や他の面々の分のコスプレ衣装を用意していることは黙っておく古城。生真面目な雪菜のことだから前もって知っていれば逃げかねないからだ。着せ替え人形役はもう懲り懲りである。
「先輩は何かイベントに参加したりしますか?」
「今年は先約があってな。幼馴染に案内を頼まれてるんだ」
「あの、初めて聞いたんですが。幼馴染というのは島外の方で?」
若干不機嫌になりながら雪菜が訊く。
「ああ、絃神島に越してくる前の友人だよ。何でも親戚の伝手でフェスタの招待チケットを貰ったんだってさ。で、明日こっちに来るから久しぶりに俺と凪沙に会いたいって言うからな」
「そうなんですか……」
幼馴染の話も案内の予定も全くの初耳だった雪菜。別段その幼馴染の案内云々に文句を付けるつもりなどないが、初めての祭りを古城と一緒に回れるのではないかという淡い期待は儚くも砕け散った。
妙に気落ちする雪菜に対して、古城は追い打ちの如く伝える。
「そうそう、今日だけど。うちで叶瀬の退院パーティーするから是非に来てくれ」
「あ、はい。凪沙ちゃんと夏音ちゃんにも誘われたのでお邪魔させていただきます」
「助かる。凪沙がまた張り切ってばかすか料理を作ったら、俺一人じゃ食べきれないからな」
つい先日の一件で模造とはいえ天使にされかけた夏音は最近まで検査入院として学校を休んでいた。凪沙は複雑な事情など一切知らないが友人の退院とあっては黙っていない。当人よりも喜び勇んで退院パーティーを企画立案し、今日に漕ぎ着けたのだ。
気合い一杯の凪沙が調子に乗って料理を作り過ぎればそれは全て古城に回ってくる。食べ盛りの男子高校生とはいえ数人前の料理を平らげるのは無理がある。
「まあもしかしたら他にも参加者は増えるかもしれないけどな」
賑やかなクラスメイトたちの顔を思い描き苦笑を浮かべる。賑やか好きな彼女たちのことだ、目敏く気づいて参加してくる可能性も無きにしも非ずだ。
それはそれで構わない。原作でも似たような流れであったから原作乖離でもないからだ。ただ可能ならば浅葱たちには幼馴染のことは隠しておきたい。
理由は単純で根掘り葉掘り問われたらボロが出かねないから。ここに来て瑣末なことで足元を掬われたくはない。
小さく溜め息を吐いて、古城は祭りを前に浮かれ気分の学園を目指して歩を進めた。