“まがいもの”の第四真祖   作:矢野優斗

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聖者の右腕Ⅸ

 暁古城の前世の話をしよう。と言っても、別段特殊な生い立ちがあるわけではない。どこにでもいる平々凡々な一般人だ。

 生まれた家は特別金持ちでも貧乏でもない一般家庭。これといった病気も怪我もない、良くも悪くも山も谷もない人生を送り、最期は不幸にも交通事故でその生涯を閉じた。

 勿論、住んでいた世界も普通。吸血鬼やら獣人やらと魔族が溢れ、魔術などという奇跡が当然のように存在することもない。至って平和な世界であった。

 故に、暁古城は今の世界と元の世界のギャップに苦悩した。お伽話や物語の世界が現実になり、あまつさえ自分自身がそのファンタジーの主人公になってしまったのだ。その困惑は筆舌に尽くし難かっただろう。

 それでも古城は原作知識を活用して上手く立ち回ろうとした。第四真祖の力と向き合い、慕ってくれる妹でさえ騙しながら、逃げようとしなかった。

 だが、そんな古城にもどうしても踏み越えたくない一線があった。それこそが、吸血行為だ。

 古城には普通の世界に生きた平凡な人間の一生がある。そのため、自分が人間でなく吸血鬼であると突きつけられる吸血行為に忌避にも等しい苦手意識を抱いていた。

 朝起きるのが辛くなり、日差しを苦手とするようになって、加えて天変地異の化身ともいえる眷獣をその身に宿しているが、それらはまだ体質が変わったとか力を与えられたとかで納得できる。まだ自分が人間であるという自覚を保つことができた。

 しかし吸血行為は人間であることを否定してしまう。それが古城には恐ろしかった。自分は人ならざる化け物であると認めてしまうことが、途方もなく恐ろしかった。

 だが、いつまでも目を背け続けるわけにはいかない。いつかは必ず向き合わなければならなかったのだ。

 それが第四真祖、暁古城の逃れられない運命なのだから。

 

 

 ▼

 

 

「俺は吸血鬼になってから一度も吸血行為をしたことがないんだ。だから、眷獣たちは俺を主と認めてくれていない」

 

「血を吸ったことがない……」

 

 ぽつりと吐露された事実に雪菜は驚愕した。吸血鬼が、それも第四真祖が吸血未経験だなんて思いもしなかったのだ。

 驚く雪菜に古城はいつもより弱々しく笑いかける。

 

「驚くことでもないだろ。俺が第四真祖になったのは三ヶ月前なんだからさ」

 

「それは……そうですけど……でも」

 

 戸惑いを隠せない雪菜。どんな言葉を返せばいいのかイマイチ分からず困惑しているようだった。

 

「まあでも、血を吸ったことがない理由はそれだけじゃないんだけどさ……」

 

「それは……?」

 

「単純な話、他人の血を吸うってのが怖くてさ。それに吸血鬼の吸血衝動が引き起こされるのは性的興奮を得た時。要するに欲情しなきゃならないんだ」

 

「よく、じょう……」

 

 古城の言葉に雪菜が頬を赤く染める。純粋培養の雪菜には少し刺激が強い話だったらしい。初心な反応を見せる雪菜を古城は微苦笑で見て、ついで項垂れるように俯いた。

 

「無茶を言うなって話だよ。俺はちょっと前まで人間だったんだ。それがいきなり吸血鬼って、洒落にならないよな」

 

「先輩……」

 

 自棄くそ気味にどすっ、とその場に座り込み古城は空を仰いだ。

 

「端的に言えば、俺がまだ腹を括れてないだけなんだ……。あとは眷獣を手懐けられるだけの霊媒としての素養を持つ人が身近にいなかったからな」

 

 正確に言えば、いないわけではない。例として挙げるなら叶瀬や恐れ多いが那月も、十二分に霊媒としての素養がある。だが彼女たちに手を出すつもりなど古城には微塵もなかった。

 

「霊媒としての素養、ですか」

 

 噛み締めるように口にして、雪菜はしばし考え込む。そして熟考の末、意を決したように言った。

 

「霊媒としての素養を持つ人間ならここにいます。わたしの血を吸えば、眷獣を制御することも不可能ではないはずです」

 

「確かにそうかもしれない。でも、俺は……」

 

「先輩が吸血鬼であることを認めるのが怖いなら、わたしが支えます。覚悟ができないなら、わたしの覚悟を受け取ってください。だから──」

 

 座り込む古城の前にしゃがみ込んで、雪菜は強い意志の宿る瞳で彼を見つめた。

 

「──わたしの血を、吸ってください」

 

 静かな決意の込められた声音で雪菜が言った。

 古城は曇りのない瞳に見据えられ、やがて観念するように肩をすくめる。

 

「年下の女の子が覚悟を決めたのに、先輩がいつまでも尻込みしてるわけにはいかないよなぁ……」

 

 はあ、と息を吐いて古城は雪菜の頤に手を添える。

 

「いいんだな?」

 

 最後の確認とばかりに古城が真剣な表情で問う。

 雪菜は迷うことなく頷き、

 

「わたしの覚悟を、血を受け取ってください……」

 

 そっと古城に身を預けた。

 凭れかかる雪菜の肢体を古城は優しく抱きしめる。両腕にすっぽりと収まってしまう程に華奢な体だ。こんな小さな背中に世界最強の吸血鬼の監視任務なんて大役を背負い込んでいただなんて、雪菜はどれ程の不安を抱えていたのか。思わず雪菜を抱きしめる手に力がこもってしまう。

 

「は、ぁ……せん、ぱい……」

 

 古城の腕に抱きしめられた圧力で雪菜が小さく呻く。

 悪い、と古城は呟きながらその白磁のようなうなじに顔を埋める。鼻腔を通り抜ける雪菜の匂いに理性が外れる感覚があった。

 犬歯が尖り、牙が疼く。今すぐにでも血を吸いたいという衝動に襲われ、我を忘れそうになる。だが、雪菜の肌に牙を埋めようとした直前に、古城を猛烈な恐怖と罪悪感が襲った。

 この少女に牙を突き立ててしまって、本当にいいのか。“まがいもの”の分際で雪菜をその毒牙にかけていいのか。そう訴えかける自分がいた。

 あと一歩のところで心の内から湧き上がる罪悪感が古城を躊躇わせた。

 古城が罪悪感に吸血衝動を失いかけたその時、

 

「だい、じょうぶです……暁先輩」

 

 雪菜が耳元で囁く。まるで耳朶を擽るような、少し強張った声音の囁きに今度こそ古城の鋼の理性が外れた。

 瞳を真紅に輝かせて、獣の如く古城が雪菜の首筋に牙を埋めた。

 

「あ……っ、せん……ぱい」

 

 痛みを堪えるように身を強張らせ、雪菜は古城の腰に腕を回す。力強く抱きしめ返して、やがて腰が砕けたように脱力する。古城はそんな雪菜の首筋を貪るように血を吸い続けた。

 二人のシルエットが、ゆっくりと地面に横たわる。紅い月が照らす公園の中で、二人の影は一つになった。

 

 

 ▼

 

 

 絃神島は四基の人工島(ギガフロート)をその地下深くで繋げ、連結させている人工の島だ。四基の人工島(ギガフロート)を連結する役目を担っているのはキーストーンゲートの最下層。円錐形の外壁に守られた水深二百二十メートルの部屋にある、馬鹿太いワイヤーケーブルを制御する巨大な巻き上げ機(ウインチ)だ。

 そして計四本の太いワイヤーケーブルの終端、丁度部屋の中央に位置する台座のような土台の上に、一本の柱があった。

 絃神島の全てを支える柱であり要石。それは半透明の結晶のようなもので、内部には傷だらけの人間の腕が閉じ込められていた。

 それはかつて、西欧教会の“神”に仕えた聖人の遺体。自らの信仰のために苦難を受け、その命を失った殉教者の遺体だ。

 強い神聖を帯びたその遺体は決して腐ることも朽ちることもない。そして様々な奇跡を引き起こすとも言われている。

 ルードルフ・オイスタッハはその腕を目にして、胸に詰まらせた思いを吐き出すように声を震わせた。

 

「おお……おおお!ようやく、ようやくこの時が来ました!ロタリンギアの聖堂より簒奪されし不朽体を、今こそ我ら信徒の手に取り戻すことができる!さあ、アスタルテ!あの忌まわしき楔を引き抜き、退廃の島に裁きを下しなさい!」

 

 高らかに謳い上げるようにオイスタッハが人工生命体(ホムンクルス)の少女に命じる。しかしアスタルテは、

 

命令認識(リシーブド)。前提条件に誤りがあります。故に命令の再選択を要求します」

 

「なに?」

 

 眉を顰めてオイスタッハは頭上を見上げる。そして気づいた。

 要石が支えるアンカーブロックの上に、二つの影があった。

 一つは少年。左肩が破れた制服を着る、どこか自棄くそ気味な表情をした少年だ。

 もう一つは少女。銀の槍を携えて、少年に寄り添うように立つ少女だ。

 少年──暁古城は部屋の中央に鎮座する要石を一瞥し、己を見上げる殲教師を見下ろした。

 

「悪いが、今の命令は取り消し(キャンセル)だ。殲教師」

 

 獰猛に牙を剥いて古城が言った。

 

 

 ▼

 

 

「供犠建材ですか……」

 

 要石の正体に思い至って雪菜が嫌悪感を滲ませながら呟く。

 供犠建材とは読んで字の通り、生きた人間を生贄に捧げるという邪法だ。現在では国際条約で禁止されているが、この絃神島が設計されたのは四十年以上も前である。まだ法的に供犠建材の使用が罰せられることのなかった時代だ。故に絃神島設計者の絃神千羅はその邪法に手を染めた。

 島一つ支える程の強度を持つ要石ともなると、並大抵の物質では役目を務められない。そのため絃神千羅が目をつけたのは神の奇跡をも引き起こすと言われる聖人の遺体、聖遺物を供犠建材の対象として選んだ。

 結果として絃神島は無事完成した。しかし奪われた遺体は今もこうして島を支える柱として地下に眠り続けている。殲教師はその聖遺物を取り返しにきたのだ。ただ己の信仰の対象である聖人の遺体を元ある場所に取り戻すために。

 それはきっと正しいことだろう。しかしその結果、絃神島に住む多くの人々が死ぬはめになる。それを古城は許容できない。この島を、この島に住む人々を、護らなければならないのだ。

 だから古城は要石について言及しようとしない。したところで平行線になるのは分かりきっているからだ。

 雪菜が少なからずショックを受けているのを横目に、古城はアンカーブロックの上から下へと飛び降りる。

 

「さっきぶりだな、殲教師。よくもまあ人の体をぶった切ってくれたわけだが、なにかコメントはあるか?」

 

「まさかあの状態から復活するとは思いませんでしたよ、第四真祖。真祖という生き物はつくづく、常識外れな存在なのですね」

 

 傷一つない古城の肉体を見てオイスタッハが呆れとも取れる声を洩らす。古城もそこに関しては同意できるので、まったくだとばかりに肩を竦める。

 

「しかし、相手が不死不滅であろうと関係ありません。我らの道を阻む者は何人たりとも許しません。行きなさい、アスタルテ!」

 

 再度の指示を待っていたアスタルテが古城の前に立ちはだかる。その顔は、どうして来てしまったのか、と書いてあるように悲しげだった。

 古城はそんな人工生命体(ホムンクルス)の少女を見上げて、

 

「あんたに譲れないものがあるように、俺にも譲れないものがあるんでな。こっちも手加減なしだ。最初からクライマックスでいくぞ!」

 

 右腕を突きつけて古城が高らかに宣言する。

 

「ここから先は、まがいもの(オレ)戦争(ケンカ)だ」

 

 それは本来の暁古城の決め台詞。しかしこの古城の決め台詞には多分に己を卑下し戒める意味合いが込められている。しかしそれを知る者はいない。

 ただ、その隣に降り立ち彼を支える少女の思いに変わりはない。

 

「いいえ、先輩。わたしたちの(、、、、、、)聖戦(ケンカ)、です──」

 

 

 ▼

 

 

 宣言通り、開幕初撃から古城は全力の一撃を放つ構えを取った。

 

「“焰光の夜伯(カレイドブラッド)”の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ──!」

 

 古城の右腕が鮮血を噴き散らす。それは血の中に眠る第四真祖の眷獣を呼び出す魔力を濃密に圧縮した呼び水。

 鮮血が雷光へと変わる。破壊の権化である眷獣の雷だ。しかしそれは研究所の時のように古城へ向かうことはなく、秩序を持って一体の獅子の姿を型作った。

 

疾く在れ(きやがれ)、五番目の眷獣“獅子の黄金(レグルス・アウルム)”──!」

 

 現れたのは雷光の獅子。雄々しく雷鳴の咆哮を上げる獣だ。

 凝縮された雷の獣が古城の傍らに歩み寄る。

 

「女の子の血でこうも素直になられると、俺の頑張りはなんだったんだってことになるんだけどなぁ……」

 

 まるでじゃれつくように寄ってくる自らの眷獣に古城は微苦笑しつつその毛並みを撫でる。

 全身を雷で構成された獣に触れればどうなるかは言わずと知れている。しかし“獅子の黄金(レグルス・アウルム)”は古城の眷獣だ。しかも以前と違い完全に制御できている。ならば、触れようとその雷が主である古城を傷つけることはあり得ない。

 

「これが第四真祖の真の力ですか。なるほど、確かに強力です。しかし、どれ程強かろうとロドダクテュロスの前には無力!アスタルテ!貴方は第四真祖の相手をなさい!」

 

命令受諾(アクセプト)

 

 アスタルテが自らの眷獣を身に纏って古城に襲いかかる。だが、

 

「あなたの相手はわたしです!」

 

 軽やかに身を翻して雪菜が行く手を阻んだ。

 前もって、古城と雪菜はここに辿り着くまでにいくらか打ち合わせをしていた。そう複雑なことではない。どちらが誰を相手するのか決めておいたのだ。

 聖戦装備“要塞の衣(アルカサバ)”のブーストを受けたオイスタッハの力は強力だ。たとえ戦斧を失っていようと彼に近接戦を挑むのはリスクが伴う。よってこちらは古城が眷獣で相手する。

 必然的に魔力無効化の力を持つ眷獣を操るアスタルテの相手は雪菜となる。こちらは武器の能力だけを見れば五分五分だが、武器が眷獣であるアスタルテと違い雪菜は槍だ。その分の不利を加味すると雪菜が単独でアスタルテを撃破するのは不可能に近い。

 だから、雪菜がするのはあくまで時間稼ぎ。相性的に古城が不利になるアスタルテを抑えれば、あとは主人であるオイスタッハを古城が速攻で倒す。そういう作戦だった。

 そして古城は、相手が人の身であろうと容赦するつもりなどない。オイスタッハは強力な装甲鎧を身に纏っているのだ。古城の眷獣の攻撃であろうと、一発程度なら耐えられるはずである。

 

「歯を食いしばれよ、殲教師。今度は加減するつもりがないんでな!」

 

「くっ、させるものか!?」

 

 自らを守護する人工生命体(ホムンクルス)を足止めされて、オイスタッハは焦燥に駆られる。如何に堅牢な装甲鎧であっても第四真祖の眷獣の一撃を受けて立っていられる代物ではない。まともに受ければその時点で敗北が決定する。

 オイスタッハは僅かな可能性に賭けて、古城へ突撃を敢行する。逃げ回ったところで勝ち目はない。戦斧もないが強化された肉体から放たれる打撃は岩をも砕く威力を秘めている。殺すまではいかなくとも気絶させるくらいは十二分にできるはずだ。

 猛烈な勢いで迫ってくる殲教師に、しかし古城は焦ることなく冷静に対処する。

 

「いけ、“獅子の黄金(レグルス・アウルム)”!」

 

 古城の指示に従って雷光の獅子が疾駆する。

 獅子は雷の如く目にも留まらぬ速さで殲教師に接近し、その前足を容赦なく振り下ろした。

 

「ごはぁ!?」

 

 雷霆の振り下ろしを受けた殲教師はゴムボールもかくやの勢いで吹き飛び、部屋の壁にその身を強かに打ちつけた。

 どすっ、と壁から床に落ちる。殲教師が纏う鎧は衝撃と莫大な熱量によって駆動限界に達し、煙を噴いている。その様子から彼にこれ以上戦う術はないと断じる古城だが、

 

「まだです……我々は、負けられないのですよ……!」

 

 ボロボロの巨体を起こし、殲教師が立ち上がった。瞳は不退転の執念に燃えており、その意志は未だ折れていない。それ程までにオイスタッハはあの腕を取り返すことに全てを懸けているのだ。

 古城は雪菜とアスタルテの戦闘を一瞥する。少女たちの戦いは、やはりアスタルテが押しているように見えた。眷獣と槍ではリーチも力も違いすぎるのだ。

 しかし、たとえ押されていようと雪菜は自らの役目を果たすために奮戦している。巧みな槍術と体術で攻撃を捌き、アスタルテがオイスタッハへ注意を逸らそうものなら猛攻をしかけてこれを妨害。しっかりとアスタルテを釘付けにしていた。

 その様子にオイスタッハは苦々しげに顔を歪める。あれではアスタルテの援護を望めない。アスタルテの眷獣なしに古城の眷獣を防ぐのは不可能だ。つまり、オイスタッハは実質詰み同然なのだ。

 だがしかし、殲教師に敗北の二文字は許されない。たとえ勝ち目がなくとも、諦めるわけにはいかないのだ。

 

「おおおおおお──!」

 

 雄叫びを上げてオイスタッハが駆け出す。小細工もなにもない、純粋な身体能力での肉弾戦をしかけてきたのだ。

 対する古城も拳を握りしめてこれに応戦する。さすがに今のオイスタッハに眷獣を嗾けたら死にかねないと判断したからだ。

 

「第四真祖──!」

 

「殲教師──!」

 

 男たちの吠え声が轟き、二つの拳が交差した。

 軍配が上がったのは古城だった。

 オイスタッハの死力を尽くした拳は虚しくも空を殴るだけに終わり、古城のクロスカウンター気味のきつい一撃が殲教師の顔を確かに捉えた。

 殲教師が床に倒れ伏す。彼は意識が途絶えるその瞬間まで要石に手を伸ばし続けて、やがて気を失った。

 オイスタッハが完全に沈黙したのを見届けてから古城は未だ戦闘を続けている二人に叫ぶ。

 

「二人とも、もうやめろ。戦いは終わった!」

 

 古城の言葉に、二人の動きがピタリと止まった。

 雪菜は槍を構えた姿勢を維持しつつもその表情は安堵に緩んでいる。アスタルテの足止めは想像以上に難しい話だったらしく、体中に細かな傷を負っていた。

 対して眷獣に身を守られていたアスタルテは無傷。しかし……、

 

「…………っ」

 

「アスタルテ!?」

 

「アスタルテさん!?」

 

 次の瞬間、アスタルテを取り込んでた眷獣が跡形もなく消え去り、彼女の体が落下する。

 

「くっ……」

 

 少女の体が硬い床に叩きつけられることは、ギリギリで雪菜が受け止めたことで防がれた。

 ぐったりとする人工生命体(ホムンクルス)の少女を抱き起こして、雪菜はその軽さに顔を強張らせる。古城の物理的に軽くなったのとは違う、もはや生きる力が殆ど残されておらず軽く感じたのだ。

 このままでは遠からず、この少女は死ぬ。それが分かって雪菜は悲痛に顔を歪めた。道具として扱われていた少女に、自分の境遇を重ねてしまったのだろう。どうにかして救いたいと思って、

 

「先輩……」

 

 すぐ側に佇んでいる古城に一縷の望みを懸けて視線を送る。

 古城は少し苦い表情になり、苦悩するように頭を抱えた。

 このまま眷獣を寄生させていればアスタルテは確実に死ぬ。だが、それを救う方法を古城は知っている。知っているが、それを行動に移すのはかなり抵抗があった。しかし目の前の少女を見捨てるわけにもいかない。

 ぬおぉ……、と唸りながらも古城は腹を括り、失礼を承知の上でアスタルテを救う手段を打ち明ける。

 

「その子に寄生している眷獣を俺の支配下に置く。そうすれば眷獣はその子の寿命じゃなく、俺の寿命を食うようになる」

 

「なら、すぐにそれをやりましょう」

 

「いや、うん……。そうしたいのは山々なんだけどさ。それをするにはその子の血を吸わなきゃならないわけで……」

 

 尻すぼみになっていく古城に、雪菜もなにを言いたいのか察して複雑な表情になる。

 吸血鬼が吸血衝動を起こすのに必要なものは性欲、性的興奮である。しかし弱り切ったアスタルテに性的興奮を覚えて、挙句その首筋に牙を突き立てるのはいくらなんでも無理があった。

 微妙な空気がキーストーンゲート最下層を漂う。しかしその空気も雪菜の深々とした溜め息によって霧散した。

 

「わたしでよければ、代わりになりますよ」

 

「……いいのか」

 

「当て馬みたいでいやですけど、人命救助です」

 

 仕方ないと割り切る雪菜。その表情は若干不機嫌ではあるが、アスタルテを救いたいという思いに偽りはない。

 雪菜が了承した以上、あとは古城次第だ。

 渋い顔をしていた古城は、しかし迷いを払うように頭を振り、そっと雪菜の体を抱きしめた。

 雪菜の汗と漂う甘い血臭を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。そして強張る雪菜の耳元に唇を寄せて、

 

「キーストーンゲートのケーキバイキング」

 

「は、え?」

 

「お詫びに奢るよ」

 

 物で釣るようであまり好きではないが、せめてものお詫びに古城は誠意を示した。女の子に甘い物が嫌いな子はいないという、妹からの有り難いお言葉を参考にしたものだ。

 雪菜はきょとんとしていたが、やがてふっと表情を緩ませた。

 

「楽しみにしてます」

 

「ああ、待っていてくれ」

 

 言って古城は雪菜から身を離し、床に横たわるアスタルテの首筋に顔を寄せる。

 酷くほっそりとしたアスタルテの首筋に、遠慮がちに古城は牙を突き立てた。そして彼女の体内を流れる体液を吸い上げ、眷獣を自分の支配下に置く。

 

「これでよし」

 

 静かな寝息を立てるアスタルテを見下ろして、古城と雪菜は揃って微笑みを浮かべるのだった。

 

 

 ▼

 

 

 夜の帳が下りる絃神島南地区。その一画に建つ九階建てマンションのベランダに少女が佇んでいた。

 長い髪を腰まで届かせた十代前半の少女。その瞳は常の彼女の色とは違う、紅い光を湛えている。身に纏う雰囲気も威厳めいたものが漂っていて、今の少女の姿を友人が見たのなら驚くことだろう。

 暁凪沙はじっと闇の中を見据えている。その瞳に映るのは月明かりに照らされる逆ピラミッド型の建造物、キーストーンゲート。島内で最も高い建物であり、絃神島の心臓部とも言えよう。

 その建物の地下深くから、慣れ親しんだ魔力の高まりを感じて、暁凪沙は微笑した。

 

「“獅子の黄金(レグルス・アウルム)”……ようやくお目覚めか……」

 

 懐かしむような口調で言って、彼女は瞳を固く閉ざす。

 次に彼女が瞼を開いた時、その瞳には澄み切った夏空のような色が浮かんでいた。

 

「…………」

 

 彼女は無言で自らの小さな掌を見つめる。そして慈しむように目を細めて、静かに部屋に戻った。

 自分の部屋のベッドに潜り込み、静かに寝息を立て始めた姿は普段の彼女と変わらない。無邪気であどけない寝顔で、暁凪沙は何事もなかったかのように眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 


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