久留間運転免許試験場の屋上に、二月にしては暖かな陽射しが降り注いでいる。
冬の終わりと春の訪れを同時に感じさせる空気の中には、二人の若い男女が佇んでいた。
「久しぶりだねぇ。あんた、本当に刑事になってたんだね」
「おかげさまでな。何年ぶりだろうな?」
錆が浮いた手摺りに冷たさも介せず手をかけた進ノ介が、隣に立つ未来へ明るく返した。
二人の身長差は二十五センチはあるが、未来も気にすることなく進ノ介の顔を見上げてくる。
「私が四年生で転校して以来だから、ざっと十四年じゃない?やー、懐かしいわ。それにしても……でっかく育ったねぇ!」
幼馴染みの爪先から頭のてっぺんまでを改めて眺め、心底から懐かしげに笑った未来の小さな手が、広い背中を叩く。途端、バーンと大きな衝突音が屋上全体に響いた。
「いでぇ!」
背に強烈な一撃を受けた進ノ介が、悲鳴を漏らして思わず前につんのめる。冗談ではなく身体ごと屋上の外へ弾き出されそうになり、彼は慌てて手摺りを掴んだ。
「……お前、いつからそんな馬鹿力になったんだよ」
「あ、悪い悪い。つい本気で」
手摺りにもたれて呻く進ノ介に謝る未来ではあったが、殆ど悪びれている様子はない。
まだずきずきと痛む背中を庇いつつ、彼はポニーテールの髪をそよ風になびかせている女捜査官をもう一度見やった。
進ノ介の知る小学生の頃の未来は痩せっぽちの内気な少女で、学校の休み時間には一人で飼育小屋で兎や鶏を眺めたり、本を読んだりしている姿が記憶に残っていた。
それが今や誰にでもフレンドリーで、どんな状況でも臆することなく現場に突入し、犯罪者と戦う捜査官になっているなど、誰が予想できたであろうか。当時の面影は残ってはいるが、おどおどした暗い雰囲気は欠片もない。
別人のような未来の現在に、進ノ介は思わず正直な感想を口にしていた。
「けどお前こそ、まさかFBIの捜査官になってるなんて。そっちの方が驚きだよ。昔のお前、警察とかそういうのに一番縁遠そうなタイプだったのに……今見たところだと」
「犯罪者に噛みつく警察犬みたいでしょ?たまに殺気がありすぎだって言われること、あるよ」
幼馴染みの言葉を受けた未来の笑顔に、ほろ苦さが混ざる。
僅かながら口調も落ちたのを感じた進ノ介は、慌ててフォローを入れようとした。
「い、いや……別にそんなことは」
「いいよ、本当のことなんだしね。あの後色々あって、こうなっちゃった感じなんだ」
「そう……みたいだな。お前が苛められる度に俺が割って入ってたけど、それが嘘みたいだよ」
未来が久し振りに見る久留間の街並みに視線を流すと、進ノ介も自然とそれを追いかける形となる。
家が近所だった二人は、未来が父親の仕事の都合で引っ越す十歳までずっと一緒に育ち、よく遊んだ仲だった。学校では大人しかった未来も進ノ介と一緒にいる時は口数が多くなり、街角を元気よく走り回っていたのを思い出す。彼等の眼下に広がる久留間の街並みは当時と変わっていたが、同じ思い出をそこに見つけることができるのだ。
が、もう過去は吹っ切ったと言いたげな未来は、もう一度にっこりと笑って見せた。
「はは。あの頃の私は本ばっか読んでて暗かったし、ぼんやりしてることも多い、どんくさい子だったからね。自分の意見もちゃんと言えない、モヤシだったなって思うよ」
「まあな……」
進ノ介が、噛みしめるように未来の声に短い返事を重ねる。
人の思い出とは、美しいものばかりではない。
恐らく未来にとっては忘れたいであろう辛い記憶も、二人の中には確かに刻まれていた。
小学校三年生の時だった。
誰かが教室を泥で汚すという事件が起こり、皆が自分がやったのではないと否定する中、内気な未来は自分の意見を何も言えないでいた。ために、周囲が彼女を犯人と決めつけて、その日から虐めの標的となったのだ。
子どもの集団心理とは恐ろしいもので、雑巾をぶつけたり、靴に砂を入れたり、酷く陰湿な攻撃に発展するまで一月は要しなかった。
更に厄介だったのがクラスの皆が結託し、教師には虐めの事実を徹底的に隠していたことであろう。未来も未来で親に心配をかけたくない、自分が我慢すればそのうち皆も飽きるからと、この状況に耐えていたことが事態の悪化に拍車をかけていた。
そして放課後に校庭の隅で未来を集団で取り囲んで糾弾することが、日常茶飯事にまでなっていったのだ。
「おい、おめーがやったんだろ?何とか言ってみろよ!」
惨事の発端となった事件のことを男子の一人が持ち出すが、未来は俯くだけだった。言い返せば余計に虐められることはわかっていたし、その勇気もなかったからだ。
しかし彼女をバスケットゴールの陰に追い詰めていた四人の男子には、押し黙られたままでいることもまた格好の攻撃材料となっていた。
「こいつ口がねえんじゃねーの?」
「んだよ、こっち見てんなよキメェ!おめーなんか、学校に来てんじゃねえよ!」
「そうだよ。おめーがいない方が、みんな喜ぶんだよ。ウソつきは早くしね。しんじまえ!」
子ども特有の憎たらしい顔で聞くに耐えない罵詈雑言を吐きながら、男子たちは盛り上がる。
中でもリーダー格を気取っていた男子が、最後に未来の肩を片手で小突いた。
「……あ」
突き飛ばされた格好となった未来がよろけ、持っていたトートバッグを地面に落とす。
「きったねええええ!こっちに飛ばすんじゃねーよ、こんなもん!」
シンプルだが仕立てのいいブランド物のバッグを、リーダー格の男子が踏みつけようとした時である。
「おい、何やってんだよ!」
後ろから響いた声が、その卑劣な行動を阻んだ。
息を弾ませて走ってきたらしい進ノ介が、四人の男子を両腕で押し退けながら割り込んでくる。
「やめろよ、オマエら!ミッキーは何もしてないじゃんか!それにしねとか、言っていいことと悪いことがあるだろ!」
「何だよ泊、そんなキモイ奴庇うのか?」
男子たちの前に立ち塞がる進ノ介に、男子の一人がむっとして食って掛かる。更に別の一人が、背後に未来を庇う格好となった進ノ介を指差して嘲った。
「あー、こいつとーちゃんがケーサツだからって真似してやがんの!」
「そんなんじゃない、弱い者イジメが嫌いだからだよ。一人をみんなで攻撃して、ヒキョーだと思わないのかよ!」
悪意がたっぷり込められた幼い雑言は、進ノ介の怒りを掻き立てるだけだった。真っ当な正論で反撃してくるクラスメイトに、リーダー格の男子が派手に舌打ちする。
「ちっ……あーあー、格好つけにゃついていけねーよ!」
「はいはい、すーみーまーせーん!でしたぁ!」
「とーちゃんに言いつけんなよ!後でひでーぞ!」
「そうだよ、しらねえからな!」
陣頭指揮を取る立場の男子が進ノ介と未来に背を向けると、他の三人も捨て台詞を残しつつその後を追って駆け出していく。
四人の男子は、ものの数メートル程度で早々にこちらへの興味を失ったらしい。この後の遊び場について賑やかにさえずる姿が、どんどん遠ざかっていく。一団を睨み続けていた進ノ介は、その声が完全に聞こえなくなってからようやく肩の力を抜いた。
「ミッキー、平気か?」
「……うん」
進ノ介が笑顔で振り返ると、後ろにいた未来がこっくりと頷いて見せる。泣くのを堪えているらしい顔は怯えてこわばり、地面に落ちたトートバッグを拾う余裕も無かったようだった。
「ほらこれ、ミッキーのだろ?……とりあえず、砂だけは落ちたみたいだから」
それに気づいた進ノ介がさっと紺色のバッグを拾い上げ、砂を払ってから手渡そうとした。
「……ありがとう、進ちゃん」
華奢な少女が幼馴染みに小さく礼を言う声には、安堵の色が滲み出ている。
「けど、たまにはやり返せよ。あいつら、ミッキーに殴られても仕方ないくらいのことはやってるんだから」
進ノ介が励ましてやると、未来の差し出した手の震えが止まったような気がした。
確かに、怯え切っていたあの頃の少女はもういない。ここまで変わるのに未来は相当な努力を重ねただろうし、自らを厳しく律し続けて来たのだろう。
だが、進ノ介は彼女が放つ気配に違和感を感じていた。
スーツのジャケットから覗くショルダーホルスターに収められたグロックのグリップも、落ち着いた態度の中に時折閃かせる鋭さと強さも、どこか無理があるような気がするのだ。
「そう言や、私をあだ名で呼んでくれてたのって進ちゃんだけだったよね」
「そりゃ、赤ん坊の頃から一緒だったからな。癖にもなるって」
当の本人は進ノ介の思いに気づかず会話を続け、彼もまた敢えて口に出すことはしないでおく。
「お前はクラスで目立たなかったけど、頭は良かったじゃんか。いつもいつも、テストは全科目で満点でさ。それに、運動だって極端にできないってわけじゃなかっただろ。確か、水泳は学年トップじゃなかったっけ?一年生で百メートル以上泳げたのって、お前だけだったよな」
「やだなぁ、そんなことまだ覚えてるの?」
思い出話を続ける進ノ介と未来の間に、やや強い風が吹きつけた。
ひゅう、と高い音を伴って手摺りの間を抜ける寒風が、身震いを誘ってくる。自らの上半身を抱き締めて暖を取ろうとする未来が、照れたように笑っていた。
「勉強しか取り柄がなかったし、スポーツはねぇ……目立つのが嫌で、水泳以外はかなり手ぇ抜いてたから。それにそんなの、小学校の話じゃん?それ以降はさっぱりだったっての」
「けど今は特別捜査官なんだろ?相当できなきゃ、アメリカでそんな仕事には就けないはずなんじゃ……」
「んー、その辺は色々とね。けど、今の私は変わったんだよ。この手で逮捕した犯罪者は、もう両手じゃ数えられないくらいなんだから。ま、捜査官としては本当にぺーぺーの新人なんだけど。正式な辞令が下りたのも、実はまだ半年くらい前のことでさ」
矛盾を突いてきた進ノ介に、未来が話の終わりを濁す。さりげなく話題をすり替えるのは、ここまで自分を変えてしまったことにあまり触れて欲しくない、という意思表示なのだろう。
彼女は眼差しを上げて柔らかいの日差しに目を細めると、一旦切った言葉を繋げた。
「けど、進ちゃんが助けてくれたことは感謝してる。じゃなかったら私、自殺してここにはいなかったかも知れないから」
「自殺って……!」
進ノ介が慌てたことは気に留めず、未来が小さく笑って息をつく。
「子供心に、本当に辛くてさ……結局、転校して逃げちゃったんだけどね」
冬の澄んだ空気にはっきりと浮かぶ街に遠い視線を巡らせ、ぽつりとこぼした声には自嘲の響きが混ざっていた。
子どものやったことが原因で、子どもが死ぬ。
現代社会では最早珍しくもないことであったが、進ノ介が担当した事件の中に虐めによる自殺がまだないのは、幸いと言えるだろう。そんな悲惨な事件など、出来れば一生目の当たりにしたくはなかった。
子どもは人の痛みを知らないが故に残酷で、純粋な醜さがある。
透き通った闇はあっと言う間に標的とした相手をぼろぼろにし、心を蝕んでいく。人間に潜んだ猛毒に侵された幼い被害者の精神は、今という地獄から逃げようとしても叶わず、人を信じることができず、遂には明日に希望を見つけることもできなくなってしまうのだ。
見失った未来を探してさ迷うより、虐められ続けるより、命を断った方がましだと思ってしまう子どもが後を絶たないほどに、その絶望は深い。
虐めで心に負わされた傷の痛みは、同じ目に遭った者にしかわからないだろう。
だからこそ彼らに寄り添ってやることが大事だし、加害者には自分のやったことの意味を必ずわからせねばならない。
--今の進ノ介なら、そうやって考えることができる。
しかし、自殺を考えるほど追い詰められた人物がごく身近にいたことは衝撃であった。
自殺は最後の逃避手段であると同時に、究極の自己否定でもある。
当時の進ノ介は被害者である未来を無条件に庇っていたが、果たして彼女のことをちゃんと思いやっていたと言えるのか。
自分もまた虐められたことがなく、未来が味わっていた苦しみを本当に知っているとは言えないからだ。
自らの存在を消そうとまでしていた少女の心を、無意識のうちに踏みにじってしまったことはなかっただろうか?
遠い昔の記憶に、答えが見つかる筈もない。
だから彼は、ただ頷くことしかできなかった。
「そうか……けど、お前が皆の前で泣いたのは一度きりだっただろ。それだけ芯は強かったってことじゃないのか」
「あの頃は……負けたくなかったんだよね。正直、あんたの優しさは堪えてたよ」
「え?」
声の調子を落とした未来の言葉に、進ノ介の表情が曇る。
「ま、今のはあんま気にしないでね」
場都が悪そうに、未来は幼馴染みの二の句を笑顔で封じておいた。