コツコツと、乾いた靴音がアスファルトの地面を打つ。
この辺りは大きな公園と住宅が隣接しており、夜になると静まり返ってしまうため、人通りも少なくなる場所だ。すぐ近くに繁華街はあるものの、裏道に入ってしまうとその喧騒も遠くに聞こえ、地域住民だけが利用する通りも数多くある。
時折吹きつける強いからっ風は、口笛を思わせる高い音を立てながら抜けていき、冬の闇を一層寒々しい印象にしてくれていた。
「結局今日は収穫なし、か……」
その細い夜道を歩くコート姿の霧子が、白い溜め息とともに小さな呟きを漏らす。
彼女はロイミュードが犯人とされる連続傷害事件の証拠品を一人、退勤時間までずっと調べていたのだ。しかし、目と指先を酷使しても結局新たな発見はなく、初動は空振りとなってしまっていた。
聞き込みに出ていた進ノ介と現八郎もさしたる収穫はなく、究やりんなのデータ分析はまだ時間がかかる見込みで、今回の事件の解決は手こずりそうだという頭の痛くなる予感までしてくる。
が、捜査は積み重ねが何よりも大事であることは、経験則から皆が知る事実だ。
珍しく早く帰れたのだから自宅でゆっくり休んで、また明日から気合いを入れ直そう。
そう、霧子が気持ちを切り替えた時だった。
不意に手足がずしりと重くなり、空気に絡め取られたかのように動けなくなる。
それどころか、今まで風に煽られてざわついていた常緑樹の葉も、数ブロック先から聞こえてきていた道路で車が行き交う騒音も、全てがだらしなく引き伸ばされた音で籠り続けていた。
全てのモノの時間経過が遅くなる現象、重加速である。
「きゃっ!」
しかし唐突に、霧子の時間だけは動き出した。
宙に浮いていた足を地面に落とす格好でたたらを踏んだ彼女のコートに、小さな味方であるシフトカーの一種、「ディメンションキャブ」が飛び込んできてくれたのだ。重加速が発生した際には自らの意思で駆けつけて現象から解放してくれる彼らは、ロイミュードと戦う上でかけがえのない仲間であった。
鈍重な時間の呪縛から解き放たれた霧子の頭に最初に引っ掛かったのは、特状課に回されたばかりの連続傷害事件のことだった。重加速つまり「どんより」が発生したからには、ロイミュードが近くに現れたことは間違いないのだ。
--まさか、この近くにあのロイミュードが!
慌てた霧子が辺りを見回すが、暗い道の端に立つ電柱や道路標識の陰、民家の暗がりにも、それらしい姿は見当たらない。自身が狙われたのではないことを確認した霧子は安堵したが、そうなれば次に気掛かりなのは一般市民のことだ。
ロイミュードの標的にされているであろう誰かを探そうとして踏み出しかけた彼女の耳に、か細い悲鳴が響く。しかも最悪なことに、その主が幼い子どもであることが窺える声だった。
反射的に霧子のローファーを履いた足が、叫びの方向へと走り出す。
今は拳銃を装備していなかったが、それでも襲われている者を放っておくわけにはいかない。注意していなければ聞き逃していたかも知れないかすかな悲鳴の持ち主を求め、霧子は己が聴覚と勘を頼りに全力で疾走した。
黒く豊かな髪を乱し、息を弾ませ、霧子は暗い公園へと駆け込んでいく。懸命に耳を澄ましながら遊具の間を駆け抜け、木の根を飛び越え、走りながら遊歩道の向こうを見渡した。
急がねば手遅れになりかねないと言うのに自分の足が遅いように感じられ、霧子はもどかしさに歯噛みする。
「友達など……」
彼女がそれでも警戒を解かず、弱々しい街灯が灯る広場に視線を走らせた刹那、先の悲鳴とは異質な低い声が聴覚に捉えられた。
若き女性警察官が、自然と構えた姿勢で視線を巡らせる。するとベンチが点々と置かれ、枯れた芝生が踏み荒らされて剥き出しになった土が広がる広場の隅に、二つの人影が照らし出されているのがわかった。
一つは、ナイロンのリュックを背負った男の子が倒れている姿だとすぐに判別できたが、もう一つは暗闇でもはっきりわかるほどに異常なシルエットであった。
赤褐色の分厚い肌、額に幾つも突き出た角を思わせる突起、全身に堅固な鎧を纏ったように太く、ごつい体躯。それでいて両手に構えている刀は薄くかつ長大で、刀身が自ら異常な輝きを放っているという視覚効果さえ覚えさせる。
まるで昔話に登場する悪鬼が武装したかの如き姿は、明らかに人間のものではなかった。
だが、これまでに仮面ライダーたちとともに何体ものロイミュードを倒してきた霧子は怯まない。怖れる余裕があるのなら、目の前で斬られそうになっている弱者を助けるべく動くのが先決だった。
「待ちなさ……」
霧子が声を張り上げたのと、ほぼ同時だったであろうか。
腰を抜かした男の子にロイミュードが刃を振り上げた瞬間、彼らの後ろから鋭い風切り音を立てて何かが飛んできていた。
「ぐおっ!」
後頭部にその直撃を喰らったロイミュードが、呻きながら前につんのめって体勢を崩す。
構えられていた刀を落とすほどに強烈な打撃を与えた物体は、くるくる回りながら破裂して中身をぶちまけさせていた。それが二リットルペットボトルの水だったことが、驚いて立ち止まっていた霧子にはわかった。
「だ、誰だ!」
すぐ側に女性警察官がいることに気づいていないらしいロイミュードが、声を荒げて辺りを見回す。まさに斬りかかろうとしていたところを不意討ちで邪魔された上にずぶ濡れにされ、相当な怒りを覚えているようだった。
「誰だっていいだろ!」
ロイミュードと霧子が次に聞いたのは、張りのある若い声だった。が、今は「どんより」中であるのに他の誰かの声がする、という状況自体が異常だ。
別のロイミュードがいるのかと、霧子が緊張を新たにする。
「はあっ!」
霧子が今は派手に動かない方がいいと判断して傍らの大木に身を寄せたとき、また同じ声がした。
今度は宙を切って跳ぶ人間の姿とともに、である。
「ぐがっ!」
鋭い跳び蹴りの一撃を横合いからまともに喰らい、ロイミュードが数歩分ほど弾き飛ばされる。
もんどりうって倒れたロイミュードと、恐怖の表情を凍りつかせたままで鈍重な時にいる子どもとの間に、鮮やかに降り立った人物がいた。
着地から素早く立ち上がって身構えたその姿は、意外なことに霧子よりも若く見える細っそりとした女であった。
やや上気した頬にかかる豊かな髪はポニーテールにまとめられており、冬の冷気に晒されている顔を幼く見せているのかも知れない。グレーのデニムに黒いレザーのライダースジャケットという飾らないいでたちではあるが、彼女の持つ空気が完全に戦う者としてのそれであることは、十メートルは離れた場所に佇む霧子にも伝わってくるほどであった。
ただ、女が右手に下げた大きな白いビニール袋ががさりと音を立てるのが、何とも不似合いでおかしい。恐らく彼女がコンビニエンスストアで買ったミネラルウォーターのうちの一本を、咄嗟に投げつけたのであろう。
未だ視線を逸らすこともできないでいる子どもを庇う位置に立った女を、頭を振ってから起き上がったロイミュードが睨みつける。
「おのれ……貴様、何者だ!」
「だーかーら、何者だっていいじゃん。どうせ名乗ったところで、手出ししない訳じゃないでしょ?」
てらてらとした不気味な輝きを放つ刀を突きつけんばかりのロイミュードを目の前にしているのに、女は呆れそうなほどに落ち着いている。ふてぶてしい態度に場違いな軽い口調は、彼女が相当に場馴れしていることを物語っていた。
そして跳び蹴りの際に乱れたジャケットの襟を片手で直すと、今度はロイミュードに敵意を孕んだ視線を叩きつけ返す。
「私も立場上見過ごせないってのはあるけど……あんたみたいに、てめえの勝手な理由で無関係な人たちを傷つける奴って、一番許せないんだよね」
女が発した声の後半はトーンが低くなり、不快感を露にした口調になっている。
途端に彼女の纏った気配が、事の行く末を見守っている霧子までもぞくりとさせる冷たさを帯び始めた。女が僅かに身体を沈ませて、本格的に格闘の準備に入っていることを感じ取ったのだろう。ロイミュードも、彼女に突きつけていた刀を構え直す。
霧子がいる位置からは女の横顔しか確認できず、何か武器を持っているようにも見えない。しかも女は、周囲を押し潰さんばかりの威圧感を一体どこから発しているのかが不思議なほど、頼りなく見える華奢な身体つきだ。
あそこまで不敵さをにじませているのだから、彼女も素人ではないのだろう。とは言っても、素手のしかも単身でロイミュードに立ち向かうなど無茶にもほどがある。ここは警察官である自分が何とかするべきだと、霧子は思い始めていた。
一方、ロイミュードは女を小馬鹿にしたかのように嘲笑していた。
「ふん。ここで自由に動けるということは、貴様も同志ではないのか?関係ない奴は引っ込んでいろ!」
言葉尻が冬の冷気に消えるとともに、ロイミュードが振り翳した刀が閃く。高く唸りを上げるその刃は、目にも留まらぬ早さで若き女のライダースジャケットに包まれた上半身を一文字に切り裂いた--
かに見えたが、女は刀身が届くよりも早く半身を捌いて攻撃をかわしていた。斬り下ろされてきた剃刀の如き切れ味の刀は女に掠ることなく目標を見失い、再び振り上げられる。頼りなげな街灯の灯りの中でもはっきりとした光の軌跡を描く武器が、二度、三度と襲いかかるも、彼女はその度に見事な体捌きでかわし続けた。
相手をひ弱そうな女と見て舐めていたらしいロイミュードの太刀筋に、狼狽の色を見て取ったのであろう。女が刃の引きに合わせて深く踏み込んで、上半身から繰り出す攻撃の範囲内に敵を捉えた。
「はっ!」
肚に響く気合いの声と共に、低く沈んだ姿勢から掌底が突き上げられる。その途中にロイミュードの顎が巻き込まれて、鬼を思わせる恐ろしげな顔が仰け反っていた。
「がっ!」
強かに顎を打たれ、濁った悲鳴がロイミュードの口から漏れる。
敵があっさりと一撃を喰らわされた様子に、霧子は目を見張っていた。
いくら急所に直撃したとは言っても、相手は人ならぬ機械生命体だ。その身は金属に近い物質で構成されているし、人間が素手で攻撃を加えれば肌や骨も無事では済まされない。まして、仮面ライダー並みのパワーがなければダメージなど皆無の筈だ。
なのに目の前で格闘を演じている女性は、ロイミュードを攻撃した右手を特に気にした素振りもない。ということは、彼女はそれこそロイミュードと同程度のパワーの持ち主だということだ。
にわかには信じがたい事実に霧子が目を見開くと、未だ休みなく続いている二人の格闘に新たな展開が見えていた。
ロイミュードが、よろめきながらも見事な斬撃を女に返していた。攻撃を受けると同時に返す刀を振るったのは、戦うために作られた存在の本能とも言うべき反応だろう。ただし女は反撃を喰らう一瞬前に間合いから後退しており、またしても空振りに終わる結果となっていた。
構えを取りながら間合いを測る女が、ふっくらとした唇を歪めていまいましげに吐き捨てる。
「残念だけど、私があんたの仲間なわけないよ。それもあんたみたいな三下と?お門違いも甚だしいったら!」
「減らず口を!」
未だ幼ささえ残る女の明らかな挑発に、ロイミュードは完全に乗せられたようであった。
敵のデニムに包まれた脚が軽やかな調子を刻んで細い身体が更に遠ざかろうとすると、ロイミュードが怒気を溢れさせた視線を向け、猛然と追い縋る。今度こそ生意気な人間に憤怒を込めた一撃を叩き込まんと、ロイミュードは水平に刀を薙いだ。その速さたるや、太刀筋の光が宙に残す軌跡を目で追ってみて、どう刃が動いたのかをやっと判別できるほどだ。
しかし、女はそれ以上の動きを見せていた。
相手が振るう武器の長さから間合いを測り、攻撃の角度と速度を完全に読んで、鬼の姿のロイミュードの背後に回り込んでいたのだ。
「とぉりゃ!」
気合一閃し下へ向けて鋭く放った蹴りが、敵の膝を後ろから突き崩す。
軸足に乗せていた体重が行き場を失い、驚きと苦痛とをない交ぜにした叫びを今一度、ロイミュードが迸らせた。
「うぐっ!」
そのくぐもった声が響いたとき、女は既に倒れていた少年を軽々と両腕に抱え上げていた。彼女は体勢を崩したロイミュードを一瞥し、自分が攻撃範囲外にいることだけを確認すると、とっとと背を向けて走り出した。
無論、白いビニールの買い物袋も腕に下げたまま、である。
「とりあえず、これぐらいで見逃したげるから。じゃね!」
女が子どもを抱え、定番とも言える捨て台詞を吐いたのは、広場の端から広がる林にかかる場所からであった。見逃してやる、というのは敗者が悔し紛れに使う表現だが、これは負け惜しみでなく勝利宣言である。彼女は最初から被害者を助けることが目的で、ロイミュードとの戦闘の結果には興味がなかったのだ。
「何を……ま、待て!」
若い女が軽口に乗せた言葉を聞き咎め、ロイミュードが再び戦いを挑もうと走り出す。
だが、堅固な外殻に護られた足が数歩踏み出した時には、もう彼女と少年は林の中へと飛び込んでいた。ロイミュードが狂ったように林を見回すが、それも数秒のことであった。
「……くそっ!」
まんまと二人に逃げられたことを悟った鬼ロイミュードが、怨嗟の呻きとともに地面を蹴りつける。
無数の足跡が残された土の地面の上に一人佇むこととなった異形は、興奮のせいで周囲に気を回すこともなかったらしい。物陰から全てを見ていた霧子へ一度たりとも注意を向けることもなく、かき消えるように姿を消した。
すべての気配が消え、冬の夜の澄んだ静寂が戻った頃にようやく霧子は息をついた。
巨木の陰から遊歩道へ戻り、今は暗闇だけが広がる空間を見つめる。
「今のは……」
霧子が白い息とともに、改めて呆然とした一言を漏らす。
刀を武器とする鬼ロイミュードは、間違いなく今世間を騒がせている連続傷害事件の犯人だろう。
それよりも気になるのは、「どんより」の中で見事な戦いぶりを見せたあの女性であった。斬られそうになっていた子どもを救助したところを見ると、少なくとも悪人ではないのかもしれない。
ただし、彼女が普通の人間でないことも確かなことだ。
ロイミュードは、必ずしも人間に敵対する立場を取るわけではない。
とは言っても、あの女性の素性は何もわからないのだから、今の段階で油断するべきではないだろう。彼女がロイミュードであり、再び姿を現す可能性が高い前提で捜査活動を進めていくべきだ。
勤務時間外にも警察官の職務を忘れない霧子の凛とした横顔が、弱々しい街灯の灯りでくっきりと闇夜に浮かび上がる。
彼女が視線を向ける先には、大人の賑わいに受かれる夜の街が広がっていた。