「検索を始めよう。キーワードは柴田麗奈、交通事故、死亡だ」
真っ白で何もない空間に、フィリップの声が響いた。
依頼を解決するために数え切れないほど頻繁に来ている、天才青年にとっての日常的な場所。現実とは切り離された、他人にとっては非日常的な場所である。
呼び掛けに答え、雪崩を打って宙を飛び交う本たちの様子もまた見慣れたものだ。そして、ここで既にこの世にいない人間のことを調べるのにも慣れている。
検索対象の人間の素性など、以前のフィリップにとっては興味の対象外だった。が、ふと膨大な情報のごくごく一部でしかない他人の人生に思いを馳せることが、最近はある。
その人物が何を考え、感じ、一生の間に何をしようとしていたのか。そこから広がった発想が事件を解決に導くこともあり、対象についての深い洞察も不可欠であるという認識が、フィリップの中にも確実に芽生えてきているのである。
ただし今回の検索ではあっけなく目的の本がフィリップの前に弾き出され、そこまでの思慮は要しなかった。交通事故の事実関係だけを調べるのが目的なのだから当たり前と言えばそうだが、フィリップに拍子抜けする残念な感触は残った。
「該当する事故の新聞記事を見つけたよ。日付は十四年前の六月十日、狩谷徹が失踪する直前だ。被害者は柴田麗奈と、身元不明の男性とある」
「そうか。やっぱりな……」
目的の情報を見つけ出したフィリップの言葉は、仮想空間にリンクした自身の実体に連動し、肉声としてガレージにいる翔太郎にも伝えられた。
麗奈が住んでいたマンションの管理人から得た情報を持ち帰り、それを基にフィリップが「地球の本棚」で調査したところ、予想通りの結果が得られたのだ。
ガレージの隅に佇み、フィリップに応えた翔太郎の指先には、狩谷美幸から借りた写真が挟まれている。
父と母、娘の三人が並ぶ冬の光景を写した、十五年は昔の写真。ここに写っている父親の狩谷徹は、十四年前に愛人の柴田麗奈とともに事故の被害者として死亡した可能性が極めて高い。
フィリップが今調べた事件の身元不明の男性というのが、一体誰なのか。鍵はそこにあった。
「翔太郎くん!例の事故の記録、あったって!」
翔太郎が眉根に皺を寄せて写真を睨んだところへ、慌ただしく割り込んできた声があった。ガレージのドアを開くなり、息を弾ませて飛び込んできた亜樹子である。彼女の後ろには夫である風都署の刑事、照井竜が控えていた。
事故の詳細を確認するために、亜樹子は照井に資料一式の閲覧を許可するよう働きかけていた。恐らく未だ身元が判明していないであろう被害者の特定に助力を請う形で、照井は事務所まで資料を持ってきてくれたのである。
やや強引ではあるが、依頼人を助けたいと願う妻の気持ちを照井は無下にできなかったのだ。
「事故の記録はこれだ。死亡した二人のうち一人は、未だ身元が特定されていない」
深紅の革ジャケットに揃いの革パンツといういでたちの照井は、表情を感じさせない声で説明しながら翔太郎に分厚い封筒を手渡した。逸る心を抑え、封筒を受け取った翔太郎が中身を改めていく。
資料は事故の報告書や状況を検分した詳細な道路の図に加え、フレームまで大きく曲がった事故車両や被害者の遺品の写真など、かなりの量があった。
被害者が即死するほど酷い事故であった故、遺体の写真はあまりあてにならない。
翔太郎は生々しいそれらを飛ばして先に遺品の写真へ目を通し始めたが、十数枚も数えないところで資料をめくる手が止まった。
中間色を組み合わせた、微妙な色合いのマフラーがブルーシートの上に広げられている写真。持ち主は死亡時に身につけていなかったのだろう、血痕や傷みは見当たらない。
翔太郎だけでなく亜樹子、「地球の本棚」から戻り資料を横から覗き込んでいたフィリップにも、そのマフラーに見覚えがあった。
「あ!こ、これって……!」
亜樹子が息を飲み、フィリップが静かに頷く。
「間違いない。美幸さんの手編みのマフラーだ」
「……決まりだな」
資料と美幸から借りた写真とを並べ、見比べていた翔太郎も呟いた。
二枚の写真に写っているマフラーが全く同じものであることは、一目で判別がついた。身元不明のまま死亡している被害者男性が狩谷徹であることは、これで断定できる。
そして、今現在の風都で結婚詐欺を働いている男が狩谷徹ではないことをも裏付けていた。
「ちょちょちょ、ちょっと翔太郎くん!何落ち着いてんの?死んだ筈の刈谷徹さんが、結婚詐欺なんてしてるのよ!」
が、亜樹子一人が混乱した様子で翔太郎の肩を激しく揺さぶってくる。
ガクガクと頭を振られた若き探偵は、上半身と同じく揺れる声を抑えて亜樹子の肩に両手を置き返した。
「おおおおお、落ち着けよ!まあ、そりゃ普通じゃないのはもうわかってる。亜樹子こそ、何をそんなに慌ててるんだよ」
「何をって……これってお化けよ、お化け!幽霊の仕業ってことじゃないの!」
確かに三人のおばちゃんたちを騙して大金を巻き上げているのは、死んだ筈の狩谷徹である。が、この街ならではの肝心なポイントから全く外れた場所へ行き着いている亜樹子に、翔太郎は呆れ顔だった。
「あ?んな訳ねえだろ、ドーパントに決まって……っておい、どこ行くんだ?」
彼はとにかく「女子中学生」所長を落ち着かせようとしたが、当人は肩を押さえていた手を振り払ってガレージのドアへと突進していく。
「神社とお寺!除霊グッズ、色々買って来なきゃ!」
「あっ、おい!」
説明も聞かずに言い残してドアを突破していった亜樹子を止める術を、この場にいる三人の男たちは誰一人として持ち合わせていなかった。残された一同は暫しぽかんとした顔をしていたが、真っ先に我に返った翔太郎が癖っ毛の髪に指先を突っ込んで言った。
「……っちゃー……なあ照井、亜樹子って家でもあんな調子なのか?」
「概ね、そうだな」
ただ一人、彼女を思い止まらせることができそうだった夫の照井が、翔太郎へ無表情に答える。
生来の行動力を発揮して怪しげな品々を求める仲間を、今更追いかけたところでどうにもできないことは最初からわかっていた。ならば気の済むようにさせて、いざという時だけおかしな方へ行かなければ良い。
それが男性陣の亜樹子に対する共通認識である。次の話題へと移るまで、さしたる時間は要しなかった。
「ところで翔太郎、美幸さんには伝えなくていいのかい?」
「……今はまだ、な。全て綺麗にして、その後に話せばいい」
「森下製作所の告発は?」
フィリップの次の問いに、翔太郎は答えない。
「翔太郎のことだ。全てを明らかにするつもりはないんだろう?彼女が、優しい父親の思い出だけを持ち続けられるように……」
相棒の答えは予想済みだったのであろう、フィリップが低く呟いた。
美幸のから依頼は、「連絡してきたのが本当に父の徹なのか確かめること」と「本当に父ならば、何故家族の前に姿を現さないのか明らかにすること」の二点だ。現在の時点で、美幸に連絡してきた徹が真っ赤な偽者である可能性が高い。故に、依頼内容の後者は果たさなくても良いことにはなる。
が、翔太郎は美幸に彼女の知らなかった父親の姿を知らせたくないが故に、本当のことを告げずに終わらせるつもりでいることは間違いない。森下製作所を告発すれば父親の不正と裏の顔を必ず晒さねばならなくなることから、この半熟探偵はそれも控えるのだろう。
翔太郎は依頼人を不必要に傷つけたくないと願い、そのための努力を惜しまない男なのだ。
口許に微笑みを浮かべ、フィリップはぼそりと続けた。
「まったく……ハーフボイルド、だね」
「うるせーよ!」
天才青年の一言に悪意がないことを読み取った翔太郎は、荒っぽく言い返して見せるのみだ。
この探偵が今のスタンスを貫いている限り、後味の悪い結果にはなるまい。
確かな予感を持ったフィリップは、事件の核心に迫るべくまた新たな側面から話を切り出し始めた。
「この依頼は普通の失踪事件ではない。十四年前に行方不明となった、狩谷美幸の父親の狩谷徹。彼は交通事故に遭い、当時の愛人とともに死亡していることがわかった。なのに彼は、現在の風都に姿を現して娘に金の無心をし、更には三人の女性を相手に結婚詐欺まで働いている」
これまでの事件の経緯をまとめつつ、フィリップはガレージにあるホワイトボードへ歩み寄ってペンを取り上げた。そして人物相関図を癖のある字で書きながら、翔太郎や照井に示して見せる。
「亜樹子は幽霊だと騒いでいるが、勿論そんなことはねえ。明らかに、ガイアメモリとドーパントが絡んでいる」
「そう。現在の狩谷徹が偽者であることは、誰が見ても明らかだ」
亜樹子はわからなかったみたいだがな、と翔太郎が小声で言葉を継いだが、人物相関図に詳細を書き込んでいるフィリップの耳には入ってこない。
フィリップは狩谷徹の名を大きな円で囲むと、その中に「ドーパント?」と加えてから他の男二人を振り返った。
「狩谷徹になりすましている何者かの様子から判断すると……ガイアメモリの能力は、他人への擬態だろう。それも外見だけでなく、記憶も全てコピーできる精度の高い擬態だ」
フィリップの説明に、翔太郎と照井が無言で頷く。
ガイアメモリがもたらす能力の一つである擬態は、実はさして珍しいものではない。しかし癖のある特徴であることには違いなく、その場合は戦闘時にトリッキーな戦術を繰り出してくることがままある。故に、油断は禁物であった。
「そして奴は、手強そうな女性三人を煙に巻くだけの狡猾さも持っている。問題は、僕たちがどうすれば接触できるかだ」
「ああ。下手に動いて刺激したら、途端に逃げられちまうだろう。慎重にやる必要がありそうだな」
フィリップが淡々と述べたのを受け、翔太郎はそう口に出しはしたものの、石橋を叩いて渡るような行動は正直苦手だった。自分と比較すれば警察官である照井のほうが適任な気も手伝い、彼は隣に立つレザーファッションの男に話を振った。
「照井の方は、何か情報はないのか?詐欺の被害届けは出てるんだろ?」
「詐欺事件の立証には時間がかかる。被害者はいずれも口約束で大金を渡しているようで、証拠にも乏しい。だからこちらとしても、迂闊に動くわけには行かなくてな」
表情こそ動かさないものの、照井の口調にはわずかながらに困った響きが混ざっている。封筒に再びまとめられている資料を脇に挟み直した若き刑事に、フィリップも小さな溜め息をついた。
「こちらも結婚詐欺絡みの依頼人から、狩谷徹の連絡先は聞いているけど……全ての携帯番号が不通になっていたよ」
「恐らく、奴が気兼ねなく連絡できるのは娘の美幸に対してくらいなんだろう。しかし、彼女は詐欺事件の被害者ではない。俺が介入するのは難しいな」
いくらドーパントが絡んでいる事件とは言えど、具体的な被害が出ていない美幸の自宅で徹からの連絡が来るのを待ち構えたり、逆探知機を仕掛けるわけにはいかない。
薄暗いガレージで立ち尽くす男たちが次の手を考えるべく沈黙しかけたところで、ふと翔太郎がこぼした。
「ん?待てよ……」
何か引っ掛かるところがあったのだろう。彼はワイシャツから覗く引き締まった腕を組み、宙を睨んで考えを巡らせている。彼の視線がガレージの雑然としたインテリアを何度か巡った後、唐突に結論が出された。
「よし。こっちから種をバラ蒔いてやるか」
「どうするつもりなんだい?相手は詐欺師なんだ。もし失敗したら……」
じっとしているのが嫌いな翔太郎らしく先手を打つ手段に出ることがわかると、フィリップが諫めるように反論する。が、翔太郎は譲る気がないらしく、力を込めた話し方で自らの考えを仲間たちに伝えた。
「俺に考えがある。狩谷徹は、唯一娘の美幸さんにだけは甘かった。そこを利用する」
「左、まさか依頼人を巻き込むつもりじゃないだろうな?」
照井の眼光が疑いを孕んで鋭くなっても、翔太郎にはまだ余裕がある。軽く片手を挙げて傍らの刑事を制すると、落ち着き払った表情を向けて見せた。
「いや、彼女は決して危険な目に遭うことはない。信用してくれ」
片方の唇を吊り上げてにやりと笑った翔太郎は、不敵とも言えるほどの自信に満ち溢れている。
確かに、依頼人に戦いの心得があったり、自らが望んで敵と対峙する場合を除いて、若き探偵は積極的に依頼人を危機的状況に連れ込むことはない。この点は、フィリップや照井が翔太郎を最も信頼する長所の一つでもあった。
二人の仲間の沈黙が同意であると受け止め、探偵がポケットから携帯電話を取り出す。
メモリーから呼び出した番号に連絡を取る翔太郎を、フィリップと照井は静かに見守ることに決めていた。
「もしもし……美幸さん?ちょっと頼みたいことが……」
『左さん?もしかして、もう父が見つかったんですか!』
翔太郎が用向きを告げる前に電話口の美幸が弾んだ声を響かせ、彼は出鼻を挫かれる格好となった。
「いえ……申し訳ないんですが、まだ情報がさっぱり集まっていなくて……」
『そうですか……』
嘘だ。
美幸の父である徹らしき人物が過去に何をし、今現在どうなっているかは大筋で掴めているし、彼女に電話をしてきた何者かが本当の徹でない可能性が高いこともわかっている。
だが、敢えてそんなことを今伝える必要はない。
探偵の青年が自らに言い聞かせ改めて用件を口にしようとしたが、また美幸に先んじられた。
『でも、私の母にも会ったんですよね?』
確かに美幸と母親の紗江子は一緒に住んでおり、呼び出されたことに関して特に口止めもしていなかった。迂闊だった、と半熟探偵が苦虫を噛み潰した顔になった時、ぽつりと美幸がこぼした。
『母から、余計なことに首を突っ込むなって言われたんです。だから何となくわかりました』
「……そうですか」
翔太郎の返す言葉は少ない。
それでも辛い胸の裡を明かしたいのか、美幸の淋しげな口調はまだ続いてくる。
『私、知ってました。父と母の仲が良くなかったこと……』
「えっ?」
予想していなかった話の展開に翔太郎が驚いた様子を見せても、依頼人女性の話は止まらない。
『確かに、両親の仲は冷えていたと思います。でも、私には本当にいい父でした。私に寂しい思いをさせてるからって、帰ってきた時はずっと遊んでくれたし、色々な所に連れて行ってくれたりもしました。誰よりも優しい、本当の父の姿を知ってるのは……私だけなんです。だから、私……』
堰を切ったように言葉を連ねていた美幸の声が、ふと途切れる。
彼女が涙を堪えていることは、直前の言葉が震えていたことで想像がついた。
「大丈夫ですよ、美幸さん。必ず解決して見せますから」
そして翔太郎は、すかさず力強く応えてやることしかできなかった。
自分だけが、本当の父の姿を知っている。
いや。美幸は恐らく、父が優しさに満ち溢れた人物だったのだと、信じていたいのだろう。
たくさんの愛を与えてくれた肉親の真実を知らせる方が、彼女にとって残酷であることは間違いない。いざ本人の声を実際に聞くと、それが確信できるほどだ。
そして事実を告げる選択を除外する翔太郎は、誰かの泣き顔など見ないに越したことはないと心の底から考える、甘い男だ。
が、だからこそフィリップが背中を預け、照井が認め、亜樹子が信頼を寄せてくれる。
彼は自らの信念を貫き、依頼人の心情を最大限に慮る策を展開するために、努めて落ち着いた話し方を全面に押し出した。
「そのためのご協力を、是非ともお願いします。もし、また父親と思しき男から連絡があったら……」
携帯電話の液晶が光って本体が震え、着信を告げた。
迷わずやや大きめのごついそれを取り、通話ボタンを押す。
「はい」
『俺だ』
繋がるなり相手はぶっきらぼうに、名も名乗らずに言ってくる。
「お父さん、美幸だよ」
途端、相手の男の声は猫撫で声と言えるほどに優しくなった。
『美幸……このお前の携帯なら、気兼ねせずに話せるんだな?良かった』
「うん」
こちらが返す返事は短い。が、父親は話し方を変えず一方的に喋ってくる。
『お父さんは今、困ったことになっているんだ。お前なら、お父さんの言うことを聞いてくれるな?』
「うん」
すかさずあった答えに、彼は気を良くしたらしい。相手はもう二十代半ばの娘であることを忘れて、まるで幼い子どもに話しかけるような口調で続けた。
『よし。じゃあ、これから言うことをよく聞いて。しっかりメモを取るんだぞ』
「うん」
娘ならきっと自分の頼みを聞いてくれる。そう信じている男はゆっくりと、五十万円を工面すること、それを人目のない町外れに広がるヤード(廃車置き場)の一角に持って来ること、そして待ち合わせの日時とを次々と口にした。
『……わかったな?じゃあ、約束の時間にまた』
「うん」
こちらからは終始ごく短く、しかも具体的な話の内容に触れないしか反応していない。
そのことに対して何の警戒もしていないらしい父親は、上機嫌なままで電話を切っていた。