胡蝶の夢   作:CHAOS(1)

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08話

 ――という訳で、散歩をする事にした。

 例え万が一にしろ、億万に一つの可能性にしろ、一人になって襲撃を掛けられては抵抗すら出来ずに殺されてしまうだろう。

 薫さんが走って行った逆の方向、道場から玄関に向かってゆっくりと歩く。

 敷地内からは出ない。それが最低条件だ。

 

 砂利を踏みながら空を見上げ、風の柔らかさを感じる。

 陽射しはぽかぽかと暖かく、昼寝には持ってこいだ。

 若葉のように淡い緑の葉を付け始めた木に目をやったり、散歩というのは結構視線が忙しい気がする。

 

 驚いたことに、昨日から春休み。

 そういえば今日は食事が終わってから美由希の姿を見ていない。

 何か有ったのだろうか。

 そう思った時、重厚な玄関門を叩く音が聞こえる。

 

「頼もー、じゃないし……うう、美由希ちゃんとは会えんし、うちどないしたらええんやろ……頼もー!」

「…………」

 

 聞いた事のある声だ。

 そんな筈は無いと否定しながらも、口元には笑みが浮かんでくる。

 かみ殺そう、勘違いだった時が余りに惨めだ。

 そう思いながらも、足は自然と速まって、玄関へと向かう。

 

「頼もー! ちょう、ほんま誰もおらんのやろうか? 桃子ちゃんは翠屋やろうし……」

 

 この家にはチャイムといった物が無い。

 無料で交換してくれる電話すらいまだ黒電話なのだから、そこら辺の時代遅れは徹底している。

 いや、まあ携帯電話だとか、ゲインベルグ社製の鋼糸だとか、そういった面は常に最前線だが。

 桐の箪笥とか、家具を主にして時代掛かっているのは否めない。

 観音開きになっている門をゆっくりとした動作で開く。

 

「たの――――え?」

「いらっしゃい」

「あ……君、は。……恭也くん?」

 

 何故俺の名前を知っているのか?

 だけど、今はそんな事はどうでもいい。

 俺が会いたいと願う人は、いつも――不思議と傍にいる。

 だから俺は、一つ覚えのように繰り返そう。

 

「お帰り、レン……」

「た、ただいまですっ!」

 

 記憶にあるものと違う、少しぎこちなく、かしこまった笑顔。

 それが悲しいといえば、悲しかった。

 

 

 

 レンを連れてとりあえず館裏へと戻ってきた。

 レンは小さなバッグを一つ提げているだけで、大きな荷物は全て配達らしい。

 既に我が家として機能し始めた不破家。

 俺はレンにお茶を用意した。

 会話はゆっくりと進む。

 食事の時間はいつもならばそろそろだと思うのだが、今日に限ってみんなを呼ぶ声は無かった。

 自己紹介を済ませると、レンは俺の事を知っていたと言った。

 

「うち、士郎さんから恭也くんの話、時々聞いてて。それで……うちだけやないって、うちも心臓の病気があったんですけど、戦ってるのはうちだけやないって……。勝手なんですけど、励みにさせてもろてました」

「いや……寝てただけなんで、あんまり言われると恥ずかしい。でも、退院おめでとう」

「ありがとうございますー」

 

 ――笑顔。

 こうして少しずつ互いの内心を語っていく内に、いつしか以前の様に互いの胸の内を晒し出せる様な、そんな仲に戻れるんだろうか?

 とても難しいように思う。

 だけど、不可能だとは思わない。

 以前出来たという事は、今度も出来るかもしれないという事だから。

 

「士郎さんですけど、恭也くんの事かなり気にしてたみたいですよー?」

「ほう? あの父さんがな……あんまり、想像できんが」

「いえいえー。そんな事ないです。士郎さん恭也くんの事話す時、いっつもちょっとだけ顔伏せて……」

 

 父さんが……か。

 レンには悪いのだが、本当に想像できない。

 いや、この前の道場の事を考えれば、少しは信憑性が持てる。

 だけど、できれば。

 我ながら矛盾した思いだと理解しているが。

 あの人には――――俺みたいな事で気に病まないで欲しい。

 他人の迷惑を考えない無茶苦茶で、それでも最後にはみんな笑っていられる。

 そういう強さに俺は憧れたのだから。

 まあ、全く気にしないならそれはそれで怒ったんだろうが。

 ぐ~~。

 自分の物とは違う、可愛らしいお腹の音がした。

 レンの顔は火がついた様に赤くなる。

 視線をあっちやこっちやと忙しく動かし、落ち着きがない。

 もじもじとさせた手が可愛らしかった。

 

「そろそろ昼飯の筈なんだが……。一度、行ってみるか。俺も腹が空いた」

「は、はぃぃ~……」

 

 情けない声。

 恥らっているのだろう。

 でも、お腹を空かせるだけの元気があると分かって、少し嬉しかった。

 

 

 

 今日の料理番は玄さんだった。

 恐るべき技量で瞬く間に料理が出来上がっていく。

 火の使い方は豪快にしてこまやか。

 例えるならレンの早さに晶の巧みさと言った所か。

 流石玄さん。他の人ならありえないと思える事も、不思議と納得させてしまう物が在る。

 五人単位の大皿が五つ。他の人たちは各々外で食事を取ってくるらしい。

 料理が後れた理由もそこにあったとか。

 

「ほえ~。あの人前々から思っとったんですが、むっちゃ巧いですなー。うう、うちショックや……」

「いやいや、やっぱり年季が違うだろ。ああ、そういえばレンの料理か……また食いたいな」

「……また?」

「いや……、気のせいだろう」

「うちで良かったら是非とも。腕振るわせてもらいます」

「ああ、楽しみに待ってる」

 

 だがまあ。

 その前に普通の料理をそろそろ食べても良いとは思うんだがな…………。

 色々と気を使って貰っているのは理解しているのだが、やはり毎日雑炊やおかゆでは物足りない。

 色々な歯ごたえ、独特な風味と味わい。それらが楽しみたい。

 今も香ってくる海苔の香ばしい匂いも確かに良いのだが……。

 

「恭也くん、どうかしたん?」

「いや、頂くとしよう」

「はい」

 

 今日の所はレンも雑炊のようだし、我慢するとするか。

 ステンレスの鈍い光を放っているスプーンを手に取って雑炊をかき込む。

 玉子と出汁の味、そしてご飯自体の甘味が有って何とも表現しがたい独特な味わいがある。

 

「これは……ガラで味を出してるんやろうか……」

「…………。……昆布も使っている」

「ほあ……。隠し味ですか。恭也くん味覚良いんですね」

「…………ご馳走様」

「早いっ!」

「食事には時間を掛けない方なんだ」

「あんまし躰にはようないですな」

「悪いが主義だ。それに量を摂らないと時間が保(も)たない」

 

 ずずず、と煮出された番茶を飲む。

 それともこれは麦茶なのだろうか?

 大量生産されたよく分からない程に薄まったお茶は学校の食堂を連想させた。

 

「……ごちそうさまでした」

「お茶が無いな。要るか?」

「あ、どうもですー。少し多めにお願いできますか?」

 

 マグカップに茶を入れる。

 レンは直ぐ口に付ける事はせず、テーブルの下に置かれてあった鞄をまさぐる。

 中からはアルミ箔の薬が出てきた。

 一、二……全部で七種類ほどある。錠剤が六に粉末剤が一だ。

 毒々しい紅色、主に白色。錠剤は見ているだけで厭なイメージを持たせる。

 レンは随分と手馴れた様子でそれらを粉末剤の袋に入れていく。

 こちらに気付くと、レンは気まずそうな顔をした。

 

「いや、これも後二ヶ月なんです。後遺症とか出たらあきませんから……」

「そうか……。治す為、なんだからな」

 

 何も言える事は無い。

 頑張れ、とは少し違うような気がする。

 レンはお茶を含むと、次に薬を口に入れた。

 じっと見ていた事に気付いた為か、ぎこちない笑み。

 配慮が足りなかっただろうか?

 やはり、自身が不健康である所を見られて喜ぶ人間などいない。

 それが強がる癖のあるレンなら、尚更の事だっただろう。

 俺自身、人に配慮が足りないというのは自覚している。

 この過ちを次は繰り返さないようにしよう。

 そうすれば何時か、限りなく人に不快な目に会わす事も無くなるんじゃないか。

 先は随分と長そうだ。

 

 

 

 食事を終えてからはのんびりとしていた。

 二人でそのまま二階に上がり、談話室に座って階下を眺める。

 外は三割ほど散って若葉が見え始めたソメイヨシノが見えた。

 レンも春休みらしい。

 元々手術の為に、他の人間よりも少し早めに休みを迎えたそうだ。

 裏庭で干された布団を見て顔をほころばせている。

 料理と洗濯が好きだというのだから、レンは家庭的だ。

 母さんも翠屋で働く日々だから、随分と助かっていただろう。

 はて、そうなるとこの小間使いさんの多い屋敷で、レンはそんな事をしているのだろうか?

 …………目に浮かぶ。

 パリッと乾いた沢山のシーツで小さな体が埋まってしまっている。

 毛の先だけが出ていてもふもふと動くのだがシーツはくちゃくちゃと丸まったままレンを――――

 

「恭也くん?」

「む……」

「ずっとうちの顔見て、どうかしなはったんですか?」

「いや。…………少し、顔色が悪いな」

 

 本当はレンの事を考えていただけだった。

 だが、誤魔化す理由を探そうとしてみると、レンの顔色が悪い。

 妙に血の気が無かった。

 レンが微かにたじろぐ。

 

「そ、そないですか?」

「ああ。どこか、体調は悪いんじゃないのか?」

「いえー、大丈夫ですよー」

「…………」

 

 レンには悪いのだが、余り信用は出来ない。

 前の世界では心臓の病気はなんとも無かった筈だ。

 それが今手術を受けたという。

 海鳴に行っていたというから担当はフィリス先生ではないかと思うが、それにしたって前の世界よりも悪くなっているという事か……。

 

「あっ……」

「っ――――!」

 

 思った矢先だ。

 レンの躰がふらりと揺れたかと思うと、次の瞬間には倒れ始めていた。

 ゆっくりと、コマ送りのようにレンの頭が落ちていく。

 背もたれも肘掛もない椅子はレンを支えてくれない。

 世界には色が付いたまま。

 それでもいつもよりも格段に速く動いてレンを受け止めた。

 記憶にあるレンよりも手術後で軽い筈だというのに、痩せ衰えた体には強い衝撃になった。

 

「――――っ!?」

 

 鈍い痛み。

 レンが異常とも思える強さで腕を掴んでいる。

 苦痛で顔が歪んだ。

 だが、果たして手を振り解いても良いものなのか。

 レンの顔は蝋のように白い。

 か細い体が呼吸と共にかすかに上下している。

 

「うちは、ほんまに、だ じょう で から……」

「……馬鹿が」

 

 舌打ちしていた。

 何故こんなにも、倒れてまで無理をしようとするのか。

 息もほとんど絶え絶えで、まともに焦点の会わない目でこちらを必死に見やり。

 こんなにまで自らを偽って、人を偽って何になるというのか。

 こんな、こんな――――っ~~~~。

 

 

 

   ――その痛みは知っているんだ――

 

   ――その辛さは知っているんだ――

 

 

 これはきっと、父さんを失った時と似ている。

 直ぐ傍にいた人が消えたという消失感と、よく似ている。

 無傷であろうと、元気であろうと気遣ったあの時の俺と、本当に良く似ているんだ――――。

 その時の行動は相手を気遣っての物だった。

 皆が心の支えを失って不安定な状態に陥っていた。

 だからこそ、俺が少しでも力になれればと。

 本当は、その思いさえも焦りから来ていたと知らず。

 そんな俺と、目の前で苦しそうなレンと、一体何が違うのだろうか?

 俺は護りたいと、俺の家族を護りたいと思って無茶をした。

 ならばレンは一体何を望んでいるのだろう。

 俺達を安心させて、その末で自らが苦しんで、それでも望む物とは一体何なのだろうか?

 解らない。

 俺にはレンが考えている事を少しも理解できない。

 だが、やはりする事が似ている以上、望みの性質も似ているのだろう。

 

「…………馬鹿が」

 

 果たして溢した言葉は、一体どちらに向けての物だったのか。

 

 

 

 レンの部屋は一階にあるとさきほど聞いた。

 誰かに助けを頼むのが一番早いのだが、生憎と近くに気配がない。

 皆、一体何をしているというのか。

 横たえたレンをゆっくりと背負う。

 

「う…は…だいじょ……ぶ……努力しょ、はもう……いや、や」

「っ!」

 

 仕方が無かったとはいえ、この一言は聞いてはいけなかった気がする。

 これはレンの核心とも言えるものだろう。

 本人は墓まで持っていく気だったかもしれない。

 少なくとも、俺ならば人に言う事は無い。

 ならばこのまま誰にも話さず、そっと胸に秘めておくべきか。

 否。

 断じて否。

 俺が核心に触れたというのなら、それだけの謝罪にあたる事をしなければならない。

 足を踏ん張る。

 まだ自重を支えるのがやっとの枯れ枝は鈍い動きしか返してくれない。

 ふらつきながら、一歩一歩足元を確かめて歩く。

 

「……ふっ……ふっ……」

「は、ぁ……は、ぁ……」

 

 動きと共に胸に圧力がかかり、勝手に肺の空気が漏れ出る。

 同時、揺れが苦しいのか苦悶の呻き。

 

「……ふっ、う、ふっ……」

 

 階段を降りる。

 俺よりもはるかに低いレンの身長が助かった。

 段差の途中でレンの足を引きずる事は無かった。

 

「ふっ……ふ~~」

 

 ――降り切った。

 今の世界に目覚めて以来、人並みに動けない体では限界が近いらしい。

 息が切れるのは兎も角、視界が歪み始めた。

 春先と云うのに溢れ出る多量の汗。

 粘りの利いたそれは目に入るとかなり痛い。

 だというのに拭う事すら出来ない。

 背負い直してもう一度だけ気配を探る。

 ……居ない。くそっ、一体何を!?

 

「兄さん、どうかしたんですか?」

「……良い所に来た。レンの調子が悪い。部屋にまで運んでくれないか」

「了解」

 

 美由希の返事は簡潔で、即決だった。

 相変わらず気配を消して行動するのは注意しておくべきだったが、この際は目を瞑ろう。

 

「よっと」

 

 すっと背中が軽くなる。

 美由希は直ぐさま、迷うこと無く屋敷を進む。

 俺と違ってどこに部屋が有るのか知っているのだろう。

 美由希の後を、俺は意識をつなげながら辛うじて着いて行った。

 

 

 

 部屋というのはその人の特性を良く表すという。

 それは事実なのだろう。

 同じ間取りでありながらレンの部屋は柔らかく、そして物が適度に配置されている。

 少なくとも布団と鍛錬道具だけの俺の部屋とは違う。

 その部屋の端、レンが布団の中で眠っていた。

 美由希は居ない。

 医師には電話で連絡しておきます、とそれだけ言って館を出て行った。

 最近窺えなかった美由希の表情に隠された僅かな焦り。

 それが分かっただけでも、まだマシと言った所か。

 レンの調子は悪くない。

 先ほどと比べるとよっぽど呼吸が安定しているし、顔色も戻ってきている。

 それよりもヤバイのが俺だ。

 御神の呼吸法も神咲の呼吸法も効果が無い。

 視界は相変わらず一定としないで居るし、平衡感覚が割りと危険状態。

 耳鳴りと星の明滅。

 嘔吐感までついて回るのだから、         

         俺の方がよっぽど重態か。

 

「っ――――!」

 

 今一瞬、意識が跳んでいる。

 ヤバイ。

 ああ、美由希が居なくて良かった。

 あいつにこんな弱みを見せると、堪った物じゃない……。

 …………。

 …………。

 ……。

 

 

 

    ――お師匠――

    ――何だ、その師匠ってのは――

    ――うちにとって恭也くんは魂のお師匠なんです――

    ――……勝手に言ってろ――

    ――はいっ! うち、尊敬してるんで!――

 

 

 ……それは一体いつの事だったか。

 今となっては幻に消えた、過去の思い出。

 レンが母さんを頼って家に来てから、そう時間は経っていなかったような気がする。

 お師匠と呼ばれる事に最初は違和感を感じて、いつの間にかそれに慣れ始めて。

 そして今では恭也くん、だ……。

 それもまた良いのかもしれないが、寂寥感を覚えてしまうのは何故だろうか?

 俺自身が一度たりともレンに何かを教えた事は無いというのに。

 随分と、勝手な想いだ。

 

「…………」

 

 身を起こした。

 直ぐさま時計を確認してみる。

 倒れたのは僅か十分ほど。

 それでも体は幾分か動ける程度にまで回復してくれていた。

 レンは薬の影響か眠り続けているし、部屋は寝息だけが響く。

 だが、いつ容態が変わるか分からない。

 結局、医師が来るまでの間、俺はここから動けないのだろう。

 

「はぁぁぁあっ――――」

 

 ――息吹。

 空手や中国拳法でも使われるそれは、当然御神流でも取り入れられている。

 言ってしまえば呼吸法の一つだ。

 確か、一臣さんが息吹の達人だったか。

 一度取り替えられた体内の空気を、今度は神咲流の呼吸法へと切り替えてみる。

 吸う、吐く。吸う、吐く。

 無心になるという事。

 これは酷く難しいのだ。

 

『至人の心を用うるは 鏡のごとし。

 おくらず、迎えず。

 応じて、蔵せず。

 ゆえに よく物にたえて 傷つかず。』

 

 仏教が本だっただろうか。

 涅槃(ねはん)へ至る境地、それが無心ということになるとか。

 難しい事は解らない。

 俺はまだ、そこまで達観できていないからだろう。

 現に俺は、レンの寝息一つ、呻き一つで随分と心を乱している。

 

「……お師匠?」

 

 ふと、懐かしい呼び方をされた気がした。

 薄目だった目蓋を開く。

 レンが身を起こしていた。

 

「恭也くんも武術できるの?」

「……ああ、少しだけなら」

 

 気のせいだったか。

 いかんな。

 俺にとって、一月前まで繰り広げられてきた世界は余りに重い。

 だからこそ、今という現実を受け入れる事を出来ないでいる。

 人は今を生きている。

 だが、過去を忘れて生きて行けるほど、強い生き物じゃない。

 

「……難しいな」

「え?」

「いや、それよりも、調子はどうだ? 一度倒れたんだ、横になっていた方が良い」

「うちはほんま、大丈夫です。確かにちょーっと気分悪ぅなってもうたけど、心配は要りません」

 

 知らない人間が見たら騙されそうな演技。

 ああ、やはり。……とても難しい。

 レンはこうして倒れた直後でも、自分は大丈夫だと強がって見せる。

 俺にはレンを助ける事が出来ないのだろうか。

 塞ぎ込んでしまった心を、過去に受けた痛みを癒してやる事は出来ないのか。

 

――うちにとって恭也くんは魂のお師匠なんです――

 

 ……いや、そんな訳がない。

 たとえ、あの時の全てが夢だったとしても。

 俺は――――夢の中に生きていた俺達の心だけは本物だと。

 そう、思っていたいのだから。

 

「レン」

「は、はい? そんな怖い顔して、どうかしました?」

「……努力賞とは、一体何の事だ?」

 

 賭けだった。

 ゆっくりと、レンの表情が強張り、再び愛想の良い笑みに戻る。

 

「さあ。うちにはよう解らんです」

「お前が倒れながら言っていた言葉だ。横浜で、何があったんだ? ずっと、ずっと気になってた」

「恭也くん……っ! あんた、一体……」

「俺の事は良いんだ。今はまだ、とりあえず。それよりもレン、話してくれないか?」

 

 知りたいと俺は願っているのか?

 レンの心の奥をまさぐり、傷口を掘り返すような事を善しと思っているのか?

 分からないでいる。

 俺自身、聞くべきなのか、時に任せるべきなのか迷っている。

 時間は確実にレンを癒していってくれるだろう。

 

 なにしろ、間もなく術後の心臓は完治して、心配なく全力を出せるのだから。

 だが、それでは過去を拭えないのだ。

 今動けたとしても、過去に動けなかったという事が、いつまでも影になって残る。

 例えば、この治った、怪我さえしていなかった右膝が訴えかける幻痛。

 この痛みは、過去の苦しみは、今のように後遺症が無い状態であろうとも、決して消えてはくれない。

 

 だからこそ――俺は全てを聞いて、そしてレンの思いに報いたい。

 これはきっと俺自身のエゴだ。

 今考えた事も恐らくはこじ付け。

 本当の気持ちは別の所にある。

 家族を救いたいという、それだけを優先させた願い。

 切願して、願望して、切望して、そして何よりも渇望している。

 

 ――あの日、父さんの死を前にしてから。

 

「…………」

「…………」

 

 沈黙が続いた。

 空気は重く、互いの想いが拮抗する。

 暫く続き、根負けしたようにレンが溜息を吐いた。

 

「……解りました。恭也くんは案外しつこいんですなー」

「それだけ、俺にとって大切なんだよ」

「え――――?」

 

 茫然とした表情のまま、ゆっくりとレンは語り始めた。

 

「うちの心臓は、昔は本当に弱くて。毎日が真っ白い病室の中で、窓の外に映った景色だけが変わって行って」

 

 それに良く似た想いは知っている。

 初めて膝を砕いた時の、病院の白さ。

 全ての原因を、自らが起こした失敗を忘れろと、塗り潰されるような潔白さ。

 後悔すら消され、悔恨すら赦してはくれない。

 何としてでも治すと、強迫観念のように心の穢れを赦してくれない。

 幼い頃からずっと居たレンは、果たしてどんな想いで窓の外を見ていたのか。

 

「そんなうちは何かが出来ればそれで凄いって。周りには看護婦さんとか、お医者さんが常に手助けして、それで出来たらすごいすごい。うちはそんなの、耐えられへんかった……」

 

 周りでは皆が出来ている。

 自分ひとりが出来ないでいるのに、それでも頑張ったから良いと赦される惨めさ。

 結局何一つ成し遂げさせてくれない儘なさ。

 赦されるという事は、空虚さに似ている。

 何をしても反応がないのと、良く似ている。

 努力賞。

 その言葉に、どれだけの意味が隠されているのか。

 その一片を、感じ取れた気がした。

 

「うちはもっと出来た! 出来たんやっ! 一人で走って! 一人で動いて! もっと全力で、心配もされんと…………出来たはずなんや」

 

 最後にそれだけを呟いて、レンは静かに泣き始めた。

 顔を歪めて、声一つ出さず。

 

「ならば、これからは全力ですれば良い」

 

 気付けば口を開いていた。

 

「俺は、絶対に止めないから。もう、治ったんだろう?」

「あ……」

 

 近づいて、いつかしたように柔らかく頭を撫でる。

 ふわふわと柔らかい感触。

 触っているだけでこちらの気持ちが優しくなるような、そんな感触。さらさらで艶やかな髪。

 

「俺は、黙って見ていてやるから。……レンが全力で頑張ってる事を、ちゃんと認めるから。……忘れろとは言わない。でも、引きずってほしくは無いんだ。頑張って、頑張って。限界が近づいたら、今度は頼ってくれ。心配したくない」

 

 レンは驚いた顔をした後、胸に顔をうずめて泣いた。

 今度は叫ぶような声を上げて。

 

「うわあ゛ああああああ――――――――っっ!」

 

 その姿を。

 俺には流せなかった涙を。

 俺は愛おしいと思った。


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