いつも通りという、少々げんなりとする程のけたたましい朝食を終えて、自分の部屋へと戻った。
禅をするなどというなら兎も角、ただぼーとしているのは苦痛だったので、不破流の技について書かれた書物を一冊持ってきた。
畳にごろりと横になる。
どうせ文字は一々解析しなければ行けないほど古いものだった。
新たな技を覚えるのに深い興味があった。
きっと、難しくても退屈することだけは無いだろう。
「なるほどな」
そう呟いて、俺は下半身に比べて遥かに早い回復を見せている腕を振るった。
まだまだ腕は細かったし、また関節も強く力を篭めただけで痛みを訴えるが、
それでも意思の半分ほどには動いてくれる。
それで充分だった。
書物のタイトルだけを目通ししていた時、鋼糸についての欄が有った。
後々なら小太刀の技について知りたかったが、今の躰なら非力でも効果がある鋼糸術を知りたかった。
ゆっくりと読んでいく内に、絡めて斬る、捕縛する、という以外にも使い道が有る事が判る。
銃を相手にした時、絡めた鋼糸を引っ張って照準を外す、という事なら恭也も考えたことがあった。
だが、上には上が居るらしい。
それによって同士討ちをさせる方法が。
普通なら障害物になる筈の木々の枝を使い、多角からの攻撃を可能にする方法。
同時に片手で五本操りながら、更に小太刀を振るう方法が、少々ぼやかして書かれてあった。
事細かく書かないのは、きっと感覚は自分で掴めという事と、説明のしようのない感覚があるからだろう。
……などと考えることは出来ても、
実際にやってみなければ分からない物だ。
身体を動かしたいなあ……なんて考えて古い古書、不破の鍛錬書を閉じた時。
視界の端に有り得ない物が映った。
ふわふわと浮かんでいるそこは二階の高さだ。
そんな所に人が居ていい訳がない。
…………『人』?
「十六夜さんっ!!」
「あらあらまあまあ」
十六夜さんは驚いたように口に手を当てていたが、正直口調からはそんな様子は受け取れなかった。
宙に浮く体と同じ様に、こちらの感情もふわりと受け流してしまう。
少し照れたような表情をすると、そのままこちらへとやって来て隣に座った。
きちりと正座をすると、そのまま頭を下げた。
「こうしてお会いするのは初めての事ですね。神咲一刀流至宝、霊剣十六夜と申します」
「不破真刀流、小太刀二刀術不破恭也です」
お互い暫く頭を下げて、ゆっくりと上げる。
そして十六夜さんが笑った。
俺も同じ様に笑った。
なんでこんな普通に相手できてるんだろうかという、疑問が混じった笑みだった。
多分、きっと、恐らく────十六夜さんは自分の特異性を誰よりも理解しているだろう。
そして、その特異性が他人にとってどう取られるのか、という事も。
正直、俺も初対面のときは驚いた。いや、驚愕と言ったほうが正しかったかもしれない。
現にあれほど、現実離れした話を好んでいた美由希でさえ、開いた口が塞がらなかったのだ。
いや……あいつはどちらかと言えば「優しさ」の或る物語が好きだったか。
少しだけ意識をここでない遠い世界へと移していると、見守る様にして十六夜さんはこちらを見ていた。
そう、優しく、微笑(え)みを浮かべて。
少し恥ずかしかった。
そして心が優しくなっていくのを自覚した。
「……恭也様」
「はい?」
「何も理由を聞かず────薫を宜しくお願いします」
そう言って、十六夜さんは挨拶の時よりも長く頭を下げた。
宜しく? 一体何の事を言っているのか。
十六夜さんの瞳には光が宿っていない。
だが、その双眸には意志の強さを感じさせられた。
──俺に一体何が出来るというのか。
──十六夜さんは何を望んでいるのか。
分からない。
一体何の事を言っているのか、まるで分からない。
だが、最初から返事は決まっていた。
「俺に出来ることなら」
十六夜さんは、俺がこれまで知る中で、最も綺麗な笑みを浮かべた。
……頬が何故か熱かった。
「あー…………駄目だ。何だか調子が戻らん」
とりあえずそう呟いてみたが原因は判っている。
全て十六夜さんが原因だ。
なんと言うかあの人は空気みたいにふわふわしているのに、その癖どこか存在感があって全てを包み込んでしまう。
これはだが恋愛感情とは全く違うものだ。
全てを包む優しさ……俺は実の母こそ知らないが、こんな感じを母性愛と言うのだろうか?
まあ、悪くは無かった。
その十六夜さんは薫さんが探していることを知って、「あらあらまあまあ」とどこかへ飛んで行った。
きっと、"かくれんぼ"でもするのだろう。
…………多分。
梁に釘で掛けられている掛け時計を見る。
時刻は10時ちょっと。
美影ばあさんとの約束までは、まだ時間もある。
さて、どうしようか、という段になって、ばたばたと走る足音を聞いた。
「こら──!! くおーん、芝で遊んできたんならお風呂入りなさーい!!」
「くぅ──ん!!」
ドタドタドタ……バタバタバタ……ドタドタ……ドテッ!
「きゃっ! ……も~~~~っ、くお────ん!!」
恨めしそうな声を上げたかと思うと、突如として烈火と怒りの炎を滾らせる那美さん。
何だか般若みたいな顔が想像できて、思わず身震いしてしまった。
ガラッ! と障子が開かれる。
「久遠! 逃げたって駄目だからね!」
仁王立ちで、想像通り般若の顔をしていた那美さんと目が合う。
……酷く気まずい。
むしろ俺が逆の立場だったら自殺しかねない。
とりあえず、なんと答えれば言いか分からないので、無言で通す。
「…………」
「あっ、はれっ!? 恭也さん?」
どうやら、久遠が部屋に入って来たものと思ったらしい。
だが、狐の久遠に障子を閉めるという事が出来たかどうか、那美さんは判別が着かなかったのだろうか?
冷静に思考する俺の前で那美さんは顔を真っ赤にして照れ、とうとう顔を俯かせてしまった。
指をもじもじと合わせている姿などを見ると、思わず意識して抑えてきた「いじめっ子」の嗜好が出てきてしまう。
「那美さんどうかしたんですか? 俺に何か用でも?」
「いえ、そういう訳じゃないんですよけど……」
ちらちらと上目遣いに見上げてくる姿は、いじらしいほどに可愛い。
頬がぴくぴくと痙攣しそうになるのを抑えつけながら続ける。
「そうですか? それにしては、障子を開ける時の速さは普通じゃ無かったですよ?」
「うう……ち、ちょっと力が入ってしまって」
「そうですか。じゃあ力が入るほどの急用だったと。どうぞ、心を楽にしてお話下さい」
「ううう……」
那美さんは唸ったまま身動きをしなくなった。
もしかして言いすぎたか?
そう心配になった時、コソコソと部屋に入ってくる久遠を見つけた。
どうやら逃げ通せたと思っていたらしいが、入ってきた瞬間毛を逆立てると、そのまま後ずさりを始める。
瞬間!
那美さんの首が、いや、"首だけ"がそのまま180度曲がった。
「きしゃ────!!」
「く、くぅ~ん!?」
ドタドタドタドタ……
バタバタバタバタ……べちゃっ
………………
放って置こう。
一瞬だけ止めようかと考えたが、結局俺はため息を一つついて、お茶を飲むために部屋を出た。
お茶を入れてもらうと、そのまま裏手へと廊下を歩く。
ぐるりと家を回って真裏へと来れば、美由希と夜桜を楽しもうと行った桜と、薫さんが普段鍛錬に使っている場所が見える。
空はよく晴れていて、青空と真っ白な雲との調和が綺麗だった。
直ぐ傍には枇杷の木があった。
まだ季節には早く、代わりに薄緑の葉っぱが春を感じさせてくれる。
ひさしのお蔭で太陽の光が直接目に入る事もなく、真っ黒なシャツが吸い込む陽気はぽかぽかと気持ちよかった。
ああ……春だ……。
4日も前には既に夏が近づいていた。
だと言うのに俺は今、春を満喫している。
……不思議な話だった。
正に珍現象。未だにこうしてくつろぎながらも、心のどこかは信じられないでいる。
前の暮らしも楽じゃなかったが、それでも思い出と温かみがある。
「……それはここも同じか」
一体何の因果か、俺の良く知る人の多くはこの屋敷内だけで事足りている。
後は……そうだな、レン、晶、フィアッセと言った所か。
忍たちは海鳴にいるんだろうな。晶も親御さんの元を離れないだろうから、海鳴だろう。
レンはもしかしたらこちら側と思っていたんだが、アメリカに渡ったのか──
「恭也くん?」
「薫さん。こんにちは」
「こんにちは……で良いのかな?」
確か、日本じゃ10時を越えたらそれで良かったかと。
へえ、それは知らなかった。
薫さんは十六夜を手にして、道場の方からやって来た。
固められた土の上に足を適度に開くと、
そしてキン、と綺麗な音を立てて鞘から抜き放つ。
「見てて……くれるかな」
「どうぞ」
俺には分からない、霊力を練っているのだろう。
少々大げさに、独特な呼吸法をしながら黙想している。
かっ、と目を開いたと思うと、裂帛の気合で十六夜を抜き放った。
「──はっ! つぇい!」
……木刀の素振りよりも随分と安定している。
だが、薫さん自体にはまだ変わった所が見えなかった。
ランニングも昨日の今日の話だ。そう変わるものじゃない。
じゃあ一体何が……。
なるほど。昨日と違う物が確かにあった。
“十六夜”だ。
恐らくは、真剣を持つが故に。
そして霊力を込めるが故に。
何よりも、“十六夜”の中にいる十六夜さんの存在が大きいのだろう。
気合と共に繰り出す斬撃は中々なものだった。
── 一際鋭い一撃と共に残心。
きっと、“十六夜”を手放せば昨日とさほど変わらないだろうが、それでも拍手をするだけの物は見せてもらった。
必要なのは“真剣を持つ本番”にどれだけ力を出せるかなのだから。
薫さんは十六夜を鞘に収めると、こちらの左に座った。
恐らくは無意識なのだろうけど、それは戦いに身を置いている人間にしか分からないものだ。
まあ、二刀を遣う不破には対して差が無いわけだが。
「や、ありがと。ちょっと気恥ずかしいな」
「いえ、昨日より格段に良くなっています」
「そっか……やっぱり気持ちの問題かな……」
「どうかしたんですか?」
そう訊ねると、薫さんは少し顔を朱に染めると、何でもない、と首を振った。
どうやら余り聞かれたくないらしい。
まあ、俺に女性を全く理解できないのはわかっている。
これ以上考えることに意味は無いのだろう。
十六夜さんはどうやら出てくるつもりは無いらしい。
ただ、その霊剣がくつくつと笑っているような気がするのは、気のせいだろうか?
と、昨夜考えたトレーニングメニューを渡していないことに気付く。
ポケットを探ってみるが見当たらない。
元々会う予定も無かったから、持ち歩くのを忘れたらしい。
「恭也くん、どげんしたとね?」
「いえ、昨夜約束のメニューを考えて書き留めたはずなんですが、どうやら忘れたみたいです。
夕食前にでも、もう一度会えますかね?」
「うちは構わんよ」
即答だった。
息をつかせる暇も無かった。
それほどまでに早く上達したかったのだろうか?
それを考えると流石に悪い気がしてくる。
「お急ぎなら今から取ってきましょうか?」
「いや、構わない! また夕刻に会おう」
やっぱり即答だった。
しかも何か焦っている。
本当に、何がなんだか……。
太陽が昇り、同時に風が強くなってきた。
夕方か夜には雨が降るかもしれないが、お蔭で暑い思いをしなくて済む。
俺は右脇に置いていた急須を取ると茶を一口。
少しだけ、薫さんも心を開いてくれるようになった(その理由は判らないが)。
聞いておくなら、今かも知れない。
「……薫さん」
「ん?」
どうかしたのかい? と瞳が語っていた。
気遅れしないように深呼吸を一つ。
一息に言い切ってしまう。
「自己治癒のために、霊力の使い方を教えてくれませんか?」
「──っ!」
予想外の事だったためか、薫さんは大きく目を見開いた。
「俺も、心は薫さんにそう変わらないんです。強くないたい。
昨日よりも今日、今日よりも明日、少しでも誰かを守れる力が欲しい」
「そうやとしても…………」
やはり無理か……。
吐きそうになったため息を慌てて抑え、そのまま空を見る。
頭上では風が強い。雲が忙しく流れていくのが見えた。
元々、自己治癒以外に殆んど霊力について望んではいなかったのだが。
霊力というのは門外不出の秘伝のような物なのだろう。
素直に諦めよう。
そう思った時、薫さんがこちらを見る。
瞳は、真っ直ぐと──
「──恭也くんはうちに剣を教えてくれる。それやったら、うちも何かお返しせんとな」
「じゃあ……」
「うん、うちこそ、宜しく」
「宜しくお願いします」
これで少しは目指す場所に早く辿り着けるかもしれない。
そう思うと、自然と笑みが浮かんでいた。
「あ…………」
「──? どうかしましたか?」
「いやいや! 何でんなか。何でんなかよ……。恭也くんは気にせんでいい」
こうなったら絶対に譲らない。
過去に、家族が取った行動と同じ物であった為に、その事が分かった。
きっと聞いても無駄なんだろう。
はぁ。
そうため息を心の中だけでついて、俺は"講義"をお願いすることにした。
──薄く脆くそして斬れる──
──合わせ三本の心の刃──
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