「はぁ……ちょっと偉そうだったかな」
薫さんは先程お風呂に向かった。
ゆっくりと汗と疲れを流してくるらしい。
しかし……さっきは強く言いすぎた。
相手が薫さんじゃなかったら喧嘩になったって不思議じゃ無かった。
空は赤く紅く燃えている。
先程寝転んだ縁側にまで戻り、もう一度転ぶ。
流石に、今度は前回のようにゆったりとしていられなかった。
流れていく雲を見ながら、これから俺と薫さんとのポジションを決める。
あれほど彼女が感情を表に出したのは、過去の俺と今の薫さんがダブって見えるから。
薫さんに技術を教える人はどういう訳かいない。
そして過去に力を求めた俺は、その想いのあまり潰れた。
今の薫さんはまだ助かる余地がある。
今の俺には再び高みを目指せる未来がある。
「まあ要するに、俺は薫さんが潰れないように見て、
俺自身も強くならないといけないって事だな」
なに、トレーニングメニューは今夜にでも暇つぶしがてら考えよう。
今度こそ薫さんもしっかりと聞いてくれるだろう。
「恭也ー、晩飯食うぞー」
「父さん……」
「おう、飯だメシ。めし喰うぞ」
「そんな連発しなくてもわかるから」
「うるせえ、行くぞ」
「……ふぅ」
また今夜の食事も五月蝿くなるんだろうか?
「士郎さん」
「ああ、今度は俺の番だね、あーん」
「いや、士郎さん流石に麺でそれは伸びるかと」
「静馬さん……はい……」
「一臣。今日は嫌な予感がする。やめておくぞ」
「……わかった」
「恭也兄さん」
「お兄さん」
「おにーちゃーん、今日こそなのはのを――」
「やれやれ、恭也、どうやら修羅場みたいだね」
「…………? ……ババア!」
「誰がババアだい!」
ふと声をかけられたかと思うと美影ばあさんが隣にいた。
本当に隣に。すぐ隣に。およそ3センチほど離れて。
美影ばあさんはこちらに流し目を送ると(しつこいようだが外見は30ほど)
ニヤリと笑った。禍々しかった。
美影ばあさんは士郎へと向き直る。
腰を抜かしそうな父さんの姿は初めて見たが、かあさんは何故か平然としている。
……why?
なるほど。殺気をピンポイントで放てるからだな。
殺気さえ感じなければ美影ばあさんほど上品そうに見える人間も少ない。
長い艶のある髪といい(体型は着物に似合わない。着物は平坦な体に合う)、実に生き人形を思わせる美麗さがある。
「士郎言っておいたね?」
「昨日の今日だろっ!?」
「……言っておいたね?」
「はい……」
「良し、後で道場来な」
ガクガクと、いや、カチカチと歯を鳴らす父さん。
果たして俺はどれほど恐ろしい人に暴言を吐いているのだろうか?
それを考えると思わず背筋と言わずうなじと言わず心胆から冷えた。
「さて、美由希、命、なのは。少しその役を私に譲って貰えるかな?
なに、今日だけさね」
『……はい』
「いい子だ。さあ恭也、なに喰らう?」
「自分で食べます」
「士郎ォォォォオオ――――!」
「俺が何をしたーーー!」
――もう本当に、本当に何がなんだか……
「ふう、少し、夕食は苦手だ」
夕食特有の豪華な料理が並んでいるのは良いが、今の自分は常といっていいほどお粥三昧。
喧しさから逃げるようにして自室へと入る。
窓を開いて外を眺める。
「……っと、薫さんのメニューでも作っておくか」
足りないのは主に足腰。
鋭い振りに耐えるだけの絞られて、密度の高い筋肉が出来ていない。
このままじゃ靱帯を痛めるし、関節も危ない。
走りこみと階段駆け。
それと明日は型を確認して貰おうか。
慢錬(まんれん)でじっくりと型をなぞればもう少し良い動きが出来る筈だ。
少なくとも俺の知る薫さんはそれが出来る人だった。
目を瞑り記憶を辿れば剛健というイメージを中心に、全力で太刀を振るう薫さんが浮かぶ。
「問題はまだまだ多い、か……」
そう呟いた時、ゆっくりと障子が開いた。
中からは金色の毛を生やした狐、久遠の姿。
「くおーん、くおーん? 何処いるのー?」
廊下に聞こえてくる那美さんの声。
仕方なく廊下まで出る。
「すいません、恭也さん。久遠見ませんでしたか? あ、子狐なんですが」
「久遠、那美さんが探しているぞ」
「くぅ~ん?」
「久遠っ、もう、勝手に出て行ったら心配するでしょー。すみません、お騒がせして」
「いえ」
頭を下げようとする那美さんを止める。
そんな大層な事じゃないし、そもそも今朝も布団の中に入っていた。
那美さんは恐縮した後、久遠を呼んだ。
「久遠、おいで。ほら」
「…………」
久遠は那美さんに近づくどころか、俺に身体をこすり付ける。
ピシリ、と音を立てる勢いで那美さんの表情が固まった。
何か、ヤバイ予感がする。
こう、沸点到達直前の火山のように…………
「久遠、おいで」
「…………くぅーん」
ふるふると、久遠は首を振ると次の瞬間――
ポンっ!
久遠が変化をした。
まだ不完全らしく耳も尻尾も隠せてはいないが、少女の姿に変わったのは確かだ。
那美さんがパクパクと口を開いて慌てている。
どうやら、この状態に驚き、何とか説明しようとして出来ないのだろう。
これはこちらが声をかける必要が有りそうだな、と思った時、不意に激痛。
息が詰まる。
「ぐっ――! ……ぁぁ、あぁ、アァあ!」
「ちょっ、恭也■■、■■■■■■」
聞こえない。
耳にはこびり付いたように耳鳴り。
だと言うのに心臓の鼓動音だけがやけにうるさい。
……ドクン……ドク……ドックン!
不整脈。
胸に手を当てて掻き毟る。
全身に力が入り、少しでも痛みをやり過ごそうとする。
手にふにゃっとした感触。
――久遠の手だ。
「…………なに? 収まった……」
「だ、大丈夫ですか恭也さん!」
「……ええ、どういうことかは分かりませんが、急に治りました」
訳が分からない。
まるで先程までの苦しさや痛みが夢だったかのようにそっくり消えている。
とりあえず判っているのは、
「久遠、ありがとな」
いまだ話すことが出来ない久遠はコクリと頷いた。
本当にすみません、と那美さんは頭を下げた。
どうやら、今回の俺の急な不調は精神的な負担からだと思っているようだった。
勿論そんな事はない。
元々俺は久遠のことも、封印のことも、そして過去に何が起こったのかさえ知っている。
今の久遠は言うなら不完全体。
それ故に言葉を話すことも出来ない。
後、3,4ヶ月もすれば祟りを祓うか、再封印する必要がある。
と、まあそんな事を那美さんに説明したらまた面倒なことになる訳だが。
だが、先程の痛みはまあ、永い眠りから目覚めた直後という理由があるが、急に収まったのは何故なのか。
……久遠に関係があるとは思えないがなあ…………。
俺は久遠を膝の上に乗せる。
頭を撫でると気持ち良さそうに目を細めた。
髪はさらさらと手触りが良く、普段綺麗に手入れをされているようだった。
強くなりすぎないよう気をつけて、優しく頭を撫でてやる。
那美さんが、あああああ、と落胆の色を帯びた声を上げていた。
……何故なんだろうか?
きっと、俺では到底分からない深い事情があるのだろう……可哀想に。
何か手伝えれば良いのだが、不思議と声を掛けても無駄なような気がする。
まあ、ここは直感を信じよう。
「久遠ー、恨むからねー」
「は? どうかしたんですか?」
「あ、いえいえ! 何もありませんよ~!」
怪しい……酷く怪しいのだが声を掛けられない。
ふと、「お前はそんな所が駄目なんだよ」と赤星の幻聴を聞いた。
数日前まで唯一無二の親友も、今じゃ赤の他人か。
――良い事ばっかりじゃないって事かね。
そろそろ眠りに就こうかという時だった。
障子一枚隔てた二階の廊下の先で、ゆっくりと近づいてくる気配に気付いた。
気配は三つ。
静かに耳を澄ます。
仮にも不破の本家。
廊下はかなり長く、その端の方からのため途切れ途切れにしか聞くことが出来なかった。
「命ちゃん、いいの、■■■なんてしちゃって……」
「なのは、こう■■のは■■■喋ら■い方が良いわよ。
さあ、久遠、あなたは■■に入って辺り■■■てい■ね」
「くぅん」
流石と言うべきか、命の声が一番捉えづらい。
話す場合でも、いかに必要な相手以外に聞かれないか。
その方法と必要性を無意識に知っている。
しかし、何故この三人が、俺が寝るような時間に訪れる必要があるのか。
――ゾクリ
背筋が凍えた。肌があわ立ち毛が逆立つ。
ヤバイ。何がヤバイのか分からないがやば過ぎる。
そう、これではまるで獣に狙われたときの獲物――
躰に上手く力が入らない状態であろうと、何とかここから退避しなくてはならない。
この場は危険だ、逃げなくては。
震える足を叱咤して起き上がる。
その時再び廊下から声が聞こえてきた。
「美影さん……」
「こんばんは。そろそろ子供は寝る時間よ? 早く大きな自分の部屋に戻ったらどうかい?」
「それでも……通して下さい。私は美影さん、お兄さんの所へと向かい、共に朝を迎えるのです」
「それは……できない相談だねぇ」
「くぅん!」
「はっ、久遠。この私が、不破美影があんたの対策をしていなかったとでも!?」
「そんな……雷(いかずち)が……」
……何か知らないが逃げた方が良い。間違い無さそうだ。
こっそりと、繋ぎ戸を開く。
空き部屋から空き部屋へと、気配を絶ってゆっくりと進む。
廊下では絶え間ない戦闘音が聞こえてきた。
――くぃっ、くぃっ
「っ――!」
「兄さん、私です、美由希です」
なんだ、美由希か……。
そう安堵の息をつくと、美由希に睨まれた。
「なんだ、ではありません。それより兄さん、随分と困った様子ですね」
「ああ。何故か全く判らんのだが、人の部屋の前で命となのはと久遠、三人で美影ばあさん相手に戦闘を繰り広げていてな。恐ろしくて寝れたもんじゃない」
「私は、兄さんさえ良ければ……」
楚々、といった動作で、美由希が寄添っていた。
そして気付いた瞬間には腰と背に手が回っている。
「さあ、兄さん、どうぞここへ。さあっ!」
「あ……ああ…………」
なんと言うか気迫に圧倒されて頷くことしか出来なかった。
「お前はそんな所が駄目なんだよ」
うるせえよ。
「…………不覚だ」
目覚めるなり俺は、呆然と呟いていた。
躰にいく箇所かにかかる重みに、不満に思って顔を顰めながら、右腕を見る。
目と鼻の先に、俺の腕を枕にして眠る美由希の姿がある。
今のポジションが心地良いのか、それともいい夢でも見ているのか、
頬がかるく緩んで、微笑している。
訳もなく――――胸が高鳴った。
「いやいやいやいや……」
とりあえず声を出して否定しておく。
俺は別に美由希に惹かれてなんか……いない筈だ。
考えを振り切って少し深呼吸。
別の違和感へと意識を向ける。
「お兄さん……」
「おにいちゃ……くぅー」
「……くぅん」
久遠は布団の上、足と足の丁度真ん中で丸くなっている。
命は横に寝ていたが、同年代でもかなり高めの身長のため、布団から半分ほどがはみ出ている。
そしてなのはは――――
どうやら、寝相が悪いのはここでも変わらないらしい。
どうやったのか部屋の一番端で丸くなっている。正直少し寒そうだった。
だが、だ。
一体どうやって気配を感じさせずにここまで近寄ったのだろうか?
少なくとも昨朝のように、堂々と布団の中で久遠が眠れるほどの油断は無かった。
部屋に入った瞬間に、いわゆる結界のような物を持ったまま寝たはずだった。
その結界に触れること無く近寄れる人間なんて、これまでなら美沙斗さん位のものだったはずなのだが……
「――そりゃ、私がしっかりと手引きしてやったからね」
「――――ッ!?」
驚いた。それはもう本当に。
流石は美沙斗の母、もとい美影ババア。
恐らく、何も言われなかったら殺されてても気付かなかっただろう。
これは既に人の域を超えた所業だ。
生き神には一生なれないだろうが、生き妖(あやかし)になら既になっているかもしれない。
失礼だね、と美影ばあさんは言った。
「それで、何の用ですか? 貴女は確かに遊ぶ時は異様なまでにはっちゃけますが、それでも人の起床直後に訪れるような性格じゃない。それだったらついて来る人もいませんしね」
「鋭いね。そういう子は好きだよ。なんせ話が早く済んで良い。今日、昼ご飯食べたら私の部屋に御出で(おいで)。大切な話をしよう」
「分かりました」
それじゃあ、というと次の瞬間には美影さんは気配を消して出て行った。
目で見ていても、集中していないとその場にいる事さえ気付かない程の穏行だった。
……恐ろしい。
美影ばあさんがいなくなってから、三十分ほどが経った。
俺の体内時計に狂いがなければ、5時半といった所だろう。
例え躰が変わっていても、意識が変わっていなければ習慣は消えないようだった。
美由希が身を震わせた。
ぱちり、と目を開けると視線が合う。
途端ににこりと笑顔。
こちらが照れてしまうような透き通った笑みだ。
「おはようございます。兄さん」
「おはよう、美由希。
……ん? そう言えば気付かなかったが、何でお前不破の家で寝てるんだ?
お前御神で暮らしてるんじゃないのか?」
「ええ、そうですよ? 高校入学を機に、こちらから学校に通うことにしました。
私の部屋はここですので、いつでも来て下さいね」
なんと言うか……行動力のある奴だな。
こちらの方が学校に近いんだろうか?
まあ、こちらとしても毎日顔を合わすのは嬉しい。
特別気にすることもないだろう。
「それでは兄さん、これから朝の鍛錬がありますので」
「ああ、頑張れよ」
そう言うと、美由希は重苦しく、そしてわざとらしくため息を吐く。
鋭い眼つきで睨まれた。
「鍛錬のためには着替えないといけません。
それとも兄さん、貴方は嫁入り前の私の裸体を見ていくつもりですか?
責任さえとって頂けるでしたら、私は幾らでも結構ですが……」
「スマン!」
冗談じゃない。
慌てて部屋を出る。
ついでに一言。
「美由希」
「はい?」
「今日はありがとう」
「……どういたしまして!」
それから自室に戻ってゆっくりとした後、朝食を取った。
朝の食事風景はいつも通りだった。
ここでは言いたくも無いし、割愛しよう。
ただ、また静馬さんが壊れた、とだけ。
直さない
ぜったいに手直ししないぞおおお!