改めて見れば不破家は果てしなく広い。
果たしてどれほどの敷地が有るのか。
ゆっくりと敷地内を歩けば、それだけで一日の暇を潰せそうだ。
かつて、御神と不破の家が表向き名士としての顔を持っていた事を思い出した。
車椅子を押され不破家の門まで来ると、既に待ち構えていたのか一人の初老の男が静かに頭を下げた。
「お久しぶりです、恭也様」
「呼び捨てで構いませんよ、玄さん」
応えてからこの人の名前を思い出した。
排他的な側面を持つ不破の家にあって、数少ない信用された使用人の一人。
名前を完全には思い出せないが、皆から玄さんと呼ばれていた。
常に着物を着て、庭の掃除やらを手際良くこなす人だった。
美影さんに重用されていた気がする。
「玄さん、とりあえず中に入ろうか。それと温かい飲み物でも」
「はい、御当主。恭也様のお部屋も片しておきましたので、お使い下さい。それでは恭也さん、これからはどうかワシを使ってやって下さい。一度助けられた命、今度はワシが返す番です」
玄さんは軽業師のような軽い足取りで門へとくぐって行った。
後姿が本当に嬉しそうで、やっと自分は不破家に帰ってきたのだと、そう自覚することが出来た。
「それじゃあ恭也、中に入ろうか」
「はい」
美沙斗さんの声と共に、俺の座る車椅子はゆっくりと進んだ。
○
10畳ほどの広さだろうか。
部屋には美沙斗さんと一臣さんがいる。
静馬さんは本家の方に報告に行くらしい。
去り際に夕食は一緒にしよう、と言っていたのを思い出す。
いかにも和室然、といった俺の部屋は、何年も使われていないとは思えないほど、塵一つ無い。
一臣さんが言うには、
「そりゃまあ、電話が来て使用人全員で掃除してたからね」
だそうだ。
俺は柔らかい、二枚重ねにされた座布団の上に座る。
直接固い床に座るには、少々肉がなさ過ぎる。
実は座っているだけで貧血が起きるときがある。寝たきりの状態が続くと、血圧が低下してそうなるらしい。起立性低血圧というそうだ。
さて、絶対安静の筈の自分が意識を取り戻してその日の内に退院したのには訳がある。
まず、不破にも病院ほどではないが医療関係の器材はある。
お抱えの医師も居る。
だが、俺自身が意識を取り戻した、というのが何よりも厄介なのだ。
植物状態となって寝ている者に危険は無いから、いかなる外敵も目を付けることはない。
だが、それも目を覚ましてしまえば脅威の対象の一つとして見られることになる。
病院という閉鎖的な空間の中では、防衛ははるかに難しくなる。
結果、結界の存在すら考えられる本家へと早々に帰ることが決定した――というわけだ。
「さて、一体どこから話せばいいかな?」
正面。
美沙斗さんが真っ直ぐにこちらを向いて訊ねる。
記憶が混乱していると言い、これまでの経緯を話して貰うことになったのだ。
「それでは、俺が倒れる……そうですね、半月ほど前からお願いします」
「分かった。所々抜ける場所は他の人にも聞いてもらおう」
そう言って、美沙斗さんは思い出すように瞳を閉じ、ぽつりぽつりと語りだした。
……灰色の曇った空が頭上を覆っていた。
薄暗く、今にも一雨がきそうな天気。
6月の梅雨時らしく、空気は湿気を帯びて生暖かい風が肌に纏わりつく。
梅雨時は嫌いだ……。
日本で一番嫌な季節とも言えるだろう。
恭也は視線を空から前へと移した。
左手には大きな屋敷。右手には普通の一件家屋が並んでいるそこは不破の本家だ。
家は恭也にとって現当主・不破一臣叔父と、御神琴絵伯母との結婚式の準備に追われている。
式を不破の本家で行うのは、一臣さんが当主という地位にあるためだ。
もし御神側で開くことになれば、それは同時に不破が当主を失うことになる。
……のだそうだが、まだ幼い恭也にそこまでは理解できていない。
実際の所がどうであれ、二人の結婚が恭也にとって嬉しくないわけも無く。
ただ、その前準備にもなると自分が暇だ、という以外に問題はない。
門を中心に人はごった返しているし、邪魔になるくらいなら警備を兼ねて散歩をしよう、と思い立ったのが既に30分も前のこと。
ただ意味もなく歩くくらいなら、トレーニングとして走った方が躰に楽だったりする。
退屈さに溜息をつき、恭也は仕方なく二週目になる散歩を続行することにする。
本当なら一周するのに30分できくはずが無いのだが、門の中を通っていたりすれば話は別になってくる。
ぶらりぶらりと歩き続ける。
外壁越しに抑えられながらも充足した気配の数々。
一部の琴絵さんを狙っていた男の人たちだけが妙に荒れているが、それも式が始まってしまえばどうという事は無いのだろう。
『本当に……幸せになって欲しい』
皆が口をそろえてそう言う。
それは士郎にしても静馬にしても同じらしく、二人を見る目は温かい。
長い間、ずっと体を患っていたために、一臣との結婚も延び延びになっていたという。
それが明後日に結婚する。
二人の仲は既に新婚と変わらないが、それは言わぬが華という奴だろうか。
思わず苦笑を漏らした。
そのまま歩き続けていると、目に入るものがあった。
前方には小さな箱を幾つも抱えて忙しそうに動き回る一人の男。
……おかしい。
何がおかしい?
違和感の正体はなんだ?
気づけ。気付かなきゃいけない。
この背筋を震わせる悪寒の正体は何なのか。
一体どんな違和感が俺をここまで追い詰めるのか……。
「ああ、そうか…………そうだったのか」
――――違和感。
男の服装。そして何故門から離れたこんな場所にいるのか。
凍えるような、わずかに漏れ出した殺気。
「少し考えてみれば分かることじゃないか……」
――刺客。 ならば己に出来る事は何だろう。
恭也は気配を殺していきながら思考をめぐらせる。
他の人に知らせる?
それとも自分一人で戦う?
自分の体格に合わせた小太刀は持っているし、戦うことは可能だろう。
他の人間に知らせている間に爆弾が仕掛けられている可能性もある。
さて、どうしようか。
そう考えたとき、不意に男が振り返った。
気配を殺しきれていなかったのか。
一瞬目を見開き、次の瞬間には嘲笑が浮かぶ。
それはこちらを格下として見た、という事だ。
――上等っ!
湧き上がる、自分自身でも自覚していなかった闘志。
子供であるという特長を活かして、気付かない振りをする、という選択肢を選ぶつもりにはなれなかった。 歩みを走りに変え、ぱちりと小太刀のホルスターを外した。
相手まであと、10歩という距離だった。