――果たして俺は何に対して不信感を抱いたのだろうか?
「私たちが駆けつけた時には、二人ともが倒れていた」
美沙斗姉さんが話を括る。
それと同時に恭也君が唸り、ふむと一度頷く。
何という落ち着いた姿だろう。
八年という“記憶”、十八歳の“肉体”。
だが、この精神力は成年し、苦労と辛酸を舐めた者でしかつかない様なレベルだ。
黒く分厚い服。
その一枚下には見るも無残に痩せ細った躰がある。
恭也君は手を幾度か握る。
動作はまるで自らの肉体を確認している様に思える。
考えてみれば小さな頃から大人びた子どもだった。
兄さんと並んでいれば口調は穏やかで、言葉数は少なく、それでいて節々からは優しさを感じた。
よく、どちらが親なのかと揶揄したものだ。
あの頃から恭也君はこんな姿だっただろうか?
――そんな気もする。
恭也君なら不思議ではないと、そう思う自分がいる。
単身俺と琴絵を――――いや、御神と不破のみんなを守ってくれた恭也君ならば在り得ると、思っている自分がいる。
そうだ。
恭也君が如何に落ち着いていても、それは悪い事ではない。
むしろ精神的成長が有ると云うのなら、俺たちはそれを喜ばなければならない。
「失礼します」
思考に没頭していると、玄さんが断りを入れて部屋に入ってくる。
この人の名前を俺は知らない。
唯いつからか玄さんと呼ばれていて、俺も気にせず玄さんと呼んでいる。
料理は出来るし、植木の整理も手早く仕事は速い。
いつも和服を着て鳶のような軽い足取りでいつも歩いている。
玄さんは俺達の前にそれぞれ違った飲み物を置くと退室した。
恭也君は牛乳をちびちびと、まるで子どもの様に飲む。
その姿に、異常に安心した。
おかしな話だ。
子どもっぽい姿に違和感を感じながらも、そう在るコトに安心するなんて。
――――なるほど。
つまり俺は、この時点で恭也君を大人と認めてしまっているらしい。
士郎兄さんの事をいつ話し出そうか。
そう思うと俺は、暗雲な気持ちを抑え、苦笑しながら時期を窺う事にした。
不破恭也兄さんが私を、そして大切な家族を護った。
私はそう言われて育った。
主に言い聞かせたのは美影お婆様だった。
和室に遊びに行った私に対して、お婆様は短く、何度か教えて下さった。
幼い頃の記憶――――余りにも小さすぎて、私には余り恭也兄さんの記憶が残っていない。
ただ、笑った時の笑顔がとても優しくて。
ほんの少し目が怖くて、何かの拍子に泣いた私を撫でてくれた。
頭に触れる手のひらは、今の私でも敵わない位にゴツゴツと力強そうで、私は困った表情ではにかむ兄さんの表情を見て、泣き止んだのだ。
それは、何と色あせて、今更全てを思い返したいと望みながら、手に入らない甘美な記憶なんだろう。
「三年五組御神美由希、お母さんから電話が着ています。至急職員室まで――――」
何だろうか?
私は慌てて机を立ち上がる。
卒業式を数日後に控えた教室は喧騒に包まれていて、クラスの何人かは私に視線を向けてくる。
その時授業をしていた国語の教師に軽く頭を下げると私は廊下に出る。
一体何の用だろうか。どちらにしろ、余り良いニュースとは思えない。
御神の家柄を考えると襲撃が入ったのか、はたまた学校の近くに襲撃者が待ち受けているのだろうか?
人の居ない廊下は伽藍としていて、自分の押し殺した足音が響いている。
トクン――
「あれ?」
一体どういう事か、私の胸は何かを暗示するように一度だけ大きく跳ねた。
学校に入った一本の電話。
それを元に、私は学校から全力で走り続けている。
黒に近い濃紺のセーラーは動きを阻害するし、学生鞄は走るのに酷く適していない。
兄さんがようやく目覚めたのに――――
ようやく目覚めてくれたというのに。
私は何故、こんなにもゆっくりと走っているのだろう。
あと一歩前に、更に一歩分速く。
ペースを考えない疾走は逆に息を乱して、呼吸はかすれてとても熱い。
それだも、私はペースを落としたくなかった。
少しでも甘える事を許してしまえば、二度と兄さんに会えないような気がして。
二度と、面と向かって顔を合わすことが出来な気がして。
……嫌だ。そんな事は許せない。
二度と会えないなんて想像しただけで私の背筋は寒くなる。
一度救われたこの命。
今度は私が護るんだ。
あの日の手のひらの暖かさ。
はにかむ笑顔の優しさと、私たちを護って倒れたという事実。
もつれ掛ける足を気力だけで支えながら角を曲がる。
ここから二百メートル走れば不破の表門が見えてくる。
兄さんにもう直ぐ会える。
そう思うと少しの間だけ、息切れが止まる。
門を潜る。兄さんの部屋は昔から少しも変わっていない。
私は息を整え、兄さんに無作法を指摘されないようゆっくりと階段を上がる。
早く会いたいとそれだけを望みながら――――
私の足は障子の前で固まった。
忘れられていたらどうしようか。
いや、そもそもにして私の想う兄さんですらなかったら?
心が凍りつく。
障子一枚を隔てた向こう側、果たして待っているのは歓喜か、絶望か。
私はすっと障子を開いた。
いつから気付いていたのだろうか。
恭也兄さんはこちらを見て微笑を浮かべている。
――何故だろう?
胸からこみ上げてくるよく分からない感情に、私は涙しているらしい。
変わらない。
私の記憶にある最後の光景と、兄さんは変わっていない。
その姿は身長が伸びてしまっている。
その姿は余りにも細く弱々しい。
だけども、それでも――――ここに居るのは、紛れもなく恭也兄さんに違いない。
「兄さん、本当に……恭也兄さんなんですね」
「ああ、美由希……ちょっと変わったな」
はにかんだ笑み。
兄さんは逆に少しも変わってない。
私が一体、どれだけ、心配……したと――!
気付けば走っている。
兄さんの胸に顔をうずめ、胸に浮かんだ想いを躊躇せずに吐き出す。
「恭也、兄さん。恭也兄さん――ッ! ……良かった。もう、無茶はしないで、兄さん、と、話せないなんて、もう私、耐えられないよ」
「すまない……、すまなかった。もう大丈夫だ」
背中を優しく撫で擦られる。
手のひらは温かくて。
記憶に残る感触よりも少しだけ、骨ばっていた。
次回からは神咲編と読んでいたストーリーに進みます。
忙しくなっちゃったので、タイミングを見てガガッと更新予定!
しばしお待ちを!