胡蝶の夢   作:CHAOS(1)

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10話

 痛み。

 筋肉の悲鳴で目が覚める。

 飛び上がり、それによってもう一度激痛。

 一瞬にして脳が覚醒した。

 恐らくは、酷使した筋肉は傷つき、ボロボロになっている事なのだろう。

 

「朝……か」

 

 呟いて起きる。

 空はまだ暗い。午前四時半、近頃特に起きる時間が早くなってきた。

 もはや病院で目覚めた時のように、体を起こすだけで息を切らすような事はない。

 もっとも、この二三日、筋肉痛が休まる事もないのだが。

 それもこれも、やっとの事筋力トレーニングを再開できる様になったからだ。

 

 障子を開ける。

 伸びをしながら寒気に身を震わせる。

 あと三日で四月。

 布団は薄めの物に変わっているし、昼にもなると暖気はかなりの物だが、やはり朝は寒い。

 寝巻きを着替え部屋を後にする。

 今日は――フィアッセが帰ってくる日だ。

 

 

 

 洗面台で顔を洗いながら思う。

 帰ってくるという表現は正しくないのかもしれない。

 何せ、フィアッセは喉を壊す事もなく、ティオレさんと競演も果たしているのだから。

 だけど、俺は敢えてフィアッセが帰ってくるのだと思いたい。

 顔をタオルで拭きながら思考を続ける。

 

 足は道場へと真っ直ぐに。

 俺が寝ている間、フィアッセは何度も不破の家に訪れていたのだと聞いた。

 そして美由希や父さん達に会い、病院にも訪れていたらしい。

 まあ、俺は寝ていた為に記憶は無いわけだし、そもそもにしてここが本当に現実なのか、まだ受け入れられていない。

 

 ――都合の良い夢。

 

 ある時に目が覚めて、寂寥感と共に惜しいな、何て思う可能性だってあるのだ。

 

「おはようございます」

「おはようございます、薫さん。……今日も俺の負けですか」

「教えを受ける身としては負けられんかんね」

 

 道場に入ったと同時に薫さんの挨拶。

 今日は俺の方が早いかと思ったのだが、そんな事はない。

 薫さんは俺が道場に来る前から常に準備をしているらしい。

 誰かに師事する者として当然とも言えるのだが、薫さんのそういう確りとした所は気持ちいい。

 

 何せ――他の場所と違い、俺の目覚めは特に早いものだから。

 本当だったら薫さんだってもう少し眠っていたい筈なのだ。

 その薫さんは、ほんの軽いウォーミングアップだけ終え、今は道場の隅で正座している。 そしてお互いと、道場への一礼の後、すっと立ち上がった。

 

「それじゃあ、始めましょうか」

「お願いします」

 

 今日も同じ様に、いつも通りの鍛錬が始まる。

 何時しか俺は、薫さんにコーチとして認められたようだった。

 

 霊剣十六夜が空を斬る。

 重い風の斬る音。受けた刀ごと断ち切られるような一撃。

 踏み込みは強く、そして鋭い。

 仮想の敵に対し道場内をかなりの速度で走り回りながる。

 

 十六夜からはかすかに霊力を感じ取れる。

 朝は霊力を使った鍛錬。

 昼はゆっくりと筋肉に酸素を送り込むようにして走りこみ。

 夕方に鉛入りの真剣で型の練習。

 始めてから一週間を越えた。

 

 ゆっくりと造り変えられてゆく細胞の一つ一つ。

 より柔軟に、より強靭に。

 筋繊維の一本から皮膚に至るまで。

 二の腕がまず一回り大きくなった。

 大幅な握力の増大が目に見えて分かる。

 

 踏み込みに、平行移動に安定性がついてきた。

 体力が付き始まると同時に、鍛錬の密度も濃さを増す。

 始めてから今日まで一週間。

 もう一週間もすれば無駄な筋肉も大分落ちている事だろう。

 実の所、先が楽しみだったりする。

 

「いやぁあぁぁぁ!!」

 

 本当に頑張る。

 表情は真剣そのもの。

 額から流れる汗も気にせず、振りかぶり方、足の出し方、それらを気にしながらも最速の一撃。

 剣先に至るまで駆け巡る重厚な霊力。

 姿を見せ始めた朝陽が道場に射しこみ、飛び散る汗がきらきらと輝く。

 

 張り付いた前髪、しっとりと流れる長い髪。

 凛々しい顔立ちと放たれる気迫に満ちた声。

 少しだけ、悪戯がしたくなるのは悪い癖という奴だ。

 気を煉る。

 呼吸を絡めて膨れ上げさせ、密度を伴って――――殺気を叩き付けた。

 

「っ――――!? ツェェイヤァァアアアッッッ!」

 

 ――燐光。

 十六夜から発された光は一気に開放され、驚愕に顔を歪めた薫さんの手によって体現する。

 振り被られた十六夜。

 凝縮された霊気を見て確信する。

 当たれば死ぬぞ、これは。

 腰は半身に、直ぐにでも飛べるよう踵を浮かしてはいるが、果たして避けれるかどうか。

 

「薫! 落ち着きなさい!」

 

 鋭い声と共に、十六夜からの光が急速に消えていく。

 十六夜さん、感謝しますよ……。

 振り被ったまま茫然自失といった様子の薫さん。

 口をあんぐりと開けている姿からは普段の凛々しさは一片も感じられず、少し面白かっ――――

 

「恭也君!!!!!!!!!」

 

 ――――訂正。

 少しも面白くないです。

 鬼か悪魔かと思われる強烈な表情で睨まれている。

 並の人間ならこれだけで尿を撒き散らして気絶しているだろう。

 恐るべし薫さん!

 

 

 

 ……そういう訳で説教のお時間です。

 俺は正座、薫さんは仁王立ち。組まれた腕が凛々しくて良い。

 十六夜さんは薫さんの後ろで「あらあらまあまあ」なんてのほほんとした顔で左右に飛んでいる。

 後ろだけを見ていれば少しも緊迫感がない。

 だが、目の前の人物は違う。

 どうやらご立腹のようだ。悪戯が過ぎたらしい。

 

「……なしてあげな事したと」

「むう」

 

 何気に本気で怒っているのか、鹿児島弁で話されている。

 額を見ればピクピクと青筋が痙攣していて、実に恐ろしい。

 正直に話すべきだろうか。面白半分、本音半分で薫さんの実力が見たかったと。

 いや、何も莫迦正直に総てを話す事も有るまい。

 

「薫さんの成長を見たかったんですが……すみません……」

 

 謝罪の気持ちは本心から。

 正座のまま頭を下げる。

 

「あっ、いや……その、そんなに真っ直ぐ謝られるとこちらが……別にうちは恭也くん……ゴニョゴニョ」

 

 薫さんは赤面してよく分からない小さな声で呟いている。

 とりあえず、許されたらしい。

 頭を上げる。視線が合う。

 

「――っ、うちはちょっと、顔を洗ってくる!」

「行ってらっしゃい……」

 

 走るは神速。

 あっという間に薫さんは道場を出て行ってしまう。

 もしかして、薫さんは体調でも悪かったんだろうか?

 そんな時に殺気をぶつければ過敏に反応するのは当然だ。

 しまったな……許しては貰えたが、もう一度後で謝っておいた方が良いか……。

 その時、押し殺した笑い声が聞こえる。

 

「十六夜さん?」

「いえ、少し薫の姿がおかしかった物で。しかし、そうですか、薫が……」

 

 十六夜さんは顔をほころばせてくすくすと笑っている。

 思わず見惚れるような優しい笑みだった。

 

「はい? 薫さんがどうかしたのですか?」

「恭也様……はぁ。薫も、どうやら苦労をしそうですねぇ……」

「――――?」

 

 十六夜さんは時に不思議な事を言うな。

 元々霊剣として存在しているからだろうか?

 それとも外国の方と云うのに原因があるのかもしれない。

 ともかくとして。

 

「大丈夫だと思いますよ?」

「それはどうしてでしょうか?」

「薫さんの傍には、いつだって十六夜さんが居ますから。俺も、十六夜さんみたいな人が傍にいれば無茶が減って良いんですけど」

「っ――――!」

 

 半分は本音で、半分は冗談交じりに言った言葉に対し、十六夜さんが息を飲んだ。

 ……むう、十六夜さんまで真っ赤に。

 季節代わりの風邪か? いや、そもそもにして霊剣が風邪を引くのか……分からん。

 

「おにーちゃーん。朝ご飯の準備できたよー」

「そうか、直ぐ行く! それでは十六夜さん、俺はこれから食事を摂りますが、霊剣の方はどうしましょう」

「あ、それでは母屋の方に運んで頂けますか?」

「喜んで」

「あぁ……」

 

 十六夜さんはうっとりとした声で霊剣十六夜の中に入っていく。

 まったく――――最近不思議な事ばっかりだ。

 

 

 

 いただきます。

 朝食は厳(おごそ)かに、そして静かに始まった。

 カチャカチャと食器と箸の音だけが部屋に響く。

 ふっくらと炊けたご飯とベーコン付きの二目目玉焼き。

 海苔と梅干とサラダが一つ、和食の料理が膳に並ぶ。

 ご飯を口に入れると水気と僅かな粘り、そして甘さが感じられる。

 よく炊けた美味しいご飯だ。

 

「恭也、醤油」

「はい」

 

 父さんに醤油注しを渡す。

 そのついでに皿に置かれてある梅干を一つ。

 

「しかし、恭也は回復が早いな」

 

 琴絵さんが感慨深い様子で言う。

 確かにまあ、十年ぶりに目覚めて一週間で動けたのは、自分ながら異常な回復速度だ。

 それもまあ、時折してくれる那美さんの霊力治癒と、呼吸法が有ってこそなのだが。

 神咲の人には本当に頭が上がらない状態だ。

 

「お兄さん、おかわりはどうですか?」

「ああ、頂こう」

「……どうぞ」

「命ちゃんばっかりずるいよー」

「ふん、こういうのは早い者勝ちって昔っから決まってるのよ、なのは」

 

 碗に飯を入れるかどうかで可愛く言い争っているなのはと命。

 

「ああ命、父さんにもご飯を装ってくれないか?」

「お父様はご自分でどうぞ」

「――――っ!? きょ、恭也君! 俺のたった一つの楽しっぐぇ! ごあ! ぐあぉ……」

 

 地獄の叫びかと思うように低く苦しげな呻き声。

 

「煩いよ、一臣」

 

 美影さんだ。

 文字通り“素振りも見えなかった”のだが、多分美影さんがやったんだろう。

 一臣さんは倒れこむ事すら出来ず悶えている。

 手を当てている所から見て、恐らくは肝臓か。

 徹でも込められていたのだろうが、下手したら死に掛けるぞ。

 

「……一臣」

「ああ、琴絵……俺はもう駄目だ。せめて最後はお前の柔らかな太ももの上で……」

「親という漢字は木の上に、立って、見ると書く。子供同士の話に嫉妬するような男を、私は旦那とは認めない」

「あうあうあうあうあうあう……」

 

 何だか、一臣さんが哀れだ。

 憐憫の情がひしひしと向かって行くのが感じられる。

 

「さあ、飯を続けよう」

 

 とりなす様に美沙斗さんが言う。

 今日は静馬さんとやらしー事にならないんだな。

 飛んできた鋼鉄製の箸のせいで、その言葉が口から出ることは無かった。

 というより美沙斗さん、照れ隠しにそんな物投げないで下さい。

 

 

 

 食事を終えて、朝の貴重な時間を盆栽「春風」の世話をする事にする。

 前ならば食後直ぐの鍛錬も出来たのだが、昨日試してみて死に掛けた。以後気をつけよう。

 そういえば薫さんは朝の走りこみに行ってしまったな。

 ……少し話がしたかったのだが、仕方あるまい。

 

「……ふむぅ」

 

 気分を入れ替えて目の前に集中する。

 ギシリ、と安物のパイプ椅子が音を立てる。

 まだ快調と言えない躰の為用意してもらった物だ。

 浅く腰を沈めながら、視界の先、切るべきか否かの新たな芽がある。

 手なずけられた自然ではなく、荒々しさに惚れた鉢だけあって、手を着けるべきかどうか悩む所だ。

 睨めっこをしながら目を瞑り想像してみる。

 ……うむむ。手を加えない方がここは良いか……。

 

「兄さん」

「美由希か……どうした?」

「いいえ。兄さんが鍛錬以外で熱中している様子でしたから」

 

 何だかそれだと俺が鍛錬以外に興味が無いように聞こえるな。

 勝手に納得している美由希には一言言っておく必要があるかも知れない。

 俺は釣りも趣味なんだ、と。

 ――っと、話しかけようと思ったのだが、口を閉じた。

 美由希は何やら真剣な様子で春風を見つめている。

 ふむふむと頷くと、こちらを見てにこりと破顔。

 

「盆栽も、中々の物ですね」

 

 ………………。

 頭が一瞬、真っ白になった。

 いつもの記憶だと、枯れているだの、年より臭いだのと言われていたのだから、この一言は強烈だった。

 驚いて顔を見回す。

 瞳には嘘を言っているようには思えない。

 本音なのだろうか?

 本心から言っている……それが解ると同時、ふつふつと喜びが湧き上がってくる。

 

「そうか……、漸く解ってくれたんだな!」

「に、兄さんっ!?」

 

 抱きしめていた。

 嬉しくって頭をなでなで。長く伸びた墨のような髪はさらさらと柔らかく指先にほどける。

 髪を櫛いてやりながら、背中を撫でる。

 そうかそうか。ようやく、漸く美由希もこの良さが…………

 何故か、美由希が暴れた。

 

「全くもう! 兄さんにはデリカシーが欠けています!」

「む」

「もう少し女性というものを考えて下さい」

「むう」

 

 真っ赤な顔をして、よっぽど恥ずかしかったのだろうか?

 俺たちは兄妹だというのに……いや、今は違ったんだな。

 

「美沙斗さんが言ってたぞ」

「な、何と……?」

「お前、実は俺の――――」

「失礼します!」

 

 美由希が空恐ろしい速度でその場を後にした。

 むう……。

 やはり美沙斗さんの言葉は勘違いだったのか。

 しかし、脱兎の如く逃げられるとは、俺も嫌われたものだ。

 

「ふぅ……」

 

 恋人になるとか、そういう事を別にして、美由希に嫌われているなら少し悲しいかな。

 

 

 

 

実/マコトと虚ろの二面世界

此方と其方の二つの世界

二つは一つ 一つは二つ

水面/ミナモに虚ろぐ月世界

目を凝らせ

心眼を見極めよ

鏡の世界は似て異なる物よ

 


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