「人間に成りたい……か。甘ちゃんめ」
瑞樹を別荘から送り出し、一人残されたエヴァンジェリンは半ば苛立たしそうに言った。
『人間になる方法とかってないかな?』
何かを期待するかのように言った瑞樹の言葉。
エヴァンジェリンは、その時の何かに期待をする瑞樹の表情にかつての自分を重ねていた。
知らず知らずの間に吸血鬼へと変わってしまった自分。
かつては確かに、元の人間に戻ることだけを夢見ていた。不死という存在である自分ならば、何時かそれを見つけることも出来るのではないか? と、そう思っていたからだ。しかし10年が経ち、20年が経ち、100年以上が経過する頃には、其のような希望も無くしてしまっていた。
いや、正確には受け入れるようになってしまったのだ。
現在の、吸血鬼という自分のことを。
またエヴァンジェリンは言わなかったが、実のところ三只眼が人間になる方法を彼女は知っている。そして、それが不可能なことで有ることも同時に知っていた。
それを瑞樹に教えなかったことに、どのような意味があるのかは解らないが。
「まぁ良いさ。いずれアイツも気がつくだろう。そのような思いは、自分にとって邪魔にしかならない、取るに足らない無駄なモノだとな」
何処か寂しさを感じさせるような口調で、エヴァンジェリンは誰に対して言ったのか?
それを聞いている者は――1人だけいた。
「御主人」
「なんだ、チャチャゼロ?」
「イヤ、流石ハ経験者ノ言葉ハ違ウナ?」
「お前はいちいち一言余計だ!」
※
「うわぁ。本当に日が暮れた程度だよ」
エヴァンジェリンの家を出て、瑞樹は1人で暗い森の中を歩いていた。
本当に同じ日にちなのかは解らないが、自分がこの場所に来た時のことを考えれば恐らくはエヴァンジェリンの言うとおり、別荘とコッチの世界では時間の流れが違うのであろう。
「夏休みの最後の日に入り浸れば、それだけで宿題とか余裕じゃないか?」
幾分駄目人間的な発想をする瑞樹だが、まぁ一般高校生ということを考えれば致し方ないのかもしれない。
結局あの後、瑞樹は別荘にプラス1日。まる二日間ユックリしていた。
とはいえ、それは何も瑞樹がユックリしたいと駄々をこねた訳ではない。エヴァンジェリンが瑞樹にけしかけた諸々の出来事で、ボロボロに成ってしまった服の代わりを選ぶのに時間がかかったに過ぎない。
最初はエヴァンジェリンが何を考えたのか、上下黒の執事服を執拗に押してきたのだが、瑞樹がそれを頑なに拒否。その後に羽織袴、浴衣、チャンパオ等と趣味的な服を進めてきたのだが、結局はジーパンにシャツ、それと革ジャンといった服装に落ち着いた。とはいえサイズ的には申し分ないが、何故にエヴァンジェリンがこのような服を持っていたのかは瑞樹には検討もつかなかった。
「えっと……未だ今日は日付が変わる前だから、明日の時間割は」
未舗装の森の中を走りながら、瑞樹は明日の時間割に関して考えている。
すると
「ん?」
カー、カー、カー
突然、辺りから鴉の鳴き声を聞こえ出した。
普通なら気にも留めないような出来事だが、しかしその鳴き声は次第に大きく、そして
カー、カー、カー
数も増していく。
バサバサといった羽音が聞こえ、暗がりであるため定かではないが数羽~数十羽の鴉が瑞樹の周りに集まるようにして、次々と樹の枝へと飛び降りてくる。
「なんだ? 一体、なにが?」
流石に異常な状況だと気がついたのか、足を止めて辺りを訝しげに見回す瑞樹。
だが、その間にも鴉の鳴き声を数を増していく。
(これは、ある意味幽霊が見える以上に嫌な予感がするな)
背筋を冷や汗が伝い、瑞樹は唇をペロリと舐めた。
そしてスゥっと一歩だけ、その場から動き出そうとしてみるが
バッ!
木の枝から鴉が一羽、勢い良く飛び出してくる。
「ッ!?」
瑞樹は咄嗟にその鴉に反応するが、
ピ――ッ!
頬に一筋の赤い線が走った、
ジワリと滲む血液、飛び込んできた鴉によって切り裂かれたのだ。
「何なんだコイツ等!」
途端に嫌な予感が現実味を帯びてくる。
瑞樹は表情を顰めて、ジィっと森の奥へと視線を向けた。
出口――要は街中のことだが、其処まで到達するには未だに距離が残っている。
「ゆっくりとはしていられない――オワっと!」
跳ねるようにして飛び下ると、今まで居た場所への軌道をとって鴉の群れが飛来してくる。しかし、ホンの少し避けた程度では意味は無いのだろう、鴉は再びフワリと上昇すると、瑞樹に向かって降下を開始してきた。
瑞樹はそれを
「やってられるかよ!」
確認するまでもなく、一目散に駈け出して退避する。
瑞樹の判断は格好悪い? とは、言えないだろう。鴉の嘴は思いの外に鋭く、また咬む力にも優れているため肉などをアッサリと引き千切る事もできる。下手をすれば引っ掻かれた程度では済まない可能性もあるのだ。
瑞樹は走りながら背後に注意を向けるが、其処には鴉の1団が群れをなして追いかけてくる。
それなりの速度で走っている瑞樹だが、空を飛ぶ彼等には勝てないのか、一向に突き放せる様子はない。そもそも鴉は鳥目ではなかったのだろうか? といった疑問も浮かぶが、こうして着いて来ている以上余りその疑問に意味は無いだろ。
暫くそうやって走っていると
「ん? 明かり?」
森の切れ間、街へと続く通りが見え始めた。しかし瑞樹は上空を飛ぶ鴉の集団に軽く視線を向けると、
「あぁ! もぅっ!」
一声上げて、再び森の中へ回れ右をしたのであった。
「幾らなんでも、こんな連中を連れて行く訳にはいかないもんな!」
森の中へと戻る瑞樹は、一向に減らない――其処か、少しづつその数を増やしていく鴉に舌打ちをする。
街中にこんな数の鴉を飛び込ませては、先ず間違いなく大混乱に成ってしまうだろう。流石に、『自分が助かるなら後はどうでも』とは考えられないらしい。
とは言え、こんなことをズット続けて行く訳にも行かないだろう。
鴉が瑞樹を諦めるよりも早く、地面を走っている瑞樹の体力が尽きてしまうはずだ。
「仕様が無いッ!」
瑞樹はそう口に出して脚に力を込めると、
ダンッ!
一息にその場から飛び上がった。
そして近くの木の枝に飛び乗ると、
「よっ! ほっ!」
次々と木の枝を目掛けて飛び移っていく。
ピョン、ピョンと、随分と手慣れたような動き方をする瑞樹。こういった動きも、図書館島のの探検で身に付けたものなのだろう。
だが、この選択は思ったよりも功を奏したらしい。
獣道とはいえ、わざわざ空の開けた場所を通っていたからこその鴉達の追撃だったのだろう。事実、瑞樹は先程よりも移動速度は落ちているが、徐々に鴉の鳴き声からは遠ざかっている。
「このまま朝までやり過ごすか、もう一度エヴァの別荘に引きこもるか……」
枝の上を軽やかに飛びながら、そんな事を口にする瑞樹。
心情的には後者を選択したいな――なんて考える瑞樹だが、とは言え其処まで面倒を掛けてしまうのも考えものだと思い直す。
「仕方が無い。何処かに隠れて、そのまま朝まで――ッ!?」
一瞬、何かが迫ってくるような感覚を瑞樹は感じた。
次の瞬間
バキャリッ!
瑞樹が着地しようとした枝が、根本からボッキリとへし折られたのだ。
「なっ、ク!」
かろうじて空中で体制を立て直した瑞樹は、なんとか地面に着地をする。
しかし、それは自分が碌でもない事に巻き込まれているという証明以外の何者でもなかった。
「やぁやぁ、そんなに急いで逃げなくとも良いではないですか?」
地面に降り立った瑞樹に、戯けたような口調で声をかける人物が居る、声のトーンからすると男だろうか?
しかし木の影から出てきたその人物は、ゆったりとした黒いローブによって身体御ラインが、顔全体を覆うように付けられた仮面によってその顔が隠されていて、真実その人物の性別が判断できない。
しかしその異様な雰囲気は隠しようがなく、瑞樹は眉間に皺を寄せながらその相手を睨むと
(なんだこの怪しさ満点な格好をした奴は……変態か?)
と、頬から冷や汗を垂らしながら考えていた。
もっとも、瑞樹にそんな風に思われているなどとは露知らず、仮面の人物はクツクツといった笑いを続けている。
「誰様だよ、アンタ?」
瑞樹は目の前の人物から異様な雰囲気を感じ、若干引き攣りがちになりながらも軽口を叩く。しかし、瑞樹のその心情は表情に現れてしまったのだろうか? 相手はクツクツと笑って肩を上下に動かしている。
「君に――いや。君の額に寄生したモノに、用がある人物です」
「額? 寄生?」
相手の口にした言葉に、瑞樹は眉根を寄せた。
額――ということは、先程エヴァンジェリンに三只眼云々と説明をされたから理解が出来るが、しかし寄生とはどういうことだろうか?
「おや? おやおや? エヴァンジェリンなら気がついて説明をすると思っていたのですが、されていない? うそー! なんとまぁ、予定外」
大仰に腕を上げ下げしながら言う相手の言葉に、瑞樹は只管に不快感を感じていた。みるみる表情が歪められ、苛立ちが表に出るのだが、どういう訳かその場から動くことは出来ないでいた。
「ふんふん、そうか。では私が代わりに教えてあげよう。いやぁ~、あの闇の福音が見逃したことを説明できるなんて、ちょっと興奮するなぁ」
ケタケタ笑いながらそんな事を言ってくるが、瑞樹はその言葉の内容に興味が湧いた。自身が説明された妖怪という以外の内容を、目の前の人物は知っていると言うのだから。
「君はここ最近、不思議な現象に悩まされたことはないかい? 例えば自分に迫る危険物が吹き飛ぶとか、見えなかった物が見えるようになったとか?」
「……」
「あるだろ? それはね、君の隠された力が開放された――なんて理由じゃないんだよ」
「え?」
瑞樹は思わず声に出して驚いてしまう。
エヴァンジェリンは自分のことを、確かに『妖怪』だと言っていた。ここ最近の不思議な現象は、その力が目覚め始めているからだと。
しかし、いま眼の前に居る人物は『そうではない』と言っている。
明らかに矛盾した言葉だ。
仮面の人物は面白そうに肩を揺らしながら、自身の額の部分を指でコツコツと叩く。
「君のココ、額の部分にはね、現在蟲が入り込んでるんだよ」
「虫?」
「そう、眼宿蟲(ヤンスーチョン)という、人を三只眼吽迦羅(さんじやんうんから)という妖怪に変化させてしまう蟲だ。君がここ最近に経験している不可思議な現象は、全てその眼宿蟲が原因なのだよ」
「俺の額に、虫?」
言われる言葉を反芻するようにして返す瑞樹。
相手は瑞樹の反応に、『ショックを受けたのだろう』と考えて、肩を上下に動かしている。
「まぁそう言う訳でね、私は君ではなく……その額の眼宿蟲に用が有るんだが――」
「ッ!」
その人物はそう言うと、ユックリとした動きで手を持ち上げる。
瑞樹はその動きに違和感を感じ、一息にその場から横っ飛びを敢行した。
「チィっ!」
舌打ちをしたのは仮面の人物である。
咄嗟に上げていた腕を強く振るが合わせていた狙いは外れたらしく、瑞樹の背後に有った樹の幹が
バギョオンッ!
と奇妙な音を鳴らして大きく深く抉られた。
「どうやら、平和的に摘出してくれるって訳じゃなさそうだね」
半ばまで抉られた幹に視線を向けながら言うが、やはり今の状況は鴉に追い掛けられた時以上に危険極まるらしい。
「平和的に取り出せるならソレが一番なんだけどね。眼宿蟲というのは秘術を用いて取り出すか、後は宿主が死んだ時以外は摘出不可能なんだよ。外科的に取り出すのは少し、危険でね!」
ギンッ!
強い口調と同時に、仮面の奥から覗く瞳が強く光ったように感じる。
瑞樹はその瞳を見た瞬間
「な、なんだ、いったい!?」
突如、身体を襲う違和感に苦悶の表情を浮かべる。
地面に縫い付けられたように脚が動かなくなり、全身を万力で締め付けられるかのような圧迫感を感じるのだ。
「言ったでしょう? 私は眼宿蟲に用がある。そして、それを取り出すには宿主に死んで貰わなければならないとね」
「お、俺を殺す……のか?」
「えぇ、殺しますよ」
仮面の奥の瞳がニタァッと笑みを浮かべたように瑞樹には感じる。
ユックリとした歩調とその人物は瑞樹へと近づいてくるが、
「でも、ただ殺すんじゃあ面白くはないでしょう?」
そんな事をさも面白そうに言うと、再びその腕を軽く振ってみせる。
すると
ゴバヂュンッ!!
瑞樹の両腕が捻じれ、一瞬でズタズタに成ってしまった。
「うわ、うわぁああがぁああっ!!」
突然に身体を襲う激痛。
あらぬ方向へと無理矢理に捻り上げられ、そのまま骨が、肉が千切れるほどに破壊された。鼻の奥に自身の腕から流れ落ちた、鉄臭い血の香り入り込んでくる。
「が、ぐぁ、がぁああっ!」
捻切られた腕からは絶えず激痛が走り、突っ伏したい気持ちに駆られる瑞樹だが、しかし相変わらず身体に掛かる圧迫感は先程のままに存在し続けており、また脚がピクリとも動かないのもそのままである。
「うふ、うふふ。次は」
仮面の人物は肩を揺らしながら、楽しそうに口を開く。
パチンと指を鳴らすと、今度は瑞樹の足元から黒い影が蛇の様に身体を這い上がっていく。
「あぁ、うぁああ!」
それは瑞樹の触覚を嫌なくらいに刺激し、背筋から脳髄にかけて不快感を感じさせた。
「ユックリと縊り殺してあげますよ」
徐々に黒い影に飲み込まれていく瑞樹を見つめ、仮面の人物は尚も楽しそうな口調で告げるのであった。
森の奥にて瑞樹が悲鳴を上げている頃、
「学園長!」
バタンッ! と強く扉を開きながら、タカミチは学園長室へと入っていく。
ノックもせずに入室したのだが、今はそんな事を言っている場合でもないのだろう。
「高畑君」
「タカミチ君?」
無遠慮に部屋へと入ってきたタカミチに対し、二つの反応が返ってきた。
学園長室には二人の人物が居る。
一人は当然、学園長である近衛近右衛門。そしてもう一人は
「マルクト神父? 何故、貴方が此処に?」
そう、教会区で神父を務めているマルクトである。
マルクトはタカミチの問いかけに慌てる様子もなく、軽く首を左右に振ってみせる。
「いえ、数時間前にエヴァンジェリンが一般人を連れ去った――と、ガンドルフィーニ先生を通して報告したのですが、その後の進展をお聞きしようと此処へ」
その言葉の内容に、ほんの少しだけ返事の遅れたタカミチだったが、しかしマルクトの言っていることに問題は無さそうである。
タカミチはそのまま視線を学園長へと向けると、先程まで自分が遭遇していた出来事についての説明をしようとするが――
「待ってくれ高畑君。確かに君の報告を受けねばならぬのだが、今は其処ではないのじゃ」
「と、言うと?」
「なんで? といった説明は省きますが、エヴァンジェリンの森の中で、一人の生徒が何者かに襲われています」
「なんですって!!」
学園長の静止に疑問を浮かべたタカミチだったが、繋いで説明をするマルクトの言葉に大声を上げた。
「いったい誰が!? いや、そんな事よりも救援は?」
「今現在、麻帆良の各地で式鬼が発生しており、正直とても人手が足りぬ。実際、今も儂自身が動こうかと思うておったところじゃ」
「とはいえ、中央を空ける訳にも行かないでしょう? と、お諌めしていたのです。……私が行ければソレが一番なのでしょうが、私は魔法の射手もマトモに使えませんからね」
恥ずかしそうに眼鏡を直しながら言うマルクト。とは言え、魔法の射手も使えないのはタカミチも一緒なのだが。
「高畑君。帰ってきて早々にすまぬが、再び出向いてはくれぬか?」
「嫌だなんて言いませんよ」
「すまぬな」
ペコリと、深く頭を下げる学園長。
シリアスな場面なのだろうが、ズイッと飛び出た不思議な後頭部が目に入り、思わずタカミチとマルクトの二人は失笑してしまった。
「正確な場所はマルクト君に聞いてほしい」
「お任せ下さ――うん? これは」
「どうしたのかね? マルクト君」
「いや、偵察に出していた翼鬼(イーカイ)からの資格情報なのですが、……かなりまずい状況のようで」
「なんじゃとっ!?」
「なんだって!?」
片目を瞑りながら言うマルクトの言葉に、学園長とタカミチは慌てて声を荒げる。マルクトが眼を瞑っているのは、何も格好を付けているわけではなく、自身の飛ばした使い魔と視覚情報を共有しているだけである。
マルクトが覗く視界からは、ちょうど黒い影が瑞樹の身体を這い上がり、徐々に全身が埋め尽くされようとしている所であった。
「これは、走ったのでは間に合わないかも知れませんね」
「クッ!」
「待ちなさい、タカミチ君!」
「止めないで下さい、マルクト神父! 兎に角、まずは急がなくては!」
「それは解っている。だからこそ落ち着きなさいと言っているのです」
駆け出そうとしたタカミチを呼び止めたマルクトは、手にしていた本をその場で開くとパラパラと頁を捲くっていく。そして
「……ありました。――聞け、空駆ける者、翼を持つ妖よ、我が声を標に来たりて従え。召来、翔鬼(シャンカイ)!」
マルクトは一気に言い切るようにすると、書の一部を破りとってバッと宙へと撒いた。すると
バリバリッ! その紙片に魔力が放電現象をもって集約していった。
紙片は魔力を吸うことで形を変え、巨大に膨れ上がり、別の形に変化していく。
ほんの数秒後。そこには巨大な翼を持った、首の長い鳥? 翼竜? のようなモノが鎮座していた。
「コレは」
「使い魔の翔鬼です。大人の2~3人程度なら簡単に運んでくれますし、下手に走るよりずっと速い。タカミチ君、コイツに乗って行きなさい」
「良いんですか?」
「一刻を争うのでしょう?」
タカミチはマルクトの言葉に頭を軽く下げると、
「お借りします」
と言って、翔鬼の背中に飛び乗った。
翔鬼は背中にタカミチが乗ったのを確認すると「グォオオオ!」と鳴き、そのまま大きく翼を羽ばたかせた。
一振りしただけで強烈な風が巻き起こり、部屋の中で渦を巻く。
背中に乗っているタカミチは勿論、学園長もその翔鬼の起こした風に驚いたのだが、
「え?」
タカミチが素っ頓狂な声を出したのは、翔鬼がその脚を一歩踏み出した時である。大人の2~3人は余裕で運んでしまうかという巨体だ。当然、普通にドアから出て行くという訳には行かない。
そのため翔鬼が脚を踏み出した方向は窓、なのだが。……当然のように窓はシッカリと閉じられていた。
「待っ――!!」
動きに気づいた学園長が、止めるように声を出すが、どうやらそれは少しばかり遅かったようである。
バリーン!
翔鬼は勢い良く学園長室の窓を、枠や壁ごと破壊して飛び立って行くのであった。
その瞬間
「うわっ! ちょっと!?」
なんてタカミチの声が響いたが、翔鬼の主であるマルクトはニコヤカな笑みを浮かべて
「行ってらっしゃい」
手を振って見送るのであった。
翔鬼が飛び出したことで随分と風通しの良くなった室内で、学園長はマルクトに視線を向けながら眉間に皺を寄せる。
正直な所、学園長はマルクトは裏切り者だと思っていたからだ。
しかし、その本人はこうしてこの場所に残り、そのうえ生徒の危機には手を尽くそうとしている所みると、唯の早合点だったのかもしれない。
だがそうなると
「……いったい、誰が」
呟くように言った学園長の言葉だが、それに返事を返す者は居なかった。
森、タカミチが飛び立って(?)直ぐのこと。
瑞樹は自身に見舞われた状況に対して、悲痛の叫びを上げていた。
(何なんだ、今の状況は――ッ!?)
それが、瑞樹が頭のなかで繰り返し叫ぶようにしている内容である。幽霊が見えるように成ってしまった、ソレはまぁいい。自身が妖怪になってしまった、ソレもまぁ仕方がないだろう。だがそれらを受け入れることが出来ても、今現在このような状況に陷る言われはない筈だ。
エヴァンジェリンの別荘に篭っている間、一晩掛けて自身が妖怪だとか言うことを受け入れた。しかしそこから出て早々に、自分は妖怪になりつつある人間だと言われ、そのまま生命を狙われている。
何もかもが突然過ぎる。
一瞬でズタズタに引き裂かれた両腕からは、断続的に脳内を抉るような激痛が走ってくる。身体中を這いまわる黒い影は、触覚を刺激し、精神的に心を抉る。
瑞樹は一瞬
(いっそ、楽にしてくれ――ッ!)
と、そう強く願った。
十数年ほどの短い人生でしか無かったが、今のような責め苦に有ったことなど一度もない。こんな状態を続けられるのならば、いっその事――と。
仮面の人物は、そんな瑞樹の変化に目聡く気がついた。
よくよく相手を観察しているのだろうか、それともそういった事に慣れているのか? クツクツと笑いながら、ユックリと瑞樹に向かって近づいてくる。
「辛いですよね? 痛くて、気持ち悪い。大丈夫、直ぐに私が楽にしてあげますから」
痛くて辛い……確かにその通りだ。
両の腕が千切れかけて、それでも笑っていられる奴なんてそうは居ないだろう。
しかし瑞樹はそのとき仮面の人物が発した言葉に同意せず、一つのことが気になってしまった。
「なんで、だ?」
そしてそれは、瑞樹の口から言葉となって漏れだす。
仮面の人物はその小さな呟きに、動かしていた脚をピタリと止めた。
「こんな状況……どう考えたって、ナイフよりもずっと危ない、生命の危機じゃないか」
「……? そうでしょうとも、ナイフとは比べ物にならない」
合いの手を聞いているのかどうかは兎も角、瑞樹は幾分冷静に成って思考を巡らしはじめた。
チャチャゼロに襲われた時、確かに漠然とだが『死ぬ』と考えた。
しかし今現在、確かに『死ぬ』『殺される』といった思いを強く感じているのに、何故自分は今持ってこのような状態のままなのか? と。
「もしか、すると」
もしかするとコレは――夢を見ているのではないか?
だからこそ、あの時のような自動反撃が発生しないのではなかろうか?
そう認識した瞬間、
ギンッ!!
瑞樹は自身の視界が広がっていくのを感じた。
額が裂け、瑞樹の意思によって第三の眼が開かれたのだった。
そうなることで、見えない物が見えるように成り、見えていた物の虚実がハッキリと認識できるようになる。
結果、全身を覆う黒い影は未だそのままだが、しかし脳を抉るように感じていた腕の痛みは綺麗サッパリと無くなっていた。身動き一つ出来なかった身体にも力が入り、多少なりとも動かすことが出来る。
幻覚、夢、催眠の類だろう。
もっとも身体を覆っている影はソレではなく、現実に身体を締め付けているらしい。
「……馬鹿な。何故、既に第三の眼が!?」
仮面の人物は、瑞樹の額に開かれた第三の眼を凝視して、思わず蹈鞴を踏むように後ずさる。先程までの余裕のあった態度とは打って変わって、その様子は酷く怯えたものへと変化していた。
瑞樹の第三の眼が開く。
それはその人物にとって、予想外、想定外の出来事だったのだろう。
「逆算しても、まだ時間的余裕は有ったはず。なのに!」
言いながらも一歩、後ろに足を下げる仮面の人物だが、その驚き用途は裏腹に、そうさせている筈の瑞樹にも実は余裕はない。
確かに腕から感じる痛みはなくなった。
それに、ピクリとも動かなかった身体が動くようにもなった。そういう意味では瑞樹は少しづつ自身に優勢な方へと、状況を動かしているといえるだろう。
しかしそれでも、今現在の瑞樹は相手に捉えられた状態のままであるのだ。
依然として、相手のほうが遥かに優勢に物事を進めることが出来るだろう。
だが
「拙い、拙い拙い拙い! 成り立てとはいえ三只眼が相手だと、そんなの冗談ではない!」
相手の狼狽え様は尋常ではない。
瑞樹はこの時、何かしら言葉巧みに、この状況を打開できないだろうか? と考えを過ぎらせた。この怯えようである。上手くすればそのまま追い払うことも出来るのではないか? と。
「オイ!」
「フヒッ!?」
「いつまで、コンナ物で縛ってるつもりだ。コレ以上俺を怒らせるなよ」
瑞樹は自身の不利を押し隠そうと、必死になって強がりを口にする。
相手には、自身が追い詰められていると錯覚させなければならない。なにせ瑞樹には、たとえ第三の眼が開いたとしても自身から何かをすることが出来ないのだから。
「こうなったら、俺には手加減なんて出来ないからな。相応の覚悟はしてもらうことに成るぞ」
ギッと相手を力強く睨みつける瑞樹。仮面の人物はその脅しを、空っぽだと判断出来ないほどに狼狽しているらしい。瑞樹にもそれは感じ取ることが出来た。コレならば、もう少しで開放に漕ぎ着けられる――と、しかしそのもう少しと言うところで、
「ん?」
瑞樹の第三の眼は、その広がった視界の端に奇妙な物を目撃した。場所は空の上、黒く大きな翼を生やした異形である。
瞬間、瑞樹は敵の仲間だと判断をした。
少なくとも今の状況で、自身にとっての助けが来たなどとは考えられない。
そう考えるだけの情報が無い。
そして瑞樹の視線に仮面の人物も気がついたのか、同じように空を仰ぐようにして見つめた。 これでまた、一気に状況は仕手側有利に傾くのだろう。そう考えた瑞樹だが、仮面の人物はソレとは違う考えをしたらしい。
「拙い、状況は最悪だ! こうなれば、駄目元でぇッ!!」
狼狽えながら仮面の人物が腕を振り上げたその時、瑞樹は大きく抉られた木の幹を思い出した。
見えない何か。
しかし明確な殺意を乗せられたソレは、瑞樹に向かって一直線に放たれた。
だが
「うわぁあああああああ!」
カ――――ッ!!!
「な、こんな威力っ――!?」
瑞樹がその殺意に思わず目を瞑った瞬間、その殺意の得物を遥かに超える破壊力を持った光が全身から放出された。
仮面の人物はソレに驚きの声を上げたまま、アッサリと光に飲み込まれていく。
そしてそれに巻き込まれる形で、大きな翼をした巨鳥と、その背中に乗った人影も光の中に飲み込まれていく。
ズズズズズ――ッ!!!!
数秒ほどの閃光の直後、周囲一帯を地響きが襲った。
森の様子を注視していたマルクトや学園長は、その光景を大きな穴が空いた壁から見つめている。
「アレは、タカミチ君が向かった」
大穴から外を眺める学園長とマルクト。
その視線の先には、巨大な光のドームが森を覆い尽くす光景が展開されていた。
「なんという……」
マルクトとそう小さく声を漏らすと、ギュッと唇を強く噛み締めるのであった。
しかし直ぐに「あ!」と言葉を漏らすと、バツの悪そうな表情を浮かべて学園長へと向き直る。
「学園長、タカミチ君があの光に巻き込まれましたよ」
「なんじゃとー!!」
学園長は指をさして言うマルクトの報告に、大絶叫をするのであった。