ヴァルゼライドの邯鄲英雄譚   作:ヘルシーテツオ

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 この話は時系列的には水希ルートの第八層突入した辺りの時期。
 つまり更生前の非常にメンドくさい時期の水希さんです。

 我ながらかなり魔改造してます。あらかじめご了承ください。



後編②

 

 決着はついた。

 戦真館、第二盧生を守護する眷族たちは英雄に敗れ去った。

 これより英雄は盧生の元へ向かう。その対峙は、恐らく闘争となるだろう。善の性を持つ者同士であれど、歩む道はあまりに異なりすぎている。認めつつも相容れない、それが両者の結論となるはずだ。

 どうあれ激突は避けられない。英雄を止められる者はいない。戦真館はすでに敗れた。盧生までの道のりを阻むものは何処にもないのだ。

 

「第二の盧生。その存在は俺にとっても貴重だ。見過ごす事などあり得ない。

 甘粕正彦とは違うカタチ。史上二人目となる資格者。彼の在り方を知る事で、俺にもまた道が拓かれるのではと期待をかけているのは確かだ」

 

 だというのに、ヴァルゼライドは終わった戦場を離れようとしなかった。

 彼以外に立つ者はなく、周囲には無情の破壊跡が広がるばかり。そこにあるのはもはた終わった光景でしかあり得ない。

 英雄の光に粉砕された者たちは塵一つとて残っていない。この場の存在するヒトガタなど、それこそヴァルゼライド当人しかいないはずで――――否。

 

「だが、ある意味ではそれ以上に、俺はお前にこそ着目していた。そうだろう、俺の立場を考えるのなら、むしろ盧生よりもお前の方こそ解き明かすべきなのだから。

 盧生ではない、眷族の身でありながら、盧生よりも阿頼耶識に近付いていたという事実。邯鄲の法則さえも捻じ曲げたその力、同じ眷族として目をかけぬわけにはいくまい」

 

 正確には、一人だけ。

 殲滅の黄金光を受けずに原形を留めている者がいる。

 この場に立つのは英雄一人。未だ倒れたまま、無様な敗北者の姿を晒すばかりの、彼女。

 

「――世良水希。柊四四八よりも前に、俺はお前に会いにここへ来た」

 

 英雄の一刀に斬り捨てられた水希。彼女はまだ生きていた。

 あの時の斬撃は黄金光を纏ったものではなかった。放射能の毒は流し込まれず、あくまでも単なる斬撃として斬られたに過ぎない。

 現実ならば致命傷だったろうが、ここは夢界だ。解法などによる妨害も受けていない以上、楯法での治療は十分に可能。

 隔絶した技巧と剣速により反応さえ出来ず意識を刈り取られてしまったが、それとて死に直結するものではなくあくまで一時的なもの。時間が経てば回復するのは当然の事だった。

 

 身じろぎする水希の身体。その意識が舞い戻る。

 ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡す。覚醒していく意識が、現状を正しく認識していった。

 

「う、あ……みんな……ッ!?」

 

 そう、起き上がった水希が見たのは、一切を灼き尽くした破滅の情景。

 そこに生命の気配はない。何より彼女自身の解法による透視がそれを伝えていた。

 戦真館は、彼女の仲間たちは敗れたのだ。真っ先に倒れた彼女の後で、眼前の英雄に斃されてしまったのだと理解した。

 

 水希を襲うのは憎しみよりも後悔、そして自責だ。

 まただ。またこうなってしまった。仲間たちの助けにもなれず、こうして無様を晒すだけ。

 思い出されてきた周回の記憶。その中にもこういう事は何度もあった。仲間たちがそれぞれの成長や克己を果たしていく中で、自分だけがそこから取り残されている。

 自分の間抜けさが、無力さが恨めしくて仕方ない。役立たずな自分が情けなくて、そんな不甲斐なさに慣れてしまっている自分がいるのが恥ずかしい。

 

 そして、今。他の仲間たちが全滅し、地獄を彩った世界の中に、唯一人。

 この現状、それは否応なしに思い起こさせる。あの敗北の刻、炎の海に包まれた地獄の光景を。

 

「俺は以前よりお前の動向に目をつけていた。この周回だけではない。前も、その前も、甘粕より一周目の顛末を聞かされて以来、ずっとだ。

 盧生ならざる者が阿頼耶へと近付く。それが真実ならば、俺にとっては天恵だ。無視できようはずもなく、それを可能とする在り方とは何なのかを知ろうとした」

 

 ヴァルゼライドが水希に向ける眼差し。それは今までとは異なっている。

 戦真館の他の面々に対して、そこには偽りない敬意があった。彼らを善性の志士として、敵ながらも心からの賛辞を送っていた。

 

 しかしてその中で、唯一人。世良水希にだけは毛色の異なる感情を向けていた。

 

「それを踏まえた上で問うのだがな。それは一体なんなのだ?」

 

 ヴァルゼライドが見せるもの、それは明確な失望。

 彼は水希を侮蔑している。その在り方を無様だと、心底から貶しているのだ。

 

「そこまでに脆弱を取り繕う意味が分からん。何故本気を出さない? どの周回、如何なる危機でも覚醒には至らない、その筋金ぶり。聞かされた理由も含めて、理解に苦しむ」

 

「な、にを……?」

 

 水希には分からない。英雄の告げる言葉が、本気で見当が付かないでいた。

 この人は何を言ってるんだろう。自分はいつだって本気だった。

 無様を晒し続けてきたのは本当で、それを情けないとは思うけど、それが世良水希の実力なのは事実と認めるしかない。

 確かに結果は伴ってない。けれど仲間に不実であった事だけはない。自分だってみんなの仲間、仁義の犬士として力を尽くそうとしてきたのは本当だった。

 

 水希はそう信じている。本気だった、あれが自分の全力だったと心の底から。

 その様を、やはりヴァルゼライドは呆れを含んだ眼差しで見下すのだ。

 

「そうまで自身に不明を言い聞かせるのか。記憶ならば戻り始めているだろうに。いや、真実に至るための切欠ならば、それこそ今までにも無数にあったか。

 そのすべてを見過ごして今に至った。誰よりも真実に近く在りながら、誰よりその気付きが遅い。ならばその当惑も必然のものだったな。

 お前にとってそれほどの咎なのか? "信明(おとうと)"に死なれた事は」

 

「あ――――!」

 

 ヴァルゼライドには容赦がない。突き付ける真実からは逃れようもなかった。

 世良水希の本性。内に秘めて決して明かしてこなかった歪みを、英雄の追及が浮き彫りにする。

 

「己は本気を出してはならない。本気を出せば、それは仲間を、男を傷つける事になるからと。

 もう一度問うが、それは一体なんなのだ? お前が本気を出せば、皆が勝手に絶望して自害するとでも? 認識の真偽がどうであれ、それは仲間を見殺してまで貫かねばならんものなのか?」

 

 ああ、そうだ。本当はもう分かっている。

 盧生である柊四四八が第八層に至った事で、記憶の回帰が始まっている。

 二十一世紀の平成ではない。本来在るべき大正時代、そこで自分がどういう道筋を辿った存在であったのか、否応なしに真実は取り戻してる。

 

 ずっと隠していた事がある。

 仲間を、そして自分自身を偽っていた。

 取り繕い、ひた隠して、自分はこの程度だと言い続けてきたのだ。

 

 ――世良水希が持つ本来の姿、本当の強さを。

 

「何かしの代償があるわけでもない。覚醒ともいえず、ただその気になれば良いだけ。知れば知るほどに緩い。傷つけるからとはいうが、それで仲間を死なせるならば本末転倒だろうに。

 かつては他の仲間が全滅する段になってようやく本領を発揮したそうだな。どう考えてもそれでは手遅れだろうに。敗北を覆せないのでは意味はあるまい。

 いや、実際にそれで覆してみせたお前には、この指摘は些か的を外しているか」

 

 邯鄲一周目。甘粕正彦との対峙、果ての敗北。

 本来ならばそこで何もかもが終わっていた。盧生である柊四四八が死亡した以上、連座して眷族らも復活せずに死亡する。

 特科生の面々だけではない、神祇省や辰宮も等しく夢に消える。彼らの試みはご破算となり、この邯鄲は幕を閉じていたはずだった。

 

 それを覆したのが世良水希である。

 当時、盧生である柊四四八よりも、阿頼耶に近しい深度の夢を持っていた水希。

 その夢によって引き起こされたのが、邯鄲の巻き直し。これ以降、邯鄲の法則はその様式を変えて、四四八たちは平成の住人となって各々の生涯を送るのだ。

 盧生ではない眷族が、この邯鄲そのものを覆した。いくつもの要因が重なった結果とはいえ、それがどれだけ凄まじい所業であるかは語るまでもないだろう。

 

 それを成し得た夢の力は、彼女の意志の奮闘によって生まれたものではない。

 単純明快、それは素養。世良水希という麒麟児の才能がその奇跡を可能とした。

 

「だがそれとて意識の上での事ではなく、半ば偶然にも等しい奇跡だ。結果として救えたものの、お前が仲間の敗北を見過ごした事は変わらない。

 あの時、お前が力を発揮していれば救える仲間があったかもしれない。結果は見えずとも、その可能性を信じて動き出すのが正しい姿勢であるのに疑いあるまい。

 だというのに、結局お前が本領を見せたのは仲間が倒れた後。何故そのような行動になるのか、やはり俺には理解できんよ」

 

 生まれながらの天稟を持つ水希だが、それは彼女にとって祝福ではない。

 むしろ呪いだ。水希にとって己の強さは、決してあってはならない凶事に他ならない。

 

「その是非を今は問うまい。糺すか諭すかの役割は俺ではないだろう。

 しかしだ、こちらもいい加減に待ってはいられん。邯鄲さえも覆す力の真髄、この眼で見極めさせてもらう。そのためにも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ああ、まったくもって理解に苦しむが、これでお前は全力が出せるのだろう?」

 

 ああそうだ。あの時だってそうだった。

 仲間たちがやられて、柊四四八がやられて、生き残ったのは水希一人。

 そして彼女の前に現れた神野(あくま)。その時になって水希はようやく本気を出した。

 仲間が斃れた時にも、柊四四八が敗れた時にも、決して見せようとしなかった本領を。むしろ彼らの眼がなくなってやり易くなったとばかりに。

 水希にとってこの才能(ちから)は忌むべきもの。とても仲間には見せられない恥ずべき姿だから、その眼がある内はどうしても本領を発揮できない。

 たとえ仲間が斃れ、己が敗れる結果になったとしても。もはや理屈ではない彼女の歪み、その深い精神の病巣は、これまでの邯鄲ではずっと見過ごされてきた。

 

 だがそれも、ここで終わる。

 英雄の、歪みのない正道からの糾弾は、水希に偽りへと逃げる事を許さない。

 

「絆を結んだ友だというなら、せめてその遺志を果たすがいい。

 それさえ出来んというのなら、お前はどうしてここに居る?」

 

「う、うわああああああああッ!!」

 

 聞きたくない言葉を塞ぐように咆哮を上げて、かつてない速度で水希は翔び出した。

 

 

 *

 

 

 男の人の強さに懸ける思いは狂気だ。

 女の身では到底理解できない域で、彼らは強いという称号を求めている。

 弱い自分を殺したいほど恥じて、憎んでいる。その唯一無二の輝きのためならば、他のどんな美点だって捨ててしまえるほどに。

 だから(じぶん)は、強い人が好きだなんて、何があっても言ってはいけなかった。それを告げる事は、つまり弱いと言っているのと同じなのだから。

 今でも絶えず悔いている。死にたいほどに、やり直せるなら命だっていらないと思うほど。

 

 それは世良水希を苛む悔恨の憶い。

 消せない過去が、今も彼女を縛っている。心に刻まれた無数の枷に囚われて、いつも自由に動けない。弱くて脆い女を取り繕って、無様な場面ばかりを晒してきた。

 その枷の一つが外れる。仲間という重荷が失せて、これで自由に羽ばたけるという一種の解放感と共に、水希は英雄との戦場を疾駆していた。

 

 交錯する剣と剣。

 水希の太刀と、英雄の刀剣。種別に違いこそあれど、同じ得物の刃が両者の間で交わされる。

 その迅さ、技巧、威力、どれもが一流を遥か彼方に置き去りとした神域の絶技。そしてそれは一方に天秤を傾けたものではなく、両者の間で拮抗の体を見せていた。

 互角、そう互角だ。鋼の英雄に、夢界最強の武の極地に、世良水希は対等に渡り合っている。

 まるで別人になったかのような変性だ。そしてそれは英雄のように覚醒を果たしたわけではない。これこそが世良水希本来の力量、麒麟児と謳われた天性に他ならない。

 

 水希のしている事は、何も特別なものではない。

 繰り出す夢の精度、好機と窮地を見抜く直感の冴え、そして純粋な体技武芸の習熟度。

 どれも戦いの基礎と呼べるもので、故にこそ極意となるもの。下手な小細工など必要とせず、ただそれのみを極限にまで鍛え抜けばそれで済む。

 戦闘直前の激情も、今や何処かに置き捨てて無念無想の境地に至っている。明鏡止水、心技体の完全な合一により為された武練の極地こそが水希の強さ。

 謀らずもそれは、英雄の強さと同質のもの。特殊性に頼らない王道の強さだった。

 

「なるほど、これは確かに凄まじい。夢といい武技といい、先までとは比べ物にならん。

 これがお前か、世良水希。稀代の天才という評価も頷ける」

 

 英雄の振るう二刀。そこに纏う黄金の爆光は今も輝き強く健在だ。

 その剣の威力は夢界において最強。何人にも防ぐ事が敵わない剛剣の究極である。

 まともに打ち合っていれば、先に得物の方が破壊されていただろう。だがそうはならない。水希の太刀は今も健在で、英雄の剣と渡り合っている。

 

 一閃ごとに用いられるのは、光を受け流す解法の透、更に武器を構築し直す創法の形。

 それらの夢を駆使して、水希は英雄の剣に対抗している。まともに受ければ一瞬で灼き滅ぼされる黄金の光を、常に紙一重の中でいなし続けている。

 更には体術に必要な戟法、循法、それら含めて驚異的な精度で切り替えて行使しているのだ。

 これまで何人も及ばなかったヴァルゼライドの剣、破壊の黄金に水希は卓越した夢と技巧だけで真っ向から打ち合える実力を発揮していた。

 

「精神面に関してもそれは単なる心持ちだけのものではあるまい。

 明鏡止水に入った心を、更に解法の夢にて情動が外に漏れぬよう覆っている。俺の急段の協力強制を、感動を封じる事で最小限に抑える腹積もりか。

 ああ確かに、己の心を隠す事において、お前の右に出るものはいないだろう」

 

 そして、世良水希の真髄とはこれだけではない。

 水希の素養で最も適正があるのは創法の界。物質的な形ではなく世界環境そのものを作り出す界の技は、他と異なりそれ単一で奥義となる。

 相手ではなく戦場自体を対象とした夢の力、英雄との戦闘の最中で水希はそれを発動させた。

 

 発生させた異常は重力。

 地に足がつかない。大地という概念を見失う、無重力とも異なる重力異常。

 あべこべになった重量の方向性(ベクトル)は、常の状態での動きを許さない。一つの重さに囚われればまた別の重さにと、もはや体勢を維持する事さえ至難の技だ。

 その中に在って、水希だけが翼を得たように縦横無尽に飛翔する。あらゆる重力場を掌握し、三次元にて展開される剣の舞。

 元より拮抗状態にあった両者の戦技。最大の地の利を得た側に趨勢が傾くのは必然であるだろう。

 

「こと資質に限るなら甘粕さえも凌駕する。その評価を耳にした時にはまさかと思ったが、これほどならばそう称されるのも過言ではあるまい」

 

 それだけでは終わらない。界の法の奥義とはこれからが真骨頂。

 地形環境の創造。世界法則の掌握。それはさながら神の御業にも等しい。

 生み出される巨大な雷霆。掌握する界の空間内を覆い尽くして囲い込む紫電の檻が出来上がる

 まるでそこは雷電渦巻く積乱雲。その空間にある事象のすべてが世良水希という神の手により支配され、たった一人の英雄に対し殺意を向けていた。

 

 これが世良水希だ。彼女の本当の強さだ。

 理屈など無い。因果の有無も関係ない。そういう星の下に産まれたからという純正の強者。

 戦真館始まって以来の才女。幽雫宗冬も、柊四四八も、彼女の才能には及ばない。その天性の輝きは何人でも代わりになれない至宝である。

 

 だからこそ、世良水希(じぶん)のような人間が、強い人が好きだなんて言ってはいけなかったのだ。

 その事を今も深く悔いている。それこそ、他の人には想像も出来ないような領域で。

 

 世良信明。水希(じぶん)の弟。

 病弱な子。己一人で立脚できない、どうしようもない弱さを持って産まれた男子。

 天性の強さを与えられた水希とは真逆な、それ故の良さをたくさん持っていたはずの大切な弟。

 

 強い人が好き。姉弟という関係さえも越えて、愛を告白してきた弟に水希はそう答えた。

 傷つくと思った。弟だからとすげなく断るのは、そんな関係を踏み越えた彼の勇気への侮辱だと。だからそれらしい理由を探して、強さを引き合いに出していた。

 なんて、愚か。世良水希(じぶん)からそう告げられる事は、彼にとってあなたは弱いからと見切られたにも等しいというのに。

 それから彼は強さを目指した。世良信明が本来持っていた良さを次々と捨て去って、世良水希(じぶん)が求めた強さという価値だけを追い求めた。

 けれど、それは自らの本質を歪ませる行為。甲は甲として、水は水として、蛇は蛇として、自然のままである事の意義、生まれ持った性や業を良しと出来ず、己という存在を捻じ曲げる所業に他ならない。

 故に、破綻は最初から目に見えていた。どれだけ強さを求めて足掻こうと、それが称賛されるべき姿勢だとしても、弱者の型に産まれ落ちた彼は強者にはなれない。

 それを止める事は出来なかった。強さの狂気へと彼の背中を押したのは水希(じぶん)なのに、どうしてそれを止める資格があるというのか。

 彼は止まらず、彼女は止められず、見えていた決定的な破綻が訪れる。己の弱さに絶望した信明(おとうと)は自刃を選び、水希(あね)には消せない後悔が残された。

 

 そのトラウマが鎖となって、今も水希を縛り付けている。

 男の強さに懸ける思いは狂気。だから彼らの前でこの強さを見せてはならない。

 戦真館の仲間たち。水希にとって誇るべき、素晴らしい友人たちだ。

 みんなを大切に思っている。それは断じて嘘じゃない。絆を結んだ相手だからこそ、あのような絶望を与えてはならないと強く思うのだ。

 みんなもまた、信明と同じ強さ以外の価値をたくさん持っている。本当に尊いその価値を知ればこそ、それらを強さの狂気で踏みにじる事はあってはならない。

 

 柊四四八。

 真面目で、頑張り屋で、かっこいい年下の男の子。

 タイプは全く違うけど、どことなく昔の信明を思い出させる。あの厳しさの裏に隠れた相手への深い思いやりが、あの子の優しさと被って映るのだ。

 

 だからこそ、彼には信明と同じになってほしくないと心から願っている。

 

 世良水希(じぶん)が強さを揮るえば、きっと彼は無理をする。柊四四八はそういう人だから、仲間の強さの下で甘んじる、そんな怠慢を許せない人だから。

 そうして無理をして、本来の自分から外れていって、やがてはその輝きさえも歪ませてしまう。

 それが世良水希(じぶん)には耐えられない。だからこの強さはあってはならない。女は女らしく、男の克己を立てるため、後ろに控えて大人しくしていよう。

 

 無意識にまで刷り込まれた認識。それは記憶を失おうとも変わらず、水希はずっと己の能力を誤認したままだった。

 そして今、己を誤魔化す必要がなくなった水希は、まるで水を得た魚の如き勢いを見せている。

 身内の眼が届かない場所でハメを外してみせるように、封じられてきた力を思うがままに、気兼ねする事のない全霊を振るっていた。

 

 雷霆が走る。矛先に在る英雄へ向けて、その威力が解放される。

 空間の全方位、世界そのものから向けられる天雷を前に、回避など不可能。

 夢界最高峰の才気が織り成す夢の妙技。神の如き創界の奥義に対抗する術など、凡人の身では編み出せようはずもない。

 

 

「――――で? まさか、これだけか?」

 

 

 されど、静粛な声が響く。見せられた天稟の業にも、動揺や感嘆は微塵もない。

 これほどの絶技、まさしく神業と称するに相応しい天災に晒されながら、英雄たる男には恐怖も諦観もなかった。

 

 空間を覆い尽くした雷霆、()()()()()()()()()()()の中より現れる英雄の姿。

 振るわれたのは剣の一閃、その剣威によって発生した空間断層により、逃れえぬ雷霆の包囲に決定的な亀裂を刻みつけたのだ。

 

 そして続く次撃は、亀裂のみでは終わらない。

 充填される光の威力、更なる破壊を込められたもう一刀の剣閃が空間そのものへと振るわれた。

 万能なる界の夢を、一点にて凌駕した純粋出力が圧倒する。創られた法則が捻じ曲がり崩れ落ちて、夢で編まれた世界が霧散していく。

 

「一つ、勘違いがあるならば正しておこう。この戦い、俺は急段など使わない」

 

 その言葉の是非は何か、それを問う前に英雄は攻め駆けてきた。

 鍔迫り合う刀剣と太刀。接触は一瞬、再び始まる剣撃の応酬。

 地形を潰され、剣戟は再び拮抗の体を見せる。粉砕する剛の剣と透過する柔の剣、両者の競り合いは膠着にまで陥るかに思われた。

 

「くぅ、はぁ、くっ……!?」

 

 されどそうはならず、拮抗状態は次第に一方への傾きを見せていく。

 透の柔剣を制する破の剛剣。それは単純な威力による圧倒に非ず。繰り出される剣閃の連撃の中には、濃密な練達の技量が含まれている。

 織り混ぜられる本命の一閃とフェイント。更には判別さえ困難な僅差でずらされる攻勢のタイミングが、受け手側のタイミングを絶妙に崩していく。

 そして無論、本命フェイントに関わらず、黄金を纏った剣はすべてが必殺級の威力を持つのだ。どれ一つとして安易な受けは出来ず、常に紙一重の緊張を強いられる。

 消耗の度合いは明らか。剣は次第に受けのみに費やされ、攻めの機を逸して防戦一方となる。

 

 現れた結果は、しかし不思議なものではない。むしろ当然とさえいえるだろう。

 水希が燻っている間にも、英雄たる男は鍛練を重ねてきた。燃える情熱を維持したまま、真っ直ぐにその道を駆け抜けてきたのだ。

 年月をかけて、ひたすらに己へと課す苦行。勝利を求める意志に研磨されたその密度は、ついには邯鄲法という大前提さえも打ち破る奇跡すら成し遂げた。

 ならばこその自明の理。如何に始点で差があろうとも、そんなものは彼にとって遥か昔に通り過ぎた地点。不撓不屈のままに進み続けた英雄との間には、既に大きな隔たりがあるのだと。

 

 努力に費やした年月が違う。

 鍛練にかける密度が違う。

 勝利という目的地を目指す意志が違いすぎる。

 たかが天才程度など歯牙にもかけぬとばかりに、英雄の剣は水希の剣を圧倒し始めていた。

 

 一合。

 黄金纏う剛剣を、流水の如き太刀筋が完璧に受け流す。

 

 二合。

 連続する二撃目の光刀を、流した太刀の動きをそのまま迎撃に繋げて捌く。

 

 三合。

 停滞する事のない剛の剣撃、流れ舞う太刀捌きもまた止まらない。

 

 四合。

 唐突に剣の性質が変化する。軽く迅く、極限まで無駄を省いた疾風の一刀が、受け太刀の流れを僅かに乱す。

 

 五合。

 次いで振り下ろされた全霊の剛剣が、乱れを大きく決定的なものにした。

 

 六合。七合。八合。九合。

 圧倒する剛の剣に、みるみる崩れていく柔の剣。

 

 十合。十一合。十二合。

 ついに受け損ねた太刀が、光に灼かれて砕け散った。

 

 十三合。十四合。

 新たに創形する暇はなく、無手で捌けたのは奇跡の領域。

 

 十五合。

 もはや如何なる才があろうとも成す術はなく。

 

 

 十六合――落ちて来た英雄の剣が水希を捉え、その身を袈裟に斬り裂いた。

 

 

 *

 

 

 ――ああ、また負けたんだ。

 

 裂かれた身体は地に倒れ、無様な有り様を曝しながら、水希は自嘲してそう思う。

 こういう己にも慣れたもの。今までの周回でも何度あった事だろう。

 まるで先までの光景の焼き直しだ。斬り捨てられた先刻と同様に、世良水希はまたも敗北を喫していた。

 

 どうして自分はこうなのだろう。

 散々に出し渋った本気を出してみても、この様だ。

 みんなは各々に試練を越えてきたというのに。格上相手というならこれまでだってそうだった。

 なのに、自分だけが上手くいかない。こんな風に情けない姿ばかりを晒す。

 

 何故、自分に何が足りないの?

 決意したつもりになっても、怒り狂ってみせても、結末はいつも同じ。

 伸ばした手は何も掴めない。光を見い出す事はなく、敗残の泥に沈むばかり。

 誓いの刻は胸にある。戦真館特科生、七名の仲間で結んだ朝日への誓い。

 仲間たちと同じ勝利を目指したはずなのに、自分だけがそこに行き着けない。

 諦観に沈みつつある心に鞭打ち、吐き出すのは何故という疑念。それを見つけられない限り、自分はいつまでも汚泥の底から抜け出せない。

 

「意志が弱い。後悔に囚われて、係うのは過去ばかり。目的を見据えて到達せんとする気概、自己を肯定して未来(まえ)を目指すという意識が決定的に欠けている」

 

 敗北者の影を踏み、見下ろしながら英雄は勝者としての言葉を告げる。

 世良水希は弱い。性質云々を別にして、意志の絶対値が低すぎる。明確なその敗因を、逃れようのない真っ向から突きつけた。

 

「俺の急段(ユメ)は、俺が認めた真の強者にのみ用いるもの。それこそ、己にも勝るであろうと予感させる相手にこそだ。甘粕然り、決して届かぬその地平にこの手を届かせるために。

 元より格下を相手に抜く事など有り得ん。強さの誇示にかまけ、ただ磐石を求めるようになれば、それは信念に惰弱を招く。高みに挑む気概を忘れんためにも、この誓いは決して破らん」

 

 雄々しきその宣誓は果たされている。先の戦闘、英雄は己の急段を開帳する事なく勝ち抜けた。

 それは先に限らない。神祇省、鋼牙、逆十字、夢界を六分する勢力との死闘を演じた際にも、英雄は一度たりとも己の急段を用いる事をしなかった。

 決して脆弱な相手ではない。一歩違えば敗北も有り得ただろう。磐石を期するのならば、それこそ初手から急段を使用して攻め立てるべきだった。

 

 それでもヴァルゼライドという男はそれをしない。

 効率、戦術の問題ではない。英雄の掲げる信念に、一切の惰性を混じえないがために。

 確実な勝利? そんなものを欲しているなら、そもそも己はこの場にいない。信じるべきはあくまでもクリストファー・ヴァルゼライドという個人の力。誰の力にも頼らず、単騎のみで事を成すと決めた時から覚悟は既に出来ている。

 

 だからこそヴァルゼライドは強い。そういう気質だからこそ、彼は英雄を名乗れるのだ。

 英雄の夢。雄々しき光への寿ぎを力と変えるその急段は、クリストファー・ヴァルゼライドがまぎれもない英雄であるからこそ、万人に通用する必殺と成り得る。

 

「戦真館に"急段(つるぎ)"を抜いたのは、彼らを真に尊ぶべき存在だと認めたからだ。

 彼らは正しい。友誼に燃え、他者を慈しみ、自負を抱いて困難に挑む気概がある。善なる魂を持った若者たち、それは俺が本来報いたいと願う光である事に疑いない。

 だからこそ容赦もなく遠慮もしない。認めるからこそ己の持てる全てを出し切り、対等な人間であるという誠意を示す。それだけが殺戮者に過ぎん我が身に出来る唯一の事だと信じている」

 

 英雄の善性は、戦真館の少年少女らを尊ぶべき存在だと認めた。

 認めればこそ、己の全霊を繰り出すと決めたのだ。まぎれもなく敬意を向けるべき者たちであればこそ、手抜かりなどあってはならない。

 彼らと戦い、打倒すると決めた以上、情けを見せる事は不純だろう。そんな事なら初めからしなければいい。決断が重いと思えばこそ、全霊をもって対峙するべきなのだ。

 

 それは英雄が示すせめてもの誠意。殺戮の覇道を歩む者として、犠牲となった轍の群れをしかと胸に刻んで忘れぬために。

 清廉にして力強い英雄の決断。己の罪から逃れようとせず、どこまでも背負うのだと決めている。

 

「比してお前はどうか? 過去に囚われ未来に向き合えず、溢れんばかりの才覚を持ちながらその心故に扱えず、いざその気になろうと出せるのは才覚ありきの力だけ。

 決まっている。怖れるに足りん。俺が急段(つるぎ)を抜くべき相手ではない」

 

 そんな中にあって、唯一人、世良水希だけが英雄の敬意から外れている。

 畏れるべき難敵でも敬うべき光でもない。その価値なしと刃落ちのままで勝ち抜けた。

 

 見れば、水希の受けた傷は深手ではあるがそれ以上ではない。

 英雄の光は決して拭えぬ死滅の焔だ。本来ならばその斬光を受けた時点で死の運命からは逃れられないはず。

 意味するところは明白。要は手加減、まだ死なれても困るからと手心を加えたが故である。それは水希を格下と見なすことで、何も間違っていないから今の結果が訪れた。

 

 立ち上がろうとすれば出来るだろう。受けた損害は十分に再起可能だ。

 それでも水希は立ち上がれない。そうしたところでこの英雄に勝てる絵図が、今の彼女にはまるで思い浮かばなかった。

 

「お前のそれは侮りだ。敵を、仲間を、対等の土俵で見ていない。己の全霊を他者の前で発揮しようしないのはそういう事だろう。

 どうせ勝てないと最初から諦めている。敵よりも仲間を見て、本領を出した己には届かないと。彼らの意志を本音では信じようとしていない。

 大切だと言いながら、それは相手を弱いと見なした保護者の姿勢だ。対等と認めるべき相手に向けるものではない」

 

 恥なき勝利の道を歩む者として、英雄の指摘は何処までも正論だ。

 水希が負った心的外傷(トラウマ)。己の強さのせいで、弟を死に追いやった後悔。

 それ故に発揮できない全力とは、何て事はない。水希が仲間たちを『信明(おとうと)』と同列に見なしている事に他ならない。

 

 きっとみんなも、信明と同じように傷つくに違いない。

 柊四四八も、他の仲間たちも、強さの渇望に狂わされ、本来の良さを歪ませてしまうと。

 仲間を大切に思う気持ちに嘘はない。しかし、その意志を信じられてはいないのだ。彼らならばそんなものにも打ち勝てると、そう思えないから水希は己の全力をひた隠す。

 

 決して悪意ではない。しかし保護とは過ぎれば侮辱にもなる。

 その認識に囚われている限り、世良水希に真の意味での克己は無いのだ。

 

「起こされた大業も、所詮はその天稟がもたらしたもの。あくまでも世良水希であるが故の御業であり、元より俺が求めるべき光ではなかったということか。

 考えれば、お前は自責が過ぎるというだけで、それで他者に悪意を向けたわけではない。ああ、弱さ自体に罪はないとも。只人のままで居たいというなら、それはそれで構わんさ。

 すまなかったな、世良水希。どうやら俺は無理強いをしていたらしい。もういいぞ」

 

「勝手な……ッ、ことを言わないで……ッ!」

 

 吐き捨てるような言葉に、水希もようやく言葉を返す。

 何処までも他の戦真館の面々と同列には語らない。絆を誓った七人の犬士、その一員たる自負に懸けても受け入れ難い言葉を否定すべく、英雄に対しての反論を口にした。

 

「他人を信じられないのはどっちだ……ッ!? 誰も彼も遠ざけて、仲間の存在を信じられない人。自分の力しか信じていないのはあなたの方でしょう!」

 

 単騎行を覚悟して、独力のみで道を拓く英雄の歩み。

 そう聞けば雄々しくて響きは良い。だが言い換えれば、自分の力しか信じられないということではないのか。

 他人を侮っているというなら、そちらこそがそうだろう。誰もを弱いと見切って考慮すらしないくせに、どの口で糾弾の言葉などを吐くというのか。

 

「他人を信じられない、か。そうだな確かに、俺は仲間を、友を信じる事が出来なかった」

 

 ある意味で的を射た水希の言葉に、ヴァルゼライドはただ神妙に頷いてみせた。

 

「あの少年、大杉栄光の指摘の通り、俺にも友と呼べる男がいた。少年期を共に過ごし、青春時代を駆けた無二の友。育んだ絆は、お前たちにもそう劣らぬものと自負している。

 同じ志を胸に抱き、同じ道で支え合うのだと誓った。(アレ)のことだ、もし事を打ち明ければ、恐らくは二つ返事で俺の助けになってくれるだろう」

 

 ただ独りの道を征く英雄だが、そんな彼にも友がいる。

 立場や形式だけの付き合いではない。彼という男を知り、苦楽を共に出来る真の友誼、それこそ戦真館とも同様な絆の価値を英雄も有していた。

 

 時にぶつかり、時に支え合い、永い時間を共有してきた。

 決して揺るがず英雄の王道を貫く在り方を知り、そんな凄まじい男だからこそ、その道の助けになりたいと願う。友から受ける思い、それを偽りと疑った事は一度もない。

 ヴァルゼライドとて、交わした友誼はまぎれもなく本心からの思いである。仮に最も信用している者は誰かと問えば、迷いなく友の名が上がるはずだ。

 

 彼もまた、世に尊ばれるべき人間の一人として。

 ヴァルゼライドは孤独なだけの人間ではない。その信念はまぎれもなく光であり、そこに魅せられ共に歩みたいと願う者が現れるのも必定であっただろう。

 

「だがやむを得ん。俺と比して、あいつは弱い。信用の有る無しに関わらず、俺の歩む道のりに付いて来れるとは思えなかった。

 だからこそ遠ざけた。知ればあいつは間違いなく、俺の後を追って来るだろう。それが分かっていたからこそ何も打ち明けず、俺の運命に近寄って来れんようにした。

 全ては友の明日を願えばこそだ。要らぬ危険でその命を危ぶむ事を、どうして許容できるという」

 

 それは水希にとっても納得できる、むしろ強く共感できる言葉だった。

 

 たとえば、病弱だった信明(おとうと)のこと。

 愛情の如何に関わらず、事実として信明は弱かった。そこにどれだけの意志があろうと、そんなものは関係なしに生物として脆弱なのだ。

 危険に関わらせるなど出来るはずがない。大切に思えばこそ、危険から遠ざけようとする。たとえそれが信明の意志を傷つけるものであったとしてもだ。

 こればかりは他の仲間たちも同様だと思う。明らかに付いて来れないと思しき者を、信じてるからと言って巻き込むのを正しいとは言えないだろう。

 結局は蚊帳の外に置くしかない。何も知らないまま、傷つく事のないのを祈って。

 

「だがな」

 

 しかし、水希の受け取った意味には一つ思い違いがある。

 危険より大切な人を遠ざけようとする。それは確かに間違いではない。だが遠ざけられた当の本人が、そのまま蚊帳の外に居続けるのを良しとするかはまったくの別問題なのだ。

 

「これはあくまでも俺個人の思い。あいつが俺の思惑と別の道を選んだとしても、それを止める権利は俺にはないのだ。

 仮に俺の想定さえも越えて、俺の前に立ちはだかったとしても、ああ構わん認めよう。友だからこそ、己とは異なる個人、決して意のままにはならん対等な相手なのだとしかと意識する。

 それが我が友の決断だというのなら、いいとも、全力をもってその意志を打ち砕こう。この道を選んだその瞬間から、覚悟は既に出来ている」

 

 友の健勝を願っている。それは断じて嘘ではない。

 だがそれ以上に、英雄は己の覇道を全力で歩んでいるのだ。その道を阻む者があるならば、たとえ何者であろうとも粉砕すると覚悟している。

 これまでに斬り伏せた数多の敵と同じように、戦真館の面々に見せた敬意と等しく、英雄は友に対しても振り下ろす剣に躊躇いなど持たないだろう。

 英雄の道とは、犠牲の上に切り拓く血と業の道。避けられない殺戮の中、それだけが唯一の誠意だと信じているから、英雄は己の剣に迷いを許さないのだ。

 

「イカれてる……その人が本当に友達だっていうなら、どうしてそんな事が出来るの?」

 

 そして水希には、そんな英雄の覚悟がまるで理解できない。

 単なる言葉だけではない。この人には口にしたなら、必ずややり遂げる決意と覚悟がある。もしその時がくれば、言葉通りにヴァルゼライドは友と呼ぶ男を斬り捨てられる。

 

 友の、戦真館の仲間たちとの過ごした日々を覚えている。

 本来の戦真館、そして夢の中での千信館。どちらでも自分という人間に手を差し伸べ、立ち上がらせてくれた素晴らしい仲間たち。世良水希にとって掛け替えのない友人たちだ。

 そんな彼らを手にかける未来なんて、考える事も出来ない。たとえ必要に迫られても、きっと自分には出来ないだろう。

 友の命さえも轍にして、突き進む鋼の意志。それを成し遂げられるほどの個人の情念なんて、水希にとってはまったく理解が及ばなかった。

 

「やっぱりあなたはおかしい。たとえどんなに正しくたって、きっと人として大切なものが壊れてる。そんな風になってまで、一体何を得られるっていうの?」

 

「決まっている。勝利を得られる。全てに報いるそれこそが、俺が切に求めて止まぬものだ。

 俺は友を信じていない。それは事実だ。あいつは弱いと、そのように断じて憚らない事を歪みというならそうなのだろう。元より己が壊れていると自覚はしている。

 だが引き換えに、俺には決意がある。如何に痛みと嘆きを背負おうとも、断じてこの脚を止めんという覚悟、その信念の骨子となる精神こそが、破綻者である俺の唯一の価値だ。

 そして信じられずとも、友に向けたこの思いは嘘ではない。己と同じく対等の意志を持つ人として、その思いから逃げずに向き合う覚悟だけは確かにあるのだ」

 

 そう、英雄の意志は強く正しい。

 たとえどれだけ常人から外れていようとも、それは間違いではないのだ。

 正義へと燃える信念、情熱、その高潔な魂の在り方を否定する事が誰に出来よう。

 

 故に、同じではないのだ。

 同じく人を信じられない性質でも、二人は決して同じものではない。

 

「一緒にするなよ、小娘。貴様のそれは、ただ己が傷つきたくないだけであろうが」

 

「あ――――!?」

 

 その言葉は、どんな一撃よりも重く鋭く、水希の胸に突き刺さった。

 

「取り繕った己だけを見せ、生来の力をひた隠しにするのは、その強さを拒絶される事を恐れてのことだろう。何より仲間たちに異端と見られる、その視線こそを恐れている。自分と彼らは同じではないと、その断絶を明確に見せられる事が嫌なのだろう。

 相手を傷つけたくないから? ああ、それも嘘ではなかろうよ。だがその感情の根本にあるのは、己が傷つく事への忌諱だろう。仲間たちを、大切に思う者らを傷つける、その行為自体がお前自身を何よりも傷つけるものであるから、そのような己で在る事が耐え難かったのではないか」

 

「そんな、事は……――――」

 

「そうだろう。己が傷つく事を恐れていないというのなら、何故お前は仲間の窮地とあっても本気を出さない? 一周目の邯鄲は、あの敗北はお前たちにとってまぎれもない絶望であったはず。なのに仲間たちが死すまで本領を出さなかったのは、彼らよりも己の心こそを守りたいという心理が働いたからではないのか。

 憎き敵に見せるのは良くて、愛すべき仲間に見せるのは嫌か。たとえその仲間たちが死しても、心の安定を保とうとするのが保身以外の何だというのか。その後に拒絶される事になろうとも、大切に思う者らを守るため、全てを曝け出して立ち向かう覚悟をどうして抱けないのか」

 

 本気を出してはいけないと思った。

 自分が力を振るえば、きっと信明(おとうと)のような事が繰り返される。

 それが男だから。男の人の強さに懸ける思いは狂気だから。女の方が強いなんて、彼らにとってはきっと死ぬほどの絶望なんだと。

 

 でも、自分が本当に守りたかったのは、そんな彼らの矜持じゃなくて。

 そんな風にさせてしまう事に耐えられない、自分自身の心――――?

 

「信じる事は痛みを伴う。信じる思いが強いほど、裏切られた際の痛みも強くなる。世良水希、要はお前の心は、その痛みに耐えられるほど強くはなかったという事だろう。

 この答えは相手を傷つけるかもしれない。この強さは相手を捻じ曲げてしまうかもしれない。そうやって相手を信じようとしないのは、反動の痛みを恐れているからだろう。そうではないかもという一抹の不安、弱さに流れて痛みを負う事を避け続けている。

 悪意があるのでも歪んでいるのでもない。お前はただ臆病なだけだ。才覚に釣り合わず、彼らと肩を並べるには意志の力がまるで足りない。これはそれだけの話に過ぎん」

 

 反論しなければならない。

 このまま黙って見過ごせば、つまりは認める事になる。

 世良水希は弱い。決定的に光が足りない。八の徳を司る犬士として相応しくないと。

 

 それは即ち、信頼を否定する事になる。

 明日を誓い合ったあの日、仲間と結んだ絆の信は偽りだと、自ら認める事に他ならない。

 神野明影。あの憎むべき悪魔に貶された時のように、確固たる反意を示さなければ。

 言葉が思い付かないのであれば、せめて剣を取れ。大切なのは意志を示すこと。まだ自分は折れてはいないのだと、証明する姿を見せなければならない。

 

 ああ、けれど――

 

「どうした? 言いたい事があるなら言うがいい。反論があれば聞こう」

 

 打破すべき悪性ではない。否定すべき悪意ではない。

 今、水希の前に立つのは、善性の王道を征く鋼の英雄。

 その言葉は正論。容赦なく無慈悲なまでに、口にするのは徹底した正道の言葉だ。

 

 言わねばならない。非の打ち所のない正論に、否定の反論を。

 示さねばならない。雄々しく揺るがぬ英雄の意志に、折れない克己の姿を。

 痛感する。それはなんという難易度なのだろう。苛烈にして巨大なその正義を前に、真っ向から立ち向かう事がどれほどの無謀であり苦行であるかを。

 これと比べれば、悪と対峙する事のなんと容易いことか。その悪質を否定し、義心を燃やして対すればいいだけだという事の、なんと気楽なことか。

 この英雄の正義を前にすれば、まず意志が折れてしまう。まともにその意志とぶつかれば、どんな大義とて芯を失い瓦解してしまうのだ。

 

 これに対抗できる意志を、世良水希は持ち合わせない。

 反論は言えず、行動は示せず、水希はただ沈黙するばかりだった。

 

「これまでだな」

 

 見切りは付いたというように、英雄が告げる。

 同時に手にある刀剣を納め、戦意の解除を示してみせた。

 

「勝負は付いた。結論も出た。用件はもはや無い。何処へなりと去るがいい」

 

 更に告げるのは、そんな言葉。

 もはや敵とさえ認識しないという英雄に、水希も流石に黙ってはいられなかった。

 

「みんなを討っておいて、そんな今さら……ッ!?」

 

「斃れた仲間を思い憤慨するか。結構だが、その奮起を抱くのならば些か遅い」

 

 それでも、やはり英雄は冷然と否定を返す。

 仲間の事で奮起する資格を、既に世良水希は有していない。それは仲間が斃れる前、彼らの目があるその前で覚悟を決めねばならなかった。

 

「俺にお前を斬り捨てる意味はない。無用の殺傷ならばするつもりはない。

 挑んでくるというなら是非はないが、せめて相応の覚悟を決めてからにしろ。紛い物の絆で得る意志などでは、相手にする価値さえもない」

 

「紛い……物……?」

 

「俺は仲間を知らん男だがな。それでも思うところはある。

 本性は見せず、本心は語らず、強さを信用せずに取り繕った姿で接し、窮地にあっても覚悟を決められず死した後でしかその本領を発揮しようとしない。己の心の弱さを守るために。

 ――訊くが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 崩れる。

 水希の内で、何かが。

 意志の骨子と呼べるようなものが折れる音を聞いた。

 

 ねえ、こんな時どうすればいいの?

 分からないよ。だって世良水希はこんなにも弱いから。

 小さくて情けない。根が臆病で簡単に折れてしまう。

 未来を諦めたくないのに、みんなに真摯でいたいのに、どうやればいいか全然分からないの。

 

 お願い、誰か教えて。

 ――晶。

 ――大杉くん。

 ――歩美。

 ――鳴滝君。

 ――鈴子。

 ――柊くん。

 誰か、誰でもいいから、私に勇気をちょうだい。誰か――――

 

 応えてくれる声は、無い。

 当たり前だ。柊くんはここにはいなくて、みんなはたった今やられてしまって。

 それを守ろうともせずに見過ごしたのは、他ならない私自身で。

 

 

 ――――喜べ水希、遠からず君のような女にも需要が生まれる世の中になる。

 

 

 何故か思い出されたのは、かつて聞かされた悪魔(しんの)の言葉。

 

 

 ――――堕落させろよ、無限に奇形児どもを生み出せばいい。

 

 

 悪魔からイヴへ、イヴからアダムへ。

 連鎖する誘惑の相関、原初に定められた仕組みの通りに。

 世良水希という女は、世の男どもを惑わすイヴと成り得る。

 

 

 ――――それに耐えられない強くて弱い男たちを、彼みたいに血の海へ沈めてくれ。

 

 

 ああ、だったら、この状況こそまさにその通りで。

 言われた言葉を否定したくて、だからそんな自分を封じたはずなのに。

 現れる結果はすべて同じ。世良水希が大切に思う人たちは血の海に沈んでいく。

 取り繕おうが、変わらない。ならばそれは、世良水希という魂そのものが、そういう性質を宿しているからではと思えてしまって。

 

 

 ――――誰にも知られなければ傷つけないとでも思っているのか?

 

 ――――本音は誰もいなければいいというのが真実なんだろ?

 

 

 違う。違う。違う。

 違うのだと否定したい。仲間がいなければいいなんて思ってない。

 けれど現実はまるで真逆、その言葉こそ真実だと認めるしかない惨状ばかり。

 信明(おとうと)を、友人たちを、好きになった人を、堕落の混沌(べんぼう)へと突き落とす誘い手。

 破滅の因果をばら撒いて、己だけは生き延びながら同じ所業を繰り返す死神なのだ。

 

「あ……、あああ……!?」

 

 世良水希は紛い物。

 八徳の犬士に相応しい器ではない。

 未来を誓った戦真館、その仲間の一員たる資格はないのだと。

 その結論を、他ならぬ水希自身が認めてしまった。

 

「ごめん……、なさい……ッ!」

 

 ごめんなさい、晶。

 ごめんなさい、大杉くん。

 ごめんなさい、歩美。

 ごめんなさい、鳴滝君。

 ごめんなさい、鈴子。

 ごめんなさい、柊くん。

 

 ――ごめんね、信明。

 

 私なんかがいたから、あなたをそんなにも傷つけた。

 きっとこれからも、私がいるせいでみんなが傷つく。

 私なんかがいたから、私さえいなければ――――

 

 こんな事には、ならなかったのに。

 

 

「――――誕生()まれてきて、ごめんなさい」

 

 

 その存在は、きっと始まりから間違いだった。

 世良水希という人間は、そもそも誕生するべきでなかったのだと。

 

 ――そうして水希は、自分自身を否定した。

 

 意識が落ちていく。

 手放した価値を、奈落の底へと沈めるように。

 深く、深く、深く。決して戻って来れないような深淵まで。

 暗い暗い闇の中へ、水希は己の意識を落としていった。

 

 

 *

 

 

「これは……?」

 

 生じた異変を、ヴァルゼライドは訝しんだ。

 

 心折れ、屈したかに思われた世良水希。

 その姿が消えていく。地より沸き出てるかに見える影に覆われて。

 それはまるで泥のように。少女の身体に纏わりついて、その本来の形を覆い隠していく。

 闇が世良水希を包んでいる。あたかも絶望に屈した少女を、悪魔がその顎門を開けて咀嚼しているように。

 思い浮かべた名は神野明影。よもやあの悪魔が何か仕掛けたかと英雄は疑念を持ちかけて、

 

 そんな英雄の視線にも、水希自身はまったく頓着していなかった。

 

 もはやその瞳に光はない。

 世良水希こそは破滅の元凶。世の雄々しさを腐らせる病原体だ。

 ならばそのような存在に何の意味がある。大切な人たちを傷つける事しか出来ないなら、こんな自分は必要ない。

 際限なく沸き上がってくる自責の念。止める者がいない現状で、それは水希という存在を奈落の底へと沈めていく。

 

 そう、この現象は悪魔でも、他の誰かの仕業でもない。

 これを成しているのは他でもない世良水希自身。彼女が自分自身を否定して、己という存在を世界から消し去ってしまおうとする所業に他ならなかった。

 それは究極の自閉のカタチ。自分という意識を外界から完全に遮断する。繋がりの一切を暗闇で覆い尽くして、見えず見られず、己という凶事を封じ込めんとするかのように。

 

 よって、その後に生まれるのは影法師。

 少女の輪郭だけを名残として、影の埋まった一体のヒトガタが出来上がる。

 爛々と輝く朱い瞳。もはやそこに仁義の輝きはない。影に埋まった身にあって唯一の異色(アカ)が、ただただ無機質な光を放っている。

 それはいつかの、柊四四八が見ていた影の姿に似ている。巻き直された邯鄲の中、あらゆる因果が不明なまま、全てを誤認しながら衝突した際に見ていた影法師に。

 だがその時とは一つ決定的な違いがある。如何に影に覆われようと、あの時の水希には感情があった。怨敵を前にしたと誤認した上での、復讐に向けた激情が。

 しかし今の水希にはそれさえない。影は何処までも影に過ぎないとばかりに、闇色に染まった姿からは意思の欠片さえも見つけ出す事が出来なかった。

 

 そうだ、もう世良水希なんて必要ない。

 仲間にもなりきれない紛い物。真なる絆を築いた戦真館に混じった不純物。

 ならばそんなものは要らないだろう。不要なものは取り払ってしまえばいい。

 

 その意志を捨てていく。

 嘆きも、後悔も、停滞も、何もかもを。

 世良水希という人格は不要と断じて、深い闇の奥底へと閉じ込める。

 

 個という意識を放棄して、ならばその果ての器に残る価値とは――――

 

 

 *

 

 

「ああああ、アアアアアアアアアアァァッッ!!??」

 

 遥かな頂き、戦場を俯瞰する高みにて、神野明影は激昂していた。

 

 常より道化としての姿勢を決して崩さなかった神野。

 その悪魔が憤怒している。誰の目にも明白なほどに、激情のままに怒り狂っているのだ。

 

「ふざけんじゃねえぞクソがァァァァァァァァッッ!!!!??

 水希(それ)は僕のモノだぁッ! 間男風情が勝手に彼女を壊してるんじゃあないぞぉッ!」

 

 起きた現象の原因は分かっている。

 誰より水希に執着し、その心を見続けてきた神野である。

 世良姉弟の絶望を贄として現界した悪魔は、当人よりも水希の心情を把握していた。

 

 世良水希という女は、自分を許せるように出来ていない。

 そもそも一人だけで立ち上がれる性質ではないのだ。他の誰かの許しがあって、彼女という人間は初めて自分を認めてやれる。

 それが無ければ、彼女は何処までも自責する。責任転嫁、開き直りの類いがどうしても出来ない。それは見方によれば美点ともなり得るだろうが、今回に限れば欠陥にしかならないものだ。

 

 英雄は、水希を追い詰めすぎたのだ。

 揺るぎない善性からくる正論で、神野への憎悪という逃げ口さえも封じてしまった。

 自責は自責に繋がり、徹底して自分を責め続ける悪循環。自分を許せない、認められない水希の心は袋小路に陥ったのである。

 その果てにあるのは、自己存在の完全否定。自分自身を捨て去る事に他ならない。

 

「これはこれは。藪をつついて、思わぬものを引き摺りだしてしまったな。クリスよ」

 

 そして怒れる悪魔とは対照的に、主たる甘粕正彦に浮かぶのは喜色の笑みだ。

 この事態が喜ばしい。思いもかけずに訪れた英雄にとっての『難関』を、夢界の覇者は心からの歓迎を表しながら見届けた。

 

「彼女はお前の天敵だぞ。その天性(つよさ)は本物だ。世の堕落の温床と成り得るのは確かなのだよ。人の夢の象徴(イコン)である神格は、どうあれ的だけは決して外さんからな。

 世良水希はクリストファー・ヴァルゼライドにとって、間違いなく過去最強の敵となるだろう」

 

 甘粕正彦は試練の魔王。その属性は審判者。

 好感を持ち、友誼を結んだ相手にこそ甘粕はより苛烈な試練を与える。

 試練があってこそ人の強さは価値を得る。それが彼の持論であり祈りそのものだから、その行いには一点の矛盾もなければブレもない。

 魔王が愛する雄々しき勇者。ならばその真価を発揮する舞台として、挑むべき試練を与えよう。他ならぬ甘粕自身が、その輝きを見たいがために。

 

「直面したこの試練を、如何に踏破してみせるのか。さあ、お前の輝きを見せてくれ」

 

 神の目に留まった英雄には、激動の生涯が待ち構えている。

 それこそ英雄が書き綴るべき英雄譚というものだから。打破すべき魔性の存在あってこその英雄だと臆面もなく豪語する。

 甘粕正彦はそこに一点の疑念も持たない。故に心からの期待の眼差しを英雄に向けていた。

 

 まったく異なるの二者の感情。高みに座る観覧者の視線の質は正反対だ。

 されどそれも関係ない。今の彼らは俯瞰する者。事態に直接関わる立場に無いし、そのような無粋は犯さない。

 如何なる結末も、あくまで当事者たちの手で織り成すべきもの。神々のご都合主義が加わった展開などに、いったいどんな輝きがあるというのか。

 

 神の如き存在たちは手を出さない。その決着は純粋に、対峙する両名の手に委ねられた。

 

 

 *

 

 

 そうして、世良水希だった存在(モノ)は立ち上がった。

 

 己が対峙する者の姿に、ヴァルゼライドは刀剣を抜き放つ。

 意図は見えない。これがどういった現象であるのか、彼にはまるで理解が及んでいない。

 それでも歓迎すべき事態でないのは感じ取る。目の前の影には敵意の欠片さえもなかったが、それともまた別の領域で警戒すべき何かであると判断した。

 

 人のカタチをした、人の持つべき輝きを覆い尽くした影の魔性。

 その存在は人ではなく、もはや魔物と呼ぶのが適切だろう。それほどに対峙するこの影法師からは人としての何かが感じられなかった。

 人から外れた魔性、人の道理とはまったく異なる法則で蠢く異形、その類いであると断定する。

 そうであるなら、この違和感も納得がいく。何の敵意さえ感じさせないのも、人らしい真っ当な精神がそもそも欠落しているのならば頷ける話だ。

 

 発動する創法の形。黒い魔物の手に太刀が握られる。

 相変わらず敵意らしいものは感じなかったが、その行為自体を敵対意思と見なして、英雄もまた両の手に携える刀剣を構えて、

 

 まったく認識さえ出来ないまま、その懐に入り込まれた。

 

「ッ!?」

 

 喉元に迫った白刃を刀剣で弾き返す。

 しかし追撃には繋がらない。白刃の勢いに押され、英雄の脚が僅かに退がる。

 防ぐだけで手一杯だった。今の一閃は、英雄をして真に脅威と映る冴えであった。

 

 その太刀筋には、意が存在しなかった。

 攻撃の際に敵へと向ける殺意。それ以外にもあらゆる行動には意図が存在する。

 人が何らかの行為に移る際、意識が発生させる気配のようなもの。そのような意志の気配を感じ取って、達人と呼ばれる者たちは相手の行動を先読みできる。

 故にその意を極限まで静める事もまた武の極意。明鏡止水、無心の境地と呼ばれる立ち振る舞いも、しかし先までの世良水希と比べれば余りに異質。

 静めているのでも隠しているのでもない。この魔物には心が存在しないのだ。極意などとプラスの言葉で表すべき状態では断じてなく、人としての一部が完全に欠落している。

 人の正道より外れた、魔性の振るう外道の太刀。故にこそその威力は英雄をもってして心胆を寒からしめるものだった。

 

 否、それだけならばまだ脅威ではなかったはず。

 異常は元より見て取れていた。その敵意の無さから太刀筋の異質にも予測はあった。

 意を伴わない魔物の太刀、それだけでは英雄たる男の武には届かない。

 そう、単純に強くなっている。世良水希であった頃と比較し、確実にその実力が上がっていた。

 

 超常的に強靭(つよ)くなったわけではない。

 人外じみて俊敏(はや)くなったわけでもない。

 ただ巧いのだ。元々の夢の性能はそのままに、それを扱い切る技量、効率が格段に向上している。

 全方面で高い素養を持ち、穴がない世良水希のポテンシャル。自身の性能をフルに使い、三種の夢を複合し切り替えて、その状況毎での回転率を飛躍的に向上させていた。

 

 ただ一つを突出させて極めた英雄とは真逆。

 あらゆる方面に適応できる万能性、故にあらゆる事態に対処が可能。

 そこにあるのは純粋な天性による強さ。世良水希という天才だけが持ち得る事を許された才能(ちから)に他ならなかった。

 

「――なんだ、この変貌は?」

 

 その才能(ちから)に晒されて、英雄が感じるのは困惑だ。

 これが他の戦真館の者であればそう感じる事はなかっただろう。正しい意志の奮起で今以上の力を発揮する、そんな覚醒であるなら英雄自身にとっても馴染み深い道理である。

 予想外に発揮された強さも敬意と共に受け止めて、惑う事なく臨めたはずだ。それこそが正しき勇者の在り方だと信じるが故に、彼自身もその信奉者であるのだから。

 

 だが、これは違う。道理が合わない。

 

「意志を奮い立たせ、覚醒を果たしたとは到底思えん。その様を見れば、むしろ貴様がしたのは正逆の方向への墜落だろう。

 貴様は何だ、世良水希。一体何を、貴様はやったというのだ」

 

 世良水希という意志が向かったのは何処までもマイナス方向。

 自責して、自閉して、自己という存在そのものを否定した。

 そこに覚醒へ繋がる要素など何もない。後ろ向きに、否定的に心を沈ませていきながら、しかし強さが向上するという異常事態。

 マイナスはマイナスに過ぎない。反省を活かし、プラスの方向へと持っていこうとする意志が無ければ成長などあり得ない。ならばこの事態は一体如何なる絡繰か。

 

 そのような英雄の疑問に反応すら見せず、影法師の魔物は再び躊躇なく斬り込んだ。

 

 繰り広げられる剣戟の応酬。

 交錯する刃と刃は、もはや他の者では認識すら不可能。

 そこは両者にのみ許された領域。英雄だから。天才だから。性質は違えども、共に強さの極限へと行き着いた二人だけの晴れ舞台である。

 

 ともすれば先までの焼き直しとも見えるその光景は、しかし決定的な違いがある。

 その差異を誰より感じているのは英雄自身。交錯の中、感じる手応えが違っている。

 まるで形状を記憶する流体だ。流水の如き剣舞は今も健在して、むしろ磨きが掛かっている。

 いや、掛かっているのではない。今この瞬間も尚、その太刀筋は磨かれ続けていた。剣戟の交錯を経る毎により疾く、鮮麗に剣舞の冴えを増し続けているのだ。

 

 ただ強くなっただけならば、英雄にはそれを打ち砕く自信があった。

 彼が重ねてきた濃密な鍛錬量ならばそれも可能だ。その強化値がそれだけのものならば、英雄の剛の剣は先のように柔の剣を圧倒し粉砕できていただろう。

 だが、影法師の魔物が振るう柔剣は今も強くなり続けているのだ。柔の太刀筋は剛剣の威力を完璧に受け流し、如何なる攻め手でも崩れずに対応していく。

 

 まるで英雄の繰り出す一挙手一投足、それら全てを見て取り吸収していっているように。

 

「まさか――!?」

 

 思い至った解答は、尚も増した太刀の鋭さによって確信に変わる。

 

 特殊な理屈などない。それは至極単純な理由である。

 世良水希という人間は孤独を愛する性質ではない。むしろ他者との語らい、触れ合いにこそ喜びを感じる性質である。

 傲慢に己の才を誇るような事はなく、誰かと共に雪駄琢磨する時間こそ有意義と思う。強い野心や目的意識なども特になく、皆の輪の中で過ごす一時を愛している。

 ならばその過剰な天才性は余分でしかない。隔絶した能力差は否応なしに他者との間に壁を作る。褒められるのを悪く感じる事はないが、異端のように見られるのを歓迎できるわけがない。

 故に必然、世良水希は遥か以前より己の性能を抑えてきた。意識無意識に関わらず、自然と身体は周囲に合わせ、輪の中で許容できる天才の枠に収まっていた。

 彼女にとって自信の才能(つよさ)は忌むべきもの。それこそ信明(おとうと)のことがある以前から、彼女は自分の天才性を決して快くは思っていなかった。

 信明(おとうと)の件が決定的な楔となったのは確かだろう。しかしそもそも彼女の性質ならば兆候はあったのだ。世良水希という臆病な意志は、肉体の才能(つよさ)にまるで噛み合っていない。

 

 クリストファー・ヴァルゼライドは、肉体の限界をその意志で超越してきた。

 だが世良水希は、常にその意志こそが肉体を縛る枷となってきたのだ。

 彼女は強さなど求めていない。過剰な才能(つよさ)は知らずの内に封ぜられてきた。

 そうして増えていく数多の枷。世良水希の意志に束縛されて、その真価は一度たりとも発揮される事なく埋もれていた。

 

 ここに今、総ての枷より解き放たれる。

 もはやその身を縛るものはない。世良水希という鞘の意志は無くなった。

 地上に落とされた神の気まぐれ、理屈のない天性という名の妖刀が、ついに抜き身の刃を晒してその真価を発揮する。

 

 そう、世良水希という個の意識が放棄され、彼女の抱える一切のしがらみから解放されれば、その器に残るのは剥き出しとなった『才能(つよさ)』のみ。

 

「ならばこれこそが、貴様の本来持つ強さだということか!?」

 

 自分自身に絶望し、全てを放棄した少女の成れの果て。

 そこに水希の意志は何処にもなく、存在するのはある一点への方向性。

 ただ眼前の英雄を殺すべしと、与えられた命令(オーダー)を遂行するために駆動する殺戮機械(キラーマシン)。光輝ける存在に牙を剥く英雄殺しの怪物だ。

 今の彼女には何の葛藤も容赦もない。よってその高性能(ハイスペック)をかつてないほど十全に活用して英雄へと斬り込んだ。

 

 交わう刀剣と太刀の応酬は、純然たる武技を尽くした戦い。

 果断なく打ち合う音だけが、その凄まじさを伝えてくれる。音速すらとうに置き去りとした互いの剣速は、それだけで天災の如き衝撃となって周囲を斬り裂いていた。

 余分な異能は何もない。あくまでも純然たる剣戟こそが彼らの戦いの主体であり、互いにその刃で相手を討ち取らんと振るっている。

 即ち、それは真っ向からの尋常なる立ち合いだ。破格の武を有する英雄に対し、英雄殺しの魔物が選んだのはそれだった。

 

 もはや創法の界は不要。

 クリストファー・ヴァルゼライドは破壊の夢を極めし者。如何に世界そのもので覆おうとも、英雄は必ずやその天地さえも斬り拓いて突破する。

 それ自体が奥義である創界は、故に他の法との連携が難しい。単一での強大さで競っては、この英雄を相手には不利となる。

 故に魔物はそれを選ぶ。純粋に武技での勝負、真っ向からの斬り合いを。蛮勇ではない、それとは真逆の機械的な判断で、英雄との正面対決を選択した。

 

 その間合いは英雄にとっても己の土俵。

 故に退く選択はなく、ヴァルゼライドもまた真っ向から応じる。

 振るわれる刀剣の冴えに曇りはない。天性はなくとも、彼には不屈の意志で積み重ねてきた努力量がある。如何に素養の初期値で敵わずとも、その実力は天才を凌駕する。

 事実、現状でも実力はヴァルゼライドが上だろう。初手の奇襲以降、攻めの流れを掴むのはやはり英雄側。魔物はそれを受け続けるばかりで、未だ攻めには転じられていない。

 しかしながら、やはり英雄自身も感じているのだ。先程のようにはいかない。魔性と化した世良水希の不吉さは容易いものではないのだと。

 

 打ち込む英雄の剣筋、それに対応する魔物の太刀筋。

 その一合毎に、対応力が増している。柔の太刀筋は磨かれて、より完璧な受けの技を実現させる。

 ただこれだけの交錯で、それは驚嘆を感じるよりもむしろ異様。どこか非現実性すら思わせるその速度は、成長と呼ぶには異質が過ぎた。

 

 形容するならば、それは更新。環境に応じ、己の性能を最適化する作業。

 魔物は成長などしていない。元々それが可能な性能を有しているから、より適切な形に己を構築し直しているに過ぎないのだ。

 それは一極に特化するヴァルゼライドには絶対に出来ない事。全方面に高い素養を持ち、あらゆる夢を活用できる世良水希の器であればこその妙技。

 更に異様と見えるのは、その速度だ。ただの一合だけでも異常な速さで適応し、次の一合においてその水準は更なる練度に達している。

 

 初見であっても対応し、数合もあればもはや磐石。

 それを可能とするのは器の持つ生来の天才性。理屈無用の純粋な才覚が、敵手の力に応じて魔物の性能を更新し続けている。

 先に通じていた一手が通じなくなる。感じていたものの正体はそれだ。その天性が生み出す異常なまでの適応力によって、同じ手段は二度と通用しない。

 さらに捷く、さらに巧く、さらに強い。適応し続ける魔物は、英雄との間にある隔たりを埋め尽くして、その強さに迫っていく。

 

 まさしく異形の業。影法師の姿の通りに相手の足跡を追い、その輝きを奪って這い寄る魔性。

 それらを真っ当な御技と呼ぶには余りにも逸脱が過ぎている。その天性が無ければ不可能な手段の数々、もはやそれは人ならざる異形と何が違おう。

 どのような強さを持とうとも、追随する影の魔物には無意味。ならば如何なる強者であっても選べる道は絶望以外になく、

 

 そして無論のこと、クリストファー・ヴァルゼライドの信念に絶望の二文字などあり得ない。

 

 彼こそは鋼の英雄。如何なる不条理にも臆する事なく、不屈の信念で前進を続ける者。

 魔物が異常ならば、英雄もまた異常である。目の当たりにする天才性にも怯まずに、むしろ意志を猛らせて己自身を高めていく。

 天性など関係ない。純粋なその意志のみで、英雄は苦境からの覚醒を成し遂げる。それもまた常人からすれば奇跡の領域。異常者(えいゆう)にだけ成し得る異形の業だ。

 

 追い縋る魔物と、突き進む英雄。

 両者の構図は、まさしく強さという速度で競うデッドヒート。

 英雄の努力(つよさ)と、魔物の才能(つよさ)。二種の異なる強さが同じ勝負の土俵に並んで繰り広げる追走劇だ。

 方向性こそ違えども、共に常人を逸脱した異常同士。ならばその趨勢とは、果たして何で決まるのか?

 

 勝利への執着か?

 目的の崇高さか?

 いいや、否。外れた者同士で目的の如何など測っても意味がない。

 意欲の差にしたところで、一方が振り切れて、もう一方は絶無であるという極端さ。

 もはや比較する事自体が間違っている。そんなところで優劣を求めても答えなど出るはずがない。

 

 だからこそ結論は、執着でも目的でもなく、単純な相性の差という事に違いなかった。

 

「これ、は……ッ!?」

 

 歯車が噛み合わない。

 刃を交える相手、共に対峙する敵手を見据えながら、何かが致命的にすれ違っている。

 同じ土俵に立つ者として、共有すべき道理とでもいうもの。それがこの場では欠けている。

 己の本領が十全に乗り切れていないと、それがヴァルゼライドの感じている手応えだった。

 

 英雄が果たすべき覚醒には、それに相応しい難敵がいる。

 覇道に立ち塞がる巨大な障害。踏破すべき難関があってこそ信念は雄々しい決意を得るのだ。

 しかしながら世良水希、影の魔物は英雄にとって眼前に立ちはだかる強敵ではない。後ろよりその背に迫る追跡者(トレイサー)である。

 実力だけで見ればあくまでも格下の位置にいる。故にただただ不気味な手応えだけを残しながら、英雄の意志は芯から乗り切れずにいるのだ。

 

 対して、今の彼女は意志なき影法師。英雄の輝きにも惑わされない魔性の類いだ。

 意志を持たない魔物に揺れる心は存在しない。如何なる状況にあっても、まさしく機械の如く正確に、己が可能な性能を発揮し続ける。

 噛み合った歯車だけが回っている。よってその更新速度は、英雄の覚醒速度を上回った。

 

 たとえ英雄の急段を用いようと、今やこの魔物相手には通用しないだろう。

 急段とは互いの無意識下での同意、成立した協力強制によって初めて効果を発揮する。

 世良水希の意識を闇に落とし、揺れる心そのものを封印した影の魔物。与えられた方向性だけに従って駆動する機械の如き有り様には、敬意も悪意も表れない。

 心を持たない者と成り立つ協力強制は無い。もはや如何なる急段であろうとも、魔物を嵌める事は出来ないのだ。

 

 それは純粋な相性の問題だ。互いの意志の優劣は関係ない。

 まさしくこの魔物こそは英雄殺し。雄々しき輝きを尊ぶ心を持たず、後背の影より英雄を闇討つ存在。

 一度は引き離された実力の格差も、やがて魔物は埋め尽くす。そして追い付かれたその時には、もはや覚醒の暇など与えはしないだろう。

 

「オオオオォォォォ――――ッ!!」

 

 気迫と共に射出される黄金光。あらゆる全てを粉砕する破壊の光波。

 これまで何人も砕いてきた光の波濤が、魔物を呑み込まんと放たれた。

 

 それでも光と対峙する魔物には、僅かな動揺も気配はない。

 水平に、身体の中心線と重なるように置かれる太刀の白刃。それはまるで、己を護る盾のように。

 回避さえも行わない。対処した事といえば、真実それだけだ。防御というにはあまりに簡潔なそれだけで、魔物は迫り来る黄金の輝きと向かい合った。

 

 そこより起きたのは、まさしく神技。

 黄金に呑まれる影法師。予期された結末と寸分違わぬ光景が現れる。

 されどその闇は払われていない。黄金の芳流の中にあっても漆黒の影は健在。

 斬り裂くような強さではない。抗うような不屈ではない。打ち消すような勇敢ではない。

 ただ透り抜けた。触れれば滅びる光に呑まれながら、小波も立てない無心でもってその威力を素通りしていったのだ。

 

 まず白刃に込められた崩の解法により、光の解れを暴き出す。

 そして生じさせた極小の間隙の中に、透の解法によって己を滑り込ませたのだ。

 同時に、それら解法を支える形で他の夢も連動して用いられている。

 崩して流す。行われたのは真実それのみ。解法の基礎とも呼べる運用法が、魔物の対処の全て。

 

 大杉栄光のように完全に打ち消しているわけではない。

 鳴滝敦士のように真っ向から耐え抜いているわけではない。

 ただ巧みに夢を回す。天才はそれだけで、仲間たちの誰もが抗えなかった光を防ぎ切った。

 

 そして魔性に向けた害意の報いは、意気を持たない返し風。

 黄金光を透過した先から即応し、連続して振るわれる斬撃。

 込められる夢は咒法の射。我堂鈴子の如く具現化した斬閃が飛ぶ。

 放たれた斬閃は二つ、四つ、八つと鏡写しのように分裂し、標的に届くその総数は有に四桁。

 それでもこれしきで倒れる英雄ではない。その身に携えた七本の刀剣より繰り出される超絶の抜刀術が、迫り来る千の斬閃を悉く打ち砕いた。

 

 そうして切り抜けたと、確信と共に意識を次手へと切り替えるその瞬間、刹那の一瞬を捉えた太刀の一閃が英雄の喉元に迫っていた。

 

「ぐぅ、ぬ……ッ!?」

 

 用いられた夢は、解法の透。戟法の迅。

 完全なる無心からの気配遮断、極限まで無駄を省いた踏み込みの神速は、死の認識さえ許さない死神の剣だ。

 反応できた事は英雄をして奇跡の領域。それでも無傷とまではいかず、捉えかけた白刃によってその首筋には浅くはない斬痕が刻まれた。

 

 先程とは異なり、今度は英雄の方が先に血を流した。

 もはや追い詰められるだけの展開はない。互いにとっての土俵での真っ向勝負であるからこそ、その差は如実に明確なものとして表れている。

 まもなく英雄の強さに魔物は追いつくだろう。不敗神話は終わりを告げて、最強の頂きより叩き落とされるのだ。

 年月で積み重ねて、意志により磨かれた『努力(つよさ)』を、理屈も無い暴力的な『才能(つよさ)』によって。

 

 

 ――――だからこそ、深淵の闇に覆われた意識の中で、世良水希は思うのだ。

 

 

 ああやはり、こんな姿をみんなには見せられない。

 こんなにも醜悪で、理不尽で、残酷な影法師の姿を、彼らにだけは見せてはならない。

 

 間違っているのは自分で、正しいのは彼ら。

 彼らの方が頑張ってる。彼らの方がきちんとものを見ている。

 分かっている。強さを得るべきなのは彼らの方。誰より水希自身がそう思っている。

 

 なのに、現れる結果はこの通り。

 何の中身もない、意志薄弱で臆病な世良水希という女。

 そんな輩が、ただそう産まれたからという天性(りゆう)だけでこうなっている。

 努力量でも意志の強さでも、どう考えてもみんなの方が上なのに。同条件どころかそれ以下で、なのにいざその気になれば容易く追い抜けてしまう。

 

 十倍の素養を持つ天才に、凡才は十倍の努力をすべきだという。

 なるほど、それは正しい。己の生まれを卑下する事なく、認めた上での雄々しき決意。その姿は強く美しく、何より万人を魅せる尊さであるだろう。

 だが、それは苦しい。正しい選択であるが故に、そこにはどうしようもなく苦痛が伴われるのだ。

 何故なら、凡才が天才に追い付くには、単なる十倍の努力では足りない。十倍の努力をし続けなければならない。

 素養の差とは速度の差。凡才が走るように、天才とて走っている。止まって待ってくれているわけではない。ならば必然、走行距離で並ぶには十倍の密度を維持し続けなければならなくなる。

 またもしも、天才が今より二倍の努力を行えば、必要な努力量は二十倍に跳ね上がる。三倍ならば三十倍、四倍ならば四十倍と、その条件は明らかに等しくはないのだ。

 

 決まっている。続くわけがない。

 同じ時間の中で、凡才はどれだけのものを犠牲にしなければならない? 天才が優々と進んでいくその隣で、それでも平気な顔をしていられるのか?

 必ずどこかで無理がくる。そして無理があるとは、即ち素としての己を歪めていること。

 歪みの報いは変質となって現れる。本来備わっていたはずの尊さが無くなり、輝きだったはずのそれは歪な別の何かへと成り果てる。

 さらに悲劇なのは、それだけの代償を支払っても天才に追い付けるわけではないという事だ。生は生のまま、強者の泉に産まれ落ちた天才は淀むことなくに強くなり、凡才では決して届かぬ彼方へと向かってしまう。

 

 それでも、柊くんなら言うと思う。

 他人(おれ)を信じろと。柊四四八の強さはそんなものに負けはしないと。

 でも、ごめんなさい。やっぱり世良水希(わたし)には信じられないよ。

 だってこんなに弱いんだもの。みんなが頑張って覚悟を決めて得ていく強さが、私にとっては取るに足らないものにしかならないんだもの。

 私だって正しいものが好き。頑張って努力する姿をかっこいいと思う。みんなと同じ意識を共有して、雄々しい意志で戦いたいと思ってる。

 それでも心の奥底では別の思いも感じている。ああ、この人たちはどうして、この程度の事にここまで一喜一憂しながら頑張っているんだろうって。 

 理解してる、外れているのは自分の方。真っ当なのはみんなの方で、自分こそが異質。それでも世良水希は世良水希にしかなれないから、その溝はどうやっても埋められない。

 

 だから、世良水希(わたし)は心から思う。

 こんな天性(つよさ)は間違っている。世良水希はその生まれから誤ちだったのだと。

 このような理不尽が罷り通り、世で幅を効かせるようになれば、雄々しさの価値など無くなってしまうだろう。

 どんな意志も努力も無駄だというのなら、雄々しい在り方なんて馬鹿馬鹿しい。男らしさは滑稽なものに変わり、性能だけで中身のない強者ばかりが持て囃される。

 それに抗おうとするも最期には膝折り意志尽きる強くて弱い男子たち。ましてやそれを恥とも思わない男とも呼べない畸形腫どもが蔓延り出す。

 もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな、なんて冗談みたいな台詞が本気で罷り通ってしまう。そんな世が良いものだなんて、世良水希には絶対に思えないから。

 

 仲間の資格なんて、きっと最初から無かったのだろう。

 だから違う自分を取り繕ってみたけれど、それも所詮は歪な有り様。

 人は己の生まれから逃れられない。天才に生まれた者は天才としての苦悩や痛みを背負いながら生きていかなくてはならない。

 そこから目を背けて、正しい意志など得られるはずがない。戦真館の中で自分だけが取り残されたのは必然であったのだ。

 自分だけが違う。世良水希だけが戦の真から外れている。八犬士に準えるなど許されない半端者であり、単なる臆病者でしかない。

 

 ――そう、だからせめて、この英雄(ひと)だけは今ここで自分が連れて逝く。

 

 この人は違う。

 前述した凡才の道理に、クリストファー・ヴァルゼライドだけは外れている。

 無理を無理と思わない。むしろそんな深度の領域でなければ呼吸もできない深海魚。

 あの甘粕と同類の異形種だ。器の変質にも揺るがない鋼の魂。百倍だろうが千倍だろうが、どれだけ無理を重ねても、その輝きは微塵たりとも損なわれはすまい。

 

 それ故に思ってしまう。柊四四八では勝てないと。

 仁義の雄、強さだけでない功徳を併せ持つ彼だからこそ、鋼の英雄には勝てないのだと。

 彼もまた信明と同じ、強さに無理を課している。本来の有り様を歪ませての奮起に過ぎない。

 それではきっと英雄には及ばない。彼ならそれでも敗けないと、信じたくても出来なかった。

 

 だからこそ、自分なのだ。この英雄を打倒できるのは、きっと世良水希こそがそうだから。

 自分にみんなの仲間を名乗る資格はない。けれどもみんなと仲間で在りたいと願う気持ちは本物だ。

 それだけは嘘にしたくない。たとえこの存在が害になってしまうとしても、みんなのために何かをしてあげたい。

 だからせめて、クリストファー・ヴァルゼライドはここで自分が除いておく。先に残るだろうみんなの障害を一つでも減らせるように。

 もうそれくらいしか役に立つ方法を思い付けないから。きっとみんなは喜ばないだろうけど、天性(つよさ)だけの自分にはこれぐらいしか出来ないから。

 

 英雄を潰す。それが自身に課した世良水希の役割。

 気持ちは何処までも後ろ向き。己を肯定した思いは何もない。

 結局は仲間の事も信じられないまま。自分を許せない臆病なその意志に強さはないだろう。

 

 だが関係ない。臆病だろうが何だろうが、それで左右される心を魔物は持っていないのだから。

 

「――ッ!?」

 

 英雄の振るう剣が砕け折れた。

 触れるだけで破滅をもたらす、黄金纏いし英雄の剣。その刀身を太刀の一閃が捉えていた。

 武器破壊。意図して狙った魔物の目的は達成される。全ての攻め手が必殺である英雄の間合いに、更に一歩を踏み込んだ影の剣。 疾く、技巧の極みを超えた一閃は、剛剣の急所さえも見抜き正確に捉えていた。

 

 ついに疾走する英雄の脚に手が掛かる。

 無双を誇った英雄の強さ。その背に足音を響かせて、隔絶していたはずの開きはもはや僅差。

 修練に次ぐ修練。鋼の意志で成し遂げられた努力の量と密度。そうして積み上げられた英雄の強さに、魔物はただこれだけの攻防で届かせてしまった。

 

 すべては才能という速度の違い。

 信念の如何など関係ない。ただそう在るという天性の差。

 無情なまでの結論は、しかしそれ故に真理でもあるのだろう。英雄に限らず、才能の壁とはあらゆる凡人たちが努力の先で突き当たるものだから。

 

 同等の努力を重ねながら、歴然と現れる性能(つよさ)の開き。

 努力は正しい。正しいが故に苦しいのだ。真にその道を志しているのなら尚の事、生じる絶望は計り知れない。

 凡才の努力など、所詮は徒労。あんまりだと言えばあんまりな、それでも否定しようのない事実。選ばれた者と選ばれなかった者、その格差は明確に存在する。

 

 それは英雄たる男でさえ同じこと。

 腰に携える計七本の刀剣。その一刀が再び砕かれる。

 己を更新する魔物は止まらない。一度可能とした技はより最適化され、二度目の絶技を危なげなく成功させた。

 

 また一歩、その背に迫る。

 一つ、また一つと努力の輝きを無為にして。

 その暴力的な才覚でもって、英雄の軌跡を轍に変えながら。

 理不尽だろう。不条理だろう。暗黒に包まれた姿と相まって、その有り様は醜悪そのもの。

 されどその天性(つよさ)は疑いの余地なく本物だ。確固たる信念など持たずとも、強者と産まれた者はただそれだけで強いのだと、事実を厳然と示すように。

 

 ある意味で、これほど残酷な結末もないだろう。

 ヴァルゼライドは破格の男。天性の無さを信念のみで覆してきた奇跡の人だ。

 その有り様はもはや常人とは隔絶しているだろう。それでも才覚のみの観点で見れば間違いなく凡才であり、同じく才無き者たちの最右翼に立つ男だ。

 そんな彼でも、真なる魔性の天才には届かなかった。それは即ち、努力は所詮無駄であること。凡才はどうやっても本物の天才には敵わないのだと結論付ける事に他ならない。

 努力は才能を凌駕できる。甘い夢だと知りながらどうしても捨てることが出来なかった夢想に決定的な終止符が打たれるのだ。抗えない結論には、何人も膝を折らざるを得ない。

 

「――否ッ!」

 

 だからこそ、クリストファー・ヴァルゼライドはそのような結論に対し不屈の意気を返すのだ。

 

「才能差だと!? 今さら俺がそんなものに怯むかぁッ!」

 

 剣が走る。

 振るわれる刃は、先までよりも遥かに強く、遥かに鋭い。

 その威力、更新された魔物の性能をもってして対応できず。

 走り抜けた黄金の剣閃が、影法師の身に爆光の斬痕を刻み付けた。

 

 努力は決して無駄ではない。

 積み重ねる研鑽は、苦行に懸ける信念は断じて無駄などではないのだと。

 その生き様、存在の全てを懸けて体現してみせるように。

 天に選ばれぬ凡才、素養の観点では常人と何も変わらない身でもって、クリストファー・ヴァルゼライドはただ意志の力でもって己を更なる高みへと押し上げた。

 

 まさしく彼こそ英雄、万人を照らす希望の星だ。

 強すぎる光は隔たっており、常人には届かない理想だろう。

 しかし届かないからこその祈りがある。見上げるのは遥か彼方を突き進む雄々しき背中。己では出来ないと理解するからこそ、それを可能にして進む姿に憧憬の念を覚えるのだ。

 それこそが英雄を寿ぐ祈りのカタチ。人間ではない、たった一人の例外(エイユウ)を讃える英雄賛歌。

 人として強く、正しく、雄々しいその在り方。だからこそ隔絶しながらも万人が惹かれる夢となる。誰でもないクリストファー・ヴァルゼライドであったから、その夢の担い手となれるのだ。

 

 されどこの場に英雄を讃える衆目はなく、対峙するのは心なき英雄殺し。

 英雄の有り様にも魔物は動じない。機械の如く無感のまま、与えられた方向性に従って駆動する。

 

 影法師の身に刻まれた斬痕。黄金の光を残留させる痕が消え去った。

 単なる楯法による癒しではあり得ない。強固な密度を有する爆光の威力に真っ向から抗うなど、それこそ晶の急段クラスの夢でなければ不可能である。

 まず用いられたのは解法。光を受けた箇所を肉体ごと除去し、これ以上の猛毒の拡大を防ぐ。

 さらに用いたのが創法。人体も所詮は物質と割り切って、喪失した己の肉体箇所を創り直して即座に補填しているのだ。

 破壊と創造。元からある肉体を癒すのではなく、一から新しく創り出している。光に抗えないのなら端から切り取って干渉しなければ良いという異端の発想だ。

 そしてそれを可能とするのは、脅威の速度と効率で回される夢の精度。前述の二つだけではない、要所ではその他の夢も補助として連動し使い分けている。それだけの超高度な技術を、我が身そのものに破滅を受けながら即応して成し遂げているのだ。

 まさしくそれは神技すら超えた魔技。崇高さよりも異質さが際立つ魔性の技だ。

 もはや盧生であっても出来はしないだろう。単純な夢の力ではない、求められるのは何処までも術者本人のセンス。世良水希という天才であったから、それほどの魔技さえ実践できる。

 

 必殺であった光が、必殺で無くなった。

 また一つ、英雄の輝きが否定される。何の理念も意欲もなく、ただそれが出来るからという理屈だけで。

 脅威の意志力が成した奇跡さえも一つの事実(データ)と受け取って、己自身の更新(アップデート)を繰り返していく。

 

 剣戟繰り広げる英雄と魔物。二者の追走劇は最期の局面へと突入していく。

 引き離さんとする英雄と、それに追い縋る魔物。その差はもはや間近であるからこそ、意志ある英雄は自身の苦境を感じ取り更なる飛躍を成していく。

 しかしそれも、所詮は一時的な加速に過ぎない。意志ある者としての必然で、そこには揺れ幅が存在する。信念の熱量が衰えず意志によって強くなる英雄でも、強くなり続ける事は出来ないのだ。

 対し、魔物の加速度は変わらない。意志の猛威を奮わせる英雄にも己を最適化し続ける。その天性にとってはそれこそが常態であり、故に一定の加速度を保つ事が可能となる。

 ただ生のままに、強いのならその強さのまま、何一つ無理などしていない。己の本質(どろみず)を愛しもせず憎みもせずに、在るがままの性能を魔物は発揮する。

 

 三本目、四本目の刀剣が砕かれる。

 飛躍した英雄に追いつく魔物。最適化された性能は早くも英雄の技を読み切った。

 それを受けて英雄もまた飛躍。更なる高みに達した剣閃が振るわれるが、しかしそれをも見越して最適化された魔物には通用せず、柔なる剣にて受け流された。

 

 五本目、六本目の刀剣もまた、同じく砕かれる。

 魔物の更新は変わらない。無理がないが故に負荷もなく、よってその性能に劣化はあり得ない。

 比べて無理をし続けているのが英雄だ。意志という無限量の燃料を代償に、脆弱たる屑星を強者に相応しい輝星へと変性させている。

 されどやはり、それは生のままではないという意味でもある。たとえそれが、素晴らしく魅力的で輝ける変質であったとしても、人工的な清流よりは泥水のほうが力を持つように。

 やがて訪れる無理への帳尻合わせ。それは即ち崩れ落ちる敗北という結末に他ならなかった。

 

 そして遂に、残された最後の七本目、英雄の持つ全ての剣が砕かれた。

 新たな武器創形という選択肢は彼には無い。英雄の本質は創る者ではなく壊す者。瞬間に状況が入り乱れる戦場で、即座に得物を仕立て直せるほどの能力は無い。

 クリストファー・ヴァルゼライドは万能ではない。彼はその意志で不可能をも可能とするが、それもあくまで己の道に沿ったものとなる。

 英雄は決して万能にはなれない。恵まれた天性を持たない凡夫の器だからこそ、起こされる奇跡に人は魅せられる。だがそれ故に、奇跡の種類は選べないのだ。

 

 これにて魔物の勝利が確定する。

 如何に英雄といえども武器さえ持たない状態では勝ち目はない。

 結末はやはり無情。努力は才能に敵わない。きっと誰もが最後には認めざる得ない、そんな虚しい現実が告げられた。

 

「まだだ」

 

 それでも尚、誰もが膝折る現実に、雄々しく否だと答えられるからこその英雄。

 

 意志によって奮起する英雄は、その意志に左右される。

 そこには揺れ幅があり、故に必然として強さの飛躍は一定とはなり得ない。

 しかしだからこそ、振り切ったその時には信じられない奇跡を起こす。絶対の窮地に陥るに至り、英雄の意志はあらゆる予測を超越して爆発した。

 

「泣き言はいらん。この道で征くと決めた。ならば何処までも貫き通すのみ。進み続けるその先にこそ、俺にとっての"勝利"がある!」

 

 英雄に許されたのは一つの光。悪斬の正義を体現する破壊の夢。

 ならばこそ迷わない。既に先の攻防で破られた事にも臆しはせず、その夢だけを回し続ける。

 出力と収束性。それこそがヴァルゼライドの持つ強みであるから。それ以外になど脇目も触れず、ひたすらに光を集め、刀身を持たぬ剣へと収束させる。

 その様は愚かとも言えよう。あまりにも愚直が過ぎる。まるで道なき道をあえて進んでいるかのように、英雄は断固として己の道から外れない。

 

 何故なら、英雄は知っているのだ。

 恵まれぬ環境、不遇の身に産まれ落ちた彼だからこそ知っている。

 人の運命を決める神とも呼べる存在。そのようなものが実在するかは定かではない。ヴァルゼライドは祈りを支えとするほど信心深く無く、頭ごなしに否定するほど無心でもない。

 だがそんな彼でも知っている。たとえどのような神であろうとも、立ち向かう事を諦めた軟弱者が吐き出す弱音などに応えてくれる神はいないと。

 

 奇跡とは、他の何かによって偶然に起こさせるものではない。

 まさしく意志の限りを尽くして立ち向かった者だけが掴み取れるものなのだ。

 生まれの違い? 才能差? なんと女々しい泣き言だろう。そんなものを言い訳にしている時点で程度は知れる。そんな惰弱ぶりに微笑む女神などいるものか。

 向いていようがいまいが、目指すべき頂きが見えたのならば決意と覚悟を抱いて進むのみ。与えられたこの生命で、この手足で、たとえ断崖絶壁の如き悪路であろうとも怯まずに。

 それこそが真理。意志ある人間としての普遍であり共有すべき絶対認識であろう。何か他のやり方はと横道に逸れるような惰性ならば、そんなくだらぬ信念など捨てるがいい。

 

 必要なのは、しかと描いた理想を胸に抱き、そこへと向かって真っ直ぐに進める意志。男の生き様などそれで十分。故に英雄はその決意のみで、桁を飛ばした更なる大覚醒を実現させた。

 

 刀身を持たない剣に、形成される光の刀身。

 収束に次ぐ収束。英雄の夢である黄金光、限界を越えて解放された出力を、更に極限まで収束していく。

 凝縮されていく光は、まさしく恒星の中心核にも等しい密度。集合した粒子は物質化と見紛うほどの質量を伴って、その果てに形取られる光波鋭剣(ビームサーベル)

 巨大に、より高くに変じながらも密度は変わらず。天へと伸びる黄金の柱は、目を眩ませる輝きと共に見る者を圧倒させる。

 

 其は、まさしく最強の光。

 至高天の呼び名に相応しい究極の輝き。

 小賢しい理屈など不要。ただ熱く、ただ重く、ただ強い。

 それ以外に何がいる? どのような夢の法則を持ち出そうが、総てを灰燼に帰す超出力。

 英雄の掲げる光に余計な理屈はいらない。出力と収束性、与えられた己の道で、彼はあらゆる障害を踏破する奇跡を起こす。

 

 光の剣が振り下ろされる。

 輝かしい奇跡の一太刀が、魔物に向けて繰り出された。

 回避は不可能。防御は不可能。受け流すなど天地が引っ繰り返っても出来はしない。

 受け止める太刀が溶けていく。あらゆる夢の手練手管を駆使しても、一瞬を数瞬に引き伸ばすのが限度である。

 

 それはまさに意志の勝利。才覚さえも上回る信念の熱量に相違ない。

 きっとそれは皆が望んだ結末。輝ける努力の英雄が、悍ましき天性の魔物に打ち勝った。

 

 

「――――破段・顕象――――」

 

 

 そんな雄々しく成し遂げた奇跡の瞬間を、冷然と告げたその一言が無価値(ゴミクズ)に変えた。

 

「なぁ……ッ!?」

 

 英雄の心が、真なる意味での驚愕に支配される。

 訳が分からない。だってそうだろう。英雄でさえあの瞬間、己の勝利を確信したのだ。

 鋼の信念を掲げる男に慢心や油断など無縁である。ならばその確信とは真実に他ならず、目の前の影法師は灼き滅ぼされる未来しかあり得なかったはず。

 

 だというのに、影法師の姿は未だ健在。

 光を受け止めた太刀こそ喪失していたが、その身には傷一つさえ無い。

 躱したのか、防いだのか、そうだとしてどうやってあの光から逃れたのか。

 ヴァルゼライドにはそれが全く分からない。理解する事はおろか、過程の認識さえ叶わなかった。

 気が付いた時には、こうなっていたのだ。まるで世界自体が書き換えられたかの如く、そんな認識の領域外で英雄の覚醒は無為へと変えられた。

 

 世良水希の破段。

 それは『自身に関わる過去事象の一部を書き換えること』。

 悔やめる過去こそ水希の咎。あの日の選択をやり直したい、その悔恨より生じた夢。

 彼女の持つ天賦の才、その卓越した創界の法によって実現した、世界を改竄する破段である。

 

 だが無論、それは神の領域にも踏み込む御業だ。

 如何に世良水希ほどの鬼才といえども、単体で自在にとまではいかない。

 かつて彼女は邯鄲の法さえも覆したが、それは急段として様々な要因が重なった結果である。

 単一で行使する破段では自ずと限界がある。連続での使用は難しく、また書き換えられる過去領域もほんの一部。強力なのは確かだが、使い時も限定される。

 

 故に、魔物が狙うのは初めから一瞬のみ。

 窮地に立った英雄が覚醒を遂げた時、まさしく奇跡の瞬間だけを狙い打つ。

 その雄々しい意志の輝きを、信念で成し遂げた勝利の刻を、無残にも破り捨て蹂躙したのだ。

 

 影に呑まれた今の彼女は魔性なる英雄殺し。

 敬意も無ければ憧憬も抱かない。何の意志も省みず、殺意の技巧を振るう機械(マシン)である。

 覚醒の暇など与えない。不浄なる追跡者(トレイサー)に追い付かれたなら、その命脈は既に断たれている。

 

 よもやの事態に生じる動揺。意識の間隙は英雄であっても拭えない。

 故にその懐へと踏み込める。鼻先にも迫る至近の間合いに魔物は入った。

 得物は無い。もはや必要ですらない。ここまで迫れば、殺戮のための手段は無数にある。

 

 胸部へと添えるように置かれる掌。

 余分な力は要らない。踏み抜く震脚に全身の経路を連動し、ゼロ距離より放たれる掌打の衝撃。

 寸打・浸透勁。完成された技巧に解法を加えた一撃は、一切の防御を貫き通す必殺の崩拳と化す。

 

 逆流した血塊が吐き出される。

 心臓破壊。人体における最重要の内蔵器官。血流を統括する核を失って生存できる人間はいない。

 それは明確すぎる致命傷。よってここに、勝負は決せられた――

 

 

「――――まだ、だァァッ!」

 

 

 だがしかし、それでも尚、英雄たる男はその意志で不可能を踏み越える。

 ここは夢界。肉体の如何よりも精神の何たるかによって決まる世界。

 ならばこの男は動くだろう。現実ならば絶命必至の傷であろうとも。不屈の闘志と鋼の信念を持つ彼だからこそ、勝利のためにあらゆる無理を押し通す。

 理屈など無い。明らかな死に体の身体を、ヴァルゼライドは気合いと根性で甦らせた。

 

 光が集まる。

 もはやその手に剣はない。

 されど男には我が身がある。肉体こそが原初の武器。怯む理由が何処にあろう。

 黄金光を纏わせる己の掌。光によって己自身が灼かれていくが構うものか。

 

 繰り出される黄金の抜き手。

 眼前に在る影法師の魔物。その腹に抜き手が突き刺さる。

 間隙を晒したのは英雄だけではない。手立てを打つ暇はなく、破滅の爆光が魔物の身に直接流し込まれた。

 

 

 *

 

 

 身に受けた光を認識して、魔物の思考は己の崩壊を確信した。

 

 如何なる手立ても既に手遅れ。

 ここからの再起は魔性の才覚をもってしても不可能である。

 灼き尽くす爆光は全身に届いている。まもなく身体は崩れ落ち、自身という存在は滅びを迎えるだろう。

 

 そのような絶対の終わりの中から、英雄とはまったく異なる方向より魔物は再起動した。

 

 破滅に抗う意志など無く、敗北を撥ね退ける信念もない。

 ただそれが出来るから。初めからそういう性能(スペック)を有しているから。魔物にとってはそれだけの理由で十分で、定められた意義に従い動き出す。

 己の破滅は避けられない。それは事実と受け止めて、それでも英雄殺しの魔物は残された僅かな猶予を使って目の前の英雄の排除に掛かる。

 

 それが出来た何よりの要因は、一切の迷いが無かった事に他ならない。

 勝利も、生存も、未来も、何も省みていなかったから。在るべき意志の一切を放棄したが故に、光輝く英雄とは真逆の道で魔物は再起を遂げたのだ。

 

 夢によって編まれる処刑刃。

 もはや肉体は使い物にならないが、四肢など無くとも満身創痍の英雄には十分。

 その才覚をもってすれば、それこそやり様など幾らでもあるのだ。幻想の刃は今度こそ確実に英雄の首を撥ね落とすだろう。

 

 世良水希(じぶん)に出来るのはこれぐらいの事しかないから。

 ただただ天性(つよさ)のみを与えられ、中身を持たない自分には、暴力装置の役割しかない。

 ならば機械のような有り様で上等だ。元より何も信じられない意志なんて、始めから無い方が良いのだから。

 

 だから、さあ動け、世良水希(じぶん)よ。

 決して勝てない英雄を、今この場で落とすために。

 仲間になれない自分がせめて出来る事として、みんなの障害を排除する。

 求めるのは勝利じゃない。為すべきは逆襲。敗残の泥に塗れた者が、絢爛たる勝利者を冥府の底へと道連れにする墜落こそ魔物の果たすべき事だ。

 

 そんな方向性に従って、ひたすらに駆動を続ける意志なき影法師。もはや本人さえも止められないその所業を制止できる者など有り得るはずもなく――――

 

 

「――――まったく、少し目を離したかと思えば、独りで一体何処まで堕ちていくつもりだ?」

 

 

 声が、した。

 とても聞き覚えのある、大切な人の声が。

 肉声ではない。繋がった意識下で、闇の内に閉じ篭る世良水希の意識へと直接声を届けるように。

 

 それはある意味で、水希にとって何より恐れていた事態でもあった。

 

「阿頼耶を通して見せてもらったよ。お前の真実を。

 ずっと手を抜いていたんだな。仲間や俺に気遣って、決して全力を晒さなかった。

 これこそが本当のお前なんだろう。なるほど、確かにこれは凄まじい。お前が信じられなかったのも無理ないかもな」

 

 やめて違うの、どうかお願いこんな私を見ないで。

 こんなのは間違い。世良水希はちゃんと弱いから。こんな天性(つよさ)を私だなんて思わないで。

 強いのは柊くん。女の私は弱くて、男の柊くんはちゃんと強い。だからどうか、その素晴らしさを疑わないでほしい。

 間違っているのは私の方で、正しいのは柊くん。それは絶対に間違いない。こんな不条理で理不尽な才能(つよさ)が正しいものであるはずがない。

 

 ごめんなさい。

 目障りだよね、気持ち悪いよね、こんな化物じみた才能(つよさ)なんて。

 大丈夫、ちゃんと分かっているから。だからちゃんと消えるから。

 世良水希に価値なんてない。誕生自体が間違いだったって、もうちゃんと理解しているから。

 だからせめて、みんなの中の私だけは、夢で見たままでいさせてほしい。あの百年後の未来、みんなの輪の中で笑い合えてる私、あれこそが本来望んでいた姿であるから。

 

 せめてそれだけは守りたい。だからどうか、こんな魔物(わたし)を見ないでほしい。

 

「世良……」

 

 その様は、ひたすらに繰り返される自責に重ねた自責。

 他者からの言葉など聞くまでもない。悪いのは自分だと勝手に結論付けて、外からの意見を取り入れようとしない。

 袋小路に陥った悪循環だ。もはや世良水希には、己を許す事など出来はしないだろう。

 

 そんな彼女の意識に繋がる声、柊四四八の意志はそれを良しとしない。

 仲間が窮地にあったなら、手を差し伸べるのが当然。誰にも恥じ入るべきでない道理に従い、彼は自責の輪に囚われる水希へと呼びかけた。

 

「すまなかったな、世良。俺たちのせいで、随分と気を遣わせてしまったみたいだ。

 俺や、他の奴らが不甲斐なく見えたから、お前は遠慮していたんだろう。そんなお前の歪さに、俺たちは気付く事さえ出来なかった。それは紛れもなく俺たちの責任だ」

 

 咎は自分たちにもあると、四四八は告げる。

 世良水希の真実、仲間を真に信じられずにいる彼女の本性を理解して、それでも四四八は決して水希を責めなかった。

 

「俺たちを信じられないからと、お前だけを責めるのはお門違いだろ。むしろお前にそうさせた自分自身の至らなさこそ、俺は恥じるべきだと思う。

 百年後で過ごした人生だけじゃない。あの邯鄲の一周目、俺たちが本当の自分を知っていた頃にしたってそうだ。お前が思った通り、あの時の俺は単に無理をしていただけだったから。

 あるべき型に嵌っていない。たとえ邯鄲の試練がどんなものであれ、仲間の血でもって贖う道は俺の道じゃない。分かっていたはずなのに、それが大義のためならと自分に言い訳をして、そんな歪なままで行き着いたのがあの敗北だ。

 嗤われても仕方ない。あんな不純な邯鄲(ユメ)のままで、甘粕正彦に勝てるわけがなかった」

 

 邯鄲の一周目。第四層での試練にて、柊四四八らは仲間同士で殺し合った。

 それこそが四層突破の条件であったから。軍属の教育を受けた特科生として、何より大日本帝国という国風そのものが、そこから外れる事を恥だと認識させていた。

 奉じるのは戦の真、されどそこに千の信は在らず。己の在るべき道を貫けず、不純な罪過を残したままで掴める悟りなどたかが知れよう。

 そんな純度で挑んだところで、あの甘粕に勝てるはずがない。水希が抱いた所感は決して的外れなものではなかったのだ。

 

「分かるだろ、世良。お前だけが悪いなんて事はない。こういう事は全員で責を負っていくべきなんだ。それでこそ仲間ってものだろう。

 だから一人だけであんまり背負い込もうとするな。もっと俺たちを頼れよ。お前の苦悩や歪みだって、今の俺たちならちゃんと受け止めてやれるから。

 それくらいの天性(つよさ)で、俺やあいつらがお前を拒絶するなんて本気で思ってるのか?」

 

 責任があるというのなら、それは全員で共有すべきもの。

 連帯責任という言葉があるが、あれは横同士での相互監視による規律を促すためにある。四四八の語ることは、そのような軍律じみた冷徹さとは異なるものだ。

 

 共に明日を誓ったから。

 絆を結んだ友として、同じ未来を目指すと。

 組んだ円陣の宣誓を覚えている。現実でも、百年後の未来でも、彼らは夢の先を望んだのだ。

 唯一人が、ではない。皆で行き着く未来こそを。躓いた仲間を見捨てていくような、そんな無情の道を戦真館は選ばなかった。

 

「お前は強い。強くて、弱い。世良水希の心の弱さを、俺は受け入れたぞ。

 心が弱ければ仲間じゃないって、そんなことがあるものか。そこに改善すべき弱さがあるなら、手を差し出して引き上げようとするのが当然じゃないか。

 全てを独力だけで事を成せと、そんなのは俺たちの道じゃない。俺たちの誰が、これまでの邯鄲をたった独りで越えられたという。誰もが誰かに支えられて、そうやって前に進んできたのが俺たちだろう。

 仲間を頼ることは恥じゃない。恥じるべきはそこに甘え、自らの脚で立とうとする意識を忘れる怠慢だ。たとえ支えられたって、お前ならそれだけじゃないって信じている」

 

 世良水希は弱い。器の性能に合わず臆病で、その在り方に強さはないだろう。

 今まで水希は立ち上がろうとしていなかった。各々が邯鄲で強さを得ていく中で、水希一人が取り残された。英雄の指摘した事は事実だろう。

 だからこそ、四四八は水希へと手を差し出す。一人では立ち上がれないのならば、仲間がそれを支えればいい。それは間違いでも、ましてや恥に思うことでも決してないのだ。

 

 大切なのは立ち上がらせてもらった先で、己の脚で歩けるかどうか。

 水希ならそれが出来る。出来るのだと信じている。そう信じてこその仲間だろうと、そんな青臭い論理を本心から四四八は口にした。

 

「だから、まずは戻ってこい。こんな結末なんて、俺たちの誰も望んでなんかないんだから」

 

 今の水希を覆う闇とは、心が自責に囚われたが故の悪循環。

 自責に次ぐ自責、自身の誕生さえも誤りだと認識する自己否定が生んだ闇なのだ。

 

 水希にとって、仲間の存在とは即ち信明(おとうと)と同義のもの。

 すれ違う思いがひたすらに悪い方向へと進んだが故の悲劇。互いに想っていたはずの姉弟は、相手のためであったはずの行動で最悪の結末へと至ってしまった。

 今も彼女を苛んでいる心的外傷(トラウマ)。その痛みを癒さない限り、水希の闇は晴れる事はない。 

 

「抜けば玉散る氷の刃――」

 

 故に柊四四八はそれを成す。

 父である柊聖十郎と向き合い、その邪悪を憎むのではなく、与えてくれた誕生という祝福に報いたいと願う『孝』の心。

 阿頼耶の試練を越えて獲得した柊四四八の悟り。我も人、彼も人なり、故に対等。人々の繋がりに感謝して、与えてくれた幸福に報いるものを返したいと願う、仁義の精神で成す人間賛歌。

 その霊験は繋がりによって生じる悪循環を断ち切る事。『孝』の心で振るう破魔の利刀でもって、少女の魔性を祓い声も届かぬ自閉の暗雲を断ち切るのだ。

 

「破段・顕象――――犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)

 

 闇に覆われていた意識の内より発現した清めの光が、魔物の手を止めさせた。

 

 

 *

 

 

「がぁ……ッ!? ぐ、ごぼっ、がは――――!」

 

 吐き出した己の血溜りに手をつく。

 辛くも勝利を収めたヴァルゼライド。されどその損傷具合はとても看過できないものだった。

 

 呼吸ができない。

 行き場を失った血の流れが、逆流と共に嘔吐され地に撒かれる。

 受けた傷は致命傷。潰された心臓は、たとえ再起を果たそうとも治らない。

 現実ならば即死して然るべき。夢界であっても大差はない。次の瞬間には断絶しているはずの意識を、ヴァルゼライドは意志の力だけで繋ぎ止めていた。

 

 英雄たる彼にとって、痛みとは背負うもの。

 数多の血と骸で築かれた鋼の覇道。如何なる大義があろうとも、重ねた罪の業より逃れられる道理はない。

 ならばこそ、その一身にヴァルゼライドは背負うのだ。殺戮者たる己がせめて出来る誠意として、痛みの一切から逃れる事なく背負うのだと雄々しく覚悟している。

 その意志の如何について今は問わない。ただそうした精神の性質故に、ヴァルゼライドは楯法の活に関しては著しく素養が低かった。

 

 楯法による回復も気休め程度。

 世良水希の一撃には解法も織り込まれていた。ヴァルゼライドの技量では全回復など望めない。

 致命傷は致命傷のまま。心臓を潰された死に体を気力だけで保たせている。それがヴァルゼライドの現状だった。

 

「侮った挙句が、この様か……」

 

 世良水希を侮っていた。

 取るに足らない相手だと。他の面々と比すれば敬うにも値しないと。

 せっかく生まれ持った才覚を活かさず、無様を晒し続ける弱さ。過去の後悔に囚われて前へと進めずにいる停滞ぶりに、はっきりとした失望の念を抱いていた。

 それは英雄たる男の生き様とは真逆の道であったから。勝利も強さも何もない。そんな様に見い出すべき価値などあろうものかと。

 

 その結果がこの醜態ならば、己の滑稽さを自嘲するしかない。

 猛省しよう。だがそれでも諦めるわけにはいかない。まだまだ勝利の頂きには程遠い。

 こんな場所では終われない。終わってなるものかと、意志を猛らせて絶命必至の現状より再起を目指す。

 それでも身体は動かない。当然だ、気合いだけで損壊した肉体を補えるわけがない。そんな事まで出来るなら、世のあらゆる道理など覆ってしまうだろう。

 今の彼は無様の中で足掻いているだけ。諦めない、諦めないと吠えながら、まもなく訪れる終わりから少しでも長く遠ざかろうとするのみだ。

 

 だから、再び立ち上がった世良水希の姿を目にした時、英雄の心には恐怖が生じていた。

 

 自分はここで終わるのか。

 確信にも近い予感。それは心が感じた素直な気持ち。

 英雄の心は機械ではない。恐怖とて感じれば、その先の絶望もある。

 絶望。あらゆる者の膝を折り、信念を屈させる敗北の楔。それは英雄とて例外ではあり得ない。

 もはや戦えない。勝ち目は無し。不撓不屈で進んできた英雄を、今度こそ敗残の泥に沈めるべく、生じた絶望はその闘志を折りに掛かる。

 

 そのような感情に一度は確かに支配されかけ、だからこそ英雄たる男は雄々しく立ち上がった。

 

 英雄とは、恐怖を感じない者ではない。

 恐怖を知り、それに打ち勝てる者こそが英雄である。

 如何なる絶望からも立ち上がる。決して折れない芯の強固さこそが光ある者の本質。

 感じた恐怖をむしろ起爆剤と変えて、終わりを待つだけだった肉体を動かしていた。

 

 またしても英雄の意志が道理を覆す。

 その瞳の輝きに曇りはない。諦めは今や振り切った。

 このような現状に陥りながら、それでも英雄は勝つつもりなのだ。世良水希に、その先の柊四四八に、あの甘粕正彦を相手にも。

 その手にもはや武器はなく、肉体は限界を越えて崩壊寸前。それら一切、だからどうしたと言い捨てて、当たり前のように勝利を目指す。

 

 正しさの側にいるのはクリストファー・ヴァルゼライド。

 その信条も、不屈を貫く鋼の意志も、人が魅せられ尊ぶべきとするのは英雄の方だろう。

 意志なき魔物にそれはない。天性(つよさ)だけにかまけたその姿は、在るべきでない誤りである事は誰にとっても明らかだろう。

 

「あなたが傷つくと私は泣く。あなたが私の家族だから。心の通った言ノ葉をこそ伝えたい」

 

 よってここに、両者の間による合意が成立した。

 

「急段・顕象――――犬飼現八信道(いぬかいげんぱちのぶみち)

 

 発動する急ノ段。世良水希の夢が世界に干渉を始める。

 そして発生した事象は、あらゆる意味で英雄の予測を外したものだった。

 

「なんだと……?」

 

 致死であったはずの肉体が癒えていく。

 それはまるで時間が巻き戻っていくかのように。受けた損傷が逆行して、その身を元の状態へと戻していた。

 いや、傷だけではない。砕かれた七本の刀剣までも、気付けば元の帯刀された状態として復元している。この魔物との一戦で受けたあらゆる損害、その全てが無かった事になっていく。

 

 そうして気付けば、ヴァルゼライドは戦う前の状態へと回帰していた。

 

「……どういうつもりだ? 世良水希」

 

 対峙する影法師――――否、そこにはもう闇に覆われた魔物の姿はない。

 そこに立つのは世良水希。元の姿を取り戻した少女へとヴァルゼライドは問いかける。

 

 心を封殺していた魔物には、あらゆる急段が通用しない。

 それは同時に、己の急段も使えない事を意味している。両者の意志の合意により成り立つ急段は、如何に夢の力が優れようと己一人では成立しない。

 ならばこそ発動した急段は、水希の正気を証明するものだ。自責の檻に囚われていた水希は、元の意識を取り戻して立っている。

 

「別に、それほどの意味もないですよ。あなたのためってほどでもないし、割りと勝手な償いですから」

 

 ヴァルゼライドが問うのは行動の意図。

 なるほど、正気に立ち戻ったのは分かった。だがならば何故こちらを癒す?

 敵対していた彼にとっては、敵に塩を贈る行為にしか見えない。拒絶の意を示すよりも、純粋な疑問としてその意義を問うていた。

 

 それに水希が返すのは、どこか開き直ったように答える謝罪の言葉だ。

 

「ごめんなさい。私が間違ってました。やり直させてください」

 

 急段とは、両者が特定の条件に合意する事で成立する協力強制。

 当然ながら敵対する間柄で条件を満たすのは難しい。知っていれば意識して合意しないようにする事で対処可能、故に基本として無意識の裏を取らなければ発動さえ覚束ない。

 そして水希の急段とは、他の面々と比較しても屈指の難易度である。それ故に効果も強力だが、通常ならばまず嵌められない。

 

 その条件とは『相手と自身に戻りたい時間があり、且つ、その時間が同じであること』。

 発現する効力は時間の逆行。かつて邯鄲そのものを巻き直した神にも届く夢である。

 まずもって両者に何らか因縁が無ければ成り立たず、その上で同じ後悔を思ってなければならないという限定的な対象、ケースにしか発動できない急段だ。

 実践的な運用などほぼ不可能。未来を求める英雄には、本来ならばまず通用しなかったはずだ。

 

 だが、今この状況だけは例外だった。

 水希は望んだ。醜態を晒した己をやり直したいと。

 そしてヴァルゼライドも望んだのだ。不覚を取った魔物との一戦、その前の万全の己へと立ち戻る事を。

 

 英雄にとって傷とは、覚悟を持って背負うもの。

 決して自ら求めるものではない。それでは単なる自傷だろう。

 表層の意識がどうであれ、内面の無意識では再起のための手立てを求めていたのは事実。

 世良水希との戦闘で負った予想外の損傷。ここで脚を止めるなど許されない以上、何とかせねばと考えるのは英雄とて同様である。

 

 よってここに両者の合意、協力強制が成立する。

 世界の時間が巻き戻る。この戦闘の前の時点まで。時間逆行の流れに乗って、受けたあらゆる損害が元の状態へと戻っていった。

 

「やり直させて、か。それは柊四四八の事を差し引いてもやる事なのか?」

 

 起きた事象の如何は理解できた。

 それでも疑念は解消されない。世良水希が己を癒す理由が、ヴァルゼライドにはどうしても理解し難かった。

 

 これよりヴァルゼライドが目指すのは柊四四八。

 先に宣言した通り、その対峙は闘争の形になると確信している。

 それは戦真館の面々にとって許容し難い事態だろう。英雄を取るに足らないと侮るならば、そもそもこうして戦う事はなかったのだ。

 傷を負わせられたならば僥倖であり、それを無くす事は成果を摘み取る事に他ならない。そんな行いを、むしろ晴れやかな面持ちでするのは如何なる心境なのか。

 

 そんな英雄の様子を、水希はおかしいものでも見たように笑った。

 

「だから言ったじゃないですか。あなたのためじゃないって、償いなんてついでですよ。

 ええ、本当はあなたの事なんてどうでもいいんです。みんなと同じ、柊くんを思ってやっている事だから」

 

 柊四四八を一人きりで戦わせはしない、そう願ったから戦真館は戦った。

 盧生と眷族、軍属の意義など関係ない。仲間だから、友だから、当然のようにそう動いた。

 そしてそれは、何が何でも障害を排除しようという意味でもない。つまり理屈ではないのだ。自分たちが辿ってきた道は、そんな損得勘定で語れるものではなかったから。

 

 クリストファー・ヴァルゼライドを、柊四四八ならばどうしたいと思うだろう。

 この疑う余地のない英雄を。誰もが敬意を抑えきれなかった不屈の勇者を。

 ただ斃そうとするだろうか。その有り様が異常だから、仁義の道とは相容れないものだからと、それは許せないと排斥する事を望むのか。

 

 きっとそれは違うだろう。逆襲なんて彼は望まない。今なら水希にもそれが分かるから。

 

「だってほら、これから喧嘩しようって時に、あなただけ怪我してたら、柊くんが遠慮しちゃうでしょう」

 

「な、に?」

 

 まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのか、英雄の表情に当惑が浮かぶ。

 それがどうにもおかしく見えて、思わず苦笑しかけて――水希は崩れ落ちた。

 

 おかしくはない。当然の成り行きだ。

 英雄の繰り出した決死の一撃。無事で済む道理などあり得ない。

 滅びの確信は誤りではない。逆襲を切り捨てて、末期に僅かな余地を残したがそれも限界だった。

 

 そんな最期に水希が選んだのが、英雄を癒す急段だ。

 とはいえそれも、水希自身を癒すには至らない。発動できた急段は、しかし大きな力とはなり得なかった。

 両者の力を上乗せる急段だが、水希自身はこの様である。乗った力はあまりに少なく、また求める気持ち自体も言ったようについでの意味合いが強い。

 元より大した成果が出せるとは思わない。だから逆行させる時間を英雄だけに集中させたのだ。結果、癒しの恩恵は英雄のみに与えられ、水希は滅びの結末を甘受するしかない。

 

 力を失い倒れていく水希の身体。

 水希の邯鄲はこれで終わる。その刹那に思うのは、後を託す彼に対しての懸念。

 選択に後悔はない。けれどやはり世良水希は臆病だから。どうしても心から不安が拭い去れない。

 彼を、柊四四八を信じてる。信じようとしてるのに、それが怖くなる。生来を通して刻まれた性質、相手を信じきれない臆病さは、説教一つで完全に克服できるほど簡単ではないらしい。

 

 不安と怖れ。

 その二つを抱えたまま水希は倒れる。

 もはや一片の力も残されていない。自分で自分を支える事さえ出来ない。

 今さらどうにも出来ないだろう。懸念についても諦めて目を逸らし、水希の意識は邯鄲より消えていく。

 

 

「――――悪い。待たせたな」

 

 

 そんな倒れていく水希の背を、力強い男児の手が受け止めた。

 

「お前とはもっとちゃんと話そうと思ってたんだがな、後回しにさせてもらうぞ。

 ――みんな、よくやってくれた。後は俺に任せてくれ」

 

 雄々しく頼もしい声。輝ける立ち姿は、朽ちゆく闇にも希望の光を灯す。

 彼もまた英雄と呼ぶべき漢。されど破壊の英雄とは、その性質を決定的に異にするもの。

 彼こそは仁義を為す者。人の繋がり、絆の結びを奉じる人類の代表者(ヒーロー)

 

 柊四四八。完成した第二の盧生が、遂にその姿を現した。

 

「柊、くん……」

 

 水希もまた、その姿に希望を見出だす。

 大丈夫だ。終わりなんてこない。ああそうだとも自分たちは勝つのだと。

 

 かつてはその希望を抱いた自分に悲嘆していた。

 そんな女の願いこそが、男の彼を苦しめる。ずっとそう思い込んできたから、そんな希望は抱いてはいけないのだと。

 だから敗ける。だから無理をしてる彼では決して勝てないと、信じる事を放棄した。己自身の臆病さから、勝手に彼の強さを見限ろうとしていた。

 

 世良水希は自責する。それは自身を好きではないから。

 だからこそ変わりたいと思う。仲間を信じられない今の様がいいは彼女自身だって思ってない。

 かつて評してもらった『信』の犬士。戦真館の一員に相応しい自分になりたい。

 

「ねえ、柊くんなら勝てるよね。信じてもいいんだよね?」

 

 自分は臆病だから、一歩を踏み出すための勇気をください。

 その強さを信じさせてほしい。光輝くあなたの姿を、最期にもう一度見せてください。

 

「当たり前だ。お前まだ、俺が無理をしていると思ってるのか」

 

 それは予想できた、期待した通りの雄々しい返事。

 

「一つだけ言っておくぞ、世良。そういうのは無理とは呼ばない。

 男のそれはな、誇りというんだよ。苦しかろうが辛かろうが、そいつを押し殺してでも俺たちはかっこいい自分でいたいんだ。無茶でも何でも、女の前では特にな」

 

 それはなんて青臭い答えだろう。端的に言って子供っぽい。

 そういう無理をさせて、苦しめてきたから後悔してたのに、それさえ男の人にとっては誇りだという。

 

 だったら自分は、いったいどうしたらいいというのか。

 

「だから、あんまり見せ場を奪わないでくれ。男に無理難題を吹っ掛けるのも、女の特権というやつだろう。

 大丈夫だ、俺は勝つ。俺たちがあの二十一世紀で見出だした『信頼(トラスト)』は、単なる『真実(トゥルース)』に劣るものなんかじゃないだろう」

 

 だから信じて待てと、強くてかっこいい、とっても馬鹿な男の子は言う。

 

 まるで理屈になってない。方法論ではなく精神論。

 そうしたいからそうするのだと、そんな根性論を本気になって言っている。

 有り体に言ってしまって馬鹿だろう。それで信じろと言われて、本当に信じる人がどれだけいるというのか。

 

 けれどだからこそ、そんな言葉を彼らしいとも思うのだ。

 

「うん、分かった。信じてるよ、柊くん」

 

 信頼に根拠は必要ない。

 大切なのは気持ちの如何。保証がないからこそ、信じる行為には価値がある。

 方法論など小賢しい。何より信じるに足る意気を示す事こそ柊四四八の在り方なのだ。

 

 そして、世良水希。彼女の意志は脆くて弱い。

 大切な仲間だからと信じようとしても、性質の臆病さにより揺らいでしまう。

 だが言い換えるなら、それは盲目にはならないということ。仲間だから、大切な人だからと、感情から信じようとするのではなく、よく疑ってから低く見積もった上で判断を下す。

 なまじ彼女自身の天性が凄まじいから、大概の相手はか弱く見えてしまう。その相手を大切に思えばこそ、傷つけたくないと優しい心は思うから、哀れみや遠慮が混じってしまう。自分より強い相手ではなく弱い相手を信じなければならない事は難しい。

 ならばこそ重いのだろう。不安と怖れ、拭えない心の脆さを抱えながら、それでも大切な誰かの強さに賭けて信を預ける。当人にとって、それはどれだけ重い決断と覚悟であることか。

 

 世良水希にとっての戦の真とは、仲間たちを信じる心。

 ありのままの己を見せて、それを受け止めてくれる事を信じる強さ。

 信明(おとうと)の強さを信じず、対等な相手として見なかったが故の悲劇。それを理解し、誤ちを繰り返さない意志を得ることで、彼女はようやく前へと進める。

 

 ようやく得られた己の悟りに安堵し、万感の信頼を込めた眼差しで柊四四八を見ながら、世良水希は邯鄲より退場していくのだった。

 

 

 *

 

 

 そうしてここに、両雄は対峙する。

 

 勝利を掲げる鋼の英雄。

 仁義を尊ぶ絆の益荒男。

 揃い立った二頭の雄。異なる輝きを有しながら、共に男子の価値観の極限を体現する光であるのに疑いはない。

 

「待たせたな、英雄」

 

 彼らは互いに光の属性を担う者たちだ。

 決して理解できないわけではない。確かな敬意も存在している。

 それでも道が違えたその時は、ぶつかり合うより他にはない。譲れない信念を持つからこそ、己の道に妥協はできないのだ。

 

 勝利を求める英雄ならば、そこに打倒という答えを出すのだろう。

 だが、仁義を奉じる益荒男ならばどうだろう。譲り会えないから、邪魔だからと、無情にも切り捨ててそれで良しとするだろうか。

 いいや、否だ。彼こそは盧生。人類が謳う輝きの代表者(ヒーロー)。たとえ他の誰にも出来ずとも、彼だけはそれを成し遂げなければならない。

 英雄が単騎(ひとり)を選んだように、益荒男もまた苦しく困難な選択を自ら選ぶ。たとえその方が楽だと分かっていても、()()()()()という選択肢を選ばない。

 

「喧嘩を、しに来たぞ」

 

 繋がりの価値を信じる柊四四八だからこそ、彼にとっての決着はそれ以外にない。

 排斥ではない。分かり合うために戦うのだと、雄々しく四四八は宣戦した。

 

 

 




『意志がない天才』VS『意志狂いの凡才』。

 水希闇堕ち。ヴィジュアルはオープニングの影水希。
 強さ描写とか独自のもので、更にオリジナルの破段までと結構やりたい放題してしまった。

 方々から割と辛口な評価を受ける事が多い水希ですが。
 設定面では盧生より阿頼耶に近づいていたり、素養では最強であるなど、明らかにチート級なのが示唆されているにも関わらず、肝心の本編で活躍に恵まれず、いまいち強さが表現されなかった感がある彼女。
 万仙陣ではヘル戦でかなり挽回しましたが、チートってほどかというとちょっと疑問が残る。
 加えて色々と面倒くさい性質のせいで、散々強いと勿体つけた割には大した事がないと、そんな印象を受けてるように思えます。

 なので、ああこれなら隠したくもなるわと納得するくらい、ドン引きな強さにすればいいんじゃないかというのが今回のコンセプト。
 もし途中でむしろ英雄の方を応援したくなっていたら、狙い通りです。

 ちなみに、
 覚醒した際のオリジナル技は、イメージ図ではシャイニングフィンガーソード。
 決まり手:爆熱ゴッドフィンガー、的な。
 原作だと出来ないけど、ヴィジュアル的にはやってほしかったので。
 総統閣下は体内にオリハルコン埋め込んでるそうなので、その気になれば出来るかもですが。

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