――思い返すのなら、あの男は最初の時から目を引かれる輩だった。
邯鄲の第一周。掲げた大義と各々の我欲をもって夢界に臨む始まりの周回。
深海を思わせる密室の中、円卓の中央に据えられた燭台を囲むように向かい合う四人の男女。
二人の盧生により繋がれた眷属たち。そしてこの夢界における勢力を分別する主要人物。それらが一同に集い、設けられた会談の場は甚だ異常なものであり、
そして同時に、柊聖十郎にとっては茶番以外の何物でもないものだった。
柊聖十郎こそが至上の天才。世の総ては彼のためだけに存在している。
この邯鄲にしたところで、元より彼が己のためにと拵えたもの。他所の愚昧どもが何やら幅を利かせている現状自体が、彼にとれば道理に反した異常そのものである。
そしてこの現状においても、柊聖十郎が見据えるべきは唯一人。愚鈍の輩がいくら集まろうが恐れるに足らず、歯牙にもかけずに勝利するのが自明の理。真に敵となり得るのは、正当な所有者からこの邯鄲を簒奪した盗人猛々しい"あの男"に他ならない。
蒙昧どもが何かを喚いているが、どうでもいい。
所詮は己に奪われるために在る贄どもだ。少々の優位が減じたからと構う必要はない。
対等な条件であるならば、己が勝つのが当然の帰結。そのような傲岸不遜を柊聖十郎は疑わない。
そしてそれは、決して周りが見えていない驕りではないのだ。ここに集った者たちの能力、性質、強度、どれも余さず理解している。等級だけで見れば己とも同格であり、その刃が届き得る事も十分に承知の上だ。
その上で彼は告げる。我こそが唯一絶対、他者など取るに足らない塵芥であると。他者の力を認識した上でも、必ずや己が勝つと自負するのだ。
よってこの場に設けられた会談など、柊聖十郎には無意味である。
グルジエフの娘? 貴族院辰宮? 神祇省?
俺が敷いた邯鄲に狂いが生じた。ああそれで?
煩わせるなよ屑どもが。貴様ら蒙昧が俺の足を引っ張るなどいつもの事だ。いちいち気に掛ける価値すらない。
障害があろうが知ったことか。何が立ち塞がろうが粉砕して突き進むまで。柊聖十郎の勝利こそ天地に示されるべき道理であると知るがいい。
柊聖十郎の自尊はそう豪語して切って捨てる。
その関心はすでにこの場にはない。故にこの異例の会談も解散の流れに向かうのが自然であり、
「ああ、いやいやちょっと待ってもらえるかい? 実は一つ、とても大切なお知らせがあってね。君たちに新しく紹介したい人がいるんだよ。共にこの夢界で切磋琢磨する同士として」
新しい人物? この夢界に、六勢力以外で?
そんなものを認知した覚えはない。主要となり得る者は全て把握している。
ならば、やはり設定の狂いが関係していると? 当初に予定されていた邯鄲の効果範囲が拡大したことで、把握していない眷族が現れる懸念はあったが。
「いいや、今回のはそうじゃない。なんといっても、我が主のご推薦だ。
うん、ぶっちゃけて言っちゃうとぜぇ~んぜん関係ない人だったんだけど、ホラ、甘粕正彦ってああいう人だからさぁ? 夢を通して全人類を見渡してたら、ふと気付いて、だから捕らえたって、特に意味もなく連れて来ちゃったんだって。
破天荒な主でごめんねぇ、セージ。僕も従者として、色々苦労させられているんだよ」
気軽気な口調で明かされた事実に、聖十郎は歯噛みする。
つまり盧生とは、夢を通して全人類をも俯瞰して干渉できる力があるという事。
普遍無意識の概念を考えれば、過去や未来への干渉さえも可能だろう。人類史上初にして、恐らくは最強の盧生だ。あるいは出来ない事など無いのかもしれない。
その力の強大さを聞かされるたび、憎悪が滾る。
本来ならば自分が手に入れるはずだったと思えば、口惜しさが止められない。
ああ、何を我が物顔で振舞っている。それは本来なら俺のものだろうが、盗人め。やめろやめろ見下すなよ、許さない。
絶対に手に入れてみせる。この柊聖十郎を選ばない天の不明を正し、あるべき世の道理とは何であるかを示してみせる。必ずや後悔させてやるぞ。
「まあ、前置きはこれくらいにして、さっさと紹介してしまおうか。はるばる地球の裏側からお出での方だ。みんな、仲良くしてあげてね」
そうして入ってきた男を目にした時、聖十郎の頭に過ぎったのは一つの記憶。
今となっては忌々しい記憶でしかない、あの男と初めての邂逅を果たした時の光景だった。
「クリストファー・ヴァルゼライド殿ですか。お見知りおきを、わたくしは辰宮百合香と申します。
甘粕大尉殿に目を掛けられるとは、幸運なのか不幸なのか、そこは測りかねますが。ともかく甘粕殿の敵として、わたくし共が訊ねたいのは一つです。
ヴァルゼライド殿、あなたは甘粕殿の走狗ですか?」
紹介されたのは、軍服に袖を通した荘厳な偉丈夫。
常人であれば気圧され畏怖するだろう男を前にして、嫋やかなる貴人の品性を保ちながら辰宮百合香は問いを投げた。
「いや。確かに俺は甘粕に繋がった眷族だが、奴の思想には賛同していない。くい止めねばならぬものと承知している」
「まあ。それは面白い。であればわたくし共の目的とも一致するのでしょうか。そちらにも何かと事情はお有りでしょうが、敵の敵は味方とも申します。どうぞよしなに、ヴァルゼライド殿」
その様は気高く、優雅に、底知れず。深窓の令嬢たる神秘性、辰宮百合香はその化身に等しい。
意識せずとも無自覚の内に、彼女はそのように振舞っている。仕えるべき姫、尊ぶべきいと貴き人と、相手の敵意を減衰させて畏敬の下に傅かせる。
その上で、彼女は豪胆であり強かだ。何人にも動じず我が理を説く姿は、油断ならない棘薔薇の如き魅力すらも新たに開拓している。
戦闘者としての技量は皆無であり、実行的な攻撃能力を一切持たない。
それでも辰宮百合香は夢界に君臨する強者の一角にある。彼女の持つ魅力という力の強大さ、性質の悪い厄介さは、この場の誰もが認めるところであり、
「不要だ。
故に、にべもなく言い捨てた男の言動に一同からの好奇の視線が集まった。
「……それはおかしい。道理が合いませんよ、あなたは甘粕大尉殿の眷族なのでしょう。
眷族であるのなら、その力の与奪権は盧生に握られている。まあ大尉殿の事ですから、その点に関してはある意味で心配いらないのかもしれませんが、そうでなくても眷族では盧生に勝てない。
もしやご存知ないのでしょうか? あのキーラのように、無知のままに直情で突き進むケダモノの類いであると?」
「否、この夢界の理は既に聞いている。その原則、可能不可能の如何についても。
資格なき者は盧生になれない。眷族の身で盧生に対抗するなど前提から履き違えている。盧生に対抗できるのは何処までも盧生だけであり、だからこそ第二の盧生を見出したと。
理解はした。納得もしている。道理はそちらにこそあるのだろう。ああ、
敷かれたルールは知っている。
根本にある法の原則も納得している。
相手の言こそ正論で、愚かなのは己の方だと。男は余さず弁えている。
その上で尚、男は言い切っているのだ。その愚行を己は成し遂げてみせるのだと。
「盧生に対抗できるのが盧生であるならば、俺こそが盧生に至ろう。道理に反しているのは承知だが、祖国と民草に真の報いを与えられる道がそれのみであるのなら迷いはない。必ずや勝利をこの手に掴んでみせると決めている」
豪語する男の姿は、端的に言って愚か者だろう。
理屈からまず破綻している。何某の方法を提示するわけでもなく、ただ決意したから成し遂げるなど、そもそも理論が成立していない。
現実が見えていない阿呆の類い。ともすれば、あのキーラよりも愚直に走るだけの大馬鹿者。この場に集った一同の、それは恐らく共通した感想だろう。
それは柊聖十郎とて同じ。だからこそ彼は拭えない不快感に苛まれていた。
道理を弁えない愚かさ、それを承知で折れずに進める愚直さ。
理解できない信条に殉じて危険を省みず、命さえも懸けて挑める意志の強度。
ある一つの感情が極限に肥大した怪物、一種の化け物と呼べる性質の人間。
そんな度し難い有り様が、ますますかつての"あの男"を想起させるようで――
「――――くだらん。俺も些か耄碌したか?」
脳裏に思い起こしていた回想を、聖十郎はにべもなく言い捨て振り払う。
先日に行われた会談の席、無価値であるはずのそれに妙な思いを抱いている己自身を自戒した。
柊聖十郎こそ天下における真なる価値。
必要なのはその自負のみ。他の如何なる感情も一切不要。
愛は分かる。情は分かる。人の性に属する全てを余さず知っている。
故に無論、己の邪悪は誰より承知、柊聖十郎は在るがままに鬼畜である。
その証拠に見るがいい。彼の周囲に広がる悲惨な光景を。
神祇省、辰宮、鋼牙。夢界に君臨する主勢力の総てが、無残な骸となって打ち捨てられている。
それら骸が転がる凄惨な場にあって、覇者の如く佇むのが柊聖十郎。猛悪なる夢の繰り手として、逆十字は憚る事な君臨していた。
ここは夢界・
時代は日露戦争の最中。そして第二の盧生、柊四四八にとっては己の生誕に関わる階層である。
己の父、柊聖十郎とは否応なしに向き合わねばならない場所であり、だからこそ柊聖十郎にとっては自らの目的を果たす絶好の好機であった。
それは即ち、盧生の資格の簒奪。彼にとってのあり得ない不条理を正し、あるべき道理に戻すために。
自らもまた盧生となり、甘粕を殺す。今の屈辱的な関係を逆転させ、然るべき報いを受けさせるのだと。
今の今まで恩恵を受けてきた身でありながら、そこに恩義の念などまるでないのだ。
己に尽くすのは当然の事であり、むしろ役立てる事を光栄に思えと豪語する異形の感性。
他人を尊重しようとする敬意、感謝の思いが完全に欠落している。生まれ落ちた瞬間から、その魂は邪悪そのものである。
そのような鬼畜の存在を、柊四四八は決して認められないだろう。
だからこそ柊聖十郎には勝てない。父に憎しみを向ける限り、逆十字の術中に嵌まってしまう。
二人が対峙したならば、柊四四八は敗れて盧生の資格は聖十郎のものとなる。それは連座して彼に繋がる眷族たちの破滅をも意味している。
思惑は様々なれど、ここで聖十郎に勝たせるわけにはいかないのは共通している。よって三者三様、戦いを期してここに集い逆十字と激突した。
その結果は、ご覧の有り様である。
直前で鋼牙に敗れた辰宮を除き、神祇省と鋼牙はまとめて逆十字の夢に嵌められた。
単なる自負ではない。柊聖十郎こそ夢界最悪の夢である。盧生や廃神という例外を除けば、逆十字に勝てる者など存在しない。
ここに邪魔な障害は排除され、逆十字の凶行を止められる者は失われる。
これより聖十郎は息子の所に赴き、盧生の資格を手に入れるだろう。その無道、絶対悪の呼び名に相応しい在り方を体現する男の所業、その結末はもはや避けられないと思われた。
「……ふん。やはり来たか」
よって悪なる者の横行を打破するため、高潔なる正義が立ちはだかるのは必然だった。
「奴に首輪を付けられた眷族の分際で俺の道を阻むとは、身の程を知るがいい。
夢に入れたからと、俺と対等にでもなったつもりか? 甘粕に見出されただけの凡俗風情が、本来ならば貴様如きが預かれる恩恵ではないと心得ろ」
「承知している。甘粕によって夢に入る資格を得た俺と、一からその手段を構築し、この荒唐無稽な法を完成させた柊聖十郎。始点の段階から対等などではありえまい。
が、この邯鄲に懸ける気概の重さにおいては負けるものではないと自負している。故に怯まん。貴様の所業は見過ごせん」
在るだけで全てを不安にさせる逆十字の悪辣にも、英雄たる男は揺らがない。
クリストファー・ヴァルゼライド。甘粕正彦によって認められたという男は、同じく甘粕が朋友と奉じる柊聖十郎を前にして、些かも劣らぬ意志の強さを現していた。
「第二の盧生。あの男を別とすれば、天下に唯一つの真理に至れる器だ。俺としても彼らの動向は興味深い。よって貴様には渡さない。ここでひとまずの終わりを迎えるがいい」
彼は善なる英雄。悪性の逆十字とは真逆の道を行く男。
英雄の威光が届く場所では、如何なる悪逆も許されない。断罪の刃を振り下ろすと決めている。
抜かれる刀剣。二刀を構える両手持ち。戦意は漲り、闘志には些かの不足もない。
対する柊聖十郎もまた、世の正義などまるで意に介さない男である。
法? 道徳? 罪の意識だと? 実に下らん、柊聖十郎の存在こそ絶対の価値。
そんなものは余さずして、蒙昧どもが嫉妬と恐怖から俺という至高を排斥するために持ち出す外法に他ならない。そんなものを気に掛ける理由がどこにあるという。
何故なら結局のところ、奴らの論理は俺に諦めろと促している。慰め物のような価値観で納得させて、俺という存在を排除しようと働きかけるのだ。
ああふざけるな、俺こそ至上だ。他の誰を贄に変えても、柊聖十郎には存在の価値がある。貴様らは俺のために役立つ事こそ唯一の価値だと思い知れ。
まるで交わらない邪悪と正義。和解の道など始まりから断絶している。
逆十字と鋼の英雄。まるでそれは予定調和であるかの如く、彼らはここに激突した。
*
柊聖十郎の持つ夢の特性とは、異様なまでの万能性である。
全方面において傑出した素養。能力に穴はなく、如何なる状況にも対応可能なオールラウンダー。
器用貧乏の言葉さえも的外れな、己に出来ない事など認めないと言わんばかりの天才性。全てを高水準に修めた柊聖十郎の完成度は紛れもなく夢界最強の一角だ。
そう、能力値だけ見ても高位の実力者なのは間違いない。
だというのに、本人はそれで全く満足していない。事実、単なる高い能力値だけでは説明できない事象の数々が今まさに行われていた。
ある時を境として、使用する夢の性質ががらりと変わる。
それは万能性などという領域の話ではない。まるで別人と入れ替わったかのような変貌ぶり。
それも一つや二つではない。今に至るまでも十数回、聖十郎に変貌が起きている。勿論、その中に同じ性質だったものは一つもない。
その上、それら全てが達人級と呼んでも差し支えない熟練度なのだ。如何に聖十郎が天才だとしても、これほど異なった方面の数々に手を出して、全てを完成の域に至らせるなど異常としか言えないだろう。
その認識は誤りではない。聖十郎は何も馬鹿正直に修練してそれらの技法を身に付けたわけではなかった。
これこそが柊聖十郎の持つ夢の真価。他者の夢を奪い取り、己のものとして行使する簒奪の悪夢である。
そこに我が物とした夢に対する敬意はない。世の全ては柊聖十郎のために存在する道具である。故に他者が修練し完成させた技の数々も、己に使われて当然だという認識しかない。
まさに鬼畜外道としか言いようがない感性。そしてだからこそ得られた夢の形だと言えるのだ。
それに対峙するヴァルゼライドが振るうのは、破壊の属性のみに振り向けた黄金光。
素養の観点から見て、ヴァルゼライドは凡庸だ。柊聖十郎のような万能性は望めない。
ヴァルゼライドの夢は攻撃一辺倒に振り切れている。それは同時に応用性の無さを示すものであり、相性如何で戦法を切り替えるという選択が彼には取れない。
たとえ彼の夢を封殺するような種類の夢に当たっても、取れる手段は一つしかないのだ。己の不利を承知の上で、持てる力で戦い抜くより道はない。
事実、聖十郎が繰り出す夢は、その悉くが相性の不利を狙ったものだ。極限まで特化した破壊力を封じ込め、力を十全に発揮できない状況を作り上げている。
両者の間には明確な有利と不利が示されている。よって戦いの趨勢は柊聖十郎の優位でもって流れていくのが当然の帰結であっただろう。
そう、であったのだが、しかし、彼は不可能を覆す鋼の英雄。
柊聖十郎が振るう数多の夢。それに対するヴァルゼライドが用いるのは、たった一つの光の夢。
そのたった一つが、破れない。各々の才能が磨いてきた達人たちの技の数々が、一人の男が繰り出す一技によって次々と打ち破られていた。
不満などない。己はこの才でもって事を為すのだと決めた。
無いもの強請りなど軟弱の極み、定めた決意があるのなら脇目も振らず勇進あるのみ。
その信念の下に磨き、研磨し鍛えられ続けた英雄の武技は、もはや達人の領域さえも超越した無窮の武練。
相性の不利? そんなものに怯む俺ではない。恐れずに突き進む真っ向勝負、正々堂々正面から打ち破るのだと覚悟している。
そして彼は、一度前に進むと決めたなら、その意志の限りに進み続けられる
何よりも、こんなものらは所詮、張り子の夢だ。
己が技に懸けるべき気概がない。費やした時間と共に五体へと染み付かせた足跡がない。
柊聖十郎とは盗賊の王。他者の才とは即ち己にとっての道具。よって敬意など微塵もなく、再現は出来ても発展させようとする意識は皆無である。
そこに緩みが存在している。所詮は道具と容易く交換し続けているのが良い証拠だ。一つの夢に懸けた自負がないが故に、聖十郎の夢には必勝の気迫が欠けている。
如何に技として優れようが、英雄にとってそんなものなど恐れるに足らず。覚悟を決めて打破できる、脅威とも呼べぬ障害でしかない。
結論はここに、戦いの趨勢は明確なものとして表れる。
聖十郎の持つ練達の夢の数々は、ヴァルゼライドが有する極みの果ての夢には及ばない。
戦闘の優位に立つのは鋼の英雄。彼の振るう断罪の刃が、やがて邪なる逆十字を討ち果たすのは時間の問題であるかに思われた。
「ああいいな。羨ましいぞ。その輝き、俺に寄越すがいい」
されど、どうか忘れる事なかれ。ここに在る男は純正の絶対悪。
あらゆる善と道徳を蹂躙する、鬼畜外道にして八虐無道。こと悪辣さにおいて彼の右に出る者など居やしない。
「
柊聖十郎の夢は簒奪。他者の輝きを奪い、引き換えに己の闇を押し付けるもの。
己に向けられる悪感情を嗅ぎ分けて、糧とするべく吊り上げていく逆さの磔。柊聖十郎の本性を知れば知るほどに、逆十字の魔の手からは逃れられない。
「急段・顕象――――生死之縛・玻璃爛宮逆サ磔」
よってここに、柊聖十郎の持つ
「ぐぅ――がぁ……ごほっ!?」
変化は唐突かつ迅速、そして容赦なく激烈に現れる。
頭痛がする。吐き気が襲う。身体は不快な熱に侵され、空気はその清浄さを失った。
我が身の内で突如発生した病魔の数々、その病みが猛毒となって駆け回っているのを、想像を絶する苦痛の中で感じ取っていた。
それを見下す柊聖十郎の背に現れるのは、逆さに吊るされ磔刑に処された骸の群れ。
その総てが、聖十郎によって輝きを奪われた者たち。代わりに与えられるのは病魔という名の聖十郎が抱える闇である。
柊聖十郎という邪悪と相対すれば、誰もが等しく思ってしまう。
このような悪は許されない。こんな人間がいるはずがない。そこには何か理由があるはずだと。
よって聖十郎はその問いに対して答えを返す。"よかろう、これが俺の
つまりは等価交換。闇を知る代わりに光を奪われる、無意識下で成された合意。協力強制が成立するのだ。
この急段の恐ろしいところは、適用される条件の範囲が異様なまでに広いという事。
通常、相手からの合意を以て成立する急段は、発動までの条件を整えるのが難しい。
肝要となるのは、如何に相手に条件を悟らせず、その方向へと誘導するかという事。知られれば当然、意識が警戒を挟んでしまうため、合意を得る事は出来なくなる。
だというのに、柊聖十郎の急段は知れば知るほどに嵌まっていくのだ。その悪性を目の当たりにして、悪感情を抱かないなど不可能に近い。
その悪感情も、憎しみや殺意といったものだけに限らない。同情などの哀れむ思いですら当て嵌まる。そのどれもが、柊聖十郎を弱者と見下す行為に他ならないから。
柊聖十郎の真実とは、明日も知れない重篤患者である。
一人では生活さえもままならない、社会的最底辺の弱者に過ぎない。
夢界で見せる暴君の如き振る舞いも、現実における不合理を正すための行いだ。
やめろやめろ俺を見下すな塵屑ども。俺に比すれば何の価値もない者どもが、偶さか健常な肉体を得ているという理由だけで、何を上位者の如く振る舞っている。たった一つ、それさえあれば俺に足りないものなど何も無いのだ!
彼は逆十字、何人にも己を見下す視線を許さない、逆さに頭を下げさせる悪逆の簒奪者。
知れば誰もが不安になる、生きるという行為の価値を知らしめる男。ただ生きたいと渇望する姿を、無視できる者など何処にもいない。
「正義の怒り? 世を守る使命感だと? 愚昧めが、そんなもので俺の夢を躱せると思ったか。
それも所詮、敵対する何某かへ向ける攻撃の意志に満ちている。排斥という名の悪感情に他ならん。貴様のような道理の分からぬ正義狂いこそ、こぞって俺に吊るされる典型だと思い知れ」
一度嵌まった玻璃爛宮からは逃れられない。逆十字の吊り手は確実にヴァルゼライドを絡め取る。
病魔という闇を与えられ、肉体という光を奪われる。病の発症と血肉の喪失、二重の責め苦に苛まれて英雄はその存在を削り落とされていく。
新たな磔刑の群れに加わるのは、吊し上げられたヴァルゼライド自身。その磔が完成した時、鋼の英雄は総てを奪い尽くされ朽ち果てるのだ。
「ぐぅっ、ま、まだだ――――!」
だがそれでも、クリストファー・ヴァルゼライドは英雄の器を持つ破格の男。
病に侵され血肉を失いながらも、不屈の意志は倒れる事なく立ち上がる。
涙を明日の希望に変えるため、必ずやこの手に勝利を掴むと決めた。その信念がある限り、英雄は決して敗ける事はないのだと豪語するように。
「ああ知っているぞ。貴様のような輩には、肉体的な損傷は効果が薄いのだというのはな。
勇気だ何だと、そういうもので立ち上がってくるのだろう? 鬱陶しい、下らない。そういうものは甘粕にでも見せてやれよ。
愛も情も知っている。善に属する感情だとて、俺は余さず理解している。ならば無論、それへの対処法も承知済みだ」
その瞬間、逆十字より与えられる苦痛が和らぐ。
病の方は相変わらずだが、肉体面での簒奪が無くなったのだ。病魔のみの苦痛であるならば、英雄の意志は如何様にでも立ち上がれる。
だがそれは決して安心を意味しない。むしろ英雄の持つ直感は、今この瞬間にこそ最大の警鐘を鳴らしていた。
まず異変が生じたのは、技だった。
英雄の振るう七刀の抜刀術。長年の時間と密度をかけて無双の境地にあるはずのそれが、何故だが全く思い出せない。
ヴァルゼライドの強さを証明する技の冴えが、刀剣から失われている。それでも気力の強さで喪失を補い、攻勢を続けていく。
次に異変が生じたのは、感覚だった。
肉体的な五感は元より、言うなれば勝負勘とも呼ぶべき第六感、それがまるで働かない。
機知が鈍い。好機を逸する。何が危険であるのか判断できない。
よってその攻勢は乱雑なものとなっていく。それでもヴァルゼライドは蛮勇を上回る勇猛果敢さで窮地ごとねじ伏せに掛かっていった。
更に生じた異変は、夢だった。
猛威を振るう黄金の殲滅光。ヴァルゼライドの誇る破壊の夢が機能しない。
どうやって用いていたのか分からない。それどころかどのような光であったかさえ思い出せない。悪を討つべく顕象させた彼の光が、その手より失われていた。
されどそれでも、彼にはまだ不撓不屈の意志がある。決して折れない鋼の魂がある限り、英雄の前進に終わりはない。
――そして最期には、その意志までもが失われた。
逆十字が奪う輝きとは、物体的なものに限らない。
感情や技術、記憶など、形の無いものまでも効果対象に当て嵌る。
英雄を英雄たらしめる矜持、覚悟。不屈の意志の骨子となるものを、逆十字の悪辣は狙い撃つ。
意志ある限りに前進を続ける英雄であろうとも、その燃料を失えば燃え尽きるのは必然。
魂からは信念の光が損なわれ、肉体には病魔の闇が与えられ、蝕まれる心身は英雄からその力を確実に奪い去っていく。
そしてついに、クリストファー・ヴァルゼライドは完全に沈黙した。
「仕舞いだ。取るに足らん凡愚め、まったく俺も何を気に掛けていたのやら」
吊るし上げた英雄だった抜け殻に、聖十郎は嘲笑と共に言い捨てた。
悪逆鬼畜にして傲岸不遜、我こそ至上と疑わない逆十字に己の勝利など当然の事象。
むしろ必要以上の警戒こそ、彼にとっては屈辱である。他者の全てを見下して語るその道理においては、同格以上を思わせる存在など憎悪の対象でしかない。
よって結果が現れた以上、そんな感情は害毒だと切り捨てられる。これもまた有象無象の蒙昧どもと同じく、己の道具として使い尽くされるのみであると。
「ああ、だがこの光は悪くない。なかなか役に立つ道具だぞ。褒めてやろう」
そう言って掲げるのは、今しがた奪い取った破壊の夢。
ヴァルゼライドが顕象した黄金の爆光。これほど殲滅力に特化した夢は、聖十郎の持つ千の夢においても他にない。
一点特化型であるこの夢も、万能の才と手段を持つ柊聖十郎の手にあってこそ、より効果的な運用が可能となるだろう。まさにあるべき主の元に納まったと言える。
「貴様が重ねた修練の日々も無駄ではなかった。そう、俺という至高の存在に献上されるために、貴様の努力はあったのだ。これほど光栄なことは他にあるまい。
よってそれを最大の誉れとして受け取り、最期にもう一つ俺の役に立て」
光が膨れ上がる。聖十郎が掲げた爆光が、本来の担い手である英雄へと向けられた。
献上品を受け取って、もはや奪うべきものも無くなった男に対し、我が物となった破滅の光の最初の試金石になれと、鬼畜の男は臆面もなく告げていた。
「甘粕を止めたいのだったな。案ずるなよ、奴の首は俺が獲ってやる。あの男の断末魔を祝福の鐘に変えて、真に在るべき玉座へと俺は立ち戻るのだからな。
貴様は甘粕の眷族だ。その存在を完全に奪うことは出来んが、しかしこの道具は役に立とう。甘粕打倒の一因になれるのだ、貴様だとて本望だろうが」
この世の正義の体現たる男にも、意に介さず無道を続ける傲慢、悪徳。
まさしく柊聖十郎こそ絶対悪と呼ぶべき存在だ。これほどに極悪な男を誰が止められるというのだろう。
正義の担い手たる英雄が敗れてしまった以上、その暴虐を止める術はない。息子は敗れ、資格は奪われ、あらゆる人々は逆十字に利用されて打ち棄てられるのだ。
そんな最悪の未来を決定付けるように、奪われた破壊の光が英雄へと放たれた。
*
よってここに、当然の展開が訪れる。
互いの相性を見れば、それは自明の理。
掲げた信条、その性質の如何を知るのなら、誰もが予測の付く流れであった。
その意志を奪われて、沈黙する英雄。
勝利を確信した逆十字が、とどめの一撃にと撃ち放った黄金光。
戦況は決定的。条件は揃っている。ならば後は、訪れる展開を甘んじて受け止めるだけだろう。
「なに……?」
勝利を確定させたはずの、聖十郎が上げる疑念の声。
どう考えようと目の前の男が砕け散る以外の結末など見えなかったはずのそれは、しかし。
黄金の光、愚直なまでに破壊一点を極めた殲滅光が、止められている。
どんな護りを持ち出そうと不可能、それは夢界最強の光である。拮抗などあり得ない。
そこに例外があるとすれば、唯一つ。全く同質同出力の光以外にはあり得なかった。
「なんだそれはぁ……ッ!? おかしい変だぞ有り得んだろう!」
沈黙し、もはや動く事も叶わないはずだった英雄。
クリストファー・ヴァルゼライドは、立ち上がっていた。
奪われたはずの黄金光を振るい、眼前に迫った破滅をはね返しているのだ。
何も驚くに値しない。当然の展開だろう。
柊聖十郎は邪悪、在るがままに鬼畜となった男。
この男が掴む勝利とは、即ち人々を襲う悲劇に直結している。
ならば立ち上がらないわけがないだろう。自らの敗北が先の惨事に繋がると知るならば、正義の担い手たる英雄は絶対に勝たなければならないのだから。
故に、英雄はあらゆる不可能を覆して再起を果たす。
一度奪われたからなんだ。失われたからどうしたという。
物の道理など踏み越えて、どんな無理でも成立させる意志の力。
邪悪の魔の手を砕くため、尊ぶべき人たちの未来のために。
明日の涙を笑顔に変えるために、正義の魂は再燃焼を開始する。
さあ、刮目して見るがいい。これより始まる逆転劇を。
ここに舞台は整った。もはや悪役が出る幕など何処にもないと思い知れ。
「貴様は俺に奪われたはずだろうが!? 意識も記憶も、その精神は枯らしてやった。なのにどうして貴様は動いている。もはや抜け殻に過ぎぬはずだ!?」
「笑止。人の心に枯れる底などあるものか」
それは英雄にとって当たり前に等しい常識。
信念とは尽きぬもの。心の内より無限に湧き上がってくるもの。
たとえ一時吹き消えようが、芯の種火は決して消えない。後から足して何度だって燃え広がる。
再び湧き出た意志を燃やして、英雄は攻勢を再開させる。
その勢いたるや、先の攻勢と同等かそれ以上。柊聖十郎をして後退を余儀なくされる。
だが、考えればそれはおかしい。道理が合わない。
ヴァルゼライドに与えられた病魔、それは断じて癒えてはいない。
聖十郎を苛んできた死病の数々、どれも易いものであるはずがなく、それに対処する術などヴァルゼライドは持っていない。
今も彼は病魔による猛烈な倦怠感、激痛と苦悶を味わっているはずだ。そんな最悪を越えて致死の体調で、むしろ勢いを上昇させるなど因果が狂っているとしか思えない。
狂気の域にある英雄の勇進、ならばその芯にあるのは何か。
不条理をも引き起こして貫く信念、目指す先には何が見えているのか。
「盧生になる。そう息巻いてはみせても、我が身にその資格は無く、何をすべきかも定まらぬ体たらく。未だ目指す境地は遠いものと自覚している。
だが、自覚すればこそ己には苦行を課すと決めている。普遍無意識、神にも等しき真理を得るために、必要な悟りとは何であるかと問いながら」
盧生。邯鄲の夢を攻略し、夢の恩恵を現実世界へと持ち帰る権利を得た者。
現状で到達者は甘粕正彦のみ。その甘粕にしたところで十年の時間をかけた事を考えれば、それが如何に想像を絶した難易度であるかも推し量れよう。
資格さえあれば良いというものではなく、そこから攻略を成し遂げられる者まで絞れば、その数はさらに激減するだろう。万にどころか億に一人でもきかないかもしれない。
甘粕はそう考えていないようだが、あの男はそんな過剰すぎる期待と共に世界さえも滅ぼしかねない大馬鹿者だ。端的に言って、まったく当てにはならない。
ならばそもそも、資格を得る条件とは?
分からない。なにせ実例が一人しかいないのだから、比較となる情報が少なすぎる。
それでも着目するのなら、甘粕の持つ特異な人間性に向けられる。善悪をも超越したところで人を計る、神のように公平な審判の在り方。
ではそれなのか? おかしくはない、人類の総体と呼べるものに触れようとする試みだ。俗世の善悪に左右されているようではとても務まるものではないだろう。
真実は未だ知れない。
甘粕もまた断言できるものではないと語っていた。
それでも、少しでも道が見えたならヴァルゼライドは躊躇わない。何人よりも険しき道をと覚悟したその時から、臆する心は捨てていた。
「ただ悪を許せば良いのか? 否、貴様は紛れもなく俺が裁くべき邪悪。息子が父を認めるのとは訳が違う。少なくとも俺の道ではない。誰かの後背を追うだけの男に一体何が掴めようか」
では、ヴァルゼライドが至るべき真理とは何か。
正義を掲げる鋼の英雄。如何なる不義も許さず、あらゆる邪悪を滅ぼす断罪者。
振り下ろす裁きの刃を曇らせないために、英雄が成すべき事とは何なのかと。
「目を逸らさぬ事。貴様の
聖書に曰く、人が人を裁いてはならないという。
他者の間違いを糾弾する事は容易い。だがそれが真に正当なものであるのは稀である。
人にとっての悪なるものとは、自らの思い通りにならないものを指している。法の正義、倫理の意味、そのどれもが善悪を測るための基準に過ぎない。本当の意味で悪性を決めるのは、人自身の主観に他ならない。
他者の良し悪しを判断し、それを罪だと声を上げる。だがその裁きを自分に対しても同じように出来るものはいない。人は己の事なら分かっても、他人の事は分からないから。
罪を犯した者がいたとする。例えば殺人、例えば強盗、決して許されざるべき大罪を犯した者に対し、人々は憤りの念と共に断罪を声高に叫ぶだろう。
だがその者にも事情となる背景があるのだとしたら? 余人には分からない苦悩や葛藤、罪を犯して然るべき正当さがあったとしたらどうだろう。
人々の憤りは減少し、場合によっては同情や共感さえあるだろう。他者の主観からでもそうならば、味わってきた当人の主観にとって正当性はより強くなる。
他人の事情など全てを知り得るものではない。誰もが一面だけを見て理解したつもりになっている。都合の良い部分にだけ着目して、不都合な部分には目を背けながら、己こそ正義と責められるべき悪を攻撃する。聖十郎が言ったように、そんなものは悪感情でしかないだろう。
そう、知らなければ、どうしても敵意の方が先立ってしまうから。
ただ悪であるからと斬り捨てるだけの偽善など、真理に値するものではない。
悪を知り、罪を知り、その闇の内にある心の全てを承知して、存在する重みを受け止める。
揺るがぬ正義の剣として、真に正しき断罪の刃を振るうために。
そして最期には、クリストファー・ヴァルゼライド自身の罪業をも裁くと覚悟して。
「急段の条件である協力強制。貴様の
良いとも、俺の光を受け取るがいい。貴様の病みを背負う覚悟は出来ている。真に対等であると気概を持たねば、他人と向き合う事など出来るわけがないのだから」
柊聖十郎が背負ってきた病魔の数々。その苦しみも知らないで、一体どうして断罪の言葉など叫べるだろう。
生きたい、ただ生きたい。彼は真実、その一念のみで行動してきた。己に仇なす現実の不条理さの全てに対して戦ってきたのだ。
生きるという事に、嘘も真もありはしない。悪徳と狂気に塗れながら、その生き様は生命として共感を覚えずにはいられないものだから。
だからヴァルゼライドは、柊聖十郎という人間の強さを認めた。
真摯ですらある生きる事への姿勢を、生命としての正しさを確かなものだと納得した。
彼の病魔を受け取る事で、その凄絶なる苦行の何たるか、故にこそ明らかとなる今日までを生き繋いできた意志の強靭さを理解したのだ。
だからこそ、英雄たる男は立ち上がる。
理解した強さ、認めた正しさ、抱いた敬意に対する、最大の答えとして。
それでも尚、
「無限の病魔に侵されて、絶望と苦しみの中で朽ち果てても、この信念を捨てはしない。
たとえ貴様と同じ境遇に落とされようとも、決まっている。"勝つ"のは俺だッ!」
「この狂人がぁぁぁぁァァァァッッ!!!!」
分からない、分からない。柊聖十郎にはまるで分からない。
目の前の男が宣っている何事か、意味が知れない狂言にしか聞こえなかった。
つまるところ、ヴァルゼライドの猛進の理由とは、単なる精神論。
動かぬ肉体を叱咤して、蕩ける頭を叩き起して、骨が折れたならば気骨で支えて。
受け取った数多の死病の毒を、理屈も根拠もない気合と根性だけで耐え抜いているのだ。
病魔の毒、それは肉体のみならず精神までも蝕む苦しみだ。
健全な肉体でこそ精神もそのように育まれるという言葉があるように、その猛威は心にある善性、他者に向ける慈愛の感情を徹底的に破壊していく。
外から与えられる外傷とは決定的に異なる、内より臓腑を腐らせる苦痛は、理屈抜きに己以外への悪感情を育むのだ。
身体が重い、思考が働かない、何故自分だけがこんな目に。痛みに耐える心があろうとも、その支柱の方から折りにかかる。まともなままではいられない。
闘病とは意志による戦いである。弱った心が折れてしまえば、肉体もまたそれに連鎖する。気力を失った身では、もはや苦悶の日々に耐える事など出来ないのだ。
だというのに英雄の持つ気迫は、そんなものを物ともしない。
減衰していく心の灯火に、矢継ぎ早に新たな燃料がくべられているように。
それはまるで、ヴァルゼライドより溢れ出る光が、柊聖十郎の闇を打ち払っているかの如く。
「なんなのだそれは、まったく道理が通らん!
そんな訳の分からん代物で俺の
くだらん妄言で謀って、どんな絡繰を持ち出しているのだ!? 答えろォォォォッ!!」
聖十郎からすれば、そんな理由が納得できるはずもない。
今の状態こそ聖十郎にとっての必殺の型。これまで数千単位の人間を玻璃爛宮に嵌めて奪い尽くしてきた。
誰一人として例外はない。まさしく対人必殺の完成形と呼べる夢である。誰もがくれてやった病魔の一部にでも意志を折り、逆さの磔に変えられたのだ。
柊聖十郎の生涯を象徴する渇望だ。それを寄りにもよって精神論で破られるなど認めないし許さない。ヴァルゼライドの言葉など戯言だと言い捨てて、決して納得はしないだろう。
それ故に、柊聖十郎は気付けない。その否定は、そのまま我が身にも返るものだという事に。
現実の柊聖十郎は、重度の死病を無数に患った重篤患者である。
脳には巨大な腫瘍ができ、身体の至る箇所で癌細胞が発生し、血液が栄養を運ばずに汚泥の如き穢れに染まっている。
症状はどれもが末期段階。治療の余地などもはやなく、如何なる延命措置も無意味である。
もはやそれは死に掛けているではなく、死なない事自体が不可思議だと呼べるほどに。それこそが本来の柊聖十郎が置かれた状態なのだ。
甘粕正彦は、邯鄲の攻略に十年の時間を費やしている。
それ以前の段階で、部分的には夢の力を現実に持ち出す事に成功していたそうだが、それとてあくまでも限定的なもの。眷族として柊聖十郎が夢の恩恵を受け取ったのは、甘粕が盧生となった後の話である。
つまり、それ以前の聖十郎は夢の恩恵なしに、己の病魔に耐えていたのだ。次の瞬間には絶命して然るべき重体でありながら、自ら動いて邯鄲法を完成させた。
それはどんな奇跡なのだろう。その後も彼は、甘粕に見出されるまでの間を耐え抜いてきた。絶望的な苦悶と孤独の中で、死んでたまるかと生きる執念を消さなかった。
論じるまでもなく、それはあり得ない事なのだ。
気力でどうにかなる段階ではない。病は気からという言葉にも限度がある。
死こそが柊聖十郎の自然であり、本来の宿命でもあっただろう。
それでも、柊聖十郎は耐えたのだ。
ただ生きたいと、意志の限りを振り絞って。
あらゆる医者が匙を投げ、如何なる薬も効果なく、それでも断じて諦めずに。
それこそ紛れもなく精神論。道理を覆して不条理を引き起こす意志の奇跡。
あの甘粕をして、お前こそ勇者と信奉させる人の輝きに他ならない。
ヴァルゼライドの精神論を否定する事は、聖十郎自身の奇跡をも否定する事になる。
人の執念は時に常識さえもねじ曲げると、他ならぬ聖十郎が知らないはずがないというのに、彼はそれを断固として認めない。
あり得ない事であると、何かしらの因果があるはずだと、奇跡を奇跡と認めずに他の答えを探し続ける。
だって、それに頷いてしまえば、つまり認めるという事だから。
クリストファー・ヴァルゼライド。不撓不屈の意志を持つ鋼の英雄、この男は柊聖十郎と同等か、あるいはそれをも凌駕する意志の力を有しているのだと。
逆十字とは、他者を逆さに吊るす者。
何人にも己を見下す視線を許さない、頭を下に向けさせる磔刑場。
見下される事、己を弱者と見なす他者からの視線こそ、何より気力を苛む要因であったから。彼が蒙昧と呼ぶ己以外の有象無象、そんな者たちからの憐れまれている屈辱、憎悪こそが柊聖十郎に激烈なまでの執念を生み出す糧となった。
彼の不遜は自尊であると同時に、一種の理論武装だ。生きる執念を決して絶やさぬために、聖十郎は自分以外の健常な人々を憎み抜く事で支えとした。
他人の全ては己に奪われるためにいる。役に立つか否かの価値しかない。長らく彼の骨子であった信条は、もはや容易には変えられない。
よって先に続く現象も、聖十郎には理解する事が出来なかった。
「何故だ、何故だッ!? 何故、急段の効果が弱まっている!?」
一度嵌まった急段からは逃げられない。
ヴァルゼライドは変わらず、玻璃爛宮の術中の内ある。
ならば恐れるまでもない。もう一度輝きと病魔の等価交換を行えば良い。
こいつは何か、失ったはずの心でも動き出せる異常者であるのは分かった。納得はしていないが、そういうものだと理解すれば対処も出来る。
要は精神面への攻撃は決定打になり得ないという事。ならば再び肉体面への攻撃に切り替えれば良い。
病魔を与え、血肉を奪う。もはや一切容赦はしない。流石に四肢を捻じ切れば停止せざる得ないだろうと、全力で簒奪の夢を回し始める。
だが先程まで猛威を振るっていたはずの玻璃爛宮は、何故かその威力を大幅に下げていた。
奪える光と与える闇、等価交換が成立する量が明らかに少ない。僅かに削れるだけの血と肉に、与えられる病魔も軽度の症状ばかり。
そんなものでは英雄は止まらない。意にも介さぬとばかりに、その猛進には揺らぎの一つさえ無かった。
その理由が聖十郎には分からない。
二刀を手にして迫り来る鋼の英雄。その姿は明確すぎる殺意の証明だろう。
殺意、つまりは相手が憎いと排斥を求める感情。悪感情であるのは間違いなく、まさしく玻璃爛宮の協力強制に嵌まる典型であると言って良い。
だというのに、これでは道理が合わない。それとも貴様、これから殺そうとしておきながら相手に悪意を抱かないなどという戯言をほざくつもりかと、聖十郎の思考は疑念に吼えていた。
だが、何てことはない。それは単純な理屈なのだ。
自分を見下す視線が許せない。それこそが逆十字の夢の本質だ。
己に向けられる悪感情を嗅ぎ分けて、それを糧とするべく吊り上げていく逆さの磔。
そこから外れる条件とは、柊聖十郎という人間を対等な相手として見るということ。
この在るがままの鬼畜を、病魔の呪いに侵された重篤患者を、それでも自分と同じく人間であると認める心をしかと持つ事に他ならない。
悪を知り、罪を知り、その病みを思い知った。柊聖十郎という人間を正面から、ヴァルゼライドは決して目を背けずに向き合ったのだ。
もはや英雄の精神は単純な善悪を越えた所に在る。邪悪に向ける義憤に先立ち、あるのは聖十郎の強さに対する敬意。英雄は心から逆十字の存在を認め、その上で断罪の剣を握っている。
囚われるような悪感情は極限まで薄く、静謐なる正義の裁きの体現者として。それは一つの覚者の有り様にも近い。
我も人、彼も人なり。たとえ世に仇なす邪悪であろうとも、彼もまた一人の人間なのだと意識を持つからこそ見下さない。
ヴァルゼライドを捕らえていた玻璃爛宮の縛鎖は、すでに解れているのだ、
そしてその簡単なはずの理屈が、柊聖十郎には決して分からない。
見下す視線が許せない。理不尽だ、何故俺だけが、こんな世界は間違っていると、いつだって周囲の他者を憎悪と共に見上げてきた。
誰かと対等な視線であった事など一度もない。誰かをひたすら憎み続ける事で執念を保ってきた聖十郎にとっては、他者を認める事自体が異端の所業である。
彼が知る、己の夢が嵌まらない人間は唯一人。
甘粕正彦。彼にとっての初めての同胞で、最初の盧生。
彼もまた柊聖十郎を対等に見る事の出来る者の一人だ。敬愛すべき勇気を持つ朋友として、甘粕は掛け値なしの友情を聖十郎へと向けている。
しかし甘粕は盧生である。その異常な感性と相まって、聖十郎からすれば人外、悪魔の類いとしてしか映らない。
つまりはある種の例外として認識する事が出来るということ。それでも尚、己の夢に嵌まらないのは上位存在の余裕故であり、同格にさえなれば必ずや嵌められると思っている辺り、その病巣の深さが窺えた。
だがクリストファー・ヴァルゼライドは眷族である。その言い訳は通じない。
ここで敗北すれば、自分は永劫この男に勝てなくなる。その確信があるから、聖十郎は激烈な憎悪を抱きながら迎撃した。
「近寄るなあァァァァッ!! 薄気味悪い塵屑めがァァァァッ!!」
ギャンブルじみた享楽さで、暴力の方向を逸らす夢があった。粉砕する。
世界の全てが持つ重さを、羽毛の如く軽くする夢があった。粉砕する。
粉砕する。粉砕する。粉砕する。粉砕する。粉砕する――――!!!!
止まらない、止まらない。英雄の進撃が止められない。
聖十郎が奪ってきた数多の夢、そのどれもが雄々しき男の征く道を阻む事が出来ない。
鎧袖一触。雑多な夢など、真なる正義の輝きに触れる事すら許されないと言わんが如く。その悉くが黄金の光に一蹴され、何一つとして成す事もなく消えていく。
ああ、なんて役に立たない道具だろう。使えない塵どもめ。
奪った夢を投げ棄てるように使いながら、聖十郎にあるのは苛立ちばかり。
逆十字に敬意はない。あるのは簒奪の夢を良しとする鬼畜の性根。使い潰されていく他者の夢に懸ける思いなど何も無いのだ。
聖十郎の憎悪は、あるいはヴァルゼライドにも匹敵し得るものであったかもしれない。されどその執念を乗せられるだけの夢を、聖十郎は持ち合わせていなかった。
対し、ヴァルゼライドの夢とは、彼の意志を体現する唯一無二の光。
災禍を斬り裂き、邪悪を滅ぼす黄金光。破滅をもたらした果ての地平に、正義の価値を築くために。
覚醒を果たした英雄の意志は留まる事を知らない。燃えるような気迫を表すように、爆光は今もその出力を加速度的に上げている。
もはや相性程度で覆せる勢いではない。他人に使われているだけの夢で、その輝きを止める事など出来るはずがなかった。
「こ、のォ、バケモノめえェェェェェェェェッッ!!!!」
最後に聖十郎が選び取ったのは、黄金の光。
英雄と同じ夢。何よりも破壊に長じた二つの光が、真っ向から激突した。
拮抗は一瞬。元より結果は見えている。
決して尋常なものではない。多様なる夢を駆使して、柊聖十郎もその光に全力を尽くしている。
されど、英雄の光とは進化し続ける無限の輝き。意志ある限りにその出力を増していくという規格外である。もはや計算が通じる代物ではない。
所詮は偽りの輝きが、真なる至高の輝きに敵う道理無し。よって当然の如く、簒奪者の光は英雄の光によって両断された。
その前進を阻む術はない。両者の間合いは既に至近、刀剣の領域だ。
振るわれる光刃一閃。超絶の出力と技量を兼ね備えた一撃は、もはや認識する事さえ叶わない。暗黒の天才たる柊聖十郎でさえ、それは例外ではあり得なかった。
その輝きは必滅の属性。英雄の振るう光の剣が、聖十郎の身を捉えていた。
*
それは柊聖十郎を以てして、味わった事のない苦痛だった。
「おオ、お゛お゛お゛お゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ……ッ!?」
絞り出された声は、もはや人が出せる声音ではない。
まるで地獄でのたうつ亡者のような、凄惨たる惨状がそこにはあった。
夢の余力を失い、再発した無数の死病。
それら腐りきった細胞までも諸共に焼き尽くす放射能。
腐食と崩壊。どちらも人を死に至らしめる猛毒、その二つに同時に襲われて、柊聖十郎はもはや目も当てられない状態だった。
腐りながら焼けていく。それは無限に連鎖する極大の拷問。たとえ柊聖十郎を憎む者であったとしても、この有り様を見れば躊躇を覚えるだろう。
さながら苦痛という概念を丹念に凝縮して純化させた地獄の釜。この世の何処に、これ以上の苦しみがあるというのか。
感覚を理解する意識がある事自体が、もはや絶望以外の何物でもない。この苦悶から逃れられるというのなら、死とはなんて安らぎに満ちた結末だろうか。
「お、のレェ、許さん。貴様は、絶対に、許さんぞォォォォ……ッ!」
それでも、聖十郎はその意識を手放そうとはしない。
常人ならば一瞬で悶死するだろう苦痛に見舞われても、悪意の激情を決して止めない。
永眠という抗いがたい誘惑を断固として拒絶し、生に縋る執念を捨てようとはしなかった。
苦痛の果てに死を選ぶ。その選択だけは絶対にしないのだと、意志そのものが叫んでいるかのように。
「何故だぁ……!? 甘粕といい、貴様といい、何故、キサマらのような輩が俺の前に現れる!?
見下すなよ、何様だキサマらぁッ!? 俺に利用されるべき道具の分際でぇ、俺より高みに立ったつもりかぁ……ッ!? 見当違いも甚だしいッ!
忘れん、この屈辱を絶対に忘れんぞッ! たとえ何度邯鄲が巡ろうとも、必ずいつか思い知らせてやる。逆さに吊るし上げてやるぞォォォォォォ……ッ!!」
その姿を、一体なんと言い表せば良いのだろうか。
完全なる死に体を晒しながらも、その不遜には翳りがまるで見えない。
一人では生きる事もままならないのに、感謝という名の弱みを見せない。同情された方が遥かに楽な道であるだろうに、彼は鬼畜のままで在り続けるのだ。
柊聖十郎は邪悪である。
罪なき多くの人々を手にかけてきた、許されざるべき罪人である。
その罪が許される事はない。たとえ聖女が許しても、彼が裁かれるべき人間である事は変わらない。
それでも、善悪さえも越えたところで、その姿勢には一個の生命として共感せずにはいられないだろう。
理不尽に発症する病魔にもめげず、空想じみた手段であろうと手を伸ばし、ただひたすら懸命に己という命の価値を示し続けた男の矜持。
一体誰に、柊聖十郎を裁けるというのだろう。あまりにも当たり前な、生きたいという願い、健康であるという負い目を抱えたままで、目を背けずに正しい裁きをくだす事が、どうしてまともな人間に出来るというのか。
だからこそ、それを成せるヴァルゼライドは英雄である。
クリストファー・ヴァルゼライドは許しを与える聖者ではない。あらゆる悪を暴き、然るべき報いを与える断罪者であり殺戮者。
如何なる悪感情をも嗅ぎ分ける玻璃爛宮から、彼は完全には逃れられていない。効果こそ激減したが、協力強制の型は今も嵌まり続けている。
たとえ対等に見ようとも、ヴァルゼライドはどうしようもなく壊す側なのだ。そこから殺意を消し去る事は出来ない。それは祈りの性質故の必然だった。
その感情を否定しない。殺意とは悪感情であると同時に、殺人を犯す己に向けた自戒でもある。もしも殺意の感情を消し去ってしまえば、それは単なる処刑器具。その無機質さは、人が奉じるべき裁きの有り様から大きく外れている。
己自身の咎を忘れず、人間の持つ闇としかと向き合う覚悟があってこそ、裁きは正当なものと成り得るのだ。
だからヴァルゼライドは逃げない。受ける痛みも背負うと決めている。それだけが唯一、殺戮者に過ぎない自分が示せる誠意だと知っていたから。
よってそこには、情に絆された躊躇いもまた無縁である。
苦悶を叫ぶ罪人に、介錯の慈悲を与えるべく英雄は剣を掲げる。
その眼差しは静謐にして無情。余分な雑念の一切を削ぎ落とした、真なる断罪者の在り方がそこにはあった。
その刃を阻むものは何もない。
充填された殲滅光。光を纏った剣が振り下ろされる。
一閃は波濤となって拡がり、一片も残さずに聖十郎の身を覆い尽くした。
――――こうして柊聖十郎は、邯鄲における一度目の死を経験した。
*
このように、邯鄲一周目における一幕は終結する。
ともすれば物語の
逆十字は斃れ、惨劇の禍根はここに断たれる。
柊四四八はこれより先も階層を越えて、そして敗北の結末を辿るだろう。
それを境に夢界の有り様は狂い、その果ての未来でこそ、彼らは真なる悟りを得るのだ。
よって、この先の展開は蛇足である。
未来の何かに繋がる類いではない。変革を促すようなものでもなく、まして忘れてしまう記憶となれば無意味と呼んでも過言ではない。
しかし、意義なく実りのない交わりであったとしても、事実は事実。いずれ忘却の果ての失われるとしても確かに起きた出来事として、邯鄲の歴史に刻まれる。
「これでお前たちにとっても、目的は果たされたと言えるだろう。辰宮百合香」
前哨戦、鋼牙の超暴力に潰され果てたと思われた辰宮百合香は、健在だった。
彼女自身に力は無くとも、彼女には従者がいる。辰宮百合香以外の万象総てに重みを感じていないその男に守護されて、彼女はあの三つ巴の死闘を生き延びていた。
「……ええ、そのようですね。これは御礼を申し上げるべきでしょうか?」
「不要。第二の盧生だけでなく、お前たちでは逆十字には勝てん。それを見越しての出陣だ。辰宮、神祇省、お前たちがどんな意図であろうとも、俺のやるべき事は変わらない」
にべもない。元より英雄は単騎である。
己一人でこの邯鄲を戦い抜くと決めた。仲間はおろか同盟の意識さえ無い。あるのは例え全勢力を相手取ろうとも勝利するという鋼の覚悟。
ヴァルゼライドにとっての本命とは甘粕正彦のみ。それ以外など余さず些事であるかのような、ともすれば柊聖十郎を思わせる不遜さで、彼はこの夢界を立ち回っていた。
「しかし、それとは別に評価もしよう。先日に比べ、良い面構えになっている。
辰宮百合香。率直に言って、お前自身が動くとは思っていなかった。せいぜいが神祇省と幽雫宗冬辺りであろうと。どうやらその心境にも、何か変化があったと見える」
「さて、どうなのでしょう。変わったとも思えますし、その途中であるようにも思えます。我が事なのに、最近は分からない事ばかりなのです。
よければ聞かせてはくださいませんか? 輝かしき英雄殿には、辰宮百合香という女はどう映るのか」
その問いかけは、彼女が意識せずとも蠱惑な色を纏っている。
傅きたい。褒め称えたい。辰宮百合香という花の元、彼女に下僕の如く扱われたがる衝動が高鳴ってくる。ただその声を聞くだけで、彼女こそ支配者だと認識させる響きがあった。
その衝動を味わいながらも、ヴァルゼライドは表情を動かさずに答えてみせた。
「貴族院辰宮か。貴き血統、国威によって裏付けされた特権階級、その当主たる者として、お前の姿は相応しいものと見えた。
顕している夢からして筋金入りだろう。理屈や因果の何たるかも度外視し、まずそのように在るという上下の立場を叩き付ける。力を用いず、ただ存在するだけで総てを制するその夢は、選ばれたる一族ならばこその威光であると感じている」
傾城反魂香。辰宮百合香が持つその夢の効果とは、超高度の精神支配。
解法、咒法、創法の三つの夢による高密度の複合。破段でありながら、急段に迫る域にあるその夢は対象を選ばずに絶大な効果を発揮する。
洗脳を受けた者は、百合香に対して一切の負の感情を抱かなくなり、その言葉に疑問を挟む事さえしなくなる。それこそ、死ねと言われれば喜んで死を選ぶほどに。
貴族院辰宮男爵家令嬢として、あらゆる者に傅かれてきた生涯を象徴するような夢の性質。もはや無意識に刷り込まれた他者への認識がそのまま具現化した夢であった。
「だが、それ故の自己の無さも感じていた。何事にもまず辰宮の家名が映り、辰宮百合香という個人の意志がまるで見えなかった。
望んでそう振る舞っているのか、環境故に否応なしにそう在るのか。分からんが、自覚のあるなしに関わらず、現実と真剣に向き合えていないのは確かだろう。己の意志を持たんとは、つまりはそういう事なのだから」
「まあ。では……?」
「端的に、好かん。嫌悪するのも至難だが、あえてそう言っておこう。
非難される事ではないのかもしれんが、褒めるような事でもなかろう。少なくとも先日に会ったお前には、何かと向き合おうとする気概が感じられなかったのでな」
だからこそ、辰宮百合香は己を否定する相手こそ待ち焦がれている。
傅くばかりの誰かなど、もはや人とも思えぬから。自分如き小娘など組伏せて、いっそ罵り打擲するくらいの漢気を見せてほしい。
まず否定が無ければ会話する気さえ起きないから。彼女が味わってきた失望はそれほど深い。
「雄々しい殿方ですね、ヴァルゼライド殿は。大志を抱かれる御方はものが違うという事なのでしょう。
仰る通り、辰宮百合香は大した女ではございません。御家の名を除いてしまえば、さしたる価値も残らない小娘に過ぎないのです。
大義に懸ける意志にしても、大半の所は先代当主由縁のもの。初志から不純なわたくしは、英雄殿の目にはさぞやつまらない女に見えるのでしょうね」
揺るぎなき英雄の物言いは、百合香にとってむしろ好感となるものだった。
反魂香は今も変わらず発動している。無意識にまで刷り込まれた認識の発露であるその夢は、本人でもオンオフが出来ないのだ。
協力強制の急段ではない。抵抗できる余地もあるが、それでも効果のほどは絶大だ。今までもある条件を満たす者以外、例外なく夢の術中に落ちてきた。
幾度も感じてきた失望の念。だからこそ英雄の雄々しき気概には目を惹かれる。
ああ流石、そうでなくては。たかが小娘に囁かれた程度で転ぶなど、とても英雄などとは呼べぬでしょう、と。
ヴァルゼライドは条件に一致しない。彼が百合香の夢に転ばないのは、その強靭すぎる意志力の賜物である。ただ己の意志を誤らないという信念だけで、英雄は傾城の夢に抗っていた。
まさしく彼は輝ける意志を持つ英雄だ。百合香にとってもそれは認めるところであり、焦がれる乙女の心は魅了されるままに惹かれていてもおかしくはなかっただろう。
だが、閉じ篭るばかりでなく自ら動き出した今の彼女は、それだけでは終わらなかった。
「ですが、そんな小娘にすら分かります。ヴァルゼライド殿、貴方は人を愛せない御方です。
大義に燃える英雄殿には、ご自身も含めて個人など大事の前の小事にしか映らぬのでしょう。
わたくしの思い悩みも、所詮は私事。どこまでも小事の域を出ないものです。大いなる行いに向けて歩まれる英雄殿には、慮る価値さえ見出だせないほどの。
貴方の行く道に個人はありません。もっと大きい括りでしか人々を語れない。民の事は愛せても、一人の誰かを愛する事はないのでしょうね」
邯鄲は巡るもの。幾度もの人生を経験し、悟りに至る行を積むもの。
そんな夢界であるからこそ、得られるものがあるかもしれない。
それはきっと、辰宮百合香をも変えてくれるかもしれない、何かだと。
この周回ではないかもしれない。この気付きも次の邯鄲に巡れば失われてしまうだろう。
それでも、それが尊いものだと信じたから今がある。第二の盧生を逆十字に盗らせて、その可能性さえも破綻させるわけにはいかなかった。
だから百合香はヴァルゼライドを選ばない。
どれだけ雄々しく強くとも、こちらに振り向きもしない英雄では駄目だと分かったから。
「貴方はわたくしを殴ってはくれないでしょう。するとすれば、それは処断の刃でしょうか。
きっと貴方にはそれが出来る。どれだけ貴き血筋であろうとも、惑わされずに裁くのでしょう。たとえ敬意があろうとも、貴方の正義が信じるならば手を汚す事を躊躇わない。
持たざるが故の餓えですか。まるで勝利に邁進し続けなければ窒息死してしまうかのよう。わたくしとはあらゆる意味で相容れないのでしょうね」
その国における風習、築かれてきた伝統、血筋によって生み出される上下関係など。
それら無意識の内に人々の行動を制御するものに、ヴァルゼライドは縛られない。それこそが秩序であり、遵守すべきものと理解しながらも、必要だと判断すれば微塵も容赦はしない。
貴族だろうが王族だろうが、それが国家により大きな光を齎らすと信じればその手に掛ける。不道徳の汚名を被る事さえ恐れずに、それどころか英雄の輝きはそれ以上の威光となって世を染め上げてしまうだろう。
如何なる暴挙も、勝利という名の栄冠があるのなら正当化される。それこそ古今東西、あらゆる国においても実証されてきた人類史の真理であるのだから。
クリストファー・ヴァルゼライドは持たざる者。不遇の底辺より這い上がり、不撓不屈の意志のみで飛躍を果たす男である。
持てる者、辰宮百合香とは何処までも真逆の有り様。血筋に伴う権威、個人を越えて受け継がれたそれを持たないからこそ、そこに縛られる事もない。
そういう意味でも、彼は英雄だった。時代の変革期、腐敗の悪性に染まった古き体制を打ち壊して新たな理を築くのは、強烈な個の意志が生み出す覇道の光であるのだから。
よってヴァルゼライドとは相容れない。百合香はそれを予見する。
辰宮百合香とは権威に支えられた力の象徴だ。もしも英雄と対峙する時があるとすれば、それは権威の役目を終わらせる弾劾の際だろう。
大義を掲げた英雄に、それ以外の余地など何もないから。個を些事と切り捨てる人とは触れ合えないと拒絶を告げた。
「……それは宣戦布告か?」
「いいえ? 単なる小娘の所感ですよ」
己に対する非難を真摯に聞き届けて、改めてヴァルゼライドは問いかける。
それに応じる答えとして、辰宮百合香は優雅に動じずにそう言ってのけた。
「そう難しく考えないでくださいな。大体、先に人をさんざん扱き下ろしたのはそちらでしょうに。
仰るように、わたくしに大義へ懸ける思いなどありません。しかし、それ故にわたくしと貴方はぶつからない。そう考える事も出来るでしょう。
それとも、光を奉じる英雄殿は、不真面目な生き方さえも正さないと気が済みませんか?」
その指摘は、ヴァルゼライドにとって信条の骨子に触れるものだった。
怠惰な生き方を矯正する。安寧の世がもたらす腐敗を正し、在るべき人の勇気を取り戻す。
それは即ち、甘粕正彦の祈りである。英雄が打倒せんとする、魔王が夢見る理想郷。
己にそうした面があるのは否定できない。だからこそヴァルゼライドも、その言葉を無下にする事は出来なかった。
「なるほど。伊達に貴族の名を背負っているわけではないか」
「ええ、まあ。嫌々ですが、わたくしも誕生より"辰宮"をしておりますので」
クリストファー・ヴァルゼライドは、柊聖十郎ような暴虐の徒ではない。
そこに道理があれば耳を傾けるし、感情で筋を曲げるような真似はしない。
彼は英雄であり、正しさの側にあるものだ。故に正しさの枷に縛られる。
戦って敵わぬならば、そもそも戦わなければ良い。
元より不戦の夢を持つ百合香にとって、それは難しい事ではなかった。
「最後にもう一つだけお聞かせください。柊四四八さん、わたくしたちが見出だした盧生は、貴方の眼にはどう映りますか?」
「善き若者たちだと思う。他の特化生の面々も含め、評価する事に否はない。
己の成すべきを理解し、仁義を志しながらも手を血で染める覚悟もある。我も人、彼も人、か。なるほど、戦真館とやらは、良い教育を施していると見える。
彼らのような人材は国の宝と呼べるだろう。俺としても好感を持てる。人が皆、斯くの如く生きてほしいと願う姿であるのは確かだろう」
その賛辞は本心からのものだ。
正道を尊ぶヴァルゼライドだからこそ、その様を讃える思いに偽りはない。
柊四四八。甘粕正彦に次ぐ、第二の盧生。
母を愛し、友を信じ、護国の大義を背負う仁の益荒男。
我も人、彼も人。掲げる戦の真を忘れずに、修羅場においても人の心を捨てずに戦い抜ける強さを持っている。
人として在るべき姿勢で邯鄲に臨む有り様は、魔王たる第一盧生へと対抗するためのものとして相応しいと言えるかもしれない。
「が、同様にそれだけとも言える。認めこそしたが、それ以上ではなかった。少なくとも現状では、甘粕に抗し得るだけの何かがあるとは思えなかった」
そして続けられた厳しい指摘は、百合香自身も感じていたものだった。
決して柊四四八が弱いわけではない。戦真館筆頭生の名を背負うのは伊達ではなかった。
才覚溢れ、それに溺れず、自己鍛練を怠らずに自らを磨き続けられる芯がある。歴代の人材を紐解いても彼ほどの心身を兼ね備えた男はそういないだろう。
柊四四八は、男児が模範とすべき優等生だ。事実、これまでも柊聖十郎の介入を別とすれば、邯鄲の攻略を順調に進めてきている。その能力に不満があるのではないのだ。
しかし、それでも駄目なのだ。今のままの柊四四八では決して勝てない。
甘粕正彦。クリストファー・ヴァルゼライド。
邯鄲を征した魔王、それを追う英雄。その強さを目の当たりにして、確信を得る。
たかが優等生程度では足りない。甘粕はおろかヴァルゼライドにも、この正真正銘の怪物たちには到底及ぶまい。
例えば、夢界第四層における試練と、その突破。
それは歴史の再現。条件は同胞たちとの殺し合いを生き延びること。かつての惨劇を体験し、それを乗り越える事を目指した試練である。
柊四四八と仲間らは確固たる意志でもって、友と演じる死闘を是とした。越えねばならない試練と受け止め、軍属たる鉄の覚悟をもって仲間の血でその手を染め上げたのだ。
それは優等生らしい模範解答。常道と呼べる攻略手段であり、確実を期するなら避けては通れない道だろう。百合香らとてその結果に納得し、それでこそだと四四八たちの覚悟を讃えたのだ。
だが、それも今となっては違う。あれでは不足だったのだ。
何故なら、四四八たちは揺らいでいたから。如何に覚悟を決めようと、昨日まで共に生き、学び、絆を育んだ仲間に対する殺戮は、彼らに壮絶な負担を与えたのは間違いない。
それは人として正常な反応だが、言ってしまえば弱さだろう。彼らの掲げる仁義の道、それと真っ向より相反する手段を選んだからこそ、その心情に大きな打撃を受けている。
柊四四八は第四層の試練を突破した。
歴史を鑑みれば、その手段こそ正回答であるのは間違いないだろう。
それでも、彼らが己の道を曲げたのは事実である。望まざる手段だと知りながら、目的のためにと非情な打算を選択した。
それが正しい選択だったのは今も疑いない。あれこそが正答で、鉄血の覚悟で踏破した彼らを非難するつもりはない。後で揺らいだ事も含めて、人として正しい姿なのは確かである。
しかし、駄目だ。目的のためだとか、正道かどうかなど、この際全てが瑣末である。その手段を選んでしまった、その時点で信念は既に遅れを取っている。
だって、そうした鋼の信条が目指すべき道の完成にして、究極形こそ目の前の男だから。
クリストファー・ヴァルゼライド。仮に第四層の試練を、彼に挑ませればどうなるだろう?
恐らく、彼は揺らぐまい。たとえ千回、あの地獄を巡ろうとも、英雄の意志は眉一つ動かす事なく不動の強さを貫くに違いない。
同胞を、友人を、親を、愛する人さえも、大義のためにその手に掛けて前に進める。決して下賤な思いではない、真に高潔なる正義の魂で。
我も人、彼も人。戦真館の道義で説くのなら、鋼の英雄こそがその概念の到達点。そこで競っている限り、クリストファー・ヴァルゼライドには決して及ばない。
「なるほど。狩摩殿が仰っていた事が、少し分かった気がします」
二番煎じの劣化品では、オリジナルには敵わない。
誰かが歩んだ道を辿るだけでは、その先へは決して行き着けない。
それはきっと、万人の意識が下す結論だ。前人未到の未知へと踏み出した最初の一歩、それこそが尊い行いだと感じるのは自然な流れであるだろう。
あらかじめ提示された答えなどではない。
誰の意向であったとか、過去の歴史がどうであったかも、関係ない。
どれだけ稚拙で、青く愚かに見えるものであったとしても、その信念を貫き抜く覚悟。
ここは夢界。現実ではないこの世界だからこそ、そういう感情の力こそが結果さえも左右するのだと信じられる。
恐らくはそれが、盧生としての悟りを開くという事なのではないのかと、今の百合香には思えていた。
「この考えも、次の邯鄲へと巡れば忘れてしまうのでしょうけど。ですが、そう希望を捨てたものではないと思いますよ。わたくしにとっても、あるいは貴方にとっても」
「そうか。ならば俺も期待しておくとしよう」
それきり、対峙していた両者の視線はすれ違う。
彼らに戦う理由はない。その意味もない。ならば必然、辰宮百合香とクリストファー・ヴァルゼライドは激突せず、その縁はここに終わる。
これはすでに過ぎ去った光景だ。
柊四四八は、甘粕正彦に敗れる。その結末は決まっている。
ここでの交わりも、両者にとって何ら変化をもたらすものではない。輪廻する記憶の片隅にも置かれる事なく、意味なきものとして忘れられるだけだろう。
それでも、それは一つの予兆でもあったのだ。
戦の真を奉じる『
千の信を顕現する『
志すは仁義八行。柊四四八が至るべき悟りとは、鋼の意志では成せないものだと。
故にこそ、いずれ来る決戦は必定となる。
クリストファー・ヴァルゼライドこそ、柊四四八が決別した道の象徴。
鉄血の覚悟で事を成す鋼の英雄。彼を越えない限り、千の信こそ戦の真をも上回る光であると証明される事もないのだから。
そしてそれは、英雄の側にとっても同じ。
正義の光と、仁義の光。共に善の性質を持ちながら相容れない真逆のもの。
だからこそ試練となる。鋼の意志で成す道こそが"勝利"に繋がっているのだと、それを証明してみせるためにも退くわけにはいかないから。
両雄は並び立たず。この夢界の深淵で、互いの信条を懸けてぶつかる事になるのである。
予定ではもう少し早く更新出来そうだったんですが、途中で風邪引いて遅れました(セージの呪いか!?)
逆十字戦はこれで終了。
次回はいよいよvs千信館です。