教師という職業に就いていると稀に卒業後も会う仲になる生徒もいる。高校教師ともなれば、卒業していった生徒達は二年も経てば成人だ。飲みに誘われたり、結婚式に出てくださいという悪意なき地獄への招待状も来る。生徒指導も任される身でもあったので、必然的に校内で普通の生徒よりも素行に問題のある生徒と会話する事が多いのでその類の生徒と親交が深まる事もある。
例えば、雪ノ下陽乃。眉目秀麗成績優秀という私が担当した生徒の中でも他の追随を許さぬほどの能力をもった生徒だ。内面に非常に多くの問題を抱える生徒だったがそれを一切噯にも出さず歪んだまま成長していった彼女は、半年に一回ぐらいは連絡を寄越す。彼女の目に私がどう映っているかは未だによくわからない。一度だけあいつがどうしようもなく歪んだ時には拳と拳でつい語り合ってしまい、こりゃ教師クビになるかなーなんて思っていたら、殊勝にも彼女は私に連絡を寄越し続けた。その点はまぁ、私が担当した中で一番捻くれものだった生徒の尽力もあるだろう。そして、面白い事に私は今日そんな捻くれ者と酒を飲む約束をしていた。
「ふむ。早くつきすぎたようだ」
待ち合わせまでには後十分もある。少し前から私は彼らと酒を酌み交わす仲になっていた。一番の驚きは、あの比企谷と材木座が葉山とつるんでいた事だ。比企谷は比企谷で非常に問題があったし、葉山は葉山で優等生ながらも問題を抱えていたし、材木座については……まぁいいか。あの二人に比べたら些細な問題だ。そんな奇妙な組み合わせだったが、一緒に飲んでみれば意外と面白い。子供なのに精神だけが妙に成熟して捻くれていた彼らが妙な連鎖反応を起こすのだ。今日はどんな話が聞けるのだろうかと楽しみにしていると、
「あ、ども。静さん」
背後から声がかかった。一応、もう生徒と教師ではないので先生と呼ぶのはやめてもらっている。後は……ほら、私も調子こいて教師なのに比企谷の年齢がアレな頃に煙草と酒とか悪い遊び教えちゃったからね。そんな場で平塚先生なんて呼ばれたら職の危機に陥っちゃうからね。大学教授は未成年の生徒に酒を勧めても罰せられないのはおかしいよね。「やぁ」と声を出して私が振り返ると、まずはつるんとしたスキンヘッドが目に入った。
「どうも、静さん。お久しぶりです」
スキンヘッドは爽やかな笑顔でそう言いのけた。あまりの衝撃に口に咥えていた煙草がぽろりと落ちてしまう。
「む。どうしたでござるか静殿? というか狙ってた男が煙草好きじゃないから止めるって言ってござらんかった?」
スキンヘッドの横に居るこれまたつるんとした頭をした太ったスキンヘッドが非難めいた目で私を見ている。
「これが俺達の恩師だと思うと泣きたくなるな」
極めつけはこれまたつるんとしたスキンヘッドの、目つきの死んだ男が煙草を口に咥えて呆れていた。……一体、何が起きたというのだろうか。イメチェンとかそういうレベルの話ではない。もはやキャラが違う。前回春先に会った時には相変わらずな感じだったのに、いきなりどうしたというのだろうか。私の疑問に気がついたのか、三人はぽんと手を打ち、状況の説明を始めた。
「いや、実は酔っ払って寝ていた陽乃さんの顔に落書きしたら、仕返しに家賃を上げられましてね。抗議の意味も込めて、腐った梅酒を飲ませてトイレを封鎖したんですけど……」
「いやぁ、トイレの鍵をロックした後破壊したまではよかったでござるが、我がトイレ目掛けてぶん投げられてドアごと破壊されてなぁ。その仕返しに、今度は我らのバイト先に邪魔しにきたでござる」
「人間関係ぶっ壊したり、嫌いな先輩をけしかけられたりしたんで仕返しに、雪ノ下家の留守電に限界まで陽乃さんとの思い出を吹き込んでやったら、寝込みを襲われて無理やりこんな髪型にされました」
「何をやっているんだ君達は……」
少しは成長したと思いきや、悪い方向に成長したようだ。だがしかし、かつての彼らがこんな事をしただろうか。比企谷と材木座は反抗もせず何もせずなタイプだし、葉山は笑って流すかそれ以前に手を打つタイプだ。それに、あの陽乃がこんな低レベルな争いに加わっているというのがまた面白い。本気を出せば一瞬で潰せるのに、そうしない。というよりはできないというのが正しいだろうか。あの子には取り巻きは多くても、同格の子がいない。妹への歪んだ愛情もそれがあったのだろう。自分と並べるだけの能力があるのに、隣に立とうとせず、後ばかり追いかけてくる。唯一の妹への愛とそこへの苛立ちが混ざった歪んだ感情が当時の陽乃の根幹に根付いていた。私はそうあの子を分析している。それなのに、今はこれである。だが、それも悪くは無い。
「まぁ、何はともあれ色々と面白い話もありそうだし。さっさと店に入ろうか」
●
平塚先生から静さんと呼ぶようになってから、随分と経ったような気がするが実質そう年月は経っていない。俺個人としては高校を卒業してから帰省する度に平塚先生とは会っていたので、静さん呼びはその時期からぐらいだろうか。義輝や隼人なんかはここ最近飲むようになったので大分慣れてきたといった感じだ。今回もこうして三人全員で帰省した時なんかは、こうやって集まって飲むのだ。それ以外の時は、静さんに好きな男が出来た時に緊急会議と称した飲み会と残念会がその暫く後に開催されるぐらいだ。あれ? そう考えると結構この人と酒を飲んでいる気がする。まぁ、それなりに楽しいから何でもいいや。初っ端からビールに続いてハイボールをあおり始めた静さんは俺達の話を聞きながら今日も楽しく笑っている。
「しかしまぁ、なんだ君達は。随分と楽しく暮らしているようじゃないか。……この、陽乃の写真なんか傑作だぞ」
静さんの手には義輝のスマホが握られている。そこには額に鉄仮面と書かれ更に太眉になった陽乃さんが幸せそうな顔をして寝ている写真だ。一色が撮ったその写真は今では全て消去されてしまったが間一髪の所で義輝がwifiファイル共有で救出した一枚だ。それを静さんはとても優しそうな顔で眺めている。この写真を見て真顔になれるってどういう神経してるんですかね? 俺達は三日三晩笑い続けてなんだかんだ美人なんだよなぁ、なんて改めて顔の造詣に感心してしまったものだ。
「それ、俺達の最後の切り札なんだから大事に扱ってくださいよ。撮った一色なんか、陽乃さんの怒りに触れて一週間陽乃さんの鞄持ちやらされてましたからね」
「最初は笑ってたいろはも、後半は流石にやつれてたなぁ」
「拙者が聞いた話だと、嫌がらせのためだけにこのクソ暑い中沖縄まで連れまわされたと聞いたが……」
「いいなぁ、沖縄。今年こそは一夏のアバンチュールでもないかなぁなんて計画してたけど、結局今年も朝から晩まで酒飲んで仕事して終わりそうなんだよなぁ。金はあるのに。金だけはあるのになぁ」
虚ろな目で静さんがぼやきながらハイボールのグラスをまた一つ空にした。俺達が卒業してもう数年経つ。その間も仕事を頑張っていた静さんは若手の教師の中でもそれなりに一目置かれる存在らしい。毎年新人教師が来るたびにまとめ役を任されるようになり、いよいよ若手ではなく中堅の道に入りそうな勢いだ。本当に、後は結婚するだけ。本当にこの人はそれだけができない。
「静さん。この前言ってた旅行好きの男の人とはどうなったんですか? 飲み屋で仲良くなって意気投合してたって言ってたじゃないですか。凄い趣味も合うって」
「ああ……彼な。その……なんていうか、一緒に一度泊まりで旅行に行ったんだ。私も今回こそは上手く行った! なんて勝利宣言して一緒の部屋で寝たんだよ。こっちはもう準備万端さ。
そうしたら彼……何もしてこなくてな……。おかしいなって思ってちょっと薄着で迫ってみたら、優しくシャツをかけてくれてな……。これ、なんかおかしいぞって思ってたら、同性愛者だってカミングアウトされたんだ……」
「あの……なんか、すいません」
「それから彼とは友達だよ。……静は、今まで会ったどんな男友達より気が合うって。これからもずっと友達でうわあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
絶叫と共にハイボールを一瞬で空にする静さん。すかさず隼人が追加を頼んでいく。静さんのエンジンが大分かかってきたようだ。聞いてもいないのにそのまま次々ぽんぽん言葉が踊っていく。
「だから、しばらく私は恋愛はいいんだ。……最近、歳の所為か、母性がどんどん強くなってきてな。家の押入れの奥からたま○っちを引っ張りだしてきて、育てる事で嫌なことを忘れてるんだ……」
静さんがシャツの胸ポケットから○まごっちを取り出す。普通、こういうものってバッグに入れておくものではないでしょうか。あまりの豪快さに変な笑いが漏れる。こういうとこが、かっこよくて困るのだ。しかもこれ昔一番レアだった白い奴じゃないですか。そんなレアものだったが、義輝が受け取って見ると「ブモオッ」と奇声を上げ、俺に画面を見せてきた。
「は、八幡これ……」
「死んでるな……」
たまごっ○の画面には墓と幽霊が映っている。隼人が危機を察して注文ボタンを押した。そして、俺と義輝の報告を聞いた静さんは驚いたような顔をしてたまごっちを奪い取った。
そして、画面を見てその表情を絶望に染め、
「う、うわああああああああああああああああああっ!!! 何で、何でなんだぁぁぁぁっ!?!? 今朝まであんなに元気だったのに!?」
「あ、店員さん。ハイボール4つで。全部濃いめの特急でお願いします」
隼人が冷静で良かった。注文をとりにきた店員のお姉ちゃんは隼人の笑顔付きの注文に元気良く答えると厨房へ戻っていった。忌々しい。
「私を、私を置いていかないでくれえええええええええええええ!!!! たらこっちいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!」
たらこっちって確か全くしつけしないとなる奴じゃなかったっけ? まぁ、静さんに育てられたらそうなってもおかしくなさそう。この人、こういうとこ結構ずぼらだし。生徒の面倒見は凄く良いのにおかしいね。天を仰ぎ絶叫する静さんがいよいよ面倒くさくなってきたので、店員のお姉ちゃんが走って持ってきたハイボールを前に置いてやると、涙を流しながらごくごく飲み始めた。いよいよもって化け物くさい。煙草に火もつけ、いよいよ準備万端といった感じだろうか。一色や川崎は将来、こういった飲み方をしないで欲しい。
「比企谷ぁ! 葉山ぁ! 材木座ぁ! 今日は朝まで飲むぞぉ! たらこっちの追悼だ!」
「明日も仕事でしょう。何を言ってるんですか」
「どーせ盆休みだからいいよいいってのっ。仕事なんてそんなもん若手にやらせとけばいいんだし……。あああああああああああっ! もう私若手じゃないっ! 君達が現役の時はまだ若手だったのに!」
ここから先はもはや平塚静劇場だ。隼人に無理やり壁ドンやらせたり、義輝に顎クイと見せかけてアッパーをぶちかましたりとやりたい放題だ。俺は静さんの煙草に火をつける係りになっていた。しかしまぁ、なんだかんだこの人と飲むのは悪くない。これだけアホみたいなペースで飲んではいるが、未だ完全に酔っ払ってはいない。義輝のラノベの駄目だしをしたり、隼人の勉強についてもそれなりのアドバイスをしている。俺も一つ報告事というか、相談したいというか、どうせ知ってるだろうけど言っておかなければならない事がある。しかしまぁ、隼人と義輝が居る前では少し言い辛い。すると、
「おい、葉山。煙草がなくなってしまったから買ってきてくれ。後、材木座は葉山と一緒にコンビニまで走れ。貧乏生活で少しは痩せたようだが、まだまだ足りない」
チャンスが訪れた。隼人は笑顔で。義輝は渋々といった感じで席を立つ。後に残されたのは酔っ払いと俺だ。何が楽しいのか、ニコニコ笑いながらこちらを見ている。さて、どう切り出したものか……。
「君とこうしてサシで話すのも久しぶりだな。まさか、この4人で飲む日が来ようとはな。昔の私に言っても、絶対に信じないと思うよ」
「俺だってそうですよ。こんな風になるだなんて予想もしませんでした」
「二年の頃に多少マシになったとはいえ、三年の頃の君はとても見ていられなかったからなぁ。もう、本気で10発ぐらい殴ってどうにかしてやろうと思ったが、結局できなかった」
危なかった。この人の本気で殴られたらそれこそ本当に死んでしまいそうだ。きっと、心までも。だが、今振り返ってみてもあの頃の自分はそうやられてもおかしくはなかったのではないのかと思う。過去の自分を否定しない事を信条としてきたが、あの時だけは本当に正しかったのか今でもわからない。ずっと心の奥底で燻り続けている。間違っているとも、間違っていなかったとも、どちらともつかない。
「どうして、ですか?」
「それは、私にもわからなかったからだ。教師は選択肢を増やし、削ることしかできないと過去に君に言った事があるだろう? 私は、そのどちらも君にしてやれる事ができなかったんだ」
「でも、きちんと見ていてくれました」
「そう言って貰えると嬉しいがね」
静さんはそういうと寂しそうに紫煙を吐き出した。あの件は、俺が悪いのだ。この人が悔やむ事ではない。それに、俺はこんな事を言いたかったわけではない。
「先生、一つご報告があります」
「何かね? ……ま、まさか、彼女が出来たなんて言わないよな? 嬉しい事だが、時と場所と場合と話す相手が私である事を考慮してから話してくれよな」
「違いますよ。……まぁ、その……もう知っているかとは思いますが……来年、総武高校で教育実習を受ける事となりましてね……」
静さんが咥えていた煙草がぽろっと落ちた。火をつけてなくて良かった。というか、何なのこの反応? 一応、五月ぐらいには学校に挨拶の電話したんだけど。意外な反応に戸惑っていると、ようやく放心状態から解放されたのか、目を見開いてこちらを見てきた。
「君は、本当に比企谷なのか?」
「正真正銘、俺ですよ。この腐った目は忘れないでしょう? というか、知らなかったんですか?」
「いや、ここ数年目は随分まともになったからなぁ。……確かに、教育実習の受け入れの件は聞いていたけど、君の名前あったっけかな? あれ? でも、教頭が名簿作り間違えただが何だかとか言ってたような気が……」
俺の人生何時もこうである。今度教授に会ったら、もう一度確認しておこう。いや、マジでこれ大事だし。
「しかしまぁ、君が教育実習とは人間変われば変わるものだな。普通、教師になろうなんて人間は学生時代楽しい思い出が多かった人間がなる傾向があってな。青春は悪であるとか何とか
ひがみ根性丸出しだった作文を書いていた比企谷の進路がまさかの教師か。うん。君の夢見た専業主夫より、非常に過酷な道をまた選んだものだな」
「専業主夫の選択肢は早々に削れっていったの静さんじゃないですか……」
「当たり前だ。葉山ぐらいの男だってなるのは中々難しいんだぞ。君にすれば、海賊王になるぐらい難しい」
「そこまで言わんでも……」
「しかしまぁ、君が来年うちに来るとなるとまた面白くなりそうだな。死ぬほど辛いし、休みなんか少ないし、でもやりがいはある仕事だからな。……それに、君の優しさはきっと困った時に役に立つと思うよ」
「…………うす。少しだけ頑張ってみようと思います」
「しかしまぁ、比企谷が教師かぁ……。一体、誰が君をそんなに変えたんだろうな。雪ノ下か、由比ヶ浜か、葉山か、材木座か、川崎か、一色か。ふふっ。何にせよ、まぁいい変化だ」
この人は一番大事な所がわかっていない。心の中で少しだけため息をつく。変な所が鈍感だから変なところでミスって結婚できない。後、あの長文メール。メールからラインに変わっても静さんは未だ長文だ。俺を一番変えた人間なんて、静さんに決まっている。あの日、あの作文について呼び出されてからこの人との関わりが始まった。最初は強制だった。でも、段々と自分から足が向くようになった。それに、教師を目指すことを意識したのだって、この人の何気ない言葉が原因なのに。
──……もし、大学で教職をとれるようならとっておいたらどうだ? 案外、君は向いてるかもしれないぞ──
そんな事、言われた事がなかった。誰にも期待されず、自分ですらも何も期待せずに居た俺に、そんな事を言ってくれたのはこの人だけだった。だから、やってみようかと思った。静さんからしたら何の気なしに出てきた言葉かも知れない。それでも、あの日俺の心がどうしようもなく動かされたのは事実なのだ。そのまま、俺が何も言わないでいると、隼人達が戻ってきた。
「今のはまだ、あいつらには内緒で」
「わかった。来年楽しみにしているよ」
それだけ話すと、もうこの話は終わりだというように、俺と静さんは持っていたグラスを掲げ、もう一度乾杯をした。
●
【おまけ】
「嫌だ!! 嫌々!! まだ帰らない!! しずかはまだおうちに帰りたくないの!!!!」
「静さんタクシーの運転手さん困ってるじゃないですか。早く乗りましょうよ」
「運転手殿。ここの住所のアパートまでお願いしますぞ。後、2千円渡して置きますのでお釣りはこの人に渡してくれ」
「ひーーーーきーーーーーがーーーーーやーーーーー!! イーーーーーーーーやーーーーーーーー!! まだまだ飲むの!!!!!」
「うわぁ……この酔っ払いやっぱり超めんどくせぇ……」
帰ってこれました。
一つの区切りの話です。
後は気が向いたら短編1本か2本やって、4年生の話になります。