いつまでこれが続けられるかわからんけれど、それまではやってくよ。
197×年
その夜、私は運命の十字路に来ていたのだ。もし私がもっと崇高な精神で自分の発見に近づいたのであったら、もし私が高邁な、あるいは敬虔な向上心に支配されている時にあの実験を敢行したのであったなら、すべては違った結果になったに相違ないし、あの死と生との苦しみから私は悪魔ではなくて天使として出て来たであろう。(中略)
だから、私はいまでは二つの外貌と二つの性格を持ってはいたけれど、一方はぜんぜん悪であって、もう一方はやはり昔のままのヘンリー・ジーキルで、その矯正や改善はとても見込みがないと私がとうに知っているあの不調和な混合体なのであった。
こうして悪い方へとばかり向っていったのである。
(ジーキル博士とハイド氏の怪事件 より抜粋)
オセロットは暗く、陰気な自室に戻ってくると乱暴に戸棚を開く。怒りによって震えても、魂まで凍っているようにつめたい体を暖めようとウォッカのビンを取り出し、グラスにぶちまけるように注いでいく。
だが、その最中に徐々に気を静められたのか。戸棚にアルコールの瓶をしまうあたりにあって、いつもの穏やかで誰をも近づけさせないあの不思議な男の姿へと戻っていた。
栄光と転落の70年代、それはもうすぐ終わろうとしていた。
そして自分は――オセロット(山猫)は再びなつかしのソ連の片隅で、不名誉極まりない第4特別部でも最高の有名人。『強制収容所の拷問特別顧問』などと”仕事の相手”ばかりか味方からも、そう呼ばれるまでになっていた。
それはただただ、屈辱の日々ではあった。
だが仕方がなかった。
一度は国を裏切った――どちらかといえば、いるべき場所に向かったという動機だったが――有能なスパイが元の棲家に戻ってきても、やれることはこんなドブさらいよりも”とびきり小汚い特別な仕事”をあてがわれる。
ドブさらいならまだいい。
小汚くとも、鼻の曲がるような匂いが体にこびりついても。誰かに自分の仕事をけなされても、それは必要なことじゃないかと胸を張って言い返すことができる。
自分は違う。
言い返す言葉はない。
拷問によって個人の考えを、思想信条を変えさせる。
方法は問わない、結果があればいい、そういう所詮は外道の所業だ。
ライトがひとつしかない個室で彼と向かい合う相手は、オセロットが耳元で正しい答えをささやき続ける間。リズミカルな深度の違うあらゆる苦痛を味わうことになる。
皮肉なことに、オセロットはこの分野でも瞬く間に達人の域へと達してしまった。
ほかの同僚達と違い、彼は部屋から拷問していた相手と2人で出てくることが多く。そのときはまるで長年の友人同士。いや、恋人ではないかと怪しむくらいに親しげに先ほどまで嬲り尽くしていた相手の肩を抱いて元気付けているのだ。
物言わぬ死体を作らない男、クレムリンは信用できない元裏切り者をそれでも有能だとしてまた重用するようになった。
だが、オセロットに喜びはない。
自分が薄汚いクレムリンのクソ共を満足させるだけの汚れ仕事をやっているからではない。任務に試練はつきものだ、それは理解している。
だが、希望がないのだ。
この世界から希望の光は消えて5年が過ぎようとしている。
ビッグボスは未だ、この世界に帰還を果たしていない。
気持ちが落ち着くと、オセロットは持ち運べるカセットデッキとマイクを机の上に並べ。新しいテープをいれて録音を始める。
「ボス、あなたとミラーが始めた。戦争ビジネス……」
キプロスで眠る彼を、遠く離れたこの地でその門番をするオセロットは思い余ってこうやって思いのたけを記録しようとしていた。
そうしなければとても耐えられそうにはなれない。彼の今の現実があった。
世界がゆっくりとあの男の意思に侵食されていっている気配を感じる。
はっきりとしたものではないが、それがかえって不気味なのだ。
そしてそれはあの正気を失ったと思っていたゼロの”予言”が多少のずれはあるものの、少しずつそちらにむかって坂道を転がり落ちる石のように勢いをつけようとしているように見える。
「…支配者にとって、恒常的な敵がいるのは都合が良い」
それは”まだ”ゼロの口にした未来ではない。だがそのために必要な材料が、次々と姿を社会の中で姿をあらわし始めている。
「……大衆の心理を操作するために、ビジネスとしての戦争が常設される――」
戦争経済、あたらしいビジネスモデル。
それはスネークとカズヒラ・ミラーが生み出した新しいものだったのに。
ゼロの意識はそれを飲み込んで、彼の未来の一部にしてしまおうとしている。いや、きっとそうなるのだろう。
情報統制による支配。
だがおおっぴらにそれを行えば、必ずそれに反対する者が出てくる。いや、人とは本来はそれが正しい姿であり、だからこそ歴史が未来の若者たちへ試練と人生の指針をいつも与えてきた。
ゼロの考えが正しければ、このままなら彼の支配に反抗するものは現れない。
誰もそうとはわからないまま支配され、誰もが支配に疑問を持たず、支配に”不要”なものはこれを選別して除外される。
その最初の犠牲者がスネークだったのは間違いない。
MSFという世界に恐れさせる軍を、サイファーのシステムはXOFを使って一晩で壊滅させてみせた。
それは皮肉にも、「賢者たちの遺産」に関係するものたち全員がゼロの構築しつつある方程式の破壊力を実際に目にすることができてしまった。非常事態だが、それ以上にその威力の凄まじさに言葉がなかったはずだ。
ビッグボスは瞬く間に歴史の影にうずもれてしまった。もう、誰も彼のなした事を口にしない。
そして自分は、自分達は。
そんないつか到来するであろうゼロの未来にあまりにも無力であった。
マイクを握る腕に力がこもる。
歯軋りせぬよう、必死に暴れたくなる衝動と感情の嵐を抑えようとする。そのために言葉を吐き出し続ける、ボスへの報告を続ける。
「……ボス、私たちは戦争で世界を変えられますか」
オセロットは目を閉じた。
「戦争では、世界は変わらなくなるのです。それはただ、金が回るだけのビジネスになってしまう」
暗い部屋の中、肩を落とした男のボスへの報告は続く。
まだ希望は残っている。ビッグボス、彼がまだこの世界からはじき出されまいとしがみついているからだ。彼はまだ生きている。
だが無常にも過ぎていく時だけは容赦しない。
厳しい現実が構築されようとしている。
サイファーは今も動き続けている。
未来にもきっと、それは変わらないのだろう。
彼らが絶対に倒せぬ存在へとなる前に、なんとかしなくてはならない。世界にはまだ、ビッグボスが必要なのだ。
「遅すぎたのかもしれません。
ですが”意思”は人の手で、渡されていかなければなりません――」
希望はある。
しかしこの男の願いはむなしく、彼の暗黒の時代はまだ道の半ばにあった。だがその献身ぶりには報いが来ることを世界は知っている。
そして1984年、Vが目覚める。
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呼び鈴だけで電話の向こうにいる相手をはっきりと察したのはあの時くらいではないだろうか。「私だ」が奴の第一声だった。
電話で奴もよかったのだろう。目の前にいたら、それこそ感情を制御できた気はしなかった。
カズヒラ・ミラーという男が正しく負け犬となった瞬間でもある。
ゼロの傲慢、いや気安さなのか?
挨拶代わりにミラーの体調に触れると、カズはそんなことはどうでも良いと「ボスはどこだ?」と聞く。
不快な言葉が続けて向こうから一方的に流れ込んできた。
ゼロは「いろいろ誤解もあるようだ」とか「私たちは同じ、ビジネスの関係で」とか、「君が嫌いなわけじゃない」などと寝言を聞くのは耐えることができた。
しかしそんな彼でも、ようやく出てきた”病院で眠らされてしまった自分”の元から消えたボスの行方が語られだすと息を呑んでその一言一句を聞き逃すまいとする。
『ボス、死ぬなぁ!』
顔中を覆う包帯が血ににじむ中、心音の停止を告げる不快な電子音が思い出される。
夢の崩壊とともに彼の最高の友人にして最高の兵士が、この世界から旅立とうとしていた。こんな事態になってしまった恐怖、混乱。どうにもならない無力感が押しつぶし始めていた。
だがビッグボスはまだ、生きている。
そのはずだ。そうでなければこの男が自分に連絡を入れるはずはない。
「――いつまでも、あそこにあのままにしておけなかった」
そこでゼロの言葉尻がわずかに変わった。
かろうじて謝罪の成分が混じっていたそれが、一気に姿を消す。
「それに正直、私としては君に任せておくのもどうかとな」
悪意があった。それが奴の本音なのだ。
蔑み、嘲笑、そしてなによりも怒り。
ボスとカズの城を過激にぶち壊した加害者が、自分をボスにふさわしくないと怒っている。混乱する話だ。
「悪く思わないでほしい。人探しをしている連中ならまず、間違いなく君をマークする」
ゼロの感情が潮騒のように引くと、その声はまたいつもの事務的な調子に戻る。
ゼロの考えがまったく理解できない、混乱はますます深まっていく。
彼はMSFをぶち壊し、スネークも奪ったが。スネークはまたこちらに返してやるとも言っているのだ。どういうことなんだ?
「これが開幕の合図だ。それまではなにをしてくれても構わん。来るべきと気に備えていてくれ。
まぁ、私に言われるまでもないな。そうだろう?」
まったく理解できない。まるで狂人に言葉で翻弄され、振り回されている気分で気持ちが悪い。
てっきり罵声と怒声がカズの口から飛び出してくると思っていたのだろう。低くうなっただけでなにも言わない相手の態度に異変を察知するとゼロはまたも態度を変化させてきた。
「……君にも気の毒だった。だがこれで終わらせるつもりは――」
「アンタはっ、何を、言っている」
「ん?」
「今の話が本当だとしたら、あんたは。自分の首をつるす縄を、枝にかけているように見えるぜ」
人の噂で聞いたことはあった。『あの男(ゼロ少佐)は狂っている』と。
MSFを手に入れるまではそれでも構わない。おいしいところだけでも、利用してやろうと思っていた。
だが滅茶苦茶だ、パラノイアだ。
必要だといって攻撃し、殺そうとして助け、意識が戻らなくてもきっといつか回復するだと?その時はもう一度?これがしでかした張本人の言葉だというのか!?
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「副指令、全員揃いました」
部下の言葉で、カズは過去の不快な記憶から。1975年の昔から1984年の輝ける勝利を喜ぶ今に戻ってこれた。
あの日を思うと、隔世の感ではないか?
失った力は新たにダイアモンド・ドッグズとして戻ってきた。以前と同じか、それ以上に。
そして悲願だったサイファーへの報復、憎きXOFと指揮官のスカルフェイスは世界から消滅した。サイファーはさっそく彼らの存在を抹消をはじめ、クレムリンはそれに追従するようにサヘラントロプスを始めとしたスカルフェイスの裏切りの一切について口をつぐんだ。
この勝利こそ完全勝利である。
プラットフォーム上に並ぶ勇士達を見よ。
命令違反だが、立派に巨人を相手に戦ったボスの部隊。
声帯虫の騒動から立ち上がったばかりでも、立派にXOFを圧倒した戦闘班とそれを支えたスタッフ達。
そんな彼らを見下ろす自分の後方に立つのがビッグボス。
その脇をオセロットと、あの不快な女とDDが並んでいる。9年の苦痛は無駄ではなかった、力は再びこの手に戻ってきたのだ。
――戻ってきた?戻ってきた、だけか?
そうだ、そうではない。
MSFはあそこから始まろうとしていた。ダイアモンド・ドッグズもまた同じスタート地点に立ったばかりだ。
もっと、もっとだ。
我々はもっと強大にならなくてはならない。
あの日、MSFの仲間を前にボスと誓った言葉は忘れない。俺達はなにものにもおびやかされてはならない。今度こそ国などおそれることなく、それこそ世界を恐れる必要もなくなるくらいに。
今日の日の勝利宣言はミラーが行うことになっていた。
思えばMSFの時。ビッグボスが高らかに声を上げたことが、世界から注目されてしまった原因であった。
あの間違いを繰り返してはならない。その考えから、ミラーが副司令官として兵士たちにXOF撃破の勝利宣言とねぎらいの言葉をかけることになった。
だがミラーの考えではそれだけに留まらないつもりだ。
今、こちらを見上げている兵士たちは自分が彼らを睥睨していると思っているのだろう。だが、もはや真実は違う。
(腕が、足が失われ。今、俺のこの目も奪われようとしている。俺の幻肢痛は終わらない。なにかに奪われ続けていく)
「親愛なるダイアモンド・ドッグズの諸君!!」
1984年、夏の終わり。カズヒラ・ミラーの演説が始まる。
また明日。