翌日。
日課の筋トレを昨日は軽めに済ませたこともあってもう筋肉痛が治った私は、登校のための準備を終えると自転車に乗ってリリアンへと向かう。
休日が一日しかないことで、週休二日制に慣れ親しんだ私にとって億劫な気分にならないと言えば嘘になるが、まあ言っても仕方のないことだ。
もう入学してから一週間になるので多少見慣れてきた景色の中を通って自転車置き場に着くと、自転車を駐めて前のカゴに入れていた鞄を持つ。
土曜日にあの方から貸していただいた本が入っているので、私の鞄はいつもより重かった。
その重みを感じながらも、教室の方へと向かう。
するとその途中、マリア像から少し進んだ辺りで、私は見知った顔を認める。
「ごきげんよう、美冬さま」
「ごきげんよう、綾さん」
並木道の傍らに立っていた美冬さまに近付き、私は声をかける。
どうやら、ほとんどのリリアン生が登校の際に通るこの道で私を待っていてくれたようだった。
恐らくは、昨日おっしゃっていた本をお貸しくださるためだろう。
「お待たせしてしまい申し訳ありません」
「いいのよ。はい、これ」
私などのためにわざわざお待たせしてしまったことに対する謝罪を口にすると、彼女は穏やかに笑って、こちらにさほど大きくないサイズの紙袋を差し出す。
受け取ってみると、予測していた通りその中には何冊かの文庫サイズの本が入っていた。
「わざわざありがとうございます。大切に読ませていただきますね」
「いいのよ。同じ小説が好きな子がいたら、私も嬉しいから」
紙袋とは言っても、中身である文庫本に合わせたサイズなので、十分に鞄の中に入るくらいの大きさだ。
鞄の蓋を開けてそれを中に収納すると、私は美冬さまにお礼を言う。
すると、彼女はそう返してくれる。
同じものが好きな相手とそれについて語り合うのは楽しいことであるし、私もそれには大いに同意するところだった。
「では、そろそろ行きましょうか。もうすぐチャイムが鳴ってしまうわ」
「そうですね」
そうこうしているうちに、廊下を走らなくては間に合わないというほどではないものの、そろそろ教室に向かわなければチャイムが鳴ってしまうだろうくらいの時間になっていた。
実際にしたことはないし、そんな光景を見かけたこともまだないので分からないが、お嬢様学校であるリリアンでは廊下を走ることは厳禁であり、走っているのを廊下を見回っているシスターに見つかるとお説教が待っているらしい。
ミッション校に初めて通う私としては、お説教自体よりもむしろ校内にシスターがいることの方が違和感というか非日常的な感じがするのだけれど、リリアンで学生生活を送っていればシスターの姿は敷地内のそこかしこでよく見かけていた。
それはともかく、もうそんな時間なので、いつまでもここで立って話している訳にもいかない。
学年が違うので教室の場所も違うとはいえ、昇降口の場所は同じなので、私たちはそこへと向けて共に歩き出していた。
そして、美冬さまと別れた私が菊組の教室に入り、自分の席に着くと、程なくしてチャイムが鳴り朝拝が始まる。
その後のホームルームも終わり、一限目の授業が始まるまでの時間が少し空くと、私は鞄の中から本を取り出して読み始めた。
先ほど、美冬さまからお貸しいただいた少女小説のうちの一冊である。
鞄の中にはあの方から図書室でお貸しいただいたハードカバーの本もあるのだが、そちらよりも少女小説の方を先に読んでいるのは、別に美冬さまの方を優先したという訳ではない。
そもそも分厚いハードカバーと文庫サイズの本とではページ数からして違うし、前者はある程度時間をかけなければ読破できないのに対して、後者はそれなりに気軽に読み進めることができる。
今のようなちょっとした空き時間に読むならば、文庫本の方が適しているのだ。
その代わり、ある程度長い時間を確保できる昼休みや放課後にはあの方の本を読むつもりだった。
「綾さん、コスモス文庫を読むのね」
初めて触れるシリーズなので、見開きの部分に書かれていたあらすじや最初にあるキャラ紹介のページに目を通していると、隣の席に座る由乃さんが話しかけてくる。
カラフルな表紙をひょいと覗き込んだ彼女は、私が読んでいるのが少女小説であることを見て取ると、そう口にした。
「はい。イギリスにいる時はラテン語の古典文学くらいしか読んだことがありませんでしたし、せっかくなのでこういうものも読んでみようと思いまして」
まあ、転生する前は少女小説の類もよく読んでいたので、今の言葉が完全に正確という訳ではないが、けれども向こうでは古典ばかり読んでいたのは確かだ。
もちろんそれはそれで面白いから読んでいたのだけれど、せっかく日本に来たのだからこういった小説も読みたくなっていた。
「綾さんがそういうのを読むのは何だか意外だわ。何だかお姉さまみたい」
「令さまが?」
「そう。お姉さまも少女小説がすごく好きなのよ。けど一見そんな風には見えないから、少し綾さんと似てるなって思って」
どうやら、令さまは少女小説がお好きらしい。
確かにあの方のイメージからすると少し意外だけれど、幼少期以来の幼馴染だという由乃さんが言うのだから確かなのだろう。
「由乃さんは読まれないのですか?」
「ええ、私はそういうのは全然読まないわね。池波正太郎が好きなのよ」
「剣客小説が好きなのですね」
そして、由乃さんは剣客小説がお好きなのだという。
彼女とそれなりに親しく話している今なら納得できるが、これもまた親しくない人からすれば意外に思えるかもしれない。
もしお二人の好みが逆ならば、イメージ通りなのだろうけど。
「と、チャイムが鳴ってしまいましたね」
「ごめんなさい、読書の邪魔をしてしまって」
「構いませんよ。由乃さんとお話するのは楽しいですから」
得てして昼休み以外の休み時間の長さは短いものである。
二人で話しているとあっという間にチャイムが鳴ってしまい、私は文庫本を片付けて机の中から教科書を取り出す。
邪魔をしてしまったと思ったのか、申し訳なさそうな表情をした由乃さんがそう言うが、私は気にしないように伝える。
他の山百合会の方々にも言えることであるが、彼女はとても魅力的な人物であるし、話していてとても楽しいのだ。
剣客小説の類ならば前世の話なので大昔だが読んだことがない訳ではないので、また今度話を振ってみることにしよう。
そう思っていると先生が入ってきて、週明けの一日が始まったのだった。
放課後。
一日の授業が終わると、私は山百合会のお手伝いのために今日も薔薇の館を訪れていた。
とは言うものの、祥子さまによれば、薔薇さま方三人は三年生の集まりか何かで少し遅れてこられるらしい。
白薔薇ファミリーは今のところ聖さまお一人、祥子さまにもまだ妹がいらっしゃらないので、つまり室内には祥子さまと令さま、そして由乃さんと私の四人だった。
人数的にも役割的にも、三薔薇さまがいらっしゃらなければとても仕事にならないので、彼女たちが来るまでの間私たちは思い思いに時間を潰すことになった。
令さまと由乃さんは姉妹で会話を交わし、私と祥子さまは本を取り出してそれを読み始める。
今度は、あの方からお借りしたハードカバーだ。
「あれ、今度は別の本を読んでるの?」
「ええ、あの本はもう読み終わりましたから」
由乃さんが、そんな私に目を留めて話しかけてくる。
きっと朝読んでいた少女小説のことを言っているのだと思うが、あの本は休み時間の間に少しずつ読み進め、既に読破していた。
「そうだ、お姉さま、綾さんもコスモス文庫を読んでいるそうよ」
「えっ、今は違う本を読んでるみたいだけど」
「教室にいた時はコスモス文庫の本を読んでいらしたわ。もう読み終わったそうだけど」
由乃さんが、何やら姉である令さまと言葉を交わしている。
令さまは少女小説がお好きであるそうなので、お互いに合う話題をという彼女の気遣いなのかもしれない。
「ふうん、綾ちゃんもコスモス文庫が好きなんだ」
「好きというか、最近までずっとイギリスにいたので、日本に来て初めてコスモス文庫というレーベルの存在を知りました。向こうでは読んだことがないジャンルなので、せっかくなら読んでみようかと思いまして」
「それなら、明日何かおすすめの本を持ってくるよ」
いつの間にか、また読む本の量が増えていた。
とはいえ、元々本を読むのは好きなのでむしろそのご好意は歓迎したいところであり、私は頷きを返す。
お三方のおかげで、しばらくの間は退屈な時間を過ごさずに済みそうだった。
「ところで、今は何を読んでいるの?」
「昔のロシアの作家の小説です」
そう言って、令さまに作家名を告げる。
かなり有名で評価が高いので、たとえ読んだことがなくとも、名前くらいは知っていてもおかしくない作家だ。
私も、読むのはこれが初めてだが、名前は知っていた。
あの方におすすめいただいた時から既に読み始めているが、とはいえまだ四割くらいしか読み終わっていない。
残り六割といえば半分ちょっとではあるが、元がかなり分厚い本なので、半分とは言ってもまだまだ相当な量が残っていた。
「綾さんは、そうした小説をよく読むのかしら」
そう尋ねられて視線をそちらに向けると、その先では本から顔を上げた祥子さまが私を見つめていた。
どうやら、作家名に反応したらしい。
確かに、あの小笠原グループの令嬢である彼女ならば、当然このくらい読んだことがあるのだろう。
「いえ、むしろイギリスにいた時は古典の授業で習うラテン語の本に夢中でした。ですから、この作家の本を読むのも今が初めてです」
「ロシア文学もいいものよ、これをきっかけに読んでみたらどうかしら」
「そうですね、せっかくですから、この機に見聞を広めてみようと思います」
西ヨーロッパではラテン語とギリシャ語で書かれた文献が日本でいう漢文のような扱いだったので、そういったものに授業で触れる機会もそれなりにあったけれど、とはいえロシア文学の場合は誰かに勧めてもらいでもしなければまず読む機会など無いのは確かだ。
あの方に勧めていただいたのはせっかくの機会だと言えるし、この本を読み終えたら、他にもいろいろ読んでみることにする。
原文で読むのならば、まずロシア語を覚えるところからスタートしなければならないのでそれなりの時間と負担がかかるけれど、和訳ないし英訳を読むならそれも省略できるのだし。
――と考えていてふと思ったが、もしかすると正真正銘の名家のお嬢様である祥子さまの場合、もしかしたら原語で読めるくらいの教養をお持ちなのかもしれない。
「ごめんなさい、遅くなってしまって」
そんな風に会話を交わしたりしながら私たちが時間を潰していると、待ち人である三薔薇さまが姿を現わす。
先頭で入ってきたのは、山百合会のまとめ役とも言うべき蓉子さま。
彼女らしいと言うべきか、まず遅れたことを詫びる言葉を口にすると、そのまま自分の席に着く。
「ごきげんよう、みんな」
続いて入ってきたのは前髪をかき上げてヘアバンドで留め、額を露わにしたヘアスタイルが印象的な江利子さま。
彼女は私たちに挨拶をすると、やはり自分の席に腰を下ろした。
そして、最後に姿を見せたのが白薔薇さまである聖さま。
いい意味でとても日本人とは思えないほどに彫りが深く美しい彼女は、無言のままに着席する。
それぞれに頭脳明晰で成績優秀、容姿端麗な女性である三薔薇さまであるが、こういった何気ない部分にもそれぞれの性格が現れていて、観察していて面白いと思う。
とはいえ、三年生の方々がいらしたのだ。
先ほど私が来た時には、二年生の令さまと祥子さまの分の飲み物は先に来ていた由乃さんが既に淹れていたので、今度は私が淹れるのが道理だろう。
立ち上がった私は流し台の方に向かい、手早く作業をしていく。
一年生であり、しかも山百合会の正式メンバーではない私は一番の下っ端なので、当然飲み物を用意する機会も一番多いのだが、その中である程度彼女たちの好みも分かってきていた。
例えば祥子さまであればダージリンのストレートで、令さまであればミルクティー。
蓉子さまであればオレンジペコであり、聖さまであればブルーマウンテンのブラック、といった感じで、大体は把握できている。
けれども、唯一未だに好みがよく分からないのが江利子さまである。
当然相手のことを何も知らないうちから飲み物の好みが分かるはずもなく、それとなく飲みたいものを伺う中で好みを把握していく訳だが、彼女に限っては何が飲みたいかと尋ねる度に違うものの名前を挙げるのだ。
なので未だに江利子さまの好みだけは把握できていないのだが、もしかするとこの方はこだわりが薄いというか、あまり好き嫌いの無い方なのかもしれない。
とはいえ、何も言われなかったので、蓉子さまと聖さまにはそれぞれのお好きなものを、江利子さまには無難にダージリンを用意することにする。
なるべくお待たせしないように急いで用意をすると、私は出来上がったものを机の方へと運んでいく。
「ありがとう、綾」
聖さまの前にブラックコーヒーの入ったカップを置くと、彼女はお礼の言葉を言うと、カップを持ち上げて中身を口に含んでいく。
「あなたたち、いつの間に仲良くなったの?」
そんな私たちのやり取りを耳にしてか、蓉子さまが尋ねてくる。
私のうぬぼれでなければ、昨日のことがきっかけで少しは仲良くなれたのは確かだ。
その辺りを見逃さないのは、さすが気配りと気遣いの人というべきか。
「昨日、街で変なのに絡まれてたのを綾に助けてもらったの。それだけ」
「そう。聖を助けてくれてありがとう、綾ちゃん」
カップの中身を一口楽しんだ聖さまは、いつもと変わらないそっけない口調でそう説明する。
それを聞いた蓉子さまは頷くと、こちらに微笑みを向けた。
三奈子さまと聖さまの言葉を信じるなら、彼女は私を聖さまの妹にしようと考えているのだろうか。
「それから、綾は紅薔薇さまの企みを知ってるよ。新聞部の三奈子さんが教えたらしい」
「……そうなの」
けれども、続く聖さまの言葉を耳にすると、蓉子さまは表情を少し難しいものに変える。
あくまでも私がそう感じたというだけだが、どうも聖さまはそのことをあまりよくは思っていないようで、なのであえて私が知っているのだということを告げて、彼女の目論見をやめさせようとしているのかもしれない。
そんな聖さまの思惑はともかくとして、別に雰囲気が悪いという訳ではないけれど、場の調整役と言うべき蓉子さまの表情が重くなれば、自然と空気も重くなってしまう。
「まあ、知ってしまったものは仕方ないでしょう。それよりも、ただでさえ遅くなっているんだから、そろそろ始めない?」
「そうね。始めましょうか」
けれども、それを黙って眺めていた江利子さまが横から絶妙なタイミングで助け船を出してくれる。
その言葉に頷くと、いつものような表情を取り戻した蓉子さまは、山百合会の仕事を始めることを宣言した。