月と薔薇   作:夕音

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 恥ずかしながら校舎内で道に迷ったりしてしまった翌日、土曜日である今日は午前だけだが授業があった。

 前世では今年まだ一歳だった私には土曜日の授業というものには馴染みが無いので初めは戸惑ったが、よく考えてみればこの時代にはまだ週休二日が一般的ではなかったのである。

 土曜日は休日であるものだという認識が当然のこととして染みついている私は、授業があることに少し億劫な気分になってしまいながらも登校し、いつものように授業を受けていた。

 

「由乃さん、今日の放課後は剣道部の練習がありますか?」

 

 そして、一限目が終わった後の休み時間、今しがたまでボールペンを使って記入していたノートを机の中へと入れた私は、由乃さんにそう尋ねる。

 姉が剣道部のエースである彼女ならば、ある程度練習のスケジュールを把握しているのではないかと思ったからだ。

 

「ええ、あるけど……。それがどうしたの?」

「剣道部の見学に行こうと思うので、黄薔薇のつぼみによろしくお伝えしておいていただきたいのですが」

 

 練習があるなら都合がいいので、私は由乃さんに用件を伝えて伝言を依頼する。

 西欧にフェンシングがあるならば、日本には剣道。

 同じ剣を使った競技であることだし、せっかくなので放課後に令さまがエースであるという剣道部を見学させてもらうつもりだったのだ。

 すると、何故だか教室がざわめきに包まれた気がして私は少し違和感を覚える。

 

「え、ええ、分かったわ」

 

 目の前では、戸惑った様子の由乃さんが私の言葉に頷く。

 するとそれを見計らったようにチャイムが鳴り、それまでざわめいていた教室はすぐに静寂に包まれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の放課後。

 掃除が終わった後、ミルクホールで昼食のパンを何個か買って食べた私は、剣道部の部活が始まるまで時間を潰そうと図書室に来ていた。

 何気に、図書室に来るのはこれが初めてである。

 天井近くまである巨大な棚がいくつも林立する室内はとても広かったけれど、土曜日の放課後ということもあってか人影は少ない。

 音を響かせてしまわないよう静かに扉を開けて入室した私は、そのまま適当に近くの棚に歩み寄る。

 元々特にこれといって読みたいものがあって来た訳ではないので、適当に棚を眺めて面白そうな本を見つけたら読もう、というくらいの気持ちだった。

 

「ごきげんよう。何かお探しかしら」

「……っ!」

 

 すると、図書委員の方だろうか、適当に並べられた本を眺めて歩いていた私に背後から声がかけられる。

 振り向くと、そこには昨日の放課後、音楽室で独唱をしておられた少女の姿。

 まさかの再会に、驚いた私は思わず目を見開く。

 

「ごきげんよう。時間潰しに来たので、特に読みたい本があった訳ではないのですが」

 

 相手の顔を前に絶句していては失礼というものだし、動揺をどうにか抑え込んだ私は、そう言葉を返す。

 とはいえ、私の驚愕は目の前のこの方にはお見通しだろう。

 彼女の表情には、音楽室でお会いした時と変わらぬ余裕の笑みが浮かび続けている。

 

「そう? それなら、私のおすすめの小説を紹介しましょうか」

「ぜひお願いします」

 

 私のような漠然とした目的の来訪者への対応にも慣れているのだろうか、そう言った少女の提案に私は頷く。

 時間を潰すというここを訪れた目的を考えれば、提案を断って適当にその辺りを見て回ってもいっこうに構わないのだが、それでも私が頷いたのは、きっと昨日聴かせていただいた歌声が鮮明に耳に残っているからだろう。

 あれほど美しい旋律を歌われるこの方のことをもっと知りたいという思いを自分が抱いていることに気付いていた。

 知る、と言うならばまだ名前すらも知らないのだが、彼女が纏う雰囲気を前にしていると、何故かここで尋ねるのは無粋なのではないかと思えてしまう。

 結果として、私は無粋ではない言葉を頭の中から探しながら彼女の背中について歩いていく。

 やがて、彼女はいくつか先の角を曲がったところで立ち止まる。

 

「どうぞ、綾さん」

 

 そう言って手渡されたのは、今から八十年ほど前に発表された有名な海外の作家の小説の日本語版だった。

 今年から数えて八十年前といえばちょうど大正時代、リリアンが誕生してそれほど間がない頃である。

 分厚く古めかしい黒の背表紙を眺めていると、この小説はリリアンと同じだけの歴史を刻んでいるのか、などという考えがふと浮かぶ。

 

「ありがとうございます」

「では、私はカウンターに戻るわね。貸し出し手続きはしておくわ」

 

 できればこのままずっと話していたいと感じたが、けれどもここが図書室であり、更には彼女には図書委員としての仕事がある以上、そういう訳にはいかない。

 彼女は本の見返しに挟んであった貸し出しカードをさっと取ると、そのまま元いただろうカウンターへと戻っていく。

 残された私は、近くにあるテーブルの方に向かうと椅子を引いてそこに座り、今しがた薦めていただいた本に目を通し始めた。

 ――時折、ついちらちらとカウンターに目が行ってしまい、その度に微笑みを浮かべたあの方と目線が重なって慌てて目を逸らすことになり、あまり読書に集中できたとは言いがたかったけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、由乃さんから聞いた剣道部の活動が始まるという時間が近くなると、私はあの方に頭を下げてから図書室を出て、剣道場へと向かう。

 その時にひどく面白げな様子でかけられた、頑張ってねという言葉の意味はよく分からなかったけれど。

 剣道場は、先日も通りかかったがフェンシング部の練習場所の近くである。

 そこに近付くと、何故だか剣道場の周囲には見学と思しき生徒がかなりの数集まっていた。

 数えた訳ではないが、軽く百人はいるのではないだろうか。

 何故こんなに集まっているのかと首を傾げつつもそちらに近付くと、私の姿を認めた少女たちはまるで海が割れるように左右に避けて道を開けてくれる。

 心なしか妙な雰囲気を感じるし、一体これは何事なのだろうかと不思議に思いながらも、ひとまず私に注目している少女たちの間を通り剣道場へと入る。

 内部にも、見学と思わしき生徒の姿が多くあった。

 よく見ると、その中には黄薔薇さまの姿までもがある。

 

「ええと、見学に来たのですが」

 

 戸惑いつつ、私はまだ練習を始めずに集まっている部員の方に声をかける。

 すると、部員の少女たちは何故か警戒心のようなものをこちらに向けてきた。

 先ほどから、理解が追いつかないことだらけだ。

 何故だか、その中にいる令さまだけは困ったような表情を浮かべている。

 彼女と目が合ったのもつかの間、部員の方々のうちの一人がまっすぐにこちらに近付いてきた。

 

「見学? 由乃さんを巡って令さんに決闘を挑みに来たのではないの?」

「……はい?」

 

 警戒心を露わにしながら、私に尋ねてくるその方。

 けれども、私はその言葉の内容を耳にして、思わずリリアン生にあるまじき間の抜けた声を出してしまう。

 事態に全くついていけないし、いきなりこんなことを言われて戸惑わないはずがない。

 

「朝から噂になっているわよ。令さんの姉である黄薔薇さままで決闘を見届けにいらっしゃって」

「ちょ、ちょっと待ってください。どうしてそんな話に?」

「私に聞かれても……。それじゃ、あなたは令さんに決闘を挑むつもりは無いというの?」

「当然でしょう。私にはそんなことをしなければいけない動機はありませんし、そもそもただ見学させていただきに来ただけです」

 

 逆に、ただ剣道部を見学させていただくだけの話が何故そんな大事になっているのか、私が聞きたいくらいだった。

 どうやら、先ほど図書室であの方がおっしゃっていた言葉は、このことだったらしいことだけは分かったけれど。

 どうにか戸惑いを落ち着けようとしていると、視界の片隅で江利子さまが令さま達のいる方に近付いていくのが見える。

 彼女は、胴着を身につけた一人の少女と何かを話し始めた。

 

「そうだったの。どうしてそんな噂が流れたのかしら」

「私にもよく分かりませんが……。とにかく、見学させていただいても構わないでしょうか?」

「ええ、もちろん構わな……」

 

 どうにか見学の了承を取りかけたけれど、彼女の言葉は途中で中断させられることになる。

 何故なら、何か江利子さまと話していた少女がこちらに近付いてくると、私が話していた少女の肩に手をかけて入れ替わるように私の前に立ったからだ。

 

「岸本綾さん。どうしても決闘をしたいというのなら構わないわ。ただし、ここに来たからには剣道で立ち合ってもらいます。防具と竹刀は備品を貸すから、早く着替えなさい」

 

 この方が剣道部の部長なのだろうか。

 今しがたまでの会話は、周囲にまでは聞こえていない。

 なので未だ勘違いをしているらしい彼女は、決闘の準備をするように促してくる。

 競技は違えども同じく剣の道をたしなむ者として、彼女の言葉は正しいと思う。

 ……ただ一つ、私が決闘を挑みに来たのだという最も根本的な点を除けば。

 

「いえ、私は」

「問答無用! ここまで来たのだから、正々堂々と立ち合いなさい」

 

 勘違いを解こうとする私だが、彼女は私の言葉に聞く耳を持たない。

 向こうで楽しそうな表情を浮かべて私の方を見ている江利子さまは一体何を言って焚きつけたのか、こうなれば立ち合わなければ誤解を解くことは難しいだろう。

 

「……分かりました。道具はどこに?」

 

 仕方なく頷いた私は、彼女に案内されて備品の防具が置いてある場所に向かう。

 そして、私のサイズに合ったものを手渡された。

 とは言っても剣道の防具など着るのは初めてなので、一人では着方が分からない。

 少女に手伝われながらもどうにか身につけ終えた私は、竹刀を取ると表へと戻る。

 手伝ってくれた彼女は、今度は令さまの方に向かっていった。

 試合のための準備を整えた私を見て、見物の少女たちから歓声を上がる。

 

「……勝てる訳がないでしょう」

 

 一体何を言われたのか、困ったような表情を浮かべつつも面を被った令さまを見て、私は呟く。

 もしお互いの立場が逆であったら、と考えればいい。

 令さまは剣道部のエースであられるそうだが、フェンシングは初心者であるし、仮に私がフェンシングのルールで立ち合ったならば絶対に負けないと断言できる。

 そうであるからには、逆もまた然りだろう。

 いくらフェンシングの腕にはそれなりに自信があるとはいえ、剣道のルールで剣道をしている方と立ち合って勝てるとは思わない。

 そのことは、恐らく令さまも分かっているだろう。

 だが、だとしてもこうして剣を手にしたからには諦めたりせず全力で挑ませていただくつもりだ。

 覚悟を決めた私は、竹刀を手にした令さまと一定の距離を挟んで向かい合う。

 

「三本勝負で、二本先取した方が勝ち。……始め!」

 

 審判は、部長と思しき少女が務めるらしい。

 彼女が試合の開始を告げると、剣を中段に構えた令さまが放つ圧力が爆発的に膨れ上がる。

 どうやら、令さまも覚悟を決めたらしい。

 さすがは剣道部のエースというべきか、思わず圧倒させそうになるほど強烈な圧力が私を襲うが、けれど私もフェンシングの試合で相手からの圧力を味わってきている。

 この程度で怖気付いて引くわけにはいかない。

 剣道といえばまずイメージするのは面打ちでの一本だが、剣道の「斬る」動きを練習したことのない私がこれで勝ちを狙うのはまず不可能だろう。

 フェンシングといえばやはり突き。

 剣道では喉突きは認められているそうであるし、何年か後にはルールが改定されて禁止されているが、今年ならまだ胸突きも認められているはずだ。

 喉当てか胸当てのどちらかを竹刀の先で突く。

 剣道を知らない私が万が一にも勝利を得られるとしたら、まずそれしかない。

 こちらが突きを主体に挑むことは令さまも簡単に予測できているだろうが、構わなかった。

 私は、竹刀を下段に構えて圧力を放ち返す。

 すると、彼女の肩がぴくりと反応を見せた。

 

「行きます!」

 

 斬りと突きの双方が有効であり、なおかつ有効部位が身体の一部分に限られているという意味では剣道はサーブルに近いが、けれどもサーブルとは違い剣道には攻撃権という概念は無い。

 ――つまり、恐らく斬りを主軸に戦ってくるだろう令さまよりも、突きに専念した私の方がリーチの差で有利だということだ。

 防御を気にせずに攻めかかり、彼女の竹刀が私の肌に届くより先に突いてしまえばいい。

 私に唯一勝機があるとすれば、それしかない。

 自分の有利を最大限に生かすべく、私は令さまの動きを待つことなく足を踏み出した。

 そのまままっすぐに彼女の喉に突きかかる私だが、その動きはあらかじめ予測していたようで、竹刀を上から振り下ろすことで打ち落とされる。

 思わず竹刀から手を離してしまいそうになるほどの力。

 けれども、これもまた私にとっては予測の範囲内だ。

 竹刀を打たれた勢いのままに下に落ちていく腕を強引に持ち上げた私は、無理な動きに腕の筋肉が悲鳴を上げるのを感じながらもバックステップで令さまの二の剣をかわしつつ、素早く前に反転して竹刀を振るったばかりの無防備な喉元に突きを放つ。

 

「ち……ぃ!」

「なっ!?」

 

 腕も足もかなり無茶な動きをしているので、明日は筋肉痛間違いなしだろう。

 そう考えながらも、一本目の先取を確信していた私だが、舌打ちをした令さまは振り下ろしていた腕を竹刀同士が接触するような軌道で持ち上げる。

 当然だが、斬る動きと突く動きに込められる力の大きさは、前者の方が大きい。

 それによって、今にも彼女の喉当てに迫らんとしていた竹刀が、あっさりと跳ね除けられる。

 そして返す刀で、一度天高く跳ね上がった令さまの竹刀が私の面を打っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから十分ほど後。

 令さまとの試合で体力をかなり使ったために荒い息を吐きながら、私は胴着を外していた。

 結果は彼女の二本先取で、私のストレート負け。

 私の突きは、結局令さまには届かなかった。

 まあ、剣道初心者にしては彼女ほどの相手によくやれた方なのではないかと思うが、けれども負けは負けだ。

 

「ごめんなさいね、誤解をしてしまって」

 

 そして、試合が終わるとあっさりと誤解は解けた。

 やはり剣道部の部長であったらしい審判を務めていた少女が、謝罪をしながら防具を脱ぐのを手伝ってくれる。

 

「いえ、誤解が解けたのなら構いません」

「そう言ってもらえると助かるわ。令さんを呼んでくるから、少し待っていてね」

 

 私が防具を全て外すと、彼女は令さまを呼びに行くといって離れていく。

 少し待つと、向こうから令さまが近付いてきた。

 彼女は短く切られた髪が汗で肌に張りついており、その姿は普段以上に凛々しく麗しい。

 事実、先ほど令さまが面を脱いだ時に、見物していた少女たちから黄色い歓声が上がったほどだ。

 

「ごきげんよう、令さま。手も足も出ませんでした、完敗です」

「それは剣道ルールだったから……。私も、フェンシングでは綾ちゃんに勝てないよ」

 

 苦笑しながら私に言葉を返す令さま。

 いつの間にか、彼女の私の呼び方がちゃんに変わっていることに気付く。

 けれどもそれは決して不快ではなく、むしろずっとそうだったかのように自然なものとして受け入れられた。

 完敗だったとはいえ、剣を交えたことによって少しだがお互いのことを分かり合うことができたから。

 

「それでも、勝つと分かっている勝負に全力で戦ってくださってありがとうございました」

 

 勝ち負けのみで語るのならば、この方が勝つことなど立ち合う前から分かりきっていたことであるし、そもそも試合などするまでも無かっただろう。

 けれども、そんな勝負に令さまは全力で挑んでくださり、私は本気の彼女と戦うことができた。

 それが、競技は違えど同じ剣を遣う者として嬉しかった。

 

「手加減するのは綾ちゃんに失礼だと思ったから。それよりも、怪我は無い?」

「ええ。強いて言うなら、明日は間違いなく筋肉痛になりそうなことくらいですね」

 

 戦うことによって初めて分かることもある。

 そういう意味で打ち解けることができた令さまに、私は冗談を返す。

 

「それは私もだよ。でも、怪我が無くてよかった。ごめんね、迷惑をかけてしまって」

 

 私の冗談を聞いて快活に笑った彼女は、すぐに表情を引き締めてこちらに頭を下げる。

 由乃さんから直接話を聞いている令さまは、何故だか学園中に流れていたらしい噂が真実ではないことを初めから知っていたのだろう。

 

「いえ、そのおかげで、こうして令さまと立ち合えましたから」

 

 負けた悔しさはあるが、けれどもそれ以上に全力で戦えたという満足感の方がずっと大きい。

 次は相手より強くなっていよう、ではなく、もっと道を極めようと思わされるような悔しさ。

 すなわち、それだけいい試合ができたということである。

 的外れな噂には戸惑いしかなかったけれど、そのおかげで令さまと戦えたと考えれば怪我の功名というか、むしろよかったとさえ思えた。

 

「私も、綾ちゃんと立ち合えてよかったよ。もしよければ、剣道部に入らない? 綾ちゃんなら、今から始めれば来年の今頃にはエースになってると思う」

「まだ何をするか決めていないので。ですが、もし剣道をする時は、ぜひご指導をよろしくお願いします」

「もちろん。待ってるから、その時は歓迎するよ」

 

 剣道部へのお誘いに対して、まだ何をするかは決めていないので、その旨を伝える私。

 けれど、令さまと競い合いながら剣道に励むというのは、私にとって非常に魅力的な選択肢の一つとなっているのは確かだった。


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