1.
時を止められたショッピングモール内は、明るいはずなのに音ひとつせず、それがかえって不安感を誘う。ほむら達4人は手を繋いだまま非常階段を下り、外のメインフロアまで戻って来ていた。
「ルドガーの手を離すと止まってしまうわよ、さやか」
「う、うん」
さやかが辺りを一望すると、氷のように微動だにしない人々の姿。壁に掛けられた、針の進まない時計。空中で静止したまま羽ばたかない鳥たち。中途半端に開いたままの自動ドア。
「ほんとに、時間が止まってるんだ…」
「信じてくれたのかしら?」
「そりゃあ、ここまで見せられたらね…あんた、こんな凄い魔法が使えるんだ?」
「大した事はないわ。私は、これだけしかできないのよ。マミやルドガーのように、武器を作ったりなんてできないし、身体能力も低い…魔法少女としては、最弱よ」
ほむらは自虐気味に言う。何度自分の力不足を呪った事か。もっと他に能力があれば、大切なものを守れたのではないか。
「でも…あの銃とかはどうしたの?」まどかは縮こまりながら、ほむらに訊いた。
「盗んだのよ。時間を止めて、ヤクザの事務所や米軍基地からね」
「ええっ!? べ、米軍基地!?」
「一般に、マシンガンや対戦車地雷なんて置いているわけないでしょう? 魔女は、それだけ強大な存在なのよ」
「その…怖くなかったの? 兵隊さんとか、ヤクザさんとか」
わずかに潤み出した瞳を向けながら、まどかはさらに尋ねる。
ああ、なんて可愛らしいのかしら。このまま2人で永遠に時を止めてしまいたい。無邪気な笑顔を目の当たりにして、ほむらの心はざわつく。もっとも、今となってはルドガーがいる限りはそうはいかないのだが。
「時を止めているのに? 魔女ならともかく、人間相手に私が負けるはずはないわ」
ほむらは髪をかき上げながら、少々声を高くして答えた。
「…そんな言い方、やめてよ」対して、まどかは少し不服そうに言う。
「まるで、ほむらちゃんが人間じゃないみたいだよ。その言い方」
「まどか、私はとっくに人間なんてやめたわ。覚えておきなさい。魔法少女になるという事は、そういう事なの」
「ほむらちゃんは人間だよ!」
「まど…きゃっ!?」
まどかはついに感情を抑えきれず、ほむらの手を強く引き寄せて、その華奢な体に抱きついた。
「だって…だって、こんなにあったかいんだよ!? 私の事守ってくれて…好きだ、って言ってくれて! わたし…嬉しかったんだよ!?」
「な…っ、何を言っているの…?」
「私…夢で何度もほむらちゃんに逢ってるんだよ? ものすごく大きな化け物と戦って…傷ついて、私はそれを見てる事しかできなくて…っく、うぅぅぅ…」
「わ、私は好きだ、なんて一言も……まどか、まどか? 泣いているの…?」
ほむらの動きが固まる。嗚咽を漏らしながらほむらに縋り、暖かいと言ってくれる。それが、どれだけほむらにとって嬉しいことなのか。
けれど、ほむらは自身に言い聞かせる。
ここでまどかの優しさに甘えては駄目だ。運命に抗う為に、自分は冷徹な鬼にでも、悪魔にでもなるのだと誓ったのだから。…ワルプルギスの夜を越えて、信じた未来を掴み取るまでは。
「……みんな、このまま私の家に来てくれるかしら。魔法少女について、貴女たちには知る権利がある…いいえ、知らなくてはならないわ」
「言われなくてもついてくよ、ほむら」
さやかはわざわざ聞くまでもないだろう、とした態度で答えた。
「…っ、私も、行くよ…ほむらちゃんの事、もっと知りたい」まどかも、泣きながら声を絞り出す。
「決まりだな、ほむら」
沈黙を守っていたルドガーは、ここでようやく口を開いた。そして、ほむらにひとつの提案…というよりは、お願いをする。
「…晩飯の材料、買って行っていいか? ほら、エイミーの餌もないし」
間髪入れず、「主夫か!」とさやかのツッコミが入る。まどかはまどかで、「えっ? えっ?」と言いながらルドガーとほむらを交互に訝しげな目で見ている。ほむらは肩透かしを食らったように溜息をつき…砂時計を再び動かし、変身を解いた。
周囲から喧騒が聞こえ始める。突然のことに、さやかは「うわあっ!?」と間抜けな声を出した。
「はぁ…食事については、貴方に一存してあるわ。予算も与えてあるし…何なら、4人分作って欲しいのだけれど」
「任せておけ、ほむら」
ルドガーはとても爽やかな笑顔を皆に見せた。使命感に燃えた主夫とは時としてエントロピーをも凌駕するものだ。今夜の食事も、味と栄養価は約束された。
2.
ほむらの家はごく一般的なアパートと同様に、お世辞にも広いとは言えない。家具も最低限しかない。共に広い一軒家住まいのまどかとさやかからしたら、逆に新鮮なものを感じられるだろう。
そこに"あの"暁美ほむらが住んでいる、となれば、また意外なものだが。
全員がうがいを済ませると、ルドガーは早速エプロンをつけて台所に立ち、リズミカルに野菜を刻み出した。
「♪〜♪♪♪〜♪〜♪〜、♪〜♪♪♪〜♪〜♪〜♪〜…」
どこか耳障りの良い鼻歌と、心地良い包丁の音のコントラスト。ルドガーの動きには寸分の迷いもなく、その立ち振る舞いだけで熟練であることが理解できる。
「はぁー…サマになってんねえルドガーさん…」
そんなルドガーの後ろ姿に、さやかは感嘆混じりの溜息をつく。
「…ねえ、ほむらちゃん」と、まどかは一層複雑な表情で尋ねる。
「何かしら、まどか」
「ルドガーさんとは、どういう関係なのかな…? まさか、付き合って…?」
「はぁ…そんな訳ないでしょう……私は、男になんか興味ないわ。彼はただの協力者よ」
「えっ、そ…そうなの…? そっかあ…」
そう答えたほむらの言い回しも、なかなかに紛らわしかった。まどか以外に興味はない、という意味では広義的には間違いではないのだが。
その答えを聞いたまどかはやっと安心したように眉間の皺をなくし、同時に、何か期待のこもった瞳の色を見せる。
にゃあ、と黒猫のエイミーがそこに擦り寄ってくる。便宜上の飼い主であるほむらにではなく、まどかの元へ。
(猫は正直ね……)
時を越えても、忘れられないものがあるのかもしれない。先程のまどかの、"夢で逢っていた"という発言も気になる。
「わあ…可愛い猫ちゃんだね」
「エイミー、よ。貴女に逢えて、喜んでるみたいね」
エイミーはごろごろ、と喉を鳴らしてまどかにじゃれつく。その光景に、ほむらは在りし日の投影を見た。
もし、憶えてくれているのなら…そんな淡い期待を抱く。けれど、とほむらは首を振る。
(もし憶えているのならば……きっと、私のことを恨んでいるはずよ)
だからほむらは、まどかに対しても未だ心のドアを開ける勇気が持てなかった。
「───説明を始めるわ。まずは、これを見てちょうだい」
ほむらは、菱形の黒い痣が甲に刻まれた左手を、ちゃぶ台の上に差し出す。その痣から、紫の輝きを宿した金細工の宝石が、まるで手品のように現れた。
「わあ、きれい……ほむらちゃん、これは?」
「ソウルジェム、と呼ばれているものよ。文字通り、魔法少女の命そのもの」
「い…命ぃ?」さやかは、信じられない、といった風におどける。
「例えばの話だけど…このソウルジェムが砕けたら、私は即死するわ。魔法少女は契約の際に、イン…キュゥべえに魂を抜かれて、ソウルジェムとして加工されるの。
ソウルジェムは魔力の源であると同時に、魂そのものなのよ」
「え、ええっ!? あんた…それ、マジ…?」
「試してみるかしら。ソウルジェムの有効範囲は約100メートル。それ以上離すと、肉体とのリンクが断たれて、死ぬわ。
その場合はまた近づければ蘇生するけれど…」
「いやいいよ! なんか、シャレにならなそうだし!」
「そう。ならいいわ」
ほむらは慌てふためくさやかを尻目に、ソウルジェムを再び痣の中に収納した。
ルドガーの方はというと、野菜の仕込みを終えて、寸胴鍋にコンソメを溶かした湯を沸かしている。その傍には、牛乳のパックが置かれていた。
「重要なのはここからよ。ソウルジェムは、一定量の魔法を使うと黒く濁っていく。他にも、絶望…そうね、気分が落ち込んだりしても、濁るわ」
「濁ると、どうなるのよ…?」
「…ソウルジェムが完全に黒く染まり切ると、グリーフシード、というものに変質するわ。簡単に言えば…魔女の卵よ。
魔法少女が願いによって造られるように、魔女は絶望によって造られるのよ」
「魔女の…!? 魔女って、さっきみたいなお化けのことよね!?」
「……………」
先ほどから、さやかの食いつき様が積極的だ、 と背中越しに聞いていたルドガーは感じた。それはほむらも同様で、
(…上条恭介、だったかしら。さやかは彼の為に魔法少女になるんだったわね)と、予想していた。
「そうよ。いずれ魔女となる少女、だから魔法少女というのよ。そして、濁ったソウルジェムを浄化するのにも、グリーフシードが必要なの。
願いの為に命を差し出す、なんて綺麗な話ですらないわ。早い話、生きる為に同族殺しをし続ける事になるのよ。
…あなたたちに、耐えられるかしら? 生きる為に、人間の肉を食べて生きていけるかしら? それが魔法少女という生き物なのよ」
ほむらはわざと、辛辣な言い方で語る。だから私は、人間じゃないのよ。最後にそう付け加えて、ほむらの説明は終わった。
「……あんたは、どうなのさ」少し俯き気味に、さやかは訊く。
「ほむら、あんたは何を願って魔法少女になったのさ? やっぱり…そうでもして叶えたい願いがあったんだよね…?」
「そう…ね。でも私の願いは、人に言えるほど綺麗なものではないのよ…悪いけど、話せないわ。
それと、もうひとつ考えてみてくれるかしら。特に、まどか」
「えっ…わ、私…?」
「キュウべえは貴女に契約を持ちかけたとき、今のような説明をしたかしら?」
ほむらに訊かれ、まどかは結界の中での出来事を振り返った。
助けてくれ。このままだと2人とも殺される。君には素質がある。だから、契約してくれ。キュゥべえと交した会話は、要約すればそれだけだ。
「ううん…言われなかった。でも、私には素質がある、って…」
「そうだと思ったわ…やつの目的は、魔法少女を増やすこと。ひいては、魔女を増やすことよ。
だから、魔法少女=魔女だなんて事は、訊かれない限りは絶対に言わないわ」
「どうして…そんなひどい事をするの…!?」
「…魔法少女が魔女になる時、即ち希望が絶望へと転移する時、莫大なエネルギーがとれるのよ。やつが用があるのはそれだけ。
私たちは、燃料か何かとしか思われてないのよ。それに、好き好んで化け物になりたい、なんて言う娘がいると思うかしら?
それを承知しているからこそ、契約を取る為にやつは何も言わないのよ」
ほむらは特に最後の一言を、2人に念押しをするように言った。
「あの、マミさんって人は…それを知ってるのかな…?」
「いいえ、知らないはずよ…彼女の心は、
その事実に耐えられないわ。だからまどか、さやか。
この事はまだ誰にも言わないで。巴マミには時期を見て私から話してみる。…もしかしたら、助けられるかもしれないから」
かつて、まどか以外は諦めたはずのほむらだが、やはり救えるのなら救いたい。その気持ちは本当だった。
「うん…わかったよ、ほむらちゃん」
「あんたも苦労してたんだね…ほむら」
果たしてこの2人に、ほむらの想いがどれだけ伝わっただろうか。今は、絶望の未来へと向かわない事を祈るしかない。
魔法少女となった先に、未来などないのだから。
「さあ、もうすぐできるぞ」
ルドガーが鍋をかき混ぜながら、3人に告げた。いつの間にか、台所では4枚の皿にトーストが並べられており、鍋からは食欲を誘うミルク風味の香りが漂ってくる。あとは机に運ぶだけだ。
今夜のメニューは、栄養満点クリームシチューだ。
「あっ…まどか、お父様には連絡したのかしら?」ほむらが、急に思い出したようにまどかに言う。
「あ。まだしてなかったよ…てぃひひ、ちょっと電話してくるね」
まどかは携帯を開き、電話帳を呼び出しながら席を立った。途端にさやかが、まどかが席を外した隙を突くように、ほむらの耳元に近付く。
「……あんたの願い、ずばりまどかに関係してるでしょ」と、さやかは声を絞って訊いた。
「あら、なぜそう思うのかしら」
「まどかの家、お父さんが主夫やって、お母さんが働いてんのよ。どうしてあんたがそれを知ってるのかな〜、なんて野暮な事は聞かないけどさ?
あんたたち、なんかお似合いだし。まどかも満更でもないっぽいし…仁美じゃないけどさ、禁断の愛ですのよ〜、っての? どうなの? ん?」
「はぁ…さっきも言ったと思うけれど?
「…………あ〜…あんた、ガチ…だったの…?」
「さあ、どうかしらね?」
まどかが帰ってくるわ、と囁いてほむらはさやかとの距離を戻した。
さやかは歯痒そうに「えー!? 教えなさいよー!」と言うが、ほむらはそれ以上は語らない。
蚊帳の外にいたまどかは、不思議そうな表情を浮かべながら、ちゃっかりとほむらの隣に座り込む。
「…そういえば、ルドガーさんって何者なのよ?」と、さやかが新たな疑問を浮かべた。
ほむらはルドガーから聞かされた話を反芻するが…魔法少女の話で頭が一杯であろう、と考慮し、
「魔法少女に似た体質の人、かしらね。彼の話はまた今度にしましょう。遅くなりすぎたら、親が心配するわよ」と、先延ばしにすることにした。
「さあ、食事にしよう」
すっかりエプロン姿が板についたルドガーが、微笑ましくその様子を見守っていたのだった。
3.
見滝原中学校への登校2日目にして、暁美ほむらは学年中の注目の的となっていた。
数学で当てられれば、迷いなく手を動かしてホワイトボードに回答式を記していき、
英文の朗読となれば、担任が舌を巻くほどに流暢に読み、
陸上の授業ではありとあらゆる種目でずば抜けた記録を叩き出す。
今もちょうど、走り高跳びの測定で華麗な背面跳びを披露し、県内記録を塗り替えたところだった。
「………しまった」
そして、ほむらはふと思い出す。昨日、自分は貧血で保健室に運ばれたということにしたのに、こんなにはっちゃけては駄目だろう、と。
そもそも元々は心臓病患いで貧弱な身体能力なのを、魔法で補強している時点でドーピングしているようなものだが。
案の定、ほむらの勇姿を眺めていた女子生徒たちが黄色い歓声を上げて駆け寄ってくる。
「暁美さ〜ん! すごーい!」
「きゃー! かっこいい〜!」
「タオル! タオル使う!?」
まどかとさやか、加えて仁美はその様子を傍目から見ている。まどかの瞳もほむらの周りの女子たちと同様に、きらきらと輝いていた。
「ほむらちゃん、かっこいいよね〜。憧れちゃうよー…」
「まどかは、あの中に交んないの?」
「私なんかが行ったって…私、運動なんて全然できないし、ほむらちゃんみたいに頭も良くないし、ぜんぜんダメだもん」
「まどかさんには、まどかさんの良さがありますのよ?」
「まどか…あんた、相変わらずそういうとこ、ネガティブだよねぇ…」
さやかは少し呆れたように半笑いで言うと、急に歓声がぴたり、と止む。
ほむらが女子生徒を制してまどか達の方へ向かってきたのだ。まどかは、ほむらのその行動に戸惑いを覚える。
「ほむら、ちゃん…どうしたの?」
「…ごめんなさい。また体調が悪くなってしまって…よければ、保健室へ連れて行って欲しいのだけれど」
「え、えっ!?」
それを見ていたさやかは、ピーン、と閃く。ほむらの顔色は昨日みたいに悪くなく、むしろ良い。それに、疲れた様子も見られない。
「王子様の登場ね、まどか?」
「さやかちゃん!? お、王子様って」
「あんたの事、ちゃんと見てるってことでしょ? 間違ってないじゃん。行っといで」
さやかに背中を押され、まどかは顔を若干赤らめてたじろぐ。
「も、もう…! い…行こっか、ほむらちゃん」
「ええ、お願いするわ」
まどかはぎくしゃくしながら歩き出し、その後ろについてほむらが歩幅を合わせる。転入2日目にして、2人の距離は大幅に縮まっていた。
「ああっ…これからお2人は、保健室という神聖な場所でお互いの愛を確かめ合うのですね! いけませんの! それは禁断の愛の形ですのよー!」
「はいはーい、とりあえず落ち着こうか仁美」
志筑仁美という人間の扱いにもすっかり慣れてきた、さやかの今日この頃である。
4.
保健室のような人気のなく、漂白されたように静かな空間にいると、ほむらはつい昔の事を思い出してしまう。
身体も弱く、入退院を繰り返していたせいで友達もできず、勉強もまるでついていけない。
病院のベッドでテキストを開く事もできたのだが、いつ消えるともわからない命の灯火。自分は所詮何の役にも立てずに消えて行くのだろう、という思いが強く、新たな事を始めよう、などと思えるはずがなかったのだ。
(今となっては、もうはるかに昔の話ね…魔法少女になって、どれだけの時を過ごしてきたか…もうわからないわ)
今の自分は、魔法によって作られたもの。虚構に塗れているのだ。まどかも、きっとそんな偽物の自分に憧れているに過ぎないのだろう。
まどかの笑顔の前で、ほむらは自嘲ぎみに微笑んだ。
「ねえほむらちゃん…今度は、どこが悪いのかな…? また貧血…?」
まどかは心配そうに尋ねてくる。魔法少女なのだから、そんな心配などいらないのに。
もっとも、身体は丈夫でもメンタル面まで規格外の強さ、ということはまずあり得ないのだが。
この優しさに甘えて良いのだろうか。きっと、一度甘えてしまえばもう離れられない。砂糖菓子なんて目じゃない。ひどい中毒性の麻薬のように、溺れてしまうだろう。
人を愛する、とはつまりはそういうことだ、とほむらは思う。しかし愛するからこそ、時には突き放さなければならない。
「もう大丈夫よ。私、人に囲まれるの慣れてなくて…駄目ね、使い魔相手には強気になれるのに。戦う事しか能がないのかしらね…」と、皮肉交じりに言う。だが、ほむらはこういう所がいちいち鈍いのだ。
自分が人間である事を否定する度に、まどかは良い顔をしない事に、まだ気付かないのだから。
「そんなことないよ…ほむらちゃんはとっても優しくて、かっこよくて、だからみんなほむらちゃんの事が好きなんだよ」
「まどか…貴女は私を過大評価しすぎよ。私は、目的の為ならどんな残酷な事だってできるのよ」
「それでも、だよ。だから…もっと自分を大切にしなきゃ駄目だよ? ほむらちゃんが傷付いて、悲しむ人だっているんだから」
「………!」
それは、かつてほむらがまどかに対して言った言葉と同じだった。魔法少女になる事でしか自分の価値を見出せなかった、かつてのまどかに対して、だ。そしてほむらは、そんな彼女を救う事はできなかった。
………いや、違う。
(私は…この言葉をどこかで言われている。他でもない、まどかから。でも…どうして? わからない…まるで思い出せない。)
胸がざわつく。心の中に、警鐘が鳴り響く。頭が、締め付けられるように痛みだす。
思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな。思い出すな──────
「───ほむらちゃん? どうしたの」
「…っ!」
はっ、として我に返る。背中には嫌な冷や汗が、心臓は未だ小刻みに緊張している。
(…今のは、何?)
ほむらは、自分でも何が起こったのか理解できなかった。ただ突然、まどかの発した一言を聞いた途端に何かがあった。そんな気がするだけだ。
…昨日からどうも、体調が乱れがちだ。休養が必要なのだろうか。
「…ごめんなさい。やっぱり、少し休んでいってもいいかしら。まどか、貴女は先に───」
「ううん、一緒にいるよ。だって私、保健委員だよ?」
てぃひひひ、と独特の笑い声をしてまどかは言った。その笑顔に、ほむらの心はみるみる癒されていく。
どんなに辛い事でも、投げ出したくなる事でも、その先にこの笑顔があるのなら、何度でも頑張れる。詰まるところ、暁美ほむらとはそういう人間なのだ。
『───2人とも、少しいいかしら?』
びくん! と2人は同時に身体を強張らせる。
「な、何今の!? いきなり頭の中に声が!?」
「落ち着いてまどか…テレパシーよ。魔法少女同士なら、誰でもできる。そうでしょう、巴マミ」
ついに接触を図ってきたか、とほむらはまどかの手を取り、警戒心を強めた。
『一応私、先輩なんだけどなぁ…まあいいわ、その通りよ暁美さん。今はキュゥべえを通して、鹿目さんにもテレパシーが通じるようになってるの』
「何の用かしら、巴マミ」まどかを巻き込みたくないほむらは、少し冷たくあたる。
『今夜、魔女を叩こうと思うの。あなたも手伝ってくれないかしら?』
「…建前なんて、必要ないわ。 私の実力を測りたいだけでしょう」
『否定はしないわよ。いきなり4人とも目の前から消えた時は驚いたけれど…瞬間移動か何かだ、って察しはつくわ。
それに、使い魔でさえああなら、親玉はもっと手強そうだもの。味方は1人でも多い方がいいと思わない?』
「どうしても、というなら考えておくわ。…ただし、行くのは私だけ。足りなければ、ルドガーをつけるわ」
『構わないわ。ところで鹿目さん、あなたは…』
手を握るほむらの力が、少し強まる。まどかを信じている。それでも不安なのだ。
信じていても、傷付いている他人の為に平気で自分を差し出してしまえる。まどかは、そういう娘なのだ。
「ごめんなさい…私、契約はしないよ」
『暁美ほむらにいろいろ吹き込まれたみたいだね?』キュゥべえの抑揚のない声が、会話に入り込む。
『まあいいさ。君さえその気になってくれれば、契約はいつでもできる。それこそ、大人になってもね』
それはつまり、大人になっても付き纏ってやると、遠回しに言っているのか。ほむらは声にこそ出さないが、不快感を抱いていた。
『それじゃ、また後で。放課後落ち合いましょう、暁美さん?』
そう言い残し、マミはテレパシーを切った。
保健室で佇む2人の表情は、決して明るいものとは言えない。
「やっぱり、行くの?」
「ええ。巴マミはともかく、魔女を倒すのは魔法少女の役目…いえ、義務。それには変わりないもの。…そろそろ、授業に戻りましょう」
「具合はもういいの?」
「私は魔法少女よ?」
またそういう言い方をして、とまどかは頬を膨らませる。
ほむらもいい加減慣れたもので、今度はそのふくれっ面を愛おしそうに眺めていた。
5.
すっかり日の落ちた通学路を、2つの影が寄り添うように歩いていく。
ほむらの提案でまどか、さやかと一緒に下校することにし、さやかは途中で道を別れたのだ。
「なんか…悪いよ、帰り道まで送ってもらっちゃって」
「気にする事はないわ、私が好きでやっている事だもの。私がいない時も極力、さやかと一緒に帰るようにしてちょうだい」
「うん、わかったよ。…でもほむらちゃんの家、方向真逆だよね?」
「私はいいのよ。貴女を守る方が大事だもの」
「ほ、ほむらちゃんってば…もうっ」
まどかの顔が一気に赤らむ。今日だけで何度赤面したか、もう数えるのも忘れた。
澄まし顔で髪を掻き上げるほむらの仕草ひとつとっても、艶めく黒髪が舞う姿に見惚れてしまうのだ。
そうこうして歩くうちに、鹿目家が見えてくる。2人で歩く時間は、あっという間に過ぎてしまうように感じた。
「………気を付けてね、ほむらちゃん」
「大丈夫よ、私はそう簡単には負けないわ。しぶとさだけは自信があるもの」
「もう…どうしてそういう言い方しかできないのかな? …本当は、私だって力になりたいんだよ?」
「その気持ちだけで十分よ。ありがとう」
また明日ね、と手を振ってほむらは背を向ける。まどかはその背中を名残惜しそうに見つめ、姿が見えなくなるまで玄関の前に立っていた。
6.
鹿目家の影が見えなくなるまで歩いた辺りで、ほむらは突然呼びかける。
「……いるんでしょう、巴マミ」
『あら、気づいていたのね』
「当然よ。そこまで鈍くないわ」
ほむらの呼びかけにテレパシーで応えるマミ。周囲に人気がないのを確かめると、ほむらの前に空から着地してきた。
かつん、と重力の法則を無視した軽やかな靴音をたて、気障ったらしく腕を組む。
「魔女の気配はここから東に少し離れたところからよ。行きましょ、暁美さん」
「構わないわ。ルドガーも先に向かってる」
「場所を、特定しているの?」マミは予想外の発言に、声が上ずる。
「統計よ。使い魔の動きからだいたい予想できるわ」
「ふぅん…キュウべえの言うとおり、不思議な娘ね。あなた」
自分にはそんな予想などできない。魔女は足で探すしかなかったのに、とマミは思う。
ともあれ、今は魔女の討伐が目的だ。この街を守る正義の魔法少女として、魔女を裁く。それこそがマミの矜恃だった。
7.
時同じくして。
うがいを済ませて自室に戻ると、まどかはあまりに予想外の来客に、間抜けな声を上げてしまった。
「き、キュゥべえ!? なんでいるの!?」
『やあ、まどか。いくつか確認したいことがあってね』
同じ動物でもエイミーとは大違いだ、とまどかは感じる。
どこか生き物らしくないというか、可愛らしい見た目はしてるのだが、可愛げがない。まるで人形が喋ってるように思えるのだ。
『暁美ほむらから、魔法少女についていくつか聞かされたようだね?』
「…うん。魔法少女はいつか魔女になる、そうだよね?」
『否定はしないよ。恐らく、付け加えるべき点はいくつかあるだろうけれど、ほむらの言っただろう事に訂正すべき点はないはずだよ』
「付け加える…?」
『ほむらの目的について、さ。大体の察しはつくよ』
その外見とは裏腹に能面のように変化のない顔つきに、まどかは心のどこかで畏怖を覚える。
そもそも、キュウべえの目的は魔女を増やすこと。自分は狙われているのだ、とまどかは改めて思った。
『彼女は君を魔法少女にさせない事にこだわっているけれど…君が魔法少女になった場合のポテンシャルは本当に計り知れないんだよ。
叶えられる願いは、その娘の潜在能力に比例する。力が強ければ強いほど、何でも叶えられるんだ。
君の場合は、宇宙の法則にすら干渉できるレベルだよ』
「でも…願い事を叶えたって、魔女にされちゃったら意味がないよ」
『魔女になるかどうかは君の努力次第さ。マミなんてもう4年も魔法少女をやっているんだから、やりようはいくらでもあるのさ。
でももし仮に君が魔女になったとしたら…そうだね、この世界を瞬く間に絶望で埋め尽くせるだろうね。
簡単に言えば、死の星になるのさ。ほむらはそれを恐れてるんだろうね』
「えっ………? 今、なんて」
『彼女は見た限り、自分の目的の為なら手段を選ばない娘だと思うよ。地球を守る為なら、どんな手だって使うだろうね。
それこそ、君を懐柔するなんて安い労力だろうさ。ご機嫌とりなんて、魔女と戦うよりはるかに楽だろうからね』
言った。確かに、ほむらは言ったのだ。
"私は、目的の為ならどんな残酷な事だってできるのよ"と。
まどかの顔から、血の気が引いていく。信じていた世界に、ひびが入っていく。
つまりほむらは、地球を守る為に自分を守っていたのか。考えたくないのに、そんな事を思ってしまう。
…自分の事を、好きではなかったのか、と。
『僕としては、何だって構わないんだけどね。君との契約がとれればノルマは達成できる。それともう一つあるんだよ、君に伝えるべき事が……聞いてるかい?』
「………そ……うそ……うそだよ……そんな……」
『はぁ…余程こたえたみたいだね? 僕は嘘は言わないよ。魔女のことだって、"訊かれれば説明する"さ。
それに、どうして君たち人間は裏切られた程度でそんなに取り乱すんだい? つくづく、感情というものは厄介だね。エネルギーとしては優れているんだけど、どうにもわからないよ』
まともに耳に入るわけがなかった。けれど、まどかは最後の一線で耐える。ほむらの零した、たった一言を思い出して。
"───この願いは私だけのもの。まどか、貴女の為だけのものよ" と。
「ほむらちゃんは…ほむらちゃんは、私を裏切ったりなんかしないよ! 好きだ、って言ってくれたもん! 私だって…ほむらちゃんの事………! だから、だからぁ…」
『僕には感情というものがないからね、君に同情はできないよ。それに、本気でいっているのかい、それ?
───暁美ほむらが魔女だったとしても?』
「………えっ?」
今度こそ、まどかはキュゥべえの言っている意味がわからなかった。
『彼女の能力は確かに特殊だよ。あのマミでさえ考察がままならないほどなんだから。まあ、大体の察しはつくんだけどね。
使い魔たちの目の前に、コンマ以下の秒数も置かずに時限爆弾や対戦車地雷が出現してたね。しかもあれは魔法で錬成したものじゃない。現存する兵器を設置したものだ。
僕の予想では、時間操作に関するものだと思うんだけど。だとしたら、4人まとめて消えたのも頷けるよ』
否定は、できなかった。何ひとつとして間違っていなかったからだ。
『そうだとしても、そんな規模の魔法は魔法少女のスペックでは扱えないよ。君ほどの素質があればわからないけれど、彼女のスペックは決して高くない。それに、彼女の魔力のパターンは魔法少女というよりは…魔女に近いんだよね』
「そんな…そんなデタラメ、信じないよ!」
『それは君の勝手さ。僕はあくまで"可能性"を話しているに過ぎない。時を越える程の力を持った魔女は、過去にも存在したからね。
そもそも、僕は暁美ほむらとは契約した覚えすらないよ。
確かめてみたらどうだい? ほむらは今、魔女と戦いに行ったんだろう? 場所なら、僕が案内してあげるよ』
ここでようやくキュゥべえは、まるで猫のように前足で頬を掻く真似をした。兎よりも遥かに長い耳が、ぴょこんと揺れる。
『僕としても、もしほむらが魔女なら対策を練らなければならないからね。マミの手には負えないなら、佐倉杏子にも援軍を頼む必要がある
し。僕はこれから確認に行くつもりだけど、君は───』
「……連れてって」
キュゥべえの事を信じたわけじゃない。ほむらの事を信じられなくなったわけでもない。
ただ、今のまどかはこの短期間に、あまりに色々な事を知り過ぎた。何が真実で、何が嘘なのか、わからないのだ。たとえ誰も嘘をついていないとしても。
それでも、今のまどかには決して譲れないものがひとつだけあった。
「ほむらちゃんは言ってくれたんだ。私に出逢えて本当に幸せだった、って。
………こんな私でも誰かが愛してくれるなら…私はその気持ちに応えたいんだ」
この胸の想いだけは、誰にも奪わせない。
まどかはキュゥべえに対して、強い意志を込めた眼で応えた。