1.
原初にして最後の
かつて"ミラ・クルスニク"だった彼女は自らをそう名乗り、宇宙の全てを喰らい無に帰す為に、刃を掲げ、鎧を纏った。
その姿でさえも彼女自身の本体ではない。
あらゆる存在を超越しつつある彼女には、既に魔法少女や分史世界の法則は当て嵌らないのだ。
マグナ・ゼロ内部の風景が一転し、全員はトリグラフを再現した街並みから、夜空が広がる草原へと場所を変える。
自らを"
『まさか君達、私に勝てると一瞬でも思ったわけじゃあないよね?』
マグナ・ゼロはイツトリの"分史世界"としての性質を司る結界であり、いわばイツトリ自身。言ってしまえば、ルドガー達はイツトリの身体の中にいるようなものなのだ。
さらに彼女は、マグナ・ゼロに取り込んだ救済の魔女から溢れ出た"穢れ"を取り込み、己の力としている。
全てにおいて、彼女はルドガー達に優っている。イツトリはそう確信した上で、敢えて言葉による確認を取った。
"もしかしたら勝てるかもしれない──────"そんな淡い希望すらも抱かせない為に。
だが。
「あなたこそ、私達が簡単に諦めるような連中だと思ってるのかしら?」
その瞳に強い意志を宿して答えたのは、同じくあらゆる理を超越した存在であるほむらと、
『…私は、私達は、絶対に諦めないよ!』
全ての時間軸の記憶を有し、その全てを受け入れ、その上で確固たる自我を取り戻したまどか。そして、
「…ミラ・クルスニク……いや、イツトリ。お前がどんな深い絶望を味わったのかは………理解しようとしてできる程度のものじゃないんだろう。けれど! どんなに辛くたって、俺達は必死に前を向いて生きてる。だからここまで来れたんだ」
今までに多くの分史世界を渡り、その先々で様々な生き死にを見続けてきた。…そして、その槍を以って多くのセカイを破壊し続けた。
そんな自分には、こんな事を言う権利はきっとないんだろう。ルドガーはそう自答する。
その上で、彼は言う。
「……だから、やらせない。俺達のセカイを、お前に壊させなんかしない!!」
絶対に譲れない強い思いと共に、決して消えることのない炎を胸に宿して、
2.
先陣を切ったのはほむらだった。
黒の翼をはためかせてイツトリとの距離を素早く縮めながら、格納庫に直結する小さな次元の狭間をいくつも開き、そこから無数の銃口を覗かせて魔力を流し込み、一斉にトリガーを引く。
相対するイツトリは一歩も動かずに、敢えてその銃弾を全て受けてみせた。が、虚無を司る骸殻は銃弾を受けても傷一つつかない。
ほむらのその攻撃を歓迎するかのように、イツトリは宙に舞う5本の槍を交錯させ、多角的な攻撃を返す。
「その程度!!」
ほむらは自身の一歩前の位置に障壁を張ってイツトリの槍を弾き、障壁を張ったまま前に飛び込む。
槍を防がれた事を自体には対して驚く様子もなく、イツトリは左手を空に掲げて精霊力を解放し、
『──────グランドダッシャー!!』
その手を地に向けて振り下ろし、草原の土を激しく削り飛ばしながら突き進む衝撃波をほむらに撃ち込んだ。
衝撃波はほむらの障壁と正面からぶつかり合い、一瞬だけ拮抗してみせたが、その直後に障壁を叩き割ってほむら自身へと襲いかかった。
「まどか、今よ!」
『うん!』
ほむらは障壁が打ち破られる寸前に次元の狭間を展開し、イツトリの放った衝撃波を吸い込ませ、イツトリの足元に創った狭間へとそのまま撃ち返した。
そのタイミングにぴったりと合わせるように、ほむらの背後に控えていたまどかが弓を放つ。
放たれた光の矢は一筋からいくつにも枝分かれし、弧を描きながら雨のようにイツトリに飛来してゆく。
そしてそれら全てを、やはりイツトリは身構える事すらせずに受けてみせ、凄まじい爆音と土埃を巻き上げる。
希望と絶望、相反する2つの力を混ぜ合わせた光の矢の破壊力は、本来ならばワルプルギスの夜でさえも深傷を負わせるに至る程のものだ。しかし、
『──────は、この程度じゃあ私は倒せないよ』
イツトリの骸殻には相変わらず傷一つない。周囲の土草が抉り飛ばされただけで、イツトリ自身には微塵もダメージがないようだった。
『だったら!』
「直接叩く!!」
そこへ、空間跳躍で直接イツトリの真正面にルドガーとキリカが飛び込んできた。
悠然として無防備を晒していたイツトリの身体に、鉤爪と破壊の槍が真っ直ぐに突き進む。
…が、その刃でさえもイツトリの骸殻に突き立てられる事はなく、ガキン! と鈍い音を立てて弾かれてしまった。
すぐにルドガー達は後方に跳び下がり、体勢を立て直すが、
『無駄だよ。この骸殻は少し特殊でね。この私自身が持つ"虚無"の性質によって殆どのダメージは無に還元される。君達の抱く微かな希望も、この骸殻の前には無に等しい、という事だよ』
『…………ゼロの、性質…!』
『もう1度聞こう。君達は、本当に私を倒せるとでも思ってるのかな? …ならば私は、その儚い希望を全力で叩き折ってやらねばならないんだがね!』
イツトリの周囲の大地から、それぞれ地・水・火・風の4つの属性を含んだ、4つの光の柱が噴き出す。
その光の柱はイツトリの頭上で収束し、4つの円が連なった巨大な魔法陣となり、その四方から膨大な熱量を持った光線が大量に射出された。
『スプリーム・エレメンツ=ゼロ!!』
圧倒的な精霊力による砲撃が、この場に唯一戦う意思を持って立つ5人へと襲い掛かる。
咄嗟にほむらとまどかが2人の力を掛け合わせて障壁を組み上げるが、それすらも金槌でガラスを叩いたかのように容易く打ち壊し、暴力的な波動が迫る。その時、
「──────スプリーム・エレメンツ!!」
まどか達の更に背後から、全く同じ波長を宿した精霊力の砲撃が飛来していった。
放ったのは、金の髪を大きく揺らしながら宙に浮かぶミラだった。
2人の放った必殺の波動はイツトリとルドガー、その2者の目の前で衝突し、大爆発を起こし周囲にエネルギーの余波を撒き散らした。
『……ふむ、流石は"ミラ"の名を受け継いだだけの事はあるね』
イツトリはどこか楽しそうに言いながら、宙に舞う5本の槍を数度回転させ、巻き上がった砂埃を綺麗に掻き消した。
「……悪いけど、この宇宙を滅ぼそうとしてるあんたと一緒にしないでもらいたいわね!」
『滅ぶわけじゃあない。私のセカイと融和させて、未来永劫に続く"虚無"という救済をもたらすだけだよ』
「ふざけないでよ! …あんたは、絶対に倒す!」
『……君もか、
「生憎だけど、希望なんかじゃないわ。……あんたを倒して世界を守る。それは必然よ!」
一度マグナ・ゼロと繋がり、他の分史世界内に込められていた波長を取り込んだミラの精霊力は、正史世界にいた頃とは比べ物にならない程に高まり出していた。
恐らくは、未だ正史世界に存在しているだろうオリジナルの"ミラ=マクスウェル"と比較しても謙遜ないくらいに。
これが、彼女に与えられた大精霊としての本来の力。
その力を、今再び解き放つ。
「行くわよ──────サンダーブレード!!」
ミラはイツトリの槍に対抗すべく、雷の精霊力で紡ぎ出した大剣を周囲に舞わせながら真正面から斬り込んでゆく。
手にすら握られていない互いの刃が空中で鍔迫り合い、じりじりと灼けるような音を立てながら拮抗する。
その間にもミラは次なる術を紡ぎ、
「バニッシュヴォルト!!」
大剣とは別に雷球を生み出し、そこから鮮烈な稲光をイツトリに向けて何発も放った。
それでもなおイツトリは一歩も動かず、わざとらしく両腕を広げてミラの放った雷を全て身に受けるが、やはり効いている様子はない。
『その程度か? やはり君と私とは根本的に違う、ということかな』
「黙れえぇっ!! ディバインストリーク!!」
ミラは雷球を中型の魔法陣へと瞬時に変質させ、その中央から精霊力の光線をイツトリへ放った。
その光線から漏れ出る熱風だけで、真下に生えた草花が焼け焦げてしまう程の熱量だ。しかしそれすらも、イツトリはたった片手一本で打ち消してしまう。
だが、その僅かな瞬間にミラはルドガーと共に精霊力を練り上げ、破壊の槍と光の剣を天に掲げた。
「喰らえ! 再誕を誘う──────」
『終局の
「『リバース・クルセイダー!!』」
その2つの刃の先から放たれた精霊力は天を貫き、強大な磁場を伴いながら空に穴を開け、全てを粉々に打ち砕く破壊力を持った雷となってイツトリの頭上へ真っ直ぐに墜ちた。
周囲の視界が白に染まり、草花が塵となって吹き飛んでゆく。
ミラ達の背後に控えているほむら達でさえも、障壁を張らなければ余波で吹き飛びかねない程の威力だ。
骨一つすら遺らぬ勢いの破壊力。普通に考えれば、これを受けて生きている筈がない。
だというのに、
『──────────無駄だよ、我が末裔』
イツトリの槍のひと薙ぎで、全ては掻き消されてしまう。
『君達は、根本的に間違えているよ。私を倒すことができる、君達はその前提で行動を起こしているけれど、それは絶対に不可能だと言う事に気付いていない。
…いや、認めたくないだけだ。何故なら、その"あり得ない可能性"こそが君達の抱く希望なのだから』
「……言って、くれるわね…!」
『もっと分かりやすく言おう。私を倒す方法など、ないんだよ。そもそも仮にこの身体を廃せたとて、その程度では私自身には何のダメージもない。君達はただこの"人形"と戯れているに過ぎない。…これでもまだ君達は私と戦う気だというのなら、仕方ない。せめて殺さない程度にわからせてあげよう!』
イツトリの周囲の槍が、一斉に上を向いた。
空から降り注ぐように、地表から吸い上げられるように、どす黒い魔力が加速的に集約してゆく。
イツトリ自身の精霊力と、魔女としての魔力が融合し、ひとつの膨大な力となる。
その力の出力は例えるならば、ほむらが黒翼の力で放つ全力に等しく、あるいはそれを遥かに上回るだろう。
「させない!!」
ほむら達は一斉にそれぞれが可能とする最大限の攻撃を再開するが、もはやイツトリは己の意思以外では指一本でさえも動かず、全ての攻撃を白の鎧で無力化する。
そして漂う5本の槍の鉾先から、イツトリの溜め込んだ力全てが空へ向けて放出される。
その黒白の光は雲を貫き、星を呼び起こし、ぶつかり合い、銀河のような渦となり、イツトリ自身が立つ地表へと膨大なエネルギーの波動が滝のように降り注ぐ。
『さあ、思い知れ──────ラストヴァニッシャー!!』
解き放たれた力は、絶対なる絶望。
『ほむらちゃん!!』
「ええ、わかってる!」
無限の魔力容量を持つ2人はそれぞれの力を尽くして、何物をも弾き返す強固な障壁を組み上げる。
が、イツトリ自身は、そしてイツトリの放つ攻撃の全ては虚無の性質を持つと語られたモノ。まどか達が張った障壁を、まるでシャボンの膜に息を吹きかけるように簡単に破壊した。
『そんな…!?』
「だめ……間に合わない!! きゃあぁぁ!!」
女神と悪魔、双極の位置に立つ2人がイツトリの波動に飲まれ、吹き飛ばされる。
当然その2人に防げなかった攻撃を防ぐ方法など残されておらず、イツトリ自身以外の全ては虚無の光に飲まれてしまった。
美しくも儚い草花は荒れ果てた土と成り果て、引き裂かれた夜空はもはや何も映さない。
白く輝く虚無の骸殻だけが、その場に唯一泰然として君臨するだけだった。
だが、
『…………む、この一瞬でとは…』
焼き祓われた草原には、イツトリ以外誰もいなかった。
星々の衝突より産まれし波動を放ってもなお、イツトリは殺してしまわない程度に手加減した、つもりだった。故に亡骸すら残らず塵となる、とまではいかない筈だ。
では、とイツトリは考える。波動に飲まれる直前、秒数にして0.7秒ほどだろうか。その瞬きをするかのような一瞬で、このマグナ・ゼロの何処かへと強引に転移して逃げたのだろう。
『愚かな。このマグナ・ゼロには距離という概念などない。私がその気になれば一瞬で追いつけるというのに……』
ならば、とイツトリはゼロ骸殻を解きながら、ひと呼吸置いて考える。
『ふ、ひと時の猶予をくれてやるとしようか。君達がどんな希望を携えて私の前に現れたとしても、私のやる事は変わらない。君達の抱く希望を、なんの小細工もなしに、真正面から叩き折る。
むしろ、大きな希望を抱いてくれた方がわかりやすいかしらね。大きければ大きいほど、折られた時のショックは増す。……そして最後にはこう思うだろう。2度と希望など抱くまい、と』
──────その時こそが、君達の最期だ。
イツトリは誰もいなくなった草原に、吐き捨てるように呟いた。
3.
イツトリの攻撃から逃れる為に全員が逃げ込んだ先は、"ザイラの森の教会"を模したエリア…ミラが自身の領域として保有しているエリアのうちの1つだった。
全員は肩で息をしながら、イツトリの圧倒的な力に戦慄を憶えていた。
「……なんなの……あの力…!」
誰よりも早くそうぼやいたのは、無限の魔力を擁する筈のほむらだった。
今の彼女は全力を振るうことができない状態にある。しかしそれでも、救済の力を我が物としたまどかと一緒ならば敵うはず。少なくとも、数分前まではそう思っていた。
しかし、その希望を真正面から打ち砕かれた。2人の全力の魔法によって編み出した障壁は容易く割られ、ミラが有しているこの領域まで咄嗟に転移しなければ、全滅していただろう。
『………あれが、"原初の魔女"の……私達よりも強いだなんて…』
ほむらと同様の事を、まどか自身も考えていた。
神代の力を手にしたばかりではあるが、統合された他の時間軸の記憶によって、まどかはその力を"人間の限界を超越しない範囲で"使いこなせる。
或いは、魔女としての力すらも限界を振り切って使えば防げただろうか。まどかは俯いて考えたが、すぐに首を横に振った。
イツトリはもはや魔女ではない。もっと別の何かなのだ。
イツトリはもう時歪の因子ですらない。もっと別の何かなのだ。
「ミラさん…だったわね。率直に訊くわ」
ほむらは柏手を打ち、イツトリに意識を奪われた3人の少女達を含め、全員を連れて教会の中へと転移しながら尋ねた。
魔女の領域とはいえ、外は雪が降っている。それに、意味はないかもしれないが戦えない3人をイツトリから隠す必要があるのだ。
そしてほむらは、核心を得るべくミラへの質問をつづける。
「あなたは、イツトリの一部なのよね。…ヤツの弱点とか、何でもいい。知ってる事はないかしら?」
「弱点……それは私にもわからないわ。私はマグナ・ゼロに統合されたとは言っても、意識までは統合されたわけじゃあないから。このわずかな領域を与えられただけに過ぎないのよ」
「…なら例えば、この領域から他の領域へ力を及ぼす事はできないのかしら?」
「それは…限りなく不可能に近いわ。私の保有する領域は、マグナ・ゼロ内のおよそ0.01%。それともうひとつ、まどかが保有している領域が約0.04%…そこから何か仕掛けようなんて無理よ」
「…合わせても0.05%………」
数字で言われたところで、どれ程の規模の領域なのかは測りかねた。
だが、"救済の魔女"の力は地球を容易く覆い尽くし、果ては宇宙規模で影響を及ぼす事ができる。
なのに、このマグナ・ゼロ内では0.04%しか領域を保有していなかったという事だ。
"救済の魔女"は地球規模で言うならば最強最悪の魔女だ。ならばイツトリはそれ以上の、本当に宇宙規模で最強最悪の力を持っているという事なのだろう。
『ほむらちゃん、1こだけ気になる事があるんだけど…』
と、女神の姿をしたまどかが真剣な表情で口を開いた。
『さっきイツトリは、"ルドガーさんの力はイツトリを阻害する可能性がある"って言ってたよね。…ルドガーさんの、骸殻の力の事なのかな』
「…いや、きっとそれだけじゃない」と、代わりに答えたのはルドガー自身だった。
「俺には、骸殻の他にもうひとつ力が備わってる。……"クルスニクの鍵"、大精霊オリジンの力の欠片だ」
クルスニクの鍵は、ルドガーが扱う破壊の槍として具現化されるが、本来は骸殻とは少し異なる力だ。
本来不可逆である分史世界から正史世界への移動を可能とする他、時の大精霊クロノスの力を真っ向から封じる事ができる。
それだけに留まらず、かつてまどかに契約を結ばせようとしたインキュベーターを穿ち、それを未遂に終わらせた事もある。
「! ………そうか」
そこでルドガーはふと気付く。
インキュベーターに対して唯一の特効手段としても有効であるならば、他の思念体や概念体に対しても特効を得る事ができるのでは、と。
そしてイツトリとは、そういった類に分けられる存在になってしまっているのでは、と。
「…けど、今のままじゃダメだ。俺達の攻撃は、この槍も含めてイツトリには全く効果がなかった。なにか絡繰があるはず…まずはそれを何とかしないと、歯も立たない」
火力の問題ではない。
イツトリの纏うゼロ骸殻は、あらゆる攻撃を文字通りゼロに変えてしまう。まるで掛け算のように、どんなに大きい数字をぶつけようと、そこに0という数字を1度掛ければゼロと化してしまうように、だ。
その場合、クルスニクの鍵の力をフルに発揮できたとしても何処まで通用するのか。
少なくとも、現状のままではクルスニクの鍵の力でもイツトリに傷ひとつ与えられない。何か他の方法で突破口を開かなければならない。
「………ゼロ、か」
呟いたのは、ようやく元々の自分の身体が馴染んできたキリカだった。
「例えばだけど、ルドガー。ゼロにできない物をぶつけてみる、ってのはどうだい?」
「ゼロにできない…もの…?」
「…ううん、忘れてくれ。なんとなく思いついただけなんだけど、具体的には………」
「……いや、悪くないかもしれない」
キリカの何となしに思いつきで言った言葉を反芻し、ルドガーは考えを巡らせる。
時間は多くはない筈だ。ミラとまどかでマグナ・ゼロの領域の0.05%を押さえているとはいっても、ここは元々はイツトリの身体の中同然。いつ攻め込まれても不思議ではないのだ。
そしてこの状況下。
ほむらは無限の魔力を有しながらもその全てを出力しきれない状態で、まどかは救済の力を手に入れたものの、自我を取り戻した今は人間の身体にその力を宿しているような状態で、全力を発揮すれば身体が耐えられないかもしれないし、人間としての意識が今度こそ内側から塗り潰されるかもしれない。
本来ならば、2人に今以上の無茶は強要できない。
「ゼロにできないもの………ほむら、確認したいんだけど」
「何かしら、ルドガー」
それでも、試してみる価値はある。
ゼロに変える特性によってゼロにできないもの。
それは即ち、プラスでもマイナスでもないもの。そしてそれを生み出せるかもしれないのは。
「ほむらのその力…"悪魔"としての力の特性…性質は、魔法少女と魔女、どっちに近いものなんだ?」
「…それらは希望、もしくは絶望によって力を得ているモノ。でも私の力は、まどかへの想いを力に変えている、そのどちらでもあり、どちらでもないものよ。…あなたの考えてる事はなんとなくわかるわ。希望でも絶望でもない私の力なら、イツトリに攻撃できるかもしれない…そう言いたいのでしょう?」
「ああ。…でも、確証なんてない」
「どの道、ヤツをなんとかしなきゃこの宇宙が滅んでしまうのよ。…私達の地球みたいに」
ほむらはなんとか脳裏に纏わりつく絶望感を追い払おうと、語尾をやや荒げながら呟いた。
それは何の悪意もなく、決して当てつけのつもりでもないただの呟きだったのだが、その言葉に胸を刺されるような痛みを感じた者がいた。
『……ほむら、ちゃん………』
それは他でもない、まどかだった。
「! ち、違うわ! そんなつもりで言ったんじゃない! 第一あれはあなたがやったのではなくて……」
『…ううん、私がやったんだよ。私が、"鹿目まどか"という存在が……私のせいで………!』
今のまどかは、全時間軸においての"鹿目まどか"の意識と、記憶が集約した状態。
たとえそれがまどか自身ではなく救済の魔女が為した愚行だとしても、他ならぬ"自分自身が"やってしまった事なのだ、という確かな記憶として刻まれているのだ。
そして地上から昇華された人々の魂は、未だ救済の魔女の領域の中に取り込まれているままだ。
仮にこのままイツトリを止められず、全宇宙に絶望がもたらされてしまえば、彼らの魂は本当の意味で死を迎えてしまう。
そしてそれは、ただの人間としてのまどかにとって耐えられる程度の記憶なのだろうか。
まどかの表情は青ざめ、心の内から絶望が滲み出し、その白い翼に墨を垂らしたような染みとなって浮かぶ。
希望と絶望という双極の性質を併せ持つまどかの内なる感情が、魔女としてのソレに僅かに傾きかけた痕跡だ。
「よく聞いて、まどか」
そんなまどかに、ほむらは正面から向き合って言う。
「…私の言い方が悪かった。まだ地球が滅んでしまったと決まったわけじゃないわ。……今なら、まだ間に合う筈よ」
『でも…私達の力はあの人には通じなかった…! ダメなのに…勝たなきゃ、ダメなのに……』
「…ええ、そうね。……でも勝てないからなんて、そんなコトは諦める理由になんてならないわ。…どんな事をしてでも、敵わないとしても、今ここにいる私達が諦めてしまったら、もう2度と誰もイツトリに手出しできなくなってしまうのよ!
限りなくゼロに近い可能性だとしても、イツトリを倒す事ができるのは、今ここにいる私達だけなの! だから、絶対に諦めるわけにはいかないのよ…!」
どうして、と。
ほむらの言葉を受けたまどかが第一に思ったのは、その一言だった。
どうしてこんなにも、彼女は凛としていられるのだろうか。
60億余りの命を危険に晒している、という重さが掛かったまどかの両手は、先程からずっと震えが止まらないというのに。
200以上の世界でほむらを見続け、その移り変わり全てを識ったつもりでいた。けれど、まどかは本当の意味でのほむらの強さというものをちゃんと理解していなかったのかもしれない。
ほむらは決して強かった訳ではない。時を操る強大な固有魔法を授けられたとしても、魔法少女としての地力は並以下。
悪魔として性質を変えた今でさえ、願いを叶えるまでに至ってはいない。
何度となく心をへし折られるような絶望に苛まれ続けてきた筈だ。それでも、たった一つの願いを握り締めて、立ち上がり続けてきたのだ。
それは今も変わりはしない。そしてそれは、かつてほむらがまどかの中に見た在り方と似たものがあるのだが、今のまどか自身がそれに気づく事はなかった。
ただ、顔を上げてまどかは、
『…………私、戦うよ』
白い翼に滲み出た絶望の黒を祓い退け、立ち上がった。
『ミラさん、手伝ってくれますか?』
「いいけど、何を?」
『私達の保有する領域の力を使って、マグナ・ゼロの核…時歪の因子を探します。イツトリを倒すには、直接核を攻撃するしかありません』
「……確かにそれしかないわね。でも、その間私とあなたは一切の無防備になるわよ」
ミラはまどかの提案にやや難色を示すが、表情は柔らかく、否定を示している訳ではないとわかる。
それは、自分達が無防備になってしまおうと、その背中を預けられる存在がいるからだ。
『任せろ、ミラ。俺達がイツトリを抑える』
「まどか、あなたには指一本触れさせやしないわ」
腹は決まった。
イツトリは間違いなく、ミラとまどかに核を特定されない為にここへと攻め込んでくるだろう。
この教会周辺の領域が、決戦の場となる。残る力全てをぶつけ、絶対なる絶望に抗う為に。
希望でも絶望でもない、何者にも消すことのできない力を、その身に再び纏う。
4.
ザイラの森の教会から、建物を突き破るように白い光が空へと伸びる。
その光は遥か雲の上で拡散し、世界中へと拡散するように…正確には、時歪の因子の反応を探し出す為に、他の9割以上を占めるイツトリの領域へと突き進む。
そしてそれとほぼ同時に、空間を人1人通れる分だけこじ開けて、白の骸殻を纏ったミラ・クルスニクがミラの領域へと容易く入り込んできた。
それを待っていたとばかりに、白く積もる雪の大地を踏みしめてほむら・ルドガー・キリカの3人が構えていた。
イツトリは光筋の出処である教会を一瞥し、
『なるほど、さしずめ君達はお姫様を護る騎士隊、といったところかしら』
5本の白い槍を自身の周囲に錬成し、漂わせながら言った。
『無駄だよ。このマグナ・ゼロは無限の容量を持つ空間だ。彼女達が力を合わせ、ほんの僅かな領域を集約したとて、核なんて見つけられやしないさ』
『……仮にその通りだとしたら、このタイミングでお前がここに入り込んでくるとは思えない』ルドガーは負けじと、イツトリに対し言い放つ。
『ふむ、ではその根拠を聞こうか』
『本当に見つけられないのなら、放っておけばいい。なのに、探し始めるとほぼ同時にお前はここに現れた。…見つけ出すのは不可能なんかじゃない。少なくとも、お前がわざわざ今ここに現れたのには、それをされたくない理由があるからだ!』
『それもまた、"希望"的観測だね。忘れたのかい、我が血族。私は君達を救う為にここにいるのだということを!』
5本の槍の内の2つが、その鉾先をルドガーに向けた。
イツトリは悠然と歩み寄りながら槍を踊らせ、ルドガー達への攻撃を開始する。
先頭に立つルドガーは黒槍を双剣に分かち、2本の槍との鍔迫り合いを始め、その背後ではキリカが鉤爪を構え、前傾姿勢から加速をかけて戦域を駆け抜ける。
魔女としてのキリカが保有している能力は大幅に変質しており、以前のように遅延術式を使用する事はできない。
が、代わりに得た膨大な魔力をブースターのように放出し、一瞬でイツトリの目の前にまで飛び込んだ。
そして、
「はあぁぁっ!!」
喉笛を搔き切るように鉤爪を振り上げる。だがその刃は白の骸殻に触れると同時に、分厚い空気の層で押し戻されるような感覚と共に弾かれた。
「………ッ!」
『君程度の力では、傷ひとつつけられやしないよ』
イツトリの視線が微かにキリカの方へと向き、白の槍の1本が狙いを定める。その瞬間、
「残念だけど、あなたに傷を与えるのは─────」
「私よ、イツトリ!!」
キリカとほむらの位置が、転移術式によって瞬時に入れ替わった。
直前までキリカを狙っていた白の槍は何故かあらぬ方向を向き、ほむらのいる場所には届かない。
そしてほむらは既に黒弓を目一杯まで引ききっており、どす黒い色をした光の矢を番え、ゼロ距離でイツトリ目掛けて撃ち放った。
『───く、』
今まで防御的な動作を一切取らなかったイツトリが、初めて身じろいでみせた。
何らかの防御術式を展開しようとしたようだが間に合わず、白の骸殻に黒の矢が───高エネルギーの塊が叩き込まれ、骸殻を貫き、凄まじい轟音を掻き立てた。
『………はァッ……、やるじゃあないか、暁美ほむら…!!』
イツトリの腹部は衝撃波によって骸殻ごと吹き飛び、身体のバランスは完全に失われていた。
そのように、見えたはずだった。
だが、イツトリの上半身は腹部で分断されたその状態のまま、一切揺らぐ事なく言葉を紡ぐ。
『……君の力は希望によるものでも、絶望によるものでもない……"愛"などという、実に人間臭い力によるもの。君は自分でそう語っていたね……!』
「…ええ、その通りよ!」
『ふ、とうに人間を辞めた君には相応しくない力だ…そしてそれが、その程度が! 今の君の全力だということだ!』
ぐじゅり、と肉が蠢く音がした。
千切れた半身が、地面から滲み出てきた黒い霧を取り込み、元の通りに肉を創り出してゆく。
その光景はさながらに、かつて戦った、再生能力を獲得した薔薇園の魔女を彷彿とさせた。
『無駄だ、と言ったはずだ。この身は私自身の移し身であり、虚像。屠る事などできはしないし、屠れたとて意味はない、と!』
「いいえ、無駄なんかじゃあなかったわ!」
『…ッ!?』
「今の一撃で、あなたの力の正体をある程度見極める事ができた。…あなたのその骸殻は、確かに"虚無"の性質を持つ。けれどそれは単なる結果でしかない!
希望の性質を持つエネルギーに対しては同量以上の絶望をぶつけ、マイナスのエネルギーはそのまま飲み込んでしまう。そうする事によって、結果的にエネルギーが打ち消されているように見えているだけに過ぎない!
その骸殻…肉体を再生している魔力の性質が絶望のみである事がその証明。…あなたは単に、虚無だなんて嘯いて絶望をその身に宿しているに過ぎないのよ!」
だからこそ、プラスでもマイナスでもない、不意を突いたほむらの一撃を完璧に打ち消し切る事ができなかった。
けれどそれだけでは、まだイツトリを倒すだけの決定打にはなり得ない。
『この一撃でそこまで看破できたのは、流石と言っておこう。だが、この骸殻の根源が絶望であると見抜いたとて、それで状況が覆るとでも?
確かにその理論でいくならば、私の力を上回るには、それ以上の希望のエネルギーを用いればいい。だが私の力は無限大であり、底が尽きる事はない。それを上回る事など不可能!
今からそれを証明してみせよう──────絶対なる絶望の力を以ってして!』
イツトリの背中から、青白く輝く4枚の光の翼が顕出した。
舞い散る雪に溶け込むようなその白は、とても絶望を宿しているようには見えない。しかし明確な害意を以って放たれた翼は、無機質な白の輝きと共に大きく広げられる。
それはまるで、色彩こそ違えどかつてほむらが度々用いていた黒翼にも似た、全てを打ち砕く破壊の翼。
木々は吹きすさび、空は啼き、大地が揺らぐ。イツトリの持つ絶望の魔力のほんの片鱗を、今再び浴びせんと空を仰ぎ、力を解き放つ。
それに対して、ほむらのやる事は既に決まっていた。
イツトリの一撃を完全に防ぐ事はできない。ならば──────
「ルドガー!!」
『応!!』
悪魔としての今持てる力全てを、ルドガーの掲げる槍に集約する。
時歪の因子を破壊し、概念すらも穿つことができるクルスニクの鍵の力と融合させ、その形状を矢へと変化させ、解き放った。
『スプリーム・エレメンツ=ゼロ!!』
『「天威浄破弓!!」』
両者の放った波動が衝突し、拮抗し、周囲の空気がビリビリと振動すると共に閃光が迸った。
だがイツトリの魔力は無尽蔵であり、その矢を何発も撃ち込んだところで、拮抗を保ち続ける事は最初から不可能だとわかっている。
故にほむら達は敢えて光線のような持続照射型の攻撃ではなく、無数の光の矢で攻撃する事を選んだ。
そしてルドガーは、浄滅の矢を放った直後に空間跳躍でイツトリの背後へと飛び、破壊の槍を投擲する。
それに反応したのか、イツトリの周囲を舞う5本の槍が交差して盾のように重なり、振り返る事もなくルドガーの槍を防ぐ。
『その程度のブラフ…読めていたよ、ルドガー!』
直後、ルドガーの立っていた位置に暗雲舞う空の上から迅雷が轟いた。
正確には、イツトリが発生させた魔法による攻撃だ。
その速度はゆうに秒速200キロを超え、人間の反応速度では回避など絶対に不可能なもの。
だが、稲妻が降った先には既にルドガーの姿はなかった。
『な、に…!?』
「──────もうひとつだけ、分かった事がある」
その声は、イツトリの真上から聞こえた。
直後、煌びやか装飾の施された白い双剣の刃が、左腕を斬り落とした。
『──────ぐぅっ…! 反応が追えなかった、だと…!?』
イツトリはほむら達の放った浄滅の矢にも、その影から放った槍の一撃にも完璧に対応してみせた。
いずれも、甚大なエネルギーが込められた必殺の攻撃だった。
が、確かにイツトリの左腕を斬り落としたのは、双剣による自由落下の力を乗せた物理攻撃。
もっと言うならば、骸殻を解除したルドガーによる斬撃だった。
「さっき、キリカを狙った槍を見て分かった。お前は実際にその目で俺達を認識して攻撃しているんじゃない。俺達の持つ魔力や精霊力を探知して、それに対して攻撃してるだけだ!」
それはほんの一瞬の出来事に過ぎなかった。
キリカとほむらの位置を入れ替えて奇襲をかけた時、キリカを狙っていたはずの槍は、そのままの軌道をとればほむらを貫ける位置にあった。
だが、槍は別の方向を向いた。ほむらと入れ替わり後方に転移したキリカの方を、だ。
ルドガー達を直接見ている訳ではない。魔力を探知して目で見ているかのようにみせかけていただけ。
それを直感的に察したルドガーは、それを暴くために揺さぶりをかけたのだ。
『──────成る程、それを見極める為に敢えて場を引っ掻き回すように、デタラメな魔力の使い方をしていたというわけか…!』
イツトリが正確にルドガーの反応を探知できなかったのには理由がある。
ひとつは、ほむらとルドガーによる前後からの攻撃によって振り回された事。
この空間自体が、教会の中からミラとまどかが放っている魔力によって、魔力の飽和状態になりかけている事。
そして、空中に転移した直後に咄嗟に骸殻を解いた事で、イツトリが骸殻の反応を見失ってしまった事。
「…これは"賭け"だった。本体を探そうとすれば、お前はその移し身で乗り込んでくると思った。
ミラ達が探していたのはマグナ・ゼロの中じゃない。最初からお前が本体に送っている情報を追跡していたんだ! そして、それももう突き止めた!」
光の柱が昇る教会の屋根を更に突き破るように、純白の羽根を大きく広げたまどかが飛び出していった。
まどかはそのまま光の柱に沿ってミラの領域を飛び出し、
「行け! ほむら!!」
「後は頼んだわ! ルドガー!」
ほむらもその場から空に転移して、まどかと同様に光の柱を辿って飛び去っていった。
『く、行かせるものか!!』
それを見ていたイツトリは、斬り落とされた左腕を徐々に再生させながら後を追おうとして術式を組み上げる。
「──────悪いけど、あんたは行かせないわよ!!」
遠方から、イツトリに向けて声がした。
一通りの役目を果たしたミラが教会を飛び出し、イツトリに向けて捕縛術式を放ったのだ。
イツトリの身体は無数の光の輪に縛られ、編んでいた術式をも遮られる。
『………まんまとしてやられた、というわけか』
捕縛されたイツトリは観念したかのように、抵抗せずにそう呟いた。
ルドガー、ミラ、キリカ。残された3人がイツトリを取り囲んで様子を窺うが、決して気を緩めなどせずに刃を構えたままだ。
むしろ、逆だ。イツトリほどの力があるならば、ミラの術式など容易に破れるはず。なのにそうせずにいるのは、何故なのか。そういった疑念が3人の脳裏に浮かぶ。
『……君達を、侮っていたようだね』
「…………イツトリ、お前は…」
『いやまったく、君達がこうもしぶといとは……そこまで愚かだとは思ってもみなかったよ』
イツトリからしてみれば、無為な希望に縋って生きるという事は、茨の道を進んで行く事と同意義だという。
それならばいっそ、絶望に身を委ねて考えることを辞めてしまう方が楽なのだ、と。
それこそがイツトリの言う"真の救い"。
…ルドガー達とは絶対に相入れることのない理念。
しかしルドガーは、その言葉自体に対してすらも疑念を抱いていた。
「…イツトリ。お前は本当に、絶望によって世界を閉ざす事が救いだと考えているのか?」
『ああ、そうさ。 そしてそれは私にしかできない』
「俺はそうは思わない。…人は、どんなに辛い事があったとしても乗り越える力がある。俺はそう信じてる」
『それは君が真の絶望を識らないからさ。…最愛の兄をその槍で殺め、数多の分史世界を破壊し、そして、自らの存在を糧とし………"その程度の絶望しか"識らないからこそ言えるんだよ。
私は、この私自身の絶望しか識らない訳じゃあない。数多くの世界を、その絶望ごとマグナ・ゼロに取り込み続けてきた。そうしていく内に私は理解した。…確かに君の言うように、乗り越えられる程度の絶望しか識らないヒトもいたさ。だが、決して乗り越えられぬ絶望を抱えたヒトも大勢いた。
ビズリー・カルシ・バクー! 君の父とてその1人だったさ』
「…何が言いたい……!」
予想だにしなかった名がイツトリの口から零れ出た事で、ルドガーの表情が険しくなった。
『君の父親も、産まれたその時からクルスニクの呪いに縛られていた。そしてクロノスに牙を剥き…力及ばず、愛する妻を殺された。
…その後彼はその人生を、クロノスを討ち精霊への復讐を果たす事のみに費やした。それ程までに、彼は深い絶望に苛まれていたのさ。
そして彼を突き動かしていたのは、"クロノスを打倒する"というたったひとつの儚い"希望"──────彼は絶望を乗り越える事ができなかった。だからその絶望を"希望"へ挿げ替える事で、絶望を受け入れる事にしたのよ。…君はその背中を見ていたはずだ。それでも、乗り越えられない絶望などないと言い切れるのかい?』
「…………っ、……」
否、と断じる事はできなかった。
確かにビズリーを突き動かしていたのは、イツトリの言うように"精霊への復讐"。正史世界の守護やオリジンの審判ですら、目的を果たす為の手段でしかなかった。
肉親を利用する事さえも、躊躇わぬ程に。
彼は最期の瞬間、救われたのだろうか──────そう問われても、首を縦に振る事はできないだろう。
『…哀れなものだ。そんな"希望"など忘れてしまえば良かったのに。君とてそうだ、ルドガー・ウィル・クルスニク。クルスニクの宿命など識らなければ──────君の兄・ユリウスが君を守ろうとしたように、只のヒトとして生涯を終える事ができれば、兄を手にかけるような事になどならなかった筈だろう?
無意味なんだよ、全て。………さて、そろそろ辿り着いた頃かな?』
そしてイツトリは。
パキン、とまるで絹糸を引きちぎるかのようにいとも容易く、ミラの施した捕縛術式を破壊した。
「なに!?」
『こんなチャチな術じゃあ私は縛れないよ。では、君達の言う希望──────それがどの程度のものなのか、見させてもらうとしよう』
瞬間。
雪が静かに降り積もる森の景色が、全く別の景色へと移り変わった。
錆びついた歯車が幾つも絡み合い、むせ返るような濃密な瘴気の立ち込める領域へと。
「………そんな、ここは!?」驚嘆するルドガーの声が木霊した。
『そう。……分史世界には決して存在し得ない領域。この場においては、君と私のみが知り得る場所─────
イツトリは白の鎧に覆われた腕を伸ばし、瘴気に満ちた先を指差した。
そこには、濃密な瘴気越しにでもはっきりと感じられる柔らかな光を放つ翼と、瘴気越しでも見て取れる程の漆黒の翼をもつ少女達がいた。
5.
──────その数秒前。
イツトリの分体…ゼロ骸殻を操るミラ・クルスニクから発せられていた反応を追跡していたまどかとほむらは、黒く錆びついた歯車が幾つも絡み合い、むせ返るような濃密な瘴気の立ち込める領域へと辿り着いていた。
そこは正史世界において"カナンの地"と呼ばれていた場所。……正史世界にのみ存在し、分史世界の集合体でもあるマグナ・ゼロには、決して存在し得ない筈の領域。
そのさらに奥…救済の魔女でさえも立ち入った事のない、巨大な壁のような扉がそびえ立つエリアへと、2人は辿り着いた。
「ここに、イツトリの本体が……」
『…反応はここに届いてる。たぶん、あれだよ』
救済の魔女としてマグナ・ゼロの中に存在していたまどかでさえも見た事のない、イツトリの本体と思われる物体。
それはある意味では人間だが、もはや人間とは程遠いモノ。
巨大な脳が透明な膜に包まれ、大地に向けて植物の根のようなモノが伸び、それを軸にしている。
イツトリが送っていた反応は、その巨大な脳へと届いているようだった。
視界に入った途端に、ほむらは言い知れぬ不快感、或いは畏怖にも似た何かを感じた。
ただ、まどかだけは真っ直ぐにソレを見据えて、白く輝く羽根を広げて光の弓矢を番える。
「まどか、あなたは………」
その弓矢の輝きを見たほむらは、驚嘆せずにはいられなかった。
まどかが紡ごうとしているのは、破壊・殲滅の為の力ではない。自身の持つ浄化の光を、その矢ひとつに全て集約しているのだ。
善性と悪性、その両極を併せ持つ今のまどかならば、絶大なる破壊の力を用いる事すらも可能であるだろうに、そうしなかったのだ。
そしてそれが、まどかの出した答え。
「……まさか、あなたはあのイツトリでさえも救おうというの…?」
『うん。……あの人は、とても深い絶望に囚われてる。酷い裏切りを受けて、この宇宙全てのものを信じられなくなって……自分と同じように、全てのものに対して絶望を与えようとしてる。
あの人がやろうとしているのは、救いなんかじゃない。復讐なんだ。……そんな事をしたって、悲しさと虚しさしか残らない』
「だから救う、と?」
『………うん。だって、私はその為に魔法少女になったんだから』
全ての魔法少女に救済を─────────まどかにとっては、その願いにはイツトリも含まれているのだ。
だから、撃つ。この永遠に続く絶望の連鎖から、彼女を解き放つ為に。
それでこそまどかなのだろう、とほむらは思った。そしてそれは、全てを諦めまどかを救う事のみを願ったほむらには、決して出来ない事だ、と彼女自身は思う。
そんなほむらの思いを感じ取ったのか、まどかは言う。
『そんな事ないよ。…ほむらちゃんにだってできる。だって、みんなの命を、絶対に諦めなかったからこそここまで来れたんだよ。誰か1人でも欠けてたら、きっとここまで来れなかった』
「………ええ、そうよ。あなたを救うために、あなた以外の全てを諦めた、そのつもりだった。
…でも、私は諦められなかった。誰かが傷付く度に、己の無力さを呪わずにはいられなかった。いっそ殺してしまえば楽だったのに、引き鉄を引けなかった事もあった。
救えるものなら救いたい…その想いが、心の隅に残ってた。だからここまで来れた。
…イツトリ、あなたがこの宇宙全てに絶望しているというなら………私が!」
『私達が!』
「『絶対に消えない希望を示してみせる!!』」
柔らかく、暖かく、眩い光を宿した矢は解き放たれ、イツトリの本体─────巨大な脳へと真っ直ぐに突き進んでゆく。
空間に満ちる負の瘴気を巻き込み、清らかな軌跡を描き、真っ直ぐに、その醜悪な塊へと。
そうなってしまった彼女自身の本体へと、突き刺さった。
その筈だった。
「………な…!?」
2人が共に放った光の矢は、その醜悪な塊を穿つことはなく。
その醜悪な塊の姿をしたモノを、何事もなかったかのように透過し、虚空へと消えた。
『効いてない!?』
「そんな……いえ、あれはまさか……」
虚像。そう言いかけた時、2人の背後から声が聴こえてくる。
『──────いやいや、君達の言う"希望"というものをよく見せてもらったよ。…まさか、この私に"本体"などという概念が存在していると、本気で思っていたとはね!』
瘴気の霧の中に、白い骸殻の無機質な輝きが見えた。
『そして君達は、よもや私でさえもそのちっぽけな"希望の光"とやらで浄化できると! そう思っていたわけだ!』
イツトリに巻き込まれるように転移させられたルドガー達の姿も、瘴気の霧の中に浮かんで見えてくる。
彼らは状況の理解が追いつかず、ただイツトリの弁を待つことしかできないようだった。
『私には本体など存在しない。このマグナ・ゼロこそが私自身なんだよ。…さて、これで理解してもらえたと思うんだがね。君達の言う希望など、何の価値もないモノだと言うことを!』
イツトリの周囲を舞っていた5本の槍全てが、歯車蠢くなか宙高く浮かび、放射状に広がり緩やかに回転し始めた。
その回転の中央には、夥しい程の負の魔力が集約してゆく。
『君達は苦痛すら感じない。永遠に終わらぬ絶望の闇の中で、安らかに眠るがいい──────ファイナリティ・デッドエンド!!』
瞬間、凝り固まった瘴気が水風船のように破裂し、膨大な量の泥のような"負"が空間を覆い尽くす。
『ほむらちゃん! みんなを!』
「…だめ、転移できないわ!」
世界すらも蝕む毒が満ち溢れ、凄まじい重圧と共にその場にいる全員に襲いかかる。
「くっ………間に合え!!」
ルドガーは懐中時計を掲げて骸殻を展開し、その力をさらに放出し、時空を隔てる結界を紡ごうと試みた。
が、それすらも意味を成さない。5本の白槍が展開されかけた結界を貫き、ガラスを叩き割るように容易く破壊されてしまう。
「そんな…!!」
『……足掻くな、我が血族。君はもう十分に苦しんだ。永遠の眠りの中で、救いに身を任せるがいい』
「イツ………トリ………!」
どこか慈悲のようなものを感じるイツトリの言葉を最期に、降り注ぎ積もる負の魔力が押し寄せ、身体を飲み込む。
張り詰めていた糸が切れ、身体は膝から崩れ落ち、その場にいる全員の意識は閉ざされ、瘴気の奔流に沈んでいった。
6.
意識が途切れる刹那、緩やかに、まるで底なし沼のような暗いモノに沈んでゆく感覚がした。
だがそれもほんの一瞬。
何も見えない。
何も聴こえない。
暗闇に閉ざされ、地平線すら見えない世界に放り込まれたような感覚を覚える。
それでいて、どこか──────心地良ささえも感じてしまう。
見えないのではない。
聴こえないのではない。
見たくない、聴きたくない─────と、心を閉ざされてしまったに過ぎない。
うんざりする程に味わった絶望など。
いつか必ず終わりを迎えるであろう、希望に輝いた夢など。
知らなければ、忘れ去ってしまえば……感じようとしなければ、こんなにも穏やかな気持ちでいられる。
それはまるで、心を壊す甘い花毒のように─────ルドガーの心を蝕んでゆく。
それが、真の絶望。
『他の誰でもない、君ならばわかってくれると思っていたわ』
ぼんやりと、深い闇の中に人影が浮かび上がる。
美しくたなびく金色の髪と、誰もが見惚れてしまうような美しい肢体を、何一つ纏わず露わにした姿で。
それは決して、その美しい姿を誇示する為にではない。そもそも、そんな安い感情など
「……………………」
そしてルドガーの心もまた、彼女の身体を"美しい"と素直に感じることも、扇情を募らせる事もなく。
ただ、穏やかな絶望に身を任せてしまう。
それが、真の絶望。
美しいモノを"美しい"と感じるアタリマエの事すらも放棄し。
全てを閉ざしてしまうが故に、痛みを伴う絶望を味わう事も、感じる事もないが。
そんなアタリマエの感情すらも閉ざさせてしまう。
それが、忘却の魔女イツトリのもたらす、真の救済。
これ以上、苦しみたくない。
これ以上、傷つきたくない。
これ以上、裏切られたくない。
だから、心を閉ざす。
それが、真の
かつて救済の魔女が成そうとしたソレは、ヒト々を永遠の幸福なユメの世界に閉じ込める事で、ヒト々を絶望から救済するというモノ。
だが、彼女は違う。
全ての存在に等しく幸福を与える事などできはしない。誰かが幸せになる一方で、誰かが傷付き、嘆いている。
それは絶対に引き離すことの叶わない法則。故に、そのやり方ではいずれ綻びが生じてしまうだろう。
真に平等に与える事ができるのは、"無"のみだ。希望さえ抱かなければ、絶望を絶望として感じる事もない。
ただ、今の彼のように。静謐に身を任せていれば、苦しみを感じる必要はないのだ。
なのに。
「……………違、う………」
『! …まだ、立ち上がる気なのかしら?』
「…………俺、は……絶望を…乗り越えた………だから、ここにいる………!」
『…では問おう。君は確かに、あの絶望の日々を乗り越えられたかもしれない。しかしだ。君と同じ絶望を他の誰かが味わったとして、その"誰か"は君の絶望を乗り越えられるかしら? もしくは─────暁美ほむらが味わった無限の絶望を、君は乗り越えられるとでも?』
「……………!」
『…だから言ったんだ。君は"その程度の絶望しか識らない"んだ、と』
憐れむように、彼女はゆっくりとルドガーに歩み寄る。
絶望の沼に倒れ臥すルドガーを見下ろし、その頬に軽く手を触れてきた。
体温は、無い。冷たくもなく、暖かくもなく、ただ優しく柔らかく、瞳はどこまでも無機質で、空虚な──────ただそれだけの身体。
『私は、様々な並行世界を取り込むと共に、その絶望の在り方全てを見て、感じて、取り込んできた。
……他人の絶望など、理解しきる事などできない。けれど、私だけはありとあらゆる絶望を識っている。だからこそ私だけが、真の絶望というモノがどういうモノかを理解しているのよ』
「…………真の、絶…望………」
ほむらの背負った絶望。
何よりも大切でかけがえのない存在を亡くし、その度に世界を造り直し、また最初からやり直し……
それを、何百回と繰り返してきた。
失うばかりではない。時には自らの手で"終わらせた"事もあったという。
例えば、ルドガーならば。大切な人達を失ってゆく悲しみが、絶望が、何百回も繰り返されるとしたら、耐えうる事はできるだろうか。その自問に、簡単に首を縦に振る事などできやしない。
何故なら、ルドガーは"もう2度と失いたくない"と思っているからだ。2度目の喪失に己の心が耐え切れない事は、誰よりもルドガー自身がわかっていた。
『君には、あの痛みは乗り越えられないよ』
そして、イツトリもまた。
『暁美ほむらの心はマトモそうに見えて、実際はどうしようもなく破綻している。そうしなければ、喪失の痛みを紛らわす事ができなかったから。…でも君には無理だ。
痛みに慣れる前に、君自身の心が砕けるだろう』
「…………………」
『私が与えるのは"死"ではなく"救い"。…君はもう2度と、あの喪失の痛みを味あわずにすむ。私が、この宇宙をそう造り替える。誰も痛みを感じない世界へと、この宇宙は生まれ変わるのよ』
彼女の弁に、心が傾きそうになる。
彼女の言う世界とは"永遠の停滞"。それは即ち"死"と同意義であるはずだ。…つい先程までの自分は、イツトリや救済の魔女の成そうとした事を、そう糾弾したはずだ。
なのに、心の芯が折れそうになる。倒れそうになる。
そうなれば2度と希望を胸に感じる事もできなくなってしまうだろうに。それよりも、苦痛からの解放という甘い言葉に心がぐらつく。
きっとそれは、ある意味ではひとつの幸福のカタチなのかもしれない。
誰もが痛みを感じずに済む、暗闇の世界。何のために生き、何故死ぬのか。そんな事すらも思う必要もない世界。
そうしてルドガーは少しだけ理解した。彼女もまた、本当に"救い"をもたらそうとしているのだ、と。
もう2度と、喪失の痛みに怯える必要などなくなる。ほむらも、ルドガーも、それ以外の誰かも、未来永劫に救われるのだ。
けれど。
「俺、は……絶対に折れない…! イツトリ…たとえお前が本当にこの世界の全ての絶望を知り、理解しているのだとしてもだ! 誰かの心をわかったように語る資格なんて、俺にも…ほむらにも、お前にも! そんなもの、誰にもありはしないんだ!」
『だが、この宇宙はそれでしか救えない。…もうそこまでの段階に来てしまっているのよ』
「思い上がるな! 誰も彼もが、望んで絶望に身を落としていると思うのか!? 最後の瞬間まで足掻いて、過去を背負いながら
それを頭から否定するだなんて事は、希望を胸に生きる人達を嘲笑うのと同じだろう!」
ルドガーの瞳に、強い光が戻った。
自身の脚で力強く立ち上がり、ただ真っ直ぐにイツトリを見据えて、怒りをぶつけている。
その熱に応えるように、すぐ側にも誰かが立ち上がり、暗闇の中で輝きを取り戻す。
暗き翼を携え、理に叛逆した彼女の名は。
「─────黙って聞いていれば、随分と好き勝手に私を語ってくれたわね、イツトリ。全ての絶望を知っているですって? …悪いけど、あなたには私の味わってきた絶望なんて、1ミリも理解できやしないわ!」
『暁美、ほむら……! ふふ、私は永遠にも等しい時間を生き続け、絶望を背負い続けてきた存在。私以上に君に…いや、君以上に私に近しい存在など、そうありはしないというのに!』
「だから、何? 時間なんて大した問題じゃないのよ。あなたは絶望に支配され、前を向く事を諦めた。全てを閉ざす事で、全てを自分と同じにしようとした。
…でも私は、例えどんなに心を引き裂かれるような絶望を味わったって、最後まで未来を諦めたりはしなかった! 何故だかわかるかしら? ……私は、たったひとつの光の為なら、それがどんなに儚い輝きだとしても、私の全てを賭けられる。
その小さな奇跡を信じる事こそが"生きる"という事なのよ! ……そんな事もわからないほど、あなたという存在は歪んでしまったのよ」
怒り、そして憐れみ─────ほむらの表情から見て取れるのは、その2つの感情だった。
この場にいる誰よりも、ほむらは理解しているのだ。イツトリでさえも、かつては只の
その彼女───悪魔に身を堕とした彼女すらも救おうとした救済の女神も、ついに暗き闇の底から眼を開ける。
『………私は、全ての魔法少女を救いたいと願ってこの姿になった。けれどたったひとり、ほむらちゃんだけは救う事ができなかった。
…でもそれは、私基準での救済でしかなかったんだよ。ほむらちゃんは言ってくれたんだ。私がいれば、それだけでほむらちゃんは救われる…って。
何度もそう言われ続けてた筈なのに、私はその言葉を信じられなかった。どうしても救いたかった。私の方法で、みんなと同じように、平等にほむらちゃんを救いたかったの。…それがどれだけ愚かで、浅はかだったかを、ようやく思い知った。
幸せのカタチは人それぞれなんだ。決して私やあなたの一存で押し付けていいものじゃない。…そんなの、ただの暴力と変わらない』
『──────ならば、君は! 決して消えない希望の光とやらを示せるのかしら? そんなものはありやしない! …無限にも等しい時を彷徨い続けても、そんなものは何処にもなかったというのに』
『…そうだね。きっとそれこそが、あなた自身が背負ってる"絶望"。自分でもわかってないよね。あなたは私達を絶望の底に突き落とそうとして、色々な事を仕掛けてきた。
…でも、殺そうとはしなかった。私なんか比べ物にならない程の力を持っている筈で、その気になればみんなを一瞬で殺せた筈なのに。
………あなたは、ずっと待ち続けてたんだ。この無限に拡がる絶望を、打ち破ることの出来る人が現れるのを。私達にそれを賭けてるんだ。だから殺さなかった』
『………! 違う、私は……希望など、そんなものありはしない…!』
イツトリの表情に初めて、陰りが射したように見えた。
彼女はこの世の全てに絶望し、今の姿へと堕ちた。
信じた者達に刃を向けられた絶望を背負い、全てを閉ざそうとした。それこそが、この宇宙全ての生命を平等に救う事だと信じて。
…それは、イツトリ自身もまた"救われたいと願っていた"からなのだと、
女神と悪魔、双極に立つ2人が放つ輝きが、イツトリのもたらした無限の暗闇を吹き飛ばす。
そうして露わになった大地は、無理矢理転移させられた"カナンの地"を模した地点などではなく、どこまでも続く銀の草原。
無限に拡がる満天の星空と、その中にただひとつ燦然と輝く、碧き星の光が、その場にいる全員を暖かく照らし出す。
希望を信じる強い意思が、救済の女神の持つほんの僅か数%にも満たないマグナ・ゼロの領域を取り戻したのだ。
そしていつしか、そこに立っていたのは3人だけではなくなっていた。
『馬鹿な…! 佐倉杏子、巴マミ、美樹さやか…君達の心は、私が与えた"絶望"によって"希望"を見失い、深く閉ざされていた筈!』
示した希望の光に導かれるように、閉ざされてしまった心に再び火を灯した少女達もが、自らの脚で立ち、イツトリと対峙していたのだ。
「……ちょっと前までのアタシだったら、アンタの口車に乗っかったままだったかもしれねぇけどなぁ」
「私達も、随分と諦めが悪くなったものよね。"誰かさん達"のおかげで、ね?」
「あたし達は信じてるの。奇跡は、絶対にあるんだって事を!」
絶対に立ち上れる筈がないと確信していた少女達が、明確な自身の意思を以って、イツトリと対峙している。
ただそれだけの事が、イツトリの心を強く揺さぶっていた。
その上で彼女達に代わるように、同じく絶望から這い上がった黒衣の少女・キリカが口を開く。
「…私は、出逢えたよ。私の人生は、実につまらないものだった。夢も希望もなく、魔法少女になった理由も、命を賭けるに値するようなものじゃあない。私には何もなかったんだ。
でも、彼と出逢えた。砕けてゆく虚構の世界から、私を救い出してくれた。愛という感情を、その暖かさを、私に教えてくれた!
明日を迎えられる事がどんなに素晴らしい事かって、彼が思い出させてくれたんだ!」
彼女は…彼女の魂は、既に性質を変えてしまっている。
希望が絶望へと転移する事で成る"魔女"。だがキリカは、己の魂が砕けるその瞬間まで、希望を見失わなかった。
だからこそ性質を変えてしまっても、人としての在り方を決して忘れる事なく、希望へ想いを馳せる事ができるのだ。
その魂の輝きは、イツトリの心をほんの少しだけ溶かしていた。
そしてようやく、イツトリの現し身としてこのマグナ・ゼロへと取り込まれ、今日まで生き長らえてきた
「……あんたの負けよ、イツトリ。私達はどんな絶望を前にしても、もう絶対に負けやしない」
『…いいや、認めない! 認めてなどなるものか! 私はこの為だけに今日この時まで存在し続けてきた!
希望など信じない、そんなものはまやかしだ!! ……でなければ意味がないのよ!!』
それは、イツトリの心の叫びのようにも聞こえた。
そうでなくてはならない。もう元になど戻れない。
絶望以外の何物にもなれない彼女こそが、誰よりも光を渇望していたのだろう。
「意味がない…? そんな事ありやしない。…イツトリ、今だからこそ思えるよ。俺はきっと、この瞬間の為だけに、一度は終えたはずの命を繋いできたんだ。
だから、お前がやった事全てにも意味があるんだ。お前だって、きっと今"この瞬間の為に"生きてきたんだよ」
『無駄だよ……どう足掻いても、私は救えない…救われないんだ』
「いいや、救ってみせる! 俺達が、決して消えない希望の光を示す!」
「例えどんなに小さな光だとしても、決して消えずに、あなたを導く希望の光を!」
『この世界に生きる、全ての命の輝きを! 明日を信じて生きようとする人達の描く奇跡を!』
「人は絶望に克つ事ができるって事を! あんたに見せてあげるわ!」
4人の魂を賭けた叫びに呼応するように、その周囲から暖かな蛍のような光が昇り、空の上の碧き星へと還ってゆく。
それは、救済の魔女が手にしていた60億余りの魂の輝き。それを今、救済の女神の領域を通じて地球へと還しているのだ。
碧く輝く星は、次第に色を取り戻してゆく。明日を生きようとする魂の鼓動のように、力強く輝きを増す。
それはどこまでも美しく─────希望に満ちた奇跡の光。先の見えない暗闇を照らし出し、導く魂の光。
マグナ・ゼロには本体はない。だが、ミラ・クルスニクの魂は確かにここにある。その魂へと、全てを賭して語りかけている。
『あ、ぁぁ………あぁっ……! これは………この輝きは…!』
識らなかった訳ではない。目を背け続けてきただけなのだ。
奇跡など起きない、希望などまやかしに過ぎない。そう自分に言い聞かせ、絶望の中に囚われ続け、いつしか"絶望"そのものへと変わってしまった。
だが、イツトリはこの瞬間に悟ってしまった。
あの輝きは、誰にも侵せない。
きっとこの先、どんな絶望に襲われようとも、
その儚くも美しい輝きの名を、彼らはこう呼んでいた。
『──────
柔らかく降り注ぐ大地の輝きが、マグナ・ゼロに広がる。
絶望によって
それはミラ・クルスニクの心のを写し出す鏡。凍りついていた彼女の心もまた、奇跡を識り、融かされているのだ。
『………不思議だよ。何者にも照らし出せないと思っていた私の心が、今は何故か喜びを感じている』
そう語る彼女の身体は、その輪郭が崩れ始めていた。
「イツトリ…!?」
不安を感じたルドガーが駆け寄ろうとするが、彼女はそれを軽く制した。
『必然、だよ。何がどうあれ、今の私が"絶望"のみによってカタチを得ている事には変わりない。その絶望が振り祓われてしまえば、カタチを保っていられないのも道理。
………もう随分と永い時を彷徨い続けてきた。私は今、久し振りに"生きている"。生の実感を得ている。最後の最期でヒトらしく死ねるなんて思ってもみなかったわ。
………君達がこれから描いてゆくだろう奇跡に、希望を抱きながら消える事ができる。
ああ、今なら言える。私は今、人生で最高に「救われている」とね』
ミラ・クルスニクの身体は、もう殆ど消えかかっていた。
彼女の身体はマグナ・ゼロの意志を体現したデバイスのようなもの。だが、彼女自身の魂のカタチをそのまま写しているのだ。
それは即ち、ミラ・クルスニクの魂が消えようとしている事を表していた。
消えゆくなかで、ミラ・クルスニクは己の現し身であるミラへ視線を移した。
『……我が写し身。いや、"ミラ"。…すまない』
「いいのよ。全部承知の上でやってるし」
『そうか。…ふ、君もまた、私と同じという事ね』
「一緒にしないで、って言ったでしょう? どこまで行っても私は私、あんたはあんたなんだから」
『そうか……そうだ、確かにその通りだ。ああ、最期に良いものを見せてもらったよ……………』
彼女の言葉は、そこで途切れた。
暖かな希望の光に溶けてゆくように、絶望によってのみ象られた魂は、静かに消えていった。
これが、原初の魔女の最期。
消えゆくその瞬間の彼女の表情は、ひとつの奇跡を知ったヒトそのものだった。
7.
ミラ・クルスニクの魂は、ルドガー達の見せた奇跡によって消滅した。
これで、全てが終わる──────全員がそう安堵し、ようやく肩の力が解ける。
…そう、ただ2人を除いては。
ぐらり、と空間そのものが縦に揺られるような感覚に襲われた。
空を、そして大地を見回すと、マグナ・ゼロの構造そのものが、空間が、端の方から虫喰い状に黒く塗り潰されてゆく。
「……!? そんな、イツトリは浄化されたはず……」
その光景を見ながら、ほむらは呟いた。
マグナ・ゼロはイツトリの身体そのものと言っても過言ではない。分史世界、時歪の因子としてのミラ・クルスニクの身体なのだ。
であれば、イツトリの消滅に伴いマグナ・ゼロ自体も、従来の魔女結界のように自然に消滅する、と──────数秒前まで、彼女はそう思っていたのだ。
だが、これは違う。まるで恒星が熱を失って内側へと収束するかのように、負のエネルギーで空間が潰されているのだ。
が、ごく冷静にルドガーは答える。
「………イツトリは無限にも等しい絶望を…滅んだ並行世界を取り込み、肥大化した。その膨大な負のエネルギーは、ミラ・クルスニクという"核"を失っても簡単には消えない」
「あなた……まさか、こうなるってわかってたというの!?」
「そうなる可能性はあると思ってた。…急げ、ほむら。押し潰される前に、マグナ・ゼロから脱出するんだ!」
「でも、どうやって…? この空間には出口はないわ。マグナ・ゼロ自体が自然に消滅するのなら簡単に脱出できたかもしれないけれど……」
ここへ来た道は、既にない。
ルドガー達は擬似的な魂の橋を渡って一度ガイアスの分史世界へと潜り、その分史世界が砕ける瞬間に、分史世界ごとマグナ・ゼロへと取り込まれたのだ。
つまり、脱出する道はない。唯一、この空間の主がその意思を以って道を拓かない限りは。
そう。
「──────ひとつだけ、方法があるわ」
そう答えたミラの身体からは、翡翠色の輝きが溢れていた。
「今のマグナ・ゼロは核を失った無人状態。……でも私なら。ミラ・クルスニクの一部として取り込まれた私なら、少しの間ぐらいならマグナ・ゼロの制御権を掌握できるわ」
「本当に…? でも、そんな事してあなたが無事で済むはずが…」
「もう、始めてるわ。間も無くコントロールを得られる。…私が外への道を拓く。その間に脱出しなさい」
ミラの身体から放たれた輝きは空へと昇り、マグナ・ゼロの何処かへと──────或いは、何処へでも──────接続された。
すると、内側へと侵食していた負のエネルギーの進行速度が、緩やかになったように見えた。
そして銀の草原の奥、少女達の少し後ろに、傷跡のような次元の狭間が露呈した。
「……そこから、出られるはずよ」
ミラはその傷跡を指差し、少女達を促した。
「保って2〜3分といったところかしらね。さあ、早く行きなさい!」
「………!」
その声に背中を押され、5人の少女達は苦い顔をしながらも一斉に傷跡へ向かって駆け寄ってゆく。
5人だけが、出口へと向かってゆく。
そうしてまどかは、ひとつの違和感にすぐ気付いた。
『………ルドガー、さん? 何してるの、早くここから脱出しないと……』
まるで、去りゆく少女達を見送るかのように。
ルドガー、ミラ…そして、キリカは、その場から一歩も動かずにいたのだ。
そして、ルドガーの重い口がゆっくりと開き、言葉を紡ぐ。
「………俺は、行けない」
『え……? だって、逃げないと!』
「…行けないんだ。俺はずっと、あの時ミラを救えなかった事を悔やみ続けてた。もしも、もう一度出逢えることができたなら、もう2度と離さない。独りになんかさせない。…そう決めてたんだ」
そう語るルドガーの顔つきはどこまでも穏やかで、今より訪れる自分の運命を、自分の手で決めた運命を、全て受け入れたかのようだった。
「……待ちなさいよ、ルドガー」
震える声で問いただしたのは、ほむらだ。
「何よそれ……だって、このままここに残ったらあなた死ぬのよ!? 私は! …あなたに出逢って、一緒に戦って、何度も勇気付けてもらって……まだ何も、あなたに何も返せてないのに!」
「…そうだな。でもな、ほむら。さっき言った通りだ。俺は
「でも……!」
今にも泣き崩れてしまいそうになるのを、どうにか堪えているのがわかる。
誰よりも人間らしい悪魔は、それでも今選ぶべき道をわかっている。
マグナ・ゼロへと接続してしまったミラを切り離す事はできない。切り離せば、外へと通じる唯一の道も消滅してしまうだろう。
そしてそんなミラを置いたまま、ルドガーをここから無理矢理に連れ出す事などできない。きっと自分ならば、同じ状況なら愛しい人と共に消え果てる道を選んでしまうだろうから。
「……ほむら、みんな。頼むよ。私のぶんも、未来を紡いでいってくれ」
2人の傍らに立つキリカが、静かに呟いた。
「何、言ってるの…呉キリカ、あなたまで残るというの…?」
「…私は魔女だよ。このマグナ・ゼロにいる限りは理性を保っていられるようだけれど、地球に戻れば人間の負の感情にあてられて、理性を失う可能性が高い」
「そんなの、私とまどかの力でどうとでもしてみせるわ! だから……!」
「それも絶対じゃない、そうだろう? …私は、君達が紡いでゆく未来の妨げになんてなりたくない。それに、私の居場所は彼の隣だ。たとえ私と彼の愛のカタチが違ってたとしても、私は、最期まで寄り添うよ」
その意思に揺らぎはなかった。
キリカは、ここでルドガーと運命を共にする事を選んだ。
奇跡的にひとつに重なった異なる道筋が、ここで再び2つへと分かれてしまう。
ほむら達の歩む道筋には、まだ見ぬ未来が、希望が待っているだろう。
彼らが選んだ道筋には、続きはない。未来を託して、消えゆくのみだ。
「……バカね、ルドガー。あんた達も行っていいのよ?」
ミラは苦痛に顔をしかめながらも、努めて明るい声で言った。
絶望によって構成されたマグナ・ゼロとの接続は、それだけでミラの魂を蝕んでいるのだ。
確固たる意思の強さがなければ、とうに反動で倒れているか、或いは絶望に染め上げられていただろう。
そんなミラの問いかけに、ルドガーはただ首を横に振って答える。
「……そう。ほんと、バカね………」
大地はひび割れ、満天の星空は徐々に黒に塗り潰され、その速度も少しずつ速まっている。
残された時間は、あと僅か。
今を逃せば、全員が運命を共にしてしまう。女神と悪魔の力を以ってしても抗えぬ永遠の闇に、押し潰されてしまう。
「──────早く行きなさい、あんた達!!」
ミラの声が少女達へと飛んでゆくが、それでもなお少女達は諦めきれない、といった表情でいる。
全員で帰ると心に決めていた。
誰かの犠牲の上に成り立つ未来など受け入れたくない、その一心で。
「…頼むよ、ほむら」
「ルドガー…!!」
「未来を、繋いでくれ。辛い事も、楽しい事も、全て引っくるめて"良かった"と思えるような未来を。……お前の守りたかった未来を、その手に掴むんだ!」
「…………う……うぅ………あぁぁぁぁぁ!!」
ほむらは黒翼を大きく広げ、内に秘めた残り僅かな魔力を解き放った。
『ほむらちゃん……!? まさか、待って! 待ってよ──────』
転移術式。座標は、ミラのこじ開けた"傷跡"の外。絶望の先にある、まだ見ぬ未来へと繋がる道へと。
せめて、彼らを見殺しにする罪だけは自分が背負おう。そう心に決めて、ほむらは4人の少女達を強制的に外へと弾き出そうとした。
…だが、それは叶わなかった。まどかが障壁を張り、ほむらの術式を防いだのだ。
『…ほむらちゃんのばか! そうやって1人で全部抱え込もうとしないでよ! 私達だって、いっぱい言いたいことがあるのに…!』
「まどか…!」
遠くから、涙混じりの少女達の声が届いた。
「……正直、こん中じゃあアタシは付き合いが短い方だ。でもな…そんな簡単に割り切れるかっての! アンタらだってアタシ達の大事な仲間なんだ!」
燃えるような紅を全身に纏う少女の声が。
「ここでお別れだなんで絶対にイヤよ! だって、やっと…やっと全てが終わったっていうのに…!」
向日葵のような優しさと、凛とした強さを兼ね備えた少女の声が。
「あたしだって…そんな簡単にお別れなんてできないよ! なんとかするって言ってよ! そんな簡単に諦めたりなんてしないでよ……!」
かつて己自身の絶望と向き合い、乗り越えた青の少女の声が。
「……………ねえ、ルドガー」
その声に後押しされるように、滅びゆく世界の真ん中で、ほむらは静かに言葉を紡ぐ。
これが、本当に最期の言葉。
「私ね、時計を壊しちゃったのよ。ずっと大事にしてきた…私の支えだった砂時計を」
「ああ………そうだな。…返すのを忘れてた」
「いいのよ。それはもう私には必要ないモノ。あなたにあげたモノだから。………だから、代わりのモノが欲しいわ」
「!」
ルドガーの持つ、骸殻の力が秘められた懐中時計。
それはルドガーの魂を映し出す鏡のようなモノでもあり、その針の動きと鼓動は連動している。
「………ああ、これはもう俺には必要ない」
その懐中時計を、ほむらへと差し出した。
壊れた砂時計の盾と、金細工の懐中時計。その2つは形は違えど、呪いによって象られた、時を刻む装置。だがその針は、歯車は、愛しき人を守り抜く為に廻り続けた。
それも、もう終わり。
奇跡的に重なり合った2人の歯車は、ここで分かたれる。
ひとつの奇跡に幕を落とす為に。
新たな未来への幕を上げる為に。
「………………元気でな、ほむら」
「ええ。……ルドガー、私は永遠の時を生き続けられる。この宇宙が滅びるか、
だからもし、私達に奇跡が訪れるとしたら……その時は、必ずあなた達を迎えに行くわ」
「…はは、それこそ奇跡だ」
「ええ。でもきっと起こしてみせるわ。だって私達は
涙を拭い、翼を大きく広げ、飛び立つ覚悟を決めた。
これで終わりだなんて、絶対に認めない。
諦めない限り、希望は潰えない。未来への道はひとつ限りではないのだから。
だからこれは、ほんのひと時のお別れ。
「またね、ルドガー」
頬を伝う雫を隠そうともせず、ただ精一杯の笑顔を向けて。
振り返らず、ただ真っ直ぐに前だけを見据えて。
そうして、少女達は。
滅びゆく世界から、その奇跡が待つ未来へ向けて飛び立っていった。
あと1話となります。
編集出来次第、こちらに掲載させていただきます。
長らくssを書くという作業から離れてしまった事もあり、当時のような文章を書く事が困難になってしまいました。