1.
漆黒の空に浮かぶ2つの影は、それぞれが巨大な黒い翼を広げ、他の一切を寄せ付けぬような気迫を放ちながら対峙していた。
が、その片方───自らを"悪魔"と称した少女には表情に余裕がなく、もう片方───神にも等しき力を手にした少女は、それまでとは一転して、まるで別人のように歪んだ笑みを浮かべている。
全てを救済し、新たな世界を創生する。
Kriemhild Gretchen─────それが、彼女に与えられた新たな
『………ひひ、「何をしたの」ねぇ。私はただ、
「力……? 何を言って………」
『わからない?
「その代償がこれだというの…? まどかの身体を乗っ取って! …今のあなたは"鹿目まどか"なんかじゃない! 魔女よ!!」
『魔女、かぁ……ふふ、あはははっ! あっははははは! きゃははははっ!!』
"救済の魔女"と呼ばれた彼女は、狂ったように身をよじりながら嗤い出した。
希望によって救いをもたらす存在としてではなく、絶望によって成り立つ無限の魔力を宿して顕現した彼女は、ほむらよりもよほど"悪魔"と呼ぶに相応しい存在に見える。
元の心優しい少女の面影はその姿からは微塵も感じられなかった。人魚の魔女同様に、マイナスに振り切った"絶望"が、彼女を歪めてしまったのだろうか。
『あっはははは──────ふぅ………じゃあ、私を殺す?』
「………っ!」
『前にも言ったよね。大好きなほむらちゃんの為なら、何度だって殺されてあげるよ?』
可能であるならば、そうすべきだろう。救済の魔女の力はあまりにも強大だ。
今こうして夜空の上で睨み合っているだけで、その圧倒的な魔力の差を肌で感じ取っていた。
しかし、その程度の事だけで今更手を止めるようなほむらではない。
目の前にいる救済の魔女を殺すということはほぼ間違いなく、その身体の持ち主である"まどか"を殺す事になるだろう。
ましてや、今の救済の魔女はその様子からすると、まどかの身体を支配して受肉しているに過ぎない。例えその身体ごと殺したとしても、救済の魔女を消滅させられるという保証はどこにもなかった。
そもそもそれ以前に、だ。
「………できないよ、そんなの……」
目の前にいる存在がどうであれ、"鹿目まどか"を殺すという選択肢を採ることは、ほむらにはもうできなかった。
「……何が望みなの? 私を、恨んでるの…?」
『恨む、かぁ…確かにそうかもね。 …ま、正直に言うと私自身にもよくわからないんだよね?』
「じゃあ何なの!?」
『────247回』
「……え…?」
『だから、ほむらちゃんが時間遡行をした回数だよ。…というよりは、その分だけ存在していた"鹿目まどか"の数、って言ったほうがいいのかな?』
そうして救済の魔女は、まるで謳うように軽やかに、指を折りながら言う。
『魔法少女になった
「………やめて…」
『ほむらちゃんを怖いと思った
「やめてよ!! ……お願い、それ以上言わないで………」
『…なぁんだ、つまんない。ま、いいや。つまりね、もう私にもこの想いが何なのかわかんないんだ。247人分の
「………そんな……」
狂っている。端的に言えばまさにそうだろう。だが、彼女を創ったのはほむらが過去に成してきた行いひとつひとつだ。
「…お願い、返して。私はどうなったっていい! まどかだけは返して! やっと、人としてのまどかの幸せを守れると思ったのに……!」
『だからさぁ…そこがわからないんだよねぇ。ほむらちゃんの言う"私の幸せ"って、何さ?』
「……っ、それ…は……」
『まさか、何を失ったって人間として生を全うできれば、それが本当に幸せなんだって本気で思ってるの? ……教えてあげるよ。私の願い…私の"幸せ"はね、』
大きく拡げた黒の両翼から夜空に浮かぶ星々のような煌めきを放ち、救済の魔女の手には背の丈よりも大きな弓が再び握られた。
その弓に光の矢をつがえ、にっこりと歪んだ笑みを浮かべてから、空へと向かってその矢を撃ち放った。
「…………まど、か……?」
そこから音もなく閃光が弾け、雲ひとつなくただ暗黒だけが広がる空に、超巨大な幾何学模様の魔法陣が展開される。この街を、世界を───否、この星の全てを覆い尽くすほどに陣は広がり、暗闇に包まれた世界を、真新しい蛍光灯を何重にも重ねたかのような乾いた光で照らした。
「……何をしたの…」
やがて、空に広がる魔法陣へ向けて地表から幾つもの光が浮かび、束状になって昇ってゆく。
その光の束には生命の躍動があった。魂が、空へと昇華し出していたのだ。
そうして地表は、熱を急速に奪われたかのように冷え始め、ほむら達のいるよりも遥か空高くからは、粉雪が降り注ぎ始めた。
『この世界はもう既に私の
「…あなた、何をやってるのよ!!」
『救いを与えてるんだよ?』
「……!?」
『それこそが私の願い。みんなを、あらゆる苦しみから解放してあげたい。人間も、魔法少女も…そして、ほむらちゃんも』
「これが"解放"…? ふざけないで!! あなたのやってる事はただの虐殺よ!!」
『ううん、死んではいないよ。ただ、魂の在り方が変わるだけ。この星の生命は全て、これから私の理の中でひとつに溶け合って生きてゆくの。痛みも、苦しみも、孤独も、死への恐怖も感じなくて済むんだよ? てぃっひひひひ! 素敵でしょ?』
ダメだ、これ以上は許すわけにはいかない。このまま救済の魔女をのさばらしておけば、この星は…否、この宇宙は終わりを迎えてしまう。
「………まどか…!!」
ぎりぎりと音がするくらい強く奥歯を噛み締め、ほむらもまた巨大な黒弓を錬成した。
そこに光の矢をあて、ゆっくりと、めいっぱい弦を引き、救済の魔女へと鉾先を向ける。
…だというのに、救済の魔女は一切臆することもなく、悦に浸るように淫らに身体をよじりながら言う。
『…あは、やっと殺してくれるんだ? ほら、撃ちなよ。私は避けたり防いだりなんてしない。ほむらちゃんの愛を、この身でしっかりと受け止めてあげる』
「黙りなさい!!」
『ああ───感じるよう! ほむらちゃんの愛を! 嬉しい……素敵…羨ましい…!
「……黙れ……黙れ、黙れ黙れぇぇぇぇぇッ!!」
それ以上、その姿で醜悪を曝すな。その声で、呪いにも似た言葉を吐くな。
ほむらは限界まで引いた弦を指から解き、全の力を込めた光の矢を、目の前にいる倒すべき敵へと向けて放った。
『──────あは、』
ゴウッ!! という暴風にも似た激しい音を立てて真っ直ぐに放たれた矢は、しかし救済の魔女の身体を貫くのではなく、その顔すれすれの真横を綺麗に通り抜け、空を覆う魔法陣に照らされた虚空へと消えた。
「………できるわけない…! だって私は、まどかを救う為に全てを捨てたのに………」
答えは、最初から見えていた。
ほむらは、以前まどかにも同じ事を言っていた。
"世界なんかよりも、あなたの方が大事だ"と。
たとえ今、世界が滅びかけているとしても、その両者を同じ天秤にかけるということ自体が、そもそもほむらにはできなかった。
まもなく、この星の生命の全てが救済の魔女の生み出した新たな理と同化する。この星は歩みを止め、生命の一切が存在しない死の星へと変わるだろう。
概念とは所詮そんなものだ。誰からも認知されず、誰の記憶にも残ることはない。女神となり、最初から無かったかのように世界から弾き出された彼女のように、この宇宙から地球の生命が、少なくとも物質的には消える。
「…………お願い、やめて……この世界を壊さないで……!」
『壊す? 私はただ救いを与えて───』
「そんなものは救いなんかじゃない!! ……あなたのやってる事は、インキュベーターとおんなじよ…!」
『…人聞きが悪いなぁ。せっかく私が滅ぼしてあげたのに、その言い草はないんじゃない?』
「……滅ぼし、て……?」
救済の魔女はほむらの問いかけに応えるように、手にしていた弓を消し、代わりに大きな水晶の塊を錬成した。
鈍い輝きを放ち、病的に照らされた空を透かす水晶の中央には、よく見慣れた姿をしたモノが埋め込まれ、大量の楔のようなものが全身に打ち込まれていた。
「まさか、あなたの滅ぼしたモノって……」
『ひひひっ! そうだよ?』
「…そんな。じゃあ、いつから……?」
『ほむらちゃんがワルプルギスの夜を倒した後だよ。
でも、キュゥべえがいたら私の存在に気づかれちゃうでしょ? だから
水晶の中に埋め込まれたキュゥべえの
元来、概念生命体であるインキュベーターには実体はない。恐らく救済の魔女は、インキュベーターを受肉させてから、生命体として殺害したのだろうか。それとも、因果律に干渉してインキュベーターという概念そのものを直接滅ぼしたのか。
今の彼女には不可能なことなど何もない。インキュベーターを殺すなどという、ほむらにでさえ出来なかった事も、彼女からしたらごく簡単なことだったのかもしれない。
『さあ、いよいよ始まるよ。もうすぐこの世界はマグナ・ゼロとひとつになる』
「……
『あは、気になるんだ? マグナ・ゼロ───それは、原初の魔女の生み出した結界。あらゆる世界線を呑み込み、この宇宙の中で今も際限なく膨張を続ける存在。この世界の生命も、あの人が生み出し、私の理とひとつになった世界の一区画で新たなカタチとなって生まれ変わる』
「……わからない。そんな魔女が、本当にこの宇宙に存在しているとでもいうの…?」
それは、かつて過去を遡る為に宇宙の歴史へとアクセスを試みたほむらでさえも、知り得ぬ存在だった。
だとすればその魔女は、膨大な魔女結界を保有しながらも、宇宙の歴史にも記されずにひっそりと存在していたという事になる。
それこそ恐らくほむらのような半端者ではなく、救済の魔女や人魚の魔女のように、本当の意味で堕ちた者たちにしか認知できないのだろう。
『私と一緒においでよ、ほむらちゃん』
救済の魔女はほむらを貶めるのではなく、実に心から気遣うように優しく言う。
『マグナ・ゼロの中でなら、ずっと永遠に2人で生きていける。この宇宙が滅びたとしても、マグナ・ゼロは残り続けるんだよ。私達だけじゃない、この星のみんなも一緒に、永遠に生き続けられるんだよ?』
「……だめ、そんなことは許されない…!」
『私と一緒にいようよ。…ずっと、愛し続けてあげるから』
「やめて!! ……そんなのは"生きてる"なんて言わないよ…ただそこに存在してるだけ。モノと同じよ…! 私は! みんながいるこの世界で、まどかと…みんなと、一緒に生きたい。ただそれだけが望みなの……!」
『…残念だけど、それは無理だよ。てぃひひっ! だから、ほむらちゃんに選ばせてあげるよ!』
救済の魔女の翼が煌きを放ちながらはためくと、それに呼応するかのように、空に浮かぶ魔法陣の、彼女の遥か頭上の部分が真新しい傷口のように開いた。
そこからどろり、と雫のような瘴気にまみれながら、鈍く輝く満月のような球体が現れた。
『マグナ・ゼロとこの世界の同化を止めたいなら、私を殺すしかないよ。でももしほむらちゃんが私と一緒にいたいと思ってくれるなら…この世界を捨てるしかない。
マグナ・ゼロの奥で待ってるよ、ほむらちゃん。答えを導き出して、私のところまでおいで』
「……待って。待ちなさい、まどか!!」
ほむらが手を伸ばして追いかけようとするも間に合わず、救済の魔女の姿は虚空に溶けるように消え去った。
残ったのは、救済の魔女が魔法陣の中から呼び出した、膨大な瘴気を抱え込む巨大な球体だけだ。
救済の魔女の話から推測するに、あれこそがマグナ・ゼロと呼ばれた世界へと繋がる門なのだろう。
「………私は、どうすればいいの…?」
こうしている今も、地表からあらゆる生命が、魂が転換されて魔法陣へと吸い上げられている。
一体どれだけの命が、この世界に残存しているのだろうか。少なくとも、ほむらの近くの地表からは、ほんの僅かな生命反応しか感じ取れなかった。
そう、ちょうど5人分程の反応だけが。
「! ルドガー…みんな、無事なの?」
念話を飛ばそうと試みたが、返事はない。地表に蔓延しつつある瘴気が魔力の伝搬を阻害しているのだろう。
飛んで降りる暇も惜しんだほむらは、真下にある旅館の跡地へと瞬時に転移した。
「………酷い……」
すとん、と地に足をつけて降り立ち周囲を見回してみると、既にこの街の全ては瘴気に侵されていた。
また、空に浮かぶ魔法陣によって地上に住まう人々の魂は昇華され、旅館の中からすらも人の気配を感じられなかった。
そこにはまどかの肉親もいたはずなのに、だ。
「…………どうして、こんな真似を…!」
こんなものが救いでなどある筈がない。
この世界は、死んだのだ。
叫びたい衝動に駆られた。だが、胸の底から次々と湧き上がる感情はもはや言葉にする事すらできず、ただひたすらに心を締め付けてくるだけだ。
「………もう、いやだ……イヤだよ、こんなの………!」
今まではどんなに絶望的な結末を迎えても、"次がある"と自分を騙し、律し続け、無理矢理にでも立ち上がる事ができた。
だが、この世界にはもう"次"はない。
悪魔となったこの身が恨めしいとさえも思ってしまった。
人間ならば、今すぐにでもこの首を掻き切って自決できただろうから。
魔法少女だったならば、今すぐにでも魔女となって全てを忘れる事ができただろうから。
それすらも許されないのが、悪魔という存在だ。
今のほむらには"死"という概念が当てはまらない。首を掻き切ってもすぐに再生してしまうし、今更この身が魔女へと変わる事もない。
ただやり場のない絶望だけが、今のほむらに残されていた。
2.
「…だめだ、ルドガー。テレパシーが通じなくなってるよ」
その頃、空の上で起きていた一部始終を見ていた…見ていることしかできなかったルドガーとキリカは、散開して戦っていた他の少女達とコンタクトをとろうと試みていた。
しかし街中にまみれた瘴気の影響か、誰1人として連絡をつけることができず、2人はひとまず旅館のある方へと向かって走っていた。
降り始めた粉雪は少しずつ量が増えてきており、真夏の夜だというのにまるで秋の終わりのような気温へとなっている。
このままの調子であと数時間も雪が降れば、それなりに積もり、真冬のような気候へと変わってしまうだろう。
「…さっきの光は、なんだったんだ?」
2人は、空へと昇っていった光が一体何であるのかを知らない。この街が、世界の全てが歩みを止めてしまったということに、まだ気付いていない。
しばらく走ったあたりで、ようやく旅館の付近にまで差し掛かったその時─────ルドガーは、我が目を疑うような光景を目の当たりにした。
「………なんだ、これは……」
「ほむら!? 何をやってるんだい、君は!!」
ルドガーに追随していたキリカさえもが、それを見て表情を大きく変えた。
うっすらと旅館の前に積もった雪は周囲を白く染めかけていたが、その上からさらに赤黒い飛沫が花びらのように散っている。
その赤色の中央にいるのは、膝を折り無垢な表情で涙を流しているほむらだった。
「あ……ルドガー…?」
「ほむら……何をやってるんだ!?」
「…ねえ、どうしてなのかな? 私、死ねないの。ほら、こんなに刺してるのに、痛くもなんともないんだよ?」
そうしてほむらは手のひらの中に魔力で紡いだ光の刃を生み出し、何の躊躇いもなく自分の腹へと突き刺す。
腹の傷口から、そして喉の奥から大量の血が吹きこぼれていたが、ほむらの表情は微塵も変わらない。心から純粋に、"なぜ死ねないのか"という疑問を抱いた無邪気な子供のような表情だった。
「やめろ!」
ルドガーは堪らずほむらの腕を掴み、ひねり上げてその行為をやめさせた。
それに伴って光の刃もほむらの腹部から消滅するが、空いた傷口はものの数秒で何事もなかったかのように塞がる。
漆黒の衣装と白い肌に散った赤色が、そこに残るだけだ。
「どうしてこんな真似を! 一体、何が起きてるっていうんだ!?」
「…みんな、いなくなっちゃったの。まどかも、みんなも。ねえ、殺してよ。私を、殺してよ」
「………ほむら…!」
「もう、無理だよ。ねえ、生きてたくないの。あなたならできるでしょ? 殺して、はやく私を殺してよ………」
気が触れてしまっている。ルドガーは少なからずそう思った。
空で起きていた出来事は、あくまで遠目から見たというだけだ。しかしほむらの前に現れた存在は紛れもなく魔女。
まどかと瓜二つで、かつてのほむらと同じ白い羽根を宿した魔女だ。
(……テレパシーを通じて、2人のやりとりは少しだけ聞こえてた。あの魔女はやっぱり…?)
とはいえ、ルドガー達の耳に入ってきていた会話は、魔獣が殲滅される直前までだ。
最初は、まどかが何らかの要因───恐らくは契約未遂の影響によって、魔法少女としての力に覚醒し、数百を超える魔獣達を葬り去ったのだと思った。
では何故、彼女からはあんなにも強大な
そこから推測できる結論は、ひとつしかなかった。それは僅かな相違こそあれど、ある意味では正しかった。
「………まどかが、魔女になったんだな」
ルドガーがそう口にしたその時、ほむらの身体がぴくり、と反応した。
「…………あ、あぁぁっ…イヤ……ちがう、ちがう、ちがう! あれはまどかじゃない! ちがうよ! まどかはこんなコトしない!! やさしい子なの……ねえ、まどかはとってもやさしいんだよ……?」
まるで幼子が駄々をこねるかのように、それでいて悲痛な叫びのように、ほむらは喚き散らす。
如何に神にも等しい悪魔としての力を得たとはいえ、それを手にしたのはほんの14歳の───時間遡行の回数を考慮したとしても、まだ若い少女なのだ。
元々、度重なる時間遡行によってほむらの心は疲弊していた。今回起きた事象によって、ほむらの心はついに限界を迎えてしまったのだろう、とルドガーは思った。
「ルドガー、私は旅館の中を見てくる。こんなにも静かなのは、少し不気味だよ」
「…ああ、わかった。ごめんな、キリカ」
「いいさ。今はとにかく、事態の把握が最優先だ」
本音を言えば、"見ていられない"というのがキリカの心情だろう。ルドガーもそれをわかっていたからこそ、敢えてそれ以上は言わなかった。
泣きわめきながら自傷行為をするほむらと、それを取り押さえるルドガーから目を背けて、キリカは旅館の戸を開けて土足のまま中へと上がり込んでいった。
「……!」
そうして再び視線を戻すと、とうとうほむらの変身が解け、恐らく直前まで身に纏ってあたであろう浴衣姿へと戻っていた。
ナイトメアと戦う前に急いで着替えたルドガーとは違い、ほむらは何故自分がこんな格好をしているのかを一瞬だけ疑問に感じたが、またすぐに虚ろな表情へと変わった。
「………ここは寒い。俺たちも一旦旅館に入ろう」
「? 寒くなんかないよ……?」
「えっ……」
「寒くないし、暑くもない。なんにも感じないよ。今までずーっとそうだった」
本気なのか、とルドガーは狼狽えた。今もしっかりと握りしめて押さえている手は、氷のように冷たい。
自傷行為をしていたのに、痛みを全く感じないとも言っていた。
無意識の内に魔力で体感気温や痛覚を調整しているのか。それとも、悪魔として覚醒した時点から、人間としての感覚が一部欠落していたのか。
ともかく、薄着だというのにほむらは全く意に介していない様子だった。
ルドガーは困惑しきり、疲れたようにため息をつく。
せめて他の少女たちとコンタクトを取れないだろうかと考えるよりも先に、サク、サク、と雪を割りながらこちらへと向かってくる足音が聞こえてきた。
「ルドガーさーん!!」
ルドガー達が現れた方とは反対側の路地からさやかとマミが、そして、杏子は建物の屋根の上から飛び降り、ルドガー達のところへとようやく合流した。
その内、さやかが血まみれのほむらの姿を見て驚愕する。
「ほ、ほむら……!? どうしたの!? まさか、まだ魔獣が!」
「待て、さやか。この辺にはもう魔獣はいねえよ」と、杏子が慌てふためくさやかを律するように言う。
「ルドガーさん、何があったの?」
「…マミ。俺にも、よくわからないんだ」
「そのようね…まさか、さっきの魔女はやっぱり鹿目さんが……」
「───マミ、それ以上言うな!!」
「えっ…?」
ルドガーが気付くよりも早く、マミの言葉にほむらが反応した。
少しばかり落ち着いたようにも見えていたほむらの表情はまたも歪み、錯乱してもがき出した。
身をよじるように暴れたせいで浴衣の帯が緩み、下着を身につけた素肌が外気に晒されかけるが、それを気にする様子などまるでない。
「イヤぁぁぁぁぁっ!!! まどか! まどか助けて!! わたしをひとりにしないで! まどか、まどかぁぁ!!」
「な…っ、暁美さん!? どうしたのよ!?」
「わたし、約束したもん! まどかを魔女なんかにさせないって! まどかは魔女なんかじゃない! わたしをひとりになんかしないもん……!」
"魔女"と"まどか"。その2つが言葉として繋がった時、ほむらは過剰に反応するようだった。
誰の目から見ても、今のほむらは正気を失っていると判断できた。だが、それを誰が責められようか。
「………見てらんねえよ」
ただ1人、杏子だけが苦虫を噛んだように悔しそうな顔をして呟いた。
「アタシに任せろ。気が狂ってんなら、その部分の記憶を抑え込めばいい」
「佐倉さん、何を…?」
「アタシの得意技、知ってんだろ? …シャクだけど、こういうコトができんのはアタシしかいねえからな」
杏子は錯乱して暴れるほむらの前に手をかざし、魔力を紡いでほむらへと暗示をかけ始めた。
"皆が父の話を聞くようになってほしい"。かつてそう願って得た力は、"催眠・幻覚魔法"という歪んだものだった。
その力を結果として恨み、一時は自ら封印していたが、こんな力でも誰かを守れるのならばと思い、先の戦いでその戒めを解いたのだ。
……その力をこんな風に使うことになろうとは、杏子自身も思ってもいなかったが。
「──────あ、」
杏子が魔法を発動してから数秒後、ほむらは崩れ落ちるかのようにその場に倒れ込んだ。
咄嗟にルドガーが身体を抱えて、地面に倒れるのを防いだが、相変わらずの身体の軽さにより一層不安を覚える。
「………ふぅ、終わったぞ」
「佐倉さん、一体、何を"見せた"の?」
「人聞きの悪い事を言うなよな、マミ。コイツはいっぺんに色んな出来事が起きて、頭がショートしちまっただけだ。だから、魔法で感情の一部にロックをかけたんだよ。少し寝りゃあ落ち着くだろ」
「そう……ありがとう、佐倉さん」
とにかく、中へと戻ろう。ルドガーがそう言いかけた時、今度は旅館の中からキリカが血相を変えて飛び出してきた。
「……みんな、戻ったんだね。ルドガー、大変なんだ!!」
「キリカ、何があった?」
「………旅館の中にいる全員が、意識を失っている。…いや、むしろ…魂を抜かれてるみたいなんだ」
「魂を、だって……?」
「…君は、ソウルジェムを失った魔法少女を見たことがあるかい。私はある。その時と同じように、まるで抜け殻みたいに、みんな目を覚まさないんだ」
ルドガーは過去に、そういった魔法少女を1人だけ見たことがある。故に、キリカの言いたいことを理解することは難くなかった。
「……とにかく、一旦中に入ろう。これからどうしたらいいか、よく考えないと……」
空を覆う魔法陣から煌めく病的なまでに白い光と、次第に勢いを強めてゆく雪に打たれながら、5人は廃墟同然の旅館へと戻っていった。
3.
分担して旅館内にいた人達全員を集め、1箇所の部屋へと集めて寝かせたが、やはりキリカの言うように、それら全員はまるで死んでいるかのように無反応だった。
ただ眠っているのとも違う。"魂が抜かれてる"といった表現はまさに妥当だったろう。
季節外れだが暖房をつけ、それから何を閃いたのか、杏子がテレビの電源をつけては、片っ端から適当にチャンネルを変えてゆく。
だが、どのチャンネルも電波を受診していないようで、ただの真っ暗な映像が映されている。
スマートフォンを使って情報を集めようとするも、空に浮かぶ魔法陣の件や、ここ以外でも同様の事態が起きているのか、そういった情報は一つたりともなかった。
むしろ逆に、魔法陣が展開された直後の時刻以降、ニュースサイトやSNSなどのありとあらゆる情報が完全に途絶えていると気付いた。
技術の大半を機械任せにしている現代だからこそ、人の手がなくともすぐにライフラインが途絶える事はないのだろう。だがそれも、あと何日
「どーやらこの騒ぎは、ここだけじゃないみたいだな」
と、杏子がいつかのように駄菓子を咥えながら語る。
彼女は無作法なのではない。何かを口に含んでおくことは、杏子にとっての苛立ちの解消法なのだ。
とはいえ、ここの所しばらくそういった仕草を見せなかっただけに、杏子の事をよく知る4人は固唾を飲んだ。
そうして、次に口を開いたのはさやかだ。
「…あたし、思うんだ。さっき空に向かって光が昇っていったよね。アレ…なんとなく、ソウルジェムの輝きに似てた気がしたんだ」
「私もそれは見たわ。ということは、その光って……」
「魂、って言いてえのか…あながち、間違ってもねえかもな」
「……どうして、こんな事を……」
「考えんな、さやか。魔女のやることに理由なんかねえよ」
果たして本当にそうだろうか。
人魚の魔女の例もある。彼女の場合はほむらに対して明確な殺意を抱き、他の魔法少女達に対しても、絶望の淵に追い込んで魔女化させるという目的があった。
そしてその根底には、"あの娘"と呼ばれる存在が暗躍していた。
それ故に、ルドガーは人魚の魔女以外にも、意思を持つ魔女は存在し得ると考えていた。
問題は、あの魔女の正体だ。
「…ここにはまどかはいなかった。やっぱりあの魔女は、まどかで間違いないと思う」
「…なら、この事態を解決する方法は……ソレしかないよな」
「杏子っ!! あんたまさか、まどかを殺すっての!?」と、さやかが杏子に食ってかかる。
「バカやろう、あくまでまどかが魔女だったらって話だよ! …とにかく、アイツの居場所を突き止めねえと話は進まねえだろ。殺すにしても、連れ戻すにしてもだ!」
そのヒントになり得るのは、空に浮かぶ瘴気を放つ球形の物体だろう。ルドガーは過去の記憶を振り返りながら、少女達に説明を始める。
「みんな、聞いてくれ。…俺はあの空の球体に見覚えがある。あれは多分、"カナンの地"…それか、ソレを真似して造られたものだと思う」
「…それは、一体なんなのかしら?」と、マミが問いかける。
「俺の知る限りでは、あそこには"審判の門"があった。クルスニクの一族にかけられた骸殻の呪い…その犠牲者が100万人に達する前にそこへ辿り着けば、どんな願いも叶えてくれる。少なくとも、そういう言い伝えだった。
…と言っても、クルスニク一族の審判はもう終わった。俺以外の骸殻能力者ももういないし、門ももう無い。きっとあれは、旅船ペリューンみたいに俺の体験を基に造られた空間だ」
「…確かに、以前もそうだったわね。でもどうして、あの魔女達はルドガーさんの事を?」
「それは、まだ解らない。けど、もしかしたら……キュゥべえがかなり前に言ってた話だ。遥か昔、俺と同じ骸殻の力を持った魔女が存在していたらしい」
「!? そ、れって……まさか…?」
「…そうだ。エレンピオス…あるいは、リーゼ・マクシア。そこにもかつてキュゥべえと契約した人がいた…って事だよ」
それも、ルドガーと同じ骸殻を持つ者となれば、契約を交わしたのは恐らくクルスニクの一族の誰か。
始祖たるミラ・クルスニクから2千年程続いた血族の内のどこかで、魔法少女に…そして、魔女となった存在がいたという事だ。
しかし現代のエレンピオスやリーゼ・マクシアにおいてキュゥべえの存在はなく、キュゥべえもまたルドガーの存在をこの世界で初めて認識していたような節がある。
恐らくは、エレンピオスでは魔法少女システムのサイクルが成り立たなかったからだ。
あの世界には精霊術や骸殻を扱える者や、
わざわざ魔法少女を造り出すまでもなく、戦闘能力の高い彼らならば、魔女を駆逐する事など容易いだろう。
現にこうして、骸殻を持つルドガーが見滝原で何度も魔女を倒している事が、その証明にもなっている。
…そしてルドガーが考えた可能性のひとつは、エレンピオス及びリーゼ・マクシア出身の魔女が、その世界の事を
「なるほど…それなら、一理あるわね」
マミを始め、魔法少女達もルドガーの言葉を聞いて、あまりにも多すぎる疑問への足掛かりを得たように頷いた。
「だとしてもだよ、ルドガー。カナンの地へはどうやって行けばいい?」
「……それなんだけど…」
ふと、キリカがそう尋ねかけた。当然、1度カナンの地へと足を運んだ事のあるルドガーならば、それを知らない筈がない。
…いや、忘れる事など出来ようもない、と言った方が正しいだろう。
「まず、カナンの地を出す条件として、5つの"道標"が必要なんだ。海瀑幻魔の瞳・ロンダウの虚塵・箱舟守護者の心臓……この3つは、既に俺たちの手にある」
「残りの2つは?」
「……「
「…じゃあ、4つは揃ってるんだね」
「そうだ。ただし…カナンの道標は、宿主を壊す…いや、殺さないと実体化しない」
「………えっ? ルドガー、今なんて言ったんだい」
「…キリカ。4つ目は、俺自身が死なないと手に入らないって事だ」
「………そんな、嘘…だよね? こんな時に、悪い冗談はやめてよ、ルドガー……?」
「…冗談なんかじゃ、ないんだ」
ルドガーから事実を聞かされた少女達は皆、凍りついたかのような表情をして驚いていた。
特にその内のキリカは、一気に顔色が青ざめ、ふらつきながらもルドガーのシャツを掴んで身体を揺さぶりながらまくし立てる。
「なんで……なんでそんな事を言うんだ君は!?」
「……カナンの道標だけじゃない。カナンの地へと渡る為には、"魂の橋"を架ける必要がある。…強い骸殻能力者の命を使って、橋を架けなきゃいけないんだ。骸殻を使えるのは、この世界にはもう俺しか…」
「イヤ!! それ以上聞きたくなんてない! ……どうして、君が死ぬ必要があるんだ。私じゃ、ダメなのかい…?」
「…っ、キリカ…!」
「カナンの地はもう出てる。なら、道標はもう必要ないって事だよね…? …ルドガー、橋を架けるなら私の命を使ってよ。君に救われた命だ。私は、君の為なら死ねるよ…?」
そう言ってルドガーに訴えるキリカは、本気の眼をしていた。
大粒の涙を零しながらも真っ直ぐに見つめてくるその姿は、何となしにまどかに固執するほむらの姿を思い出させた。
「………お前までそんな事言わないでくれ。言っただろ? 俺は、誰かの代わりにする為にお前を連れてきたんじゃないんだ! ……俺は、もう何も失いたくないんだ」
「………そのことなんだけどさぁ!!」
2人のやり取りを見ていられないと感じたさやかは、何かを閃いたように大声で叫んで2人を制した。
「ルドガーさん、その"魂の橋"を架けるには骸殻の力が要るんだよね?」
「ああ、そうだ」
「それで、骸殻の呪いが進むと時歪の因子化しちゃうんだよね。…て事はさ、骸殻の力じゃなくても、時歪の因子の力を代わりに使えるんじゃないかな?」
「時歪の因子を? …でも、そんなものどこにも…」
「あるんだよ、それが! …思い出してよ、ルドガーさん。魔女は、時歪の因子の反応がしたんだよね?」
「そうだ。でもそれが……まさか、」
「そうだよ、ルドガーさん。……本当はこんな風に利用するの、良くないのかもしれないけど。時歪の因子の反応がした魔女のグリーフシードを使えば、"魂の橋"を架けられるんじゃないかな…?」
さやかのふとした発案に、ルドガーはこの世界に来てからの記憶を振り返ってみた。
薔薇園の魔女に始まり、お菓子の、箱の、人魚の、影の魔女…そして、ワルプルギスの夜。
それらの魔女は確かに、時歪の因子の強い反応を示すと共に暴走を引き起こしていた。
時歪の因子の反応と魔女自身に直接的な関係はわからないし、様々な時間軸を渡ってきたほむらも"今までそんな事はなかった"と示唆していた。だが、
「試してみる価値はあると思う」
「じゃあ、すぐに行きましょう!」
「…いや、もう少しだけ待とう。杏子、ほむらはあとどれくらいで起きそうだ?」
「身体の方は傷一つねえ。アタシの魔法がちゃんと効いてりゃ、そんなにはかかんねえだろ」
「………わかった。みんな、ほむらが目を覚ますまで少し休もう」
ルドガーのその提案に、戦いに慣れきっていた3人の魔法少女達は反発する事はなかった。
魔獣との戦いで疲労も蓄積しているし、もはや事態は世界中の全てを巻き込んでしまっている。確かにあまり悠長にはしていられないが、かと言って急げばいいのかと言われれば、3人は首を横に振るだろう。
ただ、戦いの経験がまだ浅いさやかだけはその限りではなかった。もっともさやか自身も、今回の旅行に同行してきていた母が間近で被害に遭っている。そう考えると無理もない話だが。
「ルドガーさん!? あたしは大丈夫だよ! ほむら抜きでも、早くなんとかしないと……」
「…こうなった以上、ここで焦ってもいい結果にはならない。それに、どの道ほむらが居ないとカナンの地へは行けないと思うからな」
「それって、どういう………」
さやかのその問いかけに応える前に、ルドガーは敷き布団に寝かされたほむらの方を見て考える。
4つの道標は皆の手にある。が、既にカナンの地が顕現している今、道標に固執したところで特に意味はないのかもしれない。
だが、この死んだ世界を元に戻せる可能性を考えると、概念にすら干渉でき得るだろうほむらの存在を無視できないのだ。
そしてほむらは現に、ワルプルギスの夜を"次元の狭間を開き、そこへ幽閉する"という形で倒すことに成功しているのだから。
「最後のカナンの道標───"次元を斬り裂く剣"の役割には……たぶん、ほむらが当てはまるからだ」
4.
しばしの休息を取ろう、とは言っても、ゆっくりと足を伸ばすような意味合いでは決してない。
各々が受けた傷の治癒や疲労の回復に徹し、また、先のワルプルギスとの戦いで十全に蓄えのあるグリーフシードを使って、穢れをしっかりと浄化する。
各自があと80余りのグリーフシードを所持していたが、既に魔獣との戦いで数個は消費してしまっている。杏子に至っては、「寿命が半年縮んだ」などと冗談交じりに悪態をついていたが。
現在、被害者達を寝かせているのとは別の部屋には、今も気を失っているほむらと杏子、マミの姿だけがあった。
「………全く、とんでもねぇ事になっちまったな」
「ええ、本当ね…」
ルドガーは外の空気を吸いに行くと言って部屋を出て、キリカもそれに追随して行ってしまった。
さやかも席を外していたが、彼女は芯が強い。思い詰めることもないだろう。
正直なところ、この状況においても取り乱さずに前を向いていた事について、杏子は高く評価していた。
「………ここは、とても静かね」
「生きてんのはアタシ達しかいねえからな」
「佐倉さん…死んではいないわよ。ちゃんと呼吸してるわ」
「でも、魂がないんだろ? ……そんなの、生きてるって言えんのかよ」
彼らを貶める意味で言ったわけではない。それは、この状況において力及ばず、事態を防げなかった自分自身に対して向けた言葉だ。
「……ったく、まどかめ。虫も殺せねぇ小娘だと思ってたのによ」
「…私、まだ信じられないの。鹿目さんが魔女になってしまっただなんて。だって、契約してないのよ?」
「契約しかけたけどな。…まあ、そこんトコはアタシにはわかんねぇ。とにかく、だ。会ったら一度顔面張り倒す」
「……それ、暁美さんに聞かれたら怒られるわよ?」
「はっ、確かにな。そいつはアタシの役目じゃねえか……」
早く起きやがれ、馬鹿やろう。今も横たわるほむらに対し、杏子はそう投げかけた。
時同じくして、すっかり積もった雪景色を一望できる旅館の縁側に、ルドガーとキリカは隣り合って腰を下ろしていた。
「寒くないか、キリカ」
「ううん、平気だよ」
まるでずっと昔からそうであったかのように、2人の間には殆ど距離はない。
「さっきは、取り乱しちゃってごめん。…君を失うと考えただけで、冷静じゃいられなくなってしまった」
「俺こそ、悪かった。確証もない話をするべきじゃなかったのかもしれないし……」
「………ねえ、ルドガー。君にはまだ、私が何を願って魔法少女になったのかを話していなかったね」
「ん? ああ、まだ聞いてないな」
基本的に魔法少女の願いは、キュゥべえによって自然とマイナスの方へと向かうような、歪んだ形で叶えられてしまう。
ほむらを見ればそれを痛いほど実感する事ができるし、他の少女達もきっとそうなのだろう。
「私は元々は、人と話すのが苦手で…引っ込み思案な性格だったんだよ。だから、"違う自分になりたい。変わりたい"…そう願ったんだ」
「……違う自分に、か…」
「そう。その結果…私は確かに変わった。まるで2重人格者のようにね。引っ込み思案だった私は消え、今の私の性格になったんだ。
不思議な気分だったよ。"私"として生きてきた記憶は確かにあるのに、思い出そうとしてもまるで他の人の出来事のようにしか感じないんだ。"変わりたい"と望みはしたけど、それはこんな形での願いじゃなかった。……今の"私"は、契約によって作られた人格なんだよ」
「そう…だったのか……」
「ふふ、でも悪いことばかりじゃあなかったよ。私のいた世界で君と出逢って、この世界へとやって来て…その時初めて、私は本当の意味で変われた気がしたんだ。魔法少女になっていなければ、きっと君と出逢う事はなかった…だから、魔法少女になって良かった。今ならそう思えるよ」
そう言って柔らかく微笑むキリカの姿は、可憐で、それでいてどこか儚げに映った。
まるで、手を離せばどこか遠くへと消えてしまいそうな程に。
ルドガーはほぼ無意識の内にキリカの身体をぐい、と引き寄せ、気付くと両手を回して優しく抱き締めていた。
「る、ルドガー…!?」
「……キリカ。全てが終わったら、一緒に暮らさないか?」
「……………いいの?」
「ああ。お前を離したくないんだ」
「…………うん…!」
一度魔法少女となってしまえば、その命はとても儚い。
魔女を倒し、グリーフシードを得なければ生きてゆけないし、それも決して長くは続かないだろう。
もちろんルドガーはそんな理由でキリカを抱き締めたのではないし、キリカもまた、思ってはいても口には出さなかった。
たとえ短い命だとしても、ルドガーと共に歩んでゆけるならば、それは何よりも価値のある人生だと思ったからだ。
その想いは、好きだ嫌いだとか、愛や恋などという高尚なものではない。
ただ、共に在りたい。それだけを思って、2人は互いの存在を腕の中で確かめ合った。
そして残る青の魔法少女は、被害者達が寝かされている方の部屋へと顔を出していた。
旅館の従業員をはじめ、まどかの両親、弟………そして、さやか自身の母親がそこにいる。
「………あたし、信じらんないよ。あんたがこんなコトするだなんて……」
あくまで状況による判断でしかないが、先の魔女はまどか自身であると見てほぼ間違いないだろう、と考える。
人魚の魔女と同様に、ある程度の自我を持ちながらも絶望によって歪みきった存在。
だとしても、さやかの知る"鹿目まどか"という人間は、世界中の人間の魂を抜き取るなどという愚行を犯すとは到底思えない。
何か、そうまでしなければならない理由があるのか。それともアレは、まどかではない"何か"なのか。さやかはそう考えていた。
寝かされているまどかの両親達を見て、さやかは独り呟く。
「…おばさま、おじさま。まどかは絶対にあたし達が連れ戻します」
たとえ魔女になっていようと、なっていまいと、関係ない。それは、親友としての精一杯の決意だった。
さやかは次に、眠る母親の方へ向き直る。
「お母さん、待ってて。…あたしが絶対助けるから」
そして雪景色の空を窓越しに見上げ、見滝原でも恐らく同じ目に遭ってしまっているだろう親友と、ようやく想いを伝える事ができた人に向けて、
「恭介、仁美。…………絶対に、
さやかは"親友を死なせない"という願いを込めて、悪魔との契約を交わした。
果たして、過去にどれだけの魔法少女がきちんと願いを叶える事が出来たのだろうか、それを知る術はない。
ただ、契約して以来…正確には、影の魔女の分史世界から戻って以来、さやかは時折考える。徹頭徹尾、願いとは自分の手で叶えなくてはならないのだ、と。
"契約"して力を手に入れることは、あくまでその足がかりに過ぎない。ならば、
「待ってなよ、まどか」
この手で掴み取ってみせる。
5.
夜空が白く塗りつぶされ、粉雪もすっかり大粒の雪へと変わり始めた頃、時計の針はすでに日付を跨いでいた。
そうしてようやく、眠り続けていた少女は目を覚まし、ゆっくりと布団から半身を起こした。
「………ここ、は……」
「よう、やっとお目覚めか?」
「…杏子」
杏子だけではない。旅館の一室には休息を終えた仲間達全員が集まっていた。
「………私に、暗示をかけたのね」
「ご名答。…おっと、
「…わかっているわ。自分で言うのもなんだけど…今の私は、冷静に自己分析できていると思う」
「じゃあ早速質問だ。…まどかに何があった?」
敢えて杏子が率先的にほむらに問いかけた。先刻までは錯乱しきっていて、まともな受け答えなど全く期待できなかったが、
「………この状況を
「乗り移った、だぁ?」
「ええ。以前まどかはインキュベーターと契約しかけたでしょう。あの時は契約は成立せず、魂の転換はされなかったけれど…まどかに蓄積していた因果係数が表面化してしまったの。言うなれば、人間のまま魔法少女になりかけている状態だったの」
「………そんな事が、あり得るのかい」と、キリカが息を呑みながら言った。
「私も、こんなケースは初めて見るわ。…そうして、半分魔法少女となっていたまどかに"救済の魔女"……かつて鹿目まどかだった存在が乗り移り、身体を支配しているの」
「! ……よりにもよって、ソイツかよ…」
と、悪態をついたのは杏子だ。
救済の魔女の存在自体は、ほむらの口から度々説明されている。かつて他の世界でまどかが魔女と化した、ワルプルギスの夜をも上回る最悪の魔女だという事は、もはや言うまでもなかった。
全国規模で被害が出ている今回の件も、救済の魔女がやった事だと考えればある意味納得だった。
「まどかを助ける方法は、あるのか」と、ルドガーが真剣な目つきで問いかける。
「可能性としては低いけれど、あるわ。単純な話だけど…まどかの身体から救済の魔女を引き剥がし、倒す。…けれど、まどかの魂そのものも救済の魔女と同化してしまっていたら、引き剥がす事は出来ないわ。それに、救済の魔女を倒すだけではこの世界は救えない。……私の力が及ぶかどうかはわからないけれど、昇華してしまった魂を地上に戻す必要があるわ。でなければ………」
この星は、死ぬ。言葉に出さずとも、全員がそれを理解していた。
ほむらは布団から出て立ち上がると、ぱちん、と軽く手拍子を打ち、漆黒の衣装へと早変わりした。
「行きましょう」
「おい、ほむら。……やれるんだろうな」
なおも杏子は、ほむらに対して直接的な質問をぶつけた。まどかを救うにしろ、救えないにしろ、救済の魔女を倒さなければ先へは進めない。
しかし、杏子の求めている答えはそんなつまらないものではなかった。そして、それを見抜いているかのようにほむらも、
「愚問ね、杏子。まどかは私の恋人よ? ……絶対に助けてみせるわ」
「へっ、そうこなくっちゃな。やっと調子が戻ったみてえだな!」
「ええ、誰かさんの荒療治のおかげでね」
もはや俯いたりなどしない。
杏子の暗示で正気を取り戻したから、というだけではない。
砂時計の盾を捨てた時、「もう2度と諦めたりなんかしない」と誓ったから。
この世界も、まどかも、両方とも救ってみせる。ただそれだけの想いを胸に秘め、今再び
目指すは空へ浮かぶ特異点。そしてその先のまだ見ぬ地─────