第32話「もしも、もう一度だけ逢えるなら」
1.
ワルプルギスの夜との戦いから、早2ヶ月。
災厄の襲来などまるで無かったかのように瓦礫の山から綺麗に元通りになった見滝原市内は、世間一般でいう"夏休み"の時期に差し掛かり、学生服を着た姿は殆ど見られなくなった。
人々の記憶からも具現化した災厄の姿は抹消され、『ただの大嵐が見滝原を襲った』程度の認識しか残されていない。記憶は、戦いの場にいた数名だけに残されていた。
女神の力を奪った悪魔としての記憶を取り戻したほむらもその例に漏れず、長きに渡る時間遡行の旅から解放され、体感で10年以上ぶりに夏という季節を迎えていた。
「………はぁ……」
他に誰もいない部屋で退屈そうにため息をつきながら、ほむらは珍しく(とはいえ戦いが終わってから頻度が増したが)テレビをつけ、朝のニュースを観ながら約束の刻限を待っていた。
しかしほむらがテレビを観るようになったのと本当にごく最近で、一時期は某国民的猫型ロボアニメすら知らずにさやかに小馬鹿にされた程だ。
観るようになったと言っても基本的にニュースやワイドショーしか観ない。特に、ワイドショーを見られるのは夏休みである今だけだ。
だが、魔法少女になる前は殆ど入院生活を送り、契約してからはテレビなど眼中にもなかったほむらは、昨今の人気芸人や若手俳優、子供に人気の深夜アニメなどを全く知らず、また特に興味も示さないから、必然的に観る番組は限られていった。
そんなワイドショー番組も、せいぜい今年何度目かの危険ドラッグの逮捕者が出た、都内で
現に、ほむらが今着目しているのは画面の隅の簡易天気予報図と、現在9時24分を指している時刻のテロップという始末だった。
そろそろ、来るはず。そう思いちゃぶ台についていた肘を離して立ち上がるとほぼ同時に、やや旧式の呼び鈴が外から鳴らされた。
「おっはよー、ほむら!」
ドアの前に立っていたのは仲間達の中で一番夏が似合いそうな青髪の少女・美樹さやかと、左右で異なるソックスをわざと履いた、モノクロの印象が強い少女・呉キリカ。
そして、おそらくたった今
戦いの後にほむら、ルドガー、キリカの3人は同居を解消し、別々の暮らしをとるようになった。
ルドガーは戦いからしばらくして新しく仕事先を見つけ、ほむらの部屋の隣の空き部屋を借り直して生計を立てている。
キリカの方は、正史世界においての
そのどちらにも、ほむらの力によるサポートが大きく働いているのは言うまでもない。
「私も昨日でやっと補習が終わったんだ。今日からようやく夏休みだよ」と、キリカは微笑みながら皮肉っぽく言った。
初めて出会った時と比較すると、随分と柔らかな表情をするようになったものだ、とほむらは感心しながら、
「お疲れ様、センパイ」
と返した。
「んじゃ、そろそろ行こっか!」
「そういえばさやか、今日はどこに行くんだ?」
かくいうルドガーは、少し遅い朝食をとってたところにキリカからインターホンを鳴らされ、行き先を聞かされないまま呼び出されたのだ。
恐らく、欠席分の補習が完了してようやく暇になったから久しぶりに会いにでも来たのかと思っていたが、どうもそれだけではないようだ。
「あー…そういえば、まだ話してなかったですね。実はこの前、今度海に行こうって話になったじゃないですか?」
「ああ。確か、来週だったっけ。ちゃんと仕事も空けてあるよ」
「んで、まさか…と思って聞いてみたら、キリカもほむらもスク水しか持ってないっていうんですよ? まあ2人とも海とは無縁っぽいですし…だから、これから買い物に行こうって話になったんですよ」
「……つまりアレか、水着を買いに行くのか!? それって俺いない方がいいんじゃないのか…?」
「うーん…でもキリカがどうしてもって言うし。なんなら、私らが選んでる間、ルドガーさんも自分の水着を買っちゃえばいいんじゃないですかね?」
「……そ、それでいいのか」
どうやらルドガーを呼びつけたのは想定外らしく、キリカの独断によるものだったようだ。
そのキリカはというと、
「任せておきたまえ。私が君に似合う水着を選んであげよう。その代わり私のも…」
「い、いや大丈夫! 自分で選ぶから! キリカはさやかに選んでもらってくれ!」
………ルドガーに対する信頼感と、世間的な感覚とのズレは相変わらずのようだった。その様子をほむらはどこか微笑ましい顔をして眺めていた。
「ふふっ。あなた達、うちに居た頃とまるで変わらないわね」
「そういう君は、前よりもユーモラスになったんじゃないかい?」
「伊達に
敢えて以前のキリカの年齢発言を皮肉った返事を返す。
しかし家で退屈していたほむらは、実のところ誰よりも今回の誘いを楽しみにしていたところもある。もっとも、本命の海まではまだ数日あるのだが。
「さあ早く行くわよ、さやか」
「お、張り切ってますなぁ? さてはほむら、まどかに色っぽい水着見せびらかしたくてしょうがないと見た!」
「ふふ、そうね。早くまどかの
「…っ!? なんだろう、すごく良い事を言ってる筈なのに、今物凄い悪寒が…!?」
悪魔の風格というか、真夏の太陽が射し込み暑い筈なのに、さやかは背筋がぞくりとするような感覚に襲われた。
しかしルドガーとキリカは今のを他愛のない言葉としか感じていないようで、今の一言は明らかにさやかをからかう為のものだと気付いたが、今更突っ込み返しても別の悪戯を差し向けられそうな気がしたのでやめた。
何しろ相手は神にも等しき力を手に入れた悪魔なのだから、どうあっても勝ち目などある訳がないのだ。
2.
さやかを筆頭とする一行がやって来たのは、結局のところ普段からよく行くショッピングモールだった。
それでも夏休みシーズンを迎えてモール内は装飾が微妙に変化しており、特に朝だというのに、学生と思しき歳頃の人々でごった返している。普段から買い出しでよくここを訪れているルドガーからしてみても、マクスバードの商業区並に賑わうショッピングモールに懐かしささえ覚えていた。
さやかを筆頭に人混みを掻き分けながらショッピングモールを進んでゆき、何軒目かの店の前で止まると、そこは明らかに女性向けの洋服屋。ショーウィンドウの中には砂浜と海の背景の壁紙と可愛らしい水着を着たマネキンが2体ポーズをとっており、水着を前面に推してセールをやっているようだ。
(…………ここ!?)
ルドガーは困惑しながらもこの場から逃れるべく、男性物の洋服屋をキョロキョロと探すが、どうやらこの一角自体が女性向けの店ばかりのようで、その内にこの空間にいること自体が場違いに思えてならなくなってくる。
少なくとも、この3人と共に眼前の店内に入るという選択肢だけは存在しなかった。
「………うん、俺はちょっとあっちの方見てくるよ」
「あっはは、わかりました。あたしらはこの辺適当に居るんで、あとで声かけますね」
「あ、ああ…後でな」
そそくさとルドガーが立ち去るのを見届けた3人はいよいよ店内へと上がり込む。
少し歩くと、案の定服をたたみ直していた女性店員に「お探しでしょうか?」と声をかけられた。
もとよりほむらの水着を選んでやると豪語していたさやかは、店員のその気遣いは必要としていなかったのだが、話しかけられた手前断り辛く「あ、いや…」と曖昧な返事が出る。それを見かねたのかほむらがさっ、と前に出て、
「いえ、大丈夫です。今日は私の大事な親友に選んでもらう約束だったので」
と、妙ににこやかに店員に返した。
「…っ!?」
女性店員はただにこにこしながら答えているだけのほむらに対し、何故か言い表しようのない
「こら、ほむら! 店員さんを脅かすなって!」
「脅かしてなんていないわ。私はただ、本当の事を口にしただけよ」
「……あんた、絶対悪魔になってから性格変わったよね。主に悪い方に」
さやかは呆れたようにため息をついて言う。全ての障害や使命から解放され、抑圧されていた何かがようやく表に出てきたのだろうと多めに見ていたが、どうも今日は特に目に余るものが多いように感じる。
ともあれ、早いところ水着を選んでルドガーと合流しよう、とさやかは気を取り直して水着のコーナーへと2人を連れてゆく。
「うっわ…人多いねぇ」
夏休みも始まったばかりで当然といえば当然だが、かなり混み合ってはいた。それでも歩けない程ではないので、どうにか人の波を掻い潜りながら目当ての場所へと辿り着いた。
「……私、こういうものを身につけた事がないのだけれど」
「だーかーらあたしが選んであげるって言ってんのよ。…うん、そうだね。あんたの場合は黒いのが似合いそうだね」
「あなたの中では私は腹黒いイメージだという事ね」
「いやいや、だってあんたの新しい"衣装"まんま真っ黒だし? 白い肌に長い黒髪…あとは色っぽい水着でキメればまどかもイチコロよ? あとは、キリカのもか……ん?」
ふと、キリカが自発的に手に取っていた水着に視線が向かう。
ほむら共々学校指定の水着しか持っていなかった時点で、水着を選んだことがない事は察していたのだが、
「………あ、あんた。一応訊くけど、まさか"ソレ"を着たいとか言うんじゃあないよね?」
事もあろうに、キリカが手にしていたのは妙に布面積の少なく派手な、キリカよりもひと回りほど年上ぐらいの女性にこそ似合いそうなデザインの水着だった。
「この前、テレビで見たんだ。こういうのを着ると嬉しがるものなんだろう?」
「却下!! そんなのあたしが許しませんよ! だいいちそんなの誰に見せるっていうのよ……まさか、ルドガーさん?」
「………まあ、うん。彼にはいつもお世話になりっぱなしだし、私なりに恩を返してあげたいと思ったんだけど」
「…気持ちはよ〜くわかるけどね? そういうのはもうちょっと大人になってからにしなさい。でないとルドガーさんが困るから。もちっと年相応なのを選ぼうね?」
「仕方ない、君に一任するよ」
やはり、ほむらは兎も角としてこの場についてきて正解だった、とさやかは改めて実感した。
仮にキリカひとりに選ばせたら、当日になってとんでもないモノを着てきそうな予感がしたのだ。
特にさやかから見ても、かつてワルプルギスとの戦いでルドガーを庇って負傷した事もあって、キリカはルドガーの為なら何の躊躇いもなく行動を起こす傾向がある。
布面積が少ない=ルドガーが喜ぶという結論に至ったおめでたい思考回路を、なんとしても今日中に改善してやらねば、とさやかは心に固く決めた。
…だが、一連の流れの中でやはりさやかの心の中には気がかりな事がひとつあった。
「……あのさぁ、キリカ。改めて聞くけど」
「なんだい、さやか」
「そこまでしてルドガーさんに喜んでもらいたいって事はさ……やっぱあんた、ルドガーさんの事好きなんでしょ?」
「………それが、わからないんだ」
「えっ?」
「私は、今まで誰かに対してそういう感情を持った事がないし、どういうものかすら分からない。ほむらがまどかに向けている感情を"愛"と呼ぶのだろうけれど、私にはその"愛"が何なのかわからないんだよ。
どうしてほむらはあそこまでまどかの為に戦えたのか。彼女を見ていればそれがわかると思っていたけれど……結局まだ分からずじまいなんだ」
呆れたものだ。この期に及んでキリカは未だに自分自身の感情を理解していないのか、とさやかは思った。
「……じゃあ逆に訊くけどさ。あんたはこの世界に来てからずうっとルドガーさんの為に色々尽くしてきたじゃない。それはなんで?」
「それは…私は、彼にずっと助けられてきたから。ルドガーが連れ出してくれなかったら、私は"私の世界"ごと消えて無くなっていた。それに、ルドガーといると新しい発見ばかりなんだ。彼と一緒にいるのが、すごく楽しいんだ。…そうだね。言われてみれば、こんな風に思えた事は今までなかった」
「ふぅん…でも、それだけであそこまではできないよね。ルドガーさんがワルプルギスにやられて死にかけた時、あんた血相変えて真っ先に駆けつけてったじゃん」
「……あの時は、私の心臓も止まりそうだった。"ルドガーが死んでしまう"って思っただけで、すごく怖くなったんだ。彼を失いたくないと心から思った。……これが、君達のいう"愛"だとでもいうのかい?」
「さぁねえ。あたしからは何とも言えないよ。…でも、だいぶ惜しいとこまで行ってるんじゃないかな?」
それ"だけ"では単なる依存だ。さやかはそう心の内で思っていたが、言葉には出さなかった。最後の一歩はやはりキリカ自身に歩ませなければならない。自分自身がそうであったように。
「まあ、あたしから言えることは一つだけよ。やって後悔するのと、やらずに後悔するんだったら、絶対にやった方がいい。…あたしは、何も言えずに後悔した"あたし自身"をこの目で見ちゃったからね」
「君は、後悔せずに済んだのかい?」
「まあ、ねぇ。お陰様で恭介に気持ちを伝えられたし…仁美とも喧嘩別れみたいにならなくて済んだ。ほんとは、仁美に対して申し訳なく思うこともあるけど…それは言わないことにしてる」
「ふふ、君らしいよ。君はいつもみんなの事をよく見てる。よし、ならやはりこの水着を……」
「他のにしなさいっ!」
言いたいことがちゃんと伝わってるのか? と少しばかり不安になるが、恐らくキリカなりに陰鬱になりかけたムードを払拭しようとしているのだろう、と思うことにした。
そして水着を探そうと振り返るとそこには、
「……………何やら、興味深い話をしているわね?」
…いつの間にやら、足音すら立てずにほむらがさやかのすぐ後ろにまで接近して話を聴いていた。
ほむらは髪留め代わりにしているまどかのリボンに、愛おしそうに手で触れながら、
「センパイ、悩める貴女にとっておきのアドバイスを送るわ」
「…今朝もそうだけれど、君は何故今更になって私を先輩呼ばわりするんだい? 確かに学年は私の方が上だけれど……」
「私がこうなれたのは、かつて他の時間軸のあなたから、"愛"の在り方を教わったからよ。その時の言葉をそのままあなたに贈るわ。『愛は無限に有限』よ」
「…………? どういう意味だい、それ」
「それは内緒。でもその意味が理解できた時、あなたにも"愛"というものがきっと理解できるわ」
「……うーん、今の私にはわからないよ」
自分は哲学者ではないのだが、どうやら他の時間軸の自分はその限りではないようだ、とキリカは思った。
(そもそも、識ったところでどうなるというのさ)
だが、キリカはほむらからの助言にも取り敢えず耳を貸したが、それを深く思考する事はなかった。
人魚の魔女結界でほんの少しだけ語られた、ルドガーの過去の出来事。自分と同じ境遇で正史世界へとやってきた大切な仲間を、亡くしてしまったという過去。
(………だって、ルドガーの心の中には今もその人がいるんだ。仮にこの想いが"愛"だとしても、どうにもならないよ)
そして、その"仲間"がルドガーにとってどういう存在だったのかはキリカだけが知っているのだ。
3.
数千、数万もの魔女の魂を内包したワルプルギスの夜から回収する事のできたグリーフシードの数───391個。
ルドガーを始め、魔法少女達が一丸となってワルプルギスを何度も追い詰め、その結果、倒し切るには至らなかったが、削り取った集合意識の欠片がそのまま残されたのだ。
少女達はこれを、浄化の不要なほむら以外の4人で分けることとし、1人あたり90個以上のグリーフシードを分配され、その端数のみほむらが保有する事となった。
全く戦闘を行わず、魔力の行使も最低限に抑えれば、ちょうどひと月でグリーフシード1個分の穢れが貯まる程度で済む。
分配されたグリーフシードの数から逆算すれば、およそ7、8年分の貯蓄があるという事になる。
これならばわざわざ魔女と戦わずとも生き永らえることができる───少女達は当初、そう思っていた。
しかし、問題はその先にあった。
予想し得なかったほむらの"悪魔"への進化と、それによる魔法少女システムへの叛逆、並びに絶対攻略不可能な存在、そして、自身を上回る凶大な魔女を創る為の装置として誕生した、地球においての原初の魔女・ワルプルギスの夜の討伐。
厳密に言えば次元の狭間に幽閉されただけなのだが、ほむらが解放を望まぬ限りは永遠に封印されたままなのだから、討伐されたものと同意義だった。
それを受けたインキュベーターは、これ以上のほむらへの干渉は危険だと判断し─────この見滝原市から完全に手を引いた。
ワルプルギスの夜が封印された日以来、およそ2ヶ月が経過するが───その間、新たな魔女が見滝原に現れることは一切なかった。
かく言うルドガーも、魔女が現れなくなったことにより戦いから身を引いたのだが、この現状をあまり好ましく思ってはいなかった。
確かに魔女は現れないに越した事はないが、それはあくまでこの街においてのみだ。
ほむらによれば、見滝原周辺以外の各地には未だ魔女は多く潜んでいるようだ。単純に、インキュベーターが意図的に見滝原に現れる筈の魔女を他の地域へと飛ばしているのかもしれない。
魔法少女システムを理解し、ワルプルギス戦で大量のグリーフシードを手に入れ、なおかつ、
事実、このまま何も手を打たずにいれば、4人の少女達は8年後には全員その命を散らせるか、他の縄張りを荒らしてグリーフシードを奪うしかなくなる。そうして、永遠の命を得てしまったほむらだけが取り残されるのだ。だがあの少女達が後者を選ぶとは思えない。その1点だけが、ルドガーを悩ませる原因だった。
(……………かと言って、俺にどうこうできる問題じゃない。何か方法はないのか? ほむらみたいに浄化の要らないようになる方法か……普通の人間に戻れる方法は)
混雑するショッピングモールの中を歩きながら思考するルドガーの表情は、久方ぶりに少女達と再会したことで、唯一残る命題を思い出して険しくなっていた。
(………そうだ、もしも、もう一度だけ逢えるなら……)
ルドガーが思い出したのは、ワルプルギスに殺されかけた時に夢の中で再会した、かつての仲間───"ミラ"の姿だった。
思えば、あのミラは何でも識っているかのような口ぶりだった。
ルドガー自身でさえも気付けなかった、この身が精霊として転生しているという事実を始め、ルドガーが密かに抱いていた"少女達を守る"という新たな使命さえも。
彼女なら或いは、何かを知っているのではないのか。だが、どうすれば逢えるのか? そもそもあれは、現実のものなのか。
(……あれは俺の夢、願望なのかもしれない。そんなものに縋ったって、どうにかなる問題じゃない)
ワルプルギスを倒し、未だ見ぬ未来を切り拓いたとしても、本当の意味でのルドガーの戦いは終わったわけではなかった。
4.
答えの見えぬ命題に頭を悩ませながら漠然と歩いていたルドガーの足は、いつの間にか衣類売り場ではなく、高級石鹸の匂いが漂う雑貨売り場の一角へと向いてしまっていた。
しまった、と思って踵を返して引き返そうとしたその一瞬、視界の中に見覚えのあるような髪色が映る。
「………ん? あれは……」
ルドガーが気付くよりも早く、その桃色の髪をした少女の隣に立っていた黒いミディアムショートの女性がこちらに気付いたようで、
「おーい! あんた、こっちこっち!」
と、人目も憚らずに大声で手を振ってきた。
まさか、さやか達に連れられてきた先で出会うとは微塵も思って見なかったルドガーは、面食らったように振り返ってその姿を再確認する。
人混みのなかに悪目立ちして立っていたのは、およそひと月近く会っていなかったまどかと、ワルプルギスとの戦いで顔を合わせたきりの鹿目 詢子の2人だった。
大声でこちらを呼ぶものだから仕方がない、とルドガーは人混みをかき分けて2人の方へ向かった。
「久しぶりだねぇ。あの時はうちの馬鹿娘が世話になったよ」
「いえ、俺は大した事はしてませんよ。まどかも、元気にしてたか?」
「はい。おかげさまで」
久方ぶりに見るまどかの姿は、以前見た時よりも幾分か雰囲気が変わっていた。
契約しかけた反動で一気に伸びた髪は、腰の辺りぐらいの長さへと整えられて、翠色のリボンで小さなふたつ結びをつくって上手に纏められている。
顔つきからもあどけなさが少し薄れ、落ち着きが増したようにも感じられた。
それだけ、あの戦いや出逢いがまどかを成長させたのだろう。
「ルドガーさんは、今日は買い物ですか?」
「ああ、さやか達に連れて来られてな。他のみんなは今水着を探してるから、俺だけこっちに来たんだ」
「えっ、じゃあもしかして…ほむらちゃんも居るんですか?」
「向こうにいるよ。……どうかしたのか?」
「あ、いえ…大したことじゃないんですけど……」
まどかはほんの少しばつが悪そうに、それでいてやや顔を赤らめてどもる。
そんなまどかを尻目に詢子は、
「はっは、まどかったらカノジョを驚かせようとして、内緒で新しい水着を買いに来たんだよなぁ?」
「も、もうママったら!」
「ごーめんごめん。でもさぁ、ほむらちゃんもあんたに何も言わずにここに来たってコトは…案外向こうも同じこと考えてたりして? 全く、若いっていいねぇ?」
「うー………」
詢子にからかわれたまどかは完全に赤面して、長い桃髪をひらひらとさせながらそっぽを向いた。
その様子さえも微笑ましい表情で眺めている詢子だったが、ふと閃いたように関心がルドガーの方へと向かう。
「そういやルドガー君。あんたはどうなのさ」
「へ? お、俺? 何がですか?」
「あんたなかなかイケメンだし、あんな化けモン相手に向かってくぐらい度胸あるし…モテるんじゃないの?」
「い、いえいえ! そんな、俺はモテた事なんかありませんよ」
誠に残念ながら、過去にルドガーは意中の相手に告白して失敗に終わったことがある。それも、度々手違いが発生して実質2人に振られているのだ。
それ以来、ルドガーの恋愛観は自身を卑下するところから始まるようになってしまっていた。要は、自信の問題だ。
「そうかい? んー…例えば、あの"キリカ"って娘なんかは随分とあんたに懐いてるように見えたけど、あんたも満更でもないんじゃないのかい」
「あれは……どちらかと言うと兄妹みたいに懐いてるだけですよ。たまたま縁があってしばらく一緒に住んでましたけど…」
「ふぅん。ま、ルドガー君がそうでも、キリカちゃんの方はどうかな? あれくらいの歳の女の子は、あんたみたいな頼れる男に憧れるもんなのさ」
「まだ、子供ですよ」
「すぐ大人になるさ。女の方が心の成長が早いんだよ?」
とは言いつつも、確かにキリカの懐きようは少々度を越しつつある自覚は以前からあった。
ルドガー自身にもキリカの居た分史世界を破壊した負い目があり、居場所を失くしてしまったからこそ、キリカは身近にいたルドガーに懐いているのだと自分に言い聞かせていた。
「ま、ルドガー君は女の子を泣かせるような男じゃなさそうだしね。そこら辺はあんた達次第だよ」
「は、はぁ………」
相変わらず、柔軟というかフリーダムな人だとルドガーは思った。
そもそも、キリカが本当に自分に好意を抱いているのかと決まったわけではないのだ。
(………けれど、もし本当にそうだとしたら…)
しかし、実際はそれを認めたくないだけなのかもしれないと自己分析をする。何故なら、ルドガーの心の中には、2度と逢えないと解っていても決して忘れ得ぬ1人の女性の姿が焼き付いている。
もしも本当にキリカが好意を抱いているとすれば……その時、自分は何と応えれば良いのだろうか。また一つ、困難な命題がルドガーに課せられることとなった。
5.
──────それから、9日後。
内陸に位置する見滝原市から電車に乗り、数回の乗り換えを経て、およそ3時間半ほどかけた先にある他県の海へと一向はやってきた。
今回、1泊2日の小旅行に参加した人数は11人。さやかと、その母。まどか、鹿目夫妻、まどかの弟のタツヤ。そしてマミ、杏子、キリカ、ほむらの魔法少女組と、最後にルドガーという大所帯だ。
比較的人の入りの少ない場所を事前に調べ上げたつもりだったのだが、夏休み真っ只中ということもあり、存外遊びに来ている者達で既に駅のホームはごった返していた。
外気温は34℃。じりじりと照りつける陽射しが心地良いが、見滝原と比べて幾分か湿度が高いようにも思える。その分、海面は遠目から見ても澄んでおり、東京の濁った海と違って子供が泳ぐのにも適しているように見えた。
「はぁー…やっと着いたぁ!」
「海なんてすっげぇ久しぶりだなぁ…おい、さっさと泳ごうぜ!」
駅の改札を抜けて開口一番、さやかと杏子の赤青コンビが揃って両腕を伸ばしながら言った。
「ほむらちゃん。あの2人、仲が良いよね」
「ええ、まどか。なんだかんだであの2人は相性が良いのね」
「………あなた達程ではないと思うのだけれど…?」
赤と青の2人を見てまどかとほむらが微笑ましく言葉を交わすが、その手と手はしっかりと繋がれている。それを見てしまっていたマミは、複雑な心境でぼやいた。
駅のホームから移動し、砂浜沿いにある海の家のなかから比較的空いている場所を選んでずらずらと上がってゆく。
11人という大団体で、そのうち大人が4人しかいないとなるとやはり目立つようで、微笑ましい視線が周囲から自然と集まる。
「じゃあ、私達は向こうで着替えてくるわね」と、ほむらはルドガーに言い残して、女性陣8名を引き連れて女性更衣室へと入っていった。
残る知久とタツヤ、ルドガーは対面に位置する男性更衣室へと入ってゆく。2人がちゃんと対面するのは実はこれが初めてであり、ルドガーはやや緊張していた。
そんなルドガーの様子を察したのか、知久の方から声をかけてきた。
「詢子さんから色々と聞いたよ。うちのまどかが大変お世話になったそうで…どうもありがとう」
「そんな、詢子さんにも言いましたけど俺は大した事はしてませんよ」
「そんなに謙遜しなくたっていいさ。ところで今日は随分と見慣れない娘たちがいるみたいだけど…あの娘達も、"魔法少女"なのかい?」
「ええ、まあ……最近は化け物も現れないし、今は休業中ですけど」
「そうか、それは何よりだよ。………うちの娘のこと、君も大体のことは知ってるんだよね?」
「? もしかして、ほむらの事ですか」
やや空間に余裕のある更衣室内に、知久の声が静かに耳に入る。手早く着替えてゆくが、水着を履いたあとに2人揃って似たようなパーカーを上半身に羽織ったところで、くすり、とどちらともなく笑みがこぼれた。
「最初はびっくりしたけどね。進級してからずっと家でほむらちゃんの話ばっかりしてたから、ずいぶんと気に入ったんだなぁ、とは思ってたんだけど……」
「知久さんは、2人の関係についてはどう思って?」
「そりゃあ勿論、応援してるさ。形はどうあれ、あのまどかが初めて連れてきた"大切な子"なんだから。僕たち親が応援してあげるのは当たり前だよ」
「そうですね…俺も、2人には幸せになって欲しいと思いますよ。ほむらにとっても、やっと掴んだ幸せなんですから」
男同士思うところも似ていたようで、いつしかルドガーの肩の力も自然と抜けていた。
着替えを済ませて戻ると、既に女性陣のうちマミ、杏子、ほむらが着替えを済ませて待っていたのだが、何故かほむらは座ったままやや俯いて、顔を右手で抑えていた。
「………どうしたんだ? ほむら」と、ルドガーは怪訝な表情で問いかける。ほむらは既に人の身を超えた存在、本人曰く"悪魔"。滅多なことでは体調を崩すことなどない筈だが、しかし代わりに答えたのは、何やら肩を震わせて笑いを堪えている杏子だった。
「ぷぷ、こいつまどかと同じとこで着替えんのに耐えらんなくてトンズラしてきたんだよ! なぁほむら!」
「………うるひゃいわね、
「佐倉さん、あまりからかうのは良くないわよ。暁美さんも、そろそろ鹿目さん達が戻ってくるんだからしゃんとしなきゃ」
「
どうやら大事ないようだが、何故か鼻声でなんとも彼女らしくもない様子に、ルドガーの脳裏に疑問符が浮かぶ。
そこに、遅れて着替えを終えたまどかがリボンの代わりにヘアゴムでまとめ直した髪を大きく揺らしながら更衣室から現れ、ほむらの元へ慌てて駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫ほむらちゃん!? 急に鼻血出すからびっくりしたよ!」
「…大丈夫、大丈夫だからまどか、あまり大声で言わないでもらえるかしら…」
「…本当に大丈夫? 具合悪いならここでじっとしてた方が…」
「私は悪魔よ。もう治ったわ」
そうは言いつつも、ほむらはややまどかから視線を逸らし気味に答えるばかりだ。
ちなみに現在まどかが身につけているのは、薄いピンクを基調とした、なんとも彼女らしい春色のデザインの水着であり、黒をイメージしたほむらのそれとはまるで対照的だ。
しかしすぐ近くにマミというスタイルの良過ぎる比較対象もおり、ルドガーから見てもまどかの水着は可愛らしいという印象以外は特に受けなかった。だが、ほむらからしたらその限りではないようで、横顔がほんのり紅くなっているのがわかる。
「ほむらちゃん! ちゃんと私の目を見て答えてよ」
と、まどかが半ば強気にほむらの肩を掴んで向き直らせながら言った。するとほむらはまどかの水着姿を至近距離で見るかたちになり、その結果、
「──────あ……」
とても美しい芸術品を目の当たりにしたような、はたまた爪先に触れる事すらおこがましい聖母の如き存在と対面してしまったかのような、何とも形容し難い表情をしていた。
恐らく今のほむらならば、かつて「地球は碧かった」という名言を遺した偉人の心情を理解する事ができるだろう。
「……ほむらちゃん? そ、そんなに見つめられると恥ずかしいなって………」
「………きれいよ、まどか…」
「ふぇ!? そ、そんな! ほむらちゃんの方がもっと綺麗だよ」
「そ、そんな事ないわよ……まどかの方がずっと素敵……」
ああ、また始まった─────と、残る9名のうちの数人(主にさやか等)は呆れていた。
こうなるとしばらく2人の視界にはお互いしか映らないだろう。実際、2人の周囲には砂糖菓子にバニラエッセンスと黒蜜を更にぶっかけたくらいの甘ったるい空気が漂っており、見ているだけで何というか、昼食もまだ摂っていないのに胸焼けしそうな勢いだった。
唯一、2人の関係を未だに知らない一般人であるさやかの母親だけは「あらあら、仲良しなのね」と微笑ましく見ていたのだが、様々な障害を乗り越えて結ばれた2人の関係は、"仲良し"程度で片付くものではない。
そして何を思ったのか、知久が抱きかかえていたタツヤまでもがその2人を見て、「ねえちゃ、らぶらぶー♪」と言い出す始末だ。
「…はいはーい! あの2人は放っといてご飯食べよっかー!」
何度となくこのようなやり取りを目撃してきたさやかは、もうすっかり慣れた様子で2人をスルーする事に決めた。
「…る、ルドガー………」
皆が昼食を摂る為にいそいそと移動し始めるなか、何やら普段よりもしおらしく見えるキリカが、小さくルドガーに声をかけた。
「どうした? キリカ」
「その……私のこの格好、君はどう思うかな? へ、変かな………」
キリカが今着ている水着は、黒の肩紐がデコルテの位置で交差したデザインの、小柄だが女性らしい丸みをもつ彼女に良く似合う水着だった。
これもさやかがキリカの為に、とチョイスした逸品なのだが、いざ当人を前にすると流石のキリカも狼狽えていた。
が、そんなキリカを前にしてルドガーはただ正直に、
「変なんかじゃないさ、可愛いよ」
「か、かわ…っ!? そ、そそそそそうかい! き、君のために選んだ甲斐があったよ」
「俺の……為に…?」
ルドガーは特に下心を含めて答えたわけではない。しかしキリカは恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに赤面している。
その様子を見て、ようやくルドガーはキリカが狼狽えている訳を少しだけ理解した。
「テレビで観たんだ。こういうのを見ると嬉しいものなんだ、って」
「…………どんな番組を観たんだ…?」と、ルドガーは軽く目眩を覚える。あまりメディアの情報を鵜呑みにすべきではないと教える必要がありそうだ。
「それで、その…聞かせてくれないかな、感想」
しかし目の前にいる相手は、自分よりもやや年下の娘。しかも、自分に対して少なからず平均以上の感情を抱いている、だ。それを意識してしまうと、過去にトリグラフ駅で幼女痴漢の濡れ衣を着せられかけた事もあって、素直に感想を述べるのが憚られてしまう。
だが、どうやらキリカは自分の為に相当の覚悟をしているようだ。それに応えないのもまた、彼女への無礼である。
その2つを天秤にかけた上でルドガーの出した答えは、
「………まあ、うん…嬉しい…かな」
「…!! そ、そうかい! 君が喜んでくれたなら何よりだよ!」
先程までのしおらしい表情は何処へやら、瞬時に太陽のような明るい笑顔へと変わり、はしゃぎ出していた。
相変わらずころころと表情がよく変わる娘だ、とルドガーは思った。しかし、この世界を自分の居場所だと実感し、笑顔でいてくれる事は、ルドガーにとっても安心感を抱かせてくれるのだ。
その好奇心こそが今の彼女の原動力なのだろう。ならばそれを止める事はすまい、と改めて考えた。
6.
「ところで、今回海に来るの初めてなのは?」
昼食を終えていよいよ砂浜の上に出て、強い陽射しが差す中で、さやかが不意に少女達に問いかけた。その質問に挙手したのは2人。キリカとほむらだけだ。
「私は昔入院してたから、海は初めてね」
「入院? 君がかい?」さも意外そうに傍らのキリカが返す。
「魔法少女になる前は心臓を患っていたのよ。海なんてもっての
「でもほむらちゃん、泳ぐのすごく上手だったよ? 私、見とれちゃったもん」
と、まどかもほむらの発言にやや首を傾げながら尋ねた。
「あれは……さやかの泳ぎ方を見て真似しただけよ」
「え、あたし?」
「そうよ。あなた余程水と相性が良いのか、クラスの中で1番上手だったように見えたもの」
「いやぁ照れるなあ、あっはは! そんじゃあほむら、あたしと競争する?」
「面白そうね。じゃああそこまで先に着いた方が勝ち、というのはどうかしら?」
「乗った!」
いつの間にか勝手に盛り上がり、2人ほぼ同時に海の方へと砂を蹴って駆け出していってしまった。
ほむらが指差した目標地点は、砂浜からおよそ100メートル程先に浮かぶ数個のブイだ。普通に考えれば水底もなかなか深く多少危なくもあるのだが、かたや水を自在に操る魔法少女、かたや人の身を超えた存在。その2人を止めるような野暮なものはおらず、むしろ呆れ笑いながら観戦する気満々でいた。
「アイツ、悪魔になってぜってー性格変わったよな?」と、やや意地悪そうな風に杏子がぼやいた。
「ええ、間違いないわね……私と知り合ったばかりの暁美さんは、どちらかというとパラソルの下から出てきそうにないタイプに見えたもの。色々と溜まってたんじゃないかしら?」
「そりゃあ
「さ、佐倉さんってば! 私は別にそういうつもりで言ったんじゃないわよ!?」
「でも実際そうなんじゃねえのかよ? アイツ、なんかムッツリっぽいし。なぁまどか?」
「うぇひ!? ほ、ほむらちゃんが何だって!?」
「だーかーら、ほむらがムッツリスケベって話だよ」
ほむらの泳ぎに見惚れていたところに唐突に話を振られたまどかは、ややおかしなテンションで受け答えをしてしまった。
慌てふためくまどかに対し、杏子の問いかけはさらに続く。
「すけべ…って、ほむらちゃんが?」
「悪魔悪魔って言う割にはさ、すっげえヘタレじゃんアイツ。アンタの裸を見たくらいで鼻血なんか吹いて、今時小学生でもそんなんいねえって!」
「わ、私の…って…でも私、マミさんみたいにスタイル良くないよ?」
「ばぁか。マミは色々と規格外なんだから比較対象になんねえよ。…ま、アタシから見てもアンタは"普通"って感じだけど……ほむらにとってはアンタはそんだけ"特別"って事。つまり…アンタを見てムラムラしたってコトだ! な、マミ!」
「え…ええ……確かに、暁美さんは前に"鹿目さん以外の女の子には興味ない"とは言ってたけど………」
「そらみろ!」
ビシィ! と強くまどかを指差して断言する杏子。その言葉の意味をまどかが理解するのにやはり数秒かかったが、
「む…むら、むら………!? ほむらちゃんが……私を見て………?」
「お、流石のアンタもドン引きしたかぁ?」
「………ううん。あのね、杏子ちゃん…ほむらちゃんには内緒にしてね。…………すっごく嬉しいの!」
「おーそうかそう………えぇ…?」
紅潮した顔を手で覆い隠しながら、きゃー、と言わんばかりに予想外の返答をしたまどかに、思わず杏子の口から間の抜けた声が漏れた。
「だ、だって私達もう付き合ってから2ヶ月だよ? その間も何回かデートとかはしたけど…いつもちゅーまでしかしてなかったし……」
「オイオイ待て待て、そこまで訊いてない」
「わ、私だって、仁美ちゃんから女の子同士でお付き合いする漫画とか借りて結構勉強したんだよ? でも、もしかしたらほむらちゃん、私の事は好きでもそういうコトとかはしたくないのかな…って不安になっちゃった事もあるし。
…そっか、ほむらちゃんやっぱり私のこと………てぃひひ」
「よしマミ、こいつ放っといてアタシらも泳ごうぜ」
ほむらへの惚気を発揮し出して、何やら独りの世界へと入ってしまったまどかを置いて、杏子はマミの手を引いて海の方へとさっさと行ってしまった。
結局、その場に残されたのは惚気全開のまどかと、初めての海でどうすれば良いのか全くわからず、ただ立ち尽くすキリカの2人だけだった。
ちなみに現在海の上で競い合っている2人は、
『ぐぬぬ、あんた魔法使ってんでしょ!?』
『私の身体は本来脆弱なのよ。魔法を切ったら心臓麻痺を起こして溺れ死ぬわよ』
『くっ、白々しい!! あんた悪魔なんだから殺しても死なないでしょーが!!』
『あなたこそ人の事は言えないんじゃないかしら、人魚姫さん?』
テレパシーで口論を交わしながら、14歳前後の少女にあるまじき猛スピードで、激しい水飛沫を跳ね上げて海上を並行に突き進んでいた。
「………はっ、杏子ちゃんがいない!?」
「彼女なら私達を置いてあっちに行ったよ。…君も泳いできたらどうだい?」
「そ、そうだね! えっと…キリカさんは、行かないの?」
「うーん、そうだね………」
「…!」
心ここに在らず、といった風な返事をしたキリカの様子を見て、なんとなくまどかなりに察せるものがあった。
「もしかして、ルドガーさんが一緒の方がいい…とか?」
「な…そ、そんな事はないさ! もう一緒には住んでないんだ、私だっていつまでも彼にべったりという訳にはいかないよ」
「でも、寂しそうに見えますよ」
「う………参ったな、そう見えるのかい。…この前、さやかにも同じような事を訊かれたよ。"彼が好きなのか"…ってね」
そう答えたキリカの表情は、つい今まで惚気ていたまどかのように…と迄はいかないが、ほんの少し紅くなっていた。
しかし当の本人はそれに気付かぬまま、語りを続ける。
「………あれから、色々と考えたんだ。確かに私は、彼と一緒にいる時間が何よりも1番楽しい。家に帰って独りで眠ろうとすると、どうしてもルドガーの事を思い出してしまう。今日だって、彼に喜んで欲しくてさやかと一緒に水着を選んできたんだ。まだよく解らないけれど…やっぱり私は、さやかや君が言うように彼が好きなんだと思う」
「…じゃあ、いつかは告白するんですか?」
「しないよ。…彼の心の中には、他の女性が未だ残り続けてる。エレンピオスに居た頃の、昔の仲間なんだってさ。…だから、最初からこの想いはやり場がないのさ」
「……キリカさんは、それでいいんですか?」
「……一時の感情をぶつけて、気まずくなって、一緒に居られなくなるくらいなら…このままの方がいいのかな…って思う。その反面で、彼にこの想いを伝えたいという気持ちもあるんだ。
その点、君達が羨ましいよ。女同士とはいえ、お互いに強い想いで惹かれあった君達がね」
やや自嘲気味に笑みを浮かべたキリカの表情は、どこか諦観を感じさせるものがあった。
ルドガーには忘れられない女性が居る。それはルドガーから聞き知った話によるものだけではなかった。
ワルプルギスの夜と対峙し、その圧倒的な力の差を見せつけられて死にかけた時、彼への蘇生処置を試みたのは他ならぬキリカだ。その時に聞いてしまったのだ。
『………………ミ、ラ……………』
目覚めかけ、朦朧としながら彼の人を呼ぶ声を。そしてキリカは悟った。どうあっても、ルドガーの心の中から"ミラ"が消える事は絶対に有り得ないのだ、と。
それが有る限り、キリカは自身の想いが受け入れられる事はないのだ、と思ってしまっていた。
(………まあ、いいんだよそれで。私は、そんな姿も全部引っくるめて、彼に惹かれたんだから)
ふと後方のパラソルの群れを一瞥すると、知久、詢子と日陰の中で談話していたルドガーがパーカーを脱いで立ち上がる姿が目に入った。
どうやら彼もようやく泳ぐ気になったようだ、と思ったキリカは、まどかに「ありがとう」と一声かけて、他の誰にも見せない笑みを浮かべながら駆け寄っていった。
7.
海上で激しい接戦を繰り広げていた2人の決着は、ブイにほぼ同時に手をタッチする形で迎えられる事となった。
「はぁ……ふぅ、なかなかやるじゃない、ほむら」
「ふふ、光栄ね」
「うっわ、全く息切れしてないし……ってかここ、こうして見るとかなり遠いじゃんか」
「私達からしたら、そんなものは大した問題ではないわ。…それに、見てみなさい、さやか」
「ん?」
さやかは浜辺の方を見てぼやくが、ほむらは逆に足のつかぬ程に深い水底を見て言った。
深いことは深いが、水底の砂利や貝、かすかに泳ぐ小魚がはっきりと見える程、海水が透き通っているのだ。
「わぁ……綺麗じゃん!」
「ええ、こういうのなかなか見れないわね。…まどかにも見せてあげたいわ」
「まどかに? いやぁ流石にまどかをここまで呼ぶのは無理っしょ。足つかないし、相当遠いよ?」
「今の私に不可能はないわ。まどか、ちょっといいかしら?」
恐らく念話でまどかと会話をしているのだろう、とさやかは思ったが、ふとほむらがぱたん、と軽く手拍子を打つと、
「──────きゃっ!?」
いきなり2人の目の前の空中に、まどかがぽん、と現れた。突然の出来事に当のまどかも、それを見ていたさやかも驚きを隠せない。
「驚かせてごめんね、まどか」
「う、うん…とりあえず、下ろしてくれるかな?」
砂浜沿いと沖では水温がかなり異なる。いきなり沖の水面にではなく、一旦空中にまどかを転移させたのは、ほむらなりの配慮なのだろう。
まどかは少し深呼吸をして備えてから、ゆっくりと冷たい水面に下ろされ、ほむらの腕に抱きついた。
「いきなりどうしたの、ほむらちゃん」
「ほら、下を見てみて。すごくいい眺めよ」
「……ほんとだ。海の中がはっきり見えるよ。わ、今ちっちゃいお魚がいたよ!」
「ねえまどか。潜ってみたい?」
「うーん…でも、かなり深いよ?」
「私と一緒なら平気よ。ちゃんと息もできるようにしてあげるわ」
「わ、わっ!?」
ほむらは返事を待たずに、魔力を発揮して自身とまどかの周囲を見えない防壁で包んだ。以前使用していた、砂時計の盾のバリアの応用である。
海面の一部が球型にくり抜かれたようになり、そのまま2人はゆっくりと水の中へと潜ってゆく。
「あー、あたしもそん中に入れなさいよ!」
『あなたは自力で来れるでしょう?』
「むぅー、そんなにまどかと2人っきりがいいのか。いいもん、あたしゃ1人で潜るよ!」
さやかも久方振りに魔力を解放し、水への適性を更に高めてから潜水し始めた。こうする事で、喋れはしないが呼吸なしでも潜り続けられるし、水中での会話もテレパシーで代用できる。
3人で潜った海の中の景色はまた一段と変化する。砂で濁る地上沿いとは異なり、澄んだ景色が何処までも続き、遠目には煌めく珊瑚がかすかに見られる。
それは普通の方法ではとても見られない絶景であり、しかも潜水具もなしに生身でそれを体感しているのだ。
「わぁ…すごいよ! きれーい!」
「ふふ、呼んだ甲斐があったわね」
『あんたにしちゃあいいセンスしてんじゃん、ほむら?』
「"しちゃあ"は余計よ、さやか」
水深十何メートルだろうか。3人は一気に深い水底へと足が付く位置にまで降下し、水底すれすれを漂いながら海の中の景色を堪能し始めた。
もっと南の方の海、例えば沖縄辺りならば色鮮やかな魚が泳いでいたりもするのだが、海底に近づけば近づくほど海水の純度は増し、南の海とも違う絶景を前に3人は息を呑んだ。
「……ねえねえ、ほむらちゃん」
「どうしたの、まど────ん、っ!?」
何を思ったのか。ほむらを振り向かせるとまどかはいきなり両手でほむらの頬を押さえ、殆ど不意打ちのようにキスをした。
突然の出来事にほむらの思考回路はパニックを起こし、海水を防いでいるバリアが一瞬歪みかけるが、まどかに危害が及ぶためどうにかそれを堪えた。
「ん……っ、ほむらちゃ、好きっ……!」
「まど、か……待って、んっ、さや、かが見てるっ、から、んんっ!」
そうしている間にもまどかは距離をゼロから離そうとせず、キスを繰り返す。
透明な防壁の外からそれを見ていたさやかもあんぐりと口を開けて呆然とし、言葉を忘れていた。
何度目かの口づけをしたあたりでようやく満足したようで、まどかが顔を離すと、完熟した果物のように赤面し、背筋を震わすほむらの姿があった。
「…てぃひひひ、こんな所でちゅーできるの、私達だけだよねっ♪」
「え、ええ……そうね………」
『こらー! あんたら何を人の前で
「今のは私のせいなの……!?」
「ほ、ほむらちゃんが可愛いからいけないんだよ?」
防壁の外からさやかが罵倒の念話を飛ばしてくるが、まどかは悪びれる様子もなく、むしろ開き直る始末だ。
…自分なんかよりも、まどかの方がよっぽど小悪魔なのではないのか、とほむらは肩をがっくりと落とした。
思えば、ワルプルギスの夜を越えてからも何度かデートをしたのだが、そのいずれもまどかの方からかなり積極的にキスをせがまれていたのだ。当然、スキンシップの頻度も倍増だ。
そのせいもあって、ほむらはまどかの着替えにも耐えられないようなノミの心臓になってしまったのだ。
これではいけない。身が保たない、理性が保たない。何よりまどかの教育的に良くない。一度戒めなくてはならない。何か言ってやらねば……と考えるが、
「………ごめんね、イヤだった…?」
「え………?」
「…私ね、ほむらちゃんの為なら何でもしてあげたいの。その……ほむらちゃんが望むなら、わ、私はいつでもいいんだからね!?」
「………よく、意味がわからないのだけれど。まどか、あなたはもっと自分を大切にしなさい」
「う、うん………」
とにかく、このまま2人きりで防壁に篭るのは色々な意味で良くないと判断したほむら。
海底散策もひとしきり終えたことだし、とゆっくりと浮上を始め浜辺へと向かっていった。
『ちょっとー! 置いてくなー! …もういいよ、あたしゃ1人で泳いで帰るよ!』
その間、さやかは完全に蚊帳の外に追いやられたままだったのだが。
「ねえ、ほむらちゃん!」
「今度は何かしら?」
「もっともっといっぱい遊んで、たっくさん思い出作ろうね! 」
「ふふ、まどかと一緒なら一生忘れられない思い出になるわ」
初めて迎える、大切な人と共に過ごす夏。青空と、澄んだ海。災厄を乗り越えた先にあった、何度も夢見た日常。
(……この先終わりのない永い一生が続くとしても、変わらないこの想いと、まどかと共に過ごした記憶さえあれば、ずっと生きてゆける。
まどかに幸せな人生を送ってもらう。それが今の私の唯一の願い。………私が、まどかを幸せにしてみせるわ)
輝きに満ちた夏は、まだ始まったばかりだ。
今回から後日談編となります。