1.
遠くから響く工事の音は、数日後に暴風雨が訪れるとは露も知らずに見滝原中学の復旧に勤しむ現場からのものだ。
先の大雨によってほんの微かに残っていた桜の花弁はすっかり路面に散り、代わりに真新しい葉が芽吹き始めた街路樹に囲まれた通りには、並んで歩く魔法少女3人の姿があった。
まもなくこの見滝原に現れ、災厄を振りまくであろう最強の魔女"ワルプルギスの夜"、それに対抗する術を話し合う為に、揃ってほむらの家に向かっているところである。
「……もう、時間はあまり残されていないのよね」マミは街路樹を見上げながらぽつり、と呟いた。
「らしいな。ワルプルギスが来たらこの辺りもみーんな吹っ飛んじまうんじゃねえのか?」と、杏子もそれに応じるように悲観してみせる。
残るさやかはワルプルギスの夜についての予備知識は全くなく、マミや杏子のようなベテラン勢でさえも、数年魔法少女を務めた中で耳にした旧い伝承や言い伝え程度の事しか識らない。
ただどの話でも共通するのは、"嵐と共に現れ、全てを壊してゆく"ことと、"過去に色んな魔法少女が挑み、撃退こそすれど討伐には至らなかった"ことである。
「それをさせないために戦うんでしょう? 佐倉さん」
「はっ、そんなんじゃないぜ。アタシは別にこの街には未練なんてない…って、ちょっと前のアタシならそう言ってたんだろうね」
相変わらず駄菓子を咥えながら杏子は言うが、その表情は当初に比べれば別人のように柔らかくさやかの眼に映った。
「あら、やっぱり未練があるのかしら?」
「意地悪はよせよ、"センパイ"。アタシらの帰る家がなくなっちまうのは困る、それだけだよ」
「ふふ、まだまだ素直じゃないのね? 私は佐倉さんとの生活、すごく気に入っているんだけど? 夜だって一緒の布団で眠って───」
「な、何言いやがるんだマミ!? 余計なコト言うんじゃねえよ!?」
突然のマミの爆弾発言に、杏子は赤面して声を荒げる。そこにさやかが獲物を見つけた猫のように眼を光らせ、
「ふぅーん? あんた、マミさんと一緒に寝てんだ?」
「さやか、テメェまで首突っ込んで来んなよな!?」
「ふひひひ、あんた見た目によらず可愛いとこあんのねー? まあいいんじゃなーい? 今朝だってまどかからメール来たけど、あっちもほむらとお泊りして一緒に寝たらしいし?」
と、さやかは面白半分に新たな燃料を2人に投下した。
「あいつらはデキてるから別問題だろ…って、はぁ!? てことはまさかあいつら…し、"した"のか!?」
「なんてことなの!? わ、私より年下なのにあの2人もうそこまで進んでるの!?」
杏子は本気で狼狽しながら赤面し、マミは逆に"先を越された、まだ自分には相手すら居ないのに"と、異なるベクトルの焦燥感を覚えていた。
「あーあー、誤解のないように。ただ泊まった"だけ"らしいから」
「そ、そうなの…ふぅ、おどかさないでくれるかしら? 美樹さん。これから真面目な話し合いをしに行くのよ?」
「先に脱線したのはマミさんじゃなかったですかねー…? まあ、とりあえず早く行きましょっか。ルドガーさんが簡単なご飯作って待ってるらしいですし」
「よし。早く行こうぜさやか、マミ」
「冗談よ。さっきお昼食べたばっかりじゃないの? 杏子、あんた本っ当に欲望に忠実なのねぇ…」
「ぐぬぬ……アタシを引っ掛けるとはいい度胸じゃねえの」
食事と聞いて杏子の顔色は赤色から一転して真剣な表情に戻り、その上から冗談だと聞かされて目尻がぴくぴくと動いた。
なお、その理由はご察しの通りである。
こうして馬鹿らしい会話を交わすのも、もしかしたらもう数える程しかできないのかもしれない。そんな不安が、口には出さずとも皆の心に影を差している。だからこそ敢えて馬鹿らしい話をしてみせるのだ。
不安は、孤独に漬け込むように突如として襲いかかる。それを本能的にわかっているからだ。
2.
シンプルな室内はそのままに、そこそこ大きなホワイトボードが壁際に備えられ、その表面には既にいくつかの資料や地図がマグネットで貼られている。
朝になって帰宅してからほむらの表情は真剣そのものであり、ワルプルギスに対しての意気込みが見て取れる。
やり直しの効かない、本当の最終決戦。今まで以上に緊張が走るのも無理はない。
ホワイトボードに貼られた地図の中には武器などの設置ポイントが記されている。
砂時計は破損して消失したが、武器庫としての盾の機能は未だ遺されていた。設置ポイントには、武器庫に収納してある火器類を置く手筈が記されており、それは今回も同様なのだろうか。
「そろそろ、みんなが来る頃かな」
3人での昼食を終えて洗い物を終えたルドガーは居間へと戻り、ホワイトボードの上の資料に目を運ぶ。簡易的な見滝原市の地図には、ワルプルギスの夜が過去にどのポイントから現出したのかや、進行方向、攻撃手段などの統計がびっしりと記されている。気が遠くなる程に時を繰り返し続けて来た、ほむらの努力の結晶である。
「…すごいな。これが、今までの記録か…」
「ええ、そうよ。…でも、こうしてみんなに"これ"を見せるのは、本当に久しぶりよ。最後の方はほとんど私独りで戦っていたから、途中から記録するのもやめていたけど…」
ホワイトボードを一歩離れた所から眺めて思考していたほむらは、ルドガーの言葉に反応して近づいてきた。
キリカは意外にも大人しく、ちょこんと座りながら黙々とホワイトボードに見入り、腕を組みながら自分なりに情報を精査しているようだ。
「これを見る限り、ワルプルギスは毎回同じポイントから現れる、というわけではないよゔだね」
「ええ、その通り。大体は街の南西方面から現れるけれど、ごくたまに違うところから現れることもあったわ。
そうなると設置しておいた武器が役立たずになるから、いつも直前に時間を止めて武器を設置してたのよ。
…でも、その手ももう使えない。だから今回は武器は設置せずに、全ての武器をルドガーに預けるわ」
黒い痣が妖しく輝く左手を掲げると、その手首の付近に再び円盤型の装置が現れた。
外装部分───即ち、砂時計の機巧が綺麗に剥がれ落ちた、盾としての機能すら残されていない、文字通りの小さな"武器庫"だ。
莫大な魔力を必要とする"外蓋"がなくなったことで、武器庫自体も軽く魔力を込めてやるだけで、ほむらとは独立して常時実体化させておくことも可能になっていた。
「"これ"をあなたに渡しておくわ、ルドガー」
「いいのか?」
「ええ。今の私には"あの娘"の力があるから、もうそれは必要ないもの」
「わかった。使わせてもらうよ」
武器庫の中には様々な重火器類が収納されているが、クルスニク一族の中でも比類なき才能を持つルドガーからすれば、それらの扱いは容易だろう。
「あら、やっと来たみたいね」
不意に呼び鈴が鳴り、約束を取り付けてあった少女達の到着を告げた。
鍵を解いてドアを開けてやると、「おっす、ほむらー」と、さやかが一番に口を開いて部屋に上がり、それに続いてマミと杏子も上がってくる。
お世辞にも広いとは言えないほむらの部屋に6人ともなると、居間のキャパシティは一気にギリギリである。
キリカは隣にルドガーが座るようにさりげなく間隔を空け、皆がテーブルを囲むように座ると、いよいよ狭く感じてきた。
「なあ、集まるんならマミん家の方が良かったんじゃねーか…?」杏子はほむらの家の中を見渡し、それから目の前にある小さい机を見て言った。
そもそも、作戦会議をここで行おう、と提案したのはキリカだ。
「いや、ここならしろまるに話を聞かれずに済むみたいだしね」
「"しろまる"だぁ?」
「インキュベーターの事だよ。ヤツはどういうわけか、ほむらの家の近くに近寄れないみたいなんだよ」
「なんだそりゃ、初耳だぞ」
「なんでも、家の周りに結界が張られてて近付くと気分が悪くなるんだって。ね、ほむら?」
キリカは再確認するようにほむらの方を見て尋ねた。しかし当の本人の反応はやや淡白で、
「………結界? 何の話をしているの。私にそんな能力はないわよ」
「そうなのかい?」
「ええ。そういえば、戦いの時ぐらいしかインキュベーターの姿を見ないと思ってたけれど……代わりにルドガーの方にはよく顔を出してるようだし、単に私が嫌いなだけじゃないのかしら? もっとも、奴らには感情なんてものはありはしない筈だけれど」
ほむらは心底不快そうな顔をして、インキュベーターについて口にした。
それを聞いたキリカはキュゥべえの発言との矛盾に首を傾げるが、当の本人が否定しているのであっては答えは見えるはずもなかった。
「…とりあえず、始めましょうかしら。"ワルプルギスの夜の作戦会議"を」
思い出すのも不快な宇宙セールスマンの顔を脳内から掻き消し去り、ほむらはホワイトボードに張られた資料の数々へと目を移した。
「と言っても、そんなに大それた事を話すわけではないわ。あなた達に知っておいて欲しいのは、奴の特性と動き方。恐らく…いいえ、ほぼ間違いなく市街地での戦闘は避けられないわ。
奴は使い魔を大量にばら撒きながら市街地をなぞるように進んで来るのよ」
「事前に報せて避難させる…ってのは無理だよね……"明日、街がメチャクチャにされる"なんて、誰も信じないだろうし」
「…そうね、さやか。でも当日は朝から暴風警報が出るから、避難所が解禁されるはずよ。交通網も麻痺するから、市街地にはそんなに多く人は集まらない…と思うわ。
なんとか注意を惹きつけることができれば1番いいのだけれど…それは難しい」
次にほむらが指し示したのは、ワルプルギスの全体像を収めた写真だ。
「見ての通り、ワルプルギスはとても大きい。普通の魔女は結界の中に身を潜めるけど、ヤツは力が強いから結界の中に隠れる必要がない…と考えられているけれど、私はそれだけではないと思っているわ」
「興味があるわね。伝説として語り継がれてはいるけれど、実際にワルプルギスを見たことがあるのはこの中だと暁美さんしかいないし…何か、気づいた事があったの?」
「…以前の世界でまどかが契約し、円環の理となった時───あの時のまどかの願いは"全時空の魔女の消滅と、魔法少女の救済"。それによって、ワルプルギスも例外なく浄化されたのよ。その時一瞬だけ見ることができたのだけど……
奴のあの巨体は見せかけにすぎないみたい。本体はあの中にある、巨大な歯車の形をした"何か"よ。おそらくワルプルギスの夜の正体は、膨大な数の魔女の集合体。それを束ねて形どっているのが、その歯車だと思う」
「集合体……ですって?」マミは俄かにも信じがたいと言った風に訊き返した。
「私の推測に過ぎないけれど。でもそうだとしたら、あの強さにも納得がいくものがあるのよ。
…もしワルプルギスが、街に現れる度にそこにいる魔女を根こそぎ取り込んでいる、と考えたらどうかしら?
もちろん"魔法少女は魔力を使い果たせば魔女になる"という事実も含めて考えた場合もよ」
「…成る程、あなたが何を言いたいのか段々とわかってきたわ。
つまり…ワルプルギスの夜はたまたま現れるのではなく、魔法少女や魔女が多く集まる場所を選んで現れ───その全てを喰らってゆく。そういうことかしら?
だとしたら、途方もなく
マミは珍しく悪態をついて、顔をしかめて言った。
マミがそんな表情をすることなどあまりない、と思っていたさやかは自分の中に沸いた疑念を確かめるように尋ねる。
「じゃあ、ワルプルギスがこれから見滝原に来るってのもそれが原因ってこと?」
「そうね……本当に"たまたま"ならね。ねえ、さやか。そもそもこの街にはどうしてこんなに魔法少女が多く集まっていると思うかしら?」
「そりゃあ見滝原は魔女が多いし、しかも強い奴らばっかりで…数が多い方が戦いが楽になるから? でもグリーフシードも足りなくなるし、いいことばかりじゃないかもしれないけれど……」
「その通りよ。"本来なら"魔法少女は多くない方がいい。せいぜいひとつの街に1人が2人いれば、それで事足りるもの。
"今回は"例外が多いけれど、ルドガーが"
でもインキュベーターはどんどん契約していって魔法少女を増やし、元いた魔法少女は魔女になって、新しい魔法少女に狩られる。それがこの"魔法少女というシステム"である事には違いはないわ。…それにしたって、5人も生き残っているのは多すぎると思わない?」
「つまり何が言いてえんだ? ほむら」
確証がないからか直接的な言い方をしないほむらに対して、杏子が訊き返した。
「…私の見立てではね、杏子。ワルプルギスの夜は、"魔法少女という仕組み"を終わらせる為の存在だと思うのよ」
「終わらせる、為の……どうゆうことだよ?」
「そもそもインキュベーターの目的は"宇宙の延命"の為に、魔法少女が魔女になる瞬間の感情エネルギーを集めること。その為に何千年も前から人間に干渉してきたそうよ。
けれど、仮にまどかが契約すればそれだけでその為のノルマは達成される。それはどうしてだと思う?」
「魔法少女としての力が強すぎるから…だよな? "まどかしかワルプルギスを倒せない"って話だし……待てよ、まさか?」
「恐らくヤツは、際限なく強力になってゆくワルプルギスをも倒せる程の才能を持った魔法少女───そんな娘が現れるのをずっと待っていた。
たとえ魔女が全ていなくなったとしても、ワルプルギスという敵がいる限りはそれを口実に契約を迫る事が出来る。
そして、ワルプルギスを倒せる娘が現れればそれでノルマ達成。
…前の世界では、まさかまどかが魔女の消滅を願い、それが成功してしまうなんて思ってもいなかったみたいだけれど」
「…そうだとして、もしまどかみたいな娘が現れなかったらどうしたってんだよ?」
「同じことよ。ワルプルギスが倒されるまで契約を取り続けるのでしょうね。ワルプルギスは街ひとつ破壊する程の力を持つけれど、インキュベーターからしたら"その程度"でしかないんだもの」
「その程度、で済む問題じゃねーだろ!?」
「残念だけど"その程度"なのよ。インキュベーターの価値観なんて、そんなものよ。…これはあくまで私がずっと考えてた予測に過ぎない、一応それだけ言っておくわ」
この場にいる少女たちの表情からは、皆揃ってひとつの敵に対しての嫌悪感が見て取れた。
有史以来、世界各地で数々の災厄を撒き散らしてきた魔女。それを確実に倒せる方法自体は既に"ある"が、それをさせない為に今まで何度も時を繰り返し続けたのだ。
何としてもこの街で災厄を終わりにしなければならない。それこそが、この負の連鎖を断ち切る唯一の手段なのだ。
3.
作戦会議を終えた翌日、少女達は特に集まるような事はせずに各々の時間を過ごし始めていた。
その中でも杏子は珍しく自分からマミを連れ出し、昼間から市営バスに乗って風見野 へと向かっているところだ。
普段滅多に見滝原市内から出ないマミは、当然ほとんど通ることのない風見野方面へ繋がる立体橋の上から見下ろす市内の景色に、どこか心がうずいていた。
「これから、何処に連れて行ってくれるのかしら?」
と、マミはバスの最後列で少しばかり間隔を空けて腰掛け、相変わらず駄菓子を咥えている杏子に問いかける。
「そんなに身構えんなって、マミ。ただラーメン屋に連れてこうってだけだよ」
「…なんですって?」
「向こうにいた頃、たまに行ってた店があるんだよ。なーんか今朝急に食いたくなったけど、1人で行くのもアレだしな?
マミだって、どうせラーメン屋なんて殆ど行ったことないんだろ?」
「確かにそうね…基本、自炊だったし。でも今朝になって急に、なんてやっぱりワルプルギスが……?」
「はっ、そんなんじゃねーよ別に」
言いかけた言葉尻を遮り、杏子は咥えていた菓子を食べ切ってから答えた。
「…正直、こんな事でもなければアンタとはこんな関係になんて戻れなかっただろうね。ムシの良い話だけど、魔法少女の仕組みってヤツを知ったとき、アタシは今まで何をやってきたんだろう…って思った。
弱い奴は消えて当然だと思ってた。使い魔も、魔女も、魔法少女もね。でもアイツらに出会って、それは間違ってるって思えたんだよ」
「もしかしてそれって……暁美さん達のこと?」
「それと、さやかもかな。アイツは、魔法少女になることがどういう事なのか、それをわかってて契約した。それも、"親友を救う"なんて願いの為にね。
ほむらだってそうだ。まどかを助ける為だけに、アイツは魔法少女になったんだろ。
ルドガーだって、魔法少女でもない癖に命張ってやがる……
でも、アタシの願いだってそんなもんだったんだ。親父の役に立ちたかった。信者が増えて、親父が嬉しそうにしてると、アタシも嬉しかったんだ。
そうやって、弱い奴は弱い奴なりに一生懸命に生きようとしてるんだ。それをアイツらが気づかせてくれた」
「…ええ、本当にそうね」
そう言うマミも、かつて見滝原病院で対峙したお菓子の魔女───守ることができなかった少女、百江なぎさの事を忘れた事は1度もなかった。
「…佐倉さん」
「ん?」
「戻ってきてくれて、ありがとう」
「な…なんだよ急に。つうか、アタシの方が世話になってんのに…」
「ふふ、いいのよ。…私だって、ずっと独りでいられるほど強くないのよ?」
なぎさが倒れたあの日、マミは今までの自分の在り方を見失いはしたが、今またこうして自分なりに戦う意味を再確認し、ここにいる。
そういう意味では自分も、今隣にいる杏子と同じなのだろうか、とマミは感じていた。
4.
平日とはいえ見滝原総合病院は少しばかり人が多く、外来受付の前にはベンチに腰掛けて待つ人が数名、各科の前のベンチにもそれなりに患者と思しき数名が待っていた。
その光景を横目に、さやかと仁美は先週の大嵐や人魚の魔女による拉致などでずるずると先延ばしになっていた恭介の退院に際して"今度こそ"迎えに訪れていた。
特にさやかからしたら人魚の魔女との戦いもあって、恭介の顔を見ること自体はほんの数日ぶりなのだが、仁美と顔を合わせるのは影の魔女との戦い以来だ。
「…仁美、あれからなんともなかった?」
「私は、大丈夫でしたわ。むしろ、さやかさん達が命懸けで戦っていたのに、私は見てることだけしかできなくて…」
「いいんだよ、それで。ホントは、あんた達まで巻き込みたくなんかなかったんだし…守れて、本当に良かった」
知り得るはずのない友人の一面を知ってしまった仁美は、影の魔女結界から生還して以来度々悩むことがあった。
仁美にとってさやかは恭介に対する同じ想いを共有し、そうでなくとも肩の力を抜いて面と向かって話せる大切な親友だ。
そのさやかが魔法少女の1人として"魔女"という人知れぬ存在と戦っているのだと知り、何か自分にも出来ることはないのだろうか、と。
エレベーターの扉が開くと中にいたおばあさんや看護婦とすれ違いになるが、入れ替わりに乗ったのはさやかと仁美だけだった。
扉が閉まると、緩やかに揺れながら恭介のいる階へと上昇を始める。
「…あのさ、仁美」
「なんでしょう、さやかさん」
「だいぶ前だけどさ。あんた、バスの中であたしに"恭介のコトどう思ってるか"訊いたじゃん?」
「ええ。でも、今更言われなくてもさやかさんのお気持ちは知ってますわ」
「でも、あんただって恭介のこと好きなんでしょ? だったらなんでわざわざあたしに断わってきたのかな…って」
「言いませんでしたか? 私、そういうの抜け駆けみたいでイヤだったんです。………なんて、それだけじゃありませんけどね」
「え…?」
「上条くんのことはもちろん好きですわ。でもそれ以前に、さやかさんは私にとって本当に大事なお友達なんです。
…きっと、さやかさんに黙って先に告白したら、うまく行っても行かなくてもさやかさんとはもうお友達じゃいられなくなる…そんな気がしたんです。
私は、それだけは絶対にイヤ。だから約束してくれませんか? これから先、何があってもお友達でいてくれる、って」
「あんた、そんな風に思ってくれてたんだ……」
仁美の心の内を聞かされてさやかは嬉しくも感じたが、では、と思う。
もし自分が、仁美の言うように先に告白したらどうなるのか。仁美は変わらずにいてくれるのだろうか。その未来を、今のさやかには想像する事は難しかったし、怖くもあった。
何より、今は優先すべき事象が迫っている最中だ。
「…ごめんね、仁美。都合の良い事を言ってるみたいだけど、もう少しだけ待って欲しいんだ」
「…なぜですか?」
「もうすぐこの街に物凄く強い魔女が現れるの。あと4日後ぐらいかな…普通の人達にはすごく激しい嵐に見えるみたいだけど、そいつはその嵐に乗ってやってくる。
あたしらは、そいつと戦って勝たなきゃいけないんだ」
「それは、暁美さんも一緒にですよね……」
「うん。もともとあいつは、まどかを守る為に魔法少女になった。その魔女を倒すのは、ほむらの最終目標なんだよ。…それにあたしだって、大好きなみんなと、この街を守りたい。だから、全部が終わるまで待って欲しい……
もしだめなら、しょうがないよ。仁美の方から先に恭介に………」
「さやかさん、言ったでしょう? 私は抜け駆けはしない、って。……何か、他に私に出来ることはありませんか?」
やはり負い目を捨てきれない仁美は、確かめるように問いかけた。対してさやかはわざとらしく軽口で返す。
それと同時にエレベーターは目的の階へ到着し、扉が開いた。
「…そだね、じゃあ帰ってきたらなんか奢ってもらおうかなぁ?」
「さやかさん、私は真剣に言っているんですよ?」
「あたしだってマジメよ? …だから、勝てるように祈っててよ」
実際に影の魔女とさやか達の壮絶な戦いを目の当たりにした仁美は、当事者達程ではないにしろ、その恐ろしさと危険さを承知していた。
それでもぶれることのないさやかの表情を見て仁美は、
「……わかりましたわ。期待しててくださいね?」と、答えた。
2人で話し込みながら歩いていると、さほど時間か経過していないような感覚になる。それこそ、体感では病院に入って1、2分程しか経っていないような気でいたが、2人は既に恭介の病室の前へと到着していた。
さやかははやる気持ちを抑えながら数回ノックをし、返事を待たずに扉を開く。
そこには、待ち侘び続けていた想い人の晴れやかな笑顔が待っていた。
「やっほー恭介、美少女2人で迎えにきてあげたわよー?」
5.
ワルプルギスの夜が襲来するまで、残すところ2日となった。
にも関わらず、ルドガーはこの連日も普段と全く同じようにキリカとほむらに食事を振る舞い、洗濯物を干し、軽く掃除をし…と、世の男性顔負けの家事スキルを発揮していた。
しかしそんなルドガーにも、心の奥底で引っかかり続けているものがあった。それは、影の魔女との戦い以来ずっと抱いていた疑念だ。
「ロンダウの虚塵…と、海瀑幻魔の瞳……」
人魚の魔女との戦いのあとに遺った、2つの"道標"。今その2つはルドガーが所持し、テーブルの上に並べられている。
複数の歯車が合わさった中央に光輝く核が収められており、さながらに小さな天球儀のような造りをした"ソレ"は、この世界には、ましてや見滝原などには在る筈の無いモノだ。
さらに、今はさやかが所持しているが、"箱舟守護者の心臓"すらも現存している。
「綺麗だね。ソレ、なんなんだい?」
「これは"カナンの道標"っていうんだ。俺のいた世界にしかない筈のモノなんだけど…」
「…それは不思議だね。君の世界は、この地球上とは別のところだったよね? なぜ人魚の魔女がそんなものを持っていたのか、気になるところだけど…」
「そうなんだよ。ましてや、あんな使い方をするだなんて思ってもみなかった」
人魚の魔女は、カナンの道標の"原典"となる能力を引き出して自己を強化していた。
桁外れの、しかもリーゼ・マクシア式の水霊術を自在に使いこなしていたのも、元々持っていた負の妄執から成る魔力が2つの道標によって増幅されていたからだろう。実際、リーゼ・マクシアにもあそこまでの術の使い手はそうは居ない。
事実、終盤において時歪の因子化を引き起こした人魚の魔女の姿は、ロンダウの虚塵の元来の所持者だったウィンガルの姿を彷彿とさせるものだった。
しかし、もうカナンの道標を集める必要性などないのは確かだ。"審判"は既に終わり、道標はその役割を果たした。残る道標の在処など、わからなくても構わないのだ。
だが、
願わくば、魔女の手に渡っていないことを祈るばかりか。
「逆に、私達がソレを使うことはできないのかな?」と、キリカは素朴な疑問を浮かべた。しかしルドガーは、
「やめた方がいい。人魚の魔女は、魔力を幾らでも使えたから平気だったんだ。魔法少女が使えばソウルジェムが保たないよ」
「むむ、そういえばそうだったね……」
いつの間にかキリカはごく自然な流れでルドガーの隣に座り込み、一緒にカナンの道標を眺めていた。その様子を傍目から見ていたほむらは、
「あなた達、本当に仲良いわね……」と半ば呆れたように、しかし半笑いで言った。
「最初に出会った時はあなた達は敵同士だった気がするのだけど?」
「昔の事は忘れたね。今や私はルドガーの…ええと、なんて言ったか」
「忠犬?」
「そう、ソレ……って、違うよ! いきなり犬扱いは不躾じゃないのかい!?」
「だってあなたを見てると、そこのエイミーと印象が被るのよ」
と、ほむらが指した先には確かにエイミーが、キリカと共にルドガーを挟むように隣で可愛く「にゃあ?」と鳴いていた。
対するキリカは少ししょげたように、
「私は飼い猫と同レベルなのか………まあ、それはそれで悪くないかも…?」
かと思いきや、持ち前(?)の転換力で前向きな思考へと瞬時に変わっていた。
「全く…あなたって、戦ってる時とそうでない時の落差がひどいわね。子供っぽいっていうか…」
「そういう君だって私と大して歳変わらないじゃないか、ほむら。…いや待てよ、君は確か時間遡行をしていたね。しかも数え切れないくらい……
仮に100回だとして、100ヶ月÷《割る》12で…8年? なんと、君は私よりも遥かに歳上じゃないか!」
「具体的に数字にされると複雑な気分になるわね……」
実際、恐らく時間遡行の回数だけなら100回で収まる程ではないとほむら自身は思っていたが、あまり年数について言及するとなんとなく
かく言うキリカはほむらの実年齢(と言って良いかは定かではないが)を踏まえた上で、ちょうど自分とそれくらいの歳の差にあたるルドガーを横目でちらちらと見ていた。
その視線に気付いたルドガーは、エイミーの額を撫でてやりながら「どうした?」と尋ねかけた。その"ながら"の動作に少しむっとしたのか、
「…エイミーばかり構ってないで、私にも構ってくれると嬉しいんだけどね」
と、つい無意識の内に吐露していた。
(……やはり、この"呉 キリカ"は私の識っているキリカとは違うわね)
ルドガーとキリカの他愛のないやりとりを眺めながら、ほむらは考える。
("呉 キリカ"は美国織莉子を第一に考え、盲信していた。性格も破綻しているように見えたし……
でも、このキリカは単にルドガーに懐いているようにしか見えない。分史世界の人間って、こうも変わるものなのかしら。これじゃあむしろさやかが言ってたみたいに、キリカはルドガーの事を…?)
こういう事を考えられるようになっただけ、以前と比べて格段に心の余裕が増えたのだと感じられる。
それもひとえに、ルドガーという人間に出会ったからこそだ。ほむらはルドガーを通して、かつて見失った絆の糸を取り戻していき、今ここにもキリカとの新たな絆の糸が結ばれている。
今のほむらは、もう2度と「誰にも頼ったりなんかしない」などと言うことはないだろう。
6.
各々が思い思いの日々を過ごし、迎えた最後の1日。窓を開ければ日が下り始めて少し淀んだ空が広がり、湿気を含んだ風が入り込んで来るのは嵐が近いからだろうか。
そんな中、ここ最近になってようやく着信音を聴く機会が増えた(と言っても全然少ないが)ほむらの携帯電話が、今日もまた着信音を立て出した。
「何か、鳴ってないか?」
「あら、本当ね。私の携帯かしら…」
居間に向かって鳴る"ピリピリ"と小さな音を聞きつけたルドガーが声を掛けると、ほむらは充電器に差して枕元に置きっ放しにしていた携帯電話の存在を思い出し、寝室へと取りに戻った。
ディスプレイに表示されていたのは、5件ほど登録してある数少ない番号のうちのひとつ。それも、一番ほむらにとって嬉しいものだった。
「───はい、暁美です」
『あっ…ほむらちゃん? 今、平気かな?』
「ええ、どうしたの?」
『ごめんね、メールしたんだけど返事なかったから…』
「…なんですって?」
言われてからほむらは耳元から携帯電話を離し、ディスプレイを再確認してみると、メールボックスに新着の報せが2件分貯まっていた。
誰からのものかは、もはや見なくてもわかる。
「…ごめんなさい。寝室に置きっ放しだったから、気付かなかったわ」
『そっか、てぃひひ。ほむらちゃんあんまり携帯とか使わなそうだもんね』
「ええ、そうね…気をつけるわ。えっと、今日はどうしたのかしら」
『…"明日"なんだよね? だからその前に1度だけ逢えないかなぁ…って。もし迷惑だったら、別にいいの。ほむらちゃんだっていろいろ準備あると思うし……』
電話口から聴こえる声は、次第に音量が落ちてゆく。まどかなりに気を遣っているのだと感じ取れて、ほむらにはその気持ちがこそばゆくも嬉しかった。
「私も、ちょうどまどかに逢いたいと思ってたとこよ」
『本当に?』
「もちろんよ、だって大事な彼女だもの。それで、どこで待ち合わせようかしら?」
『も、もう! ほむらちゃんってば…』
なんとなく電話口の先でまどかが赤面して狼狽える姿が思い浮かび、ついほむらからも笑みが溢れてくる。
そのままひとまず噴水広場で落ち合う約束を取り付けて通話を終えると、すぐに出掛ける支度へと移った。ワルプルギスの夜への備えは、帰ってきてからでも十分に間に合う。
普段は自分の見てくれなど全く気にせず、美容院に連れて行かれた時もぞんざいな服装だったほむらも、こういう時ばかりは少々気合いを入れてクローゼットの中から服を選んでゆく。
そういった軽いおめかし程度の事ですら、懐かしく思えてしまうくらい久方ぶりであった。
慎重に選んだ服に着替えて寝室を出て居間へと戻ると、ほむらの姿を見たキリカが第一声を放った。
「おや、ほむら。出掛けるのかい?」
「ええ、ちょっとね。夜には戻るわ」
「ふぅん……当ててみせよう、まどかの所に行くんだね?」
「あら、勘がいいわね」
「勘じゃあないさ。君がそんなにめかしこんでまで出かける先なんて、一つしかないだろう? それに君、顔すごいニヤけてるよ」
「っ!?」
キリカに指摘されたほむらは急に気恥ずかしくなり、慌てて頬を両手で押さえて赤面を誤魔化そうとした。
「これはもしかしたらまた"朝チュン"というやつが見れるかもしれないね」と、またもキリカが大して意味もわかっていない単語を持ち出した。
「なっ、何を言っているのかしら?? 私達はまだそんな関係じゃあ!?」
「おや、恋人同士とはそういうものではないのかい?」
「あなたは一体何処からそんな妙な知識を仕入れてくるのよ!? 第一、あなただって人の事言えないんじゃあないかしら!?」
「失礼な、残念なことに私達はそんな関係ではないよ」
「ああ、そうね………あなたって…」
ほんとバカ。と喉元まで出かかったが、どうにか堪えた。これ以上話をこじらせてしまったらまどかを待たせてしまう。
「あっ、ほむら。帰る前に連絡くれたら、すぐ食べれるように用意しておくけど」と、靴を履きかけたほむらにルドガーが声をかけてきた。
「わかったわ。あまり遅くならないようにするわね」
「ああ。まどかにもよろしくな」
こういう時、下手に首を突っ込んでこないルドガーが妙に大人に見えてしまう。
実際のところ、ルドガー自身は話をややこしくしたくないから発言を控えただけなのだが、それを知る由はなかった。
7.
夕暮れ前の噴水広場には幼い子供を連れて歩く主婦や、ペットを散歩させている人達が数名おり、ベンチにも初老の男性が腰掛けてカバーのかかった文庫本を読んでいた。
平日のこの時間帯にここを訪れる事は最近なかったが、存外に人が多い光景に目移りしてしまう。
まどかよりも一足早く到着したほむらは、先客のいるベンチに座るのも気が引けて、噴水の縁に寄りかかって待っていた。
しかしそれも束の間。街路樹の通りの1本へと視線を移すと、小走りで噴水広場へと駆けてくる桃色の髪の少女の姿が目に映った。
「ふぅ……ほむらちゃん、速いよぉ。電話してからまだ少ししか経ってないのに。…待っちゃった?」
「いいえ、私もつい今来たばかりよ」
ほむらは嘘は言っていない。しかし、"まどかに早く逢いたくて走ってきた"などとは言わずに心の内に秘めていた。
実際汗ひとつかいていないものだからわかるはずもない、と思っているのだが。
「さて、どこに行こうかしら?」
「あ…っ、ゴメン。なんにも考えてないや……」
「ふふ、本当に"逢いたかっただけ"なのね。それじゃあ 、ひとつ行きたいところがあるんだけど…いい?」
「う、うん……」
ほむらはノープランでやって来てばつの悪くなっているまどかの手をごく自然にとり、何人かにちらちらと見られながらも気にせずに手を引いて歩き出した。
まどかのやって来た方とはまた違う方角に伸びる街路樹の通りに入ったところで、まどかはほむらがこれからどこに行こうとしているのかを悟った。
「もしかして、あのお花畑?」
「ええ。私、あそこから観える景色が好きなのよ。この前は昼間だったでしょう? けど、今から行けばちょうどいいと思うわ」
噴水広場から例の花畑まではそれなりの距離がある。陽が落ちかけている現在から向かえば、見滝原の夜の街並みを眺めることができるだろう。
歩幅は狭く、他愛もない会話を交わしながら、惜しむように1歩ずつ進んでゆく。もちろん、手は繋いだままだ。
「そういえば、今ってキリカさんもほむらちゃんの家に泊まってるんだっけ?」
「そうね。彼女は今、帰る場所がないから仕方ないわ」
「…?」
「彼女は分史世界から連れて来た魔法少女。けど、この世界では行方不明になっているのよ。だから家にも帰れない」
「あっ……そっか、そうだったんだ…」
「連れて来て間もない頃は悲嘆してたみたいだけれど、どういうわけが今はルドガーに懐いているようだし、気にすることはないわよ」
もっとも、1人だと寝付けないからといって毎晩ルドガーと一緒の布団に入ったり、暇さえあればルドガーに話しかけてエイミーにすら対抗してみせたりと、少々目立つ行動が多い気もするのだが、何せ本人に自覚がまるでないものだから見ていて焦れったく感じる事もある。
かくいうほむらも、まどかとこういう関係になれたからこそ、そういう感情に対しての理解ができるようになったのだが。
「あの2人、くっついちゃえばいいのにね」
「まどかもそう思うのね?」
「うん。でもどちらかと言うと"お兄さんと妹"って感じもするかなぁ」
「………言われてみれば、そんな気もするような…」
ほむらと違って弟のいるまどかからは、また別の意見が返ってきた。
それを聞いたほむらは、円環の理が成立した世界ではよく見かけていたまどかの弟・タツヤの存在を思い浮かべる。
「そういえば、あなたの弟についても少し不思議なことがあったのよね…」
「えっ? どんな?」
「前に私が"いた"円環の理の世界"の話はしたでしょう? 誰もまどかの事を識らない…って。でもタツヤ君だけはまどかの事を憶えてたみたいだったのよ。よく私に絵を描いてくれてたわ」
「そうなんだ……やっぱり、弟だからかな?」
「そうかもしれないわね? でも、たったそれだけの事でもすごく励まされたわ。だって、"まどかの事を憶えてるのは私だけじゃないんだ"って思えたから」
街路樹の通りを抜けると住宅地の一角に入り、そこを抜けると今度は蓮池が道沿いに走る新たな街路樹の通りへと繋がる。
月が昇りかけ、木々に紛れるように等間隔で並ぶ街灯が順に点灯してゆき、それだけで以前訪れた時とは景観が大きく変わって見える。
この時間にもなると通りを歩いているのはもう2人しかいない。そのまま真っ直ぐに進み、いよいよ数日ぶりの花畑へと足を運び入れた。
8.
夜空の下の花畑は、少し生暖かい季節風が吹いてざわめきながら揺られ、そこかしこから微かな花の香りが舞ってくる。
花畑の中央に唯一置かれているベンチに以前と同じように腰を下ろして、まずは肩を並べてネオンの灯る見滝原市内の方を眺めた。
「すごいね。夜になるとすっごく変わるね」
「ええ、綺麗ね」
やや高台に位置する花畑から見下ろす夜景に目を奪われ、しばらく言葉もなく魅入ってしまう。
明日になれば、この中のうちのどれだけが無事で済むのだろうか。ワルプルギスの夜は強力な魔女であり、恐らく倒せたとしても街への被害は免れない。
次にこの景色を観られるのは、しばらく先になるだろう。だからこそその前に1度だけ、まどかを連れて観たかったのだ。
「…!」
繋いでいた左手の方に、さらに腕全体に縋り付いてくる感触を感じた。
「……あのね、ほむらちゃん。お願いがあるんだけど…」
「何かしら?」
「そのぉ…ほむらちゃんの"白い羽根"、見てみたいなぁ…って。黒い羽根の方は何回か見てるけど、私まだ見たことなくて」
「いいけれど…どうしてまたそんなものを?」
だってこれは元々は
衣服までは変える必要はない。ただ、羽根を拡げればいいだけだ。
もうすっかり慣れたもので、鳥が
当の本人は気付いていないが、ネオン街を背景にしたその姿は、まどかの目にはとびきり格別なものとして映っていた。
「わぁ………すごく綺麗だよ!」
「そ、そうかしら…?」
「うん! とっても素敵……私だけの、天使さまだよ」
「"天使さま"ねぇ…」
その呼び名は流石に言い過ぎではないだろうか、とほむらは気恥ずかしさに顔を赤らめる。
(………悪魔、と呼ばれたことはあるけど、天使って……)
仮にこの場にさやかがいたら、笑い飛ばしながら茶化してくるに違いない。
しかしながら、"天使さま"というフレーズを聞いてほむらの頭の中には別の事が浮かびかけていた。
今となっては遠い昔、ミッションスクールに在籍していた頃に目を通した本の一節。自分の名前の由来にもなったと思われる、"暁の焔"を司る
彼の者は輝かしい栄光が約束されていたにも拘らず、突如として神に叛逆し、悪魔に堕ちたとされる。
(……まあ、"天使"には違いないけれど、確かに"悪魔"でもあるわね……)
なぜ、彼の者は神に背いたのか。その理由は諸説あれど、はっきりとしてはいない。
しかしほむらもまた、大切なものを守る為に、
成る程、言われてみれば確かに自分に当てはまりそうな気がしないでもない、とほむらは思う。
(まあ、天使でも悪魔でも…どっちだって関係ないわ。まどかと一緒に生きて行きたい。その為なら、私は………)
羽根を拡げたまま、まどかの手を取って目一杯抱き寄せる。互いの緊張が身体越しに伝わるような気がしたが、むしろそれすらも心地良い。
ずっと守りたかった生命の鼓動は、1度は永遠に失ってしまった温もりは、今ここに確かに脈打っている。
あと少しで、全てが終わる。今まで考えもしなかった"その先"の未来の光景は、今ははっきりと心に描かれつつあった。
「ありがとう、まどか。もう2度と逢えないと思ってたのに、またあなたに出逢えて…あなたと、こうして愛し合う事ができた。私、すごく幸せだったわ」
「"だった"なんて言わないでよ、ほむらちゃん。これから先もずうっと一緒だよ」
「ええ、そうね。ずうっと一緒よ」
2つの影はさらに距離を縮めてゆき、やがて交差し、互いの熱を確かめ合う。
運命に抗う勇気と、新たな約束を胸に抱き、最後の夜は静かに過ぎていった。
xxx.
『──────とうとう、"最後の1日"かぁ…』
宙に浮かぶ錆びた無数の歯車が軋む音を立てながらゆっくりと絡み合い、瘴気に塗れ、瞼を開ける事すら叶いそうにない混沌とした闇の中央に、ひとつの影が差す。
あらゆる時空から隔絶された"特異点"。審判すらも及ばぬ領域にまで堕ちた、或いはそれ以前から堕ちていた場所。
奇しくもそこは審判の聖域を模したカタチをしていた。もっとも、審判の"執行人"は唯一の存在なのでここには居ないが。
かつて
『ここまで、来れるのかな? 来てくれるのかな?』
"鍵"は3つほど落としておいた。あとの2つは、そこに在る。
『今度こそ、勝てるのかな?』
"私"なしで。
『憶えてて、くれてるのかな?』
独りになっては駄目だ、と前に言ったはず。では今の"私"はどう。
『約束を、憶えててくれてるかな?』
"あなたを私に護らせて"と言ってくれた。では、今の"私"はどう。
『─────ひひ、楽しみだなぁ。うん、楽しみ』
まずは"災厄"を乗り越えてから。そうでなくては話にならない。
『さぁ、頑張ってね』
まだ"約束"は、1度たりとも果たされていないのだから──────