誰が為に歯車は廻る   作:アレクシエル

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第12話「こんなにも幸せに満ちて」

1.

 

 

 

 

 

聞き慣れた目覚まし時計の音と共に、深い眠りから揺り起こされる。瞼を開けばよく見慣れた天井。布団をまくり半身を起こすと、整理され、使い慣れた机が視界に入った。

 

「ルドガー、やっと起きた!」

 

その明るい声に気付き、意識を向ける。朗らかな笑顔で愛猫のルルを抱きかかえ、相棒の目覚めを待っていた少女…エル・メル・マータの姿がそこにあった。

 

「エル……!? そんな、なぜ」

「どうしたの、ルドガー」

「…いや、何でもない」

 

ルドガーは訳がわからないといった様子で頭を捻り、記憶を振り返る。

 

(…確か俺は、ほむらと一緒に魔女の結界に……ん? "ほむら"って…何だ?)

 

しかし、うまく思い出せない。まるで靄がかかっているかのように、記憶を引き出す事ができないのだ。

 

(ほむら…魔女……だめだ、何もわからない。そもそも俺は今まで何を…夢、か…?)

「なんか怖い顔してるよ、ルドガー?」

「! ああすまない。何でもないんだよ、本当に」

「そう? ならよかった。早く来てよルドガー、ごはんできるよ?」

「ごはん? 誰が作ってるんだ」

「ミラだけど? どしたのルドガー、なんかヘンだよ」

「ミラが…!? どうして料理なんて」

 

2代目の精霊王マクスウェルが直々に料理を作りに来るなど、ルドガーは俄かにも信じられなかった。それならばジュードもいるのだろうか。ルドガーは慌てて飛び起き、髪を軽く指先で梳かしてリビングへと抜けた。

扉を開くと真っ先に、蕩けた野菜の香りが漂ってくる。

兄・ユリウスはいつものようにコーヒーを飲みながら新聞を読み、寝起きのルドガーに声をかけてきた。

 

「おはよう、ルドガー。疲れてたみたいだな」

「兄さん……?」

「もうすぐできあがるみたいだ。先に顔を洗って来るといい」

「えっ…?」

 

ユリウスに言われ、思い出したようにルドガーはキッチンに立つ後ろ姿を見る。

とても長く綺麗な髪をひと纏めに結った女性がエプロンをつけて鍋と睨めっこしていたが、ルドガーの起床に気付くと振り向いて声をかけてきた。

 

「おっそいわよルドガー。たまの休みだからって、のんびりしすぎじゃないの?」

 

その砕けた口調は。身につけている服は。素っ気なさそうでどこか可愛げがある雰囲気は。

精霊王マクスウェルなどではない。ひとりの人間として生きる事を選んだ、もうひとりのミラの姿があった。

 

「ミラ……なのか…?」

「へ? どうしたのよルドガー、まだ寝ぼけてんのかしら…って、何涙目になってんの。朝から気色悪いわね」

「…何でないよ。目にゴミが入っただけだ」

 

生きていてくれた。あの時繋いだ手を離してしまったのに、彼女は戻ってきてくれたんだ。なぜ、どうして。そんな疑問よりも嬉しさが込み上げてくる。

 

「ふぅん…いいからさっさと顔洗ってきなさいよ? こっちはもうすぐできるわよ」

「ああ」

 

リビングを抜け、洗面所へと向かう。蛇口を捻ると最初はぬるい水が流れ、数秒おいて少し冷えた水へと移り変わる。顔を洗い流し、歯を磨き、鏡で自分の顔を見る。

 

「エル…ミラ……兄さん」と、無意識のうちに名前を呟いていた。

「もう二度と、逢えないと思っていたのに」

 

湧いた疑問点にルドガーは過去の体験を追想しようとするが、やはり霧がかかったような記憶は断片的にしか振り返ることができない。

当然、自分で呟いた言葉の意味もわからなくなる。

 

「…どうして、俺は"もう二度と逢えない"なんて思ったんだ…?」

 

これはいつも通りの日常。ルドガーが望んでいた、ごく普通の幸せな日常だ。

何も心配などいらない。望んだ日常は、自分の目の前に拡がっているのだから。鏡の向こうの自分が、そう言い聞かせているように見えた。

 

「もう、料理ができるって言ってたな」

 

思い出したようにルドガーはリビングへと戻る。既にテーブルの上にはトーストと、ミラ特製の野菜スープが並べられていた。

リビングの椅子は4つある。エルとミラは並んで座り、ルドガーを待っていたようだ。促されるままに2人の向かい、ユリウスの隣に腰掛ける。

いただきます、と声を揃えて4人はそれぞれ食器を手にとった。

 

「しっかしユリウスも大変ねぇ。休日だってのに、クランスピアに呼び出し食らうなんて。食べたら行くんでしょ?」

「まあ仕方ないさ。昔からだからね、もう慣れてる。ミラさんこそ朝からわざわざ来てもらって、なんか悪いね」

「私はいいのよ。どうせ部屋に篭ってても暇だし」

「……ん、このスープ…」

 

ルドガーは自分の作るものとは一味違った、ミラのスープの味わいに感嘆を覚える。エルに認めさせてやるんだ、と意気込んでからというものの、ミラの料理の腕前はさらにどんどん磨きがかかっていたのだ。

 

「おいしいよ、ミラ」

「トーゼン! この私が作ったのよ? ねぇ、エル?」

「パパのには敵わないけどねっ」

「なっ、なんですって!?」

 

またもエルの父の腕前を越えられなかったことに、軽くショックを覚えたミラ。しかしエルは勿体ぶったように、

 

「ルドガーもミラも同じくらいだよ! 2人ともごはんおいしいよ?」

「へ、へぇ〜…そっかそっか、私ら揃って2番目らしいわよ?」

「俺はミラの料理好きだけどな?」

「なっ……ふ、ふぅん。アナタも気が利いたこと言えるようになったわねルドガー?」

 

強がった風に言ってみせるが、ミラの顔は熟したトマトのように真っ赤になっていた。

スープを掬いながら、エルはさらに燃料を投下する。

 

「やっぱり2人ともお似合いだね! パパとママみたい!」

「「えっ!?」」

 

互いに赤面して顔を合わせる。エルの爆弾発言にルドガーはどう返していいかわからなくなっていた。下手なことを言えばミラの逆鱗に触れてしまいそうだからだ。

しかし隣のユリウスも、ルドガーの予想の斜め上を行く発言をして火に油を注いでいく。

 

「そういえば、2人はもう付き合ってどのくらいになるんだ?」

「へっ!? 付き合って、って……えっ?」誰と誰が、という疑問を抱くルドガー。対してミラは満更でもなさそうに、

「うーん…私ら、やっぱりそういう風に見えんのかしらねぇ」と、若干照れ臭そうな顔で答えた。

「ルドガーとミラ、仲良しだもんね!」エルも何の恥ずかしげもなく追い打ちをかける。

「…!? え、えっ!?」

「なによルドガー、私じゃ不服なわけ? 相変わらずぼーっとして、ねぇエル?」

「そーだよ! 戦ってる時はカッコいいのに、普段はなんか抜けてるっていうか…そーいうとこ、パパに似てるけどね」

 

それはそうだろう、とルドガーは思う。何せエルの父親は、

 

(…………あれ?)

 

誰だったか。知っているような気がしたのだが、思い出すことができない。

勘違いだったろうか。そもそもエルの父親は行方不明で、彼を探す為にカナンの地を目指していたのだから。

会ったことなどあるはずがないのに。

 

(……何かひっかかるな。大事なことを忘れてるような…だめだ、わからない)

「どうしたのルドガー? さっきからヘンな顔して」

「! い、いやなんでもないんだ」

 

エルに顔色を気遣われ、ルドガーは慌てて思考を隅に追いやる。気を取り直してもう一度ミラのスープを飲み始めた。

不思議と、胸が熱くなってくる。もう随分と飲んでいなかったかのような懐かしさと、込められたミラの想いが心に染みたからだろうか。

 

(美味い………幸せな、味だ)

 

自然と、そういった思いがルドガーの心の中に生まれていた。

 

 

 

 

 

 

2.

 

 

 

 

 

額にあてられた冷たい何かの感触に、黒髪の少女は目を覚ました。

瞳をまばたきさせてみると四方は白いカーテンに囲まれており、自分はベッドの上に横たわっているのだとわかる。

しかしどうにも視界がはっきりしない。目を見開いてみても、ぼんやりとしているのだ。まるでもとの裸眼で過ごしていた時のように。

視力の矯正が切れているのだろう、と考えて魔力を込めようとする。

 

(………?)

 

しかし、魔力などかけらも感じられなかった。即座に上半身を起こし辺りを窺うが、ベッドの横に誰が座っているのかもはっきりとしない有様だ。

額にあてられていたのは、冷たい濡れタオルだという事がわかった程度だ。

 

「やっと起きたね」

 

不意に、優しい声をかけられた。懐かしくもあり、とても愛らしい声の主は、目を向けなくても誰なのかは一瞬でわかる。

 

「まどか……?」

「てぃひひひひ、そうだよ? はい、メガネ」

 

まどかは手探りのほむらに眼鏡を渡してやる。もう久しく眼鏡など使っていなかったほむらはその行動に戸惑うが、考えることよりも視力を補う事を優先し、素直に眼鏡をかけた。

今度は隣にいる、まどかの心配そうな顔がはっきりと見える。

 

「もう、びっくりしたよ。ほむらちゃんてばいきなり貧血起こして倒れちゃうんだもん」

「ここ…保健室…?」

「そうだよ? さやかちゃんに手伝ってもらって、一緒に運んだんだよ。本当に心配したんだから…ね?」

「えっ…? ま、まどか…?」

 

まどかは目尻に涙を浮かべながら、優しくほむらを抱きしめた。突然の行動にほむらは困惑を覚え、心拍数が一気に上昇する。

 

「ど、どうしたのまどか…!? いきなり、こんな」

「…いきなりはほむらちゃんの方だよ。貧血、治ったって言ってたのに…私に気を遣ってたの…?」

「い、いえ!そんな」

「もっと私を頼ってよ、ほむらちゃん…私たち、恋人同士なんじゃなかったの…?」

「………えっ!?」

 

まどかの予想だにしない言葉に、ほむらはさらに混乱していく。

柔らかな肌の感触、暖かさ。ふわりと優しい香りのする桃色の髪。布越しに伝わる心臓の鼓動は、どこか忙しないようにも思えた。

まるで気弱だった頃の自分に戻ってしまったかのように、ほむらは何もできない。おぼろげな記憶を辿り、まどかの言葉の意味を反芻する。

 

(……そう、私とまどかは恋人同士。私の方から告白して…それから…?

よく思い出せないわ。けれど、そうよ。それで正しいはず…)

 

曖昧ながらも自分の中で結論づけて、不安げな顔色のまどかに言う。

 

「…ごめんなさい、あなたに迷惑ばかりかけてしまって」

「いいよ、そんなこと。むしろもっと頼ってくれたら嬉しいなって」

「まどか………」

 

まるで初めて出逢った時のようだ、と感じる。ほむらはまだ■■■■になってもいない、病弱で何の取り柄もなかった少女で、

 

(………?)

 

対してまどかは常に前を向いて自信を持っていて、気弱なほむらをリードしていたのだ。

そんなまどかだからこそ、ほむらの心は自然と惹かれていったのだ。友達としてではない、ただひとりのかけがえのない人として。

そう信じて、疑う余地などない。

 

「………そう、私はまどかが好き。大好き。愛してるの」

「きゅ、急にどうしたのかな? 嬉しいけど、なんか恥ずかしいな…」

「ずぅっとそばにいてね。……どこにも、行かないで」

 

まどかの身体を、今度は逆に抱き返す。両者の身体はぴったりと密着していた。

 

「嫌な夢でも、見たの?」

「ええ、とても長い夢…あなたが、私を置いてどこか遠くへ行ってしまう夢よ。寂しくて…辛くて…どんなに想っても逢えなくて……ぐすっ…死んだ方がマシよ、あなたに逢えなくなるくらいなら…」

「……それは、とっても嫌な夢だね。でも大丈夫だよ? 私はどこにも行かないよ」

 

先程とは逆に、うっすらと涙を浮かべ出したほむらを慰めるようにまどかは言う。

 

「だって私だよ? ほむらちゃんでさえ死んじゃいたくなるようなこと、私だって耐えられないよ」

「あなたも……そう想ってくれるの?」

「うん。私にとってほむらちゃんは一番大切なひとだから。私だって離れたくないよ」

 

それは、今までほむらがずっと求めていた言葉だった。今まで繰り返し続けてきたすべてが、まどかの為を想ってのこと。まどかとの幸せを求めて、彷徨い続けて来たのだ。

 

(繰り返す………何を?)

 

だが、ほむらは思い出すことができない。一体自分は、まどかの為に何を繰り返し続けてきたのか。

ぼろぼろに傷付いて、時には死にたくなるような事も何度もあった、ような"気がする"。しかしほむらは、今の自分以外を思い出す事はできなかった。

 

「だめだよ、ほむらちゃん」

 

その思考を遮るように、まどかは抱き締める腕の力を強くする。鼻と鼻が触れそうな距離で見つめあい、甘い吐息を漏らしながら囁く。

 

「ほむらちゃんには私がいればいいの。この私だけが、ほむらちゃんの全部を受け止めてあげられるんだよ? だから…」

 

───ずっと一緒にいようね。

 

呪詛をかけるように呟き、ほむらの唇を自身のそれで優しく塞いだ。

 

 

 

 

3.

 

 

 

 

 

朝食を終え、ユリウスを見送った3人はマンションフレール内の自室で時間を持て余していた。

何か面白い番組でもやってないかとテレビをつけると、数日前に起きたマクスバードでの変死体発見騒動の特番が流れている。

朝から陰鬱な気分をもらいたくない、とミラはチャンネルをルドガーから取り、次々と変えていく。しかしめぼしい番組は特に見つからない。

 

「どこか出かけるか?」快晴の空を窓から一望しながらルドガーは2人に訊く。するとエルが、

「エル、あそこ行ってみたーい!」

 

と、たまたま流れていたチャンネルを指差す。ちょうどディール地方の名産品特集をやっていたところだ。

 

 

「ディールか……いいな。ミラも行ってみるか?」

「暇だから付き合ってあげるわよ。エレンピオスの事はまだよく識らないし、ちょうどいいわ」

「うん、決まりだな」

 

テレビを消して3人は身支度を始める。ディールへはトリグラフ駅から列車が出ており、数十分もすれば着いてしまう。

ディールはトリグラフと比べると狭い街だが、近くには湖畔があり独自の名産品も手がけており、軽く遊びに行くにはうってつけの場所だ。

今しがたテレビでも今年産の地酒「二千年の孤独」を紹介しており、地酒を目当てに観光に行く人々もたびたび見られるほどだ。

身支度を終えて自室をあとにする。エレベーターを降りると、猫好きで有名な住人が黒い猫を追いかけ回している姿が視界に入った。

 

「ルドガー、ココネまたやってるよ」

「ははは…大変だな」

 

その光景はすっかり見慣れたものだ。実はあの猫好き、猫に嫌われているのではなかろうか。そんな疑問も湧いて出てくる。

 

「あの猫、なんだかエイミーに似てるな」

「エイミー…?」

 

どこかで見たような黒猫の姿を見て、ルドガーは無意識にその名前を呼んでいた。しかしエルは、聞き覚えのない名前に疑問符を浮かべる。

 

「ルドガー、エイミーって?」エルはもう一度、確かめるように尋ねた。

「ああ、エイミーってのは………あれ?」

 

しかしルドガーは、その問いかけに答えることができない。

 

(エイミー……エイミーって、なんだ。どこかで見たような気がするけど……思い出せないな)

「ルドガー? どうしたのよ」何かを思い出そうと頭を捻るルドガーに対して、ミラは急かすように声をかけた。

「ミラ…いや、なんでもないよ」

「そ、ならいいのよ。余計なこと考えんじゃないわよ?」

「はは……気をつけるよ」

 

きっと気のせいだ。猫などどこにでもいるのだから。きっと、どこかでそういう名前の猫を昔見ただけだろう。ルドガーはそう自分に言い聞かせた。

 

 

マンションを出て十字路を左に曲がると、クランスピア社がそびえ立つチャージブル大通りへと差し掛かる。駅はこの先にあるのだが、クランスピア社のちょうど目の前に旧友のノヴァの姿を見つけた。向こうもルドガー達に気付いたようで、手を振って声をかけてくる。

 

「おはよ、ルドガー。3人揃ってお出かけ?」

「ああ。天気もいいし、ディールにでも行こうと思って」

「へぇ〜いいじゃん。なんかルドガーらしいっていうか」

「俺じゃないよ、エルが行きたいって言ったんだ」

 

借金の取り立てをされていた頃はノヴァの声を聞くだけで辟易としたものだったが、闘技場で稼いだガルドで一気に返済を終えたあとは、そんな気概もなくなっていた。

最後の方は互いに気まずい雰囲気だったが、今では気軽に会話を交えられるほどにまで関係が修復されたほどだ。

 

「借金も返し終わったし、久々にゆっくりとするのも悪くないだろ?」と、ルドガーは軽い冗談交じりでノヴァに訊く。しかし返ってきた返事は、

 

「ルドガー、借金もう返し終わったの?」

「えっ…?」

 

思わず、抓まれたような顔をしてしまう。この受付嬢、自分が取り立てをしていた事を忘れたとでも言うのか。或いはこれも冗談なのか? そう思ってひとこと言おうとすると、

 

「ルドガー、何してんのよ。早く行きましょ」

 

ぴしゃり、と若干不機嫌そうなミラの声に背筋を張ってしまい、振り返る。

 

「あ、ああ…すまない。ノヴァ、またな……っ!?」本来の目的を思い出し、ノヴァに別れを告げようと振り向く。

 

しかし、そこには"何もなかった"。

 

何が起こったのかを理解できずにいると、痺れを切らしたような様子でミラがエルの手を引いてすたすたと先へ行ってしまう。

慌ててルドガーはその背中を追い、隣へと駆け寄った。

 

「さっきからアナタ、何か変じゃない? 何回もボーっとして。しっかりしなさいよね、私がいるんだから」

「ご、ごめん。気をつける」

「そう、それでいいのよ。アナタは私らの事だけ考えてればいいの」

 

ふわり、と微笑みながら人差し指でルドガーの鼻をこづく。その仕草にルドガーは少しだけ自分の心臓の音が強くなるのを感じた。

 

(けど……俺、今誰かと話してたよな? …思い出せない。確かに、さっきから何か変な感じばかりだ)

 

それとは裏腹に、わずかな疑問も少しずつ積み重なる。この違和感は何なのか。在るべきものがなくて、無い筈のものがあるような、そんな風に感じるのだ。

程なくして、3人はトリグラフ駅構内へと入る。切符を3枚買い、改札を抜けるとちょうどよくディール行きの列車が到着していた。時計を持ち歩く習慣のないルドガーは、電光掲示板で現在時刻を確認する。時刻は、10時を廻るところだった。当然ながら、あの時と違ってアルクノアのテロなど起こるわけもない。

搭乗して適当な座席にかけ、程なくして列車は動き始めた。

 

 

 

 

 

4.

 

 

 

 

 

まどかに手を引かれながら教室へと戻ったほむらは、2人揃って帰ってきた姿に対しての冷やかしを食らっていた。

既に4限目の授業は終わり、昼休みが始まる時間となり教室内のひと気はまばらだ。

ほむらも予想していたことだが、こういう時に率先して茶々を入れて来るのは、さやかだと相場は決まっている。

 

「よっ、この色女! 保健室でナニしてたのかなー?」

「………はぁ。貴女は相変わらずね…」

 

露骨に飽きれた顔をしてやり、さやかを一瞥する。どうにも、まどかと友達以上の関係に踏み入って以来突っかかってくることが多いのだ。

少しは強気に出てやろう、とほむらは鼻で笑いながら言う。

 

「そんなにまどかを奪られた事を妬んでるのかしら。残念ね、美樹さやか」

「くっ、このアクマ! まどかぁー、ほむらがいじめるよぉ!」

「アクマ、だなんて随分な言われようね」

 

ぱさり、と自身の黒髪を手で掻き上げながら冷たい視線を飛ばす。その隣にいるまどかはにこにこして2人の様子を眺めていた。

 

「2人とも、もうこんな時間だよ? お弁当食べようよ」まどかは時計を指しながら、促すように声をかける。

「うん! あたしもうお腹ペコペコだよぉー」

「そうね」

 

さやかに続き、ほむらも机に戻り鞄の中を探る。今日の弁当はどんな出来なのか。なんとなしに楽しみにして鞄を開けると、

 

「………あら」

 

中に入っていたのは、黄色い箱に入ったブロック状の携帯食料品と、教科書類だけだった。

 

「そういえば、私はいつもコレだったわね…」

 

弁当を持ってきたことなど一度もないのに、自分は何を浮かれてしまっていたのか。軽くため息をついてほむらは黄色い箱を取り出し、既に集まって陣取っていた2人のもとへ向かった。

 

「ほむらちゃん、またカロリーメイトなの? だめだよ、身体壊しちゃうよ?」

「問題ないわ。食事なんて、栄養価さえ確保できればいいもの」

「なんでだろう…大丈夫だ、って信じたいのに全然信じられないよ。私のおかずちょっとあげるから、ほら」

 

何処かで聞いたような台詞を言いながら、弁当の具を蓋にいくつか乗せて差し出すまどか。さやかも白米を少しと、小さな梅干しを一緒にそこに乗せてきた。

 

「梅干しくらい自分で食べなさい、美樹さやか」

「何よー、梅干しは貧血にいいんだからね?」

「貴女が梅干し嫌いなだけでしょ…」

 

呆れたようにさやかを一瞥するも、まどかからの差し入れに頬をかすかに緩ませる。

嗚呼、なんてこの娘は優しいのだろうか。まるで女神のようだ。まどかのはにかむ顔を見ながら、ほむらは蓋に乗ったおかずに手をつけた。

 

 

 

 

5.

 

 

 

 

 

心地よい風が吹き抜け、湖畔の方角からはかすかに湿った土の匂いがするディールの街並みは、休日という事もあってかひと気がそこそこ多く見られる。

荒涼としながらも、トリグラフに比べれば遥かに空気が良い。エルははしゃぎながら先行して広場へと駆けて行き、ルドガーに付き添うミラの表情も、心なしか普段よりも明るいように見えた。

 

「いいところじゃない、ここ」

「気に入ったみたいだな、ミラ」

 

中央の噴水広場から街並みを見渡す。絶景と名高い渓谷の隙間から覗く乳白色の空、川魚料理に定評があり雑誌にも取り上げられるほどの食堂、名産品として古くから有名な地酒売り場など、それぞれが観光地としての賑わいを見せている。

しかしこれでも、進んでいく自然の荒廃によって魚の値段が少しずつ上がっていたり、渓谷はわずかながら磨り減っていったりなど、弊害もあるのだ。

 

「で、どこに連れて行ってくれるのかしら?」

「え、ええと…」

 

ほとんど思いつきでディールまで来たものだから、そこまで考えてはいなかった。

食事にするにはまだ早いし、この面子では酒とも無縁だ。のんびりと羽を伸ばすのには良いのだが、目立った遊覧施設があるわけでもない。

ルドガーは早速、己の無計画さを呪うこととなった。

 

「エル、イセキに行ってみたーい!」

 

うなだれるルドガーの元へ、エルが戻って来た。どこからか観光スポットを聞き出してきたようだ。

 

「遺跡? そんなものがここにあるって言うの?」ミラは半信半疑でエルに聞き返す。

「うん! 湖の方にあるんだって!」

「湖…ウプサーラ湖か。あんなところに遺跡なんてあったかな…ん?」

 

エルの提案に、僅かながら思い当たる節があるような気がした。ルドガーは頭を捻り、なんとか思い出そうとする。

脳裏に浮かんだのは、どこか遠未来的な構造をした薄暗い空洞。地下深くに埋まり、ひっそりと佇む"箱舟"。

 

「"トール"………?」

 

ほとんど無意識のうちに、ルドガーはその名を呼んでいた。

 

「うっ………ぐ、うぁぁぁぁぁ!!」

 

唐突に、頭を締め付けられるような激しい頭痛に襲われる。脂汗を額に浮かべ、呻き声を上げ、頭を抱えてルドガーは膝から崩れ落ちた。

 

「ルドガー!?」

「ちょ、ちょっと!? しっかりしなさい! どうしたっていうのよ!?」

「あ、頭が痛い……ぐぁっ…!」

 

ミラが咄嗟に身体を支えてやり、手をかざして回復術をかけてやる。しかし四大精霊の加護を失ったミラの精霊術の効果は弱体化し、回復術も専門分野ではない。ルドガーの頭痛は治まる気配がなかった。

街の往来で精霊術など使おうものなら、エレンピオス人たちの注目がいっぺんに集まる。この辺りまではアルクノアの魔の手は伸びていないだろうが、奇異の目は少なからず向けられるだろう。

 

「ミラ…! 目立つから…術を止めろ…!」頭痛に苦しみながらも、ルドガーはミラを気遣う。

「馬鹿! アナタの方が大事に決まってるでしょ!?」

 

こんな時にまでお人好しスキルを発揮して、とミラはルドガーを咎めるように怒鳴った。

その言葉を嬉しく思いながらも、ルドガーは頭痛に混じって脳裏に語りかけるような声に気付く。

 

『──────忘れるな、我らが無念を! お前の罪を! 427086もの命を、お前は───』

 

お前は、誰だ。脳裏に呼びかけ、呪詛を吐くその声の主を定めんと意識を集める。

そうして浮かんだのは、幾万もの年月を過ごし、数多の命を見守ってきた箱舟の番人の姿。

かつて、この手にかけた存在の姿だった。

 

「……オーディーン…!? どうして…ゔぅぅっ…!」

「ルドガー! しっかりして!! ルドガー!!」

 

もはや回復術でも埒があかない。ミラはルドガーの苦しさを少しでも和らげてやりたい一心で、その身体を抱きしめてやる。

 

「ミラ……ごめん…っ、うぅ…」

 

柔らかな感触に包まれる。心臓の音がかすかに聞こえ、そのリズムに身を任せるとようやく頭痛は治まりを見せた。

 

「はぁ…はぁ……もう、大丈夫だ…」

「…無理、しなくていいのよ。"あんな事"があったばっかりなんだもの」

「"あんな事"……?」

 

ミラの言葉にどこか引っかかるものを覚えるが、ルドガーはそれが何を指すのかが思い出せない。こうして気遣うように言ってくるという事は、分史世界での出来事だろうか。それとなくミラに尋ねてみる。

 

「……忘れているならその方がいいわ。大丈夫よルドガー…何があっても、私だけはアナタの味方だから」

「えっ……ミラ…?」

「好きよ…ルドガー。アナタは私が守ってあげるから、ね?」

 

柔らかな、それでいてどこか切なげな笑顔を浮かべて、ミラはより強くルドガーを抱きしめる。

子供をあやすように頭を撫でられ、ルドガーの心臓は鼓動を速める。きっと自分の顔はトマトのように真っ赤になっているのだろう、などと思いながらもミラの言葉の真意を考える。

しかし、まるでフィルターがかけられたように記憶を辿る事はできなかった。

 

「…そろそろ行きましょ。立てる?」

「あっ…ああ、問題ないよ。悪い、待たせたなエル」

「ルドガー、もう平気なの?」

「大丈夫だよ。ミラのおかげでな」

 

心配をするエルの頭をわしわしと撫で、元気付けてやる。その姿は傍目から見れば、まるで親子のようだった。

 

 

 

 

 

6.

 

 

 

 

 

「………はぁ」

 

 

どうにも回転の悪い頭を整理するために、ほむらはひとり教室を離れて化粧室を訪れていた。

鏡面の前に立ち、冴えない自分の顔を見る。眼鏡をしないほうが評判が良いようだが、眼鏡なしではこうして鏡を見る事も難しい。

 

「…記憶が混乱しているわね。何か、大切な事を忘れている気がする…」

 

そしてその勘が間違いでなければ、以前にもこんな事があった気がする。ほむらは頭を悩ませるが、その答えは見つからない。

やむなく、蛇口を捻って手を軽く濯ぐ。用を足したわけでもないのに化粧室を出る時に手を洗ってしまうのは、何もほむらに限った話ではないだろう。

もう何度ついたかわからないため息を吐き、眼鏡を軽く直してもう一度鏡を見る。

 

「はぁ…戻らないと……えっ!?」

 

その鏡に映った姿に、ほむらは絶句した。

デコルテの強調された、丈の短い漆黒のドレスを纏い、背中からは大きな翼を生やし、白い骨格から黒い羽根を散らしている。

その姿はまるで、白鳥の湖に登場するオディール…ブラックスワンのようにも見える。

眼鏡を外し、カチューシャではなく黒いリボンを頭につけたその少女の姿は、身に纏うものこそ違えど紛れもなくほむらそのものであった。

 

「な……なによこれ!? アナタ、何なのよ!?」

 

あまりに現実離れした光景に取り乱す。しかしそれとは反対に鏡の向こうの少女は微動だにせず、真っ直ぐにほむらを見据える。

 

『思い出しなさい…!』その少女の口から、言葉が紡がれた。

『何の為にやり直したと思っているの…まだあなたは、何にも守れてないのよ…!?』

「やり直した…? あなた、誰なの…?」

『…私はあなたよ。目を覚ましなさい! 約束を、忘れてはだめよ!』

 

鏡に映る少女は必死に何かを訴えかけてくる。

だが、ほむらはその真意に気付く事ができない。訳もわからないまま、目の前の光景に立ち尽くすだけだった。

 

 

「──────ほむらちゃん?」

 

不意に、背後からまどかに呼びかけられる。身体が反射的に反応し、声のした方に振り返った。

 

「どうしたの? 鏡の前でぼーっとして…まだ、調子悪いのかな」

「ま…まどか! 今、鏡に……えっ…?」

 

異変を知らせようと鏡を指差す。しかし、ほむらが振り向いた僅かな間に黒衣の少女は鏡から姿を消し、もとの学生服を着た自分の姿が映し出されていた。

 

「消えた……?」

 

正確には、先程までとはひとつだけ差異点がある。鏡に映るほむらの左耳に、見た事もない黒いイヤリングがいつの間にか備わっていたのだ。

恐る恐る手をイヤリングに伸ばすが、感触がしない。鏡の中の自分だけがイヤリングをつけており、ほむら自身の耳にはイヤリングなどつけられていないようだ。

 

「ほむらちゃん…具合が悪いなら無理しないで?」

「! い、いえ…大丈夫よ。帰りましょう、まどか」

 

まどかは半信半疑でほむらの顔色を窺うが、ほむらはそれを無理やりはぐらかし、まどかの手を取って化粧室を後にした。

 

 

 

燃えるような夕焼け空の下を、2人で手を絡ませるように繋ぎながら歩いてゆく。周りにはひと気は一切なく、まるで2人の為に道を開けられたかのような静けさだ。

 

「こうして2人でいると、恋人同士って感じがするよね」

 

朗らかな笑顔を向け、なんの恥ずかしげもなくまどかは尋ねる。

こんなにも自信に満ちたまどかを見たのは久しぶりのような気がする。"毎日顔を合わせている"のに、ほむらは不思議とそう思ってしまう。

同時に、新たな疑問も湧いてくるのだが。

 

「ええ…私は、あなたとこうしていられる時間が、とっても好きよ」

「ほむらちゃん…ありがとう」

「でも…」前置きを入れ、ほむらは意を決してまどかに訊いてみる。

 

「本当に、私で良かったの…? どうしてまどかは、私の想いを受け入れてくれたの…?」

 

そう尋ねたほむらの声は、今のまどかとは逆に不安で満ちていた。

 

「てぃひひひ、その質問何回目? …ほむらちゃんがずっと私だけの事を想ってたこと、知ってたんだよ?ずうっとひとりぼっちで抱え込んで…誰も助けてくれなくて…それでも、ほむらちゃんは私の事を想ってくれた。それがわかった時すごく嬉しかったんだ。こんな私を本気で愛してくれる人がいたんだ、って」

「まどか……?」

「私、言ったよね? 独りぼっちになっちゃだめだよって。ほむらちゃんをもう独りになんかさせたくないの。ここに居れば、嫌な事も忘れてずっと一緒にいられるんだよ?」

 

 

まどかの言葉は、まるで暗示のようにほむらの心を溶かしていく。かすかに湧いた疑念すらも、思い出せなくなる。

それでも唯一気掛かりだったのは、やはり鏡に映った異形の姿の自分だろう。

 

 

『───まだあなたは、何にも守れてないのよ!?』

 

 

あれはただの幻なんかではない。でなければ、こんなにも胸が締め付けられる気持ちになどなりはしない。

あの言葉が何を意味するのか。もしかしたら、自分には何か他の使命があったのでないか。

 

「…ありがとう、まどか。あなたが傍にいてくれるなら、それだけで私は幸せよ」

 

そんな不安を決して表には出さず、まどかを安心させるようにほむらは告げた。

 

 

 

 

 

7.

 

 

 

 

 

ディールでの観光もひとしきり終え、ルドガー達はトリグラフ行きの列車に揺られていた。

夕焼け空を窓から眺め、片肘をついて一日を振り返る。

エルの目当てだった古代遺跡は数年前に地盤沈下で崩れており、立ちいる事は叶わなかったが、その他の観光は満足いく内容だったと感じる。

そのエルも、今はルドガーに寄りかかる形で眠りに就いており、その様子を向かいに座るミラが暖かい目で見守っていた。

 

「意外と楽しかったわね、ルドガー?」

「満足してくれたようで、安心だよ。…昼間は悪かったな。いきなり頭痛なんて…」

「いいのよ。疲れてたんでしょきっと」

 

くすり、と笑って場を和ませる。ミラのルドガーに対する気遣いは、以前よりも格段と増しているようにも思えた。

間も無く、トリグラフ駅に到着するアナウンスが流れる。ルドガーはエルを優しく起こし、下車の準備を始めた。

 

 

 

トリグラフで下車し、チャージブル大通りにまで戻って来ると、ちょうどクランスピア社から出てくるユリウスの姿を見つけた。

 

「兄さん! 仕事終わったのか?」と、手を振りながら声を掛ける。

「ああ、ちょうどな。今夜は一緒に食事できそうだな」

「任せてくれ、夜は俺が作るよ。ミラも食べてくか?」

「いただくわよ。ライバルの料理は研究しなきゃね?」

「ははは………」

 

 

既に日は落ち、黒匣工の光を照らす街灯へと移り変わる。ひと気は既になく、マンションフレールへの帰路につくルドガー達4人の姿があるだけだった。

妖しく光る満月を見上げ、大切な人たちに囲まれながらルドガーはふと思う。

 

 

 

(ああ、この世界はこんなにも幸せに満ちて─────あまりにも、残酷すぎる)

 

 

 

 

8.

 

 

 

 

 

ほむらはまどかを連れて、見滝原の街並みを一望できる、花畑の広がる公園を訪れていた。

日は沈みかけ、次第に星空へと移り変わってゆく。ビルに囲まれた市街地ではよく見えないが、丘の上に面するこの公園ならば景色は一段と変わるのだ。

 

「珍しいね、ほむらちゃんが寄り道したがるなんて」

「ええ…どうしても、あなたに訊きたい事があったから」

「それって、どんな事かな」

 

不思議そうな顔をしてまどかは訊き返す。その笑顔にほむらは切り出すのをつい躊躇ってしまう。

 

『必要なのは選択だ。命を…世界を、己のすべてを賭けた"選択"だ!

お前に出来るのか! "選択"が、 "破壊"が! 答えてみろ、ほむら!!』

 

 

だが、薄れてゆく記憶の中でも胸の内にかすかに残っていた言葉を思い出し、自身を勇気付ける。

 

「私、今すごく幸せなの。あなたとこうして2人でいられて…愛し合えて。魔女も、魔法少女も、インキュベーターもいない。このまま、この幸せがずっと続けばいいな、って思うの」

「できるよ。ほむらちゃんがそう望めば、ね?」

「…でも、それじゃあダメなのよ。この世界は、あまりに幸せすぎる…でもね、私は幸せになんかなってはいけないのよ。まどかの想いを、願いを踏みにじった上で私は今ここにいる。忘れかけてたけど、思い出させてくれたのよ。鏡に映った、もうひとりの"私"がね。…だから、わかるの。

 

 

────あなたは、"まどか"じゃない」

 

その言葉と共に、ほむらは魔法少女の姿へと変身する。強い意志を込めて、目の前にいるまどかに言い放った。

まだ全てを思い出したわけではない。蓋をされた記憶を断片的に辿っただけだ。それでもこの確信に至れたのは、どんなに拭っても取り去る事のできない罪悪感のお陰だろう。

それだけの事を、かつてほむらはまどかにしてしまったのだ。

 

「………ふぅん」

 

対してまどかは、動じる様子もなく平然としている。逆に、余裕のこもった笑みを浮かべるだけだ。

しかしその笑みは、今までほむらですら見た事もない程に歪んだ感情が込められていた。

 

「どうして、わかったのかな?」

「…悪いけれど、こういう事は"初めて"じゃないのよ。それに、約束したから。"絶対に帰ってくる"ってね」

「そう…そうなんだ。ほむらちゃんはやっぱり、"そっち"の私を選ぶんだね。そうやってまた私を──────」

 

 

『見捨てるんだ』

 

 

その声は、ひとりのものではなかった。ステレオのように全方位から響き渡り、ほむらを戦慄させる。

 

「なっ……!?」

 

慄いたまま周囲を見渡すと、花畑の一面のありとあらゆる場所にまどかが立っている。ひとりではない。まどかと同じ姿をした"何か"が、立ち並んでひしめいているのだ。

 

『ダメならやり直せばいい、って思ってるかもしれないけどね』

『残された私のこと、考えたことあるのかな?』

『誰もいない、全部が滅んだ世界で私だけが残されて』

『ほむらちゃんだけが頼りだったのに。ずっとそばにいてくれるって』

『愛してくれるって、信じてたのに』

『自分勝手だよね。そうやって、何人の私を』

『見殺しにしてきたか、憶えてる?』

 

 

一斉に、まどかはほむらを罵倒し始めた。傷を抉るように、決して逃がすまいと。

 

「あ……あっ! 嫌ぁっ……!」

 

数百もの双眸が一点に集められる。射抜くように、焦がすように、冷たい視線を飛ばす。

 

『また、殺せばいいじゃない』

『いいよ、ほむらちゃんになら何度だって』

『殺されてあげる』

『そうして、もっともっと、私以外の事を考えられなくなるの』

『ああ───それはとっても、素敵なことだなって』

『思わないかな?』

 

押し潰される。一斉に吐き出される呪詛に、歪んだ感情に。身体は恐怖に震え、膝が笑い出す。冷や汗を滝のように流し、青ざめていくのが自分でもわかる。

今までまどかの為だと思って見て見ぬ振りをしてきた罪を、今この場で一気に掘り起こされているのだ。

 

「いやぁぁぁぁ! 言わないで! 言わないでぇぇぇ!!」

 

次第に正気ではいられなくなる。並の神経ならば、とうに崩壊しているかもわからない。

数多の時間遡行を繰り返し、目を背けたくなる現実を何度も味わってきたほむらだからこそ、未だかろうじて堪えているのだ。

 

「わかってるの! 私はどこまでも自分勝手で、まどかを傷つけてばかりで!! 助けたかったの…救いたかっただけなの…! 殺したくなんかない……一緒にいたいだけなの…! ごめんなさい…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

崩れ落ち、涙でぐしゃぐしゃになった顔をを土につけながら、ただひたすら謝罪の言葉を漏らす。どれだけ乞おうと、決して赦されないのだと知りながら。

そんなほむらをさらに冷酷な目で見つめながら、"まどか"は更に言った。

 

『赦して欲しいんだ? 何度も私を見殺しにしたくせに』

『裏切ったくせに』

『いいよ、赦してあげる』

『だから、もう一度───』

『私を』

『守ってみせてよ、ほら』

 

突然に、凄まじい突風が吹き荒れる。花弁は激しく舞い散り、まどかの声も絶え絶えになる。雲を裂き、ノイズのような耳鳴りと共にソレは姿を現した。

 

 

『アハハハハハハハ……フフフ…アハハハハハハハ!! キャハハハハハハ!!』

 

 

無力を冠する、最強にして最悪の魔女。壊れた人形のように空を漂い、三日月のように裂けた口で高らかに嗤う。

 

「そんな………ワルプルギスの夜…?」

 

吹き荒れる暴風に乗り、無数の瓦礫が飛んで来る。それらは某然と膝で立つほむらにはかすりもせず、代わりに無数の"まどか"に命中する。

柘榴のように血飛沫を上げ、絹糸を裂いたような断末魔と呪いの言葉を吐きながら、次々とその命は散らされてゆく。

それを目前で見せられたほむらの精神は、ついに限界を迎えた。

 

 

「イヤ…まどかぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

砂時計を宿した盾にひびが入る。狂ったように叫び声を上げながら、ほむらの背中から小宇宙を宿した二対の巨大な黒翼が広がる。

ばさり、と禍々しい力を振りまくと共に、盾はついに粉々に砕け散った。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! あぁぁぁぁぁっ!!」

 

理性を欠き、獣のような声を放ちながら、強大な魔力の塊を目前に形成する。翼はなおも大きく広がり、まるで揚羽蝶が烏の羽根を生やしたかのようなアンバランスさを見せる。

ばさり、と大きくはためかせると共に地面は激しく抉れ、周囲の大気をデタラメにかき混ぜながら、魔力の塊は宙に浮かぶ魔女───ワルプルギスの夜へと解き放たれた。

 

『キャハハハハハハ───!? ウフフ、アハ、アハハハハハハハ!』

 

内側から破裂するように、ワルプルギスの夜の身体が分断される。より一層不気味で、大きな声で叫びながら、能面のような口から夥しい量の血を吐き散らし、ゆるやかに落下していく。

 

 

「ハァ、ハァ、ハァ………倒した……の…!?」

 

ほとんど無意識で放った黒翼の一撃は、過去に見たどの魔法少女の攻撃よりも間違いなく強力なものだった。

だとしても簡単すぎる。あの魔女はこんなに簡単に倒せるような相手ではない。これも、幻なのだろうか。瞬きを繰り返し、もう一度目を凝らして空を見上げてみる。

 

 

「──────ひっ」

 

 

その光景に、ほむらは声にならない声を上げた。

いつの間にか、空はまるで宇宙のように銀河が煌き、そこにゆったりと浮かぶ上半身と下半身で引き裂かれたモノは、ワルプルギスの夜などではなかった。

 

 

『ほらね………嘘吐き』

 

 

純白の長いワンピース、ほむらの翼とは対極に穢れひとつない白い翼。因果の糸のように長く伸びた桃色の髪を散らしながら、ソレは呪いを吐く。

神々しさを放ちながらも、この宇宙の何よりも禍々しい光を纏う。

それはかつて全ての魔法少女の救済を願い、神にも等しき存在へと至ったまどかの姿そのものだった。

 

 

「……はは、あははは…やっぱり私は、あなたを傷つける事しかできないのね……」

 

牙を抜かれたように、翼を生やしたままほむらは座り込んでしまう。

 

「あはは、あはははは…ふふふふ、はははは…あっははははは………」

 

歯車が切れた人形のように、壊れた舞台装置のように、ほむらは乾いた笑い声をあげ出した。

次第に、星空に亀裂が入る。甘く、残酷な夢は終わりを迎える。

その先に待っているのは…今となってはもう向き合う事すらできないであろう、我欲によって繰り返され、生み出された現実だ。

 

 

 

 

 

 

9.

 

 

 

 

 

「いきなりどうしたのよ、ルドガー。散歩なんて柄じゃないでしょうに」

 

 

夜の帳も落ち、黒匣(ジン)の街灯も間引かれて暗くなったトリグラフ市内。マンションフレールのすぐ正面にある市民公園に、ルドガーとミラの姿があった。

ベンチに腰掛け、夜空に浮かぶ2つの月を眺めながら2人は語り合う。

 

「ああ。2人だけで話したい事があったからな」

「へぇー…なによ、もったいぶらないで早く話したら?」

「はは、そう急かすなよミラ。…夢から醒める前に、伝えなきゃいけないことがあるんだ」

「! ルドガー、あなたまさか……」

 

その問いかけにルドガーは答えない。言わずとも、優しく微笑むその姿だけでミラはルドガーが"全て"を悟ったことに気付いた。

 

「…いつ、気がついたのかしら?」

「ディールにいる時かな…頭痛の、しばらくあとだよ。この世界には兄さんがいて、エルがいて…君がいる。幸せすぎるんだよ、この世界は。それでもやっぱり忘れられないんだ。この手が、数えきれないほどの人たちの血で染まってるってことがね」

「…そんなの、私だって同じよ。私の世界で、私はマクスウェルとしての使命を果たす為にアルクノアを皆殺しにしたわ。言いたくないけど、ユリウスだって…」

「それでも、だよ。…あの時ミラの手を離してしまったこと、兄さんを、この手で殺したことだけは忘れられない…忘れちゃいけないんだ。ごめんな、ミラ。俺にもっと力があればちゃんと守れたかもしれないのに」

 

ベンチから立ち上がり、ミラと正対する。以前ミラが見た時とは違う、遥かに強い意志の込められた顔をしてみせる。

その顔を見てミラは、ようやく安心したかのように微笑んだ。

 

「いい顔してるじゃない。やっぱり、守るものがあると違うわね?」

「そう言ってもらえて、何よりだよ」

「……もう、行くの?」

「ああ。"ほむら"が待ってるからな。約束したんだ。一緒に"まどか"を守るって」

「そう…なら、私も"あの娘"みたいに呪いをかけてあげましょう」

「呪い? ミラ、何を……んっ」

 

勢いよく立ち上がり、ルドガーの肩を掴む。翡翠のような色をした前髪を手でさっと掻き上げ…唇を触れ合わせた。

時が止まったかのような静寂のなか、高まる心音だけが感じられる。別れを惜しむように、ゆっくりと柔らかな感触は離れた。

 

「っ……私はあの娘(・・・)と違って寛大なのよ。私のこと、一生憶えてなさい。それで勘弁してあげる」

「忘れたりなんかしないよ。…ありがとう、ミラ。たとえ幻だとしても、もう一度君に逢うことができてよかった。それだけで、俺はまた戦える。今度こそ…全てを守ってみせる。」

「私は、いつでもアナタを見守ってるわよ。さあ…始めましょうかしら?」

「ああ。これが最後(・・)だな……はぁっ!」

 

ミラの周囲に、膨大なマナの奔流が巻き起こる。四大精霊の加護を失い弱化こそしているが、元素を操る力でミラに敵う人間はそうはいない。

それに呼応するようにルドガーも骸殻を発動させ、ありったけのエネルギーを槍の刃先へと集約させる。

 

「来たれ! 再誕を誘う───」

「終局の雷!!」

 

共鳴し、爆発的に膨れ上がるマナの奔流は大気をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、辺りの遊具も吹き飛ばされる。

狙うはこの世界の中枢。長い夢は終わりを告げ、本当の戦いが待つ世界へと叛旗を翻す。

練り上げられたマナは空へ吸い込まれるように昇り、暗雲を裂き強烈な稲光を生み出した。

 

 

 

 

「「リバース・クルセイダー!!」」

 

 

 

空を裂き、地を穿つように巨大な稲妻が2人を中心に爆裂する。造られた世界は粉々に砕け散ってゆき、夢の終わりへと向かい始めた。

閃光に包まれるなか、最後にミラはひとつだけルドガーに言い残す。

 

 

「またね、ルドガー。頑張んなさい」

 

 

その言葉を胸に、ルドガーは長い夢からようやく目覚めた。

 

 

 

 

10.

 

 

 

 

 

散り散りになった映画のフィルムが舞う、乳白色の魔女結界へと2人は舞い戻った。骸殻を纏ったまま、ルドガーは目を凝らして箱の魔女の姿を探そうとする。だが、それよりも前に異様なモノをルドガーは発見してしまう。

黒翼を発現した、ほむらの姿だ。

 

「ほむら…!? その羽根、まさか…」

 

またも暴走しているのか。それにしては、ほむらは微動だにせず打ちひしがれるように、地に手をついた姿勢のままだ。

自分と同様に幻影をあてられたのか。その幻影によって、なぎさのように心を揺さぶられたのか。

いずれにせよ、早急に魔女を討伐しなければほむらが危ない。ルドガーは黒槍を構え直し、宙に舞う箱の魔女の姿を捉えた。

 

「すぐに片付ける! 待ってろ、ほむら!」

 

力強く跳躍し、空を駆ける。槍を振り回し、使い魔の群れを蹴散らしながら突き進んでゆく。

高熱線が何度かルドガーめがけて飛んで来るが、同じ技を受けるほど間抜けではない。身を翻し、いくつかは槍の一撃で魔女の方へと跳ね返し、その熱線は使い魔を貫いた。

 

「キャハハハハハ!!」

 

再度、結界内は暗転しだす。魔女はフィルムを敷き詰めてもう一度幻影を見せようと態勢を整えた。

しかし、視界が暗くなろうとルドガーの脚は止まらない。

 

「逃がすかぁぁぁ!! マター・デストラクトォォ!!」

 

投げつけた一本の槍を起点に、追撃を重ねる。使い魔の群れを粉微塵にしながら距離を詰め、ついにルドガーの槍は箱の魔女の本体へと突き刺さった。

 

「キャハ、ハ、アハハハ!?」

「…だめだ、足りない…!」

 

だが、その一撃は魔女に止めを刺すには至らなかった。使い魔の群れによって勢いが削られて

半端に突き刺さった槍をそのままに、魔女はさらに羽ばたいて上昇して逃げようとする。

 

「くそっ…逃げるなぁ!!」

 

奥歯を噛み締め、今一歩届かなかった悔しさと危機感を抱く。早く倒さなければみんなが危ない。焦りを胸にしたまま、再度槍を造り出して追撃をしようと試みる。

だが、その必要はなかった。

 

 

「アハハハハハ──────ハッ!?」

 

 

まるで風船が割れるかのように、突然箱の魔女は内部から破裂したのだ。

 

「えっ……まさか!?」

 

即座に振り返り、ルドガーは遥か下方にいるほむらの姿を確認する。先程までへたり込んでいたが、今は立ち上がって翼をゆったりとはためかせ、左手をこちらへとかざしていた。

魔女の爆裂死と共に、結界の構成が崩れてゆく。このままならもとの世界へと戻るだけなのだが、ルドガーの懸念は他のところにあった。

即ちそれは、黒翼の暴走。工場内にいる人間全員の身が脅かされる、最悪の事態だった。

 

 

 

 

11.

 

 

 

 

魔女結界からは、無事に全員が戻る事ができた。まどかとマミは共に工場の隅におり、他の被害者たちもその付近に寝転がされている。

それとはさらに離れたところに、骸殻を解いたばかりのルドガーと翼を生やしたままのほむらがいた。

 

「……………」

 

魔女を倒したのも束の間、ほむらは一言も喋らずに立ち尽くすだけだ。ルドガーは少しだけ距離をおいた場所からほむらの動向を窺い、必要ならば止める用意をしている。

当然、ほむらの身の丈の何倍もの大きさの黒翼は大きく離れたまどか達の視界にも映り、その存在感を前面に押し出す。

 

「ほむら……ちゃん………」

 

身震いを憶えながら、か細い声でその名を呼ぶ。ルドガーには聞こえなかったその声はしかし、ほむらの耳だけには届いたようで、その声を聞いた途端にびくん、と全身を緊張させた。

 

「まどか……!?」

 

畏れるように、逃げるように、翼を広げたままほむらは後ずさる。ばきばき、と大きな音を立てて工場内の物品は羽根によって破壊されてゆく。

ついには外壁にすら損傷を加え、工場内を大きく揺らした。

 

「薔薇園の魔女の時と同じよ…このまま放っておけば、ここが潰れるわ!」

 

マミは被害者たちを心配しながら言うが、もはや自分の力など黒翼を広げたほむらには遠く及ばない事を知っている。

何もできず、地団駄を踏むことしかできずにいた。

しかし、まどかは思う。ああなってしまったほむらを止められるのは、自分だけなのだと。

意を決し、まどかは揺れる工場内のなか足を踏ん張りほむらのもとへ駆け出した。

 

「やめろまどか!! 危険過ぎる! 俺が止めるから───」

 

ルドガーも、今度ばかりは本当に危機感を抱いており、必死の形相でまどかに叫んだ。

 

「私じゃなきゃ、ダメなんです!!」

 

だが、まどかの足は止まらない。ルドガーの静止も聞かず、どんどんほむらとの距離を詰めてゆく。

ほむらもまどかから逃れようとしているのかさらに後ずさるが、ついに壁面へと突き当たり足を止めてしまう。

もう数歩先まで近づいたとき、ほむらはうわ言のように呟き出した。

 

「こないで…! わたしは…もう守れないの…! ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

その姿は、あまりに哀れなものだった。自分の無力さを呪い、身勝手さを呪い…ただひたすらに赦しを乞う。

自分の目の前にいるのがいったい"誰"なのかすら直視しようともせず、言葉を繰り返す。

 

「ほむらちゃん!! 逃げないでよ!!」

 

恐らく人生で初めて、まどかは誰かに対して大きな声でまくし立てた。後ずさるほむらを逃がすまいとして、だ。

びくり、と肩を震わせてほむらはその場にへたり込む。翼はさらに外壁を抉り地面を揺らすが、もはやまどかはその程度では動じなかった。

ほむらを優しく包み込むように、手を伸ばす。しゃがみ込み、身体を預けるように強く抱きしめた。

 

「あっ………まどか……!?」

「…言ったよね、伝えなきゃいけないことがあるって。聞いてくれるかな」

 

その返事を待つまでもなく、両手をほむらの頬に添える。少し低めの平熱を手のひらに感じ、青ざめながらも艶のある唇を見る。

ゆっくりと、自分の感情を全て込めて…唇を重ね合わせた。

 

「んっ……!?」

 

突然のことに、ほむらは硬直する。そのまましっかりと離さぬように、まどかはさらに身体を密着させた。

その様子をルドガーとマミは遠くから見守る。言いたいことはいくつもあったが、今の2人に割って入る度胸などありはしなかった。

ほんの僅かな時しか経っていないのに、時の流れが永遠のように長く感じられる。触れ合うだけの幼い口づけだが、まどかにとっては何よりも尊い儀式のように感じられた。

名残惜しそうに唇を離し、まどかは改めてほむらに告げた。

 

 

「…私ね、ほむらちゃんのことが好き。大好きなの。初めて逢った時から…ううん、きっと出逢う前からかな。女の子同士なのに、どうかしてるよね……私。でも、お互い様なんだからね? ほむらちゃんの気持ちなんて、とっくに気付いてたんだから…!」

「まどか……うそ、うそよそんなの… だって私はまどかを傷つけてばかりで……」

「そんな事ないもん! ほむらちゃんはいつも優しくて、あったかくて、綺麗で……私なんかの為に、何度も傷付いて……! 夢の中でだってそうだよ。あれはきっと、この"私"じゃない他の"私"の事なんだよね…? でも、そんな事関係ない。お願いだよ、ほむらちゃん…私だけを見てよ! 他の"私"なんて見ないで! ずっと私のそばにいてよ……!」

 

それが、まどかの選択だった。己の全てを賭けた選択。その強い意志はほむらの心を揺り動かし、まどかと向き合わさせた。

それに呼応するように黒翼は砕け、花弁のように散ってゆく。

 

「まどかぁ………わたし、も………」

 

まどかの想いに、絞り出すような声で応える。既に限界まですり減っていた神経はようやく緊張の糸が解れ始める。

最愛の人に身を委ねながら、ほむらは深い眠りへとついた。

一安心したルドガーとマミも、2人のもとへ駆け寄る。なぎさの時と同様の懸念を抱いたルドガーは、ついさっき採ったばかりの箱のグリーフシードを手にしていた。

 

「落ち着いたようだな…すぐに浄化しないと」

「ルドガーさん……お願いします」

 

まどかも、ソウルジェムの宿ったほむらの左手を握ってルドガーの前に運ぶ。箱のグリーフシードを左手の痣にあてて穢れを吸わせようとする。

しかし、グリーフシードはいくら待っても穢れを吸い取ろうとはしなかった。

 

「…どうなってるんだ。穢れてないのか…?」

 

そんな筈はない。魔力容量ならまだしも、精神攻撃を受けたならばなぎさのように穢れが蓄積していてもおかしくはない。何もない方が不自然なのだ。

ほむらの左手の痣に触れてみる。すると、ルドガーの持つ懐中時計が金切り音を鳴らし、それに反応したかのように痣から宝石が露わになる。

 

「………なんだこれは!? ソウルジェムじゃない! なんなんだ…!?」

 

現出した宝石は、以前見た紫の輝きを宿すものとは大きく異なっていた。どこまでも深く暗い色に染まり、黒の縁取りによって飾られている。

 

「これが………こんなものが、ほむらの魂なのか…!?」

 

まさに魔性の輝きを放つソレは、人間の感情の際たるものを表す。希望よりも熱く、絶望よりも深いモノ。

 

 

 

───少女はかつてソレを、"愛"と呼んだ。

 


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