第1話「消滅より怖いことがあるんだ」
1.
ルドガー・ウィル・クルスニクは、どこまでも深い深淵を彷徨っていた。
何も感じず、何も見えず、何も聞こえない。ただ漠然と、暗い水底へと沈むような感覚を、永遠に感じ続ける。
「消滅より怖いことがあるんだ」
最期の時にそう言い残し、ルドガーは自ら呪いを募らせ…世界から消えた。
全ての分史世界の消滅をオリジンに願い、エルの身代わりとなって死を受け入れたルドガーだが、そこに後悔の念は一切なかった。
目を閉じれば───あくまで、そうしているつもりだが───、いつでもあの笑顔が思い出せる。あの笑顔を守るためならば、"例えどんな姿に成り果てたとしても"構わなかった。
………しかし妙だ、とルドガーは考える。自分は時歪の因子と化し、世界から消えたはずだ。
言うなれば、死…いや、果たして魂すら残るかどうか疑わしかったが、存外こうして思考することができている。相変わらず、何も感じないことには変わりはないのだが。
再び目を閉じ───あくまで、そうしているつもりだが───自身の最期を振り返る。
審判の門にてエルと"約束"を交わして………ああ、そうだ。嫌いなトマトも食べれるようになる、と言っていたんだ。間違いない。
だいたいどうして、未来の自分…ヴィクトルの娘なのにトマトが嫌いなのか。
考えられるとすれば、ヴィクトルが兄さんのことを思い出したくなくて、食卓からトマトを避けていた、とか?
それとも、母親の影響か? …いや、そもそもヴィクトルは誰と結婚して、エルをもうけたのか? それは自分の知る人物なのだろうか…?
やわらかな風が、頬を撫ぜる。
第一、生まれてこのかた彼女なんてできたことがなく、好きだった幼馴染のヴェルは兄さんに惚れていて、挙句その幼馴染の妹、ノヴァに借金の催促をされ続けていたこの自分が、結婚…?
よく考えると、ヴィクトルは未来の自分の姿だが、あまりに自分とかけ離れすぎているんじゃあないのか。これも時歪の因子のせいなのか。
などとルドガーの思考は二転三転していく。
心地良い春風が吹き、花の香りが舞い上がる。
「………えっ?」
おかしい。自分は確か、いわゆる無の深淵にいるはずだ。
はっ、と目を開けると、エレンピオスを彷彿とさせるビル街が遠くにそびえる。
足元を見れば、見たことのない花が一面に咲いており、振り返ればそこには腰の低いベンチがひとつだけ置かれている。
自分の身体をざっと見ると、時歪の因子と化す前と寸分変わらず、ヴィクトルやユリウスのような黒斑も見られない。当然、服も変わりない。
「嘘…だろ…? 俺、死んだんだよな…?」
そして、ここは、どこだ?
エレンピオスは微精霊が非常に少なく、大地が荒廃しかけており、こんな花畑なんかどこを探してもあるわけがない。
リーゼ・マクシアにしては、目下の建物に違和感がある。マナを豊富に含んだリーゼ・マクシアの大気とも異なる。
もっと広い範囲を見渡すと、花畑はこの周辺にしかなく、あとの雰囲気はどちらかというとエレンピオスに近い。たまたま、自分が訪れてない場所に自然が残っていたのか、とルドガーは考えた。
何より一番の問題は、ルドガーは時歪の因子と化して、消滅を選んだはず。
死ではない、消滅だ。なのになぜ自分は、ここにこうして存在するのか。
「………ジュードに連絡してみるか」
ルドガーはポケットからGHSを取り出し、電話帳を呼び出そうとする…が、電波が繋がっていない。
馬鹿な。GHSに圏外などあり得ない。エレンピオスやリーゼ・マクシアのどこに行こうと、洞窟に潜らない限りはノヴァからの借金の催促がかかってくるほどに、その精度は高い。
まして、こんな街が見渡せるような拓けた空間でそんなことなど、あるはずがなかった。
はぁ、とルドガーはため息をひとつつく。
この程度のアクシデントなら、ルドガーはあまり取り乱すことはしない。
幼女痴漢の濡れ衣や、2000万の借金に比べればまだ可愛いものだ。誰かに責められたり、肩身が狭い思いをしなくていいのだから。
とりあえず、街に出よう。手持ちにはいくらかガルドが残っている。列車を使ってトリグラフに戻り、そこからあとの事を考えよう、と決めた。
2.
街に着くや否や、ルドガーはひとつの問題点に突き当たった。
字が読めないのである。そこかしこに書かれている文字らしきものは、リーゼ・マクシアの文字とも、エレンピオスの文字とも、似ても似つかない。
ルドガーはまず駅を探していたのだが、さっきからこのざまで、駅がどっちにあるのかすらも見当がつかなかった。これではまるで迷子だ。
どこか、異国の地にでも放り込まれた気分だった。
とにかく、線路だ。線路を見つければ、それを辿って駅まで行ける。ルドガーはきょろきょろと周りを見渡して、それらしいものを探してさまよい始めた。
路地を渡り、根気よく探して、ある程度歩いたあたりで、どこからか猫の声が聞こえてきた。
懐かしい。かつて、同じマンションの、猫好きの住人に100匹の猫探しを頼まれたものだ。
エレンピオスだけに留まらず、リーゼ・マクシアまで。果ては瘴気にまみれたタタール冥穴にまで迷い込んでいたっけか。
…実はあの飼い主、猫達に嫌われてるのでは? などと考えながら、ルドガーの視線は道路の向こう側に見える黒猫のほうへ向いていた。
ルドガーは動物には好かれるほうだ。加えて、兄の飼い猫であるルルの世話をしていたので、猫の扱いは慣れたものだった。
笑顔を向けて軽く手を振ってやると、黒猫はにゃあ、と鳴いて反対側の歩道からルドガーの側へかけ出した。
その時だ。ルドガーは視線の右側から、何かが向かってきているのに気付いた。
エレンピオスでも滅多に見かけられないはずの、車だった。
エレンピオスの車は本来、荒廃した大地を走る為に作られたもので、けして街中を走る為には用いられない。
まずい。黒猫は車の進む先を横切ろうとしている。なぜ車なんかが白昼堂々と街中を走っているのかはさておき、このままでは猫が轢かれる。
「おぉぉぉぉぉッ!」
ルドガーはとっさに黒猫のほうへ走り出す。神速の居合斬り、舞斑雪を放つことのできる剛脚は一気に黒猫までの距離を詰める。それこそ、一瞬のことだ。
ルドガーはわずか数秒で猫を拾い、反対側の歩道へと駆け抜けていた。
「……ふぅ。大丈夫か、お前?」と、猫に声をかける。猫はにゃ、とはにかんだような顔で応えた。ほっ、と胸を撫で下ろし、ルドガーは猫を地面に放す。
その時だ。猫がルドガーの手を離れた瞬間、猫の動きがぴたり、と止まってしまった。
「………ん?」
立ち止まったのではない。文字通り。"静止"したのだ。
ルドガーは異変に気付く。後ろを振り返ると、勢いよく走ってきたはずの車が、エンジン音もたてずに静止している。
それだけではない。周囲から、雑音を含む一切の音がしなかった。まるで、時が止まってしまったかのように。
「こ…これは…!?」
そう狼狽えた一瞬のあと、静寂は不意に解けた。
車は何事もなかったように走り去り、猫はルドガーのほうに振り返って、鳴き声を上げる。
そよ風が木々を揺らす音も聞こえ、小鳥がさえずる。
だが、ルドガーの心臓は早鐘を打つように鼓動していた。
「…まさか、クロノスか…?」
時を止めることができる人物に、ルドガーは心当たりがあった。
かつてクルスニクの一族に骸殻の呪いを振りまいた、時空を司る大精霊、クロノス。
時間を巻き戻して怪我をなかったことにするような奴だ。時を止めるなど、容易いのかもしれない。
だが、骸殻の呪いは終わったはずだ。それに、もし仮にここが分史世界だとしてもだ、全時空にクロノスとオリジンだけは1人しか存在し得ない。
まさか、猫を助けるのを手伝ったわけではあるまい。奴はそんな殊勝なタマじゃない。捻くれ者だ。ルドガーの顔つきは、険しいものへと変わっていた。
「とにかく、ジュード達と合流しないと…」
ルドガーは猫に手を振ってから別れ、再び駅を探し始めた。
3.
結論から言うと、駅らしきものはあった。だが、路線表はルドガーの見慣れたものとはまるで違っており、さらに複雑なものだった。
やはり、文字は読み取れない。ルドガーは路線表からトリグラフを探すのを諦め、駅員らしき人物に尋ねることにした。
「あの、すいません」と声をかけた駅員は、恐らくルドガーとさして年の変わらないであろう、可愛らしい雰囲気の女性の駅員だった。
「はい、どうかされましたか?」と、女性駅員は朗らかな笑顔で対応をとる。
ルドガーの脳裏では、文字もわからず、この上もし言葉も通じなかったらどうしよう、という不安があったが、その心配はなかったようだ。
「ここからトリグラフには、どうやって行けば…?」
「えっ…鳥グラフ、ですか?」
「はい、どれに乗ったらいいかわからなくて…」
「お、お待ちください…鳥グラフって、"何ですか"…?」
───うん?
ルドガーは駅員のその言葉に、どきりとする。
トリグラフといえば、エレンピオスの首都。エレンピオス人なら知らないはずはない。
では、ここはリーゼ・マクシアなのか? ルドガーは質問を変える
「じゃ、じゃあ…マクスバードへはどうやって…?」
「マクス…バード? お兄さん、鳥が好きなんですか…?」駅員は首をかしげてルドガーに聞き返した。
───違う。ルドガーは自分と駅員の間に、致命的な食い違いがあることにようやく気付いた。トリグラフもマクスバードも知らない。そんな奴がいるものか。
じゃあ一体、ここはどこなんだ!? ルドガーはたまらず、頭を抱えながら駅員に言い放った。
「えっ………こ、ここは見滝原駅ですけど…」
と、見ればわかるじゃないか? と言いたそうな顔で駅員は答えた。
なんだそれは、とルドガーは思う。そんな駅、エレンピオスにもリーゼ・マクシアにもない。
となるとやはり、"その可能性"しか残ってないのだろうか…
薄々と感じてはいた。どっちとも似つかない街並みに、まるで読めない文字。すれ違う人達の服装はエレンピオス人の格好に近いが、やはり違う。
極め付けはこれだ。トリグラフのトの字も知らなそうな駅員の態度。
ほぼ間違いないだろう。文字通りルドガーは、"異国の地に放り込まれた"のだ。
ルドガーはしかし、あくまで平静を装い、駅員に「あ、どうも…」とだけ言って、その場から逃げるように移動した。
こんな嫌がらせじみた真似をするのは、奴しかいない。何しろ奴は、2000年に渡って人間に嫌がらせをし続けた、陰湿な男(?)なのだから。
駅構内を出て、あたりに人気がないことを確かめると、ルドガーはどうにもならない感情を空にぶつけるように叫んだ。
「───クロノォォォォォォォォォォス!!」
…この時、ルドガーは知る由もなかった。
怒りに叫ぶその姿を陰から見つめる、1人の少女の存在に。
「………………」
4.
悩んでいても仕方ない。こういう時にまず必要なのは、食事と寝床の確保だ。日が暮れ始めている。早いところ目星をつけたおきたい。
かつて世界の命運をかけて、ミラ=マクスウェルと共に各地を冒険した経験のあるジュードなら野宿のいろはを知っていただろうが、生憎ルドガーの冒険は、野宿の必要に迫られるほど切羽詰まったものではなかった。
ひたすら借金を返す為に魔物狩りに勤しんだり、運び屋の真似事をしたり、分史世界を破壊しに行ったりしていたが、帰る家はあったし、宿に泊まる程度の持ち金は常に確保していた。
だが、今回は話が別だ。ルドガーは身ひとつであり、もし本当に異国だとしたら、ガルドという共通通貨が使えるかも怪しくなってきた。
ルドガーは駅のそばのベンチに腰かけ、財布の中を見る。ユリウスがルドガーの高校進学祝いにプレゼントしてくれた、黒革の財布だ。
一時期は中身より財布の方が高い、という悲惨な有様だったが、今は違う。一応、それなりに金はあるのだ。
…使えなければ、何の価値もない紙クズなのだが。ルドガーは自虐ぎみにそう思った。
にゃあ、と不意に足元から聞こえてきた鳴き声に、ルドガーはふと顔を上げる。先ほど助けた黒猫が、いつの間にかこんなところにまで来ていたのだ。
猫はルドガーの足にすり寄り、なつく様子を見せる。ああ、やはり猫は癒される。ルドガーは柔らかい笑顔を浮かべて、猫の頭を撫でてやった。
すると、んにゃ、と鳴くと猫は急にルドガーから離れ、どこかへ行こうとしてしまう。
ルドガーはその様子に少し戸惑うが、猫は立ち止まり、ルドガーの方をちら、と見てまたひと声鳴いてみせる。
ついて来い、というのか? ルドガーがベンチから立ち上がり歩み寄ると、猫は再び歩き始めた。
どうせやる事も何もないんだ。ルドガーは諦観に似た心境で、猫のあとについて行く事にした。
5.
それからどのくらい歩いただろうか。夕日も沈みかけ、電灯に明かりが灯り始める。こうしていると、夜のトリグラフを散歩しているみたいな気分になる。
猫は駅前から商店街らしきエリアを抜け、だんだんと人気のない方へ進んでいるようだった。
一体どこまで行くつもりなのだろうか。もしかしたら…この猫は特に理由もなく、ただ散歩しているだけではないのか。
考えてみればごく当たり前の事なのだが、ついつい何かしら期待を抱きたくなるのは貧乏ゆえにか。
にゃーん、と猫は甘い声を出して急に立ち止まる。
夕日の差し掛かる、河原沿いだった。その向かいからは、青いショートヘアをした少女が歩いてきている。
珍しい髪色だ、とルドガーは、自身が白髪に黒のメッシュというわりと変わった髪型をしていることも忘れ、そう感じた。
…この猫はもしかして、飼い主を探して歩いていたのだろうか。だとしたら自分は何のためについて来たのだろうか…思わずルドガーは、ため息をつきたくなったが、なんとか堪えた。
少女もまた、猫を見てかすかに微笑んでいた。見た感じ、エリーゼよりも少し年上のように思える。
「あの、もしかしてこの猫の?」
飼い主ですか、とルドガーは尋ねる。
「へ? あ、あたし? いや、違いますけど…お兄さんのじゃないんですか?」
…どうやら青髪の少女は、たまたま通りがかっただけらしい。
「ああ、ただ結構人懐っこいみたいで…飼い主がいると思うんだけど」
「へえ、そうなんですか。可愛い猫ですねぇ〜この仔」少女は猫に手を伸ばし、額を撫でてやる。
猫はくすぐったそうに、それでいて嬉しそうにはにかむ。なんとなく、レイアに初めて会った時の事を思い出した。
その微笑ましい様子に、ルドガーは表情を柔らかくした。
───その時だ。不意に、背筋がぞくり、と震える。
この感覚は、何度も味わっている。本能が告げるままに、ルドガーは辺りを警戒する。
異変はすぐに訪れた。空が、周囲の景色が、塗り替えられていく。
「えっ!? な、なに!? なんなのこれ!?」
「…………………」
少女はその異変に慄きを隠せないでいる。一方ルドガーは、その変異を静かに観察する。
そうしている内に、ルドガーと少女はいつの間にか、博物館のような空間の中にたたずんでいた。
「あたしたち、さっきまで外にいたよね…!?」
少女は訳がわからないといった風に周りをきょろきょろと見渡す。黒猫も、毛を逆立てて警戒している。しかしルドガーには、この感覚に心当たりがあった。
それは、骸殻を持つものの、最後に行き着く姿。世界の写し身と化し、呪いを振りまく存在。
「
それも、かなり近い。
突如として周囲に、絵の具を乱雑に塗りたくったような色をした、大きな人形のような化け物が何体も現れる。
リーゼ・マクシアでたびたび見られた、ジェントルマンという種族の魔物に似ている気がする。ここは、魔物の棲家なのか?
あいつらは、集団でリンチをかけるように攻撃してくる。ならば立ち止まるのは危険だ。追い詰められれば、逃げられない。
「逃げるぞ! ええと…」
「み、美樹さやかです!」
「ルドガーだ! さやか、離れるなよ!」
「へっ、あ…きゃっ!」
ルドガーはさやかの手を取り、魔物のいない方へと駆け出した。にゃ! と鳴いて黒猫もあとに続く。その刹那、魔物たちは口から数発の光弾をこちらへ放ってきた。着弾点から、炎が舞う。やはり、自分たちを狙っている。
走りながら、なにか武器になるものはないか、目を配らせる。以前所持していた双剣、拳銃、槌は、今は手元にはない。
最悪、骸殻を纏って応戦するしかないが、ビズリーとの戦いの中で、ルドガーの骸殻は最終形態へと進化したものの、時歪の因子化の危険も極度に高まっていた。
せめて、さやかだけでも救えれば…とルドガーは考えながら、奥へと進んでいく。逃げ道はない。ここが分史世界だとすれば、時歪の因子を叩かなければ、帰れない。
突き当たりを左に曲がると、魔物が2、3体おり、その奥に扉が見えた。時歪の因子の反応は、その先からする。あの程度の数なら、武器なしでもなんとかなるだろう。
「さやか、ここで待っていてくれ」
「えっ!? ル、ルドガーさんは!?」
「あいつらを始末してくる。じっとしててくれ」
アローサルオーブを起動させ、戦闘態勢に入る。目にも止まらぬ速さで懐に入り込み、もう何度となく目にして覚えていた、ジュードの姿を真似た体術を仕掛ける。
高速で足を振り抜き、魔物を引き寄せるように攻撃する。空中に飛び上がり、拳に凍気を纏わせて打ち下ろす。そのまま、地面を強く殴りつけ、衝撃波を起こした。
「衝破、魔神拳ッ!」
ジュードのものに比べるとはるかに弱いが、魔物を倒す威力くらいはあったようだ。それとも、この魔物たちがさほど強くなかったのか。
ともかく魔物たちは衝撃波を受けて倒れると、溶けるように地面に消えた。
「………はぁ、はぁ…なんとか、なったな…さやか! もう大丈夫だぞ」
「あ…は、はいっ!」
そんなルドガーの姿に、さやかは見惚れていた。わずか数秒で魔物を倒してしまったルドガーが、非常に頼もしく見えたのだ。
にゃー! と黒猫もさやかと同じ事を思ったようだ。
さやかがそばへ駆け寄ると、ルドガーは扉を開き、次のエリアへと進んで行った。
6.
扉を抜けると、またも景色ががらりと変わる。なんとも気味が悪い色が空一面に広がる、岩場のような場所。ルドガーたちの目前には、これ見よがしに巨大な門のようなオブジェがそびえ立つ。当たり前だが、時歪の因子反応はそのオブジェから出ている。
「仕方ない、か」
時歪の因子は、骸殻でなければ破壊できない。使えばどうなるかわからないが、さやかをなんとか救い出さなければならない。
意を決して、ルドガーはポケットから懐中時計を取り出した。
…ただし、それはルドガー自身のものではなく、ユリウスのものだった。
「……しまった、時計はエルに…」
失念していた。あの時計は、ヴィクトルのものだ。ルドガーの時計はビズリーに壊され、代わりにヴィクトルの時計を使って変身したのだ。
そして別れの際、ヴィクトルの時計はエルに返した。
…果たして、この時計で変身できるだろうか?
答えは否、だった。ユリウスの時計はすでに時を刻む事をやめている。いくら念じても、変身はできなかった。
そうこうしているうちに、門がいきなり動き始める。もそもそと、それでいてなかなかに速い動きでこちらへ向かってくる。
あれは、門の姿をした魔物…いや、ギガントモンスターだろうか?
「逃げろさやか!!」
ルドガーは叫び、さやかを守るように門の進む道に立つ。さやかは恐怖に震えながら後ずさった。
万事休す、か? 骸殻はなくとも、せめて剣さえあれば戦えるのだが、今のルドガーは丸腰だ。
門のモンスターは、人形の魔物が放つものよりも大きな光弾をつくり、今にも放とうとしている。槌の
「インヴァイタブル!」
アローサルオーブの出力だけで、バリアを展開した。黒匣のサポート付きの出力ならばかなりの強度を誇るのだが、やはり防御力がそうとう落ちている。
「ぐあぁぁっ!」
放たれた光弾を受け止めることはできたものの、バリアは一撃で剥がれ、ルドガーは吹き飛ばされた。
「ルドガーさん!!」さやかが泣きながらルドガーのもとへ駆け寄る。門は2人との距離を徐々に縮めていき、ぐらり、と傾いた。そのまま押し潰すつもりだろう。
さやかにはルドガーを置いて逃げることなどできなかった。倒れかかる門の姿が、スローモーションで見える。
「あ…あっ、い…いやぁぁぁぁぁぁ!」
さやかの、悲痛な叫び声が響いた。
7.
「うおぉぉぉぉぉぉっ!!」
ルドガーが、腹の底から唸り声を上げる。さやかを死なせてなるものか、その一念で立ち上がる。
ルドガーの周囲に無数の歯車が現れ、その手足に次々と取り付き、それらは鎧のようなカタチになる。黒い、ルドガーの背丈よりも長い槍が手元に備わる。これこそがクルスニクの一族に伝わりし呪い、骸殻の力だ。
「ジ・エンドォォ!」
ルドガーが叫ぶと前方の、門に対して黒い衝撃波が走る。今にも倒れてきそうだった門は、その衝撃波で逆に後ろへとよろけた。
「ルドガーさん!? そ、その姿は…!?」さやかが、震え声で訊いてくる。
(…ああ、確かエルが初めて骸殻を見た時も、怯えていたっけか。)
が、その問いには答えない。今は目の前の敵を倒すことが大事だ。
骸殻も何故かビズリー戦で発現したフル骸殻ではなく、手足を覆う程度のハーフ骸殻にまで弱体化しているが、戦うには十分だろう。
むしろこれで、時歪の因子化の危険性が低くなった、と考えればいい。
『グ、オオオオオオオオオ!!』
門の化け物が、咆哮を放つ。
時歪の因子に取り憑かれたものが人間や魔物だった場合、骸殻能力者が近づくと暴走する事が多々ある。今回も、その手合いだろう。
門の化け物はたちまち時歪の因子に蝕まれて黒色に染まり、先程までよりもさらに凶暴になった。
咆哮と同時に人形の巨人と、加えて怨霊のような魔物が無数に現れる。どうやらこの魔物どもは、門の化け物が呼び出しているようだ。
しかし、ルドガーは動じない。
「ヘクセンチア!!」
ルドガーは叫びながら槍で地面を穿つ。その範囲を中心として、真後ろにいるさやかに当たらないように、空から無数の黒い光弾を落とす。
黒い光弾はランダムに降り注ぎながらも、魔物の数を確実に減らした。
間髪入れずにルドガーは槍を門の化け物に投げ込む。その槍が門に突き刺さると、同じ槍をいくつも作り出し、次々と投擲し、突き刺す。
最後に大きめな槍をひとつ作り出し、目にも止まらぬ速さで飛び込み、直接穿つ。すべての槍のエネルギーを収束させ、一気に貫く。
「マター……デストラクトォォォ!」
数々の時歪の因子を破壊してきた、ルドガーの必殺の奥義だ。
『───ァァァァァァァ!!』
その一撃を受けた門の化け物は断末魔を上げ、ドォン! と大きな音を立てて倒れた。
ルドガーの槍の先端には、禍々しい色をした宝石のようなものが突き刺さっている。
(……なんだ、これは?)
しかしそれは、ルドガーの知らないものだった。時歪の因子の核とも違うし、カナンの道標でもない。門の化け物のコアである事には違いないが、どうにも砕けない。…この禍々しさは一体?
ともあれ、時歪の因子は討伐した。景色は次第に、もとの空間へと移り変わっていく。夕日は沈み、すっかり夜の帳が落ちていた。
「帰ってきた…? あたしたち、助かった…!?」
さやかが安堵した声を漏らす。ルドガーは骸殻を解いて、「ああ…無事か、さやか?」と優しく声をかけた。
「はいっ、なんとか……ルドガーさんのおかげです」
さやかは、ルドガーが異形の姿(とは言っても、手足だけだが)に変身した事などほとんど気にせず、純粋に感謝をした。
ルドガーはそんなさやかを不安にさせないよう、頭の中に湧いた疑念を隠したまま笑いかけた。
8.
「それじゃあ、あたしはここで。ありがとうございました!」
さやかを帰り道の途中まで送り、ルドガーは再び1人になった。
道中、ルドガーの国籍はどこなのか、日本へはどのくらいいるのか、化け物と戦った時の力はなんなのかなどの質問責めに遭ったが、まともに答えられるものなど全くもってありはしない。ほとんど言葉尻を濁すように、誤魔化した。
「そういえば、猫ちゃんはどこに行ったのかな…?」
そんなさやかの問いかけにすらも答えられなかった。ルドガーも気にしていたが、黒猫の姿がいつの間にか消えていたのだ。まさか、戦闘で…? と思ってしまうが、すぐにその思考を振り払う。
単にはぐれただけかも知れない。分史世界は壊した。無事ならば、ちゃんと正史世界に帰ってきてるはずだ。ルドガーはそう思う事にした。
さやかを見送り終わると、ルドガーはすっかり日の落ちた空を仰ぎ、ため息をつく。…幸い、今の時期はまだ暖かいほうだ。今日のところは野宿をするしかないだろう。食事も、一晩くらい抜いても死ぬわけではない。
貧乏ここに極まれり、だ。ルドガーは重い足取りで、寝泊まりするためにどこか適当な公園を探そうと、踵を返した。
ふと、思い出したようにルドガーはポケットから懐中時計を取り出す。
銀の意匠のものはユリウスの形見。そしてもう一つ、さっきまでは無かったはずの、金の意匠の時計を。金色の時計は、ルドガー本人のものだ。
ビズリーの談によれば、クルスニクの一族は、この世に生を受けると同時にこの懐中時計を持って産まれて来るという。
この時計は呪いの象徴なのだ。と同時に、戦うための力でもある。
なぜ壊されたはずの時計が再び手元に戻ったのか、ルドガー自身にもわからなかったが、さやかを救う事ができたのだ。偶然にしろ、感謝をしなければならない。
金の懐中時計は規則正しく時を刻む。この日本という地域の時間が、エレンピオスと同じ時間ならば、午後の7時を指している。
かち、かち、という秒針の音にルドガーは耳を傾ける。かつてユリウスにねだった時計が、こんな形で2つとも手元にある。なんとも
─────────
皮肉じみたものだ。
(…………えっ?)
ほんの一瞬だが、ルドガーは違和感を感じた。はっ、と気付いて時計を見る。秒針が、止まっていた。
周りを見渡すが、ここはもう時間的にも人通りがない。判断しづらいが、この感覚は一度味わっている。
そう…あの時だ。黒猫を助けた時と同じように、"時が止まっている"。
こつ、こつ、と小気味の良い靴音が背後から聞こえる。振り返るとそこには、いつの間にか消えていた黒猫を抱えた、長い黒髪の少女がいた。
「………やっぱり、動いている」
少女はぽつり、と呟いた。一方ルドガーは、少女から唯ならぬ力の強さを感じとった。素人ではない事だけはわかる。
「美樹さやかがあの魔女の結界に取り込まれるのは計算外だったけれど…助けてくれて、感謝しているわ。だけど、貴方は一体何者なの? どうして動けるの?」
「どうして…って、まさか、君が時間を…?」
「そうよ。私は時間停止の魔法を使っている。こうしている、今もね」
まさか、とルドガーは思う。さやかとさして年も変わらないような少女が、時間を止めているだなんて。この少女は、あのクロノスと同じ力を持っているのか?
少女は腕の中の猫を撫でながら、続ける。
「私は暁美ほむら………魔法少女よ。質問の答え次第では、貴方を始末するわ」
冷めた表情のなか、瞳に強い意思を宿して、彼女はルドガーにそう告げた。