オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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 そこはかとなく残酷な描写があったりなかったりしますので、ご注意ください。

2016/11/24 「子山羊」→「仔山羊」、「~来た」→「きた」、「最認識」→「再認識」、「光輝く」→「光り輝く」、「いつもどうり」→「いつもどおり」、「1月」→「一月」、「立つつづけ」→「立てつづけ」、「負傷を直す」→「負傷を治す」、「持って」→「以って」、「使えて」→「仕えて」、「直線状」→「直線上」、「身目麗しく」→「見目麗しく」
2017/1/5 会話文の最後に「。」がついていたので削除しました


第64話 皆殺しのトランペット

 モモンことアインズは自分たちに割り当てられた個室で椅子に腰かけていた。

 傍らにはルプスレギナが控えていたが、彼女から投げかけられる困ったような視線には頓着(とんちゃく)すらせず、ただ独りうなだれたまま、先ほどイビルアイから語られた話を、幾度も頭の中で反芻(はんすう)していた。

 

 ルプスレギナは、そんな主の姿を前に、声をかけることも出来ず、まごまごとしていた。

 

 

 そんな折、〈伝言(メッセージ)〉が届く。

 アインズはその魔法の回線を繋げる。

 

《やあ、どうも、アインズさん》

 

 友人の声がアインズの脳裏に響く。

 

《今、大丈夫ですか?》

《……ええ、大丈夫ですよ》

《そうですか。えーとですね。こちらの方はもう準備万端ですよ。それに向こうの方も、ちょうどいいタイミングです。ちょっとの間、そちら抜けられますかね?》

《今、ルプスレギナと部屋にいたところですから……〈転移門(ゲート)〉を使っても問題はありません》

《そりゃ、良かった。じゃあ、打ち合わせ通りにお願いしますね》

 

 だが、アインズはその言葉に、即座に返事が出来なかった。

 

《? アインズさん?》

 

 急に黙り込んだアインズに、どうしたんだろうと声をかけるベル。

 

《どうしました?》

《……あの……ベルさん。ちょっと話したいことがあるんですが……》

《話ですか?》

 

 ベルは思案気に、「んー……」と声を漏らした。

 

《ええっと。それって、今回の帝国殲滅作戦、最終段階に関係あります?》

《いえ、直接は関係ないんですけど……》

《じゃあ、すみませんが後でいいですかね? とにかく、今が絶好のタイミングなんで、この機を逃す手はありませんよ》

 

 魔法越しにも、少女のはずんだ様子が(うかが)い知れた。

 

《ベルさん。……楽しそうですね》

《ええ。そりゃ、もちろん!》

 

 ひときわ大きな思念が届く。

 

《いやぁ、これは見物ですよ! なんせ、超位魔法ですよ! リアルになった超位魔法なんて、一体どんな感じなんだか。うはは、興奮しますねー!》

 

 まるで素敵なパーティーがこれから始まるかのように、その少女が一片の他意もなく本当に楽しそうに笑っているのが感じられた。

 

《あの……ベルさん》

《なんです?》

《今回の作戦って……人が死にますよね》

《ええ、そりゃもう。たっくさん、人が死にまくるでしょうね! いやあ、今から楽しみですね》

 

 何の思うところも、良心の呵責などかけらほども感じられないその言葉に、アインズは苦悩する。

 

《本当に……今回の事ですが、やっていいんですかね?》

 

 なんだか先ほどから煮え切らない様子のアインズに、ようやくベルは妙なものを感じ、不審げに尋ね返した。

 

《ん? どうしたんですか? 急にそんな事言いだして》

《いえ、本当に帝国を滅ぼしてしまっていいものか……》

《いやいや。何、言ってるんですか》

 

 ベルは嘆息した。

 

《いまさら、何を言ってるんですか。もう皆、準備を終えているんですよ。忘れたんですか? あいつらがした事を。ナーベラルがあいつらに寄ってたかって袋叩きにされた事を》

《もちろん憶えていますよ。忘れられるものですか》

 

 あの時、ボロボロとなってナザリックに戻ってきたナーベラルを見たときの怒りは、今もアインズの心のうちにある。あの時の姿を思い返すだけで、胸の奥底にある憤怒の熾火(おきび)が再び燃え上がってくるのが感じられた。

 ナーベラルを始めとしたNPC達はかつてのギルメンたちが残した忘れ形見。彼らの子供のような存在だ。

 

《ナーベラルにあのような事をした相手を、けっして許せる訳がありません》

 

 迷いを振り払い、固い決意を胸に秘めた言葉に、ベルは相好(そうごう)を崩したようだった。

 

《ええ、そうですね。許せませんよね。これはそのままにしておくって訳にもいきませんよね。じゃあ、やりましょう。復讐してやりましょう。復讐するは我にありです。ちょうど今、最高の機会ですよ。もう、これ以上ないという程に! それじゃあ、お願いしますねー》

 

 そう言うと、〈伝言(メッセージ)〉は切れてしまった。

 

 

 残されたアインズは、しばらくそのまま(たたず)んでいたものの、やがて立ち上がると、その身を包む漆黒の鎧を掻き消した。

 その場に現れたのは豪奢なガウンに身を包んだ、死の支配者(オーバーロード)

 

 彼はゆるりと、同室にいたルプスレギナの方へと振り向いた。

 

「しばし、出てくる」

 

 そう言い残すと彼は、出現させた〈転移門(ゲート)〉の暗黒へと身を躍らせた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 今日の帝都は、にぎやかにして、人々の活気にあふれていた。

 ここ最近はなかったことだ。

 

 市場には威勢のいい物売りの声が響き、それを買い求める者達がひしめいているのが、ここ帝都アーウィンタールの日常であった。

 しかし、最近は街中を歩く人の数も半減し、少なくない者が家の中で息をひそめるように過ごしていた。それでも、生きていくうえで多種多様な用事に迫られる。そうした時には、仕方なしに彼らは出歩かざるを得ない。そうして、通りを急ぎ足で行き交う人々の顔。その顔には暗い影が差していた。彼らの心のうちには、いまだ自分たちを襲う災厄、ビーストマンに対する恐怖が重くのしかかっていたからだ。

 

 ビーストマンの襲撃。

 それはこの帝国を突如として襲った災厄であった。

 強靭な肉体をもち、人間を捕食するという残忍な性質を持つ亜人。

 その噂は伝え聞いてはいたものの、それはあくまで遠い異国の話でしかなかった。この帝国が、自分たちが襲われるとは夢にも思っていなかった。

 しかし、その脅威が突然、現実として彼らの上へと降りかかってきたのだ。

 街と街を行き交う行商人たちから、帝国のあちこちで亜人たちの襲撃があり、多くの村々が襲われ滅んだという噂が流れてきた。その話を耳にした帝都の民衆は、その話には心胆寒からしめられながらも、あくまで街の外に恐るべき魔物が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するようになったという認識でしかなかった。

 帝都の外にいる同胞たちを心配しながらも、自分がその牙にかかることなど想像していなかった。

 

 だが、10日ほども前の事、突如として、この帝都内にまでビーストマンの群れが現れたのだ。

 彼らがこれまで目の当たりにした事もない、野蛮かつ凶暴なるその姿。そしてもたらされた無慈悲なる殺戮に、彼らは恐怖に(おのの)いた。

 幸いな事に、数度の襲撃は街にいた冒険者や駆けつけてきた騎士団によって食い止められたものの、いつ再び自分に、自分の家族たちにその凶刃が襲い掛かるかと思うと、気が気ではなかった。

 誰もが恐怖に震え、あの邪悪な蛮族たちから自分たちの身を守ってくれることを、神に祈っていた。

 自分たちはあくまでひ弱な人間でしかなく、凶暴な怪物(モンスター)に怯える脆弱な存在でしかないという事を再認識し、戦々兢々(せんせんきょうきょう)として日々を過ごしていた

 

 

 しかし、それも今日までだ。

 

 ついに自分たちの帝国が動く。

 帝都の冒険者たち、そして帝国軍が大々的なビーストマン討伐におもむくのだ。

 今日、この後、出立(しゅったつ)する帝国騎士団が大通りを行進する事になっている。その様を一目見ようと、これまでビーストマン襲撃の恐怖におびえ、外出を控えていた者達が、ぞろぞろと街中にあふれだし、帝都の街路は早くもものすごい人波に埋め尽くされていた。

 

 

 そうして集まった彼、彼女らの表情には恐怖の色など欠片も感じ取れなかった。

 

 今はまだ。

 

 

 

 そんな帝都上空。

 あたたかな日差しが降り注ぎ、白雲がたなびき、心地よい風が吹き抜ける蒼空に、ポツンとシミのような黒い点が現れた。

 

 その事に地上を行き交う者達の大半は、気がつくことなど無かった。

 わずかに目に留めたものはいたが、鳥か何かと思い、すぐに興味を失った。

 その為、その黒い点の周りに、ほんの一瞬だけ、奇妙な文字が浮かび上がった蒼白い魔法陣が出現し、そしてすぐに消えたことに気がつく者はほとんどいなかった。

 

 たとえ、いたとしても、その事を(のち)に誰かに伝えることなど出来はしなかっただろう。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「――各員、この作戦こそ、帝国の存亡をかけたものであるという事を意識してもらいたい!」

 

 若くはないが、張りのある声が帝都の軍施設内に響く。

 帝国において、その名を広く知られる将軍、ナテル・イエニム・デイル・カーベインの目の前に広がるのは、天高くにある陽光を受けて輝く金属の海。

 今、彼は自らが率いる帝国第二軍、並びに第四軍を前に訓示を行っていた。

 

 今回のビーストマン討伐には帝国に8つある騎士団の内、2つまでも動員して行われる大規模な作戦であった。

 そこに不動の姿勢で整列する者達。まばゆいばかりの輝きを放つ甲冑に身を包んだ騎士達は、日々、厳しい訓練に耐えてきた者達である。皇帝直属の近衛騎士団には若干劣るが、誰もが武勇に優れた精鋭ぞろい。この場において姿勢を崩す者など一人たりともおらず、皆、帝国の民草を守るために悪辣(あくらつ)極まりない獣人どもを打ち倒そうと意欲に燃えていた。

 彼らが(またが)る軍馬たちは、その一頭一頭に至るまで、美々しい甲冑と金の留め金で身を飾られている。よく訓練されているらしく、これほどまでの数がいながら(いなな)き一つ立てようとはしなかった。

 居並ぶ彼らの後ろには、目も冴えるような赤地に光り輝く金糸で紋章が縫い上げられた旗が堂々とした威容で翻っている。それは帝国の正規軍である証。また、これから帝都の民衆の前を行軍するため、彼らの持つ槍には青赤黄といった色とりどりの槍旗が(なび)いていた。

 

 まさにその姿は、他に類する者などいないと断言できるほど、絢爛(けんらん)にして無双たる軍団。

 バハルス帝国が誇る勇壮にして精強なる騎士団。

 その姿を前にした将軍たちは、彼らをして制圧できぬ敵などいようはずもないと、今回の作戦に自信を深めていた。

 

 

「諸君! 我らが振るう剣は、ただ我らのものにあらず、それは……」

 

 カーベインが居並ぶ者達を見回しながら、そこまで言いかけた、その時――。

 

 

 ――段上に立つ彼の視界に奇妙なものが目に入った。

 

 

 あれは一体なんだと目を凝らす、その先。

 黒い影のような霧のようなものが地表を滑るように走ってきた。

 

 そしてその影は、彼が警戒の声をあげるより早く、整列する帝国軍を背後から飲み込んだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「な、なんだ、あれは! なんだ、あれはぁっ!?」

 

 バハルス帝国皇帝ジルクニフは、限界まで目を見開き、驚愕の叫び声をあげた。

 その顔は普段の取り繕った様子など欠片もない、自身の常識に当て嵌まらぬものを前にした人間が浮かべる、ひどく凡庸としたものであった。

 

 皇帝として、ジルクニフは目の前で起こっている事になんらかの対処を指示すべきであったのだろう。

 だが、あまりの事態を目の当たりにし、彼はただ痴人のように呆けて見ている事しか出来なかった。

 

 だが、彼一人を責めるわけにもいくまい。

 責められる者などいようはずもない。

 その場にいた誰もが、彼と同じようにあんぐりと口を開けて、ただ茫然とするより他になかったのだから。

 

 

 

 今、彼らの眼前で繰り広げられている光景。

 帝城の一室。眼下に帝都の様子が一望できるその部屋のバルコニーに立ち尽くす彼らの前では、突如現れた、見た事も聞いた事もない奇怪にして強大な巨獣、それも1体ではなく3体もの怪物(モンスター)が、彼の治める帝都をまるで積み木細工を蹴散らすかのように破壊していた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 帝都に悲鳴が響く。

 それに続くのは建物が粉砕され、石畳の街路が重いもので踏みつぶされる音。

 

 

 ビーストマン退治の為に出征する騎士達。それを見送ろうと集まった民衆達のただ中へ現れたのは、ねじくれた触手を束ねたような姿にして、その体中に無分別に浮かび上がった口から厭らしいよだれを垂らし、羊のような鳴き声を発する、これまで悪夢の中でしか見たことのないような(おぞ)ましい姿の巨大な魔獣であった。

 

 そいつは、その身の触手をやたらめっぽうに振り回し、その進路にある全てをその蹄の生えた短い脚で踏みつぶしながら、暴れ出した。

 

 

 集まった民衆はパニックに陥った。

 誰もが我先にと逃げ出し、街路という街路は恐慌のままに走る群衆で押し合いへし合いしていた。

 そして、そんな身動きも満足に取れない所へ、超位魔法〈黒き豊穣への貢(イア・シュブニグラス)〉によって召喚された黒い仔山羊は突進した。

 

 

 地にひしめく虫けらを踏みつぶすかのごとき様相。

 

 男も、女も、老人も、子供も、善人も、悪人も。

 

 その魔獣の圧倒的なまでの力の前に、全てが等しく赤い血の滴る肉塊へと変えられていった。

 黒い仔山羊が通りすぎた跡は、まるでワイン造りの際、乙女が行うというブドウ踏みの樽の中のような有様であった。

 

 

 

 

 そんな中、必死で逃げる姉妹の姿があった。

 

「きゃあっ!」

 

 年若い女性が脇を駆け抜けた男に押され、道に転がった。立ち上がろうとする彼女の背から、さらに多くの人々が押し寄せる。

 

「ネメル! しっかり!」

 

 パナシスは転んだ妹に手を差し伸べ、力を込めて立ち上がらせる。

 そして、彼女をその腕に抱え、必死で走り出した。

 

 はあはあと息が切れる。

 心臓が早鐘(はやがね)にように打ち鳴らされている。もう今にも破裂しそうなほどだ。

 駆ける足はすでに重く、鉛のよう。

 額に浮いた汗が顔を伝って目元に流れ、目に痛みを覚えるが、それにも構わず妹を抱いて走り続けた。

  

 腕の中で鼻をすする音が聞こえる。

 妹は、ネメルは泣きながらも必死で駆けている。

 そしてパナシス自身も、その視界を歪ませているのは汗ではなく、彼女自身の涙だというのは分かっていた。

 

 

――なんで? なんでこんなことになるのよ!

 

 何故、こんなことになっているのか、彼女はさっぱり分からなかった。

 勤め先が無くなり暇していた彼女はせっかくだからと、騎士団の勇壮な(さま)を見物しに、妹と共に軽い気持ちで出かけただけだったのだ。

 

 それが今や、見たこともない巨大で恐ろしい魔物に追い廻されている。

 

 まるで、悪い夢の中にいるようだった。

 通りは逃げ惑う人々で一杯であり、どこに行くかは分からないが、その流れに乗って走るより他になかった。

 

 

 そんな彼女たちの後ろから、ズシンズシンという重い音が近づいてくる。

 

 パナシスは懸命に走った。

 今までの人生で、これほどまで必死になったことは無いという程、足を動かした。

 だが、その音は離れることなく、どんどん近づいてくる。

 そして、同時にグチャグチャという、何かを潰すような音も聞こえてくる。

 

 

 不意に、ブンという風切り音と共に、彼女達の前にいた人々がいなくなった。

 追いついてきた仔山羊がその触手で先を行く人間たちを薙ぎ払ったのだ。

 弾き飛ばされた人間は、ごみくずのように吹き飛んで脇の建物へとぶつかり、その壁に大輪の花を咲かせた。

 

 

 足は恐怖で凍り付き、パナシスはその場から一歩も歩けなくなってしまった。背筋に走る怖気のままに身体を震わせながら、ゆっくりと後ろを振り向く。

 彼女の目と鼻の先で、醜悪な魔物がその象のような足を振り上げていた。

 

 パナシスは妹の身体を強く抱きしめた。

 歯の根が噛みあわぬほど、がちがちと震える。

 

 

 ――大丈夫。

 この前……。

 ビーストマンに襲われそうになったあの時、あの人は助けに来てくれた。

 きっと……。

 きっと今回も、冒険者『漆黒』のモモンさんが助けてくれる。

 

 

 彼女はそう信じ、ぎゅっとその目をつむった。

 

 

 

 当然、助けてくれる者などいようはずもなく、パナシスとネメルは抱き合ったまま踏みつぶされ、死んだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「くそっ! ふざけおって!」

 

 どんとテーブルに拳を叩きつけ、悪態をついた。

 立派な髭に隠されたその顔は、ようやく娘に殴られた時の青あざが見えなくなったところだ。

 

「アルシェめ! このフルト家の事を何だと思っている! あの親不孝者が!」

 

 ギリリと歯ぎしりをする。

 

「落ち着いて、あなた」

 

 傍らに座る穏やかな顔つきの中年女性、彼の妻が優しく声をかけ宥める。

 

「ちょっと、難しい時期なのよ。いつかあの子も分かってくれるわ」

 

 彼女は優しく温厚であり、慈愛の精神の持ち主であったが、それはあくまで貴族としての思考の範疇を超えることは無かった。彼女は娘や家族の事を大切に思ってはいるが、未だに自分たちの置かれている状況や娘たちの苦悩も本当のところで理解などしていなかった。

 

 いつか、立派な貴族の下に嫁ぎ、子を産む。

 それが女の幸せとしか考えていなかった。

 

 

 そんな妻の言葉であるが、それは彼の怒りを収めるには至らない。

 憤懣やるかたなしといった(てい)で、幾度も目の前のテーブルにあたる。

 特に鍛えたこともないその手は、固いテーブル相手にすぐに痛みを訴え、そのような行為を止めることを余儀なくされた。

 

 彼は腹立たしさを別の事で紛らわせようと考えた。

 

「おい! ワインを持ってこい!」

 

 そう声をあげる。

 しかし、その言葉はただ室内にむなしく響いた。

 

 

 その事に、彼はさらにむかっ腹を立て、渋面を浮かべた。

 

 

 もう一月近く前の事だが、執事のジェイムスが逃げ出したのだ。

 それも何も言わずに。

 長年、フルト家に仕え、大恩がある身ながら、言伝一つもせずにいなくなったのである。それも、ウレイリカと共に。

 

 ――ウレイリカを攫っていったな。あの恩知らずめが!

 

 彼は再度怒りに身を震わせた。

 いつもどおりアルシェが金を稼いで戻ってこなかったために、借金のカタとしてクーデリカを引き渡さねばならなかった。アルシェが帰ってこなかったら、残るウレイリカに適当な男を見つけて結婚させ、このフルト家を継がせなければならなかったというのに、そのウレイリカを連れ去られてしまったのだ。

 

 このままではフルト家が断絶してしまいかねない。 

 彼はその想像に、目の前が真っ暗になった。

 

 

 そうして、絶望の日々を欝々と過ごしていたところ、のうのうとアルシェが帰ってきたのだ。

 

 彼は怒りに打ち震えた。そして、帰りが遅くなったことを叱責した所、なんとアルシェは謝るどころか殴りかかってきたのだ。

 

 親に向かってである!

 

 自分の親に向かって、当主に向かって、暴力を振るう娘。

 娘であるアルシェは野蛮なワーカーと過ごすうちに、貴族としての常識も振る舞いも忘れて、蛮人並みの知性と行動の持ち主となってしまったらしい。

 

 その後、アルシェは家を飛び出し、そのまま帰ってきていない。

 家を空けていた間に稼いだ金を、この家に入れすらせずにだ。

 なんと非常識極まりない娘になってしまったのだ。今まで育ててやった恩を何だと考えているのか? 金を稼いでこねば、このフルト家が潰えるかもしれないという事が分かっていながら、なんと身勝手な思考をしているのか?

 

 

 その事を思い出し、喉の奥で呻り声をあげる彼。その横に腰かけていた彼の妻は、ある事に気づき、ふと顔をあげた。

 

「あら? 何かしら、この音は?」

 

 その言葉に耳を澄ませてみると、何が重いものが叩きつけられるような音が聞こえてくる。

 それも段々と大きくなってくるようだ。

 

「なんだ? またあの愚か者がこの街で何かを始めたのか?」

 

 彼はそう言うと、ソファーから立ち上がった。

 彼の妻もその後に続く。

 

 

 そうして、通りの様子を見ようと、ガラス張りの窓に歩み寄った彼ら。

 その窓に仔山羊の触手が叩きつけられた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「う、うっうぅ……」

 

 フリアーネ・ワエリア・ラン・グシモンドは呻き声をあげた。

 瞼を開いた瞳の先には木の板。

 

 ――?

 

 何故だろう? 自分の目の前に板張りの壁がある。

 柔らかい頬や形のいい胸がその壁に押し当てられている。

 不審に思い、その壁をおしやろうと手を動かした時、彼女はようやく気がついた。

 

 ――これは壁ではない。

 床だ。

 自分は床にうつぶせに倒れていたのだ。

 

 顔をあげ、周囲に目を向ける。

 そこにあったのは惨状と言う他ない光景だった。

 もはや目をつむっても歩けるほど、馴染みのものとなっていた魔法学院の校舎。それが見るも無残に崩れ落ちていた。壁にはひびが入り、天井の梁は落ち、床には大穴が開いている。取るに足らぬ物から、一つ一つが一般人にとって目の飛び出るような高価な物まで、全てが投げ出され、破壊されていた。

 

 フリアーネは自分の記憶を探る。

 何故、学院がこんなことになったのか? 何故、自分は崩れ落ちた校舎の廊下に倒れているのか?

 

 

 

 ――たしか、廊下で話していたはずだ。

 

 そう、ジエットとランゴバルトが何やら言い合いをしていたのだ。

 

 彼らが最近、不仲であるのは知っていた。

 ジエットの幼馴染であるネメルに、ランゴバルトが遊び半分で――本当にそうなのか、それとも内心は本気なのかは知らないが――ちょっかいを出しているのが原因だ。

 ランゴバルトの家はというとそれなりの有力貴族であり、対してネメルは下級貴族、ジエットに至っては平民である。立場の差は歴然としている。

 そんな状況下で、ジエットは様々な手管を使い、機転を働かせ、ネメルに近づこうとするランゴバルトを牽制(けんせい)して、難を逃れていた。

 

 この時も――ネメル自身は同席していないようだが――すでに同様のやり取りがあったのだろう。

 通りがかったフリアーネにジエットが声をかけた。

 

「生徒会長! ランゴバルト君にいじめられたんです!」

「な!?」

 

 告げ口をされた形となったランゴバルトが、ひきつった表情を浮かべた。

 ジエットの思惑が分かっている彼女は内心の苦笑を押し隠し、2人に声をかけようとした。

 

 

 

 その時、重い音が響いた。

 激しい振動を伴う、空気をも震わせる轟音。

 廊下の窓がびりびりと震動する。

 

 驚きに目を丸くする3人。

 

 いったい何があったのかと周囲を見回す。

 だが、視界に入った他の生徒たちも彼女らと同様、不審そうに辺りを見回し、何があったと囁きあっていた。

 

 その間にも、轟音は立てつづけに響き、段々とその音は大きくなってくる。

 生徒たちの顔に不安の色が浮かんだ。

 

「おい! 外を見ろ!」

 

 誰かが叫んだ。

 皆、窓へ目を向ける。

 

 フリアーネもまた同様に窓際へ駆け寄り――そして見た。

 彼女のこれまでの人生で見たこともないほど巨大な体躯の、禍々(まがまが)しさを具現したかのごとき魔獣が、その胴体から生えた長い触手を振り回し、進路上の建物を踏みつぶしながら、こちらへ向かってくるところを。

 

 

 誰もが呆気にとられた。

 皆、凍り付いたように動きを止め、目の前の脅威をただぽかんと口を開けて見入っていた。

 

「逃げなさい! みんな、逃げなさい!」

 

 いち早くフリアーネは声をあげた。

 その声に我に返り、慌てて走り出す一同。

 だが、彼らが屋外へ脱出するより早く、黒い仔山羊が帝国魔法学院の校舎に突っ込んできた。

 

 

 

 ――そうだ。あの魔物が……。

 

 もう一度、かすむ目をこすり、周囲を見回す。

 すると自分の傍ら、手を伸ばせば届くところに、ランゴバルトが転がっている事に気がついた。

 

「ひっ……」

 

 思わずフリアーネは声を漏らす。

 性格はともかく若い女学生達が思わず視線で追ってしまう程端正だったその顔、それが半分潰れている。割れた頭蓋骨の奥からピンクの肉が顔をのぞかせ、その表面は赤い血でてらてらと濡れていた。

 おそらく、落ちてきた天井の梁が頭を直撃したのであろう。すでに命がない事は明白であった。

 

 目の前の死体に目が釘付けになっていると、「ううぅ……」という呻き声が耳に届いた。

 そちらに視線を向けると、そこには倒れ伏すジエットの姿。

 幸いにも、まだ息はあるようだが意識はないようで、その足は崩れた壁材に挟まれていた。

 

 彼女はとにかく立ち上がって、彼の許へ行こうとした。

 木材の破片が散乱する床に手をつく。手のひらに感じる微かな痛みを押し殺し、体を起こそうとしたのだが……。

 

「ぐがぁっ!」

 

 背筋を襲った激痛に、悲鳴がこぼれた。

 淑女らしくないと考えることすら出来ないほどの痛み。

 

 

 彼女は肩越しに自分の背を見る。

 白い埃で汚れた制服。それは鮮血に染まっていた。

 

 

 そうっと、もう一度体を動かしてみる。

 再度走った体の芯を駆け巡る激痛に、再び床に突っ伏した。そのまま、身じろぎ一つせず、痛みが引くのを待つ。

 

 ――おそらく、背骨が折れている。

 

 その予測に彼女はぞっとした。

 フリアーネは第2位階魔法まで使用できるが、当然ながら神官系の魔法などは使用できない。負傷を治す術はない。

 すなわち、この怪我を自力で何とかすることは出来ない。

 

 唯一の望みはポーションで治すことだ。

 学院の医務室には、生徒の怪我に備えて、ポーションがあるはずだし、専属の薬師もいるはずだ。

 だが、この怪我では自分の方から、そこへ行くことは出来そうにもない。

 

 ――ここで、助けを待つしかないか。

 

 そう考えた彼女は、床に(うつぶ)せになったまま、出来るだけ痛みを感じぬよう、身動きせずにその場で救助を待つことにした。

 

 

 そんな彼女の耳にパチパチというかすかな音が聞こえてきた。

 

 

 体を動かさぬよう首だけで視線を巡らせると、床にできた穴、そこから飛び出た柱が階下から照らされる赤い光に揺らめいていた。

 彼女が見ている前で、その光はだんだんと大きくなり、やがて柱の表面を舐めるように炎が上がってきた。

 

 彼女は恐怖に目を見開き、悲鳴を漏らした。

 火の手は瞬く間に燃え広がり、崩れ落ちた廊下を包んでいく。

 

 

 彼女はその火から我が身を遠ざけようとする。

 三度(みたび)、激痛がその動きを止める。

 けれども、逃げなければ、火にのまれてしまう。

 

 フリアーネは床を這い、逃げようとした。

 腕を動かし進むたびに、脳天まで駆け巡る激痛が彼女を襲う。

 彼女の額に脂汗がにじむ。

 だが、それでも彼女は生きるために、一心不乱に腕を動かした。

 

 しかし、そんな努力もむなしく、燃え盛る炎は瞬く間に彼女の許へと追いついた。

 

 

 崩壊した学院に絶叫が響いた。

 

 

 ランゴバルトのように即死したり、ジエットのように意識がないまま炎に巻かれた方が幸運だったかもしれない。

 公爵家という何不自由ない地位に生まれ、恵まれた魔法の際により秀才と呼ばれた美しき生徒会長は、その身を焼き焦がす炎と、背筋に走る激痛に身悶えながら、死んでいった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ジルクニフはただ茫然としてその光景を眺めていた。

 

 彼の眼前で、栄光あるバハルス帝国の街並みも、そこに住まう民衆も、様々な歴史ある建築物も、全てが壊されていく。

 人知を超えた暴虐の嵐の前に、襲い来る圧倒的な暴威の前に、全ては夢幻(ゆめまぼろし)、砂上の楼閣でしかなかったかの如く現実が崩壊していく。

 

 

 

 一体それが始まってからどれほどの時が経ったのか。すでに理解できなかった。

 だが、ふと誰かが言葉を発した。

 

「お、おい……あれ……こっちに向かってくるぞ!」

 

 見ると、帝都を我が物顔でのし歩く3体の巨獣、そのうち1体が、彼らがいるこの城の方へと進路を変えた。

 間にある建物を次々と踏み壊し、足元の人間を弾き飛ばしながら、一直線にこちらへと向かってくる。

 

 その姿に、誰もが息をのんだ。

 さすがに、この城なら大丈夫という思いもあったが、まさかという不安も決して拭いきれなかった。

 

 やがて黒い仔山羊は城を取り囲む胸壁へと、勢いのままぶち当たった。壁の上で警備にあたっていた兵士が吹き飛ばされ、地面へ落下する。

 およそ、どのような破城兵器を持ってしても破壊は不可能と思われていた城壁は、人間の(ことわり)を超えた存在の前に一瞬のうちに粉砕された。

 噴煙が立ち昇る中、魔獣の触手が空を切って振り回される。

 触手が辺りに叩きつけられる音と共に、聞こえてくるそいつの可愛らしいさすら感じさせる鳴き声が耳に届き、その声に全身が総毛だった。

 

 

 仔山羊は一度大きく身じろぎすると、再びその蹄の生えた足を動かし始めた。

 職人たちが丹精込めて作った庭の花園を踏みつぶし、木々をへし折り、そいつが向かった先は……。

 

「ま、まさか、この城に突っ込む気か!」

 

 見る見るうちに大きくなるその姿に、皆慌てて、バルコニーから室内へと逃げ込んだ。

 次の瞬間、ズズンという轟音と共に、激しい振動が彼らを襲った。

 立っていられる者はなく、全員、床に伏せたまま、状況を見守る。

 

 やがて、彼らは顔をあげた。

 どうやら自分たちはまだ生きている。

 いかな恐るべき魔獣といえど、この城を破壊することは出来なかったのだ。

 

 誰もが安堵の息を吐いた。

 

 しかし、その期待は次の瞬間、裏切られることになる。

 再び、地の底から響くような音と震動が聞こえてきたのだ。

 それははるか下方から聞こえてきており、ゆっくりとだが移動をつづけていた。

 

 あの巨獣は、城に突っ込んでなお、まだ生きている。

 そして、力任せに城の中を突き進んでいる。

 

 その事に気がつき、彼らは一様に顔を青くした。

 

 部屋が大きく揺れる。

 剛勇なる者達も、剣すら振るったことのない者達も、皆等しくその身をすくませた。

 幸いながら、彼らのいる上層部が崩れ落ちることは無かったものの、このままここにいては危険だという事はよく分かった。

 

 

「陛下、お逃げください!」

 

 現実感すらわかぬほどの暴威と自らの生命の危険による虚脱状態から、ようやく理性を取り戻した臣下たちが、彼らの主、皇帝ジルクニフに避難を勧める。

 

 彼もまたその声に、ようやく我に返った。

 

「……う、うむ。よし、そうだな。とにかく、この場から離脱するとしよう」

 

 そう言って、同じ室内にいるはずの帝国主席魔法使い、彼が子供の頃から支え守ってくれていた老魔法詠唱者(マジック・キャスター)、フールーダ・パラダインを探す。

 おそらくここからならば城内を通るより、彼の使う飛行系の魔法でバルコニーから飛び出した方が安全だろうという判断からだ。

 

 

 そうして、室内を見回した彼の視線が一つ所で止まった。

 

 

 激しい振動で、壁際にあった装飾品や本棚の書物がすべて床に落ち、それらがあちこちに散乱している室内。そこら中に、小さな村で言うならば税収の100年分はあろうかという高級装飾具が並べられていたのだが、いまやそれらのすべてが投げ出されていた。床に散乱する芸術品や歴史的資料の海。そんな混沌とした室内から通路へと出るための扉の前、そこへ揺らめく漆黒があった。

 

 

 ――これは一体なんだ?

 魔法だろうか?

 魔法だとするならば、一体だれが?

 

 疑問が頭を駆け巡る。

 その様子に気がついた一同は、一体どうしたのだろうと主の視線を追い、そこで彼と同じものを見つけ、目を丸くした。

 

 

 皆の視線が集まる前で、その漆黒の中から、人影が歩み出てきた。

 

 それは美しい銀髪に透き通るような肌を持つ少女。その小柄な体に、南方で着るというスーツという服、それも男物を身に着けている。

 

「やー、やー、こんにちは。皆おそろいでなによりだね」

 

 そう言って彼女はにこやかに笑いながら、手を振った。

 

 呆気にとられる中、少女が出てきた揺らめく漆黒から、さらに3人の女性が次々と出てきた。

 フリルのついた至高の一品といっていいほど上質のボールガウンに身を包んだ、これまた美しい少女。

 美しい金髪を縦ロールにし、胸元や太ももを大胆にさらした服を身に着けるメイド。

 そして、最後の1人は……。

 

「ぬうっ! おまえは!」

 

 その姿を見たフールーダが呻った。

 最後に現れたのは、2人目のメイド。

 その射干玉(ぬばたま)のような長い髪は、頭の後ろでポニーテールに結い上げられている。そして、その切れ長の瞳は髪と同じ黒。そのまるで南方の人間のような姿は、忘れることなど出来はしない。以前の邪教組織壊滅の際、彼らの前に立ちはだかった恐るべき身体能力を誇る謎の女魔法詠唱者(マジック・キャスター)であった。

 

 

 そんな彼女を引き連れる、この者達は……。

 

「もしや、この謎の巨獣の襲撃……お前たちの手引きか?」

 

 フールーダの問いに、答えたのは銀髪の少女。

 

「うん。そうだよ」

 

 そう、事もなげに答えた。

 

「……お前たちの目的は何だ? 何故、こんなことをする?」

 

 ジルクニフは内心の動揺、そして自分の治める帝都を破壊した張本人であると自称する少女に対し湧き上がる怒りを抑え込み、問いただした。

 それに対しても、少女はあっけらかんとした態度だった。

 

「んー? 目的? 目的ねぇ。まあ、一つは復讐かな。こっちはあんまり大事にする気はなかったんで、手加減するようにって言ってたうちのナーベラルの事を、みんなで寄ってたかっていじめたんでしょ? 悪いんだけど、ボクたちは子供のケンカにも親が出張ってくる方針なんだ」

 

 どう見ても、黒髪のメイドの方が目の前の少女より年上なのに、メイドを子供と例える少女に奇妙な感覚を覚えたものの、『復讐』という言葉に、周りの者達は反応した。

 

 立て続けの事態に呆気に取られていたものの、気を取り直したバジウッドやニンブル、そして近衛の騎士達が剣を抜く。

 彼らの主を守ろうと陣形を組む。

 

 

 そして、その内の2人が前へと進み出た。

 一息に飛びかかって距離を詰める。刃を振り回して他の者を牽制しつつ、一番先頭にいる銀髪の少女を確保しようと手を伸ばす。

 

 だが――。

 

「ちょっと、邪魔」

 

 無造作に振り払われた少女の手。

 その一見たおやかな白い(かいな)に弾き飛ばされ、魔力の込められた全身鎧(フルプレート)を身に着けた大の大人が宙を舞う。彼らは凄まじい勢いで、収めるべき書物がすべて床に落ち、空となった黒塗りの本棚へと叩きつけられた。

 ズンと床に落ちた彼らの首はありえない方向に曲がっている。

 

 

 息をのむ彼らの事など気にも留めずに、ベルは傍らに立つ女性へと視線を送った。

 それを受けて、ナーベラルが前へと進み出る。

 彼女の目は武器を構える騎士の壁、その向こうに立つフールーダに据えられている。

 

 そして彼女は、その白魚のようなほっそりとした指に嵌められていた指輪を抜き取った。

 

「ぐぶっ!」

 

 その場にいた者達は、そのような声をあげた人物が一体だれなのか、最初分からなかった。

 まさか、あの人物がそんな声をあげるはずがないのだ。

 だが、その当人は周りの者の視線など気にもとめなかった。周囲の反応を考える余地すらもなかった。

 

 フールーダはよろよろと前へと歩み出る。

 

 今、彼の目に前にいる人物、相手の使用できる魔法位階を見抜く目にさらされたこのメイドの真の力は……。

 

「お、恐れながら……あ、あなた様は……」

 

 ごくりと生唾を飲み込む。

 

「あなた様はもしや……第8位階魔法まで使えるのでは……?」

「ええ、そうよ」

 

 その答えに、フールーダの身体が電流を受けたかのようにビクンとはねた。

 

 

 いたのだ。

 彼が願い続けてきた者が。

 深淵なる魔導の世界において、200年以上の時をかけてようやく第6位階にまでたどり着いた自分のその先を歩む者が。

 彼は遂に、遂に出会えたのだ。

 

 

 だが、そんな長き時の果てに巡り合った、至上なる人物から投げかけられたのは、残酷なる宣言。

 200年を生きたフールーダをして、いまだ到達しえない魔導の高みにいる彼女は冷たい瞳で彼を見据え言った。

 

「ナザリックに仕える戦闘メイドである、この私に歯向かった報い。死を以って償いなさい」

 

 

 その非情な宣告に、フールーダは身を震わせた。

 

 

 知らなかったのだ。

 まさか、敵とした戦った彼女がそれほどの、自分が首を垂れねばならぬほどの御方だという事に。

 知っていれば、歯向かう事など絶対にしなかった。

 かの方が望むのであれば、帝国など捨てても良かった。

 自分は知らなかっただけなのだ。

 

 

 彼はよろめく足でなお前へと歩み寄る。

 至高なる存在に。

 彼が数百年来求め続けてきた存在。

 気が遠くなるような時間願い続けてきた、自分を超える魔導の奥義を極めた存在。

 それがそこにいるのだ。

 今、目の前にいるのだ。

 

 

 彼は手を……。

 震えが止まらぬ手を伸ばした。

 

 

 そんなフールーダの前で、ナーベラルは腕をあげ魔法を唱えた。

 

 〈二重最強化(ツインマキシマイズマジック)連鎖する龍雷(チェイン・ドラゴン・ライトニング)

 

 ナーベラルの両手からほとばしった雷撃。

 それがフールーダの身体を直撃した。

 

 

 我が身を焼き尽くす(いかづち)に撃たれながらも、フールーダは歓喜に震えていた。

 

 

 ――す、素晴らしい。これが、これが第8位階魔法。ははははは! これこそが、これこそが求め続けた高位の領域の魔法。な、なんと素晴らしい……。

 

 人間には達しえない偉大なる魔術、その桁外れの威力に喜悦の涙を流しながら、フールーダ・パラダインの200年以上にわたった生命は終わりを告げた。

 

 

 

 その場にいた誰もが、言葉を失っていた。

 6代前の皇帝からずっと国に仕えてきた伝説の存在。帝国の守護神として、彼らが生まれる前からこの国を守り続けてきた偉大なる魔法詠唱者(マジック・キャスター)

 それが、たった一つの魔法をその身に受け、死んでしまったのだ。

 さらにはナーベラルの放った魔法は、フールーダのみを絶命させたにとどまらなかった。

 その直線上にあった騎士、魔法詠唱者(マジック・キャスター)、文官らもまとめて焦げ臭い消し炭へと変えていた。

 

 その凄まじいまでの魔法の威力を前に、歴戦の戦士たちすらもその足の震えを止めることは出来なかった。総身が(すく)みあがった。

 

 

 静寂が支配する中、独り、両者の間に歩み出た者があった。

 

「あ、あの、ま、待ってください。あなた方に歯向かいは致しません」

 

 それを言った者は女性。

 甲冑を身に着けていながらも、女と分かる体形。その美しい顔の右半分はたらした前髪で覆い隠している。 

 そうして、帝国四騎士の1人、レイナース・ロックブルズは謎の闖入者たちの前に片膝をつき、自らの名を名乗った。

 

「わ、私は先の戦闘には参加しておりません。そちらの女性に、わずかなりとも怪我を負わせるなどといった行為はしておりません。あ、あなた方は偉大な魔術の使い手かと思われます。私の願いを聞いていただけないでしょうか。もし願いを聞き届けてくださるのならば、私の剣をあなた様に捧げましょう」

 

 そう必死で懇願した。

 

 ジルクニフは思わず舌打ちしてしまった。

 彼女、レイナースは自分に対して忠誠を誓っているのではない。彼女自身にかけられた呪いを解く(すべ)を捜すため、為政者たる皇帝である彼に仕えていたのだ。もし、目の前に、より魔法に詳しいであろう人物が現れたのならば、自分に忠誠を誓う必要などない。

 

 

 ベルは突然、自分の目の前で膝をついた女騎士をどう扱うべきか図りかねていた。

 とりあえず、聞いてみる。

 

「んーと。君の願いって?」

 

 話を聞いてもらえたと、レイナースは息せき切って言い募った。

 

「は、はい! 私のこの顔です!」

 

 そう言って、自らの顔の右半分を隠す髪をかき上げる。

 それを見たベルは顔をしかめた。

 そこにあったのは肉が引き攣れ、じゅくじゅくと溢れる膿にまみれた顔。左半分が整っているだけに、その落差により醜さがより一際強調されている。

 

「かつて、魔物を討伐した際に呪いをかけられたのです。これによって私は家を追われ、婚約者からも捨てられました。お願いです! どうか、どうか何とかしていただけないでしょうか?」

 

 言われたベルにとっては、そんな事情などどうでもよく、内心鬱陶しいなと考えていたのだが、ふと思いつくものがあった。

 その顔に、にんまりとした笑みが浮かぶ。

 

 そして、自分の懇願を聞いてもらえるかと気をもむレイナースに優しく声をかけた。

 

「うんうん。それは大変だったね。分かった。何とかしてあげるよ」

「ほ、本当ですか!?」

 

 レイナースは声をあげた。

 蜘蛛の糸にすがるような思いであったが、まさか本当に自分の望みを叶えてくれるとは。

 彼女は期待に、その緑の瞳を輝かせた。

 

 レイナースが見ている前で、ベルはアイテムボックスに手を突っ込み、そこから一つの宝石(タリスマン)を取り出した。

 そしてそこに込められていた魔法――〈呪い(カース)〉を発動する。

 

 

 レイナースは肌を焼くような感覚を覚えた。

 何か身体に異変が起こっている。

 顎先に違和感を覚え、手で押さえた。

 

 そして、手のひらを見た彼女は悲鳴をあげた。

 

 そこには膿がべっとりと付いていた。

 もはや見慣れた、忌むべき黄色いねっとりとした液体が。

 だが、いま彼女が押さえたのは彼女の顔、膿が浮き出る右半分ではない。 

 元の美しいままであるはずの左側である。

 

 彼女はガクガクと膝を震わし、己が身を見下ろした。

 今まで顔の右側にしかなかった膿を垂れ流す引き攣れ。

 それが、見る見るうちに全身を覆っていく。

 胸元も、その手も、太腿も、足先に至るまで全身が醜い肉塊へと変わっていく。

 そして、残されたその左の顔すらも。

 

 愕然とする彼女の視界に、何かがズルリと滑り落ちたのが見えた。

 見れば、それは美しい金髪。

 彼女の頭に生えていた髪が汚らしく黄色い膿に濡れ、頭皮ごとべろりと抜け落ちたのだ。

 

 

 レイナースは、喉の奥から悲鳴をあげた。

 それに応えるのはベルの高笑い。

 

「あはははは! 何とかしてあげたよ。歪みは顔の右側だけだったから、ちゃんと全身にいきわたるようにしてあげたよ」

 

 そう言って、ベルは嘆きに身を捩らせるレイナースを指さして笑った。

 

「『不幸を知らない人間は、幸せを知らない』だっけかな? うん、良かったね。君はこれで不幸を知って、これまで顔の右半分だけで済んでいた幸せに気づくことが出来たって事さ。あはははは!」

 

 ベルの魂胆を理解したシャルティアやソリュシャン、そしてナーベラルは、不遜にも自分たちに対して取引のように願いを語った愚か者の末路を嘲り笑った。

 

 

 しかし、その内、ソリュシャンは笑いを止めて言った。

 

「ですが、ベル様。実際の所、この者はどうなさるのです?」

「ん? どうって?」

 

 ベルは笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を指でふき取りながら、自らに忠実なメイドに聞き返した。

 

「いえ、先ほど、この者は顔を何とかしてくれたのなら、剣を捧げると申しておりました」

「ああ、言ってたね。いいんじゃない? 仕えたいって言うのなら」

「ええ、ですが……この者をナザリックの末席に加えるのですか? この汚らしい膿を吐き出す肉塊を?」

 

 言われてベルは気がついた。

 

「ああ、そっか。……こいつを連れて帰ったら、ナザリックが汚れるね。困ったなぁ」

「掃除せよと命じられるのならば、拒む者などいようはずもありませんが……」

 

 笑顔から一転渋い顔をした。

 今のレイナースは全身から膿を垂れ流す肉塊である。

 そんな者をナザリックに連れ帰りたくない。少なくとも、自室にこいつがいるような事態は勘弁してほしい。

 

「もう動くだけで、膿が垂れ流されて部屋が汚れてしまうからなあ」

「本当に汚らしい生き物でありんす」

「ええ、臭いも酷いですし」

「やれやれ。こんな物体が女を名乗るなど、仮にも同性として恥ずかしくてしょうがありませんね」

 

 目を見張るほどの美しさを持つ女性たちから、次々と侮蔑と嘲笑の言葉を投げかけられ、かくも無残にして醜い姿に変えられたレイナースは涙を流した。

 だが、その涙は、その身から滲み出す汚らしい黄色い膿に混じってしまった。

 

 

 

「まあ、いいや。こいつの事は後で考えよう。とにかく、ばっちいから適当なところに当分放り出しておけばいいか。ああ、黒棺の中にでも放り込んで置けば、恐怖公の眷属が膿を食べるかな」

 

 そう言うと、もう元レイナースだった物体には目もくれず、残った人間たちへと意識を戻した。

 「シャルティア、ちょっと片付けて」と声をかけると、ボールガウンの少女はその赤い瞳を輝かせた。「了解しんした」と答えると、彼女はさらりと〈内部爆散(インプロ―ジョン)〉を使う。

 

 

 帝国四騎士として謳われたバジウッドやニンブル、それに皇帝の懐刀として采配を振るったロウネら、その場にいた帝国全土、いや、世界中からジルクニフがかき集めた金銭に代えることのできないような傑物たちは、瞬く間に内部から膨れ上がり、爆散し死んだ。

 

 

 血に染まる室内に、えひゃっえひゃっと笑い声が響く。

 部屋の隅にいて、今の魔法を免れた文官たち。そのうちの1人が笑っていた。その顔はすでに理性を手放した者が浮かべる、それだった。

 トンという音と共に、その笑い声が止まる。

 彼の額には銀色に輝くナイフが埋まっていた。

 どういう手品かは知らないが、金髪を縦ロールにしたメイドが、何も持っていない腕を振るうたびにそこからナイフが放たれ、闘う術など持たない彼らをただ機械的に、物言わぬ(むくろ)へと変えていった。

 

 

 

 そして、その場に立つのは、鮮血帝ジルクニフただ一人のみとなった。

 今、彼はその異名の通り、血に(まみ)れていた。

 自らに忠実であった臣下たちはすべて死んだ。

 彼らの鮮血に濡れ、臓物を体にぶら下げながら、身じろぎすら出来ず、その場に立ち尽くしていた。

 

 彼は肌身離さず、自らの首から下げていたマジックアイテムを呪った。

 この精神異常を回避するネックレスがなければ、先の文官と同様に、とっくに発狂して楽になれただろうに。

 

 

「やあ、皇帝。……名前は何だっけかな? まあ、いいか。自己紹介もいいよね。もう今更だしさ」

 

 彼は微笑みながら歩み寄る少女の姿に、怯えの色を隠すことなく後ずさる。

 そんなジルクニフに彼女は無邪気な表情で笑いかけた。

 

「えーと、それで君ってさ、自分の命すら賭けの対象にする、とか言ってたんだっけ? でもさぁ……」

 

 そう言うと、彼女はそのあどけない顔に、少女らしからぬ、子鬼のように邪悪な笑みを浮かべた。

 

 

「でも、まさか今日死ぬとは思わなかっただろ?」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 その日こそ、後世の歴史書にバハルス帝国崩壊の日、『大破壊』と記される日となった。

 

 

 突如として帝都アーウィンタールを襲った謎の巨獣。

 どこからともなく現れた3体の魔獣は、帝都を完膚なきまで破壊しつくし、そして何処かへと消え去った。

 その暴虐の嵐により、幾多の歴史ある建物も数多くの尊い人命も様々な知識も、そして国としての秩序も失われた。

 

 何より帝国にとって痛かったのは、このバハルス帝国を統べていた皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス、ならびに何代にも渡り皇帝に仕え、支えてきた第6位階魔法まで使いこなす主席魔法使い、『三重魔法詠唱者(トライアッド)』フールーダ・パラダインの両者を失った事であった。

 

 さらに、それだけではない。

 その襲撃により、これまで皇帝を支えてきた側近たちものきなみ命を落とし、また帝国が誇る勇猛無比たる戦力である帝国騎士団も三分の一近くが壊滅した。

 

 

 これにより、帝国領は大混乱に陥った。

 

 現皇帝ジルクニフは中央集権制を進めてきた。地方の権力をこの帝都に集め、そして帝都の権力を皇帝たる自分の下へと一手に集めてきたのだ。

 それなのに、その権力を握っていた者ならびに管理していた者達が、すべていなくなってしまったのである。

 

 生き残った貴族達は、自らの権力拡大に力を注いだ。

 まず、彼らは帝都を離れた。

 この崩壊した帝都にいても、何の益もないどころか、自らの安全すらも危うい。

 そして皇帝の血を引く遺児を、中には血など引いてすらいない子供を皇帝の落胤と称し、擁立した。そして自分はその子の庇護者であるとして、実権を握ろうとした。

 その動きに、これまで皇帝によって抑えられてきた地方領主たちもまた動きを見せた。彼らは帝都の貴族たちと同様に皇帝の遺児と称する者を立てた。もしくは、自分こそがバハルス帝国建国前、この地に存在した国家の王族の血を引く者であると僭称(せんしょう)した。

 

 そうして、権力争いが激化する中、次に彼らが動いたのは戦力の確保であった。

 この混乱の中においては、現実的な戦力こそがものをいう。

 彼らは残された帝国騎士団を抱え込もうとし、傭兵団を高値で雇い入れ、隣国のように平民たちを徴兵して、戦力をそろえようとした。

 

 そこには自分の勢力を拡大しようとする欲望のみが渦巻いており、崩壊した帝国に暮らす民衆の事など顧みようとはしなかった。

 

 

 そうした狂乱怒涛(きょうらんどとう)たる権力争いに仮初めの為政者たちがかまける中、帝国領には依然として重大な問題が放置されたままであった。

 

 ビーストマンの跳梁である。

 

 帝国が大々的な討伐作戦を実行しようとしたその矢先にあの大破壊が起きたのだ。

 当然、彼らの事は後回しにされ、獣人たちは今も野放しのままである。

 すでに巨獣により、帝都の外壁は大きく破壊されてしまっている。住む家も多くが踏みつぶされ、粗末なバラックでの生活を余儀なくされている者も多数いる。獣人の襲撃により都市間の交易は(とどこお)っており、食料も満足には手に入らなかった。

 日々の生活で薄汚れた顔を巡らせても、彼らの誇りであった偉大なる皇帝の住まう居城は痛ましい傷跡を晒したままであった。

 

 帝都の民衆は、失意の底にあった。

 

 

 

 だが、彼らにも希望があった。

 襲い来る脅威から、彼らを守ってくれる偉大なる英雄がこの地にはいるのだ。

 

 

 

「うおぉっ!」

 

 気合の声と共に薙ぎ払われた一閃が、ビーストマンの首を切り飛ばした。

 僅かの時をおいて、その獅子の頭が地を転がり、頭部を失った一際大きな体躯の獣人の肉体がどうと倒れる。

 

 その光景を目のあたりにした、人間たちは一斉に喝采の声をあげた。

 

「今だ! ビーストマンの族長はモモン殿が討ち取った! 残敵を掃討せよ!」

 

 雄々しい鎧に身を包んだ将軍ベリベラッドが命令を下す。

 それを受けて、深いひっかき傷や打撃によるへこみなど、かつての美々しい姿を思い出せぬほどの傷だらけの鎧に身を包んだ騎士達は一斉に、族長が討ち取られ及び腰になったビーストマン達に襲い掛かった。

 

 彼らは残存した帝国騎士団である。

 大きな被害を出した帝国騎士団は再編成すらままならぬうちに、貴族たちの勢力争いに巻き込まれた。自らの地位や立場の為に各々部隊を率いて、それぞれが押す貴族の下に集い、散り散りとなってしまっていた。

 今、ビーストマンの群れと戦っている彼らは、かつての帝国第三軍。いまだ帝都に残る皇帝ジルクニフの愛妾の1人であったロクシーを主として仰ぎ、将軍ベリベラッドに率いられ、この帝都周辺の治安を守っていた。

 彼らは、帝都に住まう民草を守るという使命の為、かつてのように見目麗しくはなく、傷だらけにして薄汚れた姿ながらも戦意高らかであった。

 

 

 

 そうして、戦いが撤退する敵の追撃戦に移る中、漆黒の鎧に身を包んだモモンはゆっくりと体勢を戻した。

 

 

 アダマンタイト級冒険者『漆黒』のモモン。

 彼こそがこの地の希望となった。

 

 その堂々たる態度。

 何事にも動じぬ落ち着きよう。

 圧倒的な膂力。

 類まれなる剣技。

 

 その存在は、ともすれば絶望に打ちひしがれそうになる、この帝都に生きるすべての者の希望の光となった。心の支柱であった。

 

 帝都には同じアダマンタイト級冒険者として『蒼の薔薇』もいるのだが、やはり彼女らはリーダーが他国の貴族という事から、人気としては『漆黒』の後塵を拝していた。

 

 実際、帝都の人間たちは、モモンはこのままずっと帝都にいてほしい、冒険者を引退し、将軍としてこの地に残ってほしいと願っていた。

 中には、いっそ皇帝になって自分たちを率いてほしいなどという言葉すら聞こえてくるほどであった。

 

 

 

 そんな、皆の崇敬と思慕を向けられている当のモモンことアインズは、フルヘルムに隠された顔をゆがめて苦悩していた。

 

 

 その頭のうちにあるのは、先に『蒼の薔薇』と会った際、イビルアイから語られた内容。

 

 

 

 この地に100年に1度の間隔で現れる『ぷれいやー』、その『ぷれいやー』に忠誠を誓う『えぬぴいしい』なる存在。そして、彼らがこの世界にもたらすユグドラシルの装備。

 

 小柄な仮面の魔法詠唱者(マジック・キャスター)の口から語られた、様々なこの世界の(ことわり)

 アインズは驚きつつも、それを一言一句たりとも聞き逃すまいとした。 

 彼は喜んだ。

 ずっと探し求めていた、この世界の根本たる情報がついに手に入ったのだ。この話をきかせれば、きっと彼の友人、ベルも大いに喜ぶだろう。

 彼はイビルアイからさらなる情報を引き出しそうと話を促し、イビルアイは自らの知識を惜しむことなく伝えた。

 そうして、これまで彼ら、ナザリックが把握していなかった知識を、実に多く手に入れることが出来たのだ。

 

 

 だが、せっかく手に入れた情報ながら、アインズはその事をいまだベルには話してはいなかった。

 

 続けて聞かされた、ある事柄に心を打ち据えられたからである。

 

 

 

 イビルアイは語った。

 

 『心は肉体に引っ張られる』、と。

 

 

 そうして、彼女は自分の知っている者の話だがと前置きしたうえで、アンデッドとなった者を知っていると言った。最初は理想に燃え、その願いをかなえるための手段であったはずが、肉体の変化に心が引っ張られ、いつの間にかその精神はアンデッドとしての悍ましいものへと変わっていったのだという。

 

 そう語るイビルアイの姿と言葉は、苦悩を胸に湛えたものだった。

 かつて『蒼の薔薇』のティアをとらえ、彼女の持つ知識を漁って得た情報により、アインズはイビルアイの正体が吸血鬼である事は知っていた。その為、彼女の語る内容は、彼女自身の事であると推測できた。

 

 

 彼女は更に話を続けた。

 話は『ぷれいやー』の事に移った。

 

 

 彼女の話では――彼女自身も別の者から聞いた話らしいが――かつて現れた『ぷれいやー』たち、彼らは人間種だけではなく亜人種、中には異形種の者までいたらしい。

 

 最初は人としての心を持ち、平和と安寧を求め、正義と公正に生きた者達も、やがてその異形種の器にふさわしい歪んだ精神の(とりこ)となっていったという。

 

 

 

 アインズは自らの手を見下ろした。

 漆黒の手甲の表面からは、たった今、切り殺したビーストマンの血が滴り落ちた。

 

 ――そう言えば、確かに変だ。何故、俺は狼狽えもしないんだ? 人――今殺したのは人間ではなく亜人だが――を殺したんだぞ。リアルでは血なんてまともに見ることもなかったのに。

 

 

 考えてみればおかしかった。

 アインズとベルはユグドラシルからゲームのアバターを身に纏った状態で、ナザリックと共にこの世界にやって来た。

 そして、〈遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモートビューイング)〉で殺戮される村を見つけたとき、アインズはその光景に動揺することもなかった。その後、カルネ村に行き、騎士を魔法で殺した時も、そしてベルが死体をばらしていたときも、何も感じることは無かった。

 

 明らかに異常だった。

 鈴木悟は訓練を受けた兵士でも、血を見るのに慣れた医療関係者でもない。

 それなのに、血まみれの死体を見ても、自分で人を殺めても、何ら動じることは無かった。

 

 

 当初はゲームキャラとして能力を得たことによる保有スキルの影響かと思っていた。

 激しく精神が乱れると、それは強制的に沈静された。これをベルは、アンデッド特有の精神作用無効の特殊技術(スキル)の影響ではないかと推察した。他にも自分たちはゲームにおける特殊技術(スキル)らしきものを保有している事が、その説の裏付けとなった。

 だが、すべてが精神作用無効のスキルによるものだとするには、いささか疑問が残った。

 ベルの推察通りならば、人の死に動揺し、その興奮が一定量を超えたときに特殊技術(スキル)が発動、精神の強制沈静が起こるはず。

 最初から、心が揺れ動きすらもしないことに関しては説明がつかなかった。

 ナザリックに属する者が誰かに傷つけられたりした時などは、すぐに明確なる不快や怒りの感情が湧いてくるというのにだ。

 

 

 ――もしや、この身がアンデッドになったことで、肉体のみならず、心まで人間を止めてしまったという事か……?

 

 

 それを裏付けるように、先の帝都で行った〈黒き豊穣への貢(イア・シュブニグラス)〉での大虐殺も、なんらアインズの心を乱れさせる事はなかった。

 

 そのこと自体に後悔はない。

 彼が最も重視するのはナザリック、そして、かつてのギルメンたちが残してくれたNPC達だ。彼らの為ならば、他の者の命などものの数にもならない。

 

 しかし、彼の放った魔法で10万人近い人間が死に絶えたというのに、その心は静かなる湖面のようにかき乱されることなく、それこそ虫の巣に殺虫剤をかけて駆除した程度にしか感じられなかった。

 

 

 ――俺の精神はすでに人のものではないのか……。

 

 ……ならば、ベルさんは?

 

 

 ベルもまた元はアンデッドだったはずだ。

 ならばアインズ同様、人間に対する共感を失っていてもおかしくはない。

 

 そして、ベルはもう一つ変化がある。

 

 

 アインズはかつて、ともにユグドラシルをプレイしていたときの異形の大男、ベルモットの姿を思い返した。

 

 昔の彼は控えめな人間だった。

 皆とユグドラシルを遊んでいても、常に一歩引いたところがあった。あまり騒ぐこともなく、冷静に事後策を考え、慎重に行動していた。

 

 だが――。

 

 ――だが、今のベルはどうだ?

 

 とてもではないが、その行動は控えめとは言い難い。かつてのように万が一の事などは考えてはいるようだが、その計画はどうにもボロボロと穴がある。そして、ときおり後先など考えてもいないような突拍子もない行動をとる事すらある。

 

 大きく外見が変わっているからとはいえ、最近の無邪気にはしゃぎ笑う様子は、かつての冷静沈着な姿と重ね合わさらない。

 

 

 昔、アインズの頭に思い浮かんだことがあった。

 

 ――最近のベルはなんだか子供っぽい、と。

 

 

 イビルアイの話が事実だとするのならば、ベルは子供の姿になった影響を受けているのだろうか?

 もし、そうだとするのならば……。

 

 

 アインズは奥歯を噛みしめた。

 

 ユグドラシル最後の日。

 あの時、メールを受けてやって来たベルモットに、ほんの悪戯(いたずら)のつもりで身体変化のマジックアイテムを使用させたのは自分だ。

 今の少女の姿にしてしまった原因は、アインズなのだ。

 もし、彼が少女の姿になったことが原因でおかしくなったというのならば、自分にこそ責任がある。

 

 アインズの心のうちに罪悪感が湧き起こる。

 それは果実に湧いた蛆虫のように、アインズの心にたかり、執拗に責め(さいな)んだ。

 

 

 かつて皆と共にユグドラシルをプレイした。

 九つの世界を股にかけて各地を荒らしまわり、幾多のワールドアイテムを手に入れ、拠点たるナザリック地下大墳墓を作った。

 そうして、共に笑いあった友人たち。

 彼らこそ、リアルでは何も得られなかった鈴木悟にとって、生きる(よすが)たる全てであった。

 

 

 その大切な友人が変わってしまったのは、自分のせいなのだ。

 自分が友を騙した結果が、現在の友人のかつてとは異なる思考と行動なのだ。

 

 

 それに思い至ったとき、アインズはベルからの提案に対し、何も言うことは出来なかった。

 

 

 イビルアイとの会談で得た情報だが、いまだ(つまび)らかに相談するどころか、話してもいない。

 話を聞いた当初は、思い切って言ってしまおうと考えたのであるが、その時、ベルから後にしてくれと言われた。

 面と向かってその件を話すことに躊躇いがあったアインズは、その言葉に飛びついてしまった。

 その後も、なかなか話すタイミングを掴めず、ずるずると先延ばしをしたままになってしまっていた。

 

 

 今、ナザリックはベルの立てた計画により、行動を進めている。

 子供の精神を持ったベルの計画のままに。

 

 

 ――このまま進んで、……本当にいいのだろうか?

 

 

 『お前が本当に『ぷれいやー』もしくは『えぬぴいしい』なのかは知らん。その鎧の中身も、普通の人間であって、全ては私の取り越し苦労かもしれん。だが、一つだけ言わせてくれ。もし、お前が、お前の仲間が異形種だったとしても、人としての心は失わないでいてほしい』

 

 

 イビルアイの言葉はアインズの頭を離れず、いつまでもグルグルと回り続けていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「あはははは!」

 

 ナザリックの執務室に陽気な声が響く。

 

 

「そうか、それは素晴らしい! よくやったぞ」

 

 嬉々とした様子でベルから投げかけられた称賛の言葉に、デミウルゴスもまた、にこやかに頬を緩ませた。

 今、彼らの間にある机の上に積まれている大量の報告書に書かれているのは王都リ・エスティーゼの調査結果である。

 

 王都への調査は以前にも試みたのであるが、王都を拠点とする冒険者チーム『蒼の薔薇』、そこに所属するイビルアイによって、送り出したシャドウデーモンはことごとく滅ぼされてしまった。

 その為、王都の情報収集は、秘かに潜伏させたユリの手による細々としたものに頼らざるを得なかった。

 当然、それは遅々として進まなかった。

 

 

 だが、今回の帝都での騒ぎを口実に、『蒼の薔薇』を王都から引っぺがす事に成功した。

 冒険者の依頼として、彼女らを帝都に動かさせたのだ。

 

 そこでベルは一気に動いた。

 シャドウデーモンだけではない。隠密行動に長けた怪物(モンスター)を総動員して、王都の情報を集めさせたのだ。

 

 その結果が、この高く積まれた報告書の山。

 イビルアイがいない今、王都において、こちらの邪魔になる者など誰もいなかった。王都の情報はすべて白日の下に晒される事となったのだ。

 

 

 ――さあ、情報は集まった。ここではどんな遊び方をしようか?

 

 ベルは新しいゲームを買ってもらった子供のように無邪気にはしゃいでいた。

 

 

 

 




 最初の予定では、レイナースは顔を治してもらい、ナザリック勢に加わる予定でした。ですが、10巻でイラスト公開されて以降、そのような展開のSSは結構あったので、それじゃ面白くないなと、逆に膿だらけにしてみました。

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