退廃の事象は過ぎ去った。
新たに生まれるは愚かな理想。
終着点は決まっている。
特異の存在は、力を掴む。
この運命の結末を見極めるために。
★
意識が覚醒する。
視界に映るのは真っ白な天井、消毒液の匂いが鼻腔を燻り、ここがどこなのかぼんやりとだが把握できた。
意識を失う直前の記憶は曖昧だが、立ってるのもやっとの激痛が全身を蝕んでいたはずだ。
しかし、今はそんな痛みは感じない。
まるでそんな痛み無かったかのようにすんなりと起き上がることができた。
ベッドから足を下ろして再度辺りを見回すと、ここは予想通り保健室のようだった。
外から聞こえる小鳥のさえずりは心が穏やかになり、今までの出来事は夢だったのではと考え始めるが、左手に刻まれた令呪が現実なのだと無情にも語っていた。
「ああ、よかった……!
目が覚めたのですね、主どの!」
聞き覚えのある声と共に、記憶に新しい人影が姿を現す。
肌の露出が激しいその鎧姿は、一度見れば忘れることはないだろう。
彼女は……そう、自分を
彼女のことを思い出すと、芋づる式に記憶が蘇ってきた。
記憶の整理をしていると、突然目の前の少女はこちらの手を両手で包み込む。
「ちょ……っ!」
「よかった、このまま目覚めなければどうしようかと……
何もできずにこの関係が終わってしまうのかと心配しておりました」
いきなり異性に手を握られたせいもあるが、前回同様出会って間もない自分をそこまで心配してくれる彼女に若干戸惑ってしまう。
「目覚めて間もない主どのには申し訳ないのですが、聖杯戦争の予選も終わり、記憶も戻られたかと思います」
「聖杯戦争?」
あの空間でも聞いた単語に首をかしげる。
「その名の通り、聖杯を求めて複数の魔術師が行う戦争のことです。
主どのも参加しているのでてっきりご存知なのだとばかり……
ずいぶんと寝ていましたので記憶のデータが開ききっていないんでしょうか?
せんえつながら私から説明をしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、助かるよ」
「承知しました。
ではまず、失礼ですが聖杯についてはご存知ですか?」
「それぐらいならなんとか」
キリストの血を受けた器。
アーサー王伝説などにも登場した、奇跡を叶えると言われる聖遺物だ。
「流石です。
先程申しました聖杯戦争というのは、文字通り聖杯を求めて魔術師が行う戦争のことです。
そして今回の聖杯戦争で奪い合う聖杯はここ、月に存在する、というより月そのもの。
人類の過去、現在、未来を観測して記録する演算装置であるムーンセルです。
その舞台となるのはムーンセルによって作られた電子虚構世界である『
主どのもその聖杯を求めてやってきた
「……………」
「どうかしましたか、主どの?」
「あ、いや、なんでもない」
ムーンセル、SE.RA.PH、ウィザード……
どれも自分の記憶にない言葉ばかりだ。
それなのに、不思議と彼女の説明は自分の中に何の抵抗もなく吸収される。
不思議な感覚に思わず眉をひそめてしまう。
「ごめん、気にせず続けて」
「では、聖杯戦争についてもう少し詳しく説明していきます。
聖杯戦争は規模の大きさに違いこそあれ世界各地で行われていて、各地域によって競い方が異なっています。
この聖杯戦争のルールは、マスター同士の一騎打ちにより決まりまるようです。
負けた者は参加証である令呪を奪われますので、実質敗者はこの聖杯戦争から脱落するというわけですね。
あとはそれを最後の一人になるまで繰り返していくというシンプルなものです」
「簡単ではなさそうだけどね……」
やはり、この聖杯戦争についても全く抵抗なく理解することができた。
この違和感の正体がわからないのは気持ち悪い。
ただ、今はそれよりも令呪という言葉に反応して視線を自分の左手に向けた。
「主どのはたしか、すでに令呪を一画使用しているのでしたね」
「ごめん、たった二回の切り札なのに」
「いえ、主どのが必要で利用したのであれば私から言うことはありません。
では、続けて他の説明を……」
その後もライダーはサーヴァント、ウィザードについての説明も事細やかに説明してくれた。
記憶が無いので自分がウィザードなのだと言われてもピンとこないが、そんなことも言っていられないだろう。
本戦に進んだ以上、すでに自分の意思に関係なく聖杯戦争は進んでいくのだ。
あとは自分が聖杯を手にする勝者となるか、はたまた名も無き敗者となるかの違いだ。
「以上で私からの説明は終わりましたが、どこかご不明な点などはございませんでしょうか?」
今のところわからなかった部分は無いし、あるならそれは自分の理解力不足によるものだろう。
気になる事といえば……
「君はどんな英霊なんだ?」
「私、ですか?」
キョトンとした様子でライダーは質問に質問を返す。
サーヴァントとはムーンセルに記憶された英雄。
つまり彼女も何かしらの英雄であるはずだ。
これから一緒に戦っていくわけなのだから、知っておいて損はないと思ったのだが……
「……………………」
急に彼女の表情が曇ってしまう。
何か変な事を言ってしまっただろうか?
「ごめん、なんか気に触るような事言った?」
「いえ、こちらの問題ですので気にしないでください。
ご無礼を承知で申しますが、主どのはまだマスターとしての自覚が曖昧なご様子。
今の状態で私の真名を明かせば、下手をすれば相手に漏れてしまうやもしれません。
戦というのは常に高度な情報戦が強いられますゆえ、今は真名を伏せさせていただきます。
ですので、今は私のことは今まで同様ライダーとお呼びください」
「……なるほど」
ライダーの言い分はもっともだ。
彼女の事を知れば戦いやすいと考えていたが、自分はそれ以前の問題なのかもしれない。
「あ、し、しかし……!
サーヴァントの何たるかは心得ていますので、何なりとお申し付けください。
このう……ライダーに出来ぬことはありませんから!」
今一瞬、真名言いかけた気がするが気のせいだろうか?
いや、今は考えなくてもいいだろう。
彼女の自信満々な姿は今の自分には心強い。
「えっと、自分の真名を伏せておいて何なのですが、主どののことを伺ってもよろしいでしょうか?」
「俺のこと……っ!」
突然頭の中にノイズが走る。
まるでデータの一部が文字化けして見えないような不思議な感覚だ。
「はい。やはり仕える主のことを知るというのは大切だと思いますので。
あ、どうしても私のことを知りたいのいうのなら……」
「いや、大丈夫だよ。
俺の名前は……」
…………………………………………あれ?
「主どの?」
「
記憶を掘り起こそうとして、先ほどのノイズの正体がはっきりとした。
この学校が偽りなのは、その違和感に気付いた時にわかっている。
では、自分は一体なんなのか?
偽りの役割を終え、本来の自分が明らかになったはずなのに、自分が誰なのか一向に思い出せない。
学生だったのか、それ以外だったのか、いやそれ以前に、
「変ですね、予選通過とともに記憶は変換されるはずです。
それに、確かに予選では一時的に記憶を失いますが、名前まで消えることはないはず。
一度、運営に尋ねてみたほうがよさそうですね」
「運営?」
「この聖杯戦争を円滑に行うために配置されたNPCのことです。
この保健室を担当しているNPCもその一人だったはずですので丁度いいですね」
そういうと、ライダーは姿を消した。
しかし、まだ自分の近くに存在している事は感じる。
なるほど、用の無い時はこうして姿を消すことができるのか。
敵に見られて、正体を悟られる用心かもしれない。
もっとも、英雄なんて普通は見た事無いわけだし、外見で正体がバレれるなんて考えにくいが。
ただ彼女に関して言えば姿を消していてくれたほうがありがたい。
あの装備は、さすがに目立つ……
そんなことを考えていたら突然カーテンが開かれ、少女がこちらを覗き込んできた。
仮初めのときの記憶が正しいのなら、彼女は間桐桜という名前だったはずだ。
視線が合うと桜は笑顔を浮かべ、さらにこちらへ歩み寄る。
「■■さん、目が――」
「えっ?」
彼女の第一声が不自然に歪む。
空間に変な圧力がかかったように感じるが、ほんの一瞬だったので気のせいかもしれない。
桜の方も眉をひそめているがその程度だ。
「すいません、変なノイズが……
よかったです」
「天、軒?
それがおれの名前なのか?」
「え、はい。
こちはではそう記録されていますが?」
不思議そうにこちらを見る桜に事情を説明する。
「え、記憶の返却に不備がある、ですか?
それは私には何とも。
記憶の返却は私の権限ではどうすることもできません」
「な……」
微かな希望はあっさりと砕かれてしまう。
一応彼女から説明を受けるが、この聖杯戦争には予選という期間があり、記憶を没収され、仮初めの人格を埋め込まれる。
期間内にそのことに気付いた者が、サーヴァントの代わりになる人形とともに特殊な空間に入る権限を与えられ、さらにその空間での試練を突破した者が本来の記憶と本戦へと進む権利を得ることができるようだ。
つまり、自分はその変換時にエラーが起きてしまったということだろうか。
唯一わかったのは、自分の名前が
その名前に抵抗が無いということは本当なのだろう。
「あ、それから此方を渡しておきますね」
NPCらしい、淡々とした様子で彼女は懐から携帯端末を渡す。
聖杯戦争中の連絡事項がこれでわかるようになるそうだ。
「最重要の個人情報の塊ですから、絶対に無くさないようにしてくださいね。
再配布は出来ますが、その前の端末の削除はできないですし、もし拾われでもしたら大変なことになりますよ?」
「わかった、気をつけるよ」
桜に見送られて保健室を後にする。
とはいえ行くあてもなく、行動範囲もこの校舎と敷地内に絞られている。
廊下をあてもなく歩きながら、手持ち無沙汰になったので端末を起動する。
ずらりと並ぶ項目に目を通し、その中にあるマトリクスという項目を発見した。
気になって選択してみると、サーヴァントのステータスなどが確認できる項目のようだった。
そこには自分のサーヴァントであるライダーも『ライダー』という形で記載されている。
おそらくこの項目を選択すればさらに詳しくわかるのだろうが、だとすると画面の幅的にもっと多くの名前が入りそうな気配がある。
『聖杯戦争で得た情報はこちらに記載していく形になります。
今の状態だと、私の情報もステータスぐらいしかわかりませんが……』
「それでも、桜の言ってた通りこの端末は個人情報の塊ってことか。
なら、ここで見るのはマズイかな」
「状況把握は立派だ」
「……っ!?」
いつの間にか背後を取られていたことに驚き身構える。
カソックを着こなしているから神父なのだろうが、彼が醸し出す冷たい威圧感は神父というイメージからかけ離れている。
「しかしまだ無防備すぎるな。精進したまえ。
まあ、勝ち抜くことができればだがね。
とはいえ、本戦出場おめでとう。これより君は、正式に聖杯戦争の参加者だ」
「……どうも」
こちらの癪に触ることを言うだけ言うが、最後に祝辞を言われたせいで反論するタイミングを失ってしまった。
こちらの表情を見て微かに口角を上げているところを見ると、明らかに確信犯だ。
それにこの声は、あの空間で聞いた声だ。
「私は言峰。
この聖杯戦争の監督役として機能しているNPCだ」
この人もNPC。
正直NPCと一般のマスターの違いなんてわかるのか不安になってきた。
言峰と名乗ったNPCは両手を広げる。
たったそれだけで、目の前の男性から感じる圧迫感が増した。
「今日この日より、君たち魔術師はこの先にあるアリーナという戦場で戦うことを宿命付けられた。
この戦いはトーナメント形式で行われる。
一回戦から七回戦まで勝ち進み、最終的に残った一人に聖杯が与えられる。
つまり、128人のマスターたちが毎週殺し合いを続けて最後に残った一人だけが聖杯に辿り着く。
非常にわかりやすいだろう?
どんな愚鈍な頭でも理解可能な、実にシンプルなシステムだ」
所々の発言が癪に触るが、それよりも無視できないキーワードに眉をひそめた。
「殺し合い?
ここは肉体のない電脳世界じゃないんですか?」
「……まあそれは時が来ればわかることだ」
一瞬何かを考える素振りをした言峰は、そう言って話題を切り替えた。
「戦いは一回戦毎に七日間で行われる。
各マスター達には1日から6日目までに、相手と戦う準備をする
君はこれから、6日間のモラトリアムで、相手を倒す算段を整えればいい。
そして最終日の7日目に相手マスターとの最終決戦が行われ、勝者は生き残り、敗者にはご退場いただく、という具合だ」
――『倒す』と『ご退場いただく』
先ほどより柔らかい言い方になったが、やはり先ほどの『殺し合い』という単語が気になって離れない。
それが比喩なのか事実なのか、おそらく目の前の神父は己が自分の目で確かめるまで口を破るつもりはないようだ。
それが肩透かしをしたこちらの表情を見るためか、はたまた絶望の表情を見るためかは想像の域を出ないが……
「何か聞きたい言があれば伝えよう。
最低限のルールを聞く権利は、等しく与えられるものだからな」
どうやら彼に設定されていた説明は以上のようだ。
聖杯戦争のルールはライダーから教わったものを合わせて大方把握した。
「じゃあ、対戦相手はいつ決まるんです?」
「それについては明朝発表となるだろう。
対戦相手については、校舎の二階の掲示板にて発表される。
掲示が完了次第、端末に連絡が入る仕組みだ。
また追々、端末にはトリガーが生成したという通信も入る。注意して待つがいい」
「トリガー?」
「最終日に決戦場に行くための鍵だ。
二つの階層からなるアリーナの深奥にそれぞれ一つずつ自分の分のトリガーが設置される。
6日間のモラトリアム中にこの二つトリガーを揃えなければ、そもそも決戦の場にいく権利すら与えられない。
……なに、それほど身構えなくてもいい。決戦に値するかを測る、簡単な
まだ説明すること残ってたじゃないか、と一瞬思ったが心の内に閉まっておこう。
これ以上関わろうとするとこちらの身がもたない。
「では最後にもう一つ。俺の記憶がまだ戻ってませんが、これはちゃんと返還されるんですか?」
「なに?
……少々待ちたまえ」
眉をひそめた言峰は自分の周囲に擬似的な端末を表示させ、何やら操作をし始めた。
しばらくして、神妙な面持ちのまま口を開く。
「記憶の返還はすべてのマスターに機能している。
システムの不備は認められない。となればおそらく、君は魂のデータ化をする際に何らかのトラブルに会い、記憶の欠損を招いたのだろう。」
ムーンセル側の不備ではなく、こちらの問題。
何が悪かったのか、それすらもわからない状態ということは記憶が戻るのは絶望的だということか。
「何にせよ、途中退場が認められていない以上、現在のまま闘争に挑むしかあるまい」
覚悟はしていたつもりだが、他人から現実を突きつけられるとやはり動揺は隠せない。
今はいいかもしれないが、戦う理由も目的もなく、ただ流されるままの自分に、この聖杯戦争を勝ち抜けるのか、と。
『ご心配なさらず。
主どのの心配事はこのライダーが全て払いのけてみせましょう!』
ライダーの励ましが脳に直接聞こえる。
その言葉は彼女の自信に溢れた姿が目に浮かぶようで、少しばかり肩の力を抜くことができた。
少々自信家な部分はあるが、右も左もわからない自分には非常にありがたい。
彼女の言う通り、今はこのままでも進むしか無い。
問題の先延ばしでしかないのかもしれないが、立ち止まることだけは避けるべきだ。
「それから、最後にもう一つ、本戦に勝ち進んだマスターには、個室が与えられる。
君が予選を過ごしたクラスの隣、2-Bが入り口となっているので、この認証コードを携帯端末にインストールしてかざしてみるといい」
言いながら、言峰はこちらの端末にデータを送信してきた。
「さて、これ以上長話をしても仕方あるまい。
すでにモラトリアムは始まっている。
今日のところはマイルームで休むもよし、アリーナの空気に慣れておくのもよし。有意義に使いたまえ。
アリーナの入り口は予選の際、君も通ったあの扉だ。
では、健闘を祈る。
私に用があるときは協会に来たまえ。
まあ、常にそこにいるとは限らないが」
こちらからの質問を一方的に打ち切り、言峰は会話を終了させた。
言峰に見送られ、その場を後にする。
今後の相談も兼ねて、ひとまず個室に向かうことにしよう。