上がったら後は落ちるものだとばっちゃが言ってた
そうして男に案内されたのはZ市の閑静な住宅街に建ち並ぶアパートメントの一角だった。
一人暮らしらしい。質素な部屋は最低限の生活用品しか置かれておらず、テーブルには空のコンビニ弁当やら割り箸が無造作に放置されていた。
「あ、そこ座っててくれ。今お茶出すから」
「え? あ、どうも……」
言われて俺は座蒲団の上に腰掛ける。しばらくして目の前のテーブルに置かれた湯飲みに注がれた緑茶はほかほかと湯気を立ち上らせていた。
それを一口飲んでからほぅ、と息を吐く。慣れ親しんだ日本茶の味に心なしか先ほどまでの憂鬱な気分も和らいだ。
落ち着いて気を抜くと男はおもむろに引き出しから無地のシャツと短パンを取り出して俺に向かって放った。
「とりあえずこれでも着てろ、真っ裸よりマシだろ」
「おぉ……ありがとうございます」
恐縮しつついそいそと着替える。なんかさっきからこの人に助けて貰い過ぎな気がしてならない。普通なら裏があるのかと勘繰ってしまうところだが、目の前の男は押し付けがましくなく、むしろ助けて当然とばかり、あまりにも自然にそれらの行動を行うので刹那には俺は自らの邪推を圧し殺していた。
「俺は趣味でヒーローをやってるサイタマという者だ」
男――サイタマというらしい。彼は俺に対面するように腰を下ろすと、そのどこか間の抜けたぬぼーとした顔をこちらに向けた。
「ああ、俺は――」
相手から自己紹介されたので礼儀としてこちらも名乗る。口を開いて自分の名を言葉にしようとしたところで、
「――あれ?」
俺は最大級の衝撃に見舞われた。
名前、そう名前だ……。俺の名前、名前って――何だっけ?
ぽっかり、記憶に巨大な穴が開いたような喪失感を感じ、同時に俺は焦燥した。
今ある自分の記憶の引き出しを出来る限り引っ掻き回す。
自分の性別、年齢、家族、職業。
その他は思い出せるのに自分の名前だけが思い出せなかった。
そうして自覚ある分だけまだいい。
――無自覚の中で、俺は何かとても大切なことを忘れてしまってはいないか。忘れたということさえも忘れてしまって。
ふとそんな結論を抱き、全身のうぶ毛が粟立つような恐怖を感じた俺は思わず身を震わせて口元を抑えた。
「――もしかして、お前自分の名前わかんねぇのか?」
いつしかまた、サイタマは纏う雰囲気を真剣なものに変化させ、そう問いかけてきた。
俺が言葉なく無言で頷くとしばらくしてぽんと俺の頭に手を置かれた。
「あー、……俺、専門家じゃねぇからそういうのよくわかんねぇけど……。あんま、思い悩むなよ」
ぽろりと、涙が溢れた。
抑えきれない激情の嵐が俺の心中に渦巻き、一筋の滴となって俺の頬を流れた。
ふと、脳裏に白いローブを纏った老人の姿が写しだされる。俺をこんな姿にした元凶。
きっと、恐らく、必ず、俺の記憶を奪ったのも奴の仕業だ。
それはある種の予感でありながら確信だった。今の俺の姿を見て嘲笑う奴の姿がありありと脳裏に浮かび上がった。
絶え間無く涙を溢れ落とす俺を見て、その間サイタマはずっと黙って俺の頭を撫でていた。
静かに、優しく。
それは俺が泣き疲れて眠るまで続いていた。
* * *
時が経つのは早いもので、俺がサイタマの家の居候になってから既に一週間が過ぎようとしていた。
早朝、ぱしゃぱしゃと顔を水洗いしてタオルで拭う。ふと視界の照準を洗面台の鏡に移すとそこにはこの世のものとは思えない美貌を持った少女が俺を見返してきた。
きめ細かい銀髪はまるで髪の毛一本一本が高級な絹糸のようにさらりと靡き光を振り撒いている。艶やかな曲線を描く身体は粉雪のように酷く白く、そして華奢だ。
全体的に精緻で巧妙な人形細工と言われて納得してしまうほど整った容姿に、真っ赤な緋色の瞳が一際異彩を放って光輝いている。
しかし慣れとは怖いもので、最初の方はそんな自身の容姿に戸惑ったが二、三日もすると自然に馴染んでしまっていた。今ではこの身体で殆ど違和感なく日常を過ごせるようになっている。
「おいサイタマ。起きろ、ご飯できたぞ」
「……んぁ? アカメか……」
未だ寝ぼけ眼の家主はのっそりと布団から起き上がった。
ちなみにアカメ、というのは俺の新しい名前だ。
何か色々斬りそうな名前だが、命名はサイタマで、理由は赤い眼をしてるから、である。いくらなんでも安直すぎんだろ……。
まぁ、他に大した候補も挙がらず俺も名前に大した拘りもなかったので決定したが、いつまでも「おい」とか「お前」とかで呼ばれるよりはマシだと思っている。
「今日の朝メシはー?」
「パンとベーコンとスクランブルエッグだ」
「おっ、うまそう」
食べ物の匂いに覚醒したらしいサイタマがテーブルの前に座ると俺も対面して腰掛けた。手を合わせ、いただきますをしてから料理に箸を伸ばす。
ちなみにここに来てからというもの炊事、掃除等は俺の役割になった。だってこいつ全然料理しないし、掃除もしないんだもん。
最初の方は俺みたいな子供――ただし中身は立派な大人だが――に料理をさせるというのに難色を示していたサイタマだったが、俺の料理の腕を知ってからは何も言わなくなった。自炊生活十年以上の俺の料理の腕はもはやプロのレベルに片足を突っ込んでると言っても過言ではないのだ。
そんなこんなで食事を終え、食器を片しているとサイタマは自分の財布から一万円を取り出してテーブルの前に置いた。
「お前、いつまでもそんな服装じゃ駄目なんじゃないか? これでなんか好きな服でも買ってこいよ」
そう指摘され俺は自身の服を見直す。
ブカブカの上下ジャージに下着は男物のトランクス。以上。
俺は肩をすくめた。
「別にこれでいいじゃん」
「いや、駄目だろ! てかそのジャージ俺のだから!」
間髪入れずサイタマに指摘され俺は思わず仰け反った。ううむ、しかし。
「面倒くさいんだよなぁ……」
思わずぽつりと漏れた俺の呟きに、サイタマは珍しく飽きれ果てたような表情をすると嘆息を吐いて首を横に振った。
「お前……まるでおっさんだな。手がかからないのはいいけどさ、女としてそれでいいのかよ……」
こうして今日の俺のお昼の予定は半ば強制的に決定させられたのだった。
――まぁ、手近なところでB市にレまむらとウニクロがあったし、そこで適当に見繕えばいいか。
そんな風に考えて俺は手渡された一万円札を握りしめたのだった。
B市……あっ(察し)