大学とは別名を最高学府と言い、最も程度の高い学問を学ぶ学校のことを指す。
ではその大学校に通う大学生は日夜勉学に励み、高度な知識を得ているのかと言うとそれはまた答えに難しい。
当然大学生と一括りに言えどもその性質は多岐にわたるもので、大きく言えば文系と理系に別れるし、もっと言えば『楽な方』と『厳しい方』と言い換えてしまってもいいかもしれない。
もちろん一概に言い切ることは出来ないが、通常理系の学部は実験やら実習やら製図やらと勉強に割かなければならない時間が文系学部のそれに比べて非常に長い。
実はこれらの違いは、勉強時間に対する法律による解釈規定があるのだが……それに関しては長くなってしまうので割愛しよう。
まあ身も蓋もない言い方をしてしまえば文系学部がクッソ暇なのに対して、理系学部は忙しいというのが定説なのだ。
では俺がそのどちらに属しているのかというと、これは前者の暇な方――文系学部であり、その中でも経済を学ぶ学部に所属している。
ちなみにここは非常に時間の融通が利きやすいというか、自由に過ごしやすいというか。
……まあ、ここまで言えば察してもらえると思うが、暇なのである。ご多分に漏れず。
しかしながらそんな環境であっても最低限、単位を取る程度には講義には行かなければならないわけで。
つまり本日、俺はというと、非常にいやいやながらも大学に顔を出していたのだ。
「ただいまー」
「あっ。おかえりなさい、三森さん!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる宮藤は拭き掃除でもしていたのだろうか、手に雑巾を握っている。
掃除無精の俺とは大違いで、宮藤は毎日のように家の中を隈なく綺麗にしてくれていた。
冗談半分に窓のサッシを指でぬぐってみても指先には埃1つとして付かず、これなら嫁姑問題も起きないのではないだろうかと言うレベルだ。
いや、うちの母親は嫁いびりをするようなタマじゃないけど。
俺は何を考えてるんだろう。
「あれ? 顔がちょっと赤いですけど大丈夫ですか?」
「なんでもない。それより、そんなにしっかり掃除しなくてもいいのに」
「いえいえ、やっぱりお家は綺麗にしないといけませんから!」
「……宮藤は凄いな」
俺にしたった水回りに関しては毎日掃除しているし、掃除機だって週に二度三度はかけている。
決して掃除好きと言うわけではないにしても、同世代の中で平均程度にはこなしているつもりなんだけど。
賞賛のつもりで褒めると、宮藤は頬を緩めて微笑んだ。
「それを言うなら、三森さんだって凄いですよ。大学生なんですから」
じっと見つめる先には、俺が持っていた通学用のトートバッグ。
大きめのそれにはテキスト――は入っていないのだが、専門書や文庫本。それに加え、筆記用具なんかが乱雑に押し込まれている。
「そんな大したもんじゃないよ」
「でも皇国大学なんですよね? やっぱり凄いです」
「帝国だって。それに、今は旧が付くよ」
宮藤の時代で言う大学と、現代のそれでは意味するところがかなり違っている。
1949年に行われた学制改革以前――つまり宮藤のいた昭和前期は現代で言うところの中学校を卒業して働きに出るのが一般的であり、高等学校や師範学校へと進学するのは富裕層やエリート層に限られていた。
さらにその上の大学予科、そして大学に進学するのはほんの一握りである。
その当時と、大学への進学率が5割を越えようかとする現代とでは、進学に対するそれを同様に捉えることはできないだろう。
まあ、宮藤の世界とは辿ってきた系譜が違うので同一視は出来ないが。
……ということは、何回か宮藤にも教えているのだが。
なにせ俺が下手に宮藤の時代から存在する大学に通っているものだから、どうもその辺りの理解がし難いらしい。
「しかし、俺が大学生って初めて聞いた時の宮藤は面白かったよな」
「し、仕方ないじゃないですかっ。あんまり驚いちゃったから……」
「けど、学生じゃなかったら俺のことはなんだと思ってたの」
「それは……高等遊民とかですかね」
「誰が
夏目漱石か。
俺の言葉に笑みをこぼす宮藤だったが、しかし思い返したように表情を変えた。
「でも三森さん……その、大丈夫なんですか?」
「え、なにが?」
「その大学です。……あんまり通ってないみたいですけど」
不安そうに俺を見上げる宮藤にはさて、なんと答えたものか。
大丈夫か――という問いには、一言大丈夫だと答えればそれで済む。
しかしそれで納得できるかは、また別の問題だ。
なんと答えたものかと言いあぐねる俺を前に、宮藤はハッと気づいたように口に手を当てた。
顔を赤らめて申し訳なさそうに、それでいてどこか期待するように俺を見上げる。
「も、もしかして、わたしの為ですか?」
「えっ」
「その……わたしが家にいるから、気になってあまり出かけられない……とか?」
「いや違うけど」
「えっ」
「普通にめんどくさくて、大学行くのが」
思わず口にしてしまった素直な返答は、宮藤には面白くなかったらしい。
拗ねたようにとがらせた口でそっぽを向かれてしまった。
おーい、と声を掛けてみるも聞こえていないようにぷいっと目をそらされる。
そもそも宮藤が来る以前は真面目に大学に通っていたとうわけでもないので、俺としてはただ変わりない生活を送っているに過ぎないというのに。
……とはいえ。
「……べつに、心配してないとは言ってないだろ」
ぼそっと。
聞こえない大きさで、言ったつもりだったのだが。
「……え、えへへ。そ、そうなんですか?」
地獄耳というか犬耳というか、宮藤耳には届いていたようだ。
先ほどの不満そうな顔から一転、にへらとした緩めきった笑顔を浮かべている。
そんな彼女に俺は言葉を続ける。
「それに、大学って期末の試験で点数さえ取ればなんとかなるんだよ。だから宮藤が心配しなくても大丈夫だって」
これは本当のことだ。
一概にすべての講義がそうであるわけではないのだが、わざわざ説明することもない。
大学とはそれ以前の学校、つまり中学高校に比べると非常に幅広く行動の自由が許されている。
これはつまり、自己責任の範囲内であれば好きなように勉強しても、遊びほうけてもいい――と言うように俺は解釈している。
いやまあ実際のところは大学生は勉強するべきなんだろうけど、理想と現実は得てしてかけ離れているものだ。
そんな打算と願望に満ちた俺の言葉に、あまり納得してないような様子の宮藤。
「まあ、三森さんが大丈夫だって言うならいいんですけど……」
「大体、宮藤は気を遣いすぎなんだって」
「そ、そうですか? わたしとしては、お世話になりすぎてるつもりなんですけど……」
「もっと楽にしていいよ。俺だって、家のことをやってもらって助かってるんだからさ」
むしろ想定以上に働いてもらってるとさえ言える。
毎日3食バランスの取れた美味しい食事を用意してもらって、隅々まで行き渡った掃除と洗濯もしてもらえている。
給料ぐらい払った方がいいんじゃないかと思うぐらいだ。
「……ていうかむしろ、毎日しっかり家事しすぎだ」
「そ、そんなことないですよ? 基地でもこれぐらいはしてましたし、合間には訓練もしてましたから」
「前も聞いたけど、軍人ってそんなに家事とかするんだな。……まあいいや。ほら、今日は俺が茶でも淹れてやるから座ってな」
「ええっ、私がやりますよ?」
「いいって……でも、そうだな。鞄の中に買ってきた菓子があるから、それだけ出しといてくれ」
それだけ言って俺は宮藤に背を向ける。
なんというか、見た目が女子中学生にしか見えない宮藤にあれやこれやと世話を焼かせ
る自分がダメ人間に思えて仕方がなかった。
それも飯炊きをするのも掃除をするのも楽しそうにするものだから、いいように使っているみたいで罪悪感がわくのだ。
……いや、そうするように頼んだのは自分なんだけど。
「ほら、茶が入ったぞー」
「あ、ありがとうございますっ」
湯のみに淹れた煎茶をすすって一息つく。
さらに、今しがた買ってきたばかりのお茶請け――ただの市販の羊羹だが――を一口かじる。
甘みが強いそれを、わざと渋めに淹れた茶で流し込むのが俺の何よりの楽しみだった。
俺と同じく小包の羊羹を手に取った宮藤に、ふとした疑問を尋ねてみる。
「そういえば、宮藤って羊羹とか作れたりする?」
「羊羹ですか? お芋とか、南瓜があれば、作れ、ますけどっ……!」
「……固そうやね」
ぐぐっ、と本人は渾身の力で包装を剥がそうとしているらしいが一向に埒があかない。
俺が寄越すように言うと、宮藤は照れくさそうに笑った。
そんなに固いか、これ? と思ったものの。
「……固ったいなー」
先ほどのそれと違い、開封に苦戦する俺を心配そうに宮藤が見る。
これはメーカーの不祥事ですわ。
「だ、大丈夫ですか? はさみ持ってきます?」
「いや、いけるいける。ほら、あいたぜ……って」
さて。
今俺が摘んでいるこの羊羹はというと、小さめのものが個別包装されているタイプのそれだ。
そんな小袋があきにくいと、思いきり力を入れて包装を破ろうとしたらどうなるかと言えば。
……そう、勢いあまって中身が飛び出るだろう。
つまり若干の粘性がある練り羊羹は、ビニールが破れた勢いのまま外に飛び出そうとして――
「はむっ」
――それの動きを注視していた宮藤が食い止めた、口で。まさに文字通り。
口に羊羹を咥えたままの宮藤が、こちらを上目遣いに見上げてくる。
その顔には何故か得意げな表情を浮かべていて……なんというか。
実家にいる、ボールを咥えて持ってきた時の犬と同じ表情をしている気がする。
「……えらいえらい」
投げやりに褒めてやると、嬉しそうに目を細める宮藤はもうほとんど犬だった。
もしかしてあれか。
うちの犬が擬人化したりしたのがこいつだったりするのか。
「宮藤の両親って人間? 半分ぐらい犬の血が混ざってたりしない?」
「ま、混ざってませんよ! どういう意味ですか!」
「じゃあ先祖返りかなあ」
「……お、お爺ちゃんもお婆ちゃんも人間です! ずっと人間です!」
「はっはっは」
「なんで笑ってるんですかっ」
しかしなんでこう、ちょくちょく犬っぽいんだろうかこいつは。
思わずからかってしまうと、へそを曲げてしまった宮藤が頬をふくらませる。
「むう……三森さんって、時々意地悪ですよね」
「ごめんって。宮藤はからかい甲斐があるからさ」
「からかわれるこっちの身にもなってくださいよっ」
「なんだか癖になっちゃって」
「……最初に会った時は、真面目そうな人だって思ってたのに」
「真面目……ではないかなあ」
主に学業面とか。
しかし、宮藤が俺にそんな印象を抱いていたとは意外だったな。
疑問に思っていたことが表情に出ていたのか、宮藤は小さく笑みをこぼした。
「なんだか三森さんって、ちょっとだけバルクホルンさんに似てるんですよ。えっと、前にお話しましたっけ」
「ああ、確か芋好きのカールスラント軍人だっけ」
ちなみにカールスラントとはこちらで言うところのドイツを指すらしい。
カール大帝となにか関係でもあるのだろうか。
「バルクホルンさんも、はじめて会った時は真面目で厳しくて……ちょっとだけ怖かったんですけど」
「え、俺も怖かったの」
「えへへ。でも今はわたしのことを考えてくれてて、すっごく優しい人でもあるんだなって思います」
「ふーん……バルクホルンさんってのはいい人だったんだな」
ゲルトルート・バルクホルン。
宮藤からの伝え聞きでは、俺と同い年の空軍大尉らしい。
あれ、大尉ってこんな年齢でなれるもんだっけ……?
「――そうしたらバルクホルンさんが『何を騒いでいるんだ!』なんて怒鳴りながら出てきてですね……」
「こえーよバルクホルンさん」
「ふふっ。でも、妹さんの話をしてる時はすっごく優しそうな顔なんですよ?」
バルクホルン氏の軍人らしい振る舞いに顔を引きつらせる俺に、宮藤は当時のことを思い出すように目を閉じて微笑む。
彼女の妹はクリスティアーネ・バルクホルンと言う名前で随分姉には可愛がられているらしい。
それも、少しばかり宮藤に似ているんだとか。
「でも『宮藤よりクリスの方がずっと美人だ!』なんて大声で言うんですよ?
ちょっと酷いですよねっ」
「はっはっは」
「だからなんで笑ってるんですか!」
そして不機嫌そうに頬をふくらませる。
忙しい奴だ。
「まあまあ。宮藤は美人ってよりは可愛い方だもんな」
「……そ、そうですかね? えへへ」
「ちょろい」
「え? なにか言いました?」
なんでも、と言って茶をすする。
褒められた宮藤は嬉しそうに染めた頬に手を当てて喜んでいる。
とはいえ、まだ幼いながらも整った顔立ちをしている宮藤のことだ。
いずれは美少女から美人と呼ばれるような女性になるのだろう。
「前から思ってたけど、宮藤のとこの基地ってその……変わった人が多いよな」
「そうですかねぇ。いい人は多かったんですけど」
俺のオブラートに包みまくった言葉に、宮藤は実感がなさそうに首をひねった。
いやいや不思議そうな顔してるけど間違いなく変な人ばっかりだからね、君のとこ。
「仮に俺がその面々に会ってもやっていける気がしないからね」
「ええー、いい人ばっかりですよ? みんなとも気が合うと思うけどなあ」
「無理無理。怖すぎて部屋に引きこもるわ」
「そこまでですか」
いやだって、狼みたいな隊長と独眼竜の戦闘隊長がツートップなんでしょ。
恐怖で死ぬわ。
「確かにちょっと個性の強い人は多いですけど、サーニャちゃんとかリーネちゃんなんかはむしろわたしより大人しいぐらいなんですけどね」
「……まあ、宮藤も別に大人しい方ではないけど」
「ど、どういう意味ですか」
「そりゃまあ……ねえ?」
むー、と納得いかなさそうにうなり声を上げる宮藤に笑いながら腰を上げる。
宮藤をからかって気も休まったことだし、そろそろ今日大学に行った理由に触れよう。
俺はカバンの中に突っ込んでいたそれを取り出し、机に並べていく。
「これは……本、ですか?」
「うん、漫画本って聞いたことあるかな?」
机に並べられるのは新旧に渡る漫画本の数々で、過去に名作と名高いものを中心に集めてみた。
大学の近辺というのは得てして古本屋が多いものだ。
基本的には中古の教科書なんかを取り扱うが、これらのように漫画や小説なんかを売っている店もあるのだ。
予想通り、初めて見るような目でしげしげとそれらの本を見つめる宮藤。
「ほら、今日みたいに俺が家を離れることもあるだろうからさ。その時に宮藤の暇つぶしになるようなものをって思って買ってきたんだ」
「わたしにですか?」
「そうだよ。今日だって宮藤、俺がいない間に家事以外のことはなにかしたか?」
「そ、それは……」
戸惑っているところを見ると、やはりか。
真面目なのはいいことだが気を張りすぎるのもよくないというのに。
「……どうせ『お世話になってるから家のことぐらいちゃんとしないと』……なんて考えてるんじゃないのか?」
「うっ」
「それはありがたいけどさ。やっぱり人間、娯楽がなくちゃ生きていけないって」
「そ、それは……そうかも、しれませんけど」
そう長くもない付き合いだが宮藤のことはそれなりに分かってきたつもりだ。
こいつは基本的に義理堅く、誠意と滅私奉公の気概を持っている。
しかしその一方で恩に報いようと無理をしてしまうきらいがあり、そこは周りが抑えてやらないといけない。
そうでなければいつかどこかで無理が祟ってしまうかもしれない。
きっと宮藤のいた部隊では恵まれた上司や同僚に助けられながらやってきたのだろう。
しかしここに、その彼らはいない。
「それに、日本の漫画文化って凄いんだぜ。俺だって宮藤ぐらいのころはよく読んでたからな。……ていうか、今でも読むけど」
「三森さんもこれを読んでたんですか?」
「ああ、実家の方に置いてきちゃったからこの家にはないけどな」
「そうなんですか……それなら、わたしも見てみようかな」
「うん、それがいい。ま、最初はとっつきにくいかもしれないけどね」
確か、漫画の文化が生まれたのは「のらくろ」からだったか。
あれが戦前から戦後にかけての頃に連載され、その後に手塚御大が漫画を文化として練り上げ、日本中に広がっていった……という流れだったと思う。
では目の前に座っている宮藤はというと、これまで漫画という文化に触れたこともなさそうな顔で漫画本を見つめている。
であれば、コマ割りという独特の表現方法の理解には少し手間取るかもしれない。
そんな俺の心配の声に、宮藤は力強く頷いた。
「大丈夫です! わたし、頑張ってこの漫画本を読みますから!」
「いやだから頑張らなくていいんだって……」
本当に大丈夫かよ……と思ったものの、そんな宮藤の口元は笑っていた。
なら、まあいいか。