宮藤さんが部屋にいる   作:まるの

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宮藤さんと動物園

 皿に乗ったぼた餅を一掴みし、口に頬張る。

 口どけがよく、甘すぎない餡子は実に俺好みだ。そんな餡に包まれているもち米は丁寧にすりこ木で潰されているも、ところどころに米の原型を残している。粘り気のある米とすっきりした味わいの餡を口に含んだところで、目の前に置かれた湯のみを手に取る。

 甘すぎないぼた餅に合わせたのか、渋みの薄い煎茶だ。

一口含み、そのまま一気にぐいっと呷った。

 

「うん。このぼた餅、すっごく美味しいよ。さすが宮藤さんだぜ」

 

 素直に思った言葉を口にすると、目の前の少女は照れたように頬を緩めた。

 

「よかったぁ。三森さん、和菓子がお好きだっていうから頑張りました!」

 

 そう。実を言うと、この眼前にあるぼた餅は宮藤手作りのものである。

 昨晩に茹でていたあずきを今朝まで馴染ませていた彼女は、あずきに味付けし餡子を作った。加えてもち米を炊き、すりこ木を用いて巧みにそれを潰すと、まるでおにぎりでも握るかのようにぼた餅を作り上げた。

 ちなみにこの行動は、テレビに流れる和菓子屋のCMを見ていた俺の「ぼた餅いいやん。食べたいな―」という言葉に「じゃあ、わたしが作りましょうか?」と宮藤が応えた結果である。なんともまあ、家庭的と言ってよいのか。

 

「いや、ぼた餅を作ってもらったのは初めてだけど上手に出来るもんだね。もしかして

宮藤、和菓子屋の娘だったりする?」

「あはは、実家は診療所ですよぉ」

 

 しかしまあ、宮藤の調理スキルの高さには驚かされっぱなしである。

 ここのところ3食すべてを宮藤に任せているが肉、魚、野菜、きのこ……その他、食材という食材を高いレベルで無駄なく調理してくれる。

 その殆どは扶桑料理……いわゆる和食であるが、レシピさえ示してみれば洋食や中華なども問題なく調理できる上に、慣れない手つきではあっても最終的には小器用に仕上げてしまう。

 ちなみに昨晩の夕食は肉じゃがと春菊の胡麻和え、そして豆腐とわかめの味噌汁であった。なお豆腐は手作りである。

 

「……宮藤って15歳だったよね?」

「え? はい、そうですけど」

 

 どうしました? と訪ねてくる顔はまだあどけなさの抜け切らない、少女の面立ちである。その年齢にしては低い身長も相まって、少しませた小学生にすら見られてもおかしくはないかもしれない。

 そんな年の少女がこれほど卓越した調理技術を会得しているとは、恐ろしきは昭和の女徳教育と言うべきか。

 

「いやしかし、これだけ料理が出来たら大したもんだよ。俺が15歳のころは肉じゃが一つ満足に作れなかったし」

「三森さんは男の人じゃないですか。料理は出来なくてもいいんじゃ?」

「今はそういう時代じゃないんだよ……」

 

 はてな顔を浮かべる宮藤だが残念なことに、こと料理に関しては時代の変化が激しい。

 食事は女が作るものという思想が強い時代と、『男子厨房に入るべからず』が最早死語どころではない古語にまでなりかけている現代とでは料理に対する性別の垣根というのが崩れだしているのだ。

 もちろんそういった思想も根太く残ってはいるものの、全体の流れとしては『男も料理は覚えましょう』という風潮が世間には広まっているのだ。

 

「へえー……なんだか大変なんですねえ」

 宮藤は俺の言葉に一つ頷くと、自分もぼた餅を一つ咥えた。

 最近気づいたがこいつは意外に淡白である。

 一口飲み込むと、少し驚いたように目を見開く。

 

「あ、美味しい。これはお米がよかったのかな? それに、あずきも」

「米の品種改良は日本のお家芸だからね。昔に比べたら味は格段に上がってるはずだよ」

 

 なにせ日本米は国宝とまで称する言葉があるほどだ。

 変わりつつある日本人の食生活だが、美味い米を食べたいというこだわりはこの70年程度で変わるはずもなかった。

 なるべく味のいい米、強く育つ米を作ろうとして米の品種改良は日夜行われているのだ。

 まあそうは言っても家に常備してある米は5キロ2,000円程度の大して高くもないものだし、今度買ってきたもち米も1.4キロで700円とスーパーマーケットに置いてあった中で一番廉価なものではあったけれど。 

 

「あれ、三森さん。そこ」

「え、なに?」

 

 ふと気がついたように、宮藤が俺を見て声を上げる。

 と、いうより俺の口元を見て。

「え、ちょ……」

 なんだ、と声を上げる間もなく宮藤の小さな人差し指が俺の顔に迫ってくる。

 座ったままの俺はどうすることも出来ないが、反射的に身体を反らせようと――したところで、宮藤の左手が俺の肩を掴んだ。

 思ったよりも強い力のそれは、俺から身をよじることさえ出来なくさせた。

 宮藤はそのまま俺の口の真横あたりに指を当てると、つうっと唇を撫で上げた。

 

「ほら、餡子。ついてましたよ?」

 

 さっと俺の目の前に突きつけた指は黒く染まっていて、なるほど確かに俺の口に付いていたんだなと思わせる。それに気づいた宮藤が気になってしまうのはわかるし、気づいた以上は俺に教えようとするのもわかるが……どっと疲れた。

 わずかに早く波打っている心臓を押さえながら、自身とは逆に平然とした様子の宮藤が不思議そうな表情でこちらを見つめていることに気づく。

 手についた餡子を舐めながら「どうしたんですか?」なんて何となしに尋ねる様子は、焦っている俺を前にしてなんとも思っていないような面構えだ。

 そんな調子を見て落ち着きを取り戻した俺は、

 

「いや、この格好って結構恥ずかしいからさ。その……手をどけてくれると助かるんだけど」

 まるで押し倒される寸前だ。

「え? ……あっ」

 

 直感的に「あ、失敗したわこれ」と思った。

 宮藤はまず俺の肩を抑える左手に目を向けて、そのあと今しがた舐めたばかりの自分の右人差し指に視線を移した。

 そして最後に俺の唇に目を向けた後――頬を真っ赤にさせて、身体を跳ね上げた。

 

「み、みやふじ?」

「……あ、あの、ご、ごめんなさいっ! わたしその、ぼーっとしてたっていうか……! 手が勝手に動いたんです!」

 

 痴漢の言い訳かよ。

 先ほどの俺と同様、いやそれ以上に動揺した様子の宮藤が顔を耳まで染める。そんな赤面した顔を両手で覆うが、赤くなってしまった耳までは隠せていない。視界を隠すように塞いだ両の手の間から、恐る恐るこちらの様子を窺っている。

 なるほど。気にしていなかったんじゃなくて、無意識に行動していただけだったのか。それで自分の行動を自覚した途端に恥ずかしくなったと。

 

「その……怒って、ます?」

「ないない、そんなの。押さえつけられた時はちょっとどきどきしたけど」

 

 おずおずと視線を向ける宮藤に、笑って手を振る。

 なにせ、動けないようにされて唇をなでられた経験はこれが初めてだ。

 なるべく気にしないようにと伝えるが、宮藤は「はぅ……」と身体をすくめて丸くなってしまう。

 しかしまあ、なんというか少女漫画のような状況だ。……あの手の漫画では男女の立場が逆な気がするけど。芋けんぴ取っちゃったりとか。

 なおこの立場が逆なら、つまり俺が宮藤を押さえつけようものならその時点で事案である。そう考えるとこの状況は完全にセーフだ。セーフか?

 

 

「うぅ、まだ顔が熱いです……」

「少しは落ち着いた?」

 

 しばらくして息を整えたのか、まだ頬に赤みを残しながらもようやく顔を上げた宮藤。

まあ飲めよ、と言いながら俺は茶を一杯入れてやった。

 

「……恥ずかしくて顔から火が出そうです」

 

 そしてそれを誤魔化すように、宮藤は目の前に置かれた湯のみを手に取るとその中身を勢い良く飲み干す。

 ふう、と一息ついた宮藤はようやく冷静さを取り戻したようで、元いたクッションに座り直した。

 

「だいたい、なんで三森さんはそんなに平然としてるんですかっ」

 

 顔の赤みが治まったかと思えば、宮藤はこちらを向いて不満気に頬を膨らませた。

 八つ当たりにしか見えない。

 

「いやそんなこと言われても……」

 

 ふくれっ面を浮かべてこちらをじと目で睨む宮藤。

 なにが気に触ったのか随分と機嫌の悪そうな様子に、思わず言葉が詰まる。

 ちなみに言うと俺は自分以上に焦っている宮藤の様子を見て、逆に落ち着きを取り戻すことが出来たというだけだ。あるよねそういうこと。

 

「むー」

「ほら、機嫌直しなって。面白そうなテレビやってるぜ。カラーテレビジョンだ

ぞー?」

 

 納得いかなそうに口をとがらせる宮藤の機嫌を伺いながら俺はテレビリモコンを操作した。ちょうど始まったばかりのバラエティ番組が明るい音楽とともに流れだす。

 当然のことではあるが、宮藤のいた時代にテレビ放送なんてものは存在しない。いや正確に言えば放送実験などは行われていたのだが、庶民の手に触れることはなかったというのが正しいか。

 なお国産テレビ第一号として発売されたのは1953年の某S社の製品が日本初であるが、その価格は17.5万円である。当時の米価が10kg680円と言えばその高価さが伝わるだろうか。

 当時はというと映像作品は名画座などで見られるモノクロ映画、しかも音声もサイレント映画からトーキーにようやく移り始めたかという時分である。そんな時代であるから宮藤はこのテレビ放送で、鮮明なカラー映像が自宅で簡単に見られることには大層驚いていたものだ。

 とはいえ人間は慣れる生き物であり、そういうものだと理解してからの宮藤の適応力は大したものであった。今では拙いながらも自分でテレビリモコンを操作し、好みの番組を探す程度のことは出来るようになっている。

 ちなみに言うと、宮藤の好みは料理番組と動物番組である。

「ほら、今回は動物園の特集だって」

 見れば、そこそこ有名な芸人が動物園の入り口の前でカメラに映されていた。その横には最近売り出し中の子役タレントが立っていて、2人で連れ合いながら中に入ろうとしているところだった。

 園内ではさまざまな動物が飼育されていて、番組内ではその動物たちを順に紹介していていく。

 時に檻の中に入ってゾウに餌を与えたり、芸をするアシカの姿などについつい俺も見入ってしまう。

 たっぷり小1時間と動物の映像を眺めたところでそのコーナーは終わり、映像はスタジオに戻された。

 さて、と宮藤の様子を見ると実にキラキラした眼でテレビ映像に食い入っていた。

 

「ふわぁ……可愛かったですねっ!」

「せやな」

 

 ちょろい。実にちょろい。

 機嫌を悪くしていたことはもう忘れてしまっている。

「動物園ってあんなにいろんな動物がいるんですねぇ」

 先ほどの映像を思い出すように、目を閉じて頬を紅潮させる宮藤。

 

「宮藤は行ったことなかったの、動物園」

「東京にあるっていう話は聞いたことがあるんですけど、なにせ田舎育ちだったもので……」

 

 えへへ、と照れたように微笑む。

 東京の動物園と言えば、やはり上野のあれだろうか。確か日本初のそれだったと思うが。

「動物園なあ。俺も昔、遠足かなにかで行って以来だっけ」

 その記憶もおぼろげにしかないけど。

 確か小学校の低学年のころだったし、なんの動物を見たのかも覚えていないぐらいだ。それから家族で動物園に行くなんてこともなかったし。

 

「三森さんは見に行ったことがあるんですね……いいなぁ」

「そうは言っても子供のころだし、もう覚えてないって」

 

 羨ましげに口に手を当ててこちらを見る宮藤に、笑って首を振る。

 

「……あ、そういや動物園って言ったらあれがあったっけ」

 

 ふと思い出したことがあり、俺はその場を立ち上がった。

 不思議そうに見上げてくる宮藤に背を向けて棚に突っ込んだファイルを1つ手に取る。

 確かあれはここに閉まったはず……とファイルをぺらぺらと捲り、目的のものを探していく。

 

「どうしたんですか? なんですか、それ?」

 

 急に席を立った俺を疑問に思ったのか、いつのまにか移動した宮藤が手元を覗きこんでくる。背後から頭を突っ込んでくるものだから、宮藤の髪が俺の頬に当たるのでくすぐったい。

 そんな宮藤の頭を押さえたり、更に覗こうとしてきたりとするのを防ぎながらファイルの中身を確認していくと、ようやく目当てのものを見つけることに成功する。

 ファイリングしてあるそれの有効期限を確認すると、思っていた通りギリギリで今月末まで使えるようだ。

 

「よし、行けそうだな」

「え?」

 

 終始疑問符を浮かべたままの宮藤の眼前に、俺は取り出したばかりのそれを突きつけた。

 それはいわゆる入場券と呼ばれるものであり、表にはコアラやホッキョクグマと言った動物の絵が描かれていた。

 

 

 

「三森さんっ。準備出来ましたか? 忘れ物はないですか?」

「はっしゃいでるなー、みやふじ……」

 

 次の日、早速とばかりに俺たちは出かける準備をしていた。

 昨日動物園の入場券があると告げてからの宮藤の喜びようはかなりのもので「いやったー! 動物園だぁー!」なんて叫び声をあげるものだから思わずチョップしてしまった程である。

 満面の笑顔を浮かべた宮藤はすでに玄関で靴を履いて待っている。

 完全にうかれきっている。

 

「それはもう、楽しみですからっ」

 

 なんて言いながら両腕を挙げて全身で喜びを表現する姿に、ご機嫌に左右に振れる尻尾を幻視する。

 やっぱりまだまだ幼いなあ、なんて笑いながら荷物の準備を終えた俺は最後にクローゼットに仕舞われていたそれを手に取る。

 それを手に持ったまま玄関まで向かうと、そこで待っている彼女の頭に被せた。

 

「わっ。これは……帽子ですか?」

 

 被せられたそれを手に触りながら、上目に確かめる宮藤。

 

「そうだよ。今日は日差しも強いしな」

 

 日焼け止めでもあればいいのかもしれないが、残念なことにそのようなものは存在しない。ここは俺の使い古しで我慢してもらおう。

 

「へぇー……これが三森さんの帽子なんですか」

「今はもう使ってないけどなー。勢いで買ったけどなんかそれ、俺に似合わないし……」

 

 俺が靴を履きながら適当に答えると、宮藤は納得したように帽子をかぶり直した。

 うん、よく似合っている。

 

「えへへ、そうですか?」

 

 褒められて照れ笑いを浮かべる宮藤だが、白く大きな帽子は元気な彼女のイメージによく合っていた。

 帽子を掴んだままその場でくるりと回ってみせるその様などは、映画のワンシーンにでもなりそうだ。

 そんなことをしながら待っていた宮藤が、ようやく靴を履き終えた俺に手を差し伸べる。その手を掴んで立ち上がった俺は、そのまま手を握られた状態で家の外に連れ出された。

 扉の外はよく晴れた快晴で、出かけるにはぴったりの天気だ。

 そんなお日様を眩しそうに見上げた宮藤は、花が咲いたような笑顔でこちらを振り返った。

 

「よーっし、行きましょ―!」

 

 元気よく声を上げる宮藤に苦笑しながら、俺は引っ張られるようにして歩みを進めた。

 

 

 

「み、三森さん! 見てください!」

 

 なにかに驚いたかのような声とともに勢い良く服の裾が引っ張られる。

 本日何回目かのそれに、俺は顔に苦笑を貼りつけながら振り向いた。

 そこには予想通り檻の中に閉じ込められた灰褐色の動物が身体を丸めていた。円を描くようにして丸めた身体の上に自身の長い顎を置き、指差す宮藤の顔を鋭い目つきで捉えている。

 一見犬のようにも見えるそれは、犬よりも更に獰猛な生態を持つ『オオカミ』という動物だ。

 

「狼です!」

「せやな……」

 

 喜色をあらわにした嬉しそうな声に、俺はこれまた本日何回目かの返事を返した。

 動物園がよほど楽しいのか、このやり取りも今朝から幾度となく繰り返している。

 

「うわぁ、かっこいい……ミーナ隊長みたい……」

「ミーナ隊長どんなんだよ。こえーよ」

 

 宮藤がうっとりとして狼を見つめながら呟いた声に思わず突っ込む。

 え? なに? あんなのの下で働いてたの?

 ミーナ隊長(鋭い牙を見せつけてこちらを威嚇している)に対して笑顔で手を振る宮藤は俺の言葉など聞こえていないようで、どんどん園内を進んでいく。

 戸惑う俺も、宮藤の力強く握った手に引っ張られていく。

 

「わあ! ミーナ隊長の隣には黒豹がいますよ、三森さん!」

「ミーナ隊長がこっち睨んでるけど」

「豹もかわいいなぁ……ルッキーニちゃんにそっくり!」

「ルッキーニちゃんもめっちゃ怖いんだけど。お前の知り合いってこんなんばっかなの?」

「すごい、黒い狐だ! エイラさんに似てる!」

「本当にお前のとこの隊はどうなってるんだよ……」

 

 

 

 やっとのことで園内を一周したところで、そろそろ昼も回ろうかという時間であることに気づいた俺たち。どこかで一休みしようかということで施設内に備えられた休憩スペースを訪れていた。

 そこには入場者の為に簡単な椅子やテーブルを設置しており、近くには軽食や飲み物などを販売するテントコーナーも構えられている。

 たたた、と両手に飲み物を持った宮藤がこちらに小走りで駆け寄ってくる。

 

「お、おまたせしましたー」

 

 椅子に深く座り込んだ俺に飲み物を渡しながら、自身も小さなテーブルを挟んだ向かい側に腰掛ける。

 ストローを通して甘い果実のジュースを喉に流したところで、ようやく一息つける。ふう、と何気なく吐いた溜め息は、思いのほか疲労の色が込められていた。

 疲れきった俺の様子に気づいた宮藤が、恨めしそうな俺の視線から目を逸らす。

 

「あはは……ご、ごめんなさい。ちょっと興奮し過ぎちゃいました」

 

 なんて言いながら舌を出して謝っている彼女には結局、これまでずっと連れ回されていたわけで。さすがに疲れるのもしょうがないと思う。

 

「ご、ごめんなさいってば~」

 

 じーっと見つめる視線に耐えかねたようにぺこぺこと頭を下げだした彼女に、俺は思わず笑い声をこぼした。

 元々本気で怒っていたわけでもなければ、宮藤に振り回されるというのもそれはそれで楽しい経験ではあったのだから。睨みつけてみたのは、ただ少し仕返しをしたかっただけだ。

 そうして笑みを浮かべた俺に安心したのか、宮藤もまた買ったばかりの果実ジュースを口に含んだ。水分を求めていたのか、ごくごくと喉を鳴らしてその中身を飲み込んでいく。

その半分近くまで一気に飲み干したところで、ようやく満足したように口を離した。

 

「おいしいですね、これ! すっきりしてて飲みやすいですっ」

 

 きらきらと感動したようにジュース容器を両手で持つ宮藤だが、これは特に高価なわけでもない普通のフルーツジュースだ。店の前のミキサーで作ってもらえるので紙パックの物より味はいいが、かといって取り立てて騒ぐほどのものでもない。

 

「そういや、宮藤にジュース飲ませたのってこれが初めてだっけ」

 

 特にジュース類を買わないというわけでもないのだが、よく考えれば宮藤が来て以来自宅ではお茶ばかり沸かしていた。なので当然宮藤もそれを飲んでいたわけで、このようにフルーツジュースなどを飲んだ経験はなかったのだ。

 

「こういう、果実を絞ったジュースなんかは飲んだことないの?」

「いえ、もっとこう、果物の絞り汁みたいなのは飲みますけど……こんなに美味しいのは初めてです」

「へー。まだあの時代って、売り物のジュースとかはなかったのかな」

 

 俺が知っている限り、一番昔から売っているジュースといえば『ポン』のつくオレンジ味のそれだけど。そういえばあれは、つい数年前に発売40周年記念とか言ってたっけ。なら宮藤の時代にもないか。

 

「うーん、そういえば都会では『どりこの』っていう甘い飲み物が売られてるって聞いたことがありますけど……知ってます?」

「いやまったく」

 

 うーん、わたしの覚え違いかなぁなんて唸っている宮藤から視線を外し、俺はポケットに突っ込んだままのスマートフォンを取り出す。その画面に浮かんだデジタル時計は、昼を過ぎて未の刻になろうかとしていた。

 改めて時間を確認すると、なんだか腹も減ってきたように感じる。

 俺は腰を下ろしていた椅子から立ち上がる。カラになったジュースの空き容器を片手で潰しながら、時計を表示したスマートフォンの画面を宮藤に突きつけた。

 

「もうこんな時間だよ。園内はもうあらかた回ったし、外に出てなんか食べて帰ろうぜ」

「えー。もう帰るんですか?」

「もう見るもん見ただろ」

「……はーい」

 

 宮藤としてはもう少しここに居たい様で口をとがらせていたが、やがて残念そうに席を立った。

 しょぼん、とした様子でジュースの残りを飲み干そうとしている様子にちくりと胸が痛む。

 動物園の出口に向かって歩く俺の後ろを、3歩ほど離れてとぼとぼと着いてくる。

 

「……その、なんだ。動物園はしばらくはいいけど、ほら、他のところならまた遊びに連れて行ってやるから。な?」

 

 あまりに不憫な姿に、思わず慰めるように言葉をかけてしまう。

 そんな俺の言葉が聞こえたのか、宮藤はパッと顔を上げた。

 

「ほんとですか!? 連れて行ってくれるんですか!?」

 

 先程までのいじけた調子はどこに行ったのか、元気よくこちらに詰め寄ってくる宮藤。

 思わず後ろに下がった俺に、更に距離を詰めてくる。

 

「あ、ああ。えーと……近所の公園とかでいい?」

「よくないですよっ。なんで動物園の次が公園なんですか、しかも近所の!」

 だめか。

 

「じゃあ、どっか別に行きたいとこはあるの? 行ける範囲でなら構わないけど」

 

 がーっと大口を開けて怒る宮藤に、逆に尋ねてみる。

 問いかけられた宮藤は手のひらに「の」の字を書きながら、何故か顔を背けた。

 

「そ、それじゃあ……うみ」

 

 聞こえなかった。思わず聞き直す。

 

「え?」

「……その、海に行きたいです」

 

 今度ははっきりと。

 ――海。海ときたか。

 もちろんここ大阪は瀬戸内海というれっきとした内海に面していて、当然行こうと思えば海岸に出ることはわけはない。

 しかし、

 

「大阪湾は……ちょっとなあ」

 

 正直に言うと大阪の海は少し……いや、かなり汚染されている。俺から正直に言わせてもらえば海というよりはドブ川に近い。

 海に行きたいという少女をドブ川に連れて行くのは俺としても気がひけるわけで……。そうなると俺の知っている限りで、まともな海と言えば和歌山あたりまで出なければいけないのだが、ちょっと遠いよなあ。

 だがこちらに向いた宮藤の表情は不安そうに、それでいて期待するように俺の顔を見上げていて、なんだか無下にするのも気後れしてしまう。

 俺がどう答えようかとと悩んでいたら、その内見覚えのあるゲートが視界に入ってき

た。

 

「おっと、そろそろ出口だぞ……ってあれ」

「むぐっ。な、なんで止まるんですか?」

 

 立ち止まった俺の背に、宮藤の頭がぶつかった。

 服越しに、くぐもった小さな抗議の声が聞こえる。

 けど、あんなの入ってきたときあったっけ。

 俺が見つめる先には、なにやら巨大なドームのようにしてケージに覆われた建物がある。

 

「あ、あれ? あんな建物ありましたっけ?」

 

 俺の背中からひょっこり顔を出した宮藤が、同じく疑問を顔に浮かべている。

 ってああ、そうか。

 

「わかった。ほら、宮藤が動物園に入った途端に俺の手を引っ張っていったからだよ」

 

 わー、おっきいクマだー。なんて言いながら。

 係員のお姉さんに笑われて恥ずかしかったから、俺も思わず走っちゃったんだっけ。

 

「あ、なるほど。だからあれに気づかなかったんですね」

 

 ぽん、と手を叩いて理解を示す。

 

「いやーその。なんだか、向こうで仲良くなったクマの親子を思い出しちゃって……」

「ほんとによくわかんねーな、お前の交友関係……」

 

 呆れたようにこぼした俺の言葉に笑いながら頭をかいているが、褒めているわけじゃないぞ。

 さて、それはそれとしてあの建物はなんなのだろうか。

 動物園内にある以上はなにかを飼育している檻なのだろう。しかし他の動物たちのそれと比べると断然背が高く、またその全面を天井に至るまですべてネットで覆ってしまっているのが特徴的だ。

 ふーむ、と考えようとしたところで疑問は氷解した。

 

「あれは……鷲かな?」

 

 その檻の中を、大きな翼を広げた鳥が自由に飛び回っているのが目に飛び込んだ。

 よくよく見るとその鷲以外にも大小様々な鳥たちが檻中を飛び回ったり、中に植えられた木の影で羽休めしていたりする光景が目に入る。

 つまりあの檻は巨大な鳥カゴのようなものであり、周りのネットは逃走防止用のもの。普通の動物であれば天井まで覆う必要はないが、天高く羽ばたく鳥を閉じ込めるために全方位を囲っているということだろう。

 なるほどと納得できたところで、俺はそっと宮藤の方に目を向けた。

 先ほどの様子からすれば「最後に鳥も見ていきましょうよ、ね!」なんて言って腕を引っ張られてもおかしくない。

 しかし、

 

「……………………」

 

 俺の予想を大きく外れ、宮藤はぼんやりとした表情でその鳥カゴを眺めていた。

 正確に言えば、その中を自在に飛び回る鳥たちを眺めていた。

 思わず、言葉に詰まる。

 なぜか――と考えたところで、俺の脳裏に浮かぶものがあった。それはマンションの部屋に置いてあるストライカーユニット――震電の姿である。

 宮藤の説明では、これまであいつはあのユニットを装着することで空を飛び回ることができたという。

 しかし今はそうではない。

 あの機械は動くことはなく、宮藤は空をとぶことのないただの人間だ。

 そうであれば、今の彼女にはあの鳥たちはどのように映っているのだろう。

 俺は宮藤に声をかけることも出来ずに、ただ視線を下げた。

 そして視界に映った一匹の動物に、思いがけず驚いた。

 

「……キーウィだ」

「……えっ? あ、ごめんなさい! か、帰るんでしたねっ」

 

 思わず声を上げた俺に、ふと我を取り戻した宮藤が慌てたように頭を振った。

 しかし、止めたままの足を動かし始めない俺に疑問を持ったのか。やがて、宮藤も俺の視線の先の動物に気づいたようだった。

 

「あれも……鳥ですかね」

 

 自信なさげに宮藤が問いかけるような音色でつぶやく。無理もない。

 そいつはずんぐりとした身体つきで、まるまるとした胴体の根本から2本の足が生えている。その頭の先には唯一鳥らしい特徴である長いくちばしが付いているが、キーウィにはそう、鳥にあるべき『翼』がない。

 

「翼が、ない?」

 

 疑問の声を上げる宮藤。

 

「そう、キーウィはれっきとした鳥だけど翼を持たないんだ。他の『飛べない鳥』であるダチョウやヒクイドリなんかが、飛べないなりに立派な翼を持っているのに対してね」

 

 一応、わずかに翼の痕跡というものはあるが。

 それは成長した個体の羽毛を捲っても数センチほどの突起物が見つかるだけで、とても翼と言える代物ではない。

 見れば宮藤は悲しそうな瞳で翼のないキーウィを見つめている。

 そんな彼女に、俺は。

 

「俺は、あの鳥が好きだよ」

 

「……え?」

 

 キーウィには1つ、寓話がある。

 それは彼らの故郷、ニュージーランドに住む部族に伝わる伝説だ。

 

「彼らの故郷である島は昔、ある問題が起きてね。その島にある森の木々が虫たちによって食いつくされようとしていたんだ」

「それを危機に感じた島の王は、空に住む鳥たちを集めて地上に降りて木々を守ってくれるように頼んだ。でも、そうして地上に住むには翼を失って強靭な足を持つ必要があった」

「だから翼を失うことを恐れた鳥たちは王の言葉に戸惑い、その要請に応じなかった……そう、キーウィを除いてね」

 

 王は尋ねた。

 元来キーウィは美しい羽毛、そして翼を持った鳥であった。

 それを失ってもよいのかと。

 

「キーウィは結局地上に降りることを選んだんだ。その翼を失っても、地上を守るためにね」

 

 そして王の言葉通り、キーウィは翼を失った。その代わりに地上は守られた。

 

「俺はこの話が好きなんだ。彼らが何を考えていたのかはわからないけど。自分の大切なものを失っても何かを守りたいって気持ちは、素敵なことじゃないかな」

 

 ふう、とため息をつく。

 長く喋ったせいで口が疲れた。

 いつのまにか、宮藤は顔を上げてまっすぐこちらを見つめていた。

 その目尻は赤く腫れているが、表情は明るく笑っていた。

 

「わたしもそのお話が、好きになりました。わたしは……あの子の気持ちが少しだけわかる気がします」

 

 キーウィを見つめ、小さく笑う宮藤。

 その視線は先ほどまでとは違う、暖かいものだった。

 そんな宮藤を見ながら、俺はふと出会った時のことを思い出していた。

 

(そういえば、初めて会った時に横須賀出身って言ってたっけ)

 

 だからだろうか。

 もしかしたら海が見たいと言い出したのも、元々考えていたことなのかもしれない。

 

「なあ宮藤、やっぱり海行こうか」

 

 少し遠出することになるから、すぐにというわけにはいかないけど。

 そんな俺の言葉に、宮藤は笑顔で頷いた。


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