「起きてくださーい、朝ですよー」
昔に比べて現代人は偏食の傾向にあると言われている。というのはそれまでの日本人の生活にはなかった欧米的食生活が入ってきたことや、ファストフードやインスタント食品の台頭などが原因に挙げられる。
加えて身体能力の低下も問題視されることが多い。文部科学省の統計によれば、小学6年の運動能力数値は過去50年で最低の数値を弾き出している。昔に比べて便利なものが溢れていて、自ら動かなくても生活に困らない現代日本の生活様式が原因だろう。洗濯はたらいと板ではなく洗濯機でボタン1つ押せばことが済むし、水を汲むにも蛇口を捻ればそれで済む。生活スタイルの変化がそのまま現代人の身体能力の低下に繋がっていると考えてもいいだろう。
「み・も・り・さーん? 起きてますよねー?」
これらの偏食や運動不足は自律神経のバランスを崩し、低血圧を引き起こし得る。これによって交感神経の活動が緩やかになり、低血圧の人は自身の生活に支障をきたしやすいということだ。つまり何が言いたいかというと、
「……昭和の人、朝はえーよ」
「あ、やっと起きた」
少し頬を膨らせ、俺を見下ろす宮藤が目に入ったところで俺の朝は始まった。
手元のスマートフォンを確認するとAM5:30の表示が目につく。
こんな時間に起きたのは何年ぶりだろう……
「まだ5時半なんですけど……みやふじ、もう起きるの?」
「はいっ。もうお日様も登ってますよー?」
早朝だというのに元気そうである。
目をぱっちりと開いて、笑顔で目を向ける先には朝日が差し込む窓。目が痛い。
元気な宮藤とは対照に俺は目を開いているのもつらい。
大あくびをしながら目をこするも眠気は取れず、上体を起こしてから動くことができなかった。
そんな俺を見下ろして、軽くため息をつく宮藤。
「もうっ……三森さんって、もしかして朝弱いんですか?」
こんな時間に弱いもクソもねーよ。と口に出そうとしたところで、気づく。
忘れてたけど、宮藤って軍人だったわ。そりゃ朝も早いわ。
日本軍の起床時間が何時か知らないが、少なくとも昼まで寝てるなんてことはないんだろうな。
「というか、宮藤がはやいんだよ……なに、軍隊ってこんな早くに起きてんの?」
「そんなに早いですか? 501だとそろそろ起床ラッパが鳴るころですけど……」
きょとんとした顔で尋ねてくる。そんな宮藤に何も言うことができず、俺は頭をかいた。
「あと180分は寝たい……」
俺に軍人生活は無理だわ、と心底認識する。
昭和のころは今と比べて起床時間が早かったと聞くが、まさかここまでとは。登校時間ギリギリまで睡眠を貪っている現代の中高生とは大違いである。
ふと宮藤の顔を見ると、なぜだか微笑みをこぼしている。俺が朝に弱すぎて憐れまれてでもいるのだろうか。疑問の表情を向けられたのがわかったのか、宮藤はくすくすと小さな笑い声をこぼした。
「ふふっ……いえ、なんだかハルトマンさんを思い出しちゃいました」
「ハルトマン?」
妖怪少女だろうか。
「はい。すっごく朝が弱い人で、いつもバルクホルンさんに怒られてました」
「軍にも朝起きれない人っているんだ……」
会ったこともない人だけど、なんとなく親近感が湧く。そんなことで軍人生活を送れているのだろうか。
「ネウロイとの戦いの時はすごく頼りになるんですけどね……朝だけは苦手みたいで」
ぽりぽりと頬をかきながら、困ったような顔で宙を仰ぎ見る宮藤。その時のことを思い返しているのか、少し遠い目をしている。
そんな話を聞きながら、ようやくと言ってもいいところだが、俺は布団からやっとこ這い出ることに成功する。夢のなかに戻りたいのは山々なのだが、残念なことに今日はしなくてはならないことも山積みである。
「……目も覚めたし、そろそろ起きるよ。宮藤にこの家のものを説明しないといけないしな」
「あっ、そういえばそうですね。昨日はお風呂だけ教えてもらいましたけど……」
「言っても、宮藤の知ってる風呂と大して変わらないみたいだったけどね」
立ち上がり、あくびを噛み殺しながら部屋の扉を開ける。ちょこちょこと付いてくる宮藤を横目に映しながら、俺は広くもない家の中を歩く。
このマンションの作りは典型的な一人暮らし用であり、居住用の部屋を出ると右手側にキッチン、左手にバスルームがある。バスルームの戸を開けると洗面台があり、更にその左右にトイレと浴室が設置されている。
顔にかけられる冷たい水が思考をクリアにしていく。続いて軽くうがいでもしようかと思い……鏡に、遠目に宮藤がこちらを見ているのに気づく。目が合う。
「顔洗ってるだけだから、別に見なくていいよ」
少し慌てたように鏡から姿を消した宮藤に笑いながら口の中をゆすぐ。さて顔を拭こうかと横に掛けられたハンドタオルを手に取り、疑問が浮かぶ。
「あれ? 俺、昨日ってタオル掛けてたっけ……?」
特にこだわりもないが、水回りの品は毎日変えるようにだけはしている。そんな俺は記憶にない新しいそれが掛けられていることに首をひねった。無意識に新しいのに変えたっけ?
頭を悩ませる俺に答えたのは、洗面所の外にいる宮藤の声だった。
「あ、わたしが今朝顔を洗った時に変えました!」
「……そういえば昨日の夜にタオルの位置だけ説明したっけ」
微かに湿り気をまとったそれは、なるほど宮藤がついさっき使用したんだなと納得させる。
ごしごしと顔を拭き、洗面所を抜ける。ここまでしてようやく覚醒しきった気がする。朝が弱いというのも辛いものだ。
よし、と宮藤に向き直る。
「それじゃあまずは朝飯だ。期待してるぞ、家事手伝い」
「わかりました! 頑張ります!」
「まずはこれが炊飯器。……炊飯器って45年にあったのか? まあいいや。簡単に言うと、米を炊くための機械だ」
「お釜みたいなものですか?」
「うん、釜で炊くよりは遥かに簡単だけどね。ちなみに昨日の夜に予約してるから、開けると」
「わっ、ご飯ができてます!」
「調理具を入れてるのはこの棚の中ね」
「いろいろありますね」
「一番上の棚には菜箸とかお玉なんかが入ってるよ」
「こういうのはわたしの時代と同じ形なんですねー」
「その下には鍋類が入ってて、隣には包丁が刺してあるよ」
「包丁は万能包丁と出刃が一本ずつあるけど、基本は万能包丁だけで大丈夫だと思う」
「あの、包丁の横に烈風丸があるんですけど」
「それで次だけど」
「烈風丸……」
「次にこれがガスコンロ。ええと、コンロはもうあったんだっけ?」
「コンロ、ですか? あの火をつける奴ですよね?」
「それそれ。知ってると思えけどこうやって元栓を開けて、スイッチを回すと火が付きます」
「へー、マッチとかで着火しなくていいんですね!」
「今でも火が付かない時はそうしたりするけどね。で、まあこういうフライパンなんかは今も昔も形は変わらないよね」
卵を割る。混ぜる。焼く。
「お料理の仕方も一緒なんですねー」
「家で作る分にはね。こういう玉子焼きなんかはずっと作られてきてるから」
「お上手です! ……あれ?」
「あとついでにソーセージでも焼いとくか。そういえばソーセージ……こういう豚肉の腸詰めって食べたことあるの?」
「あ、えと、はいっ。扶桑ではなかったですけど、欧州に行ってからはよく食べてましたっ」
「あっちは肉料理の本場だもんなあ」
「で、これが冷蔵庫。って、家とかにあった?」
「冷蔵箱ですか? あの氷を入れて冷やす……」
「用途は同じだけどね。これは氷じゃなくて電気式冷蔵庫なんだ」
「氷がいらない冷蔵箱ですか……名前は聞いたことあるんですけど……確か、すっごくお値段がしたから買えなかったと思います」
「開発はされてたのか、なら話は早いな」
「君の言う冷蔵箱もこの冷蔵庫も同じものだと思っていいよ。ただ、氷を使わなくていいって点で便利にはなってるけど」
「3つも入れる場所があるんですね」
「うん。ドアごとに温度が違うから、中に入れるときは気をつけようね」
「あれ? これは納豆……ですか?」
「そうだけど……苦手だった? 安いからよく買うんだけど」
「いえ、栄養もあるし美味しいから大好きです! よく手作りしてました!」
「納豆を」
すげえ。
宮藤と相対するように丸テーブルの前に腰掛ける。机の上には湯気が立った茶碗と湯のみが置かれ、大皿に玉子焼きとソーセージが乗せられている。その横にはパック詰めされた納豆が置かれ、ついでとばかりに味付け海苔と梅干しも出してみた。
それなりに品数があるように見えるが、実際には卵とソーセージを焼いただけだというのは指摘しないでほしい。
「まあ朝だしこれぐらいでいいよね?」
湯のみに茶を注ぎながらそう尋ねる。
というか、朝の食事をこれほどきちんと作ったのは久しぶりだ。普段は朝は取らないか、せいぜいパンかなにかを腹に詰めるぐらいである。成長期の子に食べさせるということで、それなりに頑張ってはみたが、さて味はどうだろう。
いただきます、と手を合わせて玉子焼きを一掴みして口に入れると、まあ可もなく不可もなしと言った程度である。俺の好みでだし汁を入れているので、正確にはだし巻き玉子と言うべきかもしれないが。
「いっただきまーす!」
続いて宮藤も元気よく合掌すると、そのままの勢いで箸に手を伸ばす。
俺が少しの不安を心中に浮かべながら見守る中、食事を頬張った宮藤は満足そうな笑顔で首を縦に振った。
「すっごく美味しいです!」
「……そりゃよかった」
ふぅ、と心の中でため息をつく。人に振る舞う食事ってのは緊張するわ。
それなりに張っていた神経がほぐれ、両手を逆手に支えるように背中を倒す。
食事を続ける宮藤の様子を伺う。もぐもぐと茶碗のご飯を頬張り、幸せそうに咀嚼する姿はどこか犬の仕草を思い出させた。
ふぇ? と俺の視線に気づいた宮藤が疑念の声を上げる。なんでもないと答えると安心したのか湯のみを手に取り、一気に傾けた。ぷはぁ、と小さく声を上げながら手に持ったそれを机に直した宮藤がこちらに向き直る。
「わたし男の人のお料理ってはじめて食べたんですけど、お上手なんですね!」
玉子とソーセージを焼いただけで料理上手とかハードルが低くないか、と思うものの褒められると嬉しくなるものだ。唇の端が笑みを浮かべているのを自覚しながら、湯のみに口をつける。
……しかし笑顔で賛辞を述べる宮藤だが、これまでどんな食事をしてきたのだろう。
「501……だっけ。そこはどんな食生活だったの?」
宮藤の表情に若干の陰りが差す。
あれ? これ聞いちゃダメな奴とかそういうの?
俺が動揺したのがわかったのか、宮藤は慌てたように手を振る。
「い、いえ、別に基地でもちゃんとご飯は食べてましたよ。ただその、501は色んな国から人が集まっていたものですから、色んな国の料理も出てきて……」
「というと」
「……ブリタニアのお料理はあまり口に合いませんでした」
「ブリタニア……って、今で言うとイギリスか」
イギリス料理、と言う言葉には背筋に冷たいものが流れた。それはそう遠くもない過去のこと。散々まずいまずいと騒がれるイギリス料理だが、中身を知らないことには批判もできないとして一度その実態を調べようとしたことがある。
いつの日かのインターネットでの記憶。『星を眺めるパイ』とかいうおぞましい代物が脳裏によぎった。
うえ、と思い出しただけで喉にこみ上げてくるものがある。まさかあれを作ったとも思えないが、なるほど。世界を超えたぐらいではどうにもならなかったか、イギリス料理。
「わたしの友達にリーネちゃんっていうブリタニアの子がいて、何度か国の料理だって作ってくれたことがあったんですけど……大変でした」
遠い目をして過去を懐かしむ宮藤だが、その青ざめた表情は少なくとも友人の話をしているようには見えない。
「野菜がどろどろになったスープとか、元の食材がわからない真っ黒な揚げ物とか……当時はリーネちゃんの手前言えなかったんですけど、あんまり美味しくなかったですね……」
友人が作ったものをして「あんまり美味しくない」という言葉が出る程の料理に、逆に少しばかり食べてみたい挑戦心と見たくもない感情が交錯する。割合的に0.01:0.99ぐらいで。
「リーネちゃんも調理自体は得意だったので、自分の国以外の料理はすっごく美味しかったんですけどね」
「結構酷いこと言ってるぞ、それ……」
哀れリーネちゃん。顔も知らないけど。
宮藤はリーネというブリタニア人の少女の話を皮切りに、部隊にいたという仲間たちの話を聞かせてくれた。
例えば今朝の話題に出てきたハルトマンとバルクホルン某はカールスラント(こちらで言うドイツ)の出身であり、芋が大好物でコンテナ一杯のそれを数日で平らげるとか。
スオムス(こちらで言う北欧?)出身のエイラは宮藤と大まかに通じた味覚をしているものの、時折ひどい味のする飴を舐めているのが理解できないだとか。
更に言うなら部隊長のミーナはエイラを凌ぐほどの味覚音痴であり、正直あいつ頭おかしい(意訳)だとか。様々な話を聞いている内に、少しだけ宮藤の部隊が理解できたような気がする。
談笑している内に時間も過ぎ、食事も食べ終わろうかとしていた時宮藤が「あ、そうだ」と口に手を当てて何かを思い出す。
「どうしたの?」
尋ねてやると、言いづらそうに食べ終えたばかりの食卓を見つめる。
やがて箸を置き、控えめな声で口を開いた。
「その……結局、三森さんが全部ご飯作っちゃいましたけどよかったんですか? 食事の用意はわたしがする筈だったんじゃ……」
あ。
思い返すと、今朝にキッチンに立ってから宮藤に何もやらせてないわ。
家事手伝いにさせたの誰だよ。
「……今回は台所の説明しただけだからね。忘れてたとかじゃないからね」
「でも今朝はわたしに朝食を作ってもらうって言ってたような」
「――それでだ、宮藤がこの世界に持ってきたものについてだけど……」
「露骨にごまかされた!」
うるせえ。
「そこに置いてある震電……だっけ。そのストライカーユニットと、厳重に保管してある刀『烈風丸』だっけ」
「さっき厳重に保管してある烈風丸を台所で見た気がするんですけど」
宮藤の言葉を受け流しながら、立てかける震電に目を向ける。そのとき視界の隅に、直径数センチほどのそれが映った。
厚みのあるそれは黒く塗られた塗装に星形の目印が付けられていて、遠目にはボタンかなにかにも見えるかもしれない。
「ああ、それとそのインカムもあったか」
「うぅ……三森さんが無視する……」
ぐぅと唸る宮藤はやがて諦めたように首を振ると、俺の言葉に頷いた。
「そうは言っても、耳に付けていたのをわたしも忘れてたぐらいですけどね。結局こっちに来てからは一度も動かないですし……」
うなだれる宮藤は、その言葉の通りこのインカムの存在に気づいてからは何度も仲間たちに連絡をしようと試みていた。しかし一向に動作しないために、今では思い出したようにそれを弄るばかりである。
俺は黒いインカムを手に取り、まじまじとその外見を見回す。俺はこの手の機械には詳しくないが、小さなボタンのようなそれはとても通信装置としての役割を持っているようには見えない。
「これって作動する時は電波を飛ばしてるの?」
「ど、どうなんでしょう? わたし、機械についてはよくわかってなくて……」
宮藤も持っている道具の原理に精通しているわけでもないようで、結局これについてはよくわからないままである。
しかるべき人間に渡して調査してもらうという手もあるが、なにせ異世界からの漂流物だ。なにかおかしなことがあっても困るわけで、軽々と人の手に渡そうと思うことはできない。
「……やっぱり今は、日に何度か動作確認するぐらいしかできないかな」
しょうがない、と、とりあえずインカムを机に乗せる。
次に目を向けるのが壁際に掛けられた震電であるが、これはインカムより更に扱いが厄介だ。
冗談のような話だが、宮藤によればこの震電を『穿く』ことで生身の人間が空を飛ぶことができるらしい。なおそれには魔力という力を持った者でなければならず、通常は20歳以下の女性の内の限られた人にしか起動できないとか。
宮藤も一度装着しようとはしたものの、無茶な方法で魔力を使いきったという彼女にはそのユニット部に足を入れることさえできなかった。ちなみに俺も一度足を通してみたが、当然うんともすんとも言わなかった。
「宮藤はここに来る直前まではこの震電を穿いて、空を飛んでたんだよね?」
俺の言葉に、震電の表面を撫でていた宮藤はこちらに向き直る。少しの悲しみを携えた瞳でこちらを見つめながら、ゆっくりと首を縦に振った。
「わたしはあの時烈風丸にすべての魔力を注いで、ネウロイに突撃しました。それから……気づいたら三森さんのお家に来ていました」
「なぜこの家にってのは置いておくにせよ、その攻撃の結果として何かが起きてこっちの世界に漂着したって考えるべきか」
「ネウロイの攻撃かなにかってことですか?」
「その可能性もある。というか現象が不可解すぎて理由を断じることはできないけど、そっちの世界ではストライカーユニットを穿いた人が突然いなくなったりすることはあったの?」
「それは……わたしは聞いたことはないです。もしかしたら坂本さんなら知ってるかもしれませんけど……」
うーん、と二人して頭を抱える。そもそもさっき言った通りに人がいなくなるという現象自体が不可思議であり、その不思議な状況から逆算して理由や対処法を考えようとするのが無茶なのだ。俺自身、目の前に宮藤という不思議存在がいなければここまで真剣に頭を悩ませることはなかっただろう。
まるで神隠しだな、と口をついて言葉がこぼれる。特に意識せずに口にしたが、まさにこの状況を表す言葉としてはぴったりである。
「神隠し、ですか?」
俺の呟きが耳に入ったのか、宮藤がきょとんとして口を開く。
「ああ、聞いたことがないのかな。前触れもなく人が山や森で突然行方不明になったり、街で失踪したりすることを神隠しって言ったりするんだ」
「今のわたしみたい……」
落ち込んだように顔を下向けてため息をもらす宮藤。
しかし神隠しであればただ人が消えてしまうだけではなく、失踪した者が元の世界に戻ることもあり得るはずだ。
古くは平安時代の今昔物語の時代からこの日本では神隠しの伝説が知れ渡っているし、近年の有名なアニメーション映画でも神隠しについてが描かれている。しかしいずれにせよその人物たちは自身のいた世界に帰還しているのだ。
ではその帰還した人物たちはどのようにしたのか、と更に思考の海に沈みかけたところで落ち込んだ宮藤の顔が目に入った。
……ふう、とため息をつく。焦ることはない。
「宮藤」
返事がない。
「宮藤ってば」
もう一度声をかけるとともに、宮藤の両横に飛び出た髪の毛をぐいっと引っ張る。
驚いたように顔を跳ね上げた宮藤と目が合った。
「へぁ!? は、はいっ。って、なにするんですか!」
「人の声が聞こえなくなるまで落ち込むなよ。なんにせよ、お前は今ここに、存在してるんだ。俺もしっかり最後まで付き合ってやるから……しゃんとしろ」
しっかりと目を合わせて、その髪をぽんと叩く。
ぽかんと呆けたように口を開いた宮藤は、目尻に光るものを浮かべてこちらを見上げた。
「……三森さん」
そんな宮藤に、俺は先ほどのミスを後悔する。こちらに来て日も浅い、地に足がついていない宮藤に少しでも不安を与えるような話はするべきじゃなかった。精神的に不安定な今、彼女に与えるべきは――
「よし、出かけるか」
「えっ?」
すっと立ち上がった俺を、間の抜けた面で見上げる宮藤。
そんな彼女にニヤリと笑いながら俺はなるべく意地の悪そうな声を出した。
「ただの散歩だよ、散歩。この辺の地理全然知らないんだから、宮藤が外なんて出たら迷子になっちまうわ」
ぼんやりした顔を一転して、むっと眉をひそめる。
「……ま、迷子なんてなりませんよ! 子供じゃあるまいし!」
「怒るな怒るな。ほら、あれを着たらどうだ? こないだ買った……」
がーっと怒気をあらわにしてずいっと寄せてくる頭を手で抑えながら、俺は部屋の隅に備え付けられたクローゼットを指差した。
その中には俺が持っている服に加えて、先日購入したばかりの宮藤の私服もいくばくか吊るされている。
俺が何を指しているのかに気づいたのか、宮藤はぱっと顔を明るくした。
「わ、わんぴーすですか?」
「それそれ」
服屋で見ていた時はあれだけ気に入ったようにしていたし、着てみたいと思っているはずだろう。そんな俺の考えは当たっていたようで、宮藤はそわそわとしてクローゼットに目をやっている。
上手く釣れたか、と内心で安堵して溜息をつく。
そんな宮藤を尻目に俺はテーブルの食器をまとめ、それを手に持ち、立ち上がる。
「ほら、俺は皿の片付けついでに台所行ってるから、その間に着替えとけよ―」
俺の声にわわっ、と宮藤が慌ててクローゼットを開ける。そんな様子を横目に捉えながら、俺は部屋を後にした。