「……え……?」
『長月葉月』と言う人間は存在しない。
クロノのその言葉が耳に届いた時、フェイトが発することが出来たのは、ただその一言だけであった。
呆然とするフェイトの姿に、クロノは痛ましげな視線を送りつつも、更に言葉を続けるために口を開く。
「現状で考えられる可能性は幾つかあるが……中でも僕も艦長も可能性が最も高いと見ているのが、『長月葉月』を呼称する『彼』の記憶が『植えつけられたもの』である、と言うものだな。次点では『彼』が偽名を名乗っていると言う可能性。そして……」
そこでクロノは一度口ごもり、一瞬逡巡してから言葉を続ける。
「『彼』の存在そのものが『何者かに創られた存在である』と言うこと、だ」
言い終えたクロノはフェイトへ視線を向けると、「やはりフェイトには酷だったか」と小さく溜め息を吐く。それほどまでに、今のフェイトの顔色は蒼白であった。
クロノとしては、必要であったとはいえ、今の彼女の境遇を想起させる言葉を告げるのは少し不安であった。あの事件からもうじき半年とは言え、言い換えればまだ半年も経っていないのだ。気を使って使いすぎると言う事は無いだろうからだ。
……当事者ではないクロノには、及びつかない事で有ったとしても仕方の無い事であろうか。フェイトと葉月が出逢ってから、僅か2週間。それだけしか経っておらずとも、『フェイト・テスタロッサ』にとって『長月葉月』は、クロノが思う以上に掛け替えの無い人物になっていたことが。
とは言え、場合によっては、『フェイトを狙った何らかの精神干渉系の能力の行使』や、『フェイト自身に何らかの問題があり、彼女が生み出した架空の存在』と言う可能性も有ったが、それに関しては恐らく無いであろうと言う結論に達している。何故ならば──
「どちらにしろ『彼』自身が存在していて、君が向こうに召喚されていると言うことは疑っていない。バルディッシュの存在があるからね」
クロノの言葉に、葉月の存在を疑われていない事に、少しだけ安心するフェイト。そして、バルディッシュが居てくれて良かったとも。
事実、フェイトと共に『あちら』に召喚されているバルディッシュは、明確な『記録』として残ってはいないにも関わらず、『長月葉月』と言う青年の存在を“知っている”と言う奇妙とも言える状況にあった。
だがそれ故に、クロノ達もフェイトの言う事を事実として受け止める事が出来ているのだったが。
「だから、フェイト──」
「……うん、解ってる。……葉月に訊いてみるよ」
クロノの言葉を遮るように、ぎこちないながらも笑みを浮かべて頷いたフェイト。
その姿にクロノは、「曲がりなりにも笑ってそう言えるのなら、まだ大丈夫か」と小さく安堵の息を吐いた。
フェイトは葉月のことを想い、改めて強く思う。
決して長い日々ではない。けれど、濃密と言って過言じゃない時間を共に過ごしてきた。
深く心を重ねて、強く想いを繋いで、絆を結んできたんだから。
──大丈夫。私は、葉月のことを信じてるから。だから……大丈夫。例えどんな事であっても、受け止めてみせる。
積み重ねてきた日々。それは確かにフェイトの心の支えとなっていた。だからこそ彼女は、青い顔で、それでも無理矢理に笑みを浮かべて、心を奮い立たせる。
◇◆◇
クェールベイグとの激戦を繰り広げた翌日。
今日もフェイトを呼び出した訳なのだが……その彼女は、まるで眠れずに一晩過ごしたような様子で、酷く難しい顔をしていた。
「おはよう、葉月。……ねぇ、訊きたい事が有るんだけど、いいかな?」
挨拶もそこそこに、そんな事を言ってきたフェイトに、「もちろん」と言って座るように促し、向かい合うようにソファに座る。
そしてフェイトは、真剣な眼差しで俺を見据えながら、口を開いた。
「葉月は……『地球』の『日本』出身……で、間違いないんだよね?」
一見すれば、何を当たり前な事を……なんて思う質問。けれどこうして改めて確認するってことは、きっと大事なことなんだろう。何よりも、彼女の不安そうな表情が強くそう思わせる。
お座なりな返事に聞こえないように、しっかりとフェイトに「そうだよ」と首肯すると、「そっか……」と小さく呟いた彼女。
そして今度は言い辛そうにしながら、再び口を開いた。
「今、ね……私がお世話になってる人達に、葉月を帰す方法を探すの、手伝ってもらってるんだ。それで……その、葉月のご家族がどうしてるか気になって、調べてもらったんだけど……その……」
「……『長月葉月』なんて人物は存在しない。もしくは、存在したとしてもそれは『俺』じゃない……ってところか?」
フェイトの話を聞いているうちに、もしかして、と思いながら予想を述べてみると、彼女は目に見えてビクリと身体を震わせ、不安げな視線を向けてくる。
「葉月は、どういうことか理由を知ってるの? ……これって、葉月が私のことを“知っていた”ことと……関係、あるのかな?」
恐る恐る、と言った風に訊いてくるフェイトの言葉に、今度は俺のほうがびっくりしていた。
そっか……俺が彼女を“知っていた”こと、気付いてたんだ。
そう思うと同時に、それでもなお何も聞かず、俺のことを信じてくれていたんだな、と言うことに嬉しくも思ってしまう。
「……まったく関係ないとは言わない、かな」
「その、聞いても?」
フェイトの問いに、話していいものだろうか、と言う想いが頭を過ぎる。
本来であれば、彼女は知る必要の無いこと。けれど、俺とこの先も共に居てくれるのであれば、きっと知らざるを得ないこと。
「そう……だな。ただ、これはフェイトにとって、本当なら知る必要のない……知らないほうがいいことで……きっと、すごくショックを受けるような事だと思う」
それでも聞くか? と念を押してみれば、彼女は少し考えてから、
「それって、聞こうとしなければ、この先知らずに済むことかな?」
「……凄く運が良ければ、知らずに済むかもしれない。けど、きっと……俺以外の『プレイヤー』に会った時に、知る可能性が高い、かもしれない」
そう予想を述べると、彼女は「それなら」と前置きしてから、一度小さく息を吐いて、俺の眼をじっと見据えて言った。
「いつか知ってしまうのかも知れないんなら、私は、葉月の口から聞きたい。きっとどんな話でも、葉月の言葉なら信じられると思うから」
フェイトの言う通り、いつか彼女が知ってしまうのなら、それは俺が告げるべきことなんだろう。
その結果俺がフェイトに何と思われようとも──たとえ、恨まれようとも。それが、俺の事情に彼女を巻き込んだ、俺の責任なんだから。
そう俺自身も覚悟を決めて、俺は“全部”を、彼女に話した。
フェイトが捜してくれた『地球』の『日本』に、『俺』が居なかったのは、『俺』の出身世界の『地球』が、フェイトの居る次元宇宙に存在する『地球』と言う世界とは、また別の世界であるから。
言うなれば、『平行世界』……いや、この場合は『上位世界』とでも言えばいいんだろうか。
そしてそれを断言できる理由。
俺のいた世界では、フェイトの居る世界のことが、一人の──高町なのはという名の少女を主人公とした、物語になっていると言うこと。
俺がフェイトのことを知っていたのは、その話に出てくる『登場人物』として知っていたから。
それらを告げると、やはり彼女は愕然としていて──。
永遠とも思える時間。けれどどれほどの時が経ったのか、それも解らなくなるぐらいに、痛いほどの沈黙が流れる。
その間、フェイトはずっと何かを考えるように、唇をきゅっと結んで──気がつけば、小さく身体が震えているのが見て取れた。
そして彼女は、おずおずと、震える声で言葉を紡ぐ。
恐る恐る、伺うような視線を俺に向けて。
どこか怯えるような表情を浮かべて。
「葉月にとって、私は……ただの『登場人物』?」
違う、と言おうとした俺の言葉を遮るように、フェイトの言葉が紡がれる。
「……都合の良い……『人形』、なの?」
その悲痛な言葉で、俺は自分のうかつさにようやく気付いた。
彼女は今、以前母親に“捨てられた”時と、心を、想いを重ねてしまっているのだろうと言うことに。
もっと考えながら説明すべきだった。もっとしっかりと、自分の今の想いを伝えながら、説明するべきだった。
フェイトがしっかりしているから、失念していた……何てのは言い訳にもならない。解っていたはずなんだ。忘れるべきじゃなかったんだ。どんなにしっかりしていても、彼女はまだ小さな女の子で……その心に負った傷は、余りにも大きくて深かったんだって。
俺はフェイトの発した言葉を否定したくて。けど、言葉だけじゃ足りない気がして……ソファに座るフェイトの前に膝立ちになって視線を合わせると、一瞬ビクリとして後ずさろうとした彼女を引き寄せるように、強く抱き締める。
「そんなことない」って想いを篭めて。「大丈夫だよ」って、伝わるように。
「フェイト」
俺に出来るのは、示すことだ。
彼女に出会う前に思っていたことを。彼女に出会ってから、感じたことを。今心に
それが、傷つけてしまった彼女に示せる、俺の誠意だと思うから。
「……この世界に呼び出されて、君を呼び出す前まではさ、俺、後悔してたんだ。こんな召喚能力を望んでしまったことを」
「後……悔……?」
俺の言葉を繰り返すように、ぽつりとフェイトが言葉を漏らす。
弱弱しいその声に胸が締め付けられながら、俺はそれに「ああ」と頷いた。
「だってそうだろ? 俺自身、こんな訳の解らない世界にいきなり召喚されて、訳の解らない状況に放り出されたってのに、俺が望んで得た力は“赤の他人を呼び出して戦ってもらう”能力だったんだから。
だからかな。実際に君を呼び出して、話をしようとするときには、もう『登場人物』とか、そういうことはどうでもよくなってた」
「……どうして?」
「さっきも言ったようにさ、自分自身が体験している状況だから、得た能力を後悔した。けど、俺はこの『召喚』能力を使わないと、この先を生きる事なんて出来ないって思ったから……俺は俺のワガママで、無関係な人を呼び出して戦ってもらう以上、『登場人物』だとか、そんなのは関係ない。しっかりと向き合って、誠心誠意頼むしかないって思ったんだよ」
そこで一度言葉を区切って、一気に言葉を発したために僅かに乱れた呼吸を整えた。焦らないように、心を落ち着ける。
「俺さ、フェイトと話してると、すごく楽しいんだ。フェイトの顔が見られると、すごく嬉しいし、フェイトが傍に居てくれると、すごく安心する。……こうやってフェイトと触れ合っているだけで、すごくドキドキしてる」
そう言って、抱き締める力を少しだけ強くする。
俺の鼓動が伝わっているだろうか、俺の心が、伝わってくれるだろうか……何て思いながら。
「君が嬉しいと俺も嬉しいんだ。君が笑ってくれると、俺も楽しいんだ。こんな想いは、フェイトのことをただの『登場人物』だとか『人形』だって思ってたら、抱けないよ」
背中に回した手を上げて、彼女の頭を撫でてやると、フェイトの方からもそっと、だけどしっかりと、俺の背中に手が回される感触がして。
小さく震える彼女の身体。
肩に、濡れた感触。
「俺にとってフェイトはフェイトだ。他の何者でもない……『フェイト・テスタロッサ』っていう、可愛くて、優しくて、強くて、でも、弱くて……心から大切にしたいって思える、一人の女の子だよ」
回された手に、力が篭る。
「フェイト」
回した手に、力が篭った。
「傷つけてごめん」
ふる、と、彼女の首が小さく振られる。
「嫌な思いさせてごめん」
もう一度、さきほどよりも、大きく。
「辛いこと、思い出させて、ごめんな」
きっと、俺の声も、身体も、震えていたと思う。
「……はづき……はづき、はづき、はづ……き……!」
けどそれ以上に、震える彼女の身体が、俺の名を何度も呼ぶその声が、濡れた肩の感触が──染み入るように、胸を締め付けていた。