「…………ご相談が、あります」
目の前にちょこんと正座した少女が、緑がかった髪の毛を震わせながら意を決したように言う。二色に分かれた左右の目は、視線だけで僕の胴体を貫通する力強さを秘めており、思わず腹の中身を色々と零してしまいそうになる。
「…………………………そうかい」
かれこれ七回目のその言葉に、固まった笑顔を数回崩しかけながらも、何とか取り繕って答えた。アインハルトちゃんは相談があるのだと深刻に言い放ちながらも、逡巡が脳内に住み着いたかのようにそれから言葉を発しない。しかし、その間視線だけはずっと僕に拘束されていて、迂闊にお茶さえも取りに行けないような居心地の悪さが僕の動きを阻害していた。
記憶継承系覇王☆少女アインハルトちゃんが僕の部屋に居着いてから、既に三十分が経過していて、その間ずっとこの調子だ。そろそろ相談よりも嫌がらせの線が強くなってきたと、ストレスの蓄積を膀胱で考える。
そろそろ飽きてきているという意思を遺憾の意と共に示すため、首元を掻く。僕の言外の意思はアインハルトちゃんの視神経あたりでシャットアウトされて頭脳まで届かなかったようで、ぴくりとも反応しないままこちらを睨みつけるように固まっていた。
こうなるともう、先に動いた方が負けというゲームをやっていたのではないかという錯覚さえ動員してくる。防御力の下がりそうな眼光からは、彼女が深刻な相談をしに来たようにも、ただ単に僕に恨みがあるだけなようにも感じられ、真意を読み解くことが難しい。だが、「何でこんなやつに相談しなきゃならないんだ」みたいな不満の色が顔色にまで反映されているように思えるのは、僕の被害妄想だろうか。
「実は……」目線をあちこちに移動させて、長期戦の構え。
「実は……?」早く言えよ、と言葉で促す。
「………………………………」
「………………………………」おい、何か言えよ。
もじもじ、そわそわ。
はっきりとしない態度は頬の紅潮や手の動きなどに示されていて、ひょっとしてこれから告白でもするのかなと邪推が脳内に侵入してきたが、理性によって呼気と共に排出されて、きっと来るであろう恨み言の言葉を待つ。
ごくりと唾を飲む音が鼓膜を揺らす。
長い間刺激に飢えていた聴覚神経は、それだけでも歓喜したように耳鳴りを大音量で演奏して神経を苛んだ。
「……………………………………………………そ、その」
長すぎる沈黙に喉が欠伸を通じて退屈を訴えてくるも、アインハルトちゃんがここまで言い淀むのだからさぞ言いにくい深刻な話に違いないと、無理に心を鼓舞して定住を求めてくる眠気に立ち退きを宣告する。
「…………その、ヴィヴィオさんと、あの……だ、男女の仲になるにはどうすれば良いのか……その相談に」
アインハルトちゃんが絞り出すように発した言葉に、ロストロギアを介さずに時間が止まる。
先ほどまで退去を渋っていた眠気が一気に帰国を果たして、がらんどうになった目の下を驚愕が支配した。
…………何を言っているんだろうか。この娘は。
「……………………」考える。アインハルトちゃんの言語は難解すぎて、僕には解読が困難だ。「…………?」首を捻る。「…………????」わからない。
アインハルトちゃんはそのキャロに喧嘩を売る胸部が示す通り、視覚での確認は未だ為っていないがXX染色体の持ち主なはずである。そして、ヴィヴィオちゃんもなのはさんの娘という肩書きを所持してる以上、息子を自称することは適わないはず……んん、男女の仲……?んんん……?
頭上に大きな疑問符を付着させた僕の反応に、アインハルトちゃんも同様に首を傾げた。こっちが訊きたいのに、何故君が疑問を抱くのか。
「……えーと、まず、アインハルトちゃんかヴィヴィオちゃん。そのどっちかが男性にならないと難しいんじゃないかな。男女の仲は」
軽量化に成功した言葉をやんわりと投げかけ、アインハルトちゃんの耳にふんわりと着地させる。彼女はその言葉に幾ばくか思考時間を消費した後、何かに気付いたようにはっとした。
「フィアッテさん。ご相談があります」
「あ、最初から仕切り直すんだ」
言葉は礼儀正しいようだけど、態度がふてぶてしいというか何というか。
特に僕に対しては、それが顕著だとは思う。
敬語は使えど僕に対して全く以て敬意を感じられないアインハルトちゃんが姿勢を正し、表面上だけの改まった様子を見せる。その表情は真面目そのものと言っても過言ではなく、ここに至るまでの過程を無視したら僕も真剣に深刻な応対をしただろうにと少し惜しくなった。マネキンの頭でも投げてぶつけたら、首から上が入れ替わらないだろうかと半分くらい真面目に黙考していると、アインハルトちゃんが声帯を震わせる準備を見せた。
「実は…………」
「実は…………?」
これももう一回やるのか、と辟易しながらも、一応付き合う。
「ヴィヴィオさんと異性の関係になるには、どうしたら」「全く変わってないじゃねえか。せめて恋人とか恋仲とかそう表現しようよ。自分の性別を直視しようぜ」
「大丈夫です。何一つ問題はないと、私の中の
「初等部から保健と生物学をやり直せこの脳味噌桃色覇王娘が」
精神が肉体を凌駕するのは漫画の中だけだ。少なくとも、自身の女性という性別を超越して女性と異性になるのは、性転換をなし得ていない身体では不可能なはずである。
アインハルトちゃんの妙な自信に自分の海馬の中身を少し疑ってみたくもなりながらも、わざとらしく溜息を吐き、足を崩した。今の今まで真面目な話かと思ってずっと正座をしていたものだから足が痺れて、足の裏に不可視の剣山を突き刺さる。生憎と僕にマゾの資質はないようで、その痛みを楽しむことができず、「あだだだだ」と足をさする。
「……で、今の話、どこまで本気?」
「全部ですが」
「ああうん、知ってた。聞いてみただけ」
「全部本気なんですよ」
二回言わなくてもわかってるから。
テーブルに肘をついて頭の重量を左腕に託し、気だるさを顔面で表現する。ついでに溜息も吐いて、しぶしぶ話を聞いているという姿勢も忘れない。多分、その方がアインハルトちゃんも話しやすいだろうし、多分そういう反応を求めて僕に相談したのだろう。
引かれるのは嫌だけど、親身になられすぎても困るとか、そんな感じだ。
「……ヴィヴィオさんと恋人になるには、どうしたらいいですかね?」
聞いている内容が内容じゃなければ素直に可愛らしいと言えるように小首を傾げて、アインハルトちゃんはじゃんけんの必勝法でも聞くかのような気軽さで言う。が、そんなことを聞かれても、片思い歴十年のプロフェッショナルとしてはアドバイスの仕様が思いつかない。
「…………………………………………………………諦めたら?」
長考の振りの果てに出てきた言葉に、アインハルトちゃんが団栗眼を毬栗に進化させた。痺れる足の感覚がアインハルトちゃんの刺すような視線により全身に広げられて、思わず目を逸らす。文句を言いたげな空気がアインハルトちゃんを通して僕の肺に侵入し、内部から罪悪感やらを刺激しようと試みているが、さしたる効果はないようで、ただ彼女の雑な威圧に押されるようにして左右に揺れてみた。
しばらく僕に威圧を浴びせて飽きたのかはたまた一段落ついたのか、軽い溜息をスイッチとしてアインハルトちゃんが肩の力を抜く。それに伴い、僕も糸の切れた操り人形と成り果てて、こてんと力なく倒れてみた。仄かに冷たさを肌に伝えてくる床が心地良い。冬には全く逆の感想が浮かびそうだと思いながら、ナメクジが蠢くような動作で床を転がる。心なしか、アインハルトちゃんの眼球にまた棘が生えてきた気がした。
「いやだって、何かヴィヴィオちゃん好きな人いるみたいだし。同性とは思いがたいから、正直望み薄だぜ?」
「大丈夫です。私は
「あっれー、っかしいなー。記憶継承の症状って年々薄くなってくんじゃなかったっけ。コイツ悪化してるぞオイ」
「より高みへと昇華されたんです……!」
末期症状じゃねえか。口内だけで呟いて、呆れを口端に含ませる。ぐでりととろけるように身体を床と一体化させて、ままならない現実というものをひしひしと感じた。この娘、数年前はこんなんじゃなかったはずなんだけどなあ……。時間の暴威は何よりも残酷だということか。
ガッツポーズを崩さないアインハルトちゃんは、その格好のまま顔だけを正常に戻して、
「……あれ、ヴィヴィオさん、好きな人いるんですか……?」
デクレシェンドを顔面で表現してくれた。意気消沈が目元に宿って定住を希望しているのが目に見えて、流れ落ちないくらいの涙と共に溜まる。それでも、絵面としては失恋よりもギャグの方が勝ってしまうのは不思議である。
「うん、多分。なのはさんとフェイトさん両方が言ってたから、ほぼ間違いないと思うけど」
言ってから、あれ、これ言ってもいやつだったっけと海馬を探る。口封じに該当する記憶が見当たらなかったことに微かな安堵を漏らして、体表の熱が移ってきた床を転がった。気だるさと心地よさが心の中に侵入してきて、中々立ち上がる気が起こらない。アインハルトちゃんの卑劣な策だ、と冤罪を擦りつけて、ミミズを身体に宿らせる。
そして、今更ながらアインハルトちゃんのレズビアンカミングアウトに驚愕を示した。
アインハルトちゃんの謎のキャラのぶっ飛び方に駆逐されていたが、よくよく考えてみれば女性が女性を好きになったということも、ある程度世間に散りばめられているとは言えど十分に驚愕に値する。しかも貴重な血統の一人娘がそれを言うのだから、関係者なら開いた口が塞がらないのではないだろうか。
グッバイ覇王家。さよなら覇王家。君のことはきっと忘れない。
「…………フィアッテさん」
落胆から少しだけ立ち直ったアインハルトちゃんが僕を、曇りのない真っ直ぐな目で見る。
「何だい?」
「八つ当たりします。付き合って貰っていいですか?」「よくない」「付き合って貰います」
任意を装った強制を含む意見を却下すると、皮を剝がれた強制が顔を覗かせてきた。脳内の政府はテロには屈しない姿勢を見せているが、既に首根っこを掴まれた現状では実行は難しい。「うあー」引き摺られながら、床との摩擦を背中一杯に感じる。動くのも面倒だから掃除の併用でもしようかと思ったが、人間モップとしての使命を果たす前にアインハルトちゃんに背負われ、生暖かい人体の温度を感じて不快になった。
「暑い」
「私も暑いんですから我慢してください」
「だるい」
「私もだるいんですから我慢してください」
「柔っこい」
「硬いです」
流れで僕も弾力性のある軟体動物の称号を獲得できるかと思ったが、筋肉と骨の硬度を理由に受賞は見送りとなった。カルシウムとタンパク質の過剰摂取を控えるべきかを検討しながら、アインハルトちゃんと接触する背中の熱を何とか逃がそうと打ち上げられた魚の物真似を試みる。
暴れるな、と口ほどに雄弁なアインハルトちゃんの眼球が不快そうに訴えてくる。動いたことで掴まれている右腕が自然に極まり、ビキビキと嫌な痛みを発してきた。
「アインハルトちゃん、アインハルトちゃんや。腕が痛い」
「私も心が痛いのでおあいこのお揃いですね」
「この野郎いい笑顔しよってからに」
そう言いながらも一応僕の意見を汲み取ってくれたのか、背負い投げのような勢いの付け方で僕を振り回し、ふわりと着地。今度は脚を引っ張って移動を始めた。今度は脚が痛くなった。
だが、抗議も面倒なので大きな溜息で代用として、大人しく人間掃除機に甘んじる。
「……何処へ行こうというのかね」
度重なるお荷物扱いに僕の方向感覚が狂っていなければ、アインハルトちゃんの進行方向の先には玄関があるはずである。
「ちょっと、お墓まで」
「何しに行くんだよ」墓参りマニアの僕でも、無意味に行ったりはしないぞ。
「ちょっとクラウスのお墓とドッジボールしに行きます。今私が抱えてる問題、過去に抱えた問題を思えばそれくらいは許されるはずです。でも許されなかった時のために付き合ってください」
「さては貴様説得が不得手だな?」
「さあ、行きましょう」
ひょっとしたらアインハルトちゃんは、耳と脳の接続が一部切断されているのではないか。
ふと頭に浮かんだ感想は、引き摺られる振動と回る視界に掻き消された。
この場所に来るのは一体何度目だろうかと、回想する。
青々しい草の香りとほんの少しの煙臭さが鼻腔を擽って、口にまで溶け青色吐息となって排出される。眼下に広がる灰色は限りなく僕の心を平坦にし、過去を心の中に投影して上映を開始した。瞼をスクリーンの代用とした映画館では、ヴィヴィオちゃんに昔例示したろくでもない家庭、すなわち僕の家庭が細部に渡るまでセピア色で描かれていた。色彩感覚を忘れながら、架空の映画を網膜に貼り付けることに熱中する。
その場所には、僕が母親と認識する人物はおらず、僕がキャリィと呼んでいた使用人が肉料理をコトリと僕の前に置いていた。そしてそこに、兄弟を一人確認する。兄も弟も何人いたのかわからないくらいだから、そいつが兄なのか弟なのかは、イマイチ判断が付かない。想像上のキャリィは僕と兄弟を見てにこりと笑い、僕はそれを見て、まるで母親みたいだと皮肉にも近い感想を抱いた。思い出補正が付着していてよくは思い出せないが、彼女の作る料理は美味しかった、気がする。料理センスは是非とも受け継ぎたかったが、その場合、謎すぎる食材選びのセンスも受け継がれてしまいそうで、中々どうして難しいところだ。
だが、そんな彼女も、もう死んでしまった。
父親、母親、兄弟は全滅して、親戚は以前から名乗り出る気配を見せない。血縁的にも心情的にも、アリネール家の一員を名乗れる人間は、おそらくもう僕だけだろう。
「えい」バウン。
ゆっくりと墓石の上に座り込み、心地良い冷却感を感じながら想起した内容は、驚くほど僕の心を動かさなかった。まあ、当然だろう。何しろ十年以上前の話だ。当時はいくらか感傷が宿ったのかもしれないが、今更僕がどうしようというのだろうか。そんなことよりも、今はキャロが大事だ。
数年毎に一度は訪れる第97管理外世界ブームにより、教会式の墓よりも多くなった墓石の数を眺める。現在、墓を新しく作ると言うとその大抵は第97管理外世界式のものだった。僕がフェイトさんに保護されてから作られたアリネール家の墓もその例外ではなく、大理石で作られた角張った形状の隣に、所狭しとアリネールの文字が羅列して刻まれていた。大体、兄弟のものである。
「えい」バウン。
キャリィ・アリネール。
そこに書いてあったその名前は、本名ではない。ただ、僕がそうであってほしかったと刻んだ、当時の感傷の名残のようなものだ。
今ここに、日常的に通っているのも、結局は惰性なのだろう。
単に習慣化しただけの祈りの動作は、何にも捧げられることなくすぐに終了する。神も聖王も信仰してない身の上としてはこの墓の下に家族が埋まっているとも思えないし、そもそも埋まるような死体さえ原形を留めてるものはない。じゃあ何のために通ってるんだよと聞かれると、理由が不明瞭で困るから、適当に僕は墓参りマニアを自称していた。
「えい」バウン。
トラウマとか悲しい過去背負ってるとか、そんなのになりたいわけじゃないけれど。
どうにも自分が昔と変わっていく感覚は、慣れない。
心に吹いた僅かながらの風を溜息として排出して、墓雰囲気だけは涼しい墓地の蒸し暑さの中に溶け込ませる。ついでに、先ほどから眼球が視認を拒否していた光景が、聴覚を介して像を頭に浮かび上がらせてきた。溜息を追加する。
「………………………………………………………………アインハルトちゃん、何やってんの?」
二回ほどこのまま帰ってしまおうか迷ったが、これも年上の務めだと寛容さと諦観を抱き合わせて尋ねた。仕方なく視線をアインハルトちゃんの方向に固定する。
「ドッジボールです。クラウスと」
「お兄さんまさかマジでやるとは思わなかったぜ。怒られないの?それ」
「嫌ですねその時のためにフィアッテさんがいるんじゃないですか」
「怒られないと思ってんじゃねえぞてめえ」
教会式の墓に一心不乱にボールを命中させていたアインハルトちゃんが、喧嘩の叩き売りを開始した。今日は特売の日だったかなと訝しんでいると、左右で色の違う眼球がじっとこちらを見つめる。ガンを付けられている。遂にアインハルトちゃんも不良化して、この右手の教育的指導を振りかざす時が来たかと、密かに握り拳を固めた。
アインハルトちゃんは僕をしばらくじっと見てから、アリネールの墓石をその網膜に写す。
そして、目をぱちくり。
「あれ、フィアッテさん、いつの間にお亡くなりになったんですか?」
幽霊でしたっけ、と真顔で失礼なことを聞いてくる彼女の視線が突き刺すものは、フィアッテ・アリネールの文字が刻まれた冷たい石。
「ああいや、それはただ単に僕の父親から名前を受け継いだだけだよ。二世とか二代目とか二号機とか、そんな感じ」
「へぇ。……フィアッテ・アリネール、クロマ・アリネール、スカニア・アリネール、アクシオム・アリネール、プレーリー・アリネール、ノマド・アリネール、トルネオ・アリネール……。あのすいません、少し多くありません?これ、位置的に全部お父さんのフィアッテさんよりも後にお亡くなりになった方々ですよね」
「それ、全部僕の兄弟だよ。自分でも何人いたかわからないから数は割と適当かもしれないけど」
「……複雑なご家庭なんですね」
「今はもう過去形だけどね」
複雑な家庭も今は昔。今では立派に天涯孤独。子孫を残すことも望み薄なので、最近はもうなのはさんみたいに養子取ったらいいんじゃないかなとか思い始めている。
もしキャロと万が一そういう関係になれたとしても子供は望めないし、ねぇ。
「……あれ、でも今さっきのが全員ご兄弟だとしたら、フィアッテさんのお母さんは?……あ、えと、すみません。踏み込みすぎでしたね」
途中で言葉を尻すぼみにさせながらちらちらと僕の顔色を窺ってくる彼女が、先ほどのド失礼な人間と同一人物かを疑ったが、クローン説を推してくる視覚を瞬きで遮り、根は良い娘なんだ説を採用する。だが、以前は通り魔もしていた前科者予備軍の娘を良い娘と表現するのには若干の抵抗がないでもない。そのため、それぞれが相殺して取り敢えずは普通の娘としておくことにした。
「気にしないでいいよ。諸事情からいないだけだし。それに、僕もあの人を母親だとは思ってなかったし。ソリオ・アリネールってのがあの人の名前だったんだけど……」
本来入るはずでなかったキャリィ・アリネールの文字が入ってるのが代わりになっているように、僕の母親の名前は刻まれていない。別に、死人に対して嫌がらせを決行しようというわけではないが、僕の当時の心情的にはこうなってしまうのも致し方なしだろう。
気まずい空気を誤魔化すように顔の紅潮をポリポリと掻いて取り除こうとするアインハルトちゃんに、気にしなくてもいいと意識して軽めに声を掛ける。気にしていないのは本心だから意識してというのもおかしいが、やはりポーズは重要だ。
それでも、尚も顔に曇天を含ませるアインハルトちゃん。フェイトさんから何らかの事情を聞いてるのかなと思いながら、独り言のように漏らす。
「……本当に、全く気にしてないんだけどねえ。正直、まだ小さい頃だったから印象薄いし」
それに、僕があの家庭に誕生しなかったらフェイトさんに保護されることもなく、それは当然キャロとも出会えてなかったということであり。
それを考えるとやっぱり僕はあの母親の子で良かったのだろう。例え僕が事実よりもずっと悲惨な目に合ってたとしても、キャロに会えたという事柄だけで一気にプラスに転ぶのだから、やっぱりこの慕情は病気に近いものなんだなあと、そろそろ医者にかかってみるかを真剣に検討した。
おそらくは酸素不足でなく退屈や眠気からやって来る欠伸に呼応して、涙腺が壊れたかのごとく涙の生産が高速化される。だが、重量に耐えきれなくなり流れ落ちるほど貯蔵は十分でなく、視界の端に潤いを持たせる程度で表面張力により落下を阻まれている。
「…………フィアッテさん。ええと、何というか、その……」
「うん?」
「言いにくいんですが」
「うん」
「ヴィヴィオさんと恋人になる方法は……?」
「この空気の中で言うとは恐れ入ったぞ」
まあきっと、わざとなのだろうけど。
彼女の表情から内心を透視できるほどアインハルトちゃんに精通しているわけではないが、それでも、空気の読めない娘じゃないことは知っているし、僕に気を遣って言ったということは明白だ。
本当に母親とかのことは割とどうでもいいと思っているのだが、アインハルトちゃんの気遣いをわざわざ無碍にすることもないだろうと、僕よりも低い位置にある彼女の頭を軽く撫でてみた。
「……子供扱い、ですか。それとも、セクハラですか」
アインハルトちゃんが気にくわないように目を細める。
「そりゃあ、歳は一歳差とは言っても、ヴィヴィオちゃんたちと一纏めだったからね、君。僕から見りゃあ子供も子供よ。多分、五年後くらいも子供」
「いつになったら私は大人になれるんでしょうか……」
「きっと、僕の主観ではいつまでも子供のままだよ。まあ、先に生まれた者の特権とでも思って諦めてくれ」
きっとフェイトさんもこんな気持ちだったのかなあと、適当に保護者の魂を捏造して胸に宿らせた。勿論、三歳よりも後に芽生えた魂は僕に定着せず、百歳まで長らえるまでもなく霧散する。
「…………ところで、驚いてないんですか?」
しばらく考えるように停止していたアインハルトちゃんだが、再起動を完了してから脈絡という言葉を投げ捨てて話しかけてきた。「何が?」つい、面白みも捻りも付与されていない、素材の味を生かした返答を脊髄が打ち返す。
「ヴィヴィオさんのことです」
とアインハルトちゃんが短く切って言う。
忘却の彼方とまではいかないが若干脳内から閉め出していた情報に、眼球をぐるりと一回転させた。額に滲む汗は緊張でなく、容赦なく降り注ぐ真夏の日射しから浮き上がる。やっぱりこれ、僕に相談することと違うんじゃないかなと頬の片方が自然に持ち上がった。
……だけど、うん。まあ。
「驚いたっちゃあ驚いたけど……別段否定はしないし、いいと思うよ?人が人を好きになるのは自由だし、それを秘めるも出してみるも勝手だろうよ。……それがちゃんと受け取って貰えるかは別問題だけどさ」
「初恋もまだの人の言葉とは到底思えませんね」
「初恋もまだだからこそ、見えてくるものもあるのさ」
大体、嘘だけど。
内心のみで付け加えられた言葉をアインハルトちゃんがサイコメトリーしたのか、不機嫌そうに眉をひそめる。と思ったら、
「それ、嘘ですか?」
と言ってくるものだから、脳内で適当に修飾した言語やアインハルトちゃんの洞察力もなかなか侮れない。実際にアインハルトちゃんがサイコメトリーのレアスキルを所持している可能性に備えて、心の閉ざし方を覚えておくべきだったかなと、引きこもり学の不勉強を嘆いた。
額に滲む汗の主成分が焦りを含んだものへと変化する。表情が不自然になってないかを今すぐ鏡か何かで確認したいが、その他の用途では運動会をするくらいしか思いつかない墓場ではそれも望めそうにない。
「あー、バレたか。全部小説からの引用だよ。ちょっと格好良いこと言ってみたかっただけ」
「やっぱりですか。フィアッテさんは格好付けても格好悪いんですから、格好付けなくてもいいんですよ?」
最大限好意的に捉えたら、自分の前では素でいてもいいと言うアインハルトちゃんに、にっこりと笑いかける。アインハルトちゃんも、そんな僕を見て、控えめながらも眩しさと若さの迸る笑顔を用意した。
「僕が怒らねえと思ってんじゃねえぞオラ」
「ひょ……!?やめてくださいセクハラで訴えますよ!勝ちますよ!」
「うるせえ頬千切るぞ」
「いひゃひゃひゃひゃ!?」
Q.主人公の過去描写いる?
A.ぶっちゃけエイリアンもいらないかなって思った
Q.アインハルト……?
A.すまない……本当にすまない……
Q.ていうかキャラも……
A.本当にすまないと思っている……