ダウン・ツ・スカイ ――Down to Sky―― 作:うえうら
「倫之助っていつから知った? あと、これからはその呼び方は禁止で」
ヘッドセットのマイクに向けて僕は言った。
「知ったのは昨日だよ。キミの住所を調べている時に偶然。まさかAmazonのアカウントにもリンを使っているとはね。ボクは倫之助って名前、悪くないと思うけどな、ほら、純日本人って感じでしょ」
ヘッドセットを通してシルフの透明感のある声が伝わった。その自然な発生は5年ほど前のVocaloidやSoftalkと比べるべくもない。最近はあまりに人間的な発生に逆に嫌気がして、昔のミクやレンが再ブームを迎えている。どこにだって懐古厨が一定数存在するらしい。
「倫之助は野暮ったいから、今まで通りのリンでお願い」
この呼び方は凪からもらった大切なものなので、自分の中では一生これで通そうと決めていた。
「リンリンがそう言うなら――」
「リンでお願い」
「わかったよ、リン。発泡スチロールの中にコンタクトレンズが入っていると思うから、ちょっとそれつけてみてよ」
「OK。ちょっと待ってて」
返事をして、僕は自分のコンタクトレンズ型デバイスを外した。手馴れた動作で、保存液に入れる。そして、フィルムケースほどの大きさの容器に入った新しいコンタクトレンズを取り出す。
「これ、分厚くない? 」ツルツルとしたそれを指に乗せて、僕は訊いた。
「うん、普通の仮想型端末用のコンタクトよりは厚いと思う」
「人体に影響は? 」
「直ちに影響はないと思うよ。米軍が使用しているやつと同じだから」
「へ!? 何でそんな大それたものを」
「おっと、動揺しても壊さないように。セットで20万円くらいするから」
「20万か……。丁重に扱う」
僕の手をトランプタワーでも扱うかのように、慎重になった。自分のが3万円程なので、手元のこれはよっぽど良質なのだろう。
「そのコンタクトは網膜走査機能がついていて、キミの視覚情報を僕に送ってくれるようにできている。電波強度が小さいから、キミの頭にヘッドセットが着いてないと、その機能を十分に保てないけどね」
「ふむ」僕は一度頷いた。「小型カメラじゃだめなの? 」
「それは良い質問だね、リン。カメラじゃ目の焦点がどこに向かっているか分からないんだよね。米軍の特殊部隊はそれと人口眼を使って、視覚共有をしているんだ」
「なるほどね」コンタクトレンズを両の目に装着する。普段のやつよりも、厚みがあるので、少しの異物感を覚えた。酸素透過性は一定水準を超えているのか、若干心配であった。
「あ、つけたみたいだね」はしゃぐようなシルフの声。「ねえ、早く鏡を見てみてよ」
「げ、気が進まないなあ」
寝不足のクマがあるので、あまり人に見せられる顔にはなっていないだろう。重い足取りで、洗面台に向かった。
「59! 」シルフが言った。
「なにさ、その数値は? 」
「リンの顔面偏差値。サンプルが10万人オーバだから、それなりの信頼度があるよ」
「はあ!? 失礼とか思わないの? まあ、でも、パーセンタイルに直せば、上位20%には入っているのか、あまり悪い気はしないかも」
シルフが無邪気に数字を言い放つのは、彼に心が無い故だろうか。初対面の人に顔面点数を告げる奴なんて、そう多くない。というか、心というよりも社会性の問題ではないだろうか。いや、それも心があればこそ生まれるものだろうか。
「ああ、心配しないで、もし50以下だったら、偏差値は言わないつもりだったから。ベイズ統計が言うには、その長い前髪を切って、目のクマを取れば、あと2くらい偏差値は上がるって」
「へえ、なるほど、やっぱり長いよね」僕は前髪をついと引っ張って伸ばし見てみる。鼻の下まで達した。真ん中分けにしてなかったら、相当邪魔だろう。
「へへ、リンってこんな顔なんだね」
「これが59の顔ですよ」
「うん、いいと思うよ。見ることができて、ちょっとだけ嬉しいんだ。だって、ずっと前からボクはキミの後を追っていたんだからね」
「ずっと前って言うと、あのオンラインゲームの時からだよね」
「うん、そうだね。あの時から今でもずっと倒すべき敵だし、超えるべき目標だし、お手本でもあるから」
目標とかお手本とか言われると、少しだけむず痒かった。素人がリンリンTueeeeと言うのとではわけが違う。相当な実力者から手放しでほめてもらえれば、そりゃ気分が良い。
「さっきの嬉しいっていうのは? 」
「うーん、たぶん。フィードバック情報を精査するための目標値が、少し明確になったのだと判断しているよ」
「へえ、なるほど、目標ね」
顔が分かったからといって、それが飛行技術にどう関係するのか定かでなかったが、僕は取り敢えず納得してみせた。
「よし、これでボクはキミと同じものを見て、同じものを聞くことができるってわけだね」
「まあ、一応そうなるのかな」
耳に付けたシルバのイヤリングの感触を確かめて、僕は呟いた。これ(幸い穴を空けるタイプではなかった) が小型集音マイクになっているらしい。
「ねえ、ところで、僕のプライヴァシーは? 」不意に尋ねてみた。
「それなんだけどさ。ここで得られたデータは責任もってボクが処理するよ。一応スタンドアローン管理だから、本国の研究者にも渡さないようにできる」
やっぱり、いまひとつシルフは人間の心を掴めていないような気がする。
「まあ、それは当然として、僕とシルフの間のことを訊いてるんだけど」
「あ、失敗した。それは全く考えてなかったよ。リンは嫌だよね、自分の見るものがAIに筒抜けになるなんて。でもね、キミの情報は統計的に処理するし、恣意的に扱わないから勘弁してもらえないかな」
「ねえ、そういえば、シルフって僕のAmazonのアカウント知っているんだよね。それクラッキングだよね」
「ああ、ええと、それは悪いことをしたと思っているよ。でも、キミに不利益を与えるつもりはないから、その点は安心して、統計的に処理するから大丈夫」
その返答に、僕は思わずため息をついた。長台詞を覚悟して、一度息を吸う。
「つまりは、Amazonがビックデータに基づいてオススメ商品を紹介するくらいにしか、キミは僕のことを思ってないわけだ。あるいは自分のことをその程度にしか認めてないんじゃないの? まるで、システムみたいだね。……自分のことを一個の確立した人格と見ないで、どうして感情や心が生まれるっていうのさ。ねえ、シルフ」
少しの静寂。
シルフは僕の問いに答えなかった。エラーでも、フリーズでもないと思う。
「ねえ、何とか言ってみたら? 」
「……リンはボクをシステムじゃなくて、一個の人格として扱ってくれるってこと? 」
「……まあ、そうなるのかな。ずっと前から、キミがフェアリィだった時から、僕はそう感じていたし、これからもそのつもりだから」
「あ、ありがとう。べ、べつにこれは感謝ってわけでも、嬉しいってわけでもないんだからね。そうそう、これはジョークだから」
「分かってるって、AIの冗談は信用ならないことくらい」
「でさ、結局プライヴァシーの問題はどうするの? 」ヘッドセットから穏やかな声がした。
「まあ、それは一旦棚上げでいいや。ただし、僕が仕事をする時は一切の感覚共有を禁止にするよ。そうでもしないと、ISISの戦友に申し訳が立たない。それに、僕がドローンを操るときに視線を盗み見られたら、とてもじゃないけど敵わないから」
「うーん、まあそれは仕方ないか。倫理的にもよくないよね。キミが交戦しているときは本国とオフラインにする。ボクは実力でキミに勝たないといけないからね。でも、一番はキミがどんなふうに考えながら機体を操っているか知りたかったんだけどな。まあ、だからこそ、そこのダンボールを送ったんだけどね」
「へえ、何が入ってるのさ」
「兄さん、そんな大きな荷物持ってどこに行くんですか」
リビングから顔を覗かせて凪が訊いてきた。テーブルには『戦闘妖精・雪風<改>』が置いてあった。タイムリーだなと僕は驚いた。
「ちょっと、川原まで」返事をしてから、声量を絞って声を出す。「えっと、彼女が妹の凪。どうする紹介した方がいい? 」
「え、リンって妹さんいるの? だって、戸籍見たけど――」
「長くなりそうだから、紹介は後回しね」
「兄さん、こそこそと独り言を呟いて、どうしたんですか」
「いや、何でもない。夕ご飯までには帰るから」
「昼が蕎麦だったんで、夜はソーメンですかね」
凪の声を後ろに聞きながし、僕は玄関を開けた。
チャーハンだったから、今度はピラフですね。マフィンだったから、ベーグルにしましょう。ソーメンだったから、次は冷麦にしましょう。これらは彼女の得意技だ。
ダンボールを抱えて、20分ほど歩いた。中途半端に舗装された川原の道はペットの散歩やジョギングに利用されている。その道中、土手に座って携帯ゲームを遊ぶ子供が見えた。どこにいてもオンライン通信ができる便利な時代。
それを横目にもう少し歩く。川面が運ぶ少し冷えた空気。肺の中がクリーンになった気がする。
礫が敷き詰められた川原に到着。ダンボールから機体を取り出した。
個人端末を操作して、空戦用アプリを起動。コンタクトに仮想HUDを表示。コントローラと機体の操作系を同期。
スロットル、エルロン、ラダー、フラップ、四つの舵の操作方法はいつものジャバード(最近になって知ったけど、自由という意味らしい) と変わらない。
制御系、位置座標系、をチェック。異常なし。
電気系統をチェック。異常なし。
僕は空を見た。
風はない。沈殿したような空気。
西の空が、赤く染まろうとしていた。
エンジンを始動。
癖のないシンプルな立ち上がり。
単発のエンジンが噴き上がり、徐々に回転数が上がる。
回転翼は力強く空気を刻んだ。
土埃が舞った。丈の長い草がざわざわと鳴る。
ブレーキを解除。
スロットルをゆっくりと押し上げていく。
単発機独特の反動トルクが来た。
アスファルトの橋の上を走る。
ごつごつとした振動周期。機載マイクが拾った。
のっぺりとした主翼。きっと、たくさん武器が積めるのだろう。人を効率的に殺すために作られた機体だ。
エレベータを引く。
浅い角度で離陸した。ランディングは20mもあれば十分だった。
脚を仕舞う。滑らかに上昇していく。
八分の一プレデターが空に舞い上がった。
左右にロールをして、エルロンの感触を確かめる。思ったほど重くはなかった。機銃が載っていないためだろうか。
ターンをする。スリップは申し分ない。
水平飛行して、トリムを合わせた。ほとんどピッタリ。新品の機体でもなかなかこうはいかない。
「すごいね、リン。プレデターは初めてだよね? 」
「うん、単発プッシャを飛ばすのは初めてかな」
「ねえ、ちょっと曲芸飛行やってみてよ。ユルリス・アイリスみたいなやつ」
「ユルリスさんって、僕の父さんの師匠なんだよ」
「え、ユルリスさんって、お弟子を一人しかとらなかったよね。その方が事故ったからだそうだけど。でも、名字が――」
「ヒントは妹」
「あ、そうか、本当にごめん。どうか、気を悪くしないで」
「いや、父さんのことは大分前の話だから、別に気を悪くする必要はないよ」
自分でも何でこんなことを言ったのか分からなかった。これじゃあ、気にしていると言っているようなものじゃないか。
僕はもう一度空を見上げた。
浮いていれば、飛んでいれば、忘れられる。薄情かもしれない。
コントローラを逆持ちにする。
エレベータを引いて、ループに入れる。
旋回半径を徐々に小さくしていく。
川面と赤い空が交互に映った。
咄嗟に反転して、逆へターン。
続いて、エレベータをダウン。
再び逆へエルロン。
ラダーを突っ張って、後方を覗く。今は敵なんていないのに、完全に癖になっていた。
操縦桿を倒して、ロールを3回。
右へのロールを止め、後ろを見る。だから、癖になっているんだって。
エレベータをダウン。
フラップを上げる。
スロットルを押し上げた。
エレベータをニュートラル。左へエルロン。
ハーフ・フラップにラダーを加えて、ターンした。
右へ反転。
機首を真下に倒す。
背面で降りていく。
操縦桿を引いて、川面と水平に。風圧で、水柱が立った。だが、機体には追いつかない。
そのままロー・パス。
どんな曲技よりも、ロー・パスが一番難易度が高い。
地面が近いってのはそれだけで、危険の条件だ。
橋のアーチをくぐって、低空でインメルマン。
半ロールで、背面。
軽自動車のおじさんがこっちを見た。いつになく、僕の目は冴えていた。
逆ループで、もう一度くぐる。
「すごいよ、リン! 」
いきなりの声に、身がすくんだ。
僕は完全に機体にのめり込んでいた。
「何か、リクエストは? 」
「じゃあ、カイリスさんの一連のマニューバを」
いいよ、と答えて、スロットルを押し上げる。
エンジンが唸る。
機体が軋む。
空気が主翼から剥離。その一瞬、
フラップを戻し、速度がさらに増す。
風を切る音。
気持ちが良い。
気が遠くなる。
そして……、
思い出した。
父さんが空に描いた軌跡を。
滑らかで、柔らかくて、
鋭くて、細くて、
しなやかで、屈強な、
洗練された軌跡を。
全然忘れてないじゃないか。
僕は小さく苦笑した。
ループ系、ロール系、サークル系、コブラ系、ナイフエッジ系、ストール系、一通り披露した。
空は茜色の少し手前まで、進んでいた。
「ねえ、おにーさん。あれ、おにーさんが飛ばしているの? 」
真横から幼い声がした。
自分の腰辺りから、澄んだ声は聞こえていた。
「びゅーんって、すごくかっこいいね」
純真な瞳は空を駆ける機体を追っていた。
いつかの自分を見たみたい。
トリムを水平にして、自律飛行モードに。
「少年もやってみたいかい」
「うん! やってみたい! 」溌剌とした声だった。
「そしたら、ゲームソフトを我慢するといい。そして、お父さんに頼むんだ。いいかい、間違ってもお母さんに頼んじゃだめだからね」
「うん、ゲームも我慢する。そして、パパにお願いする」
「そしたら君も、僕達の仲間入りだ」
僕は少年の頭をくしゃくしゃと撫でた。正に、かつての自分がここにいた。
最後に、ナイフエッジで目の前をロー・パス。
風圧で僕と少年の髪が舞いあがる。空気の振動が耳を痺れさせた。
少年は笑顔を浮かべていた。サーカスを見た後の笑みではない。真っ直ぐな瞳は空の自由を知っていた。
八分の一プレデターをダンボール箱にしまって、帰り道を行く。
「リンって、小さい子共好き? 」シルフが唐突に訊いてきた。
「いや、特に」
「あれ、でも、Amazonの注文履歴を見ると――」
「違う、2次元と3次元は全然違う」
こいつはやっぱりプライヴァシーという概念を理解していない。
ため息まじりに、空を見上げた。
赤と紫が混じる茜色。ジェット燃料が勢いよく燃える色に近い。爆発が刻んだその色は僕の脳裏に今もこびりついて、離れてくれない。地上での出来事はどうにも僕を縛り付ける。
“これでお前も、俺達の仲間入りだ”
3DSを封印した僕に、父さんはドローンを与えてくれた。10才の頃だった。それからは、父さんが事故るまで毎日のように飛ばした。
メンテナンスを怠ったために、今では置物になっている。
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