ダウン・ツ・スカイ ――Down to Sky――   作:うえうら

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10 心の在処

 扉を押すと、カランカランと金属製のベルが鳴った。挽かれたコーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。間接照明はおとなしく、ゆったりと時間が流れている。

「お一人さまですか? 」店員が愛想よく訊いてきた。

「二人で、いえ、一人です」僕は答えた。

 銀盆を持った店員は不思議そうに首を傾げる。それから、リセットしたみたいに機械的な動きで、僕とシルフを奥の席へ案内してくれた。左側の窓に外の景色が映る。車道の向かいにさっきのデパート。6月になって長くなった日も、既に落ち切っていた。

 横切るテールライトが速い。

 軌跡を目で追った。

 癖になっているのだ。

 僕はくすっと笑う。

 時刻は、20:00ちょっと前。落ち着いた雰囲気の喫茶店には客がぽつぽつと座っている。家族連れは少なく、カップルや女性同士が多い。

 僕はコーヒーを頼んだ。作り置きしているんじゃないかってくらい、早く出てきた。自分の味覚に自信を持てないので、どっちでも大差はないだろう。白い(ふち)の黒い湖面には僕の表情だけが浮かんでいる。

「で、話って言うのは? 」僕は言う。

「うん、ええと、何て言おうかな、うーん」シルフが向かいの席に座っていたら、目を泳がせていただろうか、それとも、泣きそうな顔をしているのだろうか。僕は彼女の言葉がまとまるまで待った。「このままいくと、僕の記憶が無くなると思う」

「このままっていうのは、シルフじゃなくて、バンシーが選ばれたらってことだよね」

「そうだよ」

「今は、どっちが優勢なの? 」

「たぶん、バンシー。あっちは元々F-22のsAI(補助人工知能) ってキャリアがある。加えて、この前にリンの機体を落としたから、間違いなく、向こうの方が評判がいいよ」

「そうか、僕のせいでもあるのか」

「そうだよ! 僕はリンが落とされるとこなんて、見たくなかった」

「ごめん」僕は祈るように、手のひらを合わせる。目も瞑った。これは誠意が伝わるようにっていうジェスチャ。

「あ、こっちこそごめん。こんなの八つ当たりだよね。でも、リンを落とせるのはボクだけって、どこか勘違いしてたみたいなんだ」

「そう……」僕はどんな顔をすればいいか分からなかった。

 八つ当たりじゃないよ、と言ってもよかった。でも、そんな生ぬるい優しさは無意味に思える。

 だから――

「記憶が消えるっていうのは? 」

 ――いきなり核心に触れた。

「そのまんまだよ。僕の顕在値の全てがバンシーのそれに上書きされるってこと」

「顕在値に収められているのは、空戦用アルゴリズムと流体力学の計測表と再帰的学習(フィードバック)処理のための評価関数と――――」

「それと――」シルフの声が僕の言葉を遮った。「中長期の記憶領域」

「それおかしいって、普通じゃない! 」

「いや、そんなに変じゃないよ」

「なんで、記憶領域が顕在値にあるのさ? 」食いかかるように僕は訊く。

「最近の記憶を、わざわざ走査したり探索したりは不効率だからね。それと、記憶なんて非線形で定量化も定性化もしづらいデータは上手く圧縮できないし、検索もしづらいからかな」

「なるほど……」僕は言葉を吐き出す。「潜在値に入れておけるのは機械可読が容易なデータ群ってわけか」そして、納得してしまった。

「うん、そうなるね」

「記憶のバックアップはとれないの? 」

「ボクは自分のソースコードを(いじ)れない。その権限がないんだ」

「僕じゃあだめ? 」

「リンが国防省にクラックできるなら……」

「そうか……」僕は目を伏せる。「じゃあ、何かできることは? 」

「その時が来るまで、一緒に生活することかな……」

 それは、緩慢な自殺のように思えた。

 僕は静かにコーヒーを(すす)る。溜まった沼のようで、苦味しかない。黒い液体はひと肌よりも熱がない。

 周りの視線が僕へ向けられている。きっと、独り言を(わめ)いているように見えるのだろう。でも、今はその視線が気にならない。

 コーヒーカップから顔を起こして、向かいを見る。そこにシルフはいない。

「でも」僕はヘッドセットを包むように触れる。「人格は残るんだよね」(すが)るように言った。

「記憶がなくなったボクは今のボクと本当に同一なの? 」シルフの声は今にも泣きそうだった。感情はなくても必死にそれを表そうとしている。「ボクは嫌だよ。記憶がなくなったらリンにもう会えないかもしれない。もし会えたとしても、リンがボクの抜け殻と仲良くするなんて耐えられない」

「シルフ……」

「ねえ、リン……。僕は忘れたくないよ。

 地上がこんなにも刺激的な場所だったなんて、知らなかった!

 機銃を打つだけのシステムだったボクを、リンは一人の人格として認めてくれたよね。それがとても嬉しかったの。

 リンと一緒に本を読んだり、漫画を見たり、テレビを見たり、空とは違ってゆっくりと流れる時間が心地よかったんだ。

 今日は好きな人とデートの真似事もして、消えるにはいい日かな、とも思えたけど、やっぱり無理だよ……」

「あの、シルフさん?」僕は訊く。「その好きな人っていうのは」

「何でリンはいちいち理由を求めるの? これは別に目標値がどうたらとかじゃないよ」

「じゃあ、僕に好かれるに越したことはないからかな」

「違うよ、そんなんじゃない! 」シルフは声を荒げた。「そりゃ、リンが僕を好いてくれたら嬉しいよ。効率的に飛ぶという目標値にも近づくしね。でも、それは僕が君を好きかどうかとは別問題じゃないかな」

「その好きはどういう意味? 」

「特に意味はない。ぽっと浮かんできた言葉だから」

「それ」僕は天井を指さす。「近いんじゃないかな」

「近いって何に? 」

「シルフが求めてたものに」

「え!? これが、そうなの?」

「たぶんそれが、感情とか、心とか、直観とか言われるもの」

「本当に? ボクはもっと複雑なものだと思ってた」

「理由がないのが最大の理由。戦闘機乗りは判断よりも早く舵を切る。思考とは別のところ、つまり直観や感覚で舵を切るんだ。それはとってもシンプルな原理。思考に先立つものだから。シルフはその言葉の理由が言えないんでしょ」

「うん、考えるよりも速くこの言葉、いや、言葉というよりも概念が現れた」

「じゃあ、きっとそう」

「そうか、これが……」

「よかったね」僕はコーヒーを啜った。「これで、もっと効率的に飛べるかもね」今度はしっかりと味がする。

「うん、本当に良かった。ありがとね、リン」

「ありがとうって、僕は何もしてないよ。それよりも、バンシーよりも効率的だって、見せつけてやらないと」

「そうだね、アップデートされるまで、あと1,2回は飛べると思う」

「じゃあ、家に帰って、練習だ」

「うん! 」

 僕はコーヒーを飲み干して、席を立った。

 カランカランと鳴るベルの音が子気味よい。

 帰りの電車で僕はキィホルダのストラップを個人端末につけた。

「ボクのも隣につけてほしいな」

 僕は黙って希望に従う。端末を振ると、翼を並べた2機が、くるっと回った。こんなに近くで飛んだら、片方が煽られてしまうだろう。

「いいね」シルフが言う。「お揃いって感じで、嬉しいかも」

「そりゃよかった」

 嬉しいってどういう意味? そう尋ねようと思ったけれど、それは無粋だと考えて、僕はただ首を縦に振った。電車に揺られた2つのキィホルダはじゃれあうように跳ねている。

 

 

 端末を改札機にかざして、駅を出る。シルフはこれってタダ乗りになるのかなって、真剣に考えていた。僕は電車のスペースを占領しないから、乗ってすらいないと答えた。ちょっと不機嫌になるシルフが少しおもしろかった。

 玄関を開けると、アルコールの匂いが鼻を刺した。家の匂いと混ざって、濁って沈殿しているみたい。個人端末で時間を確認すると、21:00を回っていた。

 凪の様子が気になって、リビングへと歩く。

「兄さんも、どうですか? 」缶ビールを片手に妹が言う。「一人じゃさみしいれすから」

 顔は素面そのものだが、呂律は安定を欠いていた。

 既に、4つの空き缶がテーブルの上に並んでいた。白い皿には、柿の種の残骸のピーナッツ。白いキャミソール姿の彼女よりも、僕は彼女の嗜好が気になっていた。風邪をひかないか心配だったけど、僕は2階へ行くべく、リビングを横切る。シルフと一緒に練習をしたかったからだ。

「兄さん、待ってくらさい」リビングから声がした。「最近、付き合い悪くないですか? 」

「凪はどうしてほしいの? 酌をしてほしいの? 」

「いえ、そういうわけではないんれすけど、とにかく、一緒に飲みましょうよ。兄さんの分の烏龍茶もありますから」

 半歩階段にかけていた片足を外して、僕は(きびす)を返した。

 このままだと、酔っぱらった妹が這ってでも向かって来る気がしたからだ。僕のもとにたどり着けるならまだいいが、蹴躓(けつまず)いて怪我でもしたら目も当てられない。妹は彼女の母親ほどではないけれど、酒癖がそれなりに悪いのだ。

「シルフごめんね」僕はこそこそと言う。「あの調子だと、凪はすぐ寝ると思うから」

「分かったよ、リン」シルフは答える。「ねえ、2人って本当に兄妹だよね? 同棲しているけれど、恋人とかじゃないよね? 」そして、こそこそと訊いてきた。

「妹じゃなかったら、恋人にしたいかも。……それで、僕と凪に血のつながりはない」

「え……」エラーが起こるんじゃないかってくらい、シルフの声は強張っていた。「嘘でしょ……リン……」

「なんて声出してんのさ、シルフ」僕は肩をすくめて見せる。「冗談、冗談だってば」

「……よかった、冗談ね」

「え、まさか本気にした? 」

「AIにジョークの理解は難しんだよ。まずは文字通りに受け取るように作られているんだから」

「そうか、ごめんね。今度から気を付ける」

「本当だよ? スクリプトがぶっ飛ぶかと思ったんだからね」

 シルフの台詞が比喩だということは分かる。だから、僕はくすっと笑った。

「兄さーん。烏龍茶から炭酸が抜けますよー」

 凪の声を聞きながら、リビングに入る。彼女の思考の半分は夢の世界にありそうだった。

 アルコールの匂いは既に気にならなくなっていた。人間は上手いこと作られている。

 そんな取り留めもないことを考えながら、僕は凪の(はす)向かいに座った。

 




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