俺氏、江ノ島高校にてサッカーを始める。   作:Sonnet

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第79話

 さて、全国サッカー選手権大会の初戦を迎えることになった日の早朝。

 いつも通り早い時間に目が覚め、同時に意識が冴えわたり視界がクリアになる。この体になってから二度寝をする危険が無くなったのは良いものの、布団の中で微睡(まどろ)む幸福感が薄れてしまった。昔感じた体が軋む感覚は無いものの、ただただ時間を無為にしているという意識が強くなってしまったのだ。

 

「ふ! ……っふぅぅ」

 

 両手を組んで天に向かって突き上げ伸びを一つ。

 クリアになっていた意識を塗りつぶすように、今日の試合の事が思い出される。今日の俺のポジションから初戦の相手となる静名学園の各選手のプロフィール。相手チームの基本的な戦術から、一番注目されている選手の情報。

 あぁー……と意味なく声帯を震わせただけの空気が漏れる。

 ほとんど時間がかからずに確認作業が終わってしまっただけに、早く起きた意味が無くなってしまった。試合が始まるまでの時間は約5時間。すぐに朝食をとったとしても余りある時間をどう消費して良いものか。

 嗚呼……この時代にあのゲーム機があれば良いんだが、次世代どころの話じゃないし……そもそも次世代機が出たばかりのゲーム機だ。俺の記憶にあるあのゲームは仮想のものでしかない。残念だ。

 

 本日の朝食は、バランスを考えて野菜を中心としたメニュー。

 ……ではなく、朝6時だと言うのにがっつり豚肉を使ったミルフィーユカツ丼と赤みそを使った味噌汁だった。思わず頬が引き攣ってしまった俺は悪くないだろう。

 

「お、重い……!」

「何言ってるの! 大事な全国大会なんだから、これぐらい食べて元気つけておかないと!」

「いや、さすがにこれは無いわ……」

「父さんもさすがにどうかと思うなぁ……」

「え、えぇっ!? そんな!」

 

 日本代表として海外に行ったときは専属のスタッフがいたから、あんまり気にすることなく食事をとっていたが、まさか家で朝からがっつり重い肉を食わされることになるとは……

 まぁ、食べるんですけど。

 正直、昔の俺だったらいくら高校生でも朝からカツ丼は食べなかった。と言うか食べれなかった。胃もたれで運動どころか普通の授業ですら危うくなる。

 『試合に勝つためのカツ丼』と、一種の祈願から察することはできると思うが、こと運動に関して母さんの考え方が少し古い考え方なのは認めよう。

 そして、それを理解しているもののまさか朝からカツ丼とは……と突っ込みを入れずに食べ始めた俺を見て戦慄している父さんは後で一発ボディブローをかますことに決め、箸でご飯と肉を持ち上げた。

 

 ――それから2時間。

 本日の試合会場に到着したわけだが、まだ試合開始まで時間はあるというのに会場周辺にはそれなりに車と人で賑わっていた。

 

「あーー……さすがにまだ腹が重い」

「どうしたの、ヤス」

「いや、朝からカツ丼食わされてな」

「え!? ちょ、さすがにカツ丼は……」

「ないよなぁ……でも食っちまった俺も俺なんだがね」

「あはは……」

 

 試合会場についたというのにまだ腹の中で肉と米が暴れている感覚のしている俺氏。さすがに会場に着くまでには何とかなるだろうと高をくくっていたのがまずったらしい。ぴょんと軽く二回ほどジャンプするが、いつもより腹部がずっしりしている。

 ……今からトイレに行って何とかなるか?

 腕時計を一瞥。試合開始までの時間を考えると、まだ余裕がある。すぐさま監督に一言告げ、速攻でトイレへ。それからしばらく、自分の腹部に力を込め、何気に変顔をしながら格闘すること約5分。

 すっきりしたお腹をさすりつつ江ノ高メンバーがいるベンチに向かうことに。

 

「お前は……江ノ島高校の不知火か」

「ん? ……えっと、どちらさんで?」

「俺は今日お前らの対戦相手の静名学園の石井だ。覚えておけ」

「ああ、はい……それじゃぁ」

 

 ぞんざいな感じで返事を返し、慌てて口元を左手で隠しつつそそくさとその場を去る。

 

「あ、おいっ!」

 

 なんか後ろの方から俺を呼び止めようとする声が聞こえてくるが無視無視。

 別に俺が石井とかって奴と話をする理由は無いし、ましてや今日の敵なんだから試合が終わるまで仲良くする義理もない。もし彼が日本代表に選ばれてて一緒に試合をした仲だったら話は別だが。

 それに、石井は3年だったと記憶しているが、精神年齢で言ったら俺の方が年上だし? なんか妙に上から目線だったのが気に食わないとか? そんな事気にしているわけじゃないけど?

 しかし、あれで今大会のMFの中でも前評判の高い選手だってんだから笑ってしまいそうになってしまった。親指で口角を触ってみると、少し吊り上がっているのが伝わってくる。

 あの石井って奴に笑ってたの見られたかな……別にそれでも良いんだが、さすがに感じが悪い奴だと思われているかもしれない。

 

 ……まぁ良いか(適当)

 

 で、ベンチに戻って話を聞いてみると、どうやら俺はベンチスタートらしい。

 なら慌ててトイレに行かなくても良かったのか。そうすればあの坊主頭の石井にも遭遇する事は無かったんだろう。……できれば出会いたくなかったが。

 試合開始直前。

 江ノ高イレブンの紹介をしているというのに、何故か俺の方を見てくる石井3年生。そんなに睨まれてもベンチスタートはうちの監督の意向なのでどうしようもない。

 がんばれーと気の抜けた言葉を連呼しつつ試合の展開を見守ることに。

 

 最初はFWの駆がボールを持っていたものの、相手が距離を詰めたことで後ろの荒木先輩にボールを戻してしまった。別に開幕早々から仕掛けていってもよかったと思うんだが。

 当のボールを持った荒木先輩はと言うと、軽くドリブルするだけであっさりとボールを石井に奪われてしまった。……完全に奪わせてますけどね。

 

『あぁっと!? どうした事か荒木選手! いともあっさりとボールを奪われてしまった! 江ノ高、これは逆にピンチになってしまったぞぉ!』

「いやぁ、荒木先輩ったら遊んでるんですかね」

「さすが不知火君。君はわかりますか」

「……え?」

 

 いやいや、適当に流してるようにしか見えないから呟いたんですが。何故か監督に拾われてしまった。荒木先輩がボール奪われた瞬間のどよめきで結構聞こえにくかったはずなんですけども。

 まぁ、荒木先輩の能力がいつもより落ちている。わけでもないし、何かしら体調を崩しているようにも見えないからボヤいただけだったんだけどね。

 

「彼らは、相手選手に詰められて対応に困ったとき、どうしても荒木君という優れた選手を頼ってしまう癖があるんです。その癖を何とか修正していかなければ、今後大会を勝ち進んでいくにつれ、強敵を相手にしたときに対応しきれなくなってしまう」

「……それで、俺もベンチからだったってことですか?」

「はい、そうです」

 

 笑顔で宣言されてしまった。

 そして、このチームの癖を修正するためだけの咬ませ犬的存在として見られている静名学園の生徒たち。これから何と声をかけていいかわからない。特に、超自信満々そうにこちらを睨んできた石井。ご愁傷様です。

 今は二列目の魔術師としての名で知られている(らしい)荒木先輩からボールを奪取できて悦に浸っているかもしれないが、前半でその気持ちも折れてしまうに違いない。

 ……いや、本当にかわいそうだ。


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