時計の針が深夜を指し示す頃、夜の帳が降りた艦娘鎮守府。
そこにまるで昼間のように騒がしい一角があった。
わたし達艦娘の、眠らない食堂である
窮屈に並べられた三列の長机に所狭しと押し込まれて座る艦娘達は、会話を肴に、戦果を酒に、とどまることなく皿を平らげていく。
赤城はその一角で、カウンターから受け取ってきたばかりの食事を窮屈に並べて悦に浸っていた。
(仔ウサギのリゾット、スイートポテト、玉葱のバター炒め、酢豚、取れたてブロッコリィのお浸し……締めのエビピラフ)
なんて節操がないラインナップだろう。最高だ。
「いただきまーす!」
わたしは、この時間が一日で一番好きだった。
安っぽい蛍光灯と、皿を受け取りに行くのもままならない通路とも呼べない通路、だけどレストラン顔負けの和洋揃ったメニューに、隣には戦友。
朝から戦い通しの夜戦組にとって、これが一日で唯一の楽しみなのだ。
「赤城さん、この新しいマリネとってもおいしいですよ!」
隣になった潮が嬉しそうにサーモンをのせた皿を寄せてきた。
潮は鎮守府に来たばかりだったが、とても純真な子だった。人の心によく気がついて、心根が優しい。そして、戦いになれば旗艦の望むことを率先して実行する。かわいい顔をした体育会系ばかりの艦娘には珍しい。きっと人気者になるだろう。
「あらあら、うふふ。それじゃあ頂こうかしら」
わたしはお返しのリゾットをあ~んして食べさせてあげようとして、口を開けたまま真っ赤になった潮をおちょくったり、摩耶が毎度のおバカなネタを披露していたのを潮と一緒に笑ったりして過ごす。
みんなと食事をする時間が、わたしにとって陸の上の時間のすべてだった。
「加賀さんもマリネ一口どうですか? 玉葱も辛くないですよ」
「あら、おいしそうね。こればかりで飽きてきたところなの。いいかしら潮」
対面では加賀さんと瑞鶴が、仲良く並んで牛フィレのローストビーフを食べていた。なにやら瑞鶴が一方的に加賀さんに話しかけているのだが、加賀さんはいつもの無表情で聞いているのかいないのか。
「──という訳で、この鎮守府にはもっと艦娘に見合うオトコが必要だと思うワケなんです! 加賀さん、わかってくれました?」
瑞鶴は身を乗り出して加賀さんに話しかけていて、周りが目に入っていない。
「瑞鶴、あなたも一口どう。おいしいわよ」
「えっ。ま、マリネ…………? も、もしかして、全然聞いてなかったんですか! ひとの話聞かないでずっとマリネ食べてたんですかあんた! ひどっ、ひどすぎますよっ」
「瑞鶴聞いて。あなたちょっと話長いのよ。あなたは元気いっぱいだけどわたしはすごく疲れてるの。簡潔に話してちょうだい」
「ぬぬぬぬ……結構大事な話してたのにぃぃ…………」
瑞鶴は、慣れない夜戦組で少しハイになっているようだ。空母でも、旗艦を務めるようになれば夜戦番が回ってくる。毎日、鎮守府全艦娘の十五パーセントが朝から夜戦までの全日任務をこなしていた。空母だけが休める筈がない。
わたしと潮はそれからもそれぞれのお皿を食べさせっこして楽しく過ごした。わたしは潮の八方煮、ピリ辛和え、味噌煮鯖。潮はわたしのスイートポテト、玉葱のバター炒め、酢豚。
どれが一番おいしいか、お互いにあ~んさせながら語り合うのはとっても楽しい。
潮とはとても良い食事仲間になれそうだ。
「ねえ瑞鶴、わたしたちもあれやるわよ」
「あれって、あ~んてしてるやつですか。嫌ですよ、加賀さん変なの食べさせるじゃないですか」
「恥ずかしがらずともいいわ。わかってるの、あなたも私とあ~んしたいって。目をつぶって口を開けなさい。ほら、はやく」
「いやだから、したくないですって。それよりちょっと私の話聞いてくださいよ、加賀さん。なんか胸がモヤモヤするんです。なんか変なんです」
加賀さんと瑞鶴がイチャついてるのを横目に、わたし達は調子よく、食べ物をお互いの口の中に放り込んでいく。潮が楽しそうにしていると、わたしもなんだか幸せになってくる。今日は隣になれてよかったね。
全て食べ終えた潮が、ぱああと屈託なく笑った。
「赤城さん、この酢豚が一番おいしいです!」
「うふふ。わたしは、このピリ辛ゴボウが一番……んっ!? ぐ、ごほっ、ゴホッ、ぅ、ゥオエッ」
「あわわわ、だ、大丈夫ですか、赤城さん」
「ッす、すいません、唐辛子のかけらが、のどに……グオェっ」
潮が差しだしてくれた水を喉に流し込む。
なんだかしらないが瑞鶴が爆笑しているのが聞こえた。
「あははは。赤城さん頬張りすぎなんですよ。その喉のつまり方はちょっと女捨てちゃってますって、あはははは! アッ、これもさっきの話に繋がるんですけど、ねえ加賀さんきいてハバネロッッ!」
笑っている瑞鶴の頬に、加賀さんの無慈悲な平手がとぶ。
「な、なにすんですか!」
「あなた、赤城さんのこと馬鹿にしたでしょう」
「し、し、してないですよ。加賀さんが全然ヒトの話聞いてくれないから、どうにかして聞いてもらおうと思って……っていうか、いきなり平手って宣戦布告ですよフツー!」
瑞鶴は半べそで怒っていたが、それ以上にどこか様子がおかしい。
加賀さんに話を聞いてもらうことに、やたら固執している。
そして、その眼の奥になにか切迫したものをギラつかせていた。
目配せすると、加賀さんが気配で頷く。
「……そう。ちゃんと聞かなかった私が悪かったわね。いいわ、長くなっても我慢して聞いてあげる。ただし、赤城さんには敬意を払いなさい」
「やった! すいませんっした、赤城さん!」
わたしに謝る瑞鶴は、やはりいつもより興奮して挙動が不安定だった。酔っているように鼻の付け根が赤くなり、目が潤んでいた。あまり良い兆候ではない。
艦娘は誰もがこういう時期を経験する。
わたしは、テンパりながら謝る潮を可愛がりつつ、瑞鶴が喋ることに耳を傾けた。
「────私、思うんですよ。夜戦組ってアドレナリン出過ぎて寝られないわけじゃないですか。だから馬鹿騒ぎの暴飲暴食で自分をいじめて明日が一層辛いわけです。それが艦娘の仕事と言われればそうなんですけど。でも、そういう私達だからこそ、私達を受け止めてくれるオトコが、必要だと思いませんか!」
「そうかもね。そんな奇特なオトコがいればの話だけど」
「そうなんですよ! 分かってるじゃないですか、加賀さん! 艦娘ってみんな可愛い顔してるのに、腕自慢で、腹が据わってて、肝が据わってて、一部は目まで据わっちゃってて! とにかくそんな強者揃いだからまともなオトコじゃだめ。毎日上着どころか下着まで真っ黒焦がしの海水まみれの煤まみれで帰ってくる艦娘を受け入れてくれるオトコなんて、そうそういませんよ!」
「ウチの提督は、そうだったんじゃないかしら」
「提督はみんなの提督で、そもそも今はもう熊野のものじゃないですか! いやいやいや、私が言いたいのは! もういっそオトコでなくてもいい! 艦娘には艦娘の心のケアをちゃんとしてくれる存在が必要だってことです! 私だけの話じゃないです、たとえば潮みたいに可憐な女の子がこんな時間に魚をつついてるのはオカシイ!」」
アジの開きを幸せそうに取り分けていた潮がびくんとした。あまりに不憫なので、先ほどあげそこねた、取れたてブロッコリーのおひたしをあげることにした。おいしいぞ。
興奮している瑞鶴を、加賀さんが睨む。
「瑞鶴、それは潮への侮辱よ。謝りなさい。これで二度目」
「あ、す、すいません。ごめん、潮。でも、分かってもらえると思いますけど、潮がどうこうって話じゃないです。艦娘だってみんな、女の子じゃないですか。私だって艦娘の端くれですから、深海棲艦と戦うのが艦娘の使命だって、心でわかります。でも、艦娘ってそれだけじゃないハズですよね。だって変じゃないですか! 私達がただ戦うために生まれてきたのなら、どうしてみんな、こんなかわいい女の子の姿や心を持ってるんですか。毎日毎日夜戦するだけなら、そんな心もこんなナリもいらないじゃないですか! わたしたちも性別も心もない深海棲艦みたいな存在だったらよかったんです! そうでしょ、加賀さん。私達が、どれだけ人間の心と姿形をしていたところで、別に、誰にも、誰にも────」
ニンゲン扱いしてもらえるわけでもないのに。
室内の喧噪を余所に、瑞鶴の話を聞いていた周囲の艦娘はギョッとした。
勢い余ったのであろう、その言葉は、決して人前で口にしていいものではない。
日向が、カップ酒を傾けながら、何か言いたげな横目で隣の瑞鶴を見ていた。
加賀さんは、無表情に瑞鶴を見ている。
その瑞鶴は、一瞬の激情で心にもないことを口走ってしまった自分を恨んでいた。
みんながみんな、わたしや潮のように食べ物で幸せになれる艦娘ばかりではない。だからたまの休みを取った艦娘は街に出るし、遠出もする。でもそれですら、楽しいことばかりじゃない。
艦娘の心はいっとき不安定になる。生まれてこの世に慣れ始めた艦娘はみんなそうだ。特に瑞鶴のような生真面目な艦娘は溜め込む。人間と艦娘のギャップに悩む。しかし悩んだところで慰めも解決もない。ただ、自分たちは人間とは違う存在なのだと、繰り返し確かめることになるだけなのだ。
こうして瑞鶴が口にしてくれたのはよかった。
本当にそう思う。
どう声を掛けようかしらね。
うなだれている後輩を見やり、口を開こうとしたとき、その緑のツインテールの間から丸っこい顔が飛び出た。
「話は聞かせてもらったわ! もっと私を頼っていいのよ、瑞鶴!」
瑞鶴の背後で、雷が長いすの上に立っていた。
「それにもーっとみんなを頼っていいのよ! オトコなんて関係ないわ! 私たち艦娘は血より濃い絆で結ばれてるの! むしろ私たちの間に変なオトコが入ってきたらぶっ飛ばしちゃうんだから! ねっ、辛いことあったのよね、いいわ、聞かせて!」
オトコなんて関係ないという雷が、提督に恋人ができたときさんざんに鎮守府を暴れ回ったのをみんなが知っている。。
瑞鶴はようやく自分の言ったことが、周りに聞かれていたことに気づいた。愕然としたのも一瞬、苦笑いで顔を塗り固める。
「あはは。ごめん、別に何があったわけじゃないの。ごめん、変なこと言って……」
「いいから言うの! 私の方が瑞鶴の先輩なんだからね! 私が! 瑞鶴のオトコの代わりになってあげるから! もっとたよって、たよって、たよってっ!!」
雷がぴょんぴょん跳ねながら瑞鶴の頭の上によじ登っていく。雷は、本当に善意でやっている。仲間が好きでしょうがないから世話を焼こうとする。
だから、
「あ、ちょ、ちょっと、やめ、やめてってたら……あっ、ぅ、う、ウザ……か、髪がくしゃくしゃになるのよ! 投げ飛ばすわよこら!」
ちょっとうっとうしくても、みんな雷が好きだった。。
潮が、雷が食卓に転がり落ちるのではないかとハラハラしている。
神輿のように雷は担がれて、二人で揉み合っていた。
雷が瑞鶴の頭をハタキながら言う。
「摩耶! ここにしょぼくれた艦娘がいるの! 助けて!」
「何ィ! 誰だよ辛気くさいのは」
「このっ、このっっ、私に頼ってくれない、空母の子よ!」
「雷。瑞鶴には心に決めた人がいるのよ。オトコになるなんて言ったら、あなたを頼りたくても言えなくなってしまうでしょう」
「えっ、そうなの加賀! 誰! 誰よ瑞鶴!」
「いません! いたとしても絶対に言わないわよ!」
「テステス、マイクテスト。えー、飯食ってもなお直らない、わが鎮守府に珍しい多感な艦娘が発生したようなので、久しぶりに艦娘舞踏会始めたいと思います! 諸姉淑女の皆様方につきましては、机を脇に寄せてくださいますようお願い申し上げまーす!」
ざわめいて、歓声というよりは悲鳴のような声が方々で挙がった後、みんなが食器もそのままに机を移動させ始める。
瑞鶴も頭に雷を乗せたまま机と椅子を引き摺り始めた。雷、加賀と何か言い争ってる姿は、いつもの瑞鶴だった。
やれやれ。雷に感謝しよう。
ラジカセが、酷い音質でワルツを垂れ流し始めた。
男性役を求められれば、みんな躊躇無くリードできるのだから逞しい。下品な笑い声が絶えない素敵な社交場である。わたしは、寄せられた長机でピラフをなお食べ続ける卑しい壁の花であった。
隣で、潮がきれいに食べきったあじの開きを見ながらボケっとしている。
「うしお、これ食べたらわたしと踊ひましょう」
「えっ、でも、私やったことないです」
「いーの、わらひがリードしてあげますから。たくさん足踏まれますから覚悟してくらっさいね」
この子も少しずつ、艦娘鎮守府のペースになれていくだろう。
微笑ましく思いながら詰め込みすぎた米を咀嚼していると、すぐ後ろの窓が叩かれた。
振り返ると、少しだけ気分が落ちた。
長門だった。
「悪いな。ちょっといいか、赤城」
窓を開け、声を落とした長門が言った。
「あとにしてくらひゃい。ご飯ちゅうです」
「その、口の中をきれいにしたらでいいから」
長門が顔をしかめている。
「…………長門、ちょっと来るのが早いわね」
いつの間にか、加賀さんが隣に来ていた。みんなが日付が変わっても踊り続けていれば、長門か提督が注意に来る。それで摩耶などが相当に怒られるのだが、禁止はされない。深夜の食事も、たまのハメ外しも、ずっと続けられている。
「違うんだ。赤城、ちょっと」
言葉短めに長門はそれ以上言おうとしない。
加賀さんと眼を合わせるが、首を振った。
しかし、みんなに見つかる前に行った方がいいだろう。
「分かりました。加賀さん、このピラフ食べていいですよ。潮、あとでね」
潮と手を振り合って、席を離れた。
肩をぶつけ合って笑うみんなの間を縫って出口へ向かう。
瑞鶴はああ言ったが、今の状態は艦娘にとって決して悪くない。少なくとも、鎮守府ができる前からの艦娘たちは、みんな同じ気持ちのはずだ。帰れる場所があって、そこに屋根と寝る場所に迎えてくれる人がいる。それがどれだけ貴重なことか。
瑞鶴は、深海棲艦と戦った後に、闇に包まれた波止場で自分で艤装を直す惨めさを知らない。自分たちを信じて導いてくれるリーダーがいない心細さを知らない。一人で暗い海を渡る恐怖を、知らないのだ。
だが……。
瑞鶴の不満それ自体は、きっと、まっとうな疑問というべきものなのだろう。
それが、赤城には少し羨ましかった。
電灯もない喫煙スペースでは、憮然とした面持ちで利根が待っていた。眼が合ったが、肩をすくめた。わたしと同じで何も聞いていないのだろう。
寂しい暗がりに、艦娘が三人集まる。
長門の表情がいつもと少し違う。
「……いったいどうしたんです? 長門さん」
「節度を守って楽しく一杯やってる我が輩らを呼び出すのはよくないと思うぞ」
いつも闊達な長門が口を重そうにしている。
少しの間そうしていて、利根がイラつき始めたころに口を開いた。
「今夜、この鎮守府に関わる、ある事件があった。その逃亡中の犯人また共犯者に対処するため、私は、提督から志願者からなる陸戦隊を編成するよう頼まれた。二人には、それぞれ一個班を指揮してもらいたいと思っている」
「はあ? なんじゃ、その事件というのは? あいにく耳に入らなかったが」
事件の犯人を捜すために、艦娘が陸戦隊を組むというのも変な話だ。そんな愚連隊まがいの行動を提督はもっとも嫌い、戒めてきたのだ。普通なら、一も二もなく警察なり憲兵に通報する。
「だいぶ、よくない話のようですね、長門さん」
「ああ。…………事件というのも、熊野が、人間の男にレイプ、されたのだ」
「は、はぁッ?!」
頭をハンマーで叩かれたような衝撃。
「く、熊野が、れ、レイ……?」
「事件の経緯は、私も聞いていない。ヤクを使われたようなことを提督は仰っていたが、何もわからん」
「だ、だっ、大丈夫なのか? く、熊野は?」
「今は、安静にして寝ているそうだ」
「そ、そう……ですか……」
利根が愕然としている。きっとわたしも同じ顔をしているだろう。
一緒に戦ってきた熊野の顔と、今聞かされた話が結びつかない。
熊野は、戦う艦娘なのだ。
ちょこざいな人間などに遅れをとるものか。
「本当に、あの、熊野が……?」
こんなこと、今までこの鎮守府になかった。どれだけ騒いで不祥事を起こしても、提督に笑って済まされないことはなかった。
何より、艦娘が性犯罪の対象になるなんて考えたことがない。そうじゃないか。わたし達は人の胎内ではない、別のところから生まれてきた。一見、姿形が似通っていても、ちゃんと話せば艦娘は自分たちとは違うと、人間には分かってしまう。
艦娘は、目的をもって、生まれてきたのだ。
性欲、性欲なんて知らない。
「……二人とも、ショックを受けるのは当然だ」
長門が呆然とするわたし達に、静かに口を開いた。
「私も、提督から聞かされたときは自分を失った。艦娘が人の性欲の対象になるということが理解できない。仮にそれは置いてみても、艦娘が性犯罪を犯されるというのは全く理解の外である。それは、同じ気持ちだ。……だが、だがな!」
長門の髪が逆立った。
その存在が熱量をもって闇を溶かした。
「私は! 艦娘鎮守府を豚のクソと同じように扱った男を、看過できない! 一人の艦娘として、熊野をコケにしきったクソ野郎を許すことができない! 仲間を傷つけられて黙っている艦娘が一人としているか? おまえらは、見過ごすことができるのか? できるはずないだろう! 今朝まで、我々と共に普通に笑っていた艦娘なのだぞ! これから、提督と幸せに生きていくはずの艦娘だったのだぞ!」
赤城は、長門が感情を露わにしているところを初めて見た。
いつも嫌われ役を引き受けて、提督の裏方に徹して物事が上手く回ればそれでいい、という艦娘だった。そんな長門の言うことは、いつも全く正しい。
わたしは、長門の言う通り、クソみたいに寝ぼけていたのだ。
「……一個班、引き受けましょう、長門さん。詳しく聞かせてください」
「儂もじゃ。おまえに説教をされるとは、儂もヤキが回ったの」
場に戦意が満ち始めた。
仲間を傷つけられて、他人事でいられる艦娘はいない。
長門は力強くうなずいた。
「頼む、二人とも。選抜は任せる。ただし、有志であるということは、必ず強調してくれ。利根の一個班は室内戦闘、赤城の一個班は狙撃も考慮した夜間広域索敵。集合は第三会議室、フタサンマルマル」
「──フタサンマルマル?! それは、対応できない子の方が多いかと思いますが」
「ああ、急ぎすぎじゃ。準備もままならん。必要な時間というものがあると、おまえが一番わかっとる筈じゃろが」
フタサンマルマルまで、ほとんど時間がない。常日頃は、当日の準備だけでも数時間掛けて、最後に艤装をつけるのだ。
長門が口を真一文字に閉じた。
その熱量と短い沈思の対比が、逆に長門の迷いの深さを物語っていた。
「…………男とは別に、強姦を手引きしたものがいる。そして、提督は直接言わなかったが、おそらく、それが艦娘の可能性を考慮しているのだと思う」
瞬間、背中に怖気が走った。
「なッ、なっっ、なんじゃとぉッ! 提督が我が輩らを疑っておると、おまえはそういうのか!」
利根が激昂している。
それが本当なら、もはや前代未聞という次元の話ではない。
「なぜ長門さんはそう思うのです。聞かせて、間違いだったでは済まされない話ですよ」
一つ間違えば長門への信頼に関わることだ。
「言葉が足りなかったな。艦娘の誰かは分からないが、その中にいるだろうという話ではない。強姦に関わった者の目星はついていて、それが艦娘であるのだと思う。……私は、フタサンマルマル、二個班集合後に全艦娘に緊急招集を掛けるよう、提督に命じられた。そして今回一切の公的機関、つまり警察も憲兵も関わらせないと、それも提督に念を押された。それがそう考えた理由だ」
「わ、分かるように言わんか、ちゃんと!」
苛立ちを隠さず、利根が怒鳴る。
「ただの強姦魔を捕らえて私刑に掛けるだけなら有志招集で十分だ。にもかかわらず全艦娘の緊急招集を掛けた。その時点で長官に話が行き、憲兵が難癖をつけてくるだろうから、公的機関を絡ませないという提督の指示も理解できん。……私が考えるに、緊急招集してもおそらく、無断の歯抜けがいる。その歯抜けはきっと夜の街を今もさまよっていて、遠からず警察のやっかいになるだろう。聴取されるまでもなく、そいつは自分のしたことを全てゲロり、明日の朝刊には『無秩序な女高のごとき軍隊、提督をめぐる艦娘の愛憎劇は強姦事件に発展』などと掲載されることになる」
長門は淡々と続けた。
「そうして提督は左遷、鎮守府内外の艦娘蔑視はいっそう強まり、これ幸いと海軍省が乗り込んできては、提督が築いた全てをひっくり返し、艦娘にとって肩身狭いながらも楽しい時間が終わる。そして、溜まりかねた我々は昔の無秩序な武装集団に本当に戻っていく……というのが私の考える、とりあえずの”最悪”だ」
長門は、わたしと利根の眼を交互に見た。
「提督が、どう考えていらっしゃるかは分からない。ただ、提督がどうであれ、艦娘が関わっている可能性がわずかでも示唆された以上、私達自身に何より急ぐ理由があると思っている。おまえ達はどう思う。私が、ありもしない人間の艦娘に対する悪意に疑心暗鬼になっていると思うか? 寄る人波に艦娘の港がさらわれると、ありもしないことを怖れているのか? ……どう、思う。二人とも」
長門は言葉を切り、口を噤んだ。
その体は、少し震えているように見えた。
そうだ。
艦娘は、人ではない。
わたしたち、艦娘は人間ではない。
沈黙が重く降りた。
食堂の盛り上がりと楽しげな喧噪が遠くに聞こえた。
「……長門。こっちの班は、我が輩、足柄、神通、夕立でいこうと思う。バックアップは羽黒、川内、綾波」
顔を上げた利根の眼には、既に青白い炎が宿っていた。
それは戦場で利根が見せる、戦いの気炎だ。
「頼む」
「時間がない。我が輩は行くぞ」
答えを待たず、利根の気炎が影を残して、身体は風のように飛んでいった。
「こちらは、わたし、加賀さん、瑞鶴。バックアップは飛龍、蒼龍。ですが、狙撃というのは……」
「それは、私が手配してある。ないとは思うが、万が一にも艦娘にやらせるわけにはいかんことだ」
その言葉でようやく、心が実感した。
この闘いは、仲間を襲った男へ報復するためだけに行われるのではないのだと。これは、深海棲艦に対するよりはるかに大事な、港を守る闘い。性犯罪者と裏切り者程度に脅かされる、わたし達艦娘の闘い。
他の誰でもない、わたしたちの戦争なのだ。
「では、翔鶴を。連戦の二航戦はできれば出したくありません」
「頼んだ。急げ、提督は緊急招集を遅らせはしない」
すぐに長門とは別れた。
足早に食堂へ急ぐ。中はいつものどんちゃん騒ぎだった。加賀さんと瑞鶴は、わたしのピラフで遊んでいた。無表情にピラフのスプーンを瑞鶴の口に運ぶ加賀さんと、顔を真っ赤にして馬鹿なことを叫んで騒いでいる瑞鶴。
わたしは、話すのがすこしだけ嫌になった。
「二人とも、ちょっと」
加賀さんがゆっくりと振り向いた。声色で分かってしまう。瑞鶴の楽しげなリアクションが、振り回されていた両腕が、徐々に下がっていった。
二人を連れて、食堂を出る。
時間を掛けて説明をしている暇はない。この後、翔鶴を確保しなければならないのだ。
わたしは、何事だと戸惑っている二人を見据えた。
戦争の片輪は、わたしの責任なのだ。
「提督が、ある事件の対処のために、有志の陸戦隊を募っています。まずわたしに声が掛かり、わたしが二人を選びました。ですがあくまで有志なので、話を聞いてから拒否をしても構いません」
「有志ですか? なんかウチらしくないっていうか、回りくどいですね」
「赤城さん、どういうことなの」
次の言葉を言うのは、躊躇われた。
長門がなかなか口を開こうとしなかった気持ちが、分かった。
「……熊野が、男に襲われたそうです」
「なっ」
「お、襲われたって、どう、どういうことですか」
「乱暴された、レイプされた、ということです。それ以上のことは分かりません。提督からお話があるのでしょう。……わたし達の仕事は夜間広域索敵、犯人たちの捜索に当たるのはまず間違いない」
二人は絶句していた。
だがまだ、二人に話すと決めていたことを言わなければならない。
「さらに問題なのは、その犯人を手引きした者がいて、それが艦娘かもしれないということです。少なくとも提督も長門もその可能性に備えようとしている。わたしも、それに賛成します。だからわたし達の仕事は、犯人とそれが艦娘である可能性を考慮しての共犯者の捜索、ということになるでしょう」
そして狙撃も、とは言わなかった。
艦娘が関わっている可能性を、言わずにおくべきだったかもしれない。だが、知らずに事態に直面するケースだけは避けなければならなかった。
現に、瑞鶴の顔が赤くなったり青くなったりしている。
瑞鶴にとってこのタイミングは不幸だったろう。
「あ、赤城さんは、な、仲間に裏切り者がいるって言うんですか!?」
「確かなことは分かりません。でももし関わっているのだとしたら、わたし達が誰より先んじてその艦娘を見つけなければならない。動揺して見落とすようなことは、決して許されない。それが、わたし達に任された仕事です」
「そ、そんな……」
瑞鶴の顔が、絶望に染まっている。
一方加賀さんはどこまでも無表情だった。
「熊野は、大丈夫なのね?」
「はい。安静にしているそうで」
加賀さんは頷いた。
そして、隣で体を硬くしている瑞鶴に顔を向ける。
「何を真っ青に血の気を引かせているの、瑞鶴。ここは頭に血を昇らせるところでしょう」
「そっ、そうなんですけど、私達が、れ、レイプなんてッ、おっ、思ったこともなくて、そんなことをする仲間が、仲間がっ、わっ、わたし達の中にいたなんて……思うと、か、身体が……」
瑞鶴は生まれてから、人一倍鎮守府での生活を楽しみ、交友を広げていった。
憎まれ口を叩くが、不器用に仲間思いなのは見て分かる。
だから好かれる。
それも艦娘というものを、自分自身と仲間を、同じく生まれてきた存在として根っこから信頼していたからなのだろう。
短い間だったが、わたし達はきっと幸せすぎるぐらい平和だった。
だったのだ。
「瑞鶴、無理はいいません。あなたの気持ちは分かりますし、代わりもいます。志願しなくても、誰も責めません。少なくとも、わたしは責めない」
小刻みに震える瑞鶴。
瑞鶴もすぐに気付く。艦娘は陸の上でも闘わなければならないことを。
でもまだもう少しだけ、それを受け入れる猶予を与えられて、何が悪いだろう。誰が、瑞鶴を責められるだろう。
わたしは、二航戦の艤装の状態を思い返した。
瑞鶴は、やはり置いていこう。
──しかし、そのとき、加賀さんが怒った。
「いいえ、赤城さん! 待って!」
はっとして加賀さんを見る。
青い炎が加賀さんの両目に燃えている。利根と同じだ。
その眼は睨むように瑞鶴を見据えていた。
瑞鶴の肩を、加賀さんが力強く掴んで、言う、
「あなた、言ったわよね。誰からも人間扱いされないのに、どうして艦娘は人間の心と姿を持っているのかって!」
加賀さんの眼は、真っ青な瑞鶴の眼を覗き込んでいる。
「私達が人の心を持っているのは、今この一瞬のためよ! 仲間が酷い目に遭わされたっていうのに、グズグズしているあなたのケツを蹴っ飛ばすため、私は怒るわ! そうでしょう、瑞鶴! あなた、仲間をクズみたいに扱った敵をぶっ潰す役目を与えられたっていうに、他の誰かにやらせてやるというの?! 違うでしょう! あなたの心は、こういうとき怯え立ち竦むためにあるんじゃない! 仲間のため、怒るためにあるんでしょう! 私はこの役目、絶対に譲らないわ! 誰にも、譲ってやりはしない!」
艦娘鎮守府の艦娘は、ときに吸い込まれるような眼を、強い意志の炎を燃やす眼をする。
それは多分、提督譲りなのだろう。
震える瑞鶴の顔に、少しだが生気が戻っていた。
肩を掴む加賀さんの手を掴み返して、言う。
「私……やります」
「……全っ然、聞こえないわ! グズグズ五航戦!」
瑞鶴が、息をのんだ。
その眼にはもう、誰にも見劣りしない艦娘の眼をしていた。
瑞鶴は真っ赤になって吠える。
「やります……やらせてください! 私に、やらせてください! いえッ、もうダメと言われようと、私がやります! 員数外と言われようと、もう誰にも譲りません!」
加賀さんは一瞬口だけで笑い、瑞鶴の手を振り払った。
「ふん、馬鹿ね。当たり前でしょう。手間を取らせないで」
もう、いつもの加賀さんの無表情だった。
「あの見かけによらない一途馬鹿で、そのくせ提督とセックスすらしてないような熊野が、男に襲われたのよ。一番古くから、鎮守府のため、提督と一緒に────やってきた。私達がやらずに、誰がやるのよ」
一瞬、加賀さんが声を詰まらせた。
熊野がどんな風で、提督がどんな気持ちかなんて、今は、考えない方がいい。
考えない方がいいのだ。
「二人とも、集合はフタサンマルマル。第三会議室です。同時刻に緊急招集がありますので、ご存じのように、それまでに会議室入りしていないと面倒なことになります。急いで」
「ふ、フタサンって……む、無理ですよ!」
この子は、もう、言ったそばから。
思わず苦笑してしまう。
「行くわよ瑞鶴。次、弱音吐いたらぶつわ」
「予告ぶつわって、いつもぶってるじゃないですか! よく言いますよイデッ」
本当に、仲の良いことである。
「待って瑞鶴、翔鶴はどこにいるか知ってる?」
「翔鶴ねえなら、部屋にいると思います。昼番でしたから。……翔鶴ねえも、呼ぶんですか?」
「ええ。承諾してくれるかは、分からないけどね」
「そうですか。…………あの、赤城さん、私を選んでくれて、ありがとうございました」
「捕まりやすかったから選んだだけよ、瑞鶴」
「それでもです。……加賀さんも、あの、えっと、あ、あり、ありがとうござぃしゃす。加賀さんにああいってもらえて、ちょっとだけ、心をもつ艦娘として生まれてきた意味がわかりました。それでとっても、う、うう、うううう嬉しかったです」
瑞鶴が潮なみに顔を真っ赤にして、加賀さんにお礼を言っている。
加賀さんが、瑞鶴に見えないようにして、嬉しそうに笑った。
一瞬間をおいて、瑞鶴に見せた顔もまたニッコリとしていた。
「……瑞鶴、ごめんなさい。あなたの気持ち、嬉しいのだけれど、それには応えられないわ。私、ストレートだから」
「エッ」
「あなたのオトコにはなれないわ。ごめんなさい」
「エッ、エッ」
「そうですよ。というより、加賀さんはわたしのものなんですから。目の前で取ろうとしないでほしいものですね」
「悪く思わないことね、瑞鶴」
「…………ンキーッ! 私が! 素直に感謝してるっていうのに! この人達が! 何を言ってるのか、全然理解できない! クソクソ一航戦は日本語喋ってくださいよ! やーいクソクソ一航戦!」
「赤城さん、この子ちょっとうるさいわ」
「うふふ。そうですね」
空を見上げると、街の明かりに照らされながら、満天の星が輝いてる。
海に出た艦娘たちの最後の目印、帰路を示す星の群れ。
艦娘は、陸にいても空を見上げることをやめられはしない。
赤城は大急ぎで走って行く加賀と瑞鶴の背中を見送った。そして棒立ちだった赤城が、唐突に体をぶるっと震わせる。
今、赤城の両肩には艦娘鎮守府の未来が掛かっていた。多くの艦娘の、ただ普通の女の子の心を持つ艦娘たちの未来が、赤城の手腕に掛かっていた。
「……人の心を持つのは今この一瞬のため、か。加賀さんもいいこと言います」
今夜はきっと艦娘にとって一番長い冬の夜になるだろう。
だが、彼女たちは朝が来る前にすべてを終わらせなければならない。
人間という名の、無辜の人々が目覚める前に。
長文読んでくださってありがとうございました。
感想を頂けると喜びます。