Slash75
「とりあえずこれで今年は乗りきれるか」
メヌエットとの内密の契約を無事に結ぶことができたのも20日前。
9月18日となった今日は、ずっと待っていた東京武偵高からの正式な卒業の手続きが完了した旨の書類と卒業証書が届き、晴れてプロ武偵として社会進出が決まった。
そこで早速、学生であるうちは進められなかった話をまとめるためにロンドン警視庁へと足を運んで、留学中に有効になっていた『ロンドン警視庁への協力』を無効にしつつ、色々な条件をつけた上で新たな独自契約を結ぶことに。
これはロンドンに戻ってから割とすぐにレストレード警部に話自体はしていたから、契約に関しては双方が納得のいく内容に収めておいていたため、当日はすんなりと話が通って滞りなく終了。
内容に関してはこれまでオレ側から仕事をあまり選り好みが出来ない不自由さがあったから、その辺でオレに要請を出せる条件を指定しておいた。
ロンドン警視庁にとってオレが『使い勝手のいい道具』になってしまう恐れを以前、羽鳥のやつが指摘していたが、オレもそうならないための措置を取った上でロンドン警視庁と良好な関係を築こうとした結果だ。
向こうもそれくらいは汲み取ってくれた上でオレとの契約にメリットがあると結論してくれたのだから、そこは素直に喜ぶべきだろうな。
今後はロンドン警視庁からの依頼も以前ほどではないものの、いくらかは入ってくることは決まって、流石にそれとメヌエット頼みで食っていくには心許ないから、次にロンドン武偵局へと足を運び、様々な理由で引き受けられなかった依頼のいくらかを条件付きでこちらへ流してもらう個人契約をさせてもらう。
こちらも事前に話は通していたし、実は裏技的なものでアリアと羽鳥の進言もいただき事なきを得ていたりする。
持つべきものは人脈だなと思ったのは久しぶりな気もするが、Sランク武偵2人からのお墨付きにオレ自身もSランクなこともあり、条件がロンドン武偵局から仕事を奪うような酷い契約でもないから問題も出なかったらしい。
むしろSランク武偵にこんな条件で依頼を流すのか? みたいな話も挙がったとかなんとかだが、こっちは事務所を開いているわけでもないから、受け身でいたら破産するんですよ。これでいいのだ。
もちろんこれら全ての契約はオレの仕事が軌道に乗るまでの繋ぎという意味合いが大きいし、将来的にはおそらくジャンヌ辺りと共同で事務所を設けてやっていくことが見えているので、いきなり新設武偵事務所がドーンと出来て仕事が全然来ませんという事故を防ぐには十分なものになるはず。
それもオレの今後の働き次第にはなるが、ジャンヌが順当に卒業するならあと半年ちょっとのことだ。長過ぎず短すぎずな期間は緊張感を保つには丁度良い。
今後の話はジャンヌが明確に指針を表明するだろう来年以降になるだろうが、ロンドンに留まるか日本に戻るか。はたまた別のところに事務所を構えるかは要相談だな。メヌエットも交えることになるかもしれんし、そこは面倒になる前提で色々と考えておこう。
着々と基盤が整ってきたのを嬉しく思いつつも、同時に将来的な問題への解決策も練らなきゃいけないなぁと考えながらロンドン武偵局をあとにして帰路につく。
今日はもうやるべきことはないから、現在進行形で制作中のオレ個人への武偵依頼を申し込めるサイト作成を頑張るかと、内心で苦手克服に意気込んで信号待ちしていたら、スッと、あまりにも突然にオレの身体の自由が効かなくなって自力で立ってることすら出来なくなる。
この感覚はかつて味わったことがあると思うより早く、崩れ落ちそうになったオレの身体を後ろから首を掴んで止める人物が声をかけてきた。
「隙がいささか大きいな。猿飛の名が泣くぞ、京夜」
「…………勇志さん」
端から見たら怪しい光景になるからか、すぐに首から手を放して肩へと移動させ、自らは横へとスライドしオレの腕を自らの肩に乗せて肩を組んでいるような姿勢に変えた勇志さんは、首の後ろにナノニードルを刺して自由を奪ったまま話をしてくる。完全に虚を突かれた……
だが話をするということは殺すことが目的ではない、と信じたいね。
「拒否権はないが取引だ。お前がエリア51から持ち去った瑠瑠色金をこちらに渡せ。そうすればバンシーの身柄をそちらに引き渡す」
「何故オレが瑠瑠色金を持ってる前提なんです」
「そうした探りは無駄だ。こちらも十分な調査をした上で持ちかけている。引き渡しの日時と場所はこれに書いておいた。そしてここから引き渡しの日時までの間、誰ともコンタクトを取らず1人で来い。監視もつけておくから怪しい行動もしないのが賢明だろう」
Nにはすでに瑠瑠色金の力を自在に使えるネモがいるのに、どうして瑠瑠色金を欲しがるのか疑問しか湧かなかったが、オレに質問する権利すらない一方的な取引を持ちかけた勇志さんは、オレの胸ポケットにメモを忍ばせると驚くほど静かにオレから離れて後ろに下がり、後退と同時に首のナノニードルを抜いてオレの身体の自由を解いて消えてしまった。
自由になってすぐに振り向いても、そこまででもないはずの人混みに紛れた勇志さんを見つけることは叶わず、一方的ながらもバンシーを引き渡すという取引には応じざるを得なくなった。
これはNとしてはもうすでにバンシーの利用価値がこの取引にしかなくて、それに使えないなら殺してもいいくらいの思惑がある可能性が高く、さらにオレが取引に応じなくても時を同じくして瑠瑠色金を持ち出しているジーサードのところに矛先が向くだけになるはず。
どちらにせよ攻撃されるなら被害は少ない方がいいし、穏便に済むならその可能性に賭けたい気持ちはある。
そんな思いで胸ポケットから渡されたメモを見てみると、場所はイギリスの西に位置するアイルランド。その北部辺りのスライゴという都市の近くにあるノックナレアという場所を指定している。
日時は今から5日後の23日の夜だが、この猶予はどう判断すべきか。
オレの知るNなら有無を言わさずに数時間後にでも取引を開始してしまうイメージがあるくらい強行な策もする組織なんだが、だからこそこの5日というインターバルが不気味に思える。
しかし誰とのコンタクトもさせない姿勢からして面倒事にはしたくないというN側の意図はわかることから、この日時の指定にはNがコントロールできない『何か』があると仮定。
それが何かまでは推測も出来ないが、瑠瑠色金が必要不可欠なことは確かで、ネモがすでに所有しているであろう瑠瑠色金を使えない理由がある。そこまでは確定と見ていい。
時間的な余裕があったおかげで急な案件にも意外に冷静に思考できたが、監視とやらがついた以上はメヌエット達を頼ることも出来ないな。
そう思いながらメモを改めて見ると、日時を書いた裏面にも何か書いてあってそれを読むに、監視者についての情報が簡易だが書かれていた。
何故そんなものが必要なんだと考えるまでもなく、Nには超常の存在が多くいる組織なのだから、その監視者もまた人間ではないからだ。
それを証明するようにメモをしまったオレのズボンの裾をクイッ、クイッと引っ張る何かが足元にいて、見れば銀色のスライムのような物体が意思を持って存在していた。
こいつはキンジとジーサードの報告にあったメルキュリウスという水銀の身体を持つNの一員。
言語を発することは出来ないが意志疎通はできるらしく、思考能力も持ち戦闘能力も体積に比例して強力になるらしい。
今はオレの手の平サイズくらいしかないが、おそらくこっちが本体から分離したもので、本体はどこか別のところに潜伏しているものと見ていいだろうな。
あのキンジでも物理的な攻撃では決定打を与えられなかった相手らしいからオレが正面から立ち向かっても負ける可能性が高い以上、上手く出し抜こうというのは得策ではなさそうか。面倒臭い。
そのメルキュリウスは動作から持ち上げろと言ってる気がしたものの、優しくする義理はないからと無視する選択もあった。
しかし放ってもついてくるだろうし無駄なことはするべきじゃないなと仕方なく持ち上げてやると、すぐにその形を変えてオレの左手首辺りにリング状のアクセサリーになって固定されてしまう。
これで期間までの間は四六時中こいつに文字通り纏わりつかれるってことになるが、そうなると1つ問題が出てくる。
「ところでメルキュリウス。これから家に帰るんだが、このまま帰ると100%オレはそこに居着いているシルキーってメイドに会うんだが、それは仕方ないと割り切ってくれるか? ちなみに帰らないと瑠瑠色金も持ち出せないぞ」
その辺の問題を解決するためにまずはメルキュリウスがどんな判断を下すのか試すようにシルキーの名前を出して様子見。
メルキュリウスもシルキーがどんな存在かは同じような超常の存在だから知ってるだろう前提の問いかけだったが、その辺りは伝わったっぽい長考が続いてから、袖の先からにゅるっと細長くなって出てきたメルキュリウスがその形を「OK」と変えて了承。
器用だなぁと思いつつ、まずは第一段階をクリアして次の段階へ。
「それで帰るのはいいとして、シルキーは探知にも優れててな。おそらくメルキュリウスがいることも見抜いてくるんだが、このまま帰った場合にどう説明する? さすがにいきなり友達だからは苦しいぞ? オレもお前みたいな友達を頻繁に連れてくる日常に生きてないつもりだし」
帰ったところで瑠瑠色金は今メヌエットが持ってるから、それを持ち出す以上はメヌエットと会うことも許可を取らないといけないため、そのハードルを段階的に下げていかないと通らないのは目に見えてる。
だからこそ事を慎重に進めるようにオレが綱渡りな交渉をしていくと、再び思考したメルキュリウスが「
つまり下手に隠さずに抱え込めってことか。実際に出来なくはないから困り物だが、Nにとっては早速の例外が発生したことには違いない。
これは今のオレの環境が偶然にそうさせたわけで運が良かったとしか言えないが、このまま利用させてもらうぞ。
案の定、自宅マンションに帰ってみれば部屋に戻るなりシルキーが姿を現して、メルキュリウスの存在を認識しているようにオレに問いかけをする。
メルキュリウスが敵対心を見せなかったこともあってシルキーもだいぶ穏やかな心持ちでオレの話に耳を傾けていたが、Nの一員だとわかるとその表情に険しさが見え隠れする。
シルキーもバンシーを拐った組織がNだとは知っているから、その反応は至極真っ当なものなのでオレも特に咎めはしないものの、抱え込む以上はオレがシルキーを抑えないといけない。
「……ってわけでバンシーを人質に取られてる。腹は立つだろうが今は何も言わず呑み込んでいてほしい」
「…………状況は理解しました。現状で私がこの方を排除したところで事態は悪化するだけなのですね。わかりました。今回は私も見ていないものとします」
それでも話を聞き終えたシルキーは出かかっていた怒りをギリギリで引っ込めて理性的で冷静な判断を下してメルキュリウスの存在を黙認してくれてひと安心。
オレの制限が本来なら他言無用なことも加味すれば、シルキーがオレと分かれてメルキュリウスの監視の目から逃れてから誰かしらに救援を出す。なんてことも可能ではあっても、得策ではないとわかってもいるはず。
その辺は皆まで言わずともな信頼で省いて話を終わらせようとすると、最後に真剣な眼差しをオレに向けたシルキーが「ですので……」と付け加えて言葉を紡ぐ。
「京夜様。どうかバンシー様を助けてください。あの日、屋敷を焼かれて死ぬしかなかった私を助けてくださったように、バンシー様もどうか……」
「……ああ。必ず連れて帰ってくるよ。またこの部屋もうるさくなるから覚悟しとけ」
「……はい。お二方の帰りを心待ちにしております」
以前からお世話になっていて、バンシーの事を心から心配していたシルキーからのお願いとあっては聞かないわけにもいかないし、元より奪還しない選択を取れるならこうしてNの条件を呑んで行動していない。
この世に絶対はないが言葉にすることで決意を固める意味でもシルキーには強く返して、それを聞いたシルキーも少しばかり安心したような笑顔でお辞儀をしてからスゥっとその姿を消して別の部屋に移動していった。
さて、これで落ち着いて思考できる場所は確保した。
次は瑠瑠色金をどうにかして手元に置かないとだが、あのメヌエットを出し抜いて瑠瑠色金を持ち出すという難易度の高そうな任務を遂行しなきゃいけない。
その前にメルキュリウスにメヌエットに会うことの許可を取らないとか。でもどうやろう。約束も特にしてなかった……
本来ならこの段階は必要なかったかもしれない──メヌエットにプレゼントしてなければそのまま移動できたという意味で──だけに思考するのが億劫ではあったが、現実からは逃げられないので無理矢理にでもメヌエットに話を合わせてもらう手でいこうかとリビングで落ち着いてから携帯を取り出したら、こっちの思考でも読んでるのかというタイミングでメヌエットからメールが送られてくる。怖っ……
戦慄はしたが単にメヌエットの何らかの推理が合致しただけだろうと、都合は良いのでメルキュリウスにメールが来たことを確認させ、メヌエットには返事をしないと逆に何かあったのではと勘繰られる可能性が高いと付け加えて返信の許可をもらう。
もうメルキュリウスが例外を通すことに涙を流し始めているだろうなとちょっと同情しつつも、オレの環境が例外を通さなきゃ回らないんだから仕方ないでしょ。
それで予定になかったメヌエットからのメールの内容はっと……
事態がオレに有利に向いてくれてるからちょっと上機嫌になりかけていたオレがそのテンションでメールを見たのが運の尽き。
そこにはオレの拒否権など一切受け付けない決定事項として、明日から2日間メヌエットの家に世話係として緊急で滞在しろとのお達しが。
理由についてはまぁ、メイドのサシェとエンドラが一身上の都合で帰省する必要が出てきた──双子だから同じ理由なのだろう──らしく、その穴埋めにオレが抜擢されたっぽい。
あまりに急だからサシェとエンドラの用事は今日にでも決まったことなんだろうが、そこはいいよ。納得しよう。だが何故オレだ。そこが納得いかん。
ということでメールだけだと納得いかないからメルキュリウスに電話の許可を涙目で訴えて──オレの事情抜きで断りたいから──勝ち取り、おそらく電話が来るであろうことも推理済みなメヌエットに電話をかければ、
『報酬は500ポンドでよろしくて?』
「はい行かせていただきますよろしくお願いします」
あえてメールには書いていなかったことを挨拶もなしでいきなり言われてしまい、見事に報酬で釣られましたとさ。オレってやつは本当にもう……
でもだってたった2日間メヌエットの世話しただけで約7万円はズルいよ。日給3万5千円だぜ?
それにこの報酬があれば今回の移動の往復費に関してはお釣りが来るレベルだし、全然アリな仕事なんだよ。貴族様はやっぱり違うぜ。
……などと思って自分を慰めないと今の即答を受け入れられない自分がいることが一番心にきたものの、決めてしまった以上は腹を括ろう。
そう。通話を数秒で終えてオレの即答を聞いたメルキュリウスが「反論はあるか?」と言うようにキリキリとオレの手首を締めつけてきても動じてはならない。でも痛いっす……
「違うんだメルキュリウス。これは必要あってのこと。というよりもこのメールからもわかるが、このメヌエットという人物は融通がほとんど利かん頑固者でな。これがしたいあれがしたいを押し通すわがまま娘なんだよ。それに反発でもすれば最悪オレは殺されてしまう。そうなれば5日後の約束の日に瑠瑠色金を持っていくという任務を全うすることもできないだろう。それはそっちにとっても由々しき事態だろ?」
あくまで冷静に心を鎮めて坦々と今のオレの反逆とも取れる行動についての言い訳……もとい理由をつらつらと述べてそれらしくしてみるが、メルキュリウスの締めつける力が緩む様子はない。むしろ強くなってない?
たぶんだけどいくらなんでも身の回りの世話まで任せる、話だけなら友人っぽいメヌエットが意に沿わず反発しただけでオレの殺害までするとは考えてないんだろうけどな。オレとメヌエットの関係は君の学んだ常識に収まらないのだよ。
「生憎とメヌエット・ホームズという人間は、友人だからと容赦はないぞ。前に聞いた話だと、気に入らないからってだけでアリアの元先輩を半狂乱状態にしたってよ。オレも運が良ければそれに近い状態で留まれるかもしれないが、耐えられる自信はない。ああそれと、この話からメヌエットを殺そうとかも考えない方がいい。こんなわがまま娘でも世界には大切に思う人が数えるくらいだがいる。そっちの教授の天敵で彼女の曾祖父でもあるシャーロックはもちろんだが、お姉さんは特に手強いぞ。妹が狙われたとあったら、本気の本気で地の果てまでもお前らを追い詰めて、何れは1人残らず逮捕されるだろうよ。オレもそれに関しては協力を惜しむつもりはない」
殺す殺されるの話を流れで自分からしてしまったのはマズイので、Nがしてきそうなことを潰す意味でもメヌエットの殺害だけは得策ではないと吹き込みながら、オレの言っていることが嘘ではないと雰囲気から感じ取れる緊張感を含ませてやる。
そうすると意外と賢いメルキュリウスはキリキリと締めつけていた力を緩めて少し沈黙。
ここまで例外をいくつか通してしまったこともあって流石に緩んだネジを締め直さなきゃとも思っていたのだろうが、オレが死ぬかもしれない状況はメルキュリウスにとって困る状況でもあるはず。
何故ならオレはこの話を持ちかけられてからここまで『瑠瑠色金がどこにあるか』をメルキュリウスに明確にしていないから。
Nからすれば瑠瑠色金さえ手に入ればオレは不要で、メルキュリウスも最初からその気配を含む雰囲気を感じていた。
だからそこだけは曖昧にしたまま5日を乗り切らなきゃと覚悟していたこともあって、シルキーの監視があるこの部屋で過ごすことを前提にしていた──どうしても隙が生じる睡眠が必要だからな──わけで、メヌエットのお世話で2日も滞在するのは報酬を抜きにすれば確実にマイナス。寝れない悪夢の2日が始まるのは確定している。
だからオレの生死を拒否したかった理由になるように上手く誘導した形にはなるが、そこを勘づかれないように下手に口を開かずにメルキュリウスの返答を待つと、オレの真意には気づいた様子もなく、本当に渋々なのがよく伝わるような仕草で丸を形作ったあとにフニャッと力なく崩れてみせたのだった。